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   井上 護国(もりくに)さん 明治40年(1907)生(平成9年90才没)

   大東亜戦争従軍記(遺稿より抜粋)
     =フィリピン山中の彷徨と奇蹟の生還=


 陸軍通訳としてフィリピンへ

 昭和16年12月8日、大東亜戦争開戦と同時に、私は宮地部隊に編入され、同年同月24日、比島リンガエン湾近くのアゴーに敵前上陸、直ちにマニラに向かって進撃し、市内エスコルタ街近くのキリスト教会横の宿舎に駐屯しました。リンガエンに上陸してマニラ攻略の数日間は、交戦と進撃と夜襲を続けて、川を渡り山を越えて、マニラへ、マニラへとひたすら進撃を続けて行きました。(これより先、同年11月26日、東部方面軍司令部より陸軍通訳として徴用令状が来て入営したのです)
 熱帯の暑い太陽のもとで汗が滝のように流れ出ておりました。このとき水がそんなにまで大切なこと、有難いことを知らされました。川の水に消毒液を混ぜて飲むのですが、進撃中のこととて平時の様にはいきません。水筒の蓋を抜き、川のなかを歩きながらすくうのですから、消毒液など混ぜる暇もなく、そのまま飲んでしまいました。
 マニラに着いた頃、喉に異様なものを感じますので、指を突っ込むと、ごほんと言うのと同時に、ピンク色の回虫が2匹飛び出てきました。後日聞くところによれば、その回虫は心臓の壁を喰い破ることがあるということで、私は喉から出てくれたので、助かったのでしょう。これはマニラに到着の日の出来事でした。
 ここで原耕一少尉とじっ懇になりましたが、この方は良く出来た方でした。そして私の身の上に同情をよせてくれましたが珍しい部下思いの人でした。
 ファーイースタン大学に移動したマニラでの生活が一ヵ月経った頃でした。再びリンガエンを進出、輸送船でホロ島に向かい、しばらく此処に停泊しました。私はやっとマニラまで生き延びてきたので、内心やれやれと安心していたのに、再びジャワ作戦に参加すると聞かされ、貧乏くじを引いたのに驚きました。ただし後日聞くところによれば、マニラに残った連中は、バタン半島作戦で米軍の集中砲火を受けて、全滅したとのことでした。何が幸いするのやら知れないものです。

 石油貯蔵所の占領作戦石油貯蔵所の占領作戦石油貯蔵所の占領作戦石油貯蔵所の占領作戦石油貯蔵所の占領作戦石油貯蔵所の占領作戦
 ホロ島を出航して、ボルネオとマカッサルの海峡を通過しましたが、この海峡は魔の海峡とよばれて、ここを通過する船団は、米軍の魚雷攻撃を受けて、沈没するのが多かったそうで、我々のすぐ前を航行していた輸送船も、米軍の魚雷攻撃を受けて、沈没したのを間近に目撃しました。幸いにも我が輸送船は、うまく船体を隠して米軍の魚雷を避けることが出来ました。そしてジャワ島クラガン沖より、敵前上陸を執行し、スラバヤへスラバヤへと進撃したのでありますが、その途中石油の貯蔵所がありました。日本軍は、この貯蔵所を占領するのもスラバヤ攻略と共に大きい目的の一つでありました。オランダ軍はこの貯蔵所を死守せんと、そこに至る大きな川の鉄橋を爆破し、日本軍の進撃を阻止する手段を講じている報に接し、日本軍としてはこの奪取には慎重な計画がなされており、クラガン上陸部隊は将校を長とする数名の兵隊と私を加え、突撃班を編成、オランダ軍のトラックにオランダ軍の服装で擬装した我々はこの橋を突破して橋梁爆破を未然に防ぐことに成功しました。そして、後続の友軍は直ちに例の貯蔵所を占領し若干の部隊をここに残して主力はスラバヤへ直行、簡単にスラバヤを占領しました。
 ここでは大隊長が、現地人を集めては宣撫の演説をしたものでした。私は通訳ではありますが、外語卒業後十数年も経っているので、馬来語(マレー語)をほとんど忘れてしまっているので、大隊長の演説の原稿を見せてもらい、これを英訳して、現地人の医者に、手真似、足真似で説明し、何とか馬来語の文章を作ることが出来ました。大隊長が何を話してもそれにお構いなく、私は自分の作った原稿通りに読んで、任務を果たしました。大隊長の演説を通訳した後、現地人にムングルテイカ(了解出来たかの意)と質問したら、現地人は手を挙げて、ヤ、ムングルテシトーアン(はい、解りました貴殿の意)と答えてくれました。大隊長は、この様子を見て大体了解してくれたようだなあと、上機嫌でした。
 富永通訳は、東京外語馬来語部出身でありました。私は彼と交替して、スラバヤ近くのグリセ市に転出することになりました。

