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          市民の証言集>リスト

*証言者の年齢は、カッコ内の西暦年数から算出することができます。但し、すでに他界された方も含まれています。
*個々の証言ページのタイトルに表示した年齢は、取材した時点での年齢です。


明治40年(1907)生(平成9年90才没)
大東亜戦争従軍記
=フィリピン山中の彷徨と奇蹟の生還=


明治42年(1909)生
戦中の権力に抗して検挙・投獄された98歳の人生と信念

明治44年(1911)年生
95歳まで生き長らえた秘密 
2度の召集を受け中国の最前線で戦った元兵士の証言

大正元年(1912)生
星1つの軍隊生活あれこれ
 
大正3年(1914)生才)
『しべりやの捕虜記』抄録 
満州事変から4度応召し従軍した99歳の元分隊長 

大正4年(1915)生
親が苦労した姿を娘が見ていたから・・・

<歌集>ラバウル戦 追憶
 
  
二度の中国出征を顧みて


大正5年(1916)生
シベリア抑留の苦難を耐え忍んで 日本再建のため帰国した命の限り
 


大正6年(1917)生
パラオ島沖の海を漂流、生死のはざまを越えて生還した従兄の物語

大正7年(1918)生
数奇な運命の星の下で=陸軍中野学校から特高へ 
日赤看護婦として広島で被爆者を救護した日
二度の召集を受けて中国とビルマの最前線へ 

大正8年(1919)生 
生きる力〜太平洋戦争 サイパン島での戦い〜
 


大正9年(1920)生
日本が必ず勝つと騙されていた
私は日本の降伏はなく、大元帥以下一億総玉砕を信じていた 
シベリア抑留記 
ニューギニア戦線を回顧する(追加)生駒市より3人の遺族を迎えて

空母「瑞鶴」と運命を共にした海軍兵士の回想 

大正10年(1921)生
 
バンコック郊外のベッドの上で
真っ白なパンの味
弟は軍隊を志願しなかったらよかったのに・・・
フィリピンの山や谷をさまよった うら若いタイピスト
日本は必ず戦争に敗れると予感していた海軍砲科兵の回想 
シベリア抑留を体験した下士官の人生観 


大正11年(1922)生
忘れられない戦争の恐ろしさと惨めさ
シベリヤ抑留(捕虜)の体験=「心に残るもの」「捕虜生活三年、断片記」
スマトラで終戦を迎えた4年間の軍隊生活  
空襲と機銃掃射を逃れて命拾いした日
 

大正12年(1923)生
婚約者が出征して戦死してしまった
極寒のシベリアに抑留された3年間
済州島で迎えた終戦

乗る軍艦のない海軍で決死の覚悟をした一等水兵の思い出
銃後の青春日記   
水島の空爆を思い起こして
広島の原爆とそのころ  

兄と戦争 
  
上官の肩章を取り外した痛快上等兵   
防疫給水部の任務に就いた衛生兵
戦争末期、予科練の部隊に私は勤めていた 
川柳に託した戦争と当時の回顧録
中国戦線で負傷し、敵地を歩いて帰国するまで
見習士官(少尉)としてのソ連抑留体験 


大正13年(1924)生
乳呑み児を背に満州から帰国するまで 
目的地に上陸できず後戻りした船舶工兵の思い出 

忘れられないあの日

14才で軍隊へ、戦後2年間 外蒙古に抑留された軍隊生活の実録  
人間魚雷(回天)で出撃する直前に戦争が終わった  
挺身隊で弾丸を磨き飛行服を縫った日々  
ビルマの大河をイカダで渡った捨て身の作戦  
重爆「飛龍」を操縦して大空へ出撃

大正14年(1925)生
暴力で締めつけた日本軍の実態 
「鉄砲は空へ向かって撃て」と母は言った  
4人の兄たちが戦場へ行ったあと、家には女だけが残った   
20才の私は中国大陸の真冬の荒野を走る無蓋貨車に乗せられた 
戦場となった海で徴用船と運命を共にした思い出

大阪大空襲の夜が開けて


大正15年(1926)生
機銃掃射を受けて山の上を逃げ回った26)生(78才)
陸軍歩兵二等兵の悲哀
特攻特攻隊員の虚脱感から立ち直って 
死と隣り合わせで看護を続けた日々 
15才で青少年義勇軍に志願して奉天からシベリアへ 
航空廠に徴用された2年間
駆潜艇の通信兵として任務を全うした体験
戦争一色の時代とシベリア抑留生活4年間の回想
毎夜の空襲の恐怖と飢えをしのいだ青春時代の記憶 New 


