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尾崎 健一さん 昭和3年(1928)生(85歳)

  少年通信兵の戦争体験 

       

 前書き
 私は昭和3年生まれであり、今年86歳になった。先の太平洋戦争で戦争体験をしたので、その時のことを思い起こして以下に記述する。
 私は昭和18年12月、在校中であった旧制中学4年を中退し、当時東京にあった東京陸軍少年通信兵学校を志願して入校した。第11期生である。志願の目的は“尽忠報国”の一語に尽きる。当時は軍国主義一色の環境であり、徹底した教育、更に戦況の実態を隠蔽し、国を挙げて行った軍部から若人への宣伝啓蒙活動に心を動かされ、その結果親の反対を押し切って志願を決意したのである。
 通信学校を卒業後はフィリピンのルソン島に派遣され、言語に絶する苦難の戦争体験をすることになったのだが、“国の為”という志願の目的に基づいた結果であるので自業自得であり、それに未だ年少で 思慮分別に乏しかった未熟が招いた自己責任である…と考えることにして今では諦観している。
 蛇足ながら一筆書き加えたい。正直に言えば、恥ずかしいが当時私の家は家計に余裕が無く、経済的に極めて苦しかったと思う。学生であったので私の生活費、学費の捻出に親がとても苦労している様子が子供心にも察知された。軍の学校に志願をすれば、衣食住は勿論のこと、専門知識の習得も官費で賄われるので、そうした側面、つまり経済面にも心をひかれて志願を決意したことを正直に言って否定はしない。その頃の世情から考えて、同期生の中にも同様の者がいたのでは…と思う。ちなみにいえば日本軍人として海外に派遣され、戦争体験をした者としては多分最年少ではないだろうか?(フィリピンに行ったのは16歳)

 戦争体験は70年程も前のことであり、詳細に就いては記憶も薄れているが、以前(平成3年)“フィリピン参戦記”…というタイトルで、その体験を書いて冊子を作り、戦友達(出身校である通信学校の関係者、及び御遺族)に約1,500部をお配りしたことがあるので、その記録を元にして今回、その概略 を書いた。ご覧いただき二度と戦争を起こさない為に、戦争とは如何に悲惨なものであるかを知っていただければ幸いである。真実を曲げたり、誇張、修辞、創作等は一切なく、見たこと、感じたことを忠実に書いたので御諒承願いたい。
 15歳といえば未だ子供である。今から考えると、状況判断も覚束ないその年で、何故身命を賭して厳しい軍隊を志願したのか、と我ながら呆れている。
 余談になるが、私の様に志願した者ではなく、戦況悪化によって国から強制的に召集され、いやいや入隊した下級兵士にとって、軍隊は大変辛い厭なところであったと思う。 戦地に行けば死ぬことも多く、日々の苛酷な訓練は勿論のこと、常軌を逸した辛辣な私的制裁も度々行われていて下級の召集兵は誰もが音を上げていたが、そうした兵達の間で憂さ晴らしに歌われた‘数え歌’があった。誰が作ったか知らないが、酒を飲んだ時等に軍隊生活を揶揄して歌っていた。特に印象に残っている歌詞の一つを今でも覚えている。

“ひとつとせ 人の嫌がる軍隊へ 志願で出て来る馬鹿もある”…… 

 歌は一から十まであったが、もう残りは忘れて記憶にない。私は、その誰もが嫌がる軍隊へ自分から志願した“馬鹿者”ということになる。
 上下の厳然とした階級制度、軍律の厳しさは、かねてから覚悟はしていたものの、親の愛情に包まれて我が儘に、そして凡々と暮らしてきたそれまでの生活と比べ、自分の意志で志願したとはいえあまりにも激変した軍隊という特殊な別世界に、入隊後は正直に言って驚きを禁じ得なかった。


