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 <資 料>

 <戦争体験を聞く会>における発表記録(その3)
平成22年8月8日午後1時
30分〜4時/於:奈良県葛城市中央公民館
(主催)同実行委員会/(後援)葛城市教育委員会
 

   

  枝吉 博史 さん 昭和9年生(76歳)
  終戦で教科書の誤りが露呈した軍国主義教育の実態

 戦争体験と言っても私の場合は最も平凡で、それも7歳から11歳までの戦争体験ですから、おこがましさを感じます。戦時中、少年は小国民と呼ばれて、どのような教育を受け、どんな思いで過ごしたかを思い出して話したいと思います。

 私が大阪で2年保育の幼稚園を終えた時、国民学校令が発布されて、小学校が国民学校に変りました。そしていよいよ戦時体制になり、1年生の国語は、それまでは「サイタサイタ サクラガ サイタ」で始まっていたのですが、「ヘイタイサン ススメ ススメ」になり、唱歌も「ヘイタイサンノオカゲデス」と歌い、学校へ行けるのも、ご飯を食べられるのも、勉強できるのも、すべては兵隊さんのおかげと洗脳されたのです。
 1年生になって最初の先生の話が、今でも頭に残っています。「昔々神様の子孫である天皇陛下は神様と同じで、兵隊さんは天皇陛下のために働く人です。これからは先生の言うことをよく聞き、立派な兵隊さんになれるよう勉強しましょう」──つまり「教育勅語」による軍国主義教育の始まりでした。

 その年に東条英機が軍部で政権を握り、12月8日に太平洋戦争に突入しました。1年生の時に真珠湾奇襲の成功と、シンガポール(当時は昭南島と呼んでいた)占領でお祭り気分でした。
 2年生からは父の転勤で千葉県の市川市の国民学校へ転校しました。前の学校より規則が厳しく、ズボンのポケットは手や物を入れないように縫いつけ、布製のベルトに手拭を下げ、真冬でも靴下・手袋は禁止、そのため皆の手足はシモヤケで赤くなり、中にはアカギレが崩れて包帯している姿も見られました。それでも兵隊さんのことを思って耐え抜いて、靴下・手袋も許さませんでした。

 軍国主義国家の国民儀礼であった国旗掲揚、国歌斉唱、宮城遥拝と、登校時の奉安殿拝礼は毎日の日課でした。(註:奉安殿の中には天皇陛下の写真と教育勅語が収められていました)毎月1日と15日には、地域ごとにつくられた子供隣組で神社に集まり、戦勝祈願とと清掃を行いました。
 学校では3年生から教育勅語の暗唱、意味を考えずに丸暗記するだけでした。4年生からは軍事教練が始まり、ひたすら整然と分列行進の連続で、半ズボンの細い足にゲートルを巻いて、キツイと足がシビレます。うまくいかないと容赦なく叱声と拳(こぶし)が飛んできて、毎日がユーウツな学校生活でした。また遠足は今とは大違いで、片道6キロほどの神社へ戦勝祈願の隊列を組んで軍歌を歌いながら、ご飯と梅干1コの日の丸弁当と水筒だけ持って往復しました。

 当時は教育勅語の意味も深く考えずに暗唱していましたが、教育勅語は天皇陛下と国に対する忠君愛国、滅私奉公を、「父母に孝に、夫婦相和し、朋友相信し・・・」という徳目のオブラートに包んで表現したもので、子供の人格的発達を国家によって都合のよい方向へねじ曲げ、国家権力の道具とするものでした。
 教育勅語体制の下での国家主義的な軍国教育こそは、侵略戦争を続ける国にしてしまったと考えます。その間にも、勝ち戦の大本営発表にもかかわらず、日本海軍が誇った連合艦隊は消えてなくなり、占領していた南の島々は次々と奪還されていって、本土への空襲が本格化しました。

