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<特集=広島・長崎の原爆体験>                《広島市街地図》

  梅迫 解詞 さん  大正13年(1924)生(82才)    (広島 当時21歳)

   忘れられない あの日


 広島は市内を7本の川の流れるきれいな市街でした。旧制中学の5年間下宿で過ごしました。昭和16年3月卒業、上京して大学予科に入学した年の12月に米・英・蘭(オランダ)と戦争に入りました。戦争末期の昭和20年8月5日早朝、広島到着の予定が、途中空襲で夜11時過ぎになりました。
 爆心地から1.1キロメートルの東観音町の川添いの友人の家に泊まりました。翌日朝食をと思ったら空襲警報が出たので中断していたが、すぐに解除になったので食事を取り、間もなく警戒警報も解除されたのでズボンも脱いでステテコとランニングだけで茶の間に居たら、部屋の斜め角の方からパァーと閃光がありました。家の斜め前に大型焼夷弾が落ちた、と思ってすぐ座布団を頭にのせた途端に家がガタガタと倒れて下敷きになり、大きな二階建ての家の下で身動きが出来ぬまま伏せていました。
 友人は廊下の方に物を取りに行っていたのですが、家の外へ吹き飛ばされて庭の方に倒れました。廊下は総ガラス戸なので、そのガラスが体に刺さって体中や頭から出血して血だらけでした。
 潰れた家の上で私を呼ぶ声が聞こえました。家屋の下敷きでしたが、下から応呼して互いに声だけは聞けました。友人は近所隣へ「この下に人が居る」と繰り返し叫ぶのですが、なんの反応もないようでしたので、近くへ出掛けて行き、一人の男の人を連れて来ました。友達が「オイ、オイ」と呼ぶので、私は「ここだ、ここだ」と声を出すと、二人で上の木材を取り除いていたようですが、なかなか手ごたえがないままにもう一人が、「これは二人では無理だ。兵隊さんか警防団の人を呼びなさい」と言っていた様です。友達は「薄情者、この下に人が居るのに」と大声で喧嘩をしているようでしたが、結局は去って行った様です。私は頭から座布団をかぶっていたので、大丈夫だったが、背中に折れ曲がった柱があり、動くとそばり(ササクレ)が体に食い込んで動けないのです。
 友人が家の上で動いて木を踏んだ時、運良く背中の柱が浮くので、「ソコ、ソコを踏んで」と言いましたが、出られません。家の下から「お前、頭を打ったか」と聞くと、「頭も打ち、血も出ている」一発しか落ちてないので、私は、「1、2時間したら人が来るからこの下に人が居ると知らせてくれ。俺は下で待って居る」と言っても、「ダメだ、ダメだ、早く早く。この下に人が居る」と叫び続けるのです。家の下敷きで私は友人の頭が変になったのだと思い、昨日、東京より一緒に帰った友人に「2キロメートル位離れたところの家に行って友人を呼んで来い」と言っても、「ダメだ、ダメだ」と叫び続けて上の木を一人で除いてもなかなかはかどりません。
 近くでバリバリと火の音がするので、私も驚いて「先の木を踏め」とたのみ、梃子の様になって背の柱に隙間が開くのでそばりで背と腹部に傷を負いながら、そこからやっと出ることができました。

 そこでは一面、家が倒れ、平常では家並みで見えない横川の釣り橋が(2キロメートル位先)目の前に見えて、「これではだめだ。東京の空襲の経験で早く逃げよう」と言うと、朝食を作ってくれた女の人を思い出し、友人と二人で探しました。声が聞こえても助けられません。
「逃げなさい。逃げなさい」と言う声が聞こえる家の傍に川があり、潮が満潮なので、早く逃げよう、火の海になると思い、木切れ3、4本を束にして落ちている筵(むしろ)を持って川の中程に出て乗ると、沈むので手を掛けて友人と二人で川の中を川下へ川下へと手で漕いで行きました。川の幅は百メートル位なので川の中程で風が吹くと両岸から炎が頭の上を吹き抜けていきます。濡れ筵を持っていて、助かりました。
 両岸で火があがり、時折、炎の中から人が飛び出すのが見えて、友人と二人で「助かったなー」と言っていたら、上空が急に薄暗くなり、真夏で暑い上に両岸は炎でしたが、急に寒くなり、二人ともガタガタと震え出しました。大粒の黒い水滴(黒雨)が落ちてきて、体にあたって痛いようです。「おい、これで死ぬかも知れぬ」と話し合っていたら、2、30分位して空は晴れ渡り、暑い暑い夏になり、潮も引き出し、川から出て広島市内を西へ西へと歩いて行きました。

