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 <資 料>

 <戦争体験を聞く会>における発表記録(その1)
平成22年8月8日午後1時
30分〜4時/於:奈良県葛城市中央公民館
(主催)同実行委員会/(後援)葛城市教育委員会
 

   

    堀内 正隆 さん 大正4年生(94歳)

   二度の中国出征を顧みて


 毎日こうして四世代の家族と同居して暮しております。若い者と一緒に暮しているのが私の長命の元ではないかと思います。
 ご承知のように、昭和4年頃から満州出兵とか、ボツボツいろんないざこざが起きていました。昭和10年には支那事変(日中戦争)が始まりました。中国へ日本が乗り込んで戦争を仕掛けたのです。
 他人事ではなく、私が22歳の昭和13年には第1回目の召集令状が来て上海へ上陸。その時は1年4ヵ月で除隊となり帰国できました。
 2回目は昭和18年(28歳)、太平洋戦争が昭和16年から始まって、もうボツボツ日本もあかんのかいなあ、という時になって召集がありました。

 第1回目の召集は、本当にお祭り騒ぎのような感じで、村中の親戚あるいは友達、役場などが皆面倒見てくれて壮行会をして下さいました。
 ところが第2回目の昭和18年になりますと、そんなことは全然関係なしに、何月何日どこどこの部隊へ来て下さい、遅れないように頼みます、というような役場の通知で、負け戦に行くような感じでした。

 雨が降っても風が吹いても殺し合いするのが戦場です。隣にいた戦友が一発の銃弾で傷つく、それを手当てしようとしても突撃の命令が出たら直ぐに前進せにゃならん。後で戻って死体を探して焼いて、その遺骨を抱いて移動します。それは最初に出征した時だけで、
2回目は戦友が死んでも放っておいてドンドン進んで行きました。戦争が様変わりして余裕はありませんでした。上官の命令で民家を焼いたり、食料を挑発したりしたこともありました。軍隊というのはたいへん厳しく、命令に絶対服従でした。

 昭和20年の5月、部隊に移動命令が出て、秘密のうちに上海へ移動しました。上海では5月から終戦の8月まで何もしないで暮していました。南方戦線行きの輸送船を待っていたのですが、とうとう船が来なかったので、無事に帰って来れたのです。
 6月頃から上海の中国人達は、もうじきあんたらは家へ帰れるで、帰ったら親兄弟、家内、子供らと一緒に暮らせるからいいなあ、と話していました。すでに上海の人達は日本が負けることを知っていました。ところが、戦争に負けるかどうか、まだまだ続くのではないか、満州には大部隊の日本軍が駐留している、とにかく死んだらあかん、といろいろ悩んだ日もありました。

 軍隊では自分の自由にはなりません。毎日々々いつ帰れるのか、早く戦争が終わればいいのになあ、早く帰りたいなあと、そんな話を戦友としているうちに8月15日が来たのですが、北京の原隊へ帰る道中、南京で初めて司令官から日本は負けた、これから天皇陛下の終戦詔書を読むから聞いてくれ、と言うことで、その時、兵隊達は無言のまま涙を流しました。これで我々は南京かどこかで殺されると思いました。

 それから列車で北京まで行く途中、南京駅を出て貨物列車の中でうとうとしている時、突然大きな爆発音とともに急停車しました。午前2時半頃、何事かと耳を澄ますと、列車の進行方向の右側から機関銃や小銃の弾が車輪目当てに飛んできたので、反対側から外に出て待機。
 約20分位で急に発射音が止み静まりかえった。直ぐ歩哨を立て警戒に入る。夜明けを待ち太陽が昇る頃、右前方に2, 30戸位の部落が見えました。敵はその部落から発射していたと思いました。しばらくして工兵隊が来て線路の修理を終え、午後3時頃再び列車が発車。

 2日目の早朝、2回目の鉄道爆破があり、1回目と同じように機関車と石炭車だけが前に停まり、3輌、4輌が横倒しとなっていました。軍馬多数死傷。
 工兵隊の修理を終え、前回同様無事発車。鉄道各駅、即ち主要駅は八路軍により警備。南京を出て4日目に天津駅で下車命令が出ました。

 幸いにして戦争に負けても中国の軍隊や市民は親切でした。戦っている間は敵味方でいろいろあったのですが、一旦終わって中国も平和になるので、たいへん親切にしてもらって、それから列車で北京まで行く途中、天津まで来て、もうあと少しで北京に着くという時に、天津で武装解除して、それから1年あまり捕虜の生活を送りました。
 と言っても中国側はなかなか紳士的に我々の身の安全を守ってくれました。もちろん帰国するまでに毎日いろんな使役に出ましたが、これは負けたのだから仕方ない。手に職のある者はいいが、私のように何も知らん者は本当に苦労したものです。

 とにかく割合に早く、翌21年4月に帰国することができました。家へ帰ると、子どもが3つになっていて、「ヨソノオッチャントイッショニネルノイラン、アッチヘイッテモロテ」と言われたものです。
 しばらくしてから、役場へ来てくれと連絡があったので、何しますねんと聞いたら、食料不足で難儀なので、これから食料増産指導員として勤めてくれと言われて、それがきっかけで、それから80歳まで農協の役員を勤めることになりました。

(追記)
 朝日新聞8/6付で堀内さんの紹介記事が掲載されています。その記事によれば、兵隊時代につけていたメモをもとに『私の戦中日記』を2007年に自費出版されています。
 その中には中国での日本軍の理不尽な行動も隠さず記録されている部分もあります。 戦場では上官の命令は絶対服従であったとはいえ、二度と同じ過ちを繰り返してはならない、と堀内さんは強調しています。

   

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