日蓮大聖人の仏法を理解するために

以 信 代 慧

 いしんだい え            も     え   か                  ぼんぷ
以信代慧とは、「信を以って慧に代う」と読み、機根の低い末法の凡夫が妙法蓮華経を信ずること

によって成仏することを示されたものです。
                                                                     ぜんじょう
法華経以前の教えでは、苦しみの原因となる煩悩を断ずるために持戒や禅定等を修行し、それによ
    めいもう
って迷妄を破る智慧を得て悟りを得ることができるとされていました。
                                                       
しかし、仏は法華経に至って、それらの修行では真の悟りを得ることはできないとされ、
 ひ ゆ ほん
『譬喩品第三』に、
 しゃりほつ   なお                          い                 いわ   よ   しょうもん     そ 
 「舎利弗 尚此の経に於ては 信を以て入ることを得たり 況んや余の声聞をや 其の余の声聞も
                         おの  ちぶん
 仏語を信ずるが故に 此の経に随順す 己が智分に非ず」(開結 174)
 
とあるように、釈尊の弟子の中でも智慧第一とされていた舎利弗でさえ、自らの智慧によってでは
                            
なく、仏の正しい教えを信じることによって、はじめて悟りを得ることができたと説かれています。
                    ごうじょう ぼんのう               おの
ましてや末法の荒凡夫である三毒強盛・煩悩充満の衆生が、己れの智慧や才覚だけで成仏する
  
ことはできません。このことについて大聖人は、
 ほとけ                                                         た
 「仏正しく戒定の二法を制止して一向に慧の一分に限る。 慧又堪へざれば信を以て慧に代ふ」
                                                    
                                           (四信五品抄 新編1112)
                                                               ぼう ひ し あく        じょう 
と仰せられています。 すなわち末法においては、三学のうちの戒(防非止悪の教え)・定(心の散乱

を防ぐ法)の二法を制止して、ただ慧(煩悩を断じて迷妄の心を破す智慧)を得るための修行にかぎ

るとされています。 そしてこの智慧を得ることは非常に困難であるために、「信」をもって慧の修行に

代えるという「以信代慧」の法門を示されました。
                                       
そしてさらに大聖人は、末法の衆生が成仏を得るための具体的な方途として、
                                たぐい                      りょうのう       む じょうほう
「信の一字を以て妙覚の種子と定めたり。今日蓮等の類南無妙法蓮華経と信受領納する故に無上宝
じゅ ふ ぐ じ とく                                              だごく             おんぎくでん
聚不求自得の大宝珠を得るなり。信は智慧の種なり、不信は堕獄の因なり」(御義口伝 新編1738)
                                      
と、信の一字を成仏の種子とし、南無妙法蓮華経を信受するところに、求めずして無上の宝(即身成

仏)を得ることができると教示されています。

すなわち、以信代慧とは、どのような凡夫であっても三大秘法の御本尊を信じ行ずることによって、
    きょうがい
成仏の境界に至ることを教えられたものなのです。

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受 持 即 観 心 

 じゅ じ                                どく  じゅ げせつ  しょしゃ           ほっし
「受持」とは、法華経に説かれる修行法の「受持・読・誦・解説・書写」という五種法師の中の一つで、
       たも
正法を受け持つことをいいます。大聖人は、末法における修行として、

 「法華経を受け持ちて南無妙法蓮華経と唱ふる、即ち五種の修行を具足するなり」

                                      (日女御前御返事 新編1389)

と、妙法受持の一行に五種の修行の全体が含まれることを示されています。
 かんじん      きょうそう
「観心」とは、教相(理論・教え)に対する言葉で、その教相をもととして実践修行し、悟りを得る
 
ことをいいます。
てんだいだいし      ま か しかん    こしん                                                 じっかいごぐ
天台大師は、『摩訶止観』に「己心を観じて十法界を見る」と説き、自己の心を観じて十界互具・
                                            ぞうぼう    
一念三千の理を悟る修行を明かしますが、この天台の明かした観心は、像法時代の衆生に対する
                                                                                
修行法であり、末法の衆生の観心とはなりません。
                      
末法においては、日蓮大聖人の仏法を受持することが、そのまま悟りを得る観心修行となるのであり、

このことを「受持即観心」といいます。
                 ごうじょう                        じ 
日蓮大聖人は、末法の三毒強盛の衆生の成仏のために、事の一念三千の南無妙法蓮華経を本門の
                                               
本尊として顕され、この御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えるという受持の一行をもって、末法の
                
観心修行とされました。これについて大聖人は、
                 びゃくほうおんもつ
 「此の妙法等の五字を末法白法隠没の時、上行菩薩御出世有って五種の修行の中には四種を略して
ただ                                    まのあた   これ  あ     おんぎくでん
但受持の一行にして成仏すべしと経文に 親 り 之 在り」(御義口伝 新編1795).

と仰せられています。
                     
さらに大聖人は、この受持の一行の功徳について、
                                                     じねん   か
 「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果

の功徳を譲り与へたまふ」(観心本尊抄 新編653)
                                                           おさ
と仰せのように、釈尊が成仏するために積んだ因行と果徳は、すべて南無妙法蓮華経の御本尊に納ま
                                     じょうじゅ   こうだいじんのん
っており、これを受持信行する衆生は、そのまま観心の悟りを成就して広大深遠な功徳を受けること

ができるのです。

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