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アッティラ
後編


  432年―――――――――――――――

  フン帝国においてルーアが即位した。彼は在位期間わずか 1年ながら、東ローマにたびたび侵入しては、その皇帝に多額の貢物を毎年貢納させることを約束させ、 西ローマからはパンノニアその他の 地を割譲せしめた。東西ローマはフン帝国の従属国家としての位置づけとなっていった。

  434年―――――――――――――――

  フン帝国のルーアが薨御し、ブレダとアッティラが共同統治として即位した。

  436年―――――――――――――――

  フン帝国はブルグント王国に進撃。ブルグントは大敗し2万人が戦死。王が戦死した。生き残った者は大半が亡命してしまった。

  443年―――――――――――――――

  ブルグントの遺民が、西ローマの最高官アエティウスによりスパウディア(現在のフランス)へ移住させられ、 ブルグント王国を再興した。

  445年―――――――――――――――

  アッティラは兄のブレダを殺してフン帝国の単独の王となった。

  438年、441年―――――――――――――――

  ササン朝ペルシア帝国に侵入し、カッパドキアやシリアを荒らし回った。

  442年―――――――――――――――

  東西のローマ帝国が共同で北アフリカのヴァンダル王国 を攻略せんとの準備を整え、その連合軍がまさにシチリア島の港から出発しようとしていた。 これを受けたヴァンダル王ガイセリックは 大急ぎでアッティラの元に密使を送り、東西ローマの後方を突いてもらおうと考えた。 フン帝国は東ローマに兵を進めた。 ヴァンダル王ガイゼリックがフン帝国に援軍を要請したことから 勃発したものである。3度戦って3度大勝、フン帝国は勝利を重ね、 マケドニア及びトラキアを荒らし回った。

  446年―――――――――――――――

  時の東ローマ皇帝・テオドシウス二世は震え上がるのみで、なす術がなかった。 東ローマの首都・コンスタンチノープルも包囲され、迎撃に出た騎兵隊はフンの騎馬軍の前に一蹴されただけであった。 東ローマは無条件降伏と言っていい屈辱的な条約を取り交わし、 平和を購った。アッティラはローマの奴隷を全て解放する、新しい秩序の帝国を建てるつもりであったが、 バルカンの風土病にフン軍はやられていた。東ローマは属国として王権を守ることを選び、アッティラも東ローマを、征服ではなく やむをえず属国として受け入れたのだった。

  さて、当時の西ローマ周辺は、フン帝国の西進に始まる大混乱期を抜け出し、 小康状態に落ち着きつつあった。
  西ローマの総司令官になっていたアエティウスは、フン帝国の後立てでローマに帰り、 追い出される以前を遙かに越える権力を手にしていた。

  当時、ガリアは西ローマ領ではあるが、フランク族をはじめ西ゴート族、ブルグント族等の ゲルマン系諸族が入乱れていた。この中の西ゴート国王テオドリックはヴァンダル国王ガイセリックに娘を殺された遺恨から、 西ローマに船を借りてヴァンダル王国を攻めようとしていた。ガイセリックはここでもアッティラを頼って西ゴート・西ローマの 矛先をかわそうとしていた。そして、建国以来虎視眈々とローマを狙い続けているヴァンダル国王ガイゼリックは 西ローマ帝国の崩壊を悲願としていた。 フランク族では王位を巡る争いが起こっており、西ローマを後ろ楯とする弟メロヴィングが兄を追い落とし、 敗れた兄はやはりアッティラを頼っていた。西ローマ侵攻をはかるアッティラ軍がまずガリアに進んだのは主としてこれらの理由に よるのである。

  西ローマ帝ヴァレンティニアヌス3世の姉、ホノリアが、宦官に指輪をもたせて、密かにアッティラのもとに送った。

  「これを渡せば、私のものとわかります。」

  アッティラは届けられた指輪と手紙を読んだ。手紙には、

  「私と結婚するならば、西ローマの半分を得られるだろう。」

  と書かれていた。

  アッティラは当初、ホノリアの婚約要請を冷淡に無視していたが、ガリア遠征を決定すると、 西ローマにホノリアと、その持参金として帝国の半分を要求したのだった。西ローマはこの要求を拒否し、 ホノリアに形ばかりの夫を押しつけた。

