釈尊の仏教

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                         あいくおう
仏教は紀元前三世紀頃、阿育王が出現して仏教興隆のために尽力したことによりインド全域に広ま
            はけん
り、さらに伝導師の派遣によって国境を越え、異民族にまで伝えられました。
           ほくでん  なんでん
その伝来に「北伝」と「南伝」の二つの流れがあります。北伝仏教は、サンスクリット語の経典による

大乗仏教が主で、インドからカシミール・ガンダーラに広まり、シルクロードの東西交易によって陸路
                                      
を経由し、中央アジアから中国の漢民族に伝えられました。また南伝仏教は、パーリ語の経典による
                                                                                        でんぱ
小乗仏教が主で、インド洋の海上交通の貿易路を利用して、東南アジア及び南方の諸地域に伝播さ

れ、やがて五世紀頃には海路から中国へも伝えられていきました。

なお仏教は、西方のギリシャ・シリア・エジプト・マケドニア等のヨーロッパ・中近東の地域にも伝わっ

たといわれています。

 
仏 教 伝 来
                                   めいてい えいへい                         かしょうまとう   じくほうらん
中国に仏教が伝来したのは、後漢の明帝が永平十年(紀元六七)、インドの迦葉摩騰と竺法蘭を
らくよう                        はくばじ    
洛陽(現在の河南省)に迎え、白馬寺において経典を訳させたことにはじまるといわれています。
                  あいてい  げんじゅ                   けいろ   だいがっしこく
このはかにも前漢時代の末、哀帝の元寿元年(紀元前二)に、景盧が大月氏国の使者であった
いぞん
伊存から仏教を口授されたことをもって仏教伝来とする説などがあります。
                                            
しかしこの前漢・後漢のいずれの時代においても、すでに儒学や道教が人々の間に深く浸透して
            
いたため、仏教は容易には広まりませんでした。
                                                       かんてい
仏教が中国の人々に認識されるようになったのは、後漢の桓帝(146〜167在位)のとき、インド
 あんそくこく                  あんせいこう          しゃもん
の安息国の皇太子であった安世高が出家して沙門となり、その後中国で、約二十年間にわたって
                                れいてい
主に小乗経典の漢訳に従事したことによります。また霊帝(168〜189在位)のとき、大月氏国
           しるかせん
の沙門であった支婁迦讖が中国に入り、大乗経典を訳出したことによるとされています。

以後、この二人の渡米に影響されて、西域諸国から弘教のために中国へ入る沙門の数も次第に
                   ほんやく
増え、多くの経典が翻訳されました。
                             ぎ  ご  しょく
中国における仏教は、このような経過のもと、魏・呉・蜀の三国時代を経て、次第に盛んになって
              
いきました。
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経 典 翻 訳 期
                                      
西 晋 時 代
ぎ         しょく                   しん                        ご        
魏の国は、蜀の国を滅ぼした後、「晋」を建国し(265)、さらに呉の国を統合して(280)三国を
                                            せいしん    
統一しました。この晋の建国から約五十年間を西晋(晋)時代といいます。
                         じくほうご                                        ほんやく
この時代の代表的な仏教僧に竺法護(231〜308)がいます。竺法護は、経典の翻訳に約四十
               しょうほけきょう  こうさんはんにゃきょう                                       るふ
年間にわたって従事し、『正法華経』『光讃般若経』等、三百巻を超える経典を訳出し仏教流布に多大
                                                 
な功績を残しました。
      じくほうが  こうほうろう                                           じゅきょう  ろうし   そうし
一方で、竺法雅や康法朗などの仏教僧は、当時、すでに広まっっていた儒教や老子・荘子の思想を利
                                   かくぎ
用して、仏教の教理を説明し布教を展開しました。これを「格義仏教」といいます。しかし、このよ
                                                               ゆが
うな布教方法は伝道のうえで一応成果が見られましたが、その反面、仏教本来の教義が歪められる
                
危険性を持ち合わせていました。
                      たど                                    ひご
晋における仏教は、このような経過を辿りながら、紀元三百年頃には国王の庇護により寺院が数多
       そうに
く建てられ、僧尼の数は三千数百人にも及んだといわれています。
                       
