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辛亥革命100周年=孫文と日本の支援者=

 
  孫文(1866〜1925)は「辛亥革命」を成功に導き、中国でも台湾でも「国父」と呼ばれて尊敬されている。辛亥革命とは、1911年(干支が「辛亥」に当たる年)から翌年にかけて、中国で起こった民主主義革命で、清朝の打倒と共和制の確立が目的であった。その結果、古代より続いた君主制が廃止され、共和制国家の中華民国が成立した。

 三民主義(さんみんしゅぎ)は、1906年に孫文が発表した中国革命の基本理論であり、また後にまとめられて理論書として出版された。これは中国国民党の基本綱領として採用され中華民国憲法にその趣旨が記載されている。
 三民主義は三つの主義から成っている。つまり、民族(中華の回復)・民権(民国の建立)・民生(土地の平等)を意味する。中でも民族主義は、満州族である王朝を打倒して民族の独立をめざし、第一次国共合作中国国民党中国共産党の間に結ばれた協力関係のこと)を経て、欧米列強の帝国主義による半植民地状態からの脱出と、漢民族少数民族の平等を意味する五族共和へと発展を目的としていた。
 孫文は、欧米の民主主義以上の理想的な制度を作ろうとしたが、他方では少数民族の問題をあまり真剣に感じていない面もあった。また中国人が政治的に成熟するまでは、治安を安定させるための軍政や一党独裁を認めている。また土地所有を認める点で現実的であるとともに、ロシア革命を評価し、共産党との共闘も辞さなかった。

 ともあれ、辛亥革命が成功した陰には、物心両面にわたる日本人の多大な援助があったことは、あまり知られていない。中でも、純粋に孫文の人間性に惹かれ、アジア全体の独立と発展を望んでいた孫文の理想に共感して、無欲で援助した日本人が実在した。宮崎滔天、梅屋庄吉、山田純三郎らであった。
 彼らには、日本と中国が手を携えて、欧米列強に踏みにじられてきたアジアの新時代を築きたいという大きな夢があった。その夢に一生を捧げ、道半ばにして他界した。

 ところが彼らの死後、日中関係は暗黒時代に突入し、不幸な戦争を経たのち、国交は回復したものの、今も親密とは言えず、さまざまな問題を抱えている。
 また中国内においても、太平洋戦争終結後、国民党(蒋介石総統)と共産党(毛沢東書記)の協力関係が破綻し、内戦に敗れた蒋介石総統は台湾に逃れて政権を保つことになった。
 孫文および援助を惜しまなかった日本人たちは、天国からこれらの結果を悲しみながら、平和に共存することを願っているに違いない。


盟約ニテ成セル梅屋庄吉と孫文
」の表紙(単行本読売新聞西部本社刊、 2002/10)

 ここでは、孫文のスポンサーとして黒子に徹した日本人として、梅屋庄吉および宮崎滔天の行跡を紹介したい。
 梅屋庄吉は長崎出身で、活動写真の草創期に映画会社を設立し、それによって得た莫大な富を、孫文がめざす中国革命実現のために惜しみなくつぎ込んだ。その額は1兆円とも2兆円とも言われる。その一方で、孫文の日本亡命中に自宅の離れを隠れ家として提供したり、夫人となった宋慶齢との間を取りもち、自宅で披露宴を催している。
 庄吉は1868年、明治元年に生まれた。家は長崎市にあった「梅屋商店」で、日中貿易の草分けであると共に精米業も営んでいた。生まれつき義侠心に富み、海外に心を向けていた彼は、14才のとき、店の持ち船に忍び込んで上海に渡ってしまう。
 上海に着くと、至る所に「中国人は立ち入るべからず」という看板が立っている。欧米列強によって租界がつくられ、中国人は屈辱的な扱いを強いられていた。それを知った庄吉は持ち前の義侠心を刺激され、同じアジアの兄弟として欧米の横暴は許せない、気持ちに駆られた。

 その後、庄吉は2度まで商売に失敗して日本に居づらくなり、東南アジア各国を旅した後、中国で写真館を開く。1895年1月、その写真館を訪ねて来た紳士こそは孫文であった。二人は意気投合して、中国を植民地から救い出すべき夢を熱っぽく語り合った。庄吉が孫文に約束した「君は兵を挙げたまえ。我は財を挙げて支援す」という一言が今も伝えられている。
 庄吉は事業家としての能力を発揮して映画興行に乗り出した。一方、孫文は1906〜1911年の間に9回も武装蜂起して失敗を重ねたが、ついに10月に至って革命の機運は各地に拡大し、孫文は中華民国臨時大統領に就任した。その際に庄吉が革命の志士たちを援助した総額は現在の11億円であった記録が残っている。

 この第一革命の成功によって、秦の始皇帝以来2千年以上続いた専制君主制にピリオドが打たれ、共和制国家が誕生した。が、袁世凱の裏切りによって孫文一派を追い出そうとした第二革命に敗れ、日本に亡命を余儀なくされた。

 梅屋庄吉の取りなしで宋慶齢と結婚した孫文は、3年後に中国に戻り、中国統一のために奔走した。1924年、孫文は旅の途中に神戸に立ち寄って、有名な演説を行なった。当時、日本が西欧の後を追って帝国主義の色合いを濃くし、韓国を併合したり、中国に21ヵ条を突きつけたりして、アジアに背を向ける危険を指摘した内容であった。その一節に、
「今後日本が世界の文化に対し、西洋覇道の犬となるか、東洋王道の干城となるか、それは日本国民の慎重に考慮すべきことであります」と。
 しかし、これが最後の訪日となり、翌25年3月、58才の若さで志半ばにして永眠した。
 
