日蓮大聖人の御生涯

鎌倉期

立正安国論 (第一の国諌)
 大聖人は、建長五年(1253)の八月頃、鎌倉・名超の松葉ケ谷に小さな草庵を構え、鎌倉の辻々に立って「念仏無間」「禅天魔」と破邪顕正の弘教をはじめられました。これに対し人々は誹謗や悪口をもって妨害しましたが、そのようななかからも日昭・日朗が弟子となり、富木常忍・四条金吾等の多くの人が信徒となりました。

この鎌倉時代中期のの建長・康元・正嘉の頃は、大火・暴風雨・大地震や疫病の流行等、いまだかってない異常な出来事や悲惨な災害が続いていました。これに対して幕府は、各宗に命じて除災の祈祷をさせましたが、災難は一向にやむことはありませんでした。
このようななか、正嘉元年(1257)八月二十三日に未曾有の大地震が起こりました。

大聖人はこれらの災難の起因を明らかにするために、翌年二月に駿河国岩本(静岡県富士市)の実相寺の経蔵に入り、一切経の閲覧をはじめられました。 このとき、近くの四十九院で修行していた十三歳の伯耆公(ほうきこう:日興上人)が、大聖人の高邁(こうまい)な人格と尊容に接して弟子となり、給仕に充たられました。

そして文応元年(1260)、大聖人は畢生(ひっせい)の書『立正安国論』を完成され、同年七月十六日、宿屋入道を介して、ときの最高権力者・北条時頼にこの書を奏進されました。 この『立正安国論』には、

「世皆正に背き人悉く悪に帰す。故に善神国を捨てゝ相去り、聖人所を辞して還らず。是を以て魔来たり鬼来たり、災起こり難起こる」(新編234)

と、人々が正法に背き悪法に帰依したことにより、善神がこの国を捨て去り、悪鬼魔神が来たって前代未聞の災難を起こすことを示されています。

さらに『安国論』には、この災難を除くためには、当時、もっとも流行していた念仏の邪儀を断ち、法華一実の正法に帰すことが肝要であると説き示されています。 また国の主権者に対し、如来の金言に耳を傾けることなく謗法を対治しなかったならば、『薬師経』『仁王経』等に予証される七難のうち、いまだ現れていない「自界叛逆の難(一門の同士討ち)」・「他国侵逼の難(外敵の来襲)」の二難が必ず起こるであろうと予言されています。

大聖人は『立正安国論』の提出をもって幕府を諌め、邪法に帰依する誤りを糾されました。これが大聖人一期の御化導における第一回目の国主諌暁でした。

松葉ケ谷の法難
 既成仏教に執着していた幕府為政者(iいせいしゃ)たちは、『立正安国論』を受け入れるどころか、かえって大聖人を怨み、陰湿な策謀をひそかに進めました。そして、文応元年(1260)八月二十七日の夜半、執権長時の父・北条重時(極楽寺入道)の意を受けた念仏者らの謗徒たちは、松葉ケ谷(まつばがやつ)にあった大聖人の庵室へ夜襲をかけました。この命に及ぶ危機のなかを、不思議にも大聖人は傷一つ負うことなくその場を逃れられました。

大聖人はこの法難の様子について、

「夜中に日蓮が小庵に数千人押し寄せて殺害せんとせしかども、いかんがしたりけん、其の夜の害もまぬかれぬ」(下山御消息  新編1150)

と述懐されています。

その後大聖人は、しばらく下総(千葉県)の富木常忍(ときじょうにん)のもとに身を寄せられ、その地における折伏教化によって太田乗明(おおたじょうみょう)・曾谷教信(そやきょうしん)等を入信に導かれています。
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伊豆配流
 大聖人は、松葉ケ谷法難の翌弘長元年(1261)の春に再び鎌倉へ戻り、さらなる弘教を開始されました。これを知った幕府の執権長時は、同年五月十二日、その権力によって大聖人を捕え、ただ一度の取調べをすることもなく伊豆の川奈へ流罪に処したのです。