五胡十六国時代
               きば                            きょうど  せんび けつ てい きょう
四世紀になると、北方の騎馬民族や西方の民族の五胡(匈奴・鮮卑・羯・A・羌)が勢力を増し、
                      にちょう              さんしん                    しえん
大挙して中国中央部に押し入り、二趙(前趙・後趙)、三秦(前秦・後秦・西秦)、四燕(前燕・後
          ごりょう                                か  せい
燕・南燕・北燕)、五涼(前涼・後涼・西涼・南涼・北涼)、夏・成の十六の国を建てました。この時
                                    
代を総称して五胡十六国時代といいます。

これら諸国の間では戦乱が絶えず、人心は不安を増し、救いを新興の仏教に求めるようになりまし

た。
                                                りゅうしょう
そしてまた、自国の文化の向上をはかるために僧侶を迎えたことによって仏教は隆昌し、特に後趙・

前秦・後秦・北涼の各国では盛んになりました。
    どうあん                              ほんやく
前秦の道安(312〜385)は、これまでに訳出された経典の中に翻訳者・年次等が不明のもの
                            そうりしゅきょうもくろく
が多数あったため、これらの経典を整理して『総理衆経目録』(道安録)を作成しました。

また、後秦の時代になると仏教はますます盛んになり、多くの僧侶が輩出されました。その代表的
         らじゅうさんぞう
な僧侶として、羅什三蔵(344〜413)が挙げられます。

羅什三蔵(鳩摩羅什)
らじゅう  きじこく                                           がっしこく
羅什は亀茲国(現中国ウイグル自治区)に生まれ、七歳で出家し、九歳のときに大月氏国に
    はんずだった
渡って槃頭達多に小乗経を学んで、再び故国に帰りました。その後、大乗の研究と布教に励み、
                  
その名声は諸国に及んでいきました。
                   りょうしゅう        こうし             こうしん          ようこう
羅什は、亀茲国が滅亡した後、涼州に留まり、弘始三年(401)、後秦二代の王・姚興に迎えられ
                    ひご                たいぐう
て長安に入りました。羅什はその庇護のもと国師の待遇を得て、学識を慕って集まった多くの

門弟たちとともに、三百八十四巻といわれるほどの経論を訳出しました。その代表的なものに
みょうほうれんげきょう だいほんはんにゃきょう ゆいまきょう       だいちどろん    ちゅうろん  じゅうにもんろん ひゃくろん じゅうじゅうびばしゃ 
『妙法蓮華経』『大品般若経』『維摩経』、及び『大智度論』『中論』『十二門論』『百論』『十住毘婆沙
ろん
論』があります。
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法 華 経 の 宣 揚
                       
南 三 北 七
             とうしん                ごこ
五〜六世紀になると、東晋の流れを継続した南朝と、五胡の流れを汲む北朝とが、政治・学問・芸

術などにわたて対立していく南北朝時代になります。
                              そう        せい りょう ちん
南朝では、四二〇年に成立した宋に続いて斉・梁・陳の国々の興亡がありました。北朝においては、
       ほくぎ    かほく
四三九年に北魏が華北を統一しましたが、やがて内部分裂し、北周に亡ぼされました。この北周は五
         ずい        へいごう
八一年に随によって併合され、隋はさらに南朝の陳をも滅ぼして五八九年に全国を統一しました。
                       きょうそうはんじゃく                         ようすこう
この南北朝の仏教では、経典に対する教相判釈の研究が次第に活発化し、揚子江を境にして南に三
               なんさんほくしち
師三派、北に七師七派の南三北七の十派が各々の義を立てる至りました。しかしこれらの主張する
                                                けごんきょう       ねはんきょう
義は、細部の違いはあっても大綱は共通しており、華厳経第一、涅槃経第二、法華経第三というもの
                              てんだいだいし
でした。これに対し、南朝最後の陳の時代に出た天台大師は、これら南三北七の義を打ち破って法華
 せんよう
を宣揚しています。

