日蓮正宗の仏法を理解するために

 五 重 相 対

 五重相対とは、仏教及び仏教以外の一切の教えを五段階に比較相対し、次第に従浅至深(じゅうせんしじん)していく教判です。

内 外 相 対

 内外相対とは、内道(仏教)と外道(キリスト教・儒教・神道・新興宗教等)との勝劣相対をいいます。この勝劣の基準は、三世の因果を説くか否かにあります。

 仏教以外の教えは、いずれも三世の因果を無視したり、あるいは部分的な浅い因果しか説いていませんが、内道の仏教は、過去・現在・未来の三世を明らかにし、真の因果の道理を説いています。

 したがって内外相対すれば、内道である仏教が勝れていることが明らかです。

大 小 相 対

 仏教には「大乗教」と「小乗教」の区別があり、これを比較相対することを大小相対といいます。大乗教とは大きな乗りものを、小乗教とは小さな乗りものを意味します。これについて大聖人は、

 「小乗教と申す経は世間の小船のごとく、わづかに人の二人三人等は乗すれども百千人は乗せず。設(たと)ひ二人三人等は乗すれども、彼岸(しがん)につけて彼岸へは行きがたし。又すこしの物を入るれども、大なる物をば入れがたし。大乗と申すは大船なり」(乙御前御消息 新編895)

と仰せられ、成仏という目的地まで大勢の人を安全に連れていくには、その乗りものが大きく完全なものでなければならないことを教えられています。

 小乗教は、釈尊が初期の阿含時において、自己の救済のみを求める声聞(しょうもん)・縁覚(えんかく)等のために説かれた自利(じり)の教えであり、一切衆生を成仏させるという仏教本来の目的からは遊離しています。

 これに対して大乗教は、華厳・方等・般若・法華時において自己と多くの人々の救済を願う菩薩のために説かれた自利利他の教えで、小乗教には説かれていない深遠な法理が明かされています。

 したがって大乗教は小乗教より勝れているのです。

権 実 相 対

 釈尊一代五十年の諸教には「権教」と「実教」があり、これらを比較相対し、真実の教えを選び出すのが権実相対です。権教とは、しばらく用いて後に捨てるべき仮の教えの意で、衆生の機根に応じて説かれた方便の教えをいい、実教とは仏の悟りをそのままに説かれた真実の教えをいいます。

 釈尊は、四十二年間にわたる説法の後、『無量義経(むりょうぎきょう)』において、

 「四十余年には未だ真実を顕さず」(開結23)

と明かし、その後に説かれた法華経『方便品第二』に、

 「要(かなら)ず当に真実を説きたもうべし」(開結93)

と説いていることから、爾前の四十余年の経教は方便権教であり、法華経のみが真実の教えであることが明らかです。

 この法華経においては、一切衆生を成仏せしめる一念三千の法門が顕されることによって、これまで成仏できないとされてきた二乗(声聞・縁覚)の作仏が許され、また釈尊の本地である久遠実成が明かされました。

 大聖人は、
「但し仏教に入って五十余年の経々、八万法蔵を勘へたるに、小乗あり大乗あり、権教あり実教あり、顕教・密教・軟語・麁語(そご)・妄語・正見・邪見等の種々の差別あり。但し法華経計り教主釈尊の正言なり。三世十方の諸仏の真言なり」(開目抄 新編526)

と仰せのように、釈尊一代五十年の説法のうち、法華経こそが真実の教えであり、それ以外の経教は、法華経に導くために説かれた権(かり)の教えなのです。

本 迹 相 対

 実教である法華経は「迹門」と「本門」に立て分けられ、これを比較相対し勝劣・相違を判ずることを本迹相対といいます。
 法華経二十八品のうち、『序品第一』から『安楽行品第十四』までの前半部分は、始成正覚の垂迹仏が説かれた法門なので、「迹門」といい、『従地涌出品第十五』から『普賢菩薩勧発品第二十八』の後半部分は、久遠実成の本地仏が説かれた法門なので、「本門」といいます。

 迹門では、『方便品第二』において諸法実相の法理が説かれ、一切衆生を成仏せしめる一念三千の法門が明かされました。これにより、今までの爾前経で成仏できないとされてきた二乗(声聞・縁覚)の作仏が、はじめて許されることになりました。

 しかし、いまだ能説の教主である釈尊が成道した根源の種子(本法)が明かされていないため、一念三千といっても理論上の法門でしかなく、二乗作仏も名のみであってその実体はありません。このことを大聖人は、