 有力者に日本語を教える

 グリセでは、既に日本軍に掴まったオランダ人、現地人の有力者を収容する収容所が出来ていて、多くの外人が収容されていました。私は、ここでも通訳として一仕事が待っていました。
 前述の有力者の妻や娘達が、主人や父達に差し入れに参ります。収容所ではこの取次ぎが禁じられていました。私は信仰者としての立場上放っておけず、内密に薬などは取り次いでやりました。大変喜ばれて、私が町に買い物などに出かけ、この妻や娘達と会うことがありましたが、そんな時には、彼女達の家に招待され、ご馳走になったものでした。彼等の氏名、役職などを覚えていたら、今頃はジャワに度々招待されていたでしょう。
 その後しばらくして、ここで私は土地の有力者、すなわち市長夫妻、学校長夫妻、警察署長夫妻、弁護士夫妻、医師夫妻などを集め、日本語を教えることになりました。
 さて日本語を教え始めてみると、なかなか困難な事が分かりました。日本語の難しさをつくづく感じました。教科書が無いので、自己流で教えるより途がありません。
 先ず、い、ろ、は、から教えました。いは胃、ろは櫓、はは歯、には荷、ほは稲の穂、へはおなら、とは戸、という具合に字を教えましたが、案外よく覚えてくれました。然し質問されると困りました。返答できないことが沢山ありました。今でも質問の一つに、返答できなくて困ったことを覚えています。それは1、これは黒です。2、これは黒いです。3、これは黒くあります。4、これは黒うございます。5、これは黒うあります。6、これは黒なり。この相違を説明することは、現在でも出来ません。
 又このグリセ市は、鰐の皮製品が名産でしたので、兵隊に頼まれてよく買いに行きました。店の主人とも仲良しになりました。値段は、一つが3ルピヤであった事も覚えています。

 帰還命令で命を救われる

 三ヵ月程この地にいて、次ぎは小スンダ列島の、ロンボック島の戡定作戦に従軍しました。この頃に藤田隊と交代しました。その当時の隊長、将校たちと記念写真を撮りましたが、その写真は今も私のアルバムに残っております。
 次に、チモール島のクーパンに上陸し、全島の戡定作戦を終えました。此処では、私は土民軍の隊長となり、スパイ容疑のあるポルトガル人の家を包囲したりしました。この頃ビールの特配がありました。熱帯地で、温まったビールの蓋を開けると、泡になって半分程吹き出てしまいます。その味は素敵で何とも言えぬ美味しさでした。戦地でのビールの配給は、これが初めてで最後でもありました。
 ポルトガル領のデリーを発ち、アンボン経由でアラフラ海のサムラキ島に上陸しました。ここには英国兵が駐屯していたので、これを撃退した上での上陸でした。ここサムラキは、日本軍の最前線で、又オーストラリアから至近の地点でありました。上陸した翌日、東部軍司令部より、私に帰還命令が無線で入りました。部隊として、通訳なしでは困るから、井上通訳は志願して残留して貰いたいと、隊長から口説かれましたが、私は、軍司令部の命令であるから、一応帰国して、その後再び参上しますから、と残留を断りました。もし残留していたら、全滅部隊の一員として戦死したことでしょう。
 私の乗った駆潜艇は、同島を最後に出航した船でした。
 ここで仲良しになった連中には、九州出身で、シナ事変で戦った強者が多く、長井、日名子、大戸、広瀬の曹長たちでした。井上さん必ず又来て下さい、と手を振って見送ってくれた想い出が、今も目に浮かんで来ます。
 私はサムラキを最後に出航の駆潜艇に乗って、アンボンに着き、そこから油送船でドンプリコドンプリコと、スラヤ廻りでバタビヤに着きました。バタビヤに着いてみると、集結した通訳達は、既に全員昭南に向かった後でした。後日聞くところによると、天理外語出身者達は、井上君一人を残して帰ったら、井上夫人に何と説明したらよいものかと、心配していた様です。
 私は一人で次の便で昭南に渡りました。連中の乗船予定の昭丸号は、故障修理のため出航延期となり、昭南市の某所に駐屯していることを知り、彼等を捜してやっと合流することが出来ました。幸いにも、一同揃っての帰国となりました。連中は、万一の場合を考えて、持ち金を全部郷里に送金していて、小遣いに不自由していたので、私に借金を申し入れてきました。私は子供がよく熱を出していたので、バイエルのアスピリン1瓶を求めただけで、残り全部の持ち金を、連中に貸してやりました。然し帰国して、返金してくれた人はほとんどありませんでした。この昭南市での想い出の中で、忘れ得ぬことはジョホール・バルで、王宮のトイレで用を足して、とても気持ちの良かったことでした。