1.卒業、出陣
 
通信学校の修業年限は2年で、徹底した軍人教育を受け、通信技術を習得したが、急激な戦況悪化の為、在校中の私達同期生600名の中、半分の300名が選抜され、修業年限を1年に短縮されて翌19年10月に卒業した。私はその1人である。(山本五十六司令長官の戦死、アッツ島の玉砕、ガダルカナル島の撤退等、戦況は次第に悪化し、敗戦色が見え始めていた頃である)
 階級は兵長であった。(最下級から3階級上)
 卒業した翌日、東京の新橋から汽車で九州の門司へ行き、私達卒業した同期生300名は3隻の輸送船に分乗した。(姉妹校として新潟に村松陸軍少年通信兵学校があり、そこからも347名が選抜されて卒業し、私達と同時に乗船して出発した)
 行き先がフィリピンであることは軍の機密の為、正式に発表はなかったが、“麻の産地”…と聞かされたので推測が出来た。(マニラ麻)
 輸送船団は輸送船が5隻、タンカーが5隻、護衛艦として航空母艦が1隻、海防艦が7隻、駆逐艦が1隻の合計19隻の大船団であった。当時としては最大、最強の輸送船団だと云われており、しかも護衛艦が多かったので、私達は少しも不安を感じることはなく勇躍して乗船した。
 ところが、門司を出航後、その直ぐ翌日から数日の内に、五島列島沖、済州島近く、更に迂回して上海へ向かう途中で、待ち構えていた米軍の潜水艦の魚雷攻撃を受け、アッ!という間に護衛の航空母艦を含む3隻の船が次々と撃沈された。
 同期生300名が分乗した3隻の輸送船も2隻が沈没し、任地に着かずして哀れにも同期生約169名(東京、村松の同期生の合計)が海の藻屑と消えた。
 私の乗った船は8,160トンの老朽船で、可成りのボロ船であった。敵は他の新鋭艦を狙ったのではないだろうか。私の船は幸運にも被弾を免れて危機を脱し、輸送船の墓場と云われる台湾海峡、バシー海峡も無事に通過し、かろうじてフィリピン ルソン島北部の北サンフエルナンドに到着し上陸することが出来た。その時、私は16歳であったが海外へ行った兵士としては最年少ではないだろうか?


2.輸送船
 
輸送船の中は各部隊の兵士が乗り込み、超満員であった。僅か畳1枚の広さに10人程もギュウギュウに詰め込まれ、横になって寝ることが出来ず、膝を抱いて戦友達と背中をもたれ合って過ごした。
 しかも船室は換気が非常に悪く、40度近い蒸し風呂の様な暑さの中、入浴は勿論のこと下着の交換も全く出来ず、ルソン島に上陸するまでの約1ヶ月間、必死に耐えた。(今考えると、これは人間扱いではなく貨物扱いである。また、軍の上層部は米軍の攻撃を予測し、輸送兵員、物資の半分が無事に目的地に到着出来れば良い…と考えていたことを復員後にある記録で知った)
 沈没した他の輸送船も艦内の状況は、多分同様だろうと思うが、脱出する出口もない船倉に詰め込まれたまま海没死した戦友達の無念を思うと、断腸の思いがする。私が幼少の頃、家によくネズミが出た。それをネズミ捕り器で捕まえ、金網の籠のまま近くの川に沈めて殺した記憶があるが、輸送船の沈没による死亡は、それと全く同じ状態である。
 無事にやっとルソン島に上陸することが出来た生き残りの私達も、決して幸運ではなかった。
 そこには更に恐ろしい酷烈な地獄の戦場が待ち受けていたのである。