 その後、日本は満州事変(1931年)により中国を敵に回し、ついに日中戦争に拡大してゆくことになる。それでも梅屋庄吉は、中国の友人としての態度を変えず、陰の黒子に徹して日本の陸軍参謀本部と中国側のパイプ役になり、中国要人とのルートを通して和平を図ろうとした。

 一方、中国に対しては、孫文の偉大さ、三民主義の素晴らしさ、孫文先生を尊敬し援助した日本人がいることを知らそうとして、銅像の建立に着手した。そして最後に、1934年11月、広田弘毅外相と面会するために出かける途中の駅で倒れ、息を引き取った。享年65才であった。

 孫文と梅屋庄吉の関係は、金銭的な支援に止まるものではなかった。庄吉は一切の見返りを求めず、恩義を売るつもりはなく、「東洋の平和」「人類の平等」という共通の夢に向かって命を賭した同志の固い友情と結束であった。
 それを誰よりも知悉しているのは宋慶齢夫人である。庄吉の死から44年後に、庄吉の娘・千世子夫妻が宋慶齢夫人の招きで中国を訪れた後に届いた手紙に、
「二人の貴重な友情は時間や情勢によって消えるものでは決してなく、何事によっても、これを消せるものではありません」と書かれていた。
 梅屋庄吉の死から77年、辛亥革命100周年に当たって脚光を浴びることになった孫文と庄吉であるが、昨年の上海万博では、庄吉の孫・小坂文乃さんの主催で「孫文と梅屋庄吉展」が開かれ、約1週間の開催期間に2万人の来場者を記録した。

 上記の小坂文乃さん(43才、日比谷松本楼常務)は、尖閣諸島沖の漁船衝突事件など日中関係が冷え込んだことについての毎日新聞の質問に次のように答えている。
「2人の目標は今も達成されていません。これは100年が過ぎてなお私たちが掲げなければならない目標であり、100年も前の歴史に光が当たる理由だと思います。反日デモの映像などを見ると梅屋の子孫として胸が痛みます。過去の戦争は動かぬ歴史の事実です。でもそれだけでしょうか。孫文と梅屋という日中の2人がアジアの未来のため助け合ったというのもまた、動かぬ歴史の事実なのです」

 次に、中国の辛亥革命に関わったもう一人の日本人・宮崎滔天(1871〜1922)について紹介したい。講談社発行の雑誌「セオリー」(2011/No.2)には、「宮崎滔天は私欲なき大男」のタイトルの横に「理想は実行すべきものー孫文の精神的支柱」と付記されている。
 宮崎滔天は、11人兄弟の末っ子として熊本県の郷士の家に生まれ、身長180センチを越す大男だった。父・長蔵は武芸者で、反体制・博愛の精神の持ち主で、「よいか、宮崎家の者は今後一生、官の飯を食ってはならんぞ」と言い聞かせた。母サキも「畳の上で死ぬのは男子一生の恥辱」と諭すほどであった。

 革命家・宮崎滔天は、33歳のとき『三十三年の夢』と題する半生記を出版した。翌年には中国語版が出版され、辛亥革命の原動力になったと認められている。その中で滔天は、孫文の思想と人物に共鳴し絶賛している。孫文の説く共和制は、単なる既成の概念を超えていた。人民を愚弄し、搾取する政策を続けてきた清朝政府を打倒し、欧米列強に抵抗することによって、中国4億の民衆のみならず東洋の屈辱を晴らし、ひいては全世界の人道を回復することを理想としていた。孫文の高い識見と高邁な抱負に傾倒した滔天の著書は、中国人留学生たちに大きな影響を及ぼし、革命運動を組織化する核になったといわれている。

 滔天の兄・弥蔵は29歳の若さで他界したが、中国の革命に関心が深く、革命家たちとも接触していた。滔天が後に孫文と出会ったのも、兄の遺言に従った結果であった。
 また妻・ツチは、熊本県小天(おあま)の豪農・前田家のお嬢さんで、滔天と恋仲になり、親の反対を押し切って結婚した。夫が家に生活費を全く入れないため、職業を転々として苦労したが、革命運動を陰で支えた賢夫人であった。前田家は明治の文豪・夏目漱石との縁もあり、名作『草枕』のモデルにもなっている。

 百年前の1911年、辛亥革命が成功した後の滔天は、無私無欲の態度を変えず、政治とは距離を置くことになった。その後、息子の龍介と白蓮の不倫事件が起こった時も「好きにやれ。心中したら骨は拾ってやる」と寛大だった。その結果、孫の香織が生まれた年に、入れ替わるようにして、享年53歳で逝去した。
 初めに紹介した「理想は実行すべきものなり、実行すべからざるは夢想なり」との名言を地で行った生涯であった。

 以上、参考文献として「セオリー」(2011.No.2/講談社刊)より「梅屋庄吉=積善家ー孫文を陰で支えた快男児」「宮崎滔天は私欲なき大男」および毎日新聞「辛亥革命特集」(2011.1.31付6〜7面)から要約・抜粋しましたことをおことわりします。
 また、熊本県天木町にある「草枕交流館」から『草枕の里を彩った人々』と題する立派な資料の送呈を受けました。保坂正康『孫文の辛亥革命を助けた日本人』(ちくま文庫)の他にも伝記や記録が出版されています。 (Amazonで検索)。
 
                                        (文責=植田義弘)


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