 再び召集されてマニラから各地へ移動

 昭和19年7月、岡山連隊で召集解除となって家に帰ると、次の臨時召集で姫路連隊に入隊し、サイパン玉砕の直後、我々は門司港より、岡本源太郎中尉の指揮下で、飯田見習軍医の当番兵として出陣し、マニラに上陸しました。マニラ到着と同時に、大隊長笠間哲行大尉の副官堀内昌中尉の当番兵に変更されました。副官は、私が緒戦にルソン島に上陸し、マニラに駐屯していたことを、履歴書で知っていての変更であったようです。
 マニラ到着の翌日、早速、ビフテキ、ビールの店へ案内させられました。
 昼食を終えて大隊宿舎へ帰る途中、同隊の中隊長、小隊長などと会うと、副官は、俺の当番兵はマニラが詳しいよ、今食事に行ってきたところだといって、(堀内)昌副官は自慢げでした。そこで当番兵の井上を貸してくれと、隊長達から頼まれ、私は彼らの案内役をすることになりました。然し、その都度ビフテキのお相伴をしました。当時、兵隊の食事は粗食で、然も少量でありました。私は、外出してビフテキなど食べるので、私の昼食は、いつもそのまま残ります。私は隣の戦友に、いつもその昼食をやることにしました。彼はとても大喜びしてくれました。そこで、私の洗濯、靴磨きなどキチンとやってくれるので、とても助かりました。大隊内の上層部では、私は特別扱いということになりました。兵舎はバラグダス小学校にありました。
 次にサンタマリアに移動しましたが、金井曹長はよく面倒をみてくれました。兵隊では、顔に切り傷のある藤井という岡山県人で、酒好きな男がおりました。彼はゲリラに射殺されました。山口一等兵は、東横線沿いの町の出身で、最後の切り込みに行動を共にした戦友で、大隊長の当番兵をしていました。真面目な若い青年でした。サンタマリアは既にゲリラの横行甚だしく、日本兵の外出は危険でありました。私は、よくたばこを持って町に行き、黒砂糖やヤシ酒と交換しました。勿論、兵隊や下士官に頼まれてのことでした。私の外出は自由であり、殆ど軍務から除かれていました。
 兵舎を出入りするときは、衛兵所を通らなければなりません。衛兵所では下士官が、出入りする兵隊の所持品を検査するのでありますが、私は特別扱いで、検査なしでオーケーでした。
 次にタヤバスに移動しました。小学校に駐屯し、近くの市場に買い物に出かけ、アイスクリームを食べるのを常としました。又副官のワイシャツにアイロンをかけるために、公用外出をしてクリーニング屋によく出入りしました。ここでも私の仕事は、副官や将校達の御用掛の様で、特別扱いされて助かったものです。タヤバス町長宅にも度々出入りしたが、彼は親米派であったので、交際には特に注意しました。
 次に、ルセナに移動することになりました。山間にゲリラの炊煙を見るようになったのも、この頃からであります。我々のここでの兵舎は、オランダ軍のものを接収したもので、設備は非常に良好でした。副官が馬に蹴られて負傷したので、水を求めに町へ毎日出かけるようになりました。私はいつも炊事軍曹に、副官のお客が来るといって、ビールの特配をせしめていました。ところがそれがバレて、軍曹から、お前はケシカランと叱られました。ところが彼はニコニコしながら、井上よ、今日は副官用の中に、俺の分を2、3本加えてくれんか、と敵もさる者、ビールを取り出す方法を考えたものです。彼は夜になって、そのビールを受け取りに私のもとへやってきます。それからは相身互いで、旨くやってのけました。
 次に、イーストパラレ、ウェストパラレに移動しました。この頃、米軍がルソン島東海岸のタクロバンに、上陸の公算が大きかったので、我々は毎日壕堀を始めました。ここは町でなく、部落であった為に、町に出ることもなかったので、私も兵隊達に混じってこき使われました。ここで、豊井町の中西軍曹と知り合いになりました。彼は、和歌山県橋本町出身の、高射砲加藤隊長の部下でありました。この頃、日本の敗戦が、身近に感ぜられるようになり、将校も下士官も、威張らなくなりました。中西軍曹も加藤隊長も、今までと違って井上さん、井上さんと敬語を使って呼ぶようになりました。この頃は、食糧も兵隊が捜し求めなければ、師団からは、全然送ってこないので、兵隊を粗末にすれば、彼等は食糧に事欠くことになるのは事実でありました。

