|HOME趣意資料募集証言リスト


    

  上西 綱雄 さん  大正13年(1924)生(88才)

 ビルマの大河をイカダで渡った捨て身の作戦


 インパール作戦に失敗して引き揚げてくる部隊を後方へ無事に撤退させるため、敵イギリス軍を阻止するのが私の配属部隊の任務だった。
 昭和20年5月、インパールの部隊を迎えに行くために、私たちの部隊はイラワジ河という大きな河を渡るために、山から竹を伐ってきてイカダを組んで渡ろうとした。そのために小銃や日本刀をイカダに括り付けて、自分はフンドシ1丁になった。装具は全部イカダに積んであるからね。そうして渡るわけだが、だいたい半分くらい渡ったと思ったら、また元の岸へ戻り着いているわけで、何をしているのかわからん。大きな渦が巻いているので、上流から敵の死体が流れてきて渦に巻かれている、そこへイカダも一緒に渦に巻かれる。だから余分の物はみな河に落ちて流されてしまう。体一つで10人くらいはイカダに乗れるけれども、向こう岸へ着くまでにイカダはバラバラになって、泳げない者は殆ど溺れ死んでしまい、弾丸に当らないで戦死になる。泳げる者は、イカダを組んでいた竹に掴まって、あっちに1人こっちに1人渡ってくる。

 ようやく朝、明け方になると、向こう岸には、敵の兵隊ではなく日本軍に歯向かう現地人たちが待ち構えていて銃撃してくる。だから、また水の中へもぐったりしながら、ようやく岸へたどり着いて部落へ向かって行く。こちらは銃など全部流されてしまい、自分の手榴弾を腰にぶら下げているだけで、それだけが武器だから、その手榴弾を1発投げ込んで部落へ入り、衣類やら護身用の刀やらを徴発(無断使用)するしかない。なにしろ靴も衣類もなく、フンドシ1丁で流れ着いた者が3人4人と集まってくるが、なかなかまとまらない。
 最初は260人で編成されていた一個中隊が、向こう岸に渡った頃には6〜70人の小隊になり、さらに兵員の数は減るばかり。
 河を渡ってからプロームという処で集結した私たちは、インパールから引き揚げた日本軍とポーカンの防御戦で一緒になり、その部隊を後方へ撤退させることに成功した。インパール作戦に従軍した将兵は、文字通り骨と皮だけにやせ衰えて、歩くのがやっとの状態になっていた。
 その時、私らの部隊は勝ち戦に乗じた作戦の失敗によって、さらに苦戦を強いられることになるのだが、その苛酷な体験を聞いてもらう前に、私の入隊からビルマに派遣されるまでの経過を話しておきたい。

 私は少年時代、呉の海軍工廠へ3年間の徴用で勤めていた。ところが戦争が始まって徴用期間が延長されると、徴兵検査まで続いて勤めにゃならん、それなら早く入隊すれば早く除隊になって帰れるという気持ちで、徴兵検査を受ける1年前、昭和18年に20歳で陸軍を志願した。それから下士官候補生になる学校に合格して福知山で教育を受けた。その間に、最初に入隊した奈良の連隊は朝鮮の龍山(りゅうざん)へ移動した。残された下士官候補生13名は、昭和19年4月龍山に合流、7月初めに門司に寄った後、4日には出発、28日にサイゴン(当時は仏領インドシナ、現在のベトナム)に到着した。
 9月5日に鉄道でアランミョに着き、10月8日まで駐屯、そこからまた出発してタイメン国境にあるビルマのエナンジャンに着いた。その間、バンコックにも寄った。このエナンジャンで長期滞在し、そこで士官候補生の教育の助教をした。
 日本軍の制度には、士官候補生と幹部候補生と2つあった。士官候補生は20歳位の若さで士官になるのだが、年少の頃から徹底的に鍛えられているので度胸が坐っている。一方、幹部候補生は高校・大学から豊橋陸軍教専学校へ入隊した促成組だから、軍隊経験もなく信頼できない場合が多かった。二等兵が下士官まで昇進するためには、一から叩き上げられて6〜7年以上かかることもある。ところが大学出の幹部候補生は、1年もするかしないかで見習士官になれる。その代わり、兵隊から信頼されるリーダーシップを発揮できる者が少ないのは当然といえる。

 私はエナンジャンに昭和20年の2月まで駐屯していた。同年2月から3月8日まで、バカン、サンビラという戦場の第一線で戦闘に参加したのが始まりで、それからずっと第一線で、9日からはレッセの戦闘に参加、ここで戦死した工藤少尉(中尉に昇進)は士官候補生上がりだから勇敢で、弾丸が飛んでくる中、双眼鏡で見ながら、輕機関銃を立ったままで射撃していて敵の銃弾にやられた。私は10〜20m_離れていたが、大した度胸だと思った。
 大淀町の上田という町内に福井という魚屋さんがあって、その主人の福井清さんが、この時の戦闘中に、私の目の前で敵の手榴弾にやられた。私も手のヒジと足を破片で負傷したが、その時に福井さんは戦死した。私はすぐに死体を土手から下まで降ろして、そこで小指を切って、焼いた小指の骨を銃弾の信管の缶に入れて、ずっと終戦後も最後まで持って歩いた。せめて遺族に遺骨を届けたいと、河を渡る時も首に巻いて持ち帰った。

