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<特集=広島・長崎の原爆体験>           《長崎市街地図》

 
寺田 修一さん
 昭和5年(1930)生(75才) (長崎 当時14歳)                                             

『枯れない涙』(被爆体験記)            
  ―生き残りし者に罪はありや―戦後六十年の悔恨―


長崎の上空で閃光が閃めいてから、もう六十年が経過し、私も曲がりなりにもこの六十年を生きてきた。原爆を経験されていかがでしたか?と稀に聞かれることはあっても、その悲惨な出来事を記憶し後の世に伝えて行くべき人々は、時の経過とともに徐々に減少し、後、数十年を経ずして自身の体で身をもって体験し、その体験を語る人々は居なくなってしまうであろう。

昨年、全く突然にリンパ癌を患い三ヶ月余の入院生活と、現在も幾ばくかの不安を抱えながら、月に一度の通院検診を受けているが、これで良いのだろうか?このまま年老いて朽ち果ててしまって良いものだろうかと、漠然とした不安感と共に毎日を無為に過ごしている。そんな時ふっと主治医の先生に告げられた一言「貴方には原爆によるDNAの染色体の突然変異が見られますから」その一言が、今の内に何かを残さなければと言う焦燥感となって時折そして断続的に私を苛んでいた。

六十年前の八月九日、私は十四才の中学三年生であった。中学生と言いながら緊迫する戦況の中、既に学校での授業は無く、私達は学徒動員令で、それぞれが与えられた工場で兵器生産に携わっていた。私達のクラスは長崎市浦上の三菱兵器製作所に動員されていた。私はもともと大浦に住んでいたのだが、母親や兄弟達が田舎の島原に疎開したため二ヶ月くらい前から松山町の級友の家に下宿させてもらっていた。当日は朝から警戒警報発令中で、本来そのような場合、工場に出勤せず自宅待機が許されていたのだが級友と二人で相談、家でぼやぼやしていても仕方が無い、工場に行こうと下宿を後にした。この事が友人にとっては両親や妹との言葉を交わした最後の朝となり、私にとっては九死に一生を得ることになってしまったのである。後で分かったことだがこの松山町の下宿の在った場所は、何と投下された爆弾のほぼ中心地であった。

その日は朝から見事に晴れ渡り、かすかに遠く、高い空に薄く刷いたような雲が動くともなく漂っていて日本列島でも南に位置する長崎の町は、裸でいても我慢が出来ないほどの暑さであった。中学三年生、学業半ばでの学徒動員、何の疑いも無くお国の為にと戦地で戦っている人々のことを想い、この戦争には必ず勝てるのだと言う至極単純な信念に燃えて、級友達と共に動員先の三菱兵器製作所へ毎日出勤し、まだ十四才の少年の身体にはかなり過酷とも言える労働に耐えていた。自分だけがそうであったのではない、老若男女を問わず、全ての国民がそうしなければならないと一途に信じていたからかも知れない、毎日の過酷な労働も、少ない量の弁当もさして苦にはならなかった。

そして、運命の十一時二分、全く突然に、何の予告も無く長崎市民三十五万人の頭上に閃光が閃き、七万数千人余の人命を奪い、それに倍する人々の運命を変えてしまった。しかしこの十一時二分と言う時間は、私個人にとって、亡くなった人々に対しては誠に不遜な言葉になるが、わずかに幸いであった。なぜなら私はその数分前までは総ガラス張りの作業場にいたからだ。私の級友、親友とも言うべき細川君、私を下宿させてくれていた彼は、その作業場にいてボール盤で作業中被爆し、左半身に百十数箇所ものガラスの破片による傷を負い、又他の人々は不幸にして帰らぬ人となってしまった。

私がその時いた兵器製作所の工場は、爆弾の中心地から千三百メートル位で、今、考えてみると正に[きのこ雲]の下にいた事になる。私達はその日広島に新型爆弾が落とされたと言うニュースは聞いていたが、まさか自分達の頭上で炸裂した爆弾がその新型爆弾であると知る由もなく、一瞬、写真撮影のときに焚くマグネシュームのフラッシュに似た、しかもすさまじい光が頭上に閃き、とっさに私は焼夷弾か爆弾が頭上で炸裂したんだと思った。逃げなければと光と反対の方向に体の向きを変えた途端、背後から物凄い力で突き飛ばされ(爆発後の爆風であった)三メートルほど先の作業台の間に倒れた。倒れながら、とうとうやられてしまった、これで死んでしまうのかと言う何か空虚な、背中が寒くなるような、それでいて観念したような妙な気分で、崩れ落ちてくる建物の破片から身を守ろうと頭を両手でかばい、必死に耐えていた。そしてそのまま無残に押し潰されてゆく建物の下敷きになり、気を失ってしまったのである。

どのくらいの時間が経ったのだろうか、下敷きになった私のすぐ傍で、野中やられた(不思議にこの中年の工員さんの名前は今でも覚えている)野中やられたと、まるで自分一人がやられたように叫んでいるその声に目を覚まし、あたりを見渡したが、まだ辺りは舞い上がった砂塵のために真っ暗で、何も見ることは出来ない。幸いな事に、私の倒れたところは丁度頑丈な作業台の間で、下敷きにはなっていたが何も身体には乗ってはいない、ただ額から顔にかけて生温かいものが滴り落ちてくる、怪我をしたらしい、まだ何となくぼんやりとした頭で考えながら誰かが這い出した穴から潰れた建物の上に這い出し、瓦礫の上からあたりを見渡すと、真っ暗な中、そこここにちょろちょろと赤い火が見えるだけであった。
 
どうなっているのだ、爆弾にやられたのは分かるが、暗闇の中で状況が良く理解できない、まだ茫然自失という状態でそこに佇んでいる内に、ちょうど夜明けのように辺りがぼんやりと明るくなってきた。そしてそこに私が見たものは、なんと、見渡す限りの廃墟とも言うべき光景であった。隣の鋳物工場の建物の鉄骨が無残に曲がりくねり、あの強大で頑丈そのものに見えたクレーンさえもがアメのように折れ曲がっているのだ。そのそばに立つ根元の直径が三メートルもあろうかと思われる煙突が中ほどから折れ、崩れ落ちている。

何と言う事だ、見渡す限りの建物全てがむちゃくちゃに押し潰され、破壊されている。相当な数の爆弾が一度に落とされたとしか考えられない。やがて崩れ落ちた建物のそこここから、ついさっきまでは元気で働いていた人々が幽鬼のような顔をして這い出してくる。血だらけのその顔にはほとんど生気が無い、夢遊病者のようによろよろと頼りない。もうその頃には火災が始まり、私の周りにも煙が漂い始めてきた。