 1945年には戦局が逼迫し、本土空襲が始まる中で、父が海軍の軍需工場管理者を対象とした戦勝祈願冬期錬成会に参加してから体調を崩して療養していましたが、肺炎で死亡。心細い気持ちで、空襲に恐怖を感じていた矢先に、3月10日未明の東京大空襲を受けました。
 あの日は快晴で、前日は警戒警報が出て学校は午前中で終り、帰り道でB29がきれいな飛行機雲を引いて悠々と飛んで行くのを見ました。夕方に警報が解除されると同時に空襲警報が出て、ラジオからB29の大編隊が伊豆方面から東京に向かいつつあり、と放送がありました。
 それから30分ほど経った頃、東京方面の空が真っ赤に染まり、間もなく機体を真っ赤に染めたB29が4機5機と群れをなして飛んで来るのを見て防空壕に入りました。しばらくすると、爆弾が空気を切り裂くヒューという音、ザーという音が聞こえた瞬間、猛烈な爆発音と震動を感じ、防空壕の天井や壁から砂が落ちてきました。これが何回か繰り返され、高射砲弾の破片がカラカラと屋根瓦を滑り落ちていく音も聞こえました。こうして防空壕の中で恐怖に震えて一夜を過ごしました。
 夜が明けて警戒警報が解除され外へ出ますと、家から100m_ほど離れた畠に直径20m_深さ10m_ほどの穴が開き、そこからかすかに煙が上がり、周辺には巨大な穴が30数カ所もあり、防空壕を直撃したものもあったと聞きました。東京を空襲した後、機体を軽くするため残った爆弾を捨てて行ったそうです。

 この東京大空襲は、アメリカが戦争を早く終わらせるために、ルメイ少将が無差別爆撃部隊の司令官に任命されて、周到に計画されたものでした。日本家屋を効率的に焼き尽くすために、帝国ホテルの設計で有名な建築家ライトの弟子で、日本にも在住し日本建築を学んだレーモンドを使って、ユタ砂漠に日本家屋の街並を精密に造らせ、武器製造の技術者と共に焼夷弾を開発し、その実験を兼ねていたと聞きました。
 その後、大阪、名古屋をはじめ各都市の爆撃に焼夷弾が使われ、無差別に焼き払われたのです。旧式の武器で立ち打ち出来なかったのは当たり前でした。
 東京大空襲では一晩で死者8万人を超え、5万人の負傷者が出たそうです。
 戦後、日本の都市焼失の張本人・ルメイに、勲一等旭日大授章のおまけまでつけた日本政府の卑屈さに唖然としました。(註:授章の理由は、戦後の航空自衛隊再建に功績があったとか。外国でも日本政府の態度が物笑いになったそうです)


 空襲から数日後、疎開勧告に応じて、私は兵庫県生野町へ疎開しました。途中、空襲警報や乗換えで3日間の旅でした。この町には鉱山があったので、艦載機による空爆や機銃掃射があり、帰宅途中にグラマンから銃撃を受けました。機上でパイロットが笑っているように見えて、遊び感覚で撃っているように感じましたが、こちらは必死に田んぼにとび込みました。
 学校では、校庭を畠にしてカボチャやサツマイモを育てたり、農家の手伝いなどで授業のない状態のまま8月15日の終戦を迎えました。その日のラジオは正午に重大放送があると大本営から発表があり、天皇陛下の詔書が放送されましたが、ラジオは雑音が多く、はっきり天皇の声が聞き取れませんでしたが、オトナの様子から戦争に負けたことがわかりました。


 終戦後、初めての登校日の小学校は驚きの連続でした。国家儀礼もラジオ体操もなく、奉安殿にはゴザが掛けられ、校長先生のヒゲがなくなり、代わりに進駐軍からの通達が絶対とされたのです。
 9月に授業が再開されると、今までの教科書に間違いがあったという理由で、修身の教科書は焼却、国語、理科、算数の教科書は間違いの個所を墨で塗り潰すのが最初の授業でした。教科書は殆どの頁が真っ黒で無惨なものになり、こんなに間違ったことを教えられてきたのかと、唖然としました。
 新聞紙2枚ほどの両面に教科が印刷されたものが配られ、切り揃えて綴じるように指示され、これが新しい教科書で、今までと内容も全く違い、何を信じてよいのか不満でしたが、先生から十分な説明はありませんでした。


 この価値観の逆転を経験してから、少年ながら私は、国家政府の言うことを頭から信用してはならないと思い知らされました。以後どんな思想や政治にしても、自分なりに調べ、観察してからでないと納得できなくなったのです。今でも、政府の報道をはじめ何事も、まず疑い、すぐには信用しない習性につながっています。
 教育基本法が改悪され、教育勅語の復活が画策されることがあっても、もう二度と戦争をしてはならないと強く思います。
(最後に、瀬田小学校の学級日誌が公表されて「岩波ジュニア新書」の1冊として出版されていますので、参考に一読されることをおすすめします)

   

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