 敗色濃くなった戦局

 米軍がタクロバン上陸を中止し、リンガエンに作戦変更したため、我々は急遽徒歩で西北へ西北へと、昼間を避けて、米軍を迎え撃つため夜間の行軍を続けました。
 疲れ果てて、ラグノ湖畔で息をついだことを思い出します。モンテンルパを過ぎた頃は、米軍は既にリンガエンに上陸し、マニラに向けて南下中で、ゲリラの活動が激しく、身に危険を感ずるようになり、我々はマニラの水源地イボ近くの洞窟に立て籠り、壕堀に余念無く、又マニラより食糧弾薬を運び出し始めました。マニラは既に死の前夜と言う感じが漂っていました。
 我々が最後の搬出を終えて、マニラを脱出した頃は、米軍は既にマニラ近郊に迫って来て、サントリー会社の社員であった奥野軍曹は、脱出が遅れて米軍の戦車を遊軍のものと間違え、近づいて射殺されました。我々はそれ以後、マニラに侵入することは不可能となりました。
 天狗洞に大隊本部を置き、南下してくる米軍の阻止を任務としました。天狗洞から金時山に、大隊長の指揮所が移り、その広報に大隊の主力が配置されました。
 この頃は食糧も底をつき、時に副食に至っては皆無でした。吉井伍長は任務を果たさんものと、敵前に身を晒し砲撃の中にあって、山芋などを集めて兵隊達に配給してくれました。その功績により、殊勲乙を貰ったのもこの頃の事でした。これによって士気も上がったかに見えました。その後、大隊主力の駐屯していた陣地は、米軍の爆撃を受けて、跡形もなくなりました。愈々状況よろしからず、イポの誠山に又移動したしました。誠山では横壕を掘り、米軍の攻撃から逃れました。大便の時は狭い壕内ではやれないので、昼間はパンツを脱ぎ、壕外に飛び出して、一気に排泄して、又急ぎ壕内に飛び込むのであります。上空には常に米軍の哨戒機が旋回しているからなのです。中学校の教師をしていた戦友の、難波一等兵はここで戦死しました。又高屋町の土肥剣一君が姿を見せ始めました。

 背中に負傷して山中へ脱出、戦友の自決

 一ヵ月も経った頃、目の前の山に米軍の兵隊を見るようになりました。我々はこれを撃退すべく夜襲をかけましたが、逆に叩かれ、この戦闘で私は迫撃砲の破片で、背中に傷を受けて逃げました。
 大隊長以下7名、即ち副官、軍医、吉井伍長、大隊長当番兵の山口一等兵、それに私、他に2名は戦場を脱出し、誠山に残っていた兵隊と合流し、米軍に反撃に出ましたが、時に利あらず、師団司令部に連絡の上、イポのダムを渡り米軍の砲火を背に受けながら退却しました。この戦闘で、仲良しの二宮小隊長は戦死しました。兵隊が二宮少尉の手首を切って持ち帰り、大隊長に報告していたのを今も覚えています。
 我々は敵から逃れて、東海岸へ向けて脱出しました。ここは山中深く食糧は皆無でした。士気は乱れ、前途を悲観して自決するものが多く、吉井伍長はピストルで、早瀬一等兵(岡山県庁の職員)は三八銃で、二人とも私の目前で自決しました。又負傷者で病死した者も多く、梅野一等兵、中人一等兵らも名を連ねています。このままでは全員餓死するより途なしとて、山を下り平野へ平野へと食を求めて、三々五々、野良犬の如くうろついたものです。飯を腹一杯食うて、死にたいと言う連中ばかりです。私はこんな中にあって、肌身離さず身につけていた家族の写真を見て、一度会って死にたいー。このことは私が生きねばならないと言う気概を持たせました。これが唯一のやるせない願いでした。
 山に寝、川を渡り平野に出てみれば、あちらの木陰こちらのでこぼこ道、雨にうたれた戦友の死体を散見しました。食を求めて離隊した兵隊でした。帰隊しないのも当然だったと分かりました。
 平野に出ても、人家から離れては食べ物は見つかりません。しかし、人家に近づくことは、特に危険でありました。