逃げなければ、しかしどこへ、混乱した頭で考える力も無く、呆然とその場に立ち尽くしていると「おおい、誰か助けてくれ!」と言う声、はっと我にかえり、辺りを見渡すと、瓦礫の間から手と頭が見える、腰から下を何かに挟まれて身動きできないらしい。そのすぐ傍に女子挺身隊と思われる少女が二人「誰か、助けて下さい!誰か、助けてください!」と大声で悲鳴をあげている。男の声は「うるさい!皆で叫ぶと分からないじゃないか!静かにしろ! 助けてくれー」と必死な声でなおも叫んでいる。その声に聞き覚えがある、誰だろうと近づき、上から顔を覗き込んでみると級友の田坂君だ。クラスで一番身体も大きく、級長をやっている頑張り屋だ。

私の顔を認めた田坂君は「おお、寺田、頼む、助けてくれ、動けない、助けてくれ」と必死な面持ちで私の顔を見上げるのだ。私は彼の両脇に手を差し入れ、引きずり出そうと試みたが全く動かない。じりじりと焦りが込み上げてくる、しかしこのまま放置して自分ひとりで逃げることが出来ようか、建物の下から次々と人々が這い出してくる。「お願いします!ここに人が下敷きになっているんです、助けてください」と、一人ひとりに手を取るようにして頼み込むのだが、ほとんどの人が虚ろな目を向けるだけで放心したように、「お前も早く逃げろ、焼き殺されるぞ」と言いながら「他人のことを構うな」と言い捨てて逃げてゆく、「燃え始めたぞ!」と言う叫び声が聞えて来た、どうしよう、と気もそぞろになりながら田坂君の身体の上にのしかかっている梁を、力任せに揺さぶってみるが、その梁の上に倒れ掛かっている工作旋盤の重みのためかびくともしない。

ほとんど絶望して頭を抱え込んでいたその時、「おう、寺田、どうした、お前怪我しているじゃないか」と、たった今、建物の残骸を掻き退けて這い出してきたばかりの人に声を掛けられた、見ると職場で私たち動員学生の面倒を見てくれている浜田さんと言う職場の班長である、自分の腰から手拭を取り出し「これで頭に包帯をしろ」と渡してくれ、「さあ、急いで逃げよう」、と言う、私は今にも泣き出しそうになりながら、「すみません、田坂君がここに下敷きになっています、助けてください」と言うと、浜田班長は「何を言っているんだ、このまま逃げなければ、俺達がやられてしまう」と先ほどの人達と同じく今にも駆け出しそうになるので、慌ててその手にすがりつき「どうか田坂君を助けてください」と手を合わせたところ、行きかけていた浜田班長が「よし!」と言って引き返してきてくれた。

二人力を合わせ田坂君の身体を引き上げようとしたが、当人の田坂君は「畜生!アメリカの奴、俺をこんな目に合わせやがって!」と叫んでいる、田坂君の身体は挟まれたまま全く動く気配なし。途方に暮れていると、浜田班長が「おい、寺田、お前チビだからもう一度この下にもぐれ、そして田坂の身体の下のものを何でもいいから取り出すんだ」と言う、私は先ほど這い出した穴から瓦礫の下に潜り込み、恐怖に慄きながら、手当たり次第に木屑や道具箱、あるいは椅子の破片等などを彼の身体の下から外へ放り出した。「ようし上にあがって来い!」浜田班長の声で再び這い出した私は、班長と二人で、何とか梁と身体の間に隙間が出来た田坂君をやっとの思いで引き出すことに成功した。あんなに大変そうで「俺のひざから下が無い」と半泣きであった田坂君の怪我は意外にも軽く、それからは三人で田坂君の隣で下敷きとなり、悲鳴を上げていた少女二人を助け出すことが出来た。

さあ逃げよう、山へ逃げるんだ!五人は一斉に、倒れた工場の塀を乗り越え、外へ飛び出した。そこはまるで地獄の様相であった、夥しい怪我人の群れと、既に息絶えた人々、特に悲惨さで目を覆いたくなったのは、力なくそろそろと歩いている全身火傷を負った怪我人の人々で、両手を力なく前に垂れ、その指先から水のように体液を滴らせている人々であった。絣のもんぺや着物の紺色の地の所が燃えてしまい、絣模様の白い部分だけが肌に張り付いていて異様な感じだ、しかもその焼け爛れた肌から血に混じって体液が染み出しているのだ、声を掛けようにも声が出ない、恐らくこれらの人々は幾日も生きていることはかなわないであろう。

「長工(県立長崎工業学校)の生徒さんですか?」と突然声を掛けられて振り向くと、数人の学生らしい人々が「すみません、長工の生徒さんでしたら鋸をお持ちじゃないですか?私達は師範学校の生徒ですが、爆弾の直撃を受けて先生が建物の下敷きになっているんです、鋸があれば助け出せるんですが」と必死の面持ちで頼み込んできた。「実は、僕らも爆弾の直撃でやられ、今逃げ出してきたばかりで手元には何も持っていません、勘弁して下さい」この下敷きとなっていた先生が、これらの学生達に助けられたかどうか、それは分からず仕舞いだ。恐らくこういった光景はそこいら中で見られたことであろう。そして多くの人々が無念の想いのままその生涯を終えたことであろう、今にして思えばあと数日後に戦争は終わりを告げたと言うのに。

一緒に逃げ出したはずの浜田さんも、女子挺身隊の二人もいつの間にかはぐれていなくなっていた、私と田坂君はとにかく山へ、私は自分自身が逃げるということ以外に、下宿で世話になっている級友の細川君を探し出さなければ、と言う強い思いを抱えていた。小さい頃から貧しくて多くの人々のお世話になりながらここまで生きてきた私の家では、母親が常々「お世話になった人々には、必ず十分にお返しをするんですよ、自分に出来ることでいいんだから、精一杯のことで」と口癖のように言っていたので、なんとしてでもその級友を探し出そうと、そこら中をかけずり回った。喉が渇き、浦上川の流れの水を飲もうとしたが、その川の中にも死体が転がっている、とても飲む気になれず、顔を洗っただけで山へ。途中崩れた農家の傍で這い出して来た、怪我をして血まみれになった中年の農婦に「水を下さい、水を飲ませてください」と歩いている足首を掴まれる、水などある訳はない、自分自身も喉はカラカラだ。「すみません、私も水はありません、暫く我慢してください」掴まれた足首からその女性の指を外そうと試みたが物凄い力で掴んだその指は、一本一本外そうとしても、容易に外れそうにもない、途方に暮れて暫く佇んでいる内にその農婦の指から次第に力が抜けていった。ここで、もし水があってこの人に飲ませて上げられたら、でもその農婦はかえって気が緩んで息を引き取ってしまったかも知れない。