  451年―――――――――――――――

  アッティラはホノリアの身ではなく、その持参金として当然与えられるべきガリアへと侵入した。

  春、5万の大軍を率いるアッティラがハンガリーを出陣、チューリンゲンヴァルトの森林で木材を伐り出して筏を作って ライン河を押し渡り、トングル、メッツ、ランスを陥落させつつセーヌ川を渡河、ロアール川の線にまで到達した。 ロアール川の南は 西ゴート族の勢力圏である。
  西ローマは直ちにアエティウスを司令官とする軍勢を南ガリアへと送り、西ゴート王テオドリックのもとにも 援軍を求める使者が飛ばされた。使者アヴィタスの熱弁に動かされたテオドリックはアッティラとの戦いを決意し、それまで様子を 見ていたガリア各地のゲルマン諸族も続々とアエティウスのもとに馳せ参じてきた。

  この頃アッティラのフン軍はオルレアンの包囲にかかっていたが、食糧も少なくなってきていた。 遠くから西ローマ・ゲルマン諸族連合軍の10万を超える大軍が 巻き上げる砂塵を見るに及んで、ひとまず北方へとひきあげることにした。しかし西ローマ軍の追撃は 急で、退却するアッティラのフン軍の殿軍であるゲピド族の部隊が西ローマ軍先鋒フランク族部隊の攻撃を防ぎきれなくなったため、 やむ なくアッティラも決戦を決意し、一転してカタラウヌムの地に陣を張った。
  アッティラは、アエティウスと西ゴート王テオドリックの連合軍の数が自軍より非常に多い事実を知り、自らの騎兵隊の機動力が最も生かせる、 シャロンの野に陣を構えたのだった。

  戦いは午後3時頃に始まった。戦いの火蓋をきったのはアッティラ軍の投げ槍で、続いてアッティラ直属の騎兵が 西ローマ軍中央の アラン族を突破、そのまま右翼に展開する西ゴート族の側面へと殺到して、西ゴート王テオドリックを討ち取った。 これを見たテオドリックの子 のトリスマンドが駆けつけ、敵地に入りすぎたアッティラ軍を一時は撃退したが、今度はトリスマンドの方が深入りしすぎ、返り討ちに 倒れそうになり命からがら味方の陣に逃げ込む始末だった。

  翌日、西ゴート族は前日戦死したテオドリックの死骸を探し出して陣中にて葬儀を行い、 直ちに息子トリスマンドの即位を宣言した。 トリスマンドは西ローマ軍司令官アエティウスの陣営を訪れて父の弔い合戦を主張した。 アエティウスは、テオドリックの死を聞いたトリスモンドの弟たちが 国元で王を名乗るかもしれないという事実を指摘した。

  「まず新王として国内を固めるべきだろう。」

  とトスマンドを説得し、他のゲルマン諸族にも帰国をす すめた。

  アッティラの方は敵軍の退却の様子を見て、最初は計略と考えて防備を固めていたが、やがて彼も態勢立て直しのために引き上 げることにした。

  一方、西ローマはアッティラの勢いを止めることができなかった。

  452年―――――――――――――――

  改めてホノリアを要求したアッティラは、その拒否に怒ってイタリアに侵入した。
  まず、アクィレイアの町が、ついでパドヴァが侵略され、滅び去った。 この時代、イタリア北東部は属州ヴェネチアと呼ばれていたが、このフン帝国の侵略によって、属州の名前を冠したひとつの町が 生まれることになった。属州ヴェネチアの人々は、戦火を逃れ、アドリア海の最奥部 の干潟の上にひっそりと町をつくった。ここには陸から近寄りがたく、海からは迷路のような水路を通り抜ければならない。 これが、ヴェネチアの起源である。

  さて、属州ヴェネチアを攻略したアッティラ軍は、更に南へ、ローマへと兵を進めようとした。ローマは大混乱に陥った。
  一方、アエティウスはガリアを動けなかった。ゲルマン諸族が出兵を拒否したからであった。 イタリアの暑さにフン軍は馴れていず、もっとも深刻な事態が起きていた。地中海特有の風土病の蔓延である。 兵士らは病気の前に次々と倒れていったのだった。免疫のないフン軍の兵は感染症の標的となったのだった。 厭戦気分が漂い始めたフン軍にローマから交渉の話が出てきた。 祖国の滅亡を目前にしたアエティウスは、巨額の賠償金を支払い、なんとか国の命を繋ぐ。 そして、アッティラはホノリア引き渡しの約束を取り付けて北へと 帰還したのであった。

  アッティラは帰ると、イルディコという名の独りの女性を妾の列に加えた。 その盛大な結婚式の夜、アッティラはイルディコと床につき・・・

  不可思議にもアッティラはそのまま亡くなった。

  睡眠中の鼻血が、仰向けに寝ていた、アッティラの肺に流れこんで窒息したとかどうとか・・・。 (終わり)  


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