 米を奪取するため決死の潜入計画

 最後に私が隊長となり、下士官数名を率いて、米軍陣地内に食糧奪取の切り込みを決意しました。皆餓死寸前であります。軍規など既になく、力あるものだけが生きて行く状態で、兵隊や下士官も食を得る力のある者に、従うていく有様となっていました。
 私が切り込みを決意した目的は、今は米軍の陣地になっているが、以前、日本軍が米を貯蔵していた洞窟があるのを知っていたので、その米を取りに行く計画でした。今までは、井上、井上と呼び捨てにしていた下士官達も、今では井上さん井上さんと呼ぶようになり、今では私の部下になってしまいました。
 夜中に川を渡り、対岸の陣地内に侵入しました。細い山道を米軍の歩哨が行動してきます。我々は、伏せの態勢を取り、歩哨が通りすぎると我々はホフクで前進します。
 全身を針鼠の針の如く尖らせて、例の洞窟へと急ぎました。見つかったら最後であります。武器を持たない我々は米兵と戦うことは不可能であります。洞窟へ侵入する途次、枯木が道傍に一本立っていました。我々は夜目に見る歩哨のように見えます。しかし、又よく見れば枯木のようであります。場所を移動して変わった角度から見ると歩哨のようで、動いてさえいるように思われます。相当時間も経過しますが、例の物体は小便もしません。又交替も来ません。うっかりすると夜が明けるかも知れません。そこで私一人でホフクで前進して彼の物体に近づいていきました。枯木でありました。
 我々は一気に洞窟に潜り込みました。見れば米俵が以前のまま積まれている。大喜びで、持参のテントに米を入れて、背中に負うて逃げようとした途端、米軍に発見され射撃を受けました。運よく逃れて、米軍陣地内の他の洞窟に入り、米を炊いたが、塩も副食物もありませんが、唯、飯だけを腹一杯食いました。空腹の腹に、ご飯を詰め込んだ美味しさは今でも忘れません。
 翌日の晩、米軍陣地を脱出しましたが、その翌日、又米を取りに同じ洞窟に侵入しました。ところが、日本兵二人が米を背負ったまま、死んでいるではありませんか。
 これは我々が米取りに来たのを感づいた米兵が、又日本兵が来るのを予期して、俵にダイナマイトを仕掛けていたのだと気付き、我々は俵に触れるのが恐ろしくなり、米を取らずに引き返しました。
 その後、東へ、東へと米軍から逃れて、山、谷、河を越えて前人未踏の山中に落ち延びました。ここに誰言うと無く、「十三の谷」と呼ばれた所がありました。山の頂上であったと思います。ここで私は六服の御供さんを拾いました。時雨期であり。私の持参した御供は、雨に濡れてかびが生えて、黒い粉末となって姿を消していあのに、この拾った御供さんは御本部で頂いたのと同じ様に、真新しい御供さんでありました。毎日一粒ずつ、神様に生かされているお礼を申し上げて頂きました。この御供のある限り、私は死なないという自信が湧いて参りました。
(註)「御供さん」とは天理教本部の地場甘露台に供えた米粒で、信者がいろいろなご守護を頂くために授けられる。