 インパールの引き揚げ部隊を救援するためイラワジ河をイカダで渡った戦闘に戻るけれども、前に話した通り作戦ミスのため苦戦した。後から聞いた話では、戦死した連隊長が後継者に「絶対深追いするな」と申し送りしたにもかかわらず、次の指揮官が調子に乗って敵を追い過ぎて突破戦を仕掛けたために包囲されてやられたわけだ。
 そこで生き残った兵隊だけがシッタン河を渡るために、船を6、7隻徴発して、渡河点まで夜間に下ろうとして、曳光弾で昼間のように照らされて、待ち伏せされてやられたのだ。
 そのとき私は、一番船よりちょっと小さい二番船の船長になった。一番船には10数人、私の二番船には6人ほど乗っていた。河を下る途中、岸から撃たれたが、私の船は小さかったので一番船の横を通って丁度その陰に入った。その時、一番船の船長の「やられた!」と大きな声が聞こえた。どうにも助けようがないので、私の船は横をすり抜けて河を下った。
 朝方になって陸地へ上がるにも周囲は全部敵だから、よほど注意しないと上陸もできない。ビルマの現地人は、日本軍の無断徴発が頻繁になるにつれて反日になり、敵対行動を取ることが多くなっていた。
 丁度お寺があったので、やっと上陸した私ら6人は、お寺にあったご飯を徴発して腹ごしらえして休憩を取った。6人ではどうにもならんから、他の兵隊を探すことにしたが、何キロも河を下っているから、1週間や10日では探せない。他の部隊に出くわすと本隊の居場所を聞いたりして、12日かかってようやく中隊本部へ帰ったら、すでに戦死したことになっていたが、幸い原隊と合流することができた。

 結局、シッタン河を渡ったのが昭和20年の7月だから、もう終戦間近になっていたことになる。それから負け戦つづきで撤退命令が下ったので、アラカン山脈という大きな山脈に入った。その時は10日分ほどの食糧を持っていたが、10月まで山の中を歩いているうちに、もちろん食糧は無くなった。砂糖も醤油も塩もない。竹薮が多いのでタケノコもあったが苦くて食べられない。それでも食べないと何もないから、軍刀で大きな竹の先っちょを少しだけ切って、柔らかい所だけ茹でて食べた。ヘビやカエルはご馳走だった。みんな栄養不足で骨と皮だけになっていた。

 ペーグー山脈からマンダレーの部落へ出たときに終戦を聞いた。飛行機から「もう戦争は終わった」とビラをまいていた。その頃には敵の攻撃も止んでいた。
 そこでトクという所へ集結せよとの指令があった。皆マラリヤその他の病気に罹っていた。私もマラリヤになってトクの兵站病院へ入院した。病棟が7つあって、各病棟には衛生兵の長がいたが、幸いなことに私の入った病棟の長は、吉野町の北村粂雄という衛生曹長だった。その北村曹長が私の名前を呼ぶので、聞いたことのある声やなと思ったら、歳は私より少し上だがアダ名はシロやんと呼ばれていた知り合いだった。私も元々同じ地域の出身だから、シロやんと違うのかえ。そうや、おまえ誰ぞ。六軒町の上西や。なんやワレか、というわけで、幸い北村曹長の病棟に入ったおかげで按配してもらってね。薬の不足している中で、ブドウ糖やキニーネの注射をしてもらって、1週間経たないうちに治ってしまった。それからは、患者のいる病室ではなく事務所に寝させてもらった。
 その病院で、大方1年くらい居たのかな。病人でないと入院していられないので、脚気の真似をしたり、病院の衛兵下士官になって晩に見回りしたり、昼は山へ柴を取りに行ったり、素人芝居で患者を慰問したりして日を過ごしたものだ。

 私が軍隊に入隊した頃の最初の気持ちは、早く志願して早く帰りたいのが本音に違いなかったが、第一線で日本軍の飛行機も飛ばなくなるし、だんだん兵隊が戦死して減ってくると、今度は自分の番かなと思って死を覚悟した。
 その一方で「軍人は要領を本分とすべし」と昔からコトワザがあるように、要領の悪い者は生きて帰ることはできんのも本当だ。とは言うても、ドンドン弾丸が飛んでくる中で、立ち停まって水を飲んでいても弾が命中しないこともある。あまり怖がると、かえって弾に当ってやられることもある。
 とにかく260人編成の中隊で、怪我しながらでも帰国できたのは20人だけで1割にも足りなかった。その中に私が入っていたのは、思い返せば二度の渡河作戦(初めはイカダ、次は二番船)で生き残れたのも、入院した病棟で知り合いが衛生曹長になっていたのも、運が良かったというほかはない。

 昭和21年7月、終戦からほぼ1年目で帰国できることになった。病院から本隊へかえって、列車で港まで出て、復員船に乗った。
 しかし、船の中でも安全無事とは言えない事件もあった。日本の種子島が見える所まで帰ってきている時に、あの将校放り込もうかと兵隊の誰かが言い出すと、用事にかこつけて呼び出して、有無を言わさず5、6人に担がれて海へ放り込まれた将校もあった。あまりに威張り散らして暴力を振るったり、部下の人権を無視して嫌われ恨みを買っていたのが原因で、帰国を目前にして不慮の死を遂げた将校もあったことは事実だ。

 私は無事帰国して、出発した時と同じ呉の大竹に上陸し、大阪から電車で復員した。その車内で町内の知人とバッタリ一緒になった。その人は駅に自転車を置いてあったので、駅で別れたのだが、私が歩いて帰ってきたら、その人が先に家へ寄って「おうちの兄さん帰らはりましたで」とことづけてくれたと後で聞いた。母は裏で炊事をしていたらしい。
 15分ほどして私が「只今」と言うたら「お帰り」と返事あったが、母はなんぼしても顔を出してくれない。兄貴と間違うているわけで、兄貴は商売していて外から帰ってくることをことづけてくれたと思っている。私が復員したと分かって母はびっくり仰天。「おまえ、生きとったんか」と言うばかりだった。
                                                   (2010.11.2 )

(目次にもどる)


                              HOME趣意資料募集証言リスト