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アメリカ日系一世・二世の証言集

このたび戦後60年を振り返り、アメリカに在住する日系一世・二世の高齢者が、四世の在米ジャーナリストに重い口を開いて語った証言が手元に届きました。
何はともあれ、まず<アメリカからのたより>をお読み頂き、次に戦争を語りつぐ証言集に進んで下さい。

 戦後60年ーアメリカからのたより

戦争を体験してきた日本人の高齢者にとって、日系人、特に二世の印象は、自分達と同じ顔、同じ皮膚の色をしながらも、米軍占領時代の日本に進駐して横柄な振る舞いで自分達を苛立たせた存在だったと、振り返る人が少なくない。

だが彼ら二世こそが父なる国日本と、母なる国アメリカの、二つの母国の狭間で苦闘し、日米開戦勃発で最も苦悩した人々であった。

パールハーバー奇襲後、直ちにアメリカ西海岸一帯を中心として11万7千人の日系人、子供から老人に至るまで「敵性外国人」として強制収容所に隔離された。その現実は、移民国家アメリカの理想を打ち崩すほどの激しい人種的差別に裏づけられていた。
 
長年の苦労をへて、ようやく手にした生活の安定や財産を没収され、有刺鉄線に囲まれた収容所の中で、若き二世たちは母国アメリカに対する忠誠心を試され、そのためのテストまで受けなければならなかった。
アメリカで生まれ育ち、アメリカ人であるはずの彼らが、母国への忠誠心を強いられた屈辱感は察してあまりある。

アメリカ人として幼稚園の頃から星条旗を前に母国への忠誠を誓って育った彼らに対する「忠誠心」へのテストは、彼らの心を次第に苦悩の谷底へと突き落としていったのである。

彼らは父や母、あるいは弟や妹を、一刻も早く砂漠の中に建った収容所から救い出すために志願兵となり、フロント前線の戦地に赴いていかねばならなかった。
アメリカ人である日系二世が、アメリカ国民であることの証しに命を差し出さねばならなかった悲惨な事実は、今なお多くの日系人達に影を落としている。

 おわりに

日米開戦によって日系二世人達がなめた凄惨な苦悩は、有刺鉄線の中に彼らを閉じ込め「母国」アメリカが彼らを裏切った事実である。

そして「ジャップはジャップ」、つまり、アメリカ人といえど日本人に変わりはないという当時のプロパガンダを、多くのアメリカ市民が信じたことも彼らを苦しめた。
いわれなき、理不尽な差別意識に対する怒り、そして無力感。

そうした彼らの心情を、遅まきながらも戦後60年を機に聞き取ることが出来たのは幸運であった。

彼らもどんどん老いていく。仲間の多くが鬼籍に入った。
晩年を静かに送る彼らの表情は穏やかで、この上なく、優しい。

1976年 日系市民協会、戦時強制収容の不当性および損害賠償に関する討議始まる。

1980年 アメリカ議会「日系人の戦時収容に関する委員会」設立。

1981年 全米各地で公聴会開催。

1983年 「収容は不当であった」と結論づける報告書を「同委員会」によって公表される。