そうこうしている間に、またまた敵機来襲だ。慌てて近くの藷畑に隠れる、隠れると言ってもその藷の葉っぱは茶色っぽく変色して萎びたままだ。身を隠す様な所はどこにも無い。それでもそこにじっとしている間に爆音が聞こえなくなった。「そうだ!学校へ行こう、学校はどうなっているんだ」田坂君はそう言って私を促した。私達の学校は浦上の丘の上に立っていた。駆けて行ってすぐ近くだ。が、なんと言うことか、そこで私達が目の当りにしたものは、轟々と音を立て燃え盛っている母校の無残な姿だ、大きな梁が火の勢いで空高く舞い上がっている恐ろしい光景であった。そして何故か黒い雲に覆われた空から突然雨が落ちてきた。[火事になると良く雨が降る]といつの頃か聞いたことがある。これが「黒い雨」であったのか。

ふと、静かになった田坂君のほうを見ると、南の方角の空を見上げている、「寺田、俺の家の方には青空が見える、蛍茶屋は大丈夫かも知れない、俺は家に帰る」助けてくれて有難うと言いながら田坂君は走り去って行った。燃え盛る学校には近寄ることも出来ず、独りになった私は再び山に向かった。雑木林の中は正に酸鼻を極め、そこここに何十人、何百人と言う怪我人が言葉も無く座り込んでいる。中にはいつも職場で賑やかに笑い声をあげ、私達勤労学徒に対して優しい言葉を掛けてくれていた年上の女性もいて松の根方にすわりこんでいたが、虚ろな目をしてじっとしているだけだ。「怪我人を眠らしてはいかん!眠っている人がいたら叩き起こせ!」と数人の兵隊が叫びながら走り回っている。「水をやっちゃいかんぞ!」「水があっても飲ませてはならん!」それでも血だらけになった人々は「水を」「水をくれ!」と言いながら手を差し伸べてくる。

細川君はそこにもいない、そうだ!いつも空襲警報が出たとき、仲間達が揃って登った小さな禿山があったが、そこにみんなで集まっているかも知れない、私は林を抜けてその禿山に向かった。その禿山は山とも言えない小高い丘であったが、空襲警報が発令され避難命令が出ると私達はこぞってその丘に登り、はるか空高く無気味な爆音を轟かせながら、キラキラと光る爆弾を、さながら鶏に餌をばら撒くように落として行くボーイングB―29爆撃機の編隊を他人事のように眺め、「あの爆弾を一発工場に落してくれれば工場が休みになるんだがなあ」と冗談を言い合いながら、しばしの休息を取っていた場所であった。だが、そこには級友は一人もいなかった。

失望して踝を返そうとした私の耳に聞こえてきたか細い声「助けてください」女の声だ、首を回らしてみると、そこにはセーラー服にもんぺ姿の少女が血にまみれた姿で手を差し伸べている。私達と同じく動員されどこかの工場で働いていた女子挺身隊の一員であろう、まだあどけなさが残る十三・四才と思える少女だ。私はその子に手を差し伸べることが出来なかった。「頑張ってください、今に誰か助けに来るでしょうから、それまで頑張っていて下さい」と言いながら後ずさってその場を離れた。その時の少女の哀願するような眼差しを今も忘れることは出来ない。何故自分はその少女を負ぶって里まで、せめて大人達のいる所まで連れて行ってやらなかったのだろう、私の去ってゆく足音を聞きながら、彼女はどんなにか心細く思った事だろう、大事な恩人であり級友の細川君を見つけ出さなければと言う思いだけを口実にして、私は彼女を見捨てたのだ。いや、あの後で山にいた兵隊達がその少女を見つけ出し助けたかもしれない、そうかもしれない、そうであって欲しい。それでも、あれから十年、二十年、三十年、そして六十年が経った今でも、ふと何の脈絡も無く思い出すと、強い悔恨が胸をよぎるのである。

私は再び山を下りた、細川君はどこへ逃げたのだろうか、生きているのだろうか、怪我をして動けないのではないだろうか、泣きたくなるような思いで松山町の方角を目指して力なく歩いていると、なんと、同じクラスの仲間が七、八人こちらへ歩いてくるのに出くわした。それぞれが軽傷を負っている様子だが、みな思ったより元気なようだ。「どうした君達もやられたのか」みなが異口同音に「直撃を食らった」と言っている。「これからどこへ行くんだ」と聞くと「家に帰る所だ」と言う、見渡すと沢辺君がいる、山口君もいる、しかし気が付いてみると細川君がいない。「細川君はどうした、君達は細川君を見なかったか」と、思わずせき込んで聞くと、彼らは至極当たり前のように「ああ、細川君なら怪我をしてこの先に居るよ」と彼らが今来た方向を指差した。その時私は彼等が怪我をした級友を残して自分達だけが家に帰る、と言う不条理に何の疑念も感じなかった。大人になるまでは。

とにかく、私は細川君を助けなければならない、級友達と別れて細川君が休んでいると言う小高い丘の上まで急いだ、細川君はいた。包帯代わりの「ゲートル」で顔から身体半身をぐるぐる巻きにされ、地べたに横になっていた。そのゲートルに黒く血が滲んでいるのが痛々しい。気が付くとその傍に塩谷君と松島君がやはり怪我をして座り込んでいる、更に顔一面を火傷して「飛行機の音が聞こえたんで窓から顔を出したら、何かが弾けてこんなになったんですよ」と言っている同じ職場にいた少年工がいる。大事な顔を水ぶくれにしながら彼はそれでもなんとか生きようとしているのだ。

細川君の傷は、ほとんどが頭から腰までの左半身で、ガラスの破片による裂傷だと言う、こんな怪我人をどうして助けることが出来るというのだろうか、途方に暮れていると、けたたましい汽車の汽笛が聞こえ、「救援列車が来たぞう、みんな線路の方へ集まれ!」と兵隊達の叫び声が聞こえてきた。私は細川君を抱えるようにして他の三人を促がし、そこから一キロほど先に停まっている救援列車に向かって歩き出した、そのとき時刻は既に三時を回っていたろうか。途中浦上川の支流であろう小さな川がある、そこに掛かった橋を渡ろうとしている時、川の中から「おおい誰か助けてくれ!」との叫び声が聞こえる、見ると橋から二十メートルほど川上の水のない川底に人が倒れており「助けてくれ!」と手を振っている。目を凝らし良く見ると学校の助手をしている私も顔を見知っている卒業生だ。恐らく爆風で吹き飛ばされたのだろう、脚を痛めていて自力では川底から這い上がれないのだろうか。私はまたしても自己嫌悪に陥らなければならなかった。四人の怪我人を抱えてこれから救援列車に向かっている所だ、気持ちに余裕の欠けらもない。助けることが出来ない。目をつぶる様にしてそこを通り過ぎた、許してくださいと呟きながら。彼のその後の消息は分からない。