3.軍務
 
その頃、マニラの治安は既に非常に悪く、私達は配属先が決まるまで、一時的にマニラ競馬場を宿舎として待機していたが、比較的近くにあった日本軍の航空基地が、毎日の様に米軍の空爆を受けており、その爆弾の炸裂音と、炎上する火柱が遠望され、初めて見る戦場の凄まじさに戦慄した。制空権は既に完全に米軍に握られており、反撃する友軍機を1機も見たことなかった。
 私はマニラの固定通信隊に配属されて任務に就いたが、1ヶ月もしない内に米軍の上陸による猛攻を受け、状況は急変悪化して部隊はマニラから撤退し、30〜40q程離れた東方の山岳地帯(モンタルバン)へと転進した。各部隊の兵達もマニラの戦火から逃れて来ており、その頃、山は大勢の兵士達で溢れていた。私は仮設の山中送信所に勤務したが、発信する電波を忽ち敵に探知されて標的となり、連日物凄い空爆と砲爆を受けて通信機は破壊され、部隊はアッという間に壊滅した。他部隊も同様に戦死者が続出した。毎日の様に、カーチス、グラマン、ロッキードP-38等、戦闘機による激しい空爆を受け、かろうじて生き残った兵達は、命からがら散り散りに山奥へと敗走した。20年2月中旬頃であったと記憶している。
“1に通信、2にラッパ、3に担架の大タルミ”…と云われ、これが軍隊では定評になっている。(1、は通信兵、2、はラッパ兵、3、は衛生兵)これ等は戦闘兵ではなく、危険の少ない後方基地に勤務するので楽な臆病者と、さげすんだ言葉であるが、通信兵も送信所勤務の場合はアンテナから電波を発信するので、敵の格好の標的にされ、むしろ真っ先に空爆・砲撃を受ける危険が多かった。(特に私の所属した固定通信隊は海外と交信するので電波の出力は大きかった)


4.山中徘徊
 
その時から食糧の補給は完全に途絶え、軍としての組織、機能は失われ、事実上の部隊解散となった。
 指揮、命令は勿論のこと、状況説明や食料の分配等も一切無く、それに受信機もないので戦況は皆目分からなかった。どうすれば良いのか? ただ戸惑うばかりであった。
 将校達は真っ先に逃げた。(自分の面倒を見てもらう為に、部下の当番兵に食糧を持たせて逃げた)
 私達、下級兵士は取り残され、敵の攻撃から逃げながら餓えと戦い、人跡未踏と思われる深山のジャングルを彷徨い、数人単位で逃げる敗残兵となったのである。手持ちの食糧は全く無く困窮した。
 上官、部下という階級制度も自然消滅し、たとえ山中で将校に出会っても敬礼もせず無視した。(私達はいち早く階級章をむしり取ったが、将校達は未練がましく付けている者が多かった)

 結論を先ず申し上げる。
 ルソン島にやっと上陸を果たした同期の約250名(東京校)は、その後、地獄の戦場の中で戦死、餓死、衰弱死、病死、自決等によって、その殆どが死亡して終戦後、奇跡的に日本の土を踏むことが出来た生還者は調査の結果、私を含めて僅かに18名程と云われている。卒業生300名が18名だけ生き残ったのである。(その外に台湾で下船して勤務した数名が生還している。姉妹校である村松陸軍少年通信兵学校は347名の中、生還者は22名程ではないかと聞いた)
 尚、厚生省が戦後発表した資料によると、フィリピン全域に於ける日本兵士の死亡者数は49万8千6百人と書かれている。(全兵力は630,967名 戦没者は498,600名 死亡率79%… 私の部隊が所属したルソン島、南部の振武集団は兵力8万名に対して生存者は6千3百名で死亡率92%とある)
 又、戦火に巻き込まれて死亡したフィリピン民間人の犠牲者は、推定100万人と云われているが、正確には分からない。戦争が如何に悲惨であり、大きな悲劇をもたらしたかは、この死者の数だけでもお分かりいただけるかと思う。現在、私の住んでいる京都市の人口が150万人弱だから、フィリピン全島の戦闘だけで、優にその全員が死亡したことになる。苛酷極まりない激戦地であり、山中に追い詰められて飢餓地獄を彷徨った戦争体験であった。それに米兵の死亡者が加わるが、その人数に就いて私は知らない。