 宮島へ行く大きな道路へ出たら周囲には被爆した皆が横たわり、私達も体がきつく横になって寝たいほど体がだるく水が欲しく、他の人達も「水! 水!」と言っている声が聞こえます。“水は飲ますな”と言う通知でしたが、私達二人は死んでも良いから道の端の打抜ポンプの水を出し、二人で満腹になるまで飲みました。
 体がだるいので道路上で寝ていたら、軍のトラックが来て見習い将校指揮のもと、道路一面、人・人の中で、「どけ、どけ」と叫んでいました。よく見ると指揮官は私と同じ中学の2年上級生で、よく私の下宿に遊びに来ていたのです。「オイ」と言うと「自分は岩国航空燃料廠に所属していて、広島の方に煙があがっているので、自分も家の事も気になるので志願して来たのだ」と言う事でした。男の家のある「天神町は何も無くなるほど焼けている。市内には入られない」と言うと、「車に乗れ。岩国の陸軍病院へ連れて行く」という事になり、友人と私は運良く逃げられたのです。
 宮島口の所で気が付いて藤田組の藤田一郎宅の前で降りて訪ねて行くと大変喜ばれ、その日に医者へ連れて良かれ、私と友人は治療を受けたのです。
 友人は廊下の総ガラスの破片がささり、70数カ所のガラスは取ったが、医師が疲れて一休みし、2時間位して又、数十カ所抜きとりました。

 夜のうちに友達の兄嫁やお母さんの疎開先へ行くと「家は」と言われ、「ペシャンコで火が回った」と言うと、「蔵は戸を閉めたか」と言われ、「あの蔵は戸が閉まれば大丈夫」と言われましたが、私達二人は空腹だったので、地下防空壕と蔵の中から食料をだして食べたので気になって、それをたしかめる為に翌日藤田組の社長に言って市内へ入れてもらいました。
 昨日の道路の所では生きているか死んでいるか分からない人・人・人です。声も出ません。家の事が気になるので、それを通り過ぎ、家の所まで行くと何も無いし、食事を作ってくれた女の人もいないので、うまく逃げられたのだろうとホッとしましたが、どこへ行ったか今日迄分かりません。今ではたぶん逃れる途中で火に包まれて死んだ、と思われます。
 2キロメートル位離れた友人の家に行ってみると、父親・兄・本人が泣いているのです。兄は火傷までしてお母さんを助けようとしたけれどどうしても引き出せず、ここに母の死体がありますという事でした。学校へ行く時の保証人の家は市内の東端なので、中心部を通って訪ね、友人は当時交際していた女友達の家がある中心部よりちよっと北東のところに行き、残留放射能があると知らず、早朝より一日中市内を歩き回りました。 市内の至る所で人が焼けて倒れ、死に、又、吹きだまりに落葉が集まるように死体が累々とありました。
 その日は市内の西の己斐にある壊れていたが形があった先輩の家に泊まりました。翌日・翌々日の3日間(7日・8日・9日)、観音町・舟入町・江波町・大手町・紙屋町・白鳥町・銀山町・稲荷町・東白鳥町・広島駅・東蟹屋町と歩き回り、気分が悪くなり、宮島口の藤田一郎さんところで休ませてもらいました。
 2,3日たっても熱が下がらず、お医者さんも「疲れたのだろう」という事でしたので、会社の若い人にお米とお金を持たせて友人と三人で山陰地方の温泉地で海辺の魚の多い所へ半月程行っていました。鳥取の皆生温泉では広島のピカは伝染すると言われ、驚いて三朝温泉へ行ったりしました。笑い話のようですが、情報が無いので被爆して逃げて行った時は地元の警察が来て状況を聞かれ、「他の人に言わないように」と言われました。今、考えると言論統制です。

 戦争は負けると思いました。一発の爆弾で市内は阿鼻叫喚となり、道路の周りや水辺には死体や馬なんかの焼けただれた死体が累々とあり、町内の広場は各所で死体を集めて油を掛けて片っ端から火を付け、重ねて焼却しているのです。
 生きて食事も食べ、元気にお話をする人でも体の傷口から蛆虫が発生しているのです。重病で寝ている人は言うまでもありません。人間の免疫の箇所が、強い放射線で破壊されているのです。生ける屍であり、化け物です。髪の毛は抜けるし、歯茎より出血し、微熱が出て夜、寝て朝になれば死んでいるのです。
 今日息が引くか明日死ぬか、次は自分の番だと戦々恐々とした日々を過ごしました。体調が落ち着いたと思ったら伝染病と間違えられて宿を放り出されたりしました。
 人を人として扱ってはくれません。就職も被爆者は体が弱いと言われ、結婚は遺伝があると言われ、地元では差別をされました。被爆手帳をもらえぬ人もいるのです。どこの国の総理大臣か、「アメリカの核の傘の下に居れば良い」と言われた人が居ります。
 私達は世界唯一の被爆国の人間として、雨が降るから傘がいるのです。雨が降らなければ傘は不要です。「核兵器」は人類と共存出来ません。この『悪魔の兵器』の廃絶こそ世界平和を願い、死亡された方々皆様の苦しみを世界に認知させたと報告できる世界になることを願う者です。
 
(編集者より)
 この広島での被爆体験記も、さきに寄稿のあった「枯れない涙」の寺田修一氏の紹介によるものです。
 筆者の梅迫氏は「やまばと会」会長ですが、個人の立場で寄稿して頂いたことをおことわりしておきます。
 黒い雨、水の渇望、皮膚の蛆虫、放射能による体の異常など、改めて原爆の恐怖を痛感しないわけにはいきません。

                                         (2006.8.31掲載)


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