列車に向かう人込みに紛れて救援活動中の人達に会う、おにぎりやパンを配っている、しかしながら食欲は全くと言っていいほど無い、喉も渇いているはずなのに水を欲しいとも思わない。列車に人が群がっている、老若男女みんな必死だ。その時、突然汽笛が鳴り響いて「敵機来襲!」の叫び声、今の今まで列車のデッキにむしゃぶりついていた人々まで蜘蛛の子を散らすように一斉に列車から逃げ出した。列車の近くにいると機銃掃射の危険がある。私も列車から離れ雑木林の中に駆け込み、一人でじっとしゃがんだまま辺りが静まるのを待った。改めて恐怖感が沸いてくる。

どれだけの時間が経ったのだろうか、周りが騒がしくなったので林から抜け出してみると、もう既に人々は列車に取り付いている。気が付くと私は細川君や他の怪我をした友人達の事をすっかり忘れていて、はぐれてしまっていた。どこへ行ったのだろうか。それよりも自分も列車に乗らなければとタラップに手をかけ乗り込もうとした途端、「こらぁ!お前はだめだぁ!歩ける奴は乗ることはならん!」と、物凄い力で兵隊に引き降ろされた。「この列車は怪我人だけが乗ることになっている!」と、その兵隊は叫んでいる。やむなく私は列車の外から窓越しに細川君達を探して歩いた。幸い細川君は既に列車に乗り込んでいて窓から顔を出し「寺田、俺はこれから多分大村あたりの病院に行く、親父やお袋に逢ったら、俺の怪我は大したことないからと伝えてくれ」と無理に笑顔を作りながら、言うのである。しかし既にその時彼の父親もお袋さんも、そして彼が可愛がっていた幼い妹さんも松山町の爆心地で亡くなっていたのだ。が、その事を彼も私も知る由もなかった。彼の願いを伝えるべく二日後に松山町を訪ねた私は無残にも黒焦げになった彼の両親と妹さんと対面することになったのだが。

黒煙を吹き上げ、汽笛を鳴らして列車が動き出し諫早方面へ去っていった。突然訪れた寂寥感、心細さ、一人取り残された私は再び途方に暮れることになった。どうする、
どこへ行こうか、そこで細川君の言った言葉を思い出した。そうだ!細川君が無事なことを彼の両親に伝えなければ。私は列車と反対の方角へ歩き出した。松山町へ行くためには大橋を渡ればよい。大橋を渡るとまだ煙が上がっている、そこここの道路脇には夥しい数の黒焦げの死体が累々と連なり、それらの死体は宙に向かって何かを掴むように手を伸ばし、あるいは無念の形相と判るような顔で私を睨んでいるかのようで、思わず目を逸らす。うっかり歩いていると、それらの死体につまずいてしまう。駆けるようにして先を急いだ、しかし、ものの数百メートルも行かぬうちに煙に巻かれる、そして追い討ちをかけるように又しても爆音が聞こえてきた。そこいら中はまだ燻ぶっている焼け跡と瓦礫の山だ、身を隠すべき物は何も無い。その時私は道路脇に防空壕らしきものの入り口を見つけた。ここだ!ここへ隠れようと中をのぞいた途端、私は思わず絶句した、そこには先客が居たのだ、既に息絶えた怪我人が折り重なるようにして入り口を塞いでいる。酸鼻を極めるその光景に思わず後ずさって外に逃げ出す。

隠れる術は無い、見回すとすぐその先に炎に焼かれたのか赤茶けたバケツが転がっている、それを頭から被り一目散にもと来た道を引き返す、熱い!真夏の太陽と火災で焼けた道路は無慈悲に私の足を炙るように痛めつけてくる、熱い!思わず道路脇に倒れている丸々と膨らんだ馬の死体の上に駆け上り、熱くなった足の裏をその死体で冷ました。死体を見るのはヤヤ慣れてきたが、鼻を突く死臭にはなんとも参ってしまった。目を塞げば死体を見なくても良いが、臭いだけは鼻を塞ぎ続ける訳には行かず、我慢するより仕方が無いと分かっていても、やはり苦しい。ほうほうの態で煙に巻かれ息苦しくて咳き込みながら大橋まで辿り着く。細川君には悪いが松山町を訪ねるのは数日してからにせざるを得ないと諦める。

松山町の下宿へ行けないとなると、これからどうしたら良いか、大橋の橋の上でぼんやりと考え込んでしまった。仕方ない母親達が疎開している島原の田舎へ帰ろうと決心し、再び線路伝いに諫早の方向に向けて歩き出した。その頃には市内から市外に向かって避難して行く人々、やっと持ち出したであろう風呂敷包みを背負った人、怪我をした子供の手を引いて歩く父親らしき人、そんな人達が列をなしていたが、それでもその数は幾らか少なくなっていたようだ、むしろ市外から町に向かって救援に来る人々や、親族の安否を気遣って長崎市内に向かう人々がかなり多くなってきていた。それらの人々の波に逆らうように線路沿いに歩いていると、線路脇には多くの死体が無造作に転がっている、中には農婦であろうか中年の女性が血に染まって絶命しており、その傍にまだ臍の緒で繋がったままの生まれたばかりの赤子が小さな両手のこぶしを握りしめるようにして息絶えていた。既にあらゆる感情が麻痺寸前とはいえ正視に堪えない光景であった。

黒焦げの死体より、生焼けになった死体や、怪我が酷くようやくそこまで逃げ延びて来たもののそのまま息を引き取った、そんな死体のほうが生々しく余程応える。無残である。ほぼ二キロほども歩くと、島原の田舎が途方も無く遠いように思われてきた、事実百キロ近くは有るだろう、とても簡単には辿り着けそうにもないように思われた。私は迷った、疎開前に住んでいた大浦の知人を頼り、まだ燃え盛っている炎の中を駆けてゆくか、それとも遠い島原の田舎まで歩いて帰るか、迷いながら大橋まで引き返す。そこで叉、こんな燃えている所を大浦まで辿り着けるのだろうかと迷いが生じ、諫早目がけて引き返す。大橋から一キロばかりの道程を七、八回も往復しながら迷った。やがて夕闇が迫ってきた、これ以上迷ってもいられない。大橋の鉄橋のところまで来ると警備の兵隊が大手を広げて通行止めをしている。それでも大人達は兵隊の制止を振り切って鉄橋を渡って行く。「子供はだめだ!」と兵隊が叫ぶ、その兵隊が大人の人と何かを話し込んでる隙にその制止を振り切って私は鉄橋の上を走り抜けて対岸に渡った。