5.討伐作戦
 
次に少しだけ具体的に書くことにする。
 20年1月上旬、所属する通信隊から少数の者が(6〜7名)がトラック(3〜4台)で北部のバギオ方面へ移動中にゲリラの待ち伏せに遭い、全員が射殺さる事件があったが、その時に積載していた通信機材は勿論のこと、軍の最重要機密書類(通信の暗号解読書)も奪われたと聞いた。
 射殺された兵士4〜5人の死体は、私達通信隊の兵舎の庭に並べられていたが、軍服も剥ぎ盗られて裸体であった。肉体には弾痕が鮮明に残っており、受弾した傷穴痕は小さく、貫通した出口の痕はザクロの様に大きく開いていた。初めて見る生々しい傷跡を残した戦死者の裸の姿に、強烈なショックと痛ましさを覚え体の震えが止まらなかった。
 その数日後、報復として、マニラに駐屯していた各部隊が動員され、襲撃された近辺の集落を包囲し、戦車砲まで打ち込んで取り囲み、若い男子約30名弱が何の取り調べも行われず全員処分されたと聞いた。
 この作戦に私も動員されたが、非情極まりない討伐戦であった。多分、犯人のゲリラ達はいち早く逃亡し、処分されたのは無関係な一般の農民ではなかったか?…と思う。見せしめの報復だったのである。またその時、兵士達は部落の家(比較的裕福な家が多かった)に土足で押し入り、手当たり次第に家捜しをして貴金属類(指輪、ネックレス、ブローチ、時計、その他欲しい物)を略奪した。私が到着した時には既に家の中は滅茶苦茶に散乱破壊されて廃屋同然になっていたが、私にとっては初めての体験でもあり、兵士の一員として心秘かに申し訳なく思うと共に、日本兵の非道な狼藉に憤りを感じたものである。
 こうしたことが、その後の対日感情の更なる悪化と、ゲリラの増大を招いたのではないだろうか。