天 台 大 師(智)
てんだいだいし                                                ちん ずい
天台大師(五三八〜五九七)は、中国天台宗の開祖であり、陳・随両時代の法華経の第一人者
 
として、後世の法華経信仰に多大な影響を与えました。
             いみな ちぎ        りょう       だいどう          けいしゅう     
天台大師は、諱を智といい、梁武帝の大同四年(538)荊州に生まれました。十八歳のとき、
かがんじ   ほうちょ                                                       だいそざん
果願寺の法緒のもとで出家し、法華三部経等を研鑽した後、二十三歳で大蘇山(河南省南部)の
えし                しじ      ほっけざんまい                    やくおうぼん              ぜしんしょうじん
慧師(南岳大師)に師事し、法華三昧の行に入り、法華経『薬王品第二十三』の、「是真精進。
ぜみょうしんぽう       こ    しん   しょうじん        しん            にょらい
是名真法。供養如来(是れ真の精進なり。是を真の法をもって如来を供養すと名づく)」(開結526)
                        だいそかいご                             やくおうぼさつ
の句によって悟りを開きました。これを「大蘇開悟」といい、これによって天台は薬王菩薩の後身と
                  
いわれています。
          きんりょう なんきん   がかんじ                                       いんとん
三十二歳のとき、金陵(南京)の瓦官寺で法華経を開講し、その後、六年を経て隠遁を決意して天
    せっこうしょう                    ずだ         えんどんしかん                                 たびかさ
台山(浙江省東部)に入り、日々、頭陀を行じて円頓止観を悟り、四十七歳のときには陳王の度重な
  こ                                    こうたくじ           ほっけもんぐ
る請いに応じて天台山を下り、後に金陵・光宅寺において『法華文句』を講じました。
                                        しんおうこう      ようだい            かいこう
陳が滅び、隋が天下を統一すると、天台は隋の晋王広(後の煬帝)に招かれ、開皇十一年(591)

には晋王広に菩薩戒を授け、このとき「智者大師」の号を贈られています。
                 ぎょくせんじ                     げんぎ
翌年、天台は故郷の荊州に玉泉寺を建立し、そこで『法華玄義』を説き、続いて開皇十四年(594)
   まかしかん
より『摩訶止観』を講説し、一念三千の法義を明らかにして法華経が最高の教法であることを示

しました。またこの間、南三北七の十師たちが唱える邪義に対して、天台は五時八教判をもって打ち

破っています。

その後、天台大師は開皇十七年(597)に天台山において六十歳で入寂しました。

天 台 法 華 宗
てんだいだいし                しょうあん  かんじょう
天台大師の入寂後、弟子の章安(灌頂・561〜632)が教団の興隆に心血を注ぎ、天台宗の基

礎を築きました。
             ほっけもんぐ        げんぎ    まかしかん
この章安は、天台の『法華文句』『法華玄義』『摩訶止観』の講義を筆録・整理して三大部を完成させ、

後世に残しています。
                     ちい   えい   げんろう                                     ぜん
章安以後、天台宗は唐代に入って智威・慧威・玄朗と継承されましたが、当時流行していた禅宗・
しんごん   けごん    ほっそう
真言宗・華厳宗・法相宗等に押されて宗勢は振るわなくなっっていきました。
                                   みょうらく けいけい    たんねん
しかし、唐代の中頃に、玄朗の弟子である天台宗第六祖の妙楽(荊渓大師湛然・711〜782)が出て、
                                   はしゃく
天台の一念三千の法義を明確にし、前に流行した宗派を破折して宗勢を復興させました。これにより

妙楽は天台宗の中興の祖と呼ばれています。
                            しゃくせん           き            ぶぎょうでんぐけつ
妙楽の著作には、三大部を注釈した『法華玄義釈籖』『法華文句記』『摩訶止観輔行伝弘決』を

はじめ、多くの論や経典の通釈等があります。
                      どうずい ぎょうまん
この妙楽のあとを継いだのが弟子の道邃と行満であり、この二人から天台法門を学び、特に
     えんどんしかん                          でんぎょうだんし
道邃から円頓止観を授けられたのが、日本の伝教大師なのです。

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