昭和元年(1926)生
士官学校での或る体験

昭和2年(1927)
北朝鮮からシベリアへ抑留された2年間の人間ドラマ 
内地で1ヵ月半終戦を知らされなかった部隊 
地獄のような大阪大空襲の夜
 

昭和3年(1928)生
2度目の空襲で焼け出された私の思い 
15才で海軍通信学校を志願して 
食糧難で苦労した戦中戦後
   
南方で戦死した3人の兄は遺骨も帰ってこなかった
軍属(建築技術者)として体験した中国戦線の1年 
少年船員の戦争体験
少年通信兵の戦争体験 New
私は原子爆弾を積んだ飛行機を見た New



昭和4年(1929)生
自由と放任は別
戦後、教育がガラリと変わった
「半歩開いて歯を食いしばれ
洞穴内の工場で必死に戦闘機のエンジンを製造した少年時代 
家が神戸の山手にあったので戦災を免れた
 

昭和5年(1930)生
<特別寄稿>枯れない涙(被爆体験記)
原爆投下の翌日に見た広島の地獄図
女子挺身隊の思い出

「原爆投下の翌日に見た広島の地獄図」 


 昭和6年(1931)生
田んぼにモーニングを着た案山子が立っていた
銃後の守り 
<連載手記>私は陸軍幼年学校の生徒だった
(その1)なぜあのとき敵機は……? 
 
(その2)囲いこもうと誘いの手が……
 (その3)軍歌とともに軍国少年は育った
(その4)ジリ貧ドカ貧の日本と当時の幼年学校   
(その5)終戦前後のできごと(完結)
被爆した私は医師から20代までの命と宣告された
私の戦時体験 New

昭和7年(1932)生
オトナたちの変身
2才の子どもを残して・・・
悲しい介護体験
内蒙古からの脱出  
戦争中の小学校から女学校2年生まで 

昭和8年(1933)生
戦争の谷間で味わった受難の日々

「水を下さい」(原爆投下の日、広島で私は見た・聞いた)
敗戦後の奉天で、少年の私は恐怖と悲惨に襲われた
奉天で体験した戦争の悲惨な結末 
終戦と同時に逆転した家族の運命 


昭和9年(1934)生
母と2人で防空壕へ入るのが嬉しかった小学生の私 
終戦で教科書の誤りが露呈した軍国主義教育の実態 
小学校4年生から3年間の疎開生活 


昭和10年(1935)生
父 の 涙
旧満州から10才で帰国した私の日中友好歴
紙芝居・カッちゃんの戦争
高齢になって益々ひろがる交流の輪 New 

昭和11年(1936)生
初めて観たアメリカ兵   
遺族会代表でフィリピン慰霊の旅へ
小学校で「戦争はイヤ」と口にしたら・・・   
大空襲の夜 火の海になった徳島市の記憶 

昭和12年(1937)生
旧日本軍の犯罪
 
あの日、あの時、その後 
恐怖の体験、九死に一生の奇跡 
学童疎開と父の戦死母の遺書/戦争の語り部として小学生へ
戦死した父が刻銘されている沖縄「平和の礎」を訪ねて  
北朝鮮からの引揚げは子どもの私にとって戦争だった
戦死した父の慰霊に テニアン島へ26回目の旅 
「父の戦死と学童疎開」

初めて人前で語る長崎の被爆体験 


昭和14年(1939}生
戦争中に遭遇した阪神大震災のような空襲

思い出の満州・新京(現・長春)

昭和15年(1940)生
戦争が終わった時、5才の私は満州にいた  


[おことわり]
*掲載後、約1ヵ月以内の証言には New マークをつけています。
*掲載は高齢者順とし、同年生まれの枠内では掲載順になっています。
*個々の証言ページのタイトルに表示した年齢は、取材した時点での年齢です。
*高齢者の方々を対象として、昭和20年前後のかけがえのない 体験を語って頂き、
 その証言をまとめたものですが、中には<手記>や著書を掲載したものも含まれています。
*60年前の体験を中心とした証言ですので、その後の経歴は省略いたします。
*事情により証言者の実名を非公開とし、ご本人の写真も希望により非公開とする場合があります。

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