 奇蹟の拾い物とマラリアの苦痛

 この御供を拾った経緯はこうであります。我々がゲリラとなって必要なものは、塩、水、紙であります。これは絶対に欠くことの出来ない必需品であります。私は眉が濃いので、汗が流れたのが眉にたまり、白い塩が出来るのであります。これを指先で取って舐めるのであります。非常に辛かった事を覚えています。次に水は、熱帯地で発汗する生身の体には欠かせないものであります。山中で雨が降れば、木の葉から落ちてくる雫に、口を開けて喉を潤すのであります。紙は、草を枯らして煙草代わりに吸うのに必要ですし、又大便の時には、木の大きな葉で試みましたが、よく拭くことが出来ません。やっぱり紙が必要です。夜は川で洗いますが、昼は米軍の狙撃を受けるので、紙を使う以外に方法がありません。一度使った紙も捨てないで、又ポケットに仕舞っておくのです。よく紙で始末しておいかないと肛門がただれて歩くのに困難です。万一米軍に見つかって逃げるとき、走る事も出来ません。紙という紙は、見つけ次第に拾ったものです。
 ある日、食べ物を捜して山中を彷徨していたとき、疲れて石の上に腰掛けて一服していたら、目の前に白い紙包が見えたので、持っていた杖で引き寄せ拾ってポケットに入れようとしたところ、紙包の中に何やら入っているので、よく見ると赤い字が見えるので開いて見ると、それは御供さんでした。私は夢ではないかと驚きました。しかし夢ではなくて厳然として事実でありました。私は奇蹟は信じない性質でしたが、全く驚くべき奇蹟でありました。私はその瞬間、大地に跪いてお地場を拝し、号泣したものであります。
 私は十三の谷の頃はよく、蛇、とかげ、蟹、等を探して食べました。又、竹の笹も新芽の先を抜くと、二三分位、柔らかいところがありますが、これも食べました。毒茸など白、黄、赤のどぎつい色の着いたのも食べました。
空腹には耐えられず、食べられるものは何でも食べて、腹の虫を押さえたものでした。次第に腹の調子が変になってきます。度々便意を催して、その都度牛や馬程の排泄物でした。凄く積もりますので、時々その横に移って排便したものです。或日のこと、どうも調子がおかしいので排便をよく見ると、出血があり粘液も出て、それが次第に激しくなり、到頭日本兵ゲリラの、当時流行のアメーバ赤痢と分かりました。相次いで、マラリアに罹りました。現地人はマラリアの蚊に刺されても免疫ですから、たいしたことはありませんが、日本兵には免疫はありませんから、蚊に刺されると数日の中に震いがきて発熱します。この震いは、とても苦しくて身体のもっていく場所がない位の苦しさであります。それが終わると発熱です。40度を越す熱が出て油汗が流れ身体から湯気が立ち上ります。この熱が出てしばらくすると気分は震いの時期と比べて非常に楽になります。マラリアで死ぬる兵隊と赤痢で死ぬる兵隊とは半々であったと思います。薬もなく濡れた軍服のまま布団もなしに山中をのたうち廻ったものであります。後日復員して家でマラリアで発熱して布団五、六枚かけても寒くて寒くて苦しんでいる有様を訪ねてきた山科の叔母(福之助の妹)は、この有様を見て驚いて戸外に飛び出したほどでありました。よくも比島山中でこのマラリアを征服したものであるとつくづく生命力の強さを感じるばかりであります。
 山奥に潜むゲリラ兵が排便をする、そこへ雨がふるから、下流でその川の水を飲む兵隊は感染して、赤痢が蔓延するのは当然であります。川の岸や、水溜まりに行くと、日本兵の死体が、あちこち転がって惨たんたる有様でありました。こんな有様を見ていると、自分が変な気持ちになるのは当然であります。生きるためには、必死になって、何とかして赤痢菌を殺さねばなりません。しかし注射も薬もありません。誰に教えられたのでもありませんが、兵隊達はきっちりと心得て、腹の薬には、下痢や腹痛発熱にも、焚き火の炭を粉末にして飲むことです。私は毎日、この炭の粉を飲んで、真っ黒い便をしたものです。こうしてその中に、自然と赤痢が治りました。病気というものは変なもので、炭の粉で快癒したのであります。
 勿論、生きねばならんという気概が、その底辺にあったからでありましょう。
 その頃、米軍からの終戦のビラを度々拾ってみて、決心して昭和20年9月7日、イポにて米軍に投降し、捕虜となって無事日本に帰って来ました。