6.飢餓地獄
 
配属された部隊が壊滅し、食糧が無くなり、山へ逃げ込んだ生き残りの私達は文字通り草木を囓って生き延びた。そして終戦を知って(米軍機の撒いたビラで知る)武装解除したのが20年9月末か、10月頃だったので、約8〜9ケ月間、調味料もない中、雑草を主食として山中を彷徨しながら飢餓地獄と戦ったのである。
 生きることに必死で、今日が何月何日か? 月日は分からなくなり、意識もしなかった。フィリピンには四季がないので、尚更のこと皆目分からなかった。まともな食い物は何もない。また、米軍の執拗な空爆、砲撃(主として迫撃砲)それにゲリラの狙撃もあって死亡者が続出した。ゲリラ(米軍に協力し、出没自在に攻撃してくる現地人)に捕らえられて、惨殺された友軍の死体を見たことがある。その惨殺死体は、正視するに忍びないひどさであった。
 敵の迫撃砲は上空をシュル・シュル…と空気を切って飛来するが、その不気味な音に生きた心地がせず、気が狂いそうな恐怖を覚えた。
 また、米軍かゲリラに近くまで攻め込まれ、自動小銃の連射を浴びて必死に逃げたが、直ぐ傍の樹木にピシー! ピシー!…と当たる音が数回聞こえ、“もうこれまでだ”…と観念したこともあった。(日本兵の持っている銃は5発を装填し、最初に1発撃ってから次を撃つまでに3〜5秒程かかる。全部撃ち終わるとまた改めて5発の弾を装填しなければならないので時間がかかり、敵の自動小銃には全く太刀打ちが出来なかった。特に私達、通信兵は戦闘訓練を全く受けていないので、小銃の取り扱いは素人同然であった)
 そうした攻撃から身を守りながら、食い物を探してジャングルの中を徘徊したのである。
 食べたものは雑草が中心で、時たま見かける蛇、トカゲ(体長50cm〜1メートルもある)、カエル、オタマジャクシ、野ネズミ、バッタ、そして川の沢蟹を捕まえて、何の調味料も無しに、焼いたり煮たりして食った。時には毒草が混じったものを誤って食べ、1週間程、胸を掻きむしられる苦しさに呻いたことも再三ある。河で炊事用の水を飯盒で掬っていると、上流から死体が流れて来たこともあった。マッチが無いので火を起こすにはとても苦労した。原始生活である。雨が降れば火も起こせない。生水は絶対に飲めない。飲めば直ぐに下痢が始まる。
 食い物の調達は自分でするのが鉄則であり、体力と才覚がなければ生きていけないのが戦場になった山の生活であった。一緒に行動している親しい戦友でも、助けてはくれない。皆それぞれが生きることに必死であった。食える物は何でも口の中に入れた。食料ではなく“餌”である。
“白いご飯が腹一杯食べられたら死んでも良い”…とさえ思い、ご馳走の夢をよく見たが、目が覚めると、飢餓の現実に引き戻されて、がっかりしたものである。町育ちの私は山野草の知識に乏しく、田舎育ちの戦友に教えられ、助けられた。
 餓死者、衰弱死者、病死者が続出し、それに発狂して自決する者も多く、深夜に手榴弾の炸裂音を聞けば、又誰かが死んだな!…と思って間違いはなかった。死に直面して“天皇陛下万歳”と叫んだ兵は一人もいなかった。
 幸いなことにルソン島に猛獣はいない。毒蛇(10〜15cm、ミミズ位の大きさで真っ黒く、赤い舌を出す蛇で、私達は天蛇(テンダ)と呼んだ)、サソリ、大きな蜂がいて、これに噛まれたり刺されたりして苦しむ兵を多く見た。蟻も大きさが2cm程もあり、噛まれた時の痛さは強烈である。ジャングルを逃走中にうっかりして蜂の巣に触れたことがあり、数十匹の蜂の攻撃を受けて、アッという間に数ケ所を刺され、その痛さに悲鳴を上げたが、その後2〜3日程は何も食べられず高熱にうなされた。軍医や看護兵がいるわけもなく、痛みと空腹を抱えて一人で耐えた。蚊と山ヒルにも悩まされた。蚊はマラリア(熱帯地の伝染病)を媒介するので、誰もが苦しんだ。山ヒルは手や足、首等の露出している肌にいつの間にかへばり付いており、痩せ細った栄養失調の体の血を吸われる。
 人間は水が無ければ生きていけないので、川沿いに上流へ上流へと山の頂上に向かって逃げたが、道が無いので川に入ることが多く、靴は絶えず濡れ、直ぐに靴底が剥がれて履けなくなり早くからずっと裸足であった。使えない靴を煮て、しゃぶる者もいた。岩や木のトゲを踏み、足の裏は血だらけになったが、いくら痛くても食い物の無いところに留まれば間違いなく餓死が待っていた。歩けなくなった兵士が虚ろな目をして倒れていても、誰もが無視して通り過ぎて行く。親しい戦友でも、歩けない者は容赦なく置き去りにされた。
 山中生活では靴は必需品で貴重品である。でも殆どの兵士は裸足であった。友軍の死体が、もし靴を履いていたり、死体の近くに転がっていればそれを貰って履いた。しかし直ぐ数日で靴底が剥がれて使えなくなり、元の裸足に戻ってしまうのである。髪や髭は伸ばし放題、指の爪が伸びて邪魔になると、時間をかけて歯で噛み切った。昼間は暑くても、夜になると急激に冷え込む。着た切り雀で他に着る服は何も無く寒さに震えた。月の無い夜は真の闇である。でも火は焚けない。(敵に探知される懸念がある)
 蛍の大群(数万匹もの数)が特定の大きな樹に群がり、闇夜の中に異様な妖しい光を放っていたが、それは悲劇的な死を遂げた兵士達の亡霊ではないか…と怖がったものである。しかし多くの死体を見たが、霊的な現象を見たり感じたり、また、戦友達からもそうしたことを聞いたことは一度もなかった。
 雨が降ってもテントは無く、大木の根本に寄り添って凌いた。帯剣は重く、それに刃がついてない為、切れないので使い物にならず早くに捨てた。小銃(30年式短小銃)と弾、手榴弾は最後まで持っていたが、それは護身と、最悪の場合の自決用にどうしても必要だったのである。