夜が訪れた。夜になってもまだ町は燃え続けている、そこここの空がまだ地上の火を写してぼんやりと赤い。川沿いの道を走る、川の中から助けを求める声がそこここに聞こえる、熱に追われて川に飛び込んだ人々だろうか。いつの間にか同じ方向に向かう人達が縦一列に並び走って行く。「お互い、前の人の背中に火が付いたら教え合おう」そう言いながら私達は懸命に走った。暗闇の中、赤い炎に照らされて、空に向かって何かを掴むような形で手を伸ばした無数の死体が一層不気味であった。途中炎に追われ橋を渡り対岸の稲佐町のほうに逃げ、又改めて稲佐橋を渡り長崎駅のほうへ引き返ししたりしながら、二時間近く掛けて私はようやく大浦の知人の家に辿り着いた。その知人の家は爆心地から約四キロ半、建物は何とか立っていたが、窓ガラスは割れ、表戸の腰板も無残に吹き飛ばされていた。

それから二晩、知人の裏山の防空壕で過ごした後、知人の「お母さんがきっと心配していると思うよ、早く家に帰っておあげなさい」との一言に突き動かされるように私は島原に向かって出発した。途中、爆心地の下宿を訪ねたが、勿論そこは一面の焼け野原で何処に家が在ったのか皆目分からない、漸く下宿が家具を作っていたこと、裏に木工場があり隣が自転車屋であったこと等を思い出し、それを手掛かりに探し歩いた結果、先ず自転車の残骸を見つけ、焼け焦げた帯鋸盤と鉋盤を見い出し細川君の家の跡に辿り着いた、だが、悲しいことに細川君の親父さんもお母さんも、そしてまだ小学生であった彼の妹さんも、顔さえ判別できない黒焦げの遺体で、特に痛々しく感じられたのは幼い妹さんで、学校で教えられたのであろう、爆風で鼓膜が破れたり目が飛び出さないようにと耳と目を指で押さえたままの格好で、住まいのあった辺りに親子三人が並んで横たわっていた。

私はそれらの遺体に手を合わせ、「細川君は元気ですよ」とつぶやきながら、冥福を祈っただけで、そのままそこを後にした。本来であればそれらの遺体を荼毘に付し、遺骨を細川君に届けるべきであったのだろうが、中学生とは言いながら世間を知らない十四才の少年の身、悲惨な光景を見た悲しみと、初めて知った爆撃の恐怖で、そこに留まることが出来ず、ただひたすら島原の田舎を目指して歩き出したのである。
線路伝いに諫早経由で島原の西有家まで徒歩で帰るつもりであったが、国鉄長与駅から列車が出ると言う、ようやくの思いで長与駅に辿りつき、待つこと約二時間、その間にも二、三度敵機の飛来があり木陰に隠れたりしたが、爆撃も機銃掃射も無く偵察飛行だったのだろうか。列車に乗り込み、諫早駅で島原鉄道に乗り換え、長与駅を出てから約十時間位を掛けて、やっと私が西有家の駅に降り立ったのは既に深夜の一時過ぎであった。

我が家に辿り着く、もしかして私が無事に帰って来るかも知れないと、母は万一の望みで表戸の鍵を掛けていなかった。そのまま玄関の土間に立った私に、驚いて飛び起きてきた母は「お前は本当に修一なの、本当なの」と何度も繰り返しながら、私の全身を触りまくり「幽霊じゃないんだね」と、いつまでも玄関で私の身体を抱きしめていた。「有家の伯父さんが明日お前の骨を拾いに行ってあげると言っていたんだよ」そう言う母の目から涙が滴って土間に落ちた。

西有家の我が家に帰ってからも、執拗に敵機が飛来し、驚いた事にこんな片田舎の我が家から二百メートルほど離れた小学校に爆弾が落され、機銃掃射が浴びせられた。
又、平和そうに見える有明海で操業中の漁船も機銃掃射のお見舞いを受け、怪我人が出たりした。終戦二日前のことである。そんな訳で毎日空襲警報が鳴り、年老いて脳梗塞を患っていた祖母を母が負ぶい、近くの横穴防空壕まで避難しなければならなかった。私は焼け跡の惨状の記憶や鼻に付いた死臭を忘れることができず、食欲が全く湧かず毎日毎日梨ばかりを食べ、空腹を紛らわしていた。

やがて終戦の日を迎える、昭和二十年八月十五日正午の玉音放送である。

(その後秋になり学校の授業が再開され、大村の工員養成所で細川君に会う事となったが、彼はこの悲しみを乗り越え、学業を終えた後、社会人としての勤めを終え今現在は山梨県で、余生を楽しんでいる。学校では約一年後に数名の級友があの世へ旅立って行った。そして私も、急に立ち上がると立ちくらみが起き、「原子病だ、今度はお前の番だな」と級友に脅かされたりした。その後数度の白血球減少を経験し、原爆症のため体調が思わしくなく、一時は医者から「余命三年間くらいだな、治療方法は解らない、うまいものでも食べてのんびりすることだ」と言われたりしたが、その当時は自分の人生を付録ぐらいに見ていたので、それも又天命と腹を括り、毎日を生きてきた。付録の人生は今まだ延長中である)

あれから六十年、私は何をしたろうか?原水禁運動、戦争反対のデモ、被爆経験者としての語り部としての活動どれひとつ取っても微力である自分自身の姿を再確認するだけであり、省みて忸怩たるものが有る。それにしても、現在の訳のわからない世界情勢、加えて今日の荒涼たる世相を見ていると、この先わが日本の将来はどうなっていくのだろうかと胸が締め付けられるような思いがするのだ。永遠の戦争放棄を謳った現憲法が今論争の的となっている。戦後に他国から押し付けられた憲法だから改正すべきだと言う意見は、一寸飛躍が過ぎないだろうか、他国から押し付けられた物であろうと、そうでなかろうと戦争の被害を有形無形に受けた世代としては、戦争で人の命が損なわれるのはもう沢山だと言いたい。あの六十年前の悲劇を繰り返さないで欲しい。北朝鮮政府のそして中国政府のあたかも挑発するかのような最近の言動を見聞きするにつけ、憲法論議はもっと手を尽くして論議されてしかるべきであると思うし、国の命運を国民に預けられている政治家諸兄姉の慎重かつ勇気ある行動を望んでやまない。核の廃絶!核兵器反対!と叫ぶことはいとも簡単である。今でも世界のそこここで争いが生まれ、人々が殺し合っているのだ。争いを無くする事は出来ないのだろうか、憎しみ合う事を忘れ去ることは出来ないのだろうか?と、悲嘆にくれていても物事は始まらない、たとえ今それが形となって現れなくとも、地球温暖化防止に力を注ぐ事と同じく、次世代の為、次次世代の為、「この悲劇を繰り返すまい」と語り続け、叫び続けて行きたい。(終)
                           
