日蓮大聖人の仏法を理解するために

異 体 同 心

いたいどうしん
異体同心とは、身体はそれぞれ別であっても、信心の志を同じくしていくことをいいます。

日蓮大聖人は、
   そう                      じ た ひ し          すいぎょ         な
 「総じて日蓮が弟子檀那等自他彼此の心なく、水魚の思ひを成して異体同心にして南無妙法蓮華経
                               けつみゃく
 と唱へ奉る処を、生死一大事の血脈とは云ふなり」(生死一大事血脈抄 新編514)
                                                         じぎょう け た
と仰せられ、大聖人の仏法を信仰する僧俗は心を一つにして自行化他の信心に精進していくことが大
   
事であると示されています。
  
また大聖人は、異体同心することの大切さについて、
                じょう                  しょ じ かな
 「異体同心なれば万事を成じ、同体異心なれば諸事叶ふ事なし」(異体同心事 新編1389)
 
と示されています。世間においても、一つの事をなす場合、互いが心を合わせて取り組まなければ、
                             ごゆいめい
成功に導くことはできません。ましてや大聖人の御遺命である広宣流布という一大偉業をなし遂げる            
            
ためには、日蓮正宗の僧俗全体が異体同心しなければならないのはいうまでもないことです。このこ
                   いしん
とから大聖人は、同信者の中に異心の者がいる場合には、「諸事叶ふ事なし」として、その異心を堅
 いまし
く誡められています。そのうえで、
                                                      いちじょう
 「日蓮が一類は異体同心なれば、人々すくなく候へども大事を成じて、一定法華経ひろまりなんと
   
 覚へ候。悪は多けれども一善にかつ事なし」(異体同心事 新編1389)

と仰せられ、いかに少数の人であっても、異体同心して折伏弘教に精進していくならば、広宣流布は

必ず達成できることを示されています。
                                                     ずいじゅん
大聖人五入滅後においては、大聖人の仏法の深義を相伝される御法主上人の御指南に随順し、広宣
                                       
流布達成に向けて精進していくことが真の異体同心となるのです。

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地 涌 の 菩 薩 
じ ゆ    ぼ さつ     こ くう え                           じゅうじゆじゅっぽん           ぞくるいほん
地涌の菩薩とは、虚空会における法華経説法のなか、『従地涌出品第十五』より『嘱累品第二十二』
                  くおん   かいけん 
までの八品において釈尊の久遠の開顕を助け、末法における法華弘通の付嘱を受けるために出現した
ろくまんごうがしゃ
六万恒河沙の菩薩をいい、大地から涌現したところから「地涌の菩薩」と称されます。
              しゃくもん ほっしほん
釈尊は、法華経迹門『法師品第十』以後において、滅後末法における法華経弘通の重要さと功徳の
                  しゃっけ                                                         こ
深重を説かれ、それを受けて迹化・他方の菩薩らが仏滅後における弘教をさせてほしいと請い願いま
                                                  や       ぜんなんし
した。これに対して釈尊は滅後弘教の困難さを示され、『涌出品第十五』において「止みね、善男子」
               しりぞ                 め  いだ
(開結408)と、その誓願を退けて大地より地涌の菩薩を召し出だしました。これらの菩薩衆は釈尊の
                        
久遠の弟子(本化の菩薩)であり、仏と同じ三十二相の相好をそなえていました。
                             ほんち                                      じょうぎょう
続いて釈尊は、『寿量品第十六』を説いて久遠の本地を明かし、『神力品第二十一』に至って上行菩
さつ                           くく                                                たく
薩等の地涌の菩薩に、法華経の肝要を四句に括って附属し、末法において法華経を弘通することを託
          けっちょうふぞく                               じょうじゅ
しました。これを「結要付嘱」といいます。この地涌の菩薩の上首(筆頭)は上行菩薩をはじめとする
むへんぎょう   じょうぎょう  あんりゅうぎょう
無 辺 行 ・ 浄 行 ・ 安立行の四大菩薩で、それに連なる菩薩衆は数えきれないほどであると説かれてい
                        
ます。
                   
『神力品』には、
           よ  もろもろ   ゆうみょう            こ 
 「日月の光明の能く 諸 の 幽冥 を除くが如く斯の人世間に行じて能く衆生の闇を滅し」(開結516)
                          ぼんぷ                                          よしょう
と説かれ、滅後末法に出現する上行菩薩は凡夫の姿をして現れると明かされています。その予証どお

り末法に凡夫の姿をもって出現され、衆生救済のため経文に示された大難を受けながらも、妙法を弘

教された方は日蓮大聖人をおいてほかにはいません。すなわち、
         ゆず  たま                     ほぼ               これ すなわ            おんつか
 「上行菩薩に譲り 給ひし題目の五字を日蓮粗ひろめ申すなり。此 即 ち上行菩薩の御使ひか」
              
                                       (四条金吾殿御返事 新編599)
                                                       
 「上行菩薩等の末法に出現して、南無妙法蓮華経の五字を弘むべしと見へたり。しかるに先ず日蓮
   しゅったい
 一人出来す」(上野殿御返事 新編1361)

と御自身こそ上行菩薩の再誕であることを明かされています。
                                                      
さらに大聖人は、

 「末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず。皆地涌の菩薩の出現に

 非ずんば唱へがたき題目なり」(諸法実相抄 新編666)
                                              けんぞく
と、末法の今日において正法を信受し弘通する僧俗は、まさに地涌の菩薩の眷属と仰せられています。

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