 米軍に投降を決意するまで

 投降し捕虜になったことについて、一言述べます。
 人は、投降すれば、すぐ日本に帰れると、容易に考えるものがありますが、捕虜になれば殺されるかも知れないのであります。日本軍は、シナ事変でそうした前例を持っています。米軍の投下した終戦のビラは、謀略ではあるまいか? 無血で捕虜にして、銃殺するのではあるまいか? 又アメリカに連行して奴隷にし、一生を使役につかうのではあるまいか? 日本に生涯帰してはくれないのではあるまいか? 他人事ではありません。自分自身の事であります。色々と最悪の疑念を抱くのはやむをえません。私は餓死して比島の山中に、白骨を晒すよりも、捕虜になれば、或いは数年の刑を終えたら、日本に帰してくれるのではないかとの、わずかな希望がありましたので、一週間程昼夜なしに考えに考えた上での結論でした。投降するには、大きな決断と苦悩が伴うのであります。これは経験した者でないと理解できません。
 終戦のビラは、米軍の謀略だと考えた将校や兵隊は、神国日本を信じ、神風を信じ、再起を期して再び日本の土地を踏むこともできず、家族や知人とも永久に会うこともなしに死を選びました。
 投降するには、白旗を掲げよとの米軍の命令でありましたが、私は白旗代わりの白い布など全然見当たらないので、汚いフンドシを白旗代わりに木の枝に吊して、銃を捨て刀も捨てて丸腰で投降しました。米軍は機関銃を我々に向けています。恐る恐る米軍に近づいて行きました。米兵がトラックに乗れと言うので、待っていた米軍のトラックに乗り込みました。それから日本人戦犯者収容所のテント村に、護送されたのであります。その途中、比島の村落を通過する時、米兵がトイレに行くことがありました。そんな時は、部落民が集まってきて、日本泥棒、日本泥棒と口々に叫びながら、我々に投石するやら棒で殴りかかるやら、又発砲さえする者もおりました。米兵がトイレから帰ってきてこの有様を見て、すぐピストルを部落民に構えてくれました。そこで自然と騒ぎは治まりました。米兵にとっては、敵であった我々を現地人から守ってくれて、全く神様のようにその時は思いました。その途端に私は親米派になってしまいました。

 収容所での生活あれこれ

 さて収容所での生活は、野原にテントを張り、寝起きをするのであります。ここでの生活は、食糧が少量なのは勿論でありましたが、山中でゲリラの頃の生活を思えば、雲泥の差がありました。一週間も経った頃、ミルクや牛肉が食事に出てびっくりしました。そこで捕虜達は心配し初めました。こんな美食が出るのはどうもおかしい。痩せた身体では物も用に立たぬため、充分に食事を与え、健康な身体にした上で、我々をアメリカに連れて行って奴隷にする気だな? いや南方戦争の後方付けに生涯使う考えだなど、一同集まって気をもんだものであります。食事は当時お粥が多かったものでありますが、隊長も将校も兵隊も、食後飯合の底まで舌で舐めて、洗う必要のないまでに、一滴の粥の粘りでも栄養にするよう気を配っていました。
 又時々監視に来る米兵が、吸い差しの煙草を捨てると、兵隊達はその捨てた煙草に飛びついて騒ぐのであります。拾った煙草は枯れ草などと混ぜて、新聞紙に巻いて吸うのです。
 私は少し英語が出来たので、収容所より米軍兵舎へ、使役に出るようになりました。ここで、ゼームスという学徒兵を知りました。彼は私と話していると、彼は「ユウは俺のおじさんによく似ている」と言って、親切にしてくれて、チューインガムや煙草などを度々くれました。米軍兵舎の使役は私にとって楽しみになりました。又兵舎の掃除をする時、一番に灰皿の方へ行きこれを掃除するのであります。目的は灰皿の中の煙草の吸い殻であります。これを拾って帰るのであります。収容所で戦友達は私の帰りを待っています。勿論、タバコの吸い殻を待っているのです。タバコの好きな連中は、昼飯とタバコ3本と交換しました。食事が少なく、常に空腹な彼等もタバコには目がありません。或日、ゼームスが、日本兵の持っている寄せ書きのしてある、武運長久の日の丸の旗が高値であるから欲しいと申します。戦友が持っている旗を、話して譲り受けてゼームスにやると、彼はタバコを10個くれました。この旗は彼に頼まれて度々持参しました。この旗は彼等が米国へ帰還する時、国への土産として、彼等には何よりの品でありました。私は、世話してやった戦友から10個の内3個をお礼に貰いました。タバコ7個あれば、50日分の昼食が余分に入るので、彼等は、空腹なしでやっていける勘定でした。
 又米軍は、昼食に百人分の食事を準備していても、急に外出することになり、50人分も余ることがあります。こんな時は、50人分のビフテキは全部捨ててしまいます。私は捨てられたビフテキをドラム缶の中から拾って、ズボンのポケットにいれて帰り、同じテントの戦友に分けてやりました。私は勿論その前に米軍兵舎で食べました。
 収容所での食事は、日本兵にとっては少量すぎました。そこで兵隊達は、収容所内にある食糧倉庫に侵入し、盗もうとして射殺された者も出ました。翌日収容所の掲示板には、彼の氏名が掲示されました。