(編集者から)
以上、長崎に原爆が投下された当日の真に迫る被爆体験記を寄せて下さった寺田修一氏に心よりお礼申しあげます。
この体験記は、戦後60年に当たる昨年、多摩市原爆被害者団体「やまばと会」が企画・印刷した『原爆/証言集』に掲載されたものです。 この資料には会の一部有志26名の体験記が寄稿されているとのことですが、資金難などの事情で少部数しか印刷・配布されなかったのが実情です。
なお、寺田氏のご厚意により『枯れない涙』の読者からの感想文を提供して頂きましたので、続いて掲載することとします。

    *******************「被爆体験記」の読後感 *************************
(1) 
寺田修一様へ
思いがけないお電話と、そしてメールで送って下さった記録を只今読み終えま した。
あらかたは直接に伺っておりましたが、今こうして読んでみると、一行一行に当時の
貴重な、悲しい、様々な思いが滲み出ており、心から読ませて頂きました。
 
読み終えて、うーんと深い感慨に耽りました。
私は当時は中国の北京にいたのですが、敗戦当時は中学一年、寺田さんの二年後輩に
当たりますね。
直接の爆撃や悲惨な生活環境ではなかったものの、敗戦後は、父は河北交通を解雇
されて、生活苦と収容所のような引き揚げ待機所での生活、米軍軍用船LSTの船底に
二 千人がギュウギュウ詰めにされて、佐世保港に上陸しました。日本に引き揚げて来て
か らの戦後の暮らしなどを想い出したものでした。
原爆経験は語るのも嫌だ言う人がまだまだいますね、思い出したくもない、悲しい辛い
、言葉には出せない、出したくもないという思いを抱いてきた人が多くありました。
私は早坂暁さんと親しくしているのですが、早坂さんは原爆の投下直後に広島を通った
ことから、直接に目にした悲惨な状態と心を作品に反映させています。
例えば「夢千代日記」。
 
寺田さんが、その後について外国生活での経験が多く、その話が非常に面白かったので
すが、後日談としてそれも書かれると良いな、と感じました。表現される予定はないので
しょうか? そちらのほうも是非読みたいと思いますね。
ともあれ、とても感銘を受けたことを報告させて頂き、送って下さったお礼を申し
上げま す。若い人や知人にも読ませたいと思いますが、ご了解下さると嬉しいです。

* 人権110番を主催されている方で73歳の方です。  
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(2)
おはようございます。
原爆の記録、読ませていただきました。
随分、お辛い思いでこの文章を書かれたことと、拝察いたします。
生々しい記述は想像を絶するほどです。
戦後生まれた私は、戦争の記憶がまったくなく、両親、知人から3月10日の東
京大空襲の戦争体験を聞いて、書き留めたことがありますが、原爆を受けた当事
者からの生の声は すさまじいものがありました。
戦後60年を過ぎ、ほとんどの人の中に戦争の記憶がありません。ともすれば、
頭の中で 国の利害だけで政治を行おうとする為政者達に聞かせる言葉は当事者
の体験談しかありえません。
昨年広島の原爆資料館にいきましたが、あそこには 語り部がひきつがれてまし
た。私くらいか、もっと若い人たちが、原爆被害のありさまをかたっていました。
どなたにとっても、思い出したくない、忘れてしまいたいほどの恐ろしい
記憶なのに、多分後の人たちにたいする責任感から、身をふりしぼるように
話してくれたものでしょう。
長崎、広島、知覧と昨年旅をしました。
普通の家族の日常が、突然に ぶった切られた現実!
一歩、資料館に足を踏み入れた瞬間から、涙がとまりませんでした、
知覧には1400名あまりの 片道切符で旅立った若者の写真が掲示
してありました。一人の母として、人生を途中で遮断された子供たちの
顔をしっかり一人一人見てあげようと思いました。
寺田さんにはお辛い時間でしたでしょうが、戦争を、原爆を知らない私たちには
貴重な教科書になりました。
ありがとうございました。

* 50才代の主婦の方です。
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(3)
寺田さん
ありがとうございました。
リアルな素晴らしい労作です。
文章もいいですね。
自分が聞いていた広島の話も目に浮かぶようでした。
私の母は鴨居の下敷きになり、父が引き出せないで困っていたところ
ふらふらと人が通りかかりその人と一緒になって引き出したそうです。
私は当時1歳でしたからよく覚えていませんが、小さいころは8月6日になると
祖父や両親が当時の様子をきかせてくれました。
これは本にしてはいかがでしょうか?

* 古くからの友人で、同じ業界で働いていました、63歳です。
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(4)
寺田様
メールありがとうございます。
早速「被爆体験記」を読ませていただきました。
以前にも少しは寺田さんの被爆体験を伺っていましたが
今回メールを読んで、まさかこんなすごい体験を
されているとは私にとって驚きでした。
このような極限状態での不条理さ、悔恨の念、焦燥感は
実際に体験した人でないとわからないと思います。
特に友達の細川君の妹さんの耳と目を指で押さえた遺体のところの描写は
いたたまらない気持ちになりました。
なんと今の日本は平和ボケしてぬるま湯の世界なんでしょう。
また確かに物質的に豊かになったかもしれないが
精神的にはなんと貧しいのでしょう。
寺田さんがいつも前向きでいらっしゃるのが
少しわかったような気がします。
貴重なお話ありがとうございました。
またよろしかったら飲みに誘ってください。
では失礼します。

* 私が癌で入院闘病生活を一緒に過ごした46歳の友人です
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(5)
寺田修一様
被曝体験記早速拝読しました。
本当にその場にいるような気持ちで
一気に読ませていただきました。
私のよく存じている寺田さんの御文章ということが
なお一層親近感を覚え、1ページ毎に次はどうなるの
だろうとドキドキしながら読みました。
私も広島出身で学校では8月になると平和集会
を開いて、「語り部」をお招きして体験談を聞く機会が
ありましたが、寺田さんの体験記を読んで
改めて原爆の恐ろしさと酷さを感じました。
貴重な体験記を賜り本当にありがとうございました。
今後とも何卒宜しくお願い申し上げます。