7.戦禍と原始生活
 
生き残りの兵隊30人程と山中でバラック(高床式)を建てて過ごしていた時のことである。(20年3 月頃)炊事の煙を敵の観測機(グライダーの様な形の黒い飛行機で、低空をゆっくり飛んでいたが多分、無線操縦ではないかと思う。馬鹿な兵が小銃で撃ったところ、10分もしない内に迫撃砲の連射を受けたことがあり、それからは火煙を出さない様にし、声を潜めて警戒した)に探知され、ある深夜、迫撃砲の集中砲火を浴びて兵の殆どが即死し、生き残ったのは30人の中、私と若い兵の2人だけになったことがある。多くの死体の散乱した惨状を目の当たりにして私は驚愕し、震えが止まらなかった。
 その時に同期の親しい戦友を2人亡くしたが、その1人は腹部を打ち抜かれ、腹の臓物が大量に露出して即死しており、又、1人は顎を砕かれ、未だ息があったが、ロレツの回らない声で、尾! 尾!…と連呼しながら、私の腕の中で息絶えた。(私も背中を2ケ所、迫撃砲の破片を受けた)
 その外に、太股に被弾して動くことの出来ない兵(召集兵らしい40歳過ぎ)が一人だけ生きていたが心ならずも置き去りにしたので、その後は間違いなく被弾の痛みに呻きながら餓死したことだろうと思う。(その兵士の名前も、出身地も聞いていない。何故なら私自身が、まさか生還出来るとは、その時は全く考えなかったから…)
 60年余も経った今でも、終日会話を交わしたその兵士のことが忘れられない。如何にやむを得なかったとはいえ私自身の意志で見殺しにしたのである。思い出す度に悔恨の念に苛まれる。