 「迹門方便品は一念三千・二乗作仏を説いて爾前二種の失一つを脱(のが)れたり。しかりといえどもいまだ発迹顕本(ほっしゃくけんぽん)せざれば、まことの一念三千もあらわれず、二乗作仏も定まらず。」(開目抄 新編536)

と示されています。

これに対して本門では、『寿量品』で釈尊の本地について、

 「我本菩薩の道を行じて、成ぜし所の寿命、今猶未だ尽きず」(開結433)

と久遠本本因妙の修行を示し、

 「我成仏してより已来(このかた)、甚だ大いに久遠なり」(開結433)

と、本因妙の修行によって得た本果(本果妙)を明かし、また、

 「我常に此の娑婆世界に在って説法教化す」(開結431)

と、釈尊有縁の国土は娑婆世界(本国土妙)であることを説かれました。

 このように本門では、釈尊の本地である久遠実成を仏の具体的な振る舞いのなかに本因妙・本果妙・本国土妙の三妙合論して明かし、仏の永遠の生命をもって事の一念三千が顕されました。これにより、仏の本地身と衆生の久遠以来の関係が明らかとなり、迹門では理論のみであった衆生の得脱(成仏)が、事実のうえに示されたのです。

 この本地の相違について大聖人は、

 「本迹の相違は水火・天地の違目なり。例せば爾前と法華経との違目よりも猶相違あり」(治病大小権実違目 新編1236)

と仰せられています。

 したがって本迹相対すれば、始成正覚の垂迹仏の迹門が劣り、久遠実成の本地仏の本門が勝れていることが明らかです。


種 脱 相 対

 種脱相対とは、法華経寿量品において釈尊の文上脱益(だっちゃく)の仏法と、日蓮大聖人の文底下種仏法を比較相対する法門です。

 仏法では、衆生が仏の法によって成仏を遂げる過程を、種・熟・脱の三益をもって説いています。 種とは下種益(げしゅやく)のことで、仏になる種を衆生の心田に下すことをいい、熟とは熟益のことで、過去において下された仏種を成育(調熟)することをいい、脱とは脱益(だっちゃく)のことで、成熟した果実を収穫(得脱)することをいいます。

 前に示した文上脱益(だっちゃく)とは、久遠五百塵点劫(ごひゃくじんでんごう)に下種を受けた衆生が、中間三千塵点劫を経て、爾前経・法華経迹門までの調熟の後、本門寿量品に至って得脱することをいいます。ここで得脱した衆生は、機根のうえから本已有善(ほんいうぜん)といいます。

 これに対して文底下種とは、久遠下種を受けていない衆生が、末法においてはじめて寿量品の文底に秘沈された南無妙法蓮華経の下種を受けて成仏することをいい、この衆生を本未有善(ほんみうぜん)といいます。

 この成仏の法について大聖人は、

 「彼は脱、此は種なり。彼は一品二半、此は題目の五字なり」(観心本尊抄 新編656)

と釈尊在世においては寿量品を中心とした一品二半が脱益(だっちゃく)の法となり、末法においては、題目の五字が下種益(げしゅやく)の法となることを明示されています。また、

 「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の門の底にしづめたり」(開目抄 新編526)

と仰せられ、法華経寿量品の文底に秘沈された南無妙法蓮華経こそ、文底下種・本門事の一念三千の法門であると明かされています。この南無妙法蓮華経とは、久遠元初の本仏所用の法であり、すべての仏が悟りを開くために修行した根本の法なのです。

 さらに大聖人は教主の相違について、

 「仏は熟脱の教主、某は下種の法主なり」(本因妙抄 新編1680)

と示され、「熟脱の教主とは久遠実成の釈尊であり、「下種の法主」とは、末法において久遠元初の本法である妙法を下種される日蓮大聖人御自身であると明かされました。

 したがって種脱相対により、末法の御本仏日蓮大聖人の南無妙法蓮華経こそ、一切衆生を救済せしめる根源の本法であることが明らかとなるのです。

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 五 重 三 段

 日蓮大聖人は『観心本尊抄』において、釈尊一代五十年の教法を従浅至深(じゅうせんしじん)して五種に括り、それぞれを「序分」「正宗分」「流通分」の三段に分ける教判を立てられ、最終的に在世と末法との種脱の法体の異なりを判じ、末法の衆生が尊崇すべき本尊を示されました。

 「序分」とは、正意とする教法を説くための準備段階のところをいい、「正宗分」とは、まさに仏の本意とする中心の教法が説かれているところをいい、「流通分」とは、衆生を利益することを目的として、正説(正宗分)である教法を広く流布するために説かれたところをいいます。