* 私が入院中にお世話になった若き主治医で、現在岡山県で活躍中です。33才
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(6)
寺田様
文章を読ませて頂きました。
臨場感溢れる文章で、涙を流しながら読ませて頂いてました。
原爆投下よりの状況が生々しく目に浮かびました。
ご友人との厚いつながりがにじみ出て、あっという間に読めました。
ぜひ戦争を知らない子供たちにも読んで聞かせたいものです。
戦争をただの過去のものだけではなく、その過去があってこそ今があるという感謝の気持ちが必要ですね。
核保持の件もあたりまえのように感じている人が多いですが、その威力は何億もの人を殺すことができるのでしょうか???
人間のその無限な力をどうして悪の道に使おうとしているのでしょうか??? 他に遣い道はあるはずです。
どうぞこのような被爆体験記を残し、後世にも知らせていって頂けることを希望します。 感慨深い文章を有難うございました。
当社社長も戦争は二度と起こしてはならないとおっしゃってました。
どうも有難うございました。

* もと私が勤務していた会社の社長秘書の30才台の女性です。
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(7)
寺田様
先週の金曜日は大変おいしいお酒と肴でございました。
誠に有難うございます。
家についてから結構酔いが回っていたことに気付き、
席で何か失礼で生意気なことを言ったのではないかと
不安なところがございますが、どうぞ酒の席のことと、ご寛容頂ければ
幸いです。
翌日、酒の残りに若干ボーっとする頭でもそもそと寝床から這い出し、
時計を見るともはやそれは朝ではなく、殆ど昼ではありましたが、
やけに冷えるなとカーテンをあけるとそこは真っ白な雪景色。
こりゃ、いつまでもボーっとせずにビシッと目を覚まし、外にフラフラと出ずに
しっかりと寺田さんの手記に向き合え(読め)との思し召しかと、大げさながらも
真剣に考え、冷水で顔を洗い拝読させていただいた次第です。
さて、人間はこのような圧倒的な悲劇、そして紛れもない過去の事実に対し
どのような態度を取ることができるのか、果たして正直に、真摯に向き合うというのは
どのようなことなのか。読後、暫く腕を組んで天井を睨みました。
軽々しく、通り一遍等の美辞麗句ではウソになる、とまでは言わないまでも、
空虚に過ぎる。それでは寺田さんが私に「読んでみてほしい」とおっしゃられた
意図に対して何らお応えできぬ。
かといって、実際に自分で経験したことではないことを、いくらそれに想像をめぐらせたところで、 果たしてそれが、寺田さんがその場で会われた惨劇には及ぶべくもないことも当然といえば 当然すぎること...
私自身は妻も子もありませんが、同世代の周りを見れば家庭を築き父となっている友人も多く、
次世代に語り継ぐべき人間として私はどれほどその資格がある人間なのでしょうか。
重大な、それこそ身を震わせるほど重大なテーマであるにも関わらず、かといって自分がどれほど それをわかっているのか...そんなジレンマを感じずにはいられませんでした。
言うまでもなく核兵器の恐ろしさやむごさは、世界唯一の被爆国日本にとって 伝えられ続けなければならない人類最大の過ちであることは、知らぬことではないと思っていました。
小説、漫画やアニメ、映画やドラマ、と、様々な媒体が広島長崎の原爆を描いてきましたから、
私もそれに大なり小なり触れてきました。
寺田さんもその漫画をご存知かもしれません。
作者自らの被爆体験を漫画にした「はだしのゲン」という作品を
小学生のときに読み(学校の図書館にあった唯一の漫画でした)、その原爆投下時の残酷さや恐ろしさに震え、 数日眠れなかったことがあります。
また、「黒い雨」、「8月のラプソディ」なども私に強い余韻を残した映画です。
広島、長崎のそれぞれのあの夏の日は、日本人全てが共有している「トラウマ」なのかもしれません。
しかしこれらは、あくまでも見ず知らずの他人を通じてのことであり、映画に至っては、実際に被爆など していない(当然ですが)、俳優の演技であり、よくできたセットが燃やされ、興行収入でその映画の 出来不出来が評価される、というものです。
私にとっては、いえ、殆どの日本人がそうであると思いますが、「大変なことなんだけど、自分にはよくわからないこと」として、 心の中でずっと「棚上げ」してきたことであり、またそれでもかまわないと自分なりのエクスキューズが常にどこかにあったことなのです。
本来「トラウマ」とは、幼児期の実際の辛い体験が意識の中に残り、その後も影響を及ぼす、ということなのですが、 その意味では、先ほどの「トラウマ」という表現は本来の意味からは乖離があるかもしれません。
しかし、えてして「トラウマ」というのはその後、その辛い経験から逃げる、という作用を及ぼしますが、 その意味では原爆が日本人、ここでは「大多数の日本人」を指しますが、その日本人にとってトラウマである ことはあながち的外れな言い方ではないと考えます。辛いからでもないし実体験でもありませんが、
「よくわからないのでそのことはあまり深く考えないようにしている」のですから。
寺田さんのおっしゃられる、そのことを伝えられる人は確実に減ってきている現実があり、当然ながら反比例で 棚上げするフツーの日本人が増えています。失礼な言い方ですが、これは現実です。
寺田さんがご自身の記憶の扉を開き、(思い出すこととは追体験することです)それを寺田さんのお体の異変を契機にそれを 書き残そうとされたことは、お覚悟の要ったことでしょうし、それを読んだ私は今までどおり、棚上げにしてはならないことなのではと 思いました。もちろん、私の体験ではありません。しかし目の前で男惚れする笑顔で話され、 酒の肴に舌鼓を打たれる寺田さんを知る私は、そして寺田さんの少年期の恐怖、焦り、嘆き、衝撃を知り、 また救いを求める人を助けるか助けまいか極限状況の中、葛藤され、その後がわからなくなったその方々に対し今、 悔恨されているとまでおっしゃられる寺田さんを知る私は、「それでもまだよくわかりません」ということを 言い訳にしてはならないのではないか。
僭越ながら、それが寺田さんに私の読んでほしいとおっしゃられた意図なのではないか、また書くことを決められた 理由なのではないかと考えた次第です。
口先では何とでも言えますので、自らの行動をここで述べたいと存じます。
私、まずは広島を訪れます。時間の問題がありますが、勝手な都合ながら 会社を辞めれば、まとまった時間が取れますので、直接訪れ、また時間(とお金)が許せば、長崎も訪れます。
そして私は今、図書館のそばに住みますので、広島長崎の書籍資料を読みます。
また、募金にも額は大したことなくとも折りに触れ参加します。そして私が子を為せば、必ず伝えます。
これが私なりの逃げないやり方です。進める順番の前後はあれど、これをきちんと行わずに寺田さんにまみえることはすまいと考えております。
もちろん大先輩と若輩のお付き合いであり、今後ともいろいろお教えを請うところではございますが、 それはまた、寺田さんとは一対一の、男と男の(時代がかった言い方ですが)、お付き合いでもありたいと望んでおります。
口約束などの不義理は一切しません。
生きていることは罪なりやー。タイトルに書かれた寺田さんの言葉ですが、私は生意気ながら、これにだけは違うと 申し上げたく思います。天は自ら助くるものを助く-。かの原爆で亡くなられた方は自ら助くるものではなかったから天は助けなかったのか、 ということでは決してありませんが、人類のあまりにも大きな過ちに天も全てを助くこと能わなかったのではないでしょうか。
そして寺田さんはご自身の足で長くつらい道を歩き、生を得られ、家庭を築かれ、今も働かれ、そして酒や料理を楽しまれている。
亡くなられた方も、もしも原爆さえ落ちていなければ、そのような人生を送られたことでしょうが、寺田さんも当然送られているはずなのです。
これが罪なはずはありません。どうぞこれからもお健やかに、またお体をご自愛されることをお願い申し上げます。
稚拙で冗長な文となってしまい、果たして自分の思ったこと、考えたことをこれでも言い切れたのかどうか心もとない 限りですが、まずは私なりの考えを書いた次第です。お目汚しかと存じますが、ご一読いただければ幸いです。
尚、以下に弊社の受付を担当する武内にも読んでもらい、その感想を添えさせていただきます。
正直で優しく、私よりも遥かに端的な文章ですが、合わせてご一読ください。