 あちらこちらに死体が転がっていた。フィリピンは熱帯地の為、人間が死ぬと2〜3日もすると、死体は2倍程に膨張する。その後、体の一部が破れ始め、ドロドロの粘液が流れ出して腐敗が進み、次第に形が崩れるのである。それに蠅が真っ黒くなる程たかり、蛆が湧いて勢いよく動く。その頃が一番臭く、言葉では言い表せない厭な匂いであった。その死体の傍を通ると、蠅が一斉に飛び立つので、厭でも崩れた腐りかけの肉体を見ることになる。そうした死体の数が多かったので、山の何処にいても仄かに死臭が漂っていた。
 死体は、晴天でも毎日1〜2度は降る土砂降りの様なスコールに洗われ、そして灼熱の太陽に焼かれ、忽ちの内に白骨化する。そしてバラバラに散乱してしまう。戦死者は別として、餓死や病死した死体は、何故か言い合わせた様に仰向きに倒れ、眼は必ず見開いており、しかもヤブニラミ(斜視)であった。どちらの方角から見てもこちらを睨んでいるので、小心な私はとても恐ろしく、傍を通る時は目をそむけて通り過ぎたものである。これが日本を出る時、歓呼の声に送られ、勇躍出征?した帝国軍人の哀れな、なれの果てである。
 マラリア、夜盲症、(鳥目)熱帯潰瘍、アメーバ赤痢… 私はその全部に罹って苦しんだ。特に苦しんだのはマラリアとアメーバ赤痢である。喰う物が無くなって困り果て、河で沢蟹を一度に20〜30匹捕まえて朝、昼 夕の3食、2日続けてそればかりを食ったところ猛烈な下痢が始まった。下痢と腹部の鈍痛が続き、腹の中はカラッポであるにも拘わらず我慢しても直ぐに便意に追い立てられた。そして血便が出た。これが約3ケ月続き苦しんだが、薬もないのに不思議にも雑草を喰いながら回復したのは奇蹟だと思う。若さのせいだろうか?
 負傷しても、病気に罹っても薬も包帯も無く、軍医、衛生兵もいない。友軍同士の食糧の奪い合い、殺し合いもあった。敵は米軍やゲリラだけではなく、山中で時たま出会う友軍にも油断は出来なかった。 食料を待っているな…と思えば相手を殺してでも奪う者がおり、移動する時は銃に弾は必ず装填し、安 全装置を解除して、瞬時に対応出来る様に警戒を怠らなかった。
 自分の身を守るのは生きる為の本能であり鉄則である。単独の行動は極めて危険であった。餓えの苦しさから、死んだ兵士の肉を喰っている者を見たこともあった。太股や頬をえぐられている新しい死体も見た。「調味料があれば交換してくれ」
 と云って乾燥肉を持ってきた兵がいたが、多分それは人肉だっただろう…と思う。その頃に、牛や豚等の食用肉がある筈がない。
 生きる為には徹底したエゴイズムと、動物的欲望によって理性を失い、倫理は破壊され飢えた地獄の鬼になるのである。
 私は骨と皮に痩せ細り、足裏は血まみれ、迫撃砲の破片を受けた2ケ所の背中の傷も治らず只、生きることだけに執念を燃やし、体力の限界を感じながら、やっとよろめきながら逃げた。最後は偶然出会った同期の戦友と3人で行動したが、歩き疲れ夕暮れになると、乾燥した比較的平坦な場所を探してその日のネグラにした。地面は岩の凸凹があるので痛くない様に、その凸凹に背中を合わせて寝なければならない。空を見上げると満天に沢山の星が、とても近くに大きく輝いていた。南十字星も見えた。これから一体どうなるのだろうか? 生き残った他の兵隊はどこに行ったのか? (私達3人は何時の間にか他の兵達から遠く離れてしまい、近くには誰もいなかった)
 全く情報はなく、戦争の推移も皆目分からなかった。何の希望も、明るい展望もなく無く、絶望に打ちひしがれ、明日の食い物、餌をどうするか…だけを考えた。郷愁を覚える心の余裕は全くなかった。
 友軍兵士の死体を山中で70〜80体は見たと思う。死の淵をさ迷った山の原始生活であった。死に直面したことは数え切れない。その時の情景は今でも鮮明に覚えているが、具体的に書くことは省略する。
 学校で習得した通信技術も殆ど活用することもなく、軍務に就いたのは僅か1ケ月余で、あとは敵の攻撃から逃げ回り、そして飢餓地獄に苦しんだ戦争体験であった。


8.武装解除
 
終戦を知って武装解除し、米軍の捕虜収容所に連行された時、私は驚いた。既に大勢の友軍の兵達が収容されており、その大部は終戦前に捕虜になった者達である。広島の第五師団の兵士(病院船、橘丸に乗船し、国際法違反で投降逮捕されたので戦闘せずに捕虜になった)が多くいた。彼等は米軍の給食を受けて丸々と肥っていた。そしてP.W(prisoner of war 戦争の捕虜)の印字された服を着て、何の恥じらいもなく平然と楽しそうに過ごしていた。ガリガリに痩せ、やっとよろめく様にしか歩けない自分と比較した時、彼等は捕虜になってから終戦を知るや、躊躇なく気持を切り替えたその変わり身の早さに、徹底した軍人教育を受けた私には直ぐに理解が出来ず、戸惑い唖然とした。