 五重三段とは、一代一経三段・法華経一経三段・迹門熟益三段・本門脱益三段・文底下種三段をいい、概説すると次のようになります。


(第一重) 一代一経三段 ○釈尊一代五十年の経々を三段に分けて判釈
 この段では釈尊出世の本懐が法華経であることを明かします。

序分   華厳・阿含・方等・般若部の法華以前の諸経
正宗分 法華三部経(無量義経・法華経・観普賢菩薩行法経)
流通分 涅槃経等 


(第二重) 法華経一経三段 ○第一重の正宗分を序・正・流通の三段に分けて判釈
 この段では法華経の正意が二乗作仏・久遠実成にあることを明かします。


序分   無量義経と法華経の序品第一
正宗分 方便品第二より分別功徳品第十七の十九行の偈に至るまでの十五品半
流通分 分別功徳品第十七の後半、現在の四信より普賢菩薩勧発品第二十八までに至る十一品半と観普賢菩薩行法経の一経 

 以上の一代一経三段と法華経一経三段は、法華経を一代説教の中心とした、概括的な構格を示していることから「一往・総の三段」といいます。
 そして次からの迹門熟益三段・本門脱益三段・文底下種三段は、末法の衆生の尊崇すべき本尊が明かされていくことから「再往・別の三段」といいます。


(第三重) 迹門熟益三段 ○法華経三部経のうち、無量義経と法華経迹門を三段に分けて判釈
 この段では迹門熟益の本尊として、仏は始成正覚の応即法身を示し、法は二乗作仏・百界千如が明かされます。


序分   無量義経と法華経の序品第一
正宗分 方便品第二より授学無学人記品第九までの八品
流通分 法師品第十より安楽行品第十四までの五品 


(第四重) 本門脱益三段 ○法華三部経のうち、法華経本門と観普賢菩薩行法経を三段に分けて判釈
 この段では本門脱益の本尊として、仏は久遠実成の仏身を示し、法は本因妙・本果妙・本国土妙の三妙合論のうえにおける一念三千を明かされます。


序分   従地涌出品第十五の前半品
正宗分 従地涌出品第十五の略開近顕遠(りゃっかいごんけんのん)の文よりの後半品、寿量品第十六の広開近顕遠の一品、分別功徳品第十七の前半品十九行の偈までの一品二半
流通分 分別功徳品第十七の後半品現在の四信より、普賢菩薩勧発品第二十八までの十一品半と、観普賢菩薩行法経の一経 
 
 以上の四重の判釈により、釈尊一代仏教の中心は法華経の本門の一品二半にあることが明かされました。さらに大聖人は、末法流通の本尊を示すために寿量文底の意に約して、第五重の三段を立てられています。


(第五重) 文底下種三段 ○文底下種の法門より、仏教の一切の括って三段に分けた判釈
 この段では末法の一切衆生が観心成仏すべき本尊として、仏は名字凡身の下種の仏を示し、法は文底下種の妙法蓮華経であることを明かします。


序分   文底体外の辺における釈尊一代五十年の諸経、並びに十方三世諸仏の微塵の経々
正宗分 従地涌出品第十五の動執生疑より、分別功徳品第十七の十九行の偈に至るまでの一品二半(広開近顕遠の一品二半、我が内証の寿量品、すなわち文底能詮(のうせん)の寿量品の二千余字)
流通分 文底体内の辺における釈尊一代五十年の諸経、並びに十方三世諸仏の微塵の経々(流通の正体は、文底所詮の下種本因妙の妙法蓮華経)

 ここで示された文底内証の寿量品たる「一品二半」は、第四重の本門脱益三段の正宗分たる「一品二半」(脱益)とは名は同じであっても、その配立と意義内容は異なります。

 すなわち、脱益の一品二半は、『涌出品』の略開近顕遠(りゃっかいごんけんのん)からの一品二半であるのに対し、内証の寿量品たる一品二半は、『涌出品』の動執生疑(どうしゅうしょうぎ)からの広開近顕遠の一品二半なのです。

また、脱益の一品二半が久遠本果を説き、仏の因位の修行と果徳と所在の国土とに約して、事の一念三千を説示したのに対し、内証の寿量品の一品二半は能く久遠元初の本因名字の妙法蓮華経を説き詮(あらわ)すのです。

 この所詮の法体である南無妙法蓮華経こそが、『神力品』で上行菩薩に付嘱された末法流通の正体なのです。すなわち、末法流通の観心の本尊の実体とは、外用(げゆう)上行菩薩・内証久遠元初自受用報身如来の再誕日蓮大聖人によって顕された人法一箇・独一本門戒壇の大御本尊となるのです。
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