* 若い30台の友人です、年令のわりにしっかりした意見の持ち主で、共に酒を酌むのが楽しみな方です。
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(8)
寺田さんへ
原爆体験記の方、読ませていただきました。
率直に、つらいな・・というのが私の感想です。
自分が体験したわけでもなく、苦しんでるわけでも
ありませんが、何故かつらいのです。
今世、家族や友達との会話の中では
戦争の「せ」の字も出てこない時代になってしまいました。
原爆の衝撃の凄まじさ。友人を救うという目標を掲げ
ただ生き抜き、ただひたすら歩いた。
その道の中で、苦しみ悶える人々を助けようか
助けまいかの葛藤。
私なら諦めてしまいたくなるような場面を
寺田さんは14歳ながらにも、しっかり 歩いてきたんですね。
そんな原爆や戦争の話を今世、後世に伝えてくれる
人々も今後、本当に少なくなって行くのでしょう。
今回、寺田さんの原爆の体験記を通して
原爆、戦争を体験したことがない私の胸の中を
ひどく熱くさせるものがありました。

* 上記若い友人の会社のОLで20才台半ばの女性です。
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(9)
寺田様
いつも大変お世話になっております。
被爆体験記『枯れない涙』を拝読させていただきました。
深く考えさせられました。寺田さんのご使命の深さを感じずにはいられませんでした。 原爆投下の日、寺田様の九死に一生を得た命。もし下宿に残っていたら? 工場の外にいたら?
もし作業台の間に飛ばされなかったら? 身震いがしました。一瞬の判断、行動により、大きく
結果が変わってくる。私達はそのときに選択した一瞬一瞬で未来を選択していると言っても 過言ではないかもしれません。
農婦と臍の緒で繋がったまま生まれたばかりの赤ちゃん悲惨な光景に涙が出ました。
この世に生まれ出でることをどれだけ待ち焦がれていたことだろう。時代が違えば、誕生を祝福され 母子共に幸せに暮らしていただろう。地獄とは他でもないこのことだと感じ、戦争というものに 強い憤りを感じました。戦争に大義名分なんてありえない。
寺田さんがずっと心に深い悔恨を残されているあの少女は、生きていらしたとしたら、幸せな晩年を 生きてほしい。もし生まれ変わっていたら今度こそ戦争の無い時代に生まれ幸せになってほしい。
苦しんだ人が誰よりも幸せになってほしい。心からそう願わずにはいられませんでした。 戦争ほど悲惨なものはない。人間が人間でなくなってしまう状況下で、なおも人間であり続けることは どんなに難しいことか考えさせられました。時は移り、時代が変わったとしても、人間の本質は変わらない。
平和は恒久的なものではない。争いは人の心から起きる。今、大事なことは「20世紀」を語り、伝えること だと感じました。既に戦争を知らない世代が世の中の殆どを占めています。大人が子供を、子供が親を、 人間が動物をいとも簡単に殺してしまう、おかしな世の中になっています。命ほど大切なものはないはずなのに 毎日の暗いニュースに胸が痛みます。社会全体として見た時、今後の世の中を担う若い世代に命の大切さ、平和の尊さを確かなバトンタッチができるかどうかで、21世紀の命運が決まると思います。
戦争に対する復讐。それはこの世の中から悲惨をなくし、平和で満ち溢れた世界にすることでしか成し遂げ られないと思います。
でも仮に私が戦時中に生まれ、原爆に遭い、一人生き残ったら・・・生まれてきた時代を運命を憎み 恨みつらみで生きたかもしれない。生きる術を見出せなかったかもしれない。思い出したくもない地獄の惨状を これからの時代を担いゆく若者の為に、敢えて残してくださった寺田様に感謝申し上げます。
あと寺田さんのお人柄に接して「お世話になった人々には必ず十分にお返しをするのですよ。」というお母様の 普段からの何気ない教えが今の寺田さんの生き方になっているのだろうと思いました。私も寺田さんのように 人に対する感謝の気持ち、思いやりの気持ちを忘れずに縁する人々を大事にして、素敵な人生を送っていこう と決意致しました。
どうかお身体をお大事に、これからの若者の為にも生きて、生きて、生き抜いてください。
ご健康とご長寿をお祈り申し上げます。
乱文且つ拙い文章でお恥ずかしい限りですが、私が感じたことをお伝え申し上げます。

* 30才台のキャリアウーマンの方です。
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(10) 
寺田様
「枯れない涙」(被爆体験記)を拝読致しました。
学徒動員された軍需工場での原爆被爆のご体験については、時折お聞きしておりましたが、まとまった形で 読ませて頂き、文字通り「九死に一生」のご体験だったのだと実感しました。
特に、ご自分の命を守るだけでも精一杯な状況下で、ご友人達を助けることに一所懸命になられたことに 感動しました。
「生き残りし者に罪はありや」に対しては、はっきり「否」とお答えしますが、それでも悔恨を残されていることに 言葉もありません。PTSDという言葉などなかった時代でしょうが、寺田様だけでなく多くの人々が蒙られた 身体的苦痛と精神的苦痛の大きさに、胸塞がれる思いです。
この原稿は出版──おそらく他の方々の体験記と一緒に──されるのでしょうか?
そうでしたら、出版社、書名などお教え下さい。是非本の形でも再読致したく、よろしくお願い申し上げます。
* 或る大手のメーカーの医療機器部門の役員をやっていた方で50才台半ばの方です。


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