 そして米軍収容所で約1年2ケ月間の労務を経て、21年11月にやっと懐かしい故国日本の土(名古屋港)を踏むことが出来たのである。(コレヒドール島の収容所では、洞窟の落盤、山上からの落石と2度の事故に直面したが、間一髪、危なく死を免れた。この事故による死亡者は3名、重傷者は2名である。終戦後にも更に死の危機に遭遇した己の運の悪さに、これでもか!…と試練を与える神を呪ったものである)

 今から考えると、九死に一生を越えた奇跡的な生還であると思う。記憶では11回死に直面したが、その都度不思議に思われるほど好運に恵まれたこと、良き戦友に助けられたこと、生きよう!…という執念と精神力で、極限状態の中で死力を尽くしたことが奇跡を生んだと思う。

 悪夢を見た様な苛烈な戦場体験であった。

 故郷の四国の高知に帰ると、市街は焼け野原になっており、父は米軍の空襲によって防空壕の中で死亡したことを知った。


 後書き
 
一体この戦争は何だっただろうか?
 戦友達の死をどの様に考えたら良いか? その死に何の意義があるだろうか?
 何度も何度も考えた。
 “若人よ、海へ、空へ”…という軍部のスローガンに踊らされ、未だ思慮分別も乏しい15歳の少年が何の疑念も持たず、純粋に国の為と信じて志願した己の愚かさを痛感したものである。
 死んだ戦友達は靖国神社に祭られており【平和の礎として、尊い命を捧げた英霊】…と称えられているが、彼等の無惨な最後を目撃した者として、また危なく何度も死にかけていた者として、この無謀な戦争に憤懣やるかたなく、幾ら考えても率直に納得することが出来ない。
 あの時から、もう70年程過ぎたが、今でも思い出すと眠れない夜がある。
 彼等は単に使い捨てにされた消耗品だったのではないか? 単なる犬死にではなかったのか?
 今も尚、彼等の遺骨は人跡未踏の山奥に、雨ざらしのまま散乱しており、政府からも見捨てられて淋しく眠っている…と思うと胸が締め付けられる思いがして、私の心の中の戦後は何時までも終らない。
(政府によって戦後行われた遺骨収集の分布概見地図を見ると、山の奥の方迄は行われていない。尚、厚生省の発表によるフィリピン全域での日本人戦没者数は約52万人で、遺骨収集は内、約13万体と書かれているので、残りの39万体は今も海や山野に取り残されていることになる)

 戦争は絶対に二度としてはならない。
 戦後の日本は平和になり、経済的に何不自由もなく生活を送ることが出来ている。私も、もう86歳になった。命運に恵まれて生還することが出来、そして寿命を全うするまで、こうして平和を享受している ことを、死んだ戦友達に対して大変申し訳なく思うと共に、後ろめたい負い目を感じているが、この思いは生涯続くことだろう。同じ惨禍を二度と繰り返さない為にも、今は物云えぬ亡き戦友達に代わって、私の戦争体験を多くの方にお伝えすることが、生き残った者の務めであり使命であると思い、こうしてお知らせすることにした。

 最後に一言、誤解を招かない様に私の真意を補足致します。
 この手記は私自身の体験から、戦争をすることの愚かさ、悲惨さ、尊い人命が無残に失われる悲劇を訴え、二度と戦争を起こしてはならないという思いと、今の平和が永遠に続くことを願って書いたものです。しかし、本人の意思の如何に拘わらず戦争に参加、或いは参加させられて戦没された方々の御遺族がこれをお読みになり、その記述から戦没者が戦地のあまりにも酷烈な実相の中で、どのような最後を遂げられたかを想起され、お心を痛められたなら大変申し訳ないことであり深くお詫び申し上げます。ご遺族のお気持ちを乱すことは私の本意ではないものの、事実を後世に伝えることの大切さを熟考した結果としての苦渋の決断であるとご理解頂ければ幸いです。
 拙文で、充分に意を尽くせませんが、これで終わらせていただきます。

                                            以上




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