 無事に帰国、家族との再会に感謝

 或る日、私はいつもの如く米軍兵舎に使役に行っていたところ、井上さんすぐ収容所へ帰れという連絡がありました。何事が起きたのかと、心配して飛んで帰りましたところ、米軍将校が、ユーは明日マニラ港を出航する船で日本に帰ることになっている。すぐマニラ港に行く準備をしなさいとの事でありました。
 私は半信半疑でありましたが、準備を終えて収容所を出発してマニラ港に向かいました。
 何でも、米兵舎で米軍の兵隊達に、評判が良かった様でありました。又戦争中のことを聞かれましたが、私は背中の傷を見せて、私は常に交戦では逃げていましたことを証拠として説明したものでした。私は収容所では先頭を切って、日の丸を船体に描いてある船に乗船し、帰国についたのであります。
 本当に日本へ帰れるのであろうか? アメリカへ行くのではあるまいかと、太陽を仰ぎ見ながらしきりに気を揉みました。この船の中も食糧は少なく、毎日を空腹で過ごしました。倉庫に入って玉葱を盗み食いしましたが、生の玉葱を齧ると目に一杯涙があふれます。何もつけないで空腹だから生齧り出来たことを未だに懐かしく思い出します。
 
 昭和20年12月25日、やっと大竹に着きました。
 ああ、アメリカでなくて良かった。奴隷にならなくて良かった。生還したのだと、この時ばかりは、生還の実感を心ゆくまで味わることが出来ました。まず大阪に着いたが、天理までの電車賃がありません。そこで近鉄の知人を頼って行きましたら、彼は切符や食事の世話までしてくれました。私はかつて本部の輸送係をしていましたので、その人は天理駅に連絡もしてくれました。翌26日、天理に着きました。天理駅長からの連絡で信徒係の中西君が一人で駅に迎えに来てくれました。家族の者は誰一人来ていないので、内心心配してましたが、岡山の里の八日市に全員疎開していると聞き安心しました。すぐに八日市へ会いに行きました。
 皆元気でしたが、2才の武夫だけが、栄養失調で痩せ衰えて、綾子の背中に負われていてその姿は、まるで干鱈の様で、胸迫るものがありました。
 多くの戦友は戦死し餓死しました。私は武運あり、又親神様の数々の御守護に守られて生還し、今日まで長生き出来て、誠に有難いことと感謝しております。
 食べ物なく栄養失調となり、雨に濡れて敵を警戒しながら、比島の山中をゲリラとなって彷徨していた当時を思い浮かべます。用事で疲れた時など砲火を浴び、飛行機に追われている当時を夢見る事もあります。私の今日の生活は実に勿体ない事と思います。
 最後に、私の出征中、戦時下の食糧難の時に、か弱き身で4人の子供を、苦心しながら育ててくれた妻に、ご苦労であったと、心からなるねぎらいと共に、深甚なる感謝の意を捧げるものであります。
 雨あられと飛んでくる敵の砲火を受けながら、実行する再三の敵前上陸にも、又南方島々の戡定作戦にも、命長らえて生還することができたのでありますが、もし戦死していたら、そしてもし生還し得なかったら、現在、井上家家族がどうなっていたかを思う時、唯ただ神恩のあまねきに感謝を捧げるのみであります。
 
            昭和59年9月10日               井上 護国  (2009.12.12 U P )


 


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