しかし大聖人は、この伊豆配流の間を、

 「去年の五月十二日より今年正月十六日に至るまで、二百四十余日の程は、昼夜十二時に法華経を修行し奉ると存じ候。其の故は法華経の故にかゝる身となりて候へば、行住坐臥(ぎょうじゅざが)に法華経を読み行ずるにてこそ候へ。人間に生を受けて是程の悦びは何事か候べき」(四恩抄 新編266)

と述べられ、法華経色読・如説修行のときとして悦ばれています。

 また、この知らせを受けた日興上人はすぐさま大聖人のもとへ参じ、常随給仕(じょうずいきゅうじ)するかたわら折伏弘教にも励み、熱海において真言僧・金剛院行満(こんごういんぎょうまん)を改宗させたのをはじめ、伊東周辺でも多くの人々を帰依させました。

なおこの間、大聖人は『四恩抄(しおんしょう) 』『教機時国抄(きょうきじこくしょう )』『顕謗法抄(けんほうぼうしょう)』等の多くの御書を著されています。

小松原法難
 弘長三年(1263)二月、北条時頼の赦免状により、再び鎌倉の草庵に戻られた大聖人は、翌文永元年(1264)の秋、御母・妙蓮が危篤との知らせにより、十二年ぶりに故郷の安房へと急ぎ向かわれました。 大聖人が帰り着かれたとき、母の様子は病篤く、まさに臨終の状態でしたが、

「日蓮悲母をいのりて候ひしかば、現身に病をいやすのみならず、四箇年の寿命をのべたり」(可延定業御書(かえんじょうごう) 新編760)

 とあるように、大聖人の御祈念によって病は回復し、四年間の寿命を述べられました。

その後も大聖人は、安房の地に留まって妙法弘通に専念されていました。大聖人の帰郷を聞いた篤信の信徒である天津の領主・工藤吉隆が大聖人の来臨を請い願ったため、大聖人は十一月十一日、十数人の供を連れてその館に向かわれました。

これを知った地頭の東条影信は、以前より大聖人を念仏の敵として狙っていたので、大聖人一行が夕刻、小松原(鴨川市)にさしかかったとき、武器を持った数百人の念仏者をひきいて襲いかかりました。

このときの様子について大聖人が、

 「十一月十一日、安房国東条の松原と申す大路にして、申酉(さるとり )の時、数百人の念仏当にまちかけられ候ひて、日蓮は唯一人、十人ばかり、ものゝ要にあふものわづかに三四人なり。いるや(射矢)はふるあめのごとし、うつ(討)たち(太刀)はいなづま(雷)のごとし。弟子一人は当座にうちとられ、二人は大事のてにて候。自身もきられ、打たれ、結句にて候云々」(南条兵衛七郎殿御書 新編326)

と述べられているように、弟子一人が殺され、二人が重症を負うなか、ご自身も影信の太刀によって右の額に深手の傷を受けられ、左手を骨折されるという、命に及ぶ大難を蒙られたのです。

このことは、法華経『勧持品第十三』に説かれる、

 「悪世の中においては、正法の弘教者に対して刀杖(とうじょう)を加える者がある」(開結375 趣旨)

との経文そのものの様相でした。
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蒙古の来牒と十一処への直諌状
文永五年(1268)一月に蒙古国の使者が到来し、日本に服属を求める威嚇的な内容の国書を幕府に送ってきました。これは、大聖人がすでに八年前に『立正安国論』をもって予言された「他国侵逼(たこくしんぴつ)の難」が、まさに現実のものとなって現れてきたものです。

 蒙古よりの牒状(ちょうじょう)が来たことを聞かれた大聖人は、同年四月五日、幕府の要人であった法鑒房(ほうかんぼう)へ『安国論御勘由来(ごかんゆらい)』を認め、また八月と九月には宿屋左衛門入道(やどやさえもんにゅうどう)へ書状を送り、再度諌言されました。しかし、幕府側からの反応はまったくありませんでした。

 そこで大聖人は、十月十一日、幕府首脳の北条時宗(ときむね)・平左衛門尉頼綱(へいのさえもんのじょうよりつな)・宿屋入道・北条弥源太(ほうじょうやげんた)・及び七大寺といわれた極楽寺良観りょうかん・建長寺道隆どうりゅう・大仏殿別当・寿福寺・浄光明寺・多宝寺・長楽寺の十一カ所に宛てて諌状を認められ、公場対決によって法の正邪を決し、速やかに正法を帰伏するよう諌められました。

大聖人がこの諌状を認められた真意は、

「諸宗を蔑如(べつじょ)するに非ず。但此の国の安泰を存ずる計りなり」(長楽寺への御状  新編 380 )

と仰せのように、蒙古襲来という国家の大事にあたり、ひたすら一国の安泰と民衆の平安を願う一念にほかなりませんでした。

しかし、鎌倉幕府の首脳はこれにまったく耳を傾けないばかりか、陰で大聖人の悪口をいい、嘲笑するというありさまでした。

良寛の祈雨
文永八年(1271)五月頃から全国的に日照りが続いて大干ばつとなったことにより、幕府は、当時人々から生き仏のように崇められていた極楽寺良観に雨乞いの祈祷を命じました。このことを聞かれた大聖人は、これを機会に仏法の正邪を万人に知らしめようとされ、良観に対し、

 「七日の内にふらし給はゞ日蓮が念仏無間と申す法門すてゝ、良観上人の弟子と成りて二百五十戒持つべし、雨ふらぬほどならば、彼の御坊の持戒げなるが大誑惑(だいおうわく)なるは顕然(けんねん)なるべし。(中略)又雨らずば一向に法華経になるべし」(頼基陳情 新編 1131)

 と、祈雨に際しての約定を示されました。

これを受諾した良観は、多くの弟子たちとともに一心不乱に祈りましたが、七日はおろか、さらに願い出た七日間の延長期限にも雨を降らすことはできず、それどころか以前よりもはるかに干ばつは激しくなって暴風が吹き荒れ、人々をますます苦しめる結果となり、ついに良観の祈雨は惨敗に終わったのです。

第二の国諌
祈雨に敗れた良観は、前の約束を守るどころか諸宗の僧等と謀議を企て、大聖人に対するさまざまな悪口讒言(あっくざんげん)を幕府要人に吹聴しました。

これにより文永八年(1271)九月十日、大聖人は評定所へ召喚され、平左衛門尉の尋問を受けることになりました。 このとき大聖人は、

「仏の使い日蓮を迫害するならば、必ず仏天の罰を蒙り、自界叛逆(じかいほんぎゃく)・他国侵逼(たこくしんぴつ)の二難が起こるであろう」(種々御振舞御書 新編1057 趣意)

と厳しく諌められ、そしてさらに翌々日の九月十二日には、同じく平左衛門尉に対して書状を送られ、

 「抑貴辺は当時天下の棟梁なり。何ぞ国中の良材を損ぜんや。早く賢慮を回らして須く異敵を退くべし」(一昨日御書 新編477)

と再度反省を促されたのです。

これらの諌暁に対して平左衛門尉は、ますます憎悪の念に駆られ、その日のうちに武装した数百人の兵士をひきいて松葉ケ谷の草庵に押し寄せました。そのありさまは、一人の僧を捕えるにはあまりにも物々しく、兵士たちは経巻を踏みにじるなど暴虐のかぎりを尽くし、なかでも平左衛門尉の一の郎従・少輔房は、大聖人が懐中されていた「法華経第五の巻」を奪い取り、その経巻で大聖人の頭を三度にわたって打ちすえました。

この第五の巻には、末法に法華経を弘通するならば刀杖の難等に遭うと説かれている『勧持品』が納められており、このことから大聖人は後年、少輔房を経文符合の恩人とされています。

平左衛門尉等の暴挙が続くなか、大聖人は大音声をもって、「あらをもしろや平左衛門尉がものにくるうを見よ、とのばら、但今ぞ日本国の柱をたをす」(種々御振舞御書 新編1058) 

と喝破されました。 これが第二回目の国家諌暁です。 乱暴狼藉のかぎりを尽くしていた平左衛門尉とその郎従は、この大聖人の気迫に圧倒され、一瞬にして静まり返りました。

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