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不動堂屯所はどこか


慶応3年6月15日、移転

西本願寺を屯所として占拠していた新選組は、広如上人が砲声を嫌うのを知り、面白がって頻繁に空砲を放ったり、寺の施設内で豚や猪などを鍋で煮て食べ、その臭いが門主の居住地まで流れていくなどし、本願寺はたまりかね新選組を追い出す為に費用の全額を負担し新築した広大な武家屋敷で、広さは1万平方メートルといわれている。
その後、伏見へと向かった為にわずか半年ほどしか使用されなかったこと、資料も殆ど残っていないことから幻の屯所といわれている。

場所についても現在の下京区松明町リーガロイヤルホテルのあたり(記念碑がある)という説と現在の北不動堂町資生堂ビルのあたりと諸説ある。

場所について


池田七三郎の談話、
「草鞋を脱いだのが、醒ヶ井通り七条下る三丁目にあった屯営で、それは実に堂々たる大名屋敷のようでした。」

場所については、醒ヶ井通り七条下る三丁目と、醒ヶ井通木津屋橋下る東側というものもあるが位置としては同一で現在の堀川通になる。


この醒ヶ井通は、1590年豊臣秀吉の「天正の地割」により新設された通りで、北は六角通〜塩小路辺りまで?。
五条以南は第二次大戦中に沿道の家屋を強制退去させ戦争避難道路として拡張されている。(第二次大戦時、多くの道の拡張の為に強制退去が行われた。私の家もこの時強制的に転居させられました。)
この時に隣接する東堀川通、西堀川通と一つとなり現在の堀川通となったために五条以南は現在は消滅している。
特に西本願寺から塩小路あたりまでは複雑で、本願寺前の門前町も何度も様変わりし、堀川もまっすぐではなくなっており、それに伴ない七条で西にそれており堀川の上を西堀川通が通っている。


東から油小路、醒ヶ井、東堀川の通りの道幅は同じくらいであったようで、現在の堀川通の東側歩道が醒ヶ井通であったと思われる。


このように、屯所のあった七条〜塩小路あたりは通りが原型をとどめていないこと、東海道線あたりは畑地が広がっており当時は中心部ではなく、昔の地図でもあまり詳細には記載されていないことから特定が難しくなっている。

屯所の位置としては、七条下がる三丁目とは七条通りから南に数えて三丁目という意味で、現在の通りでいうと、七条通りと下魚棚通り間が一丁目、下魚棚通りと木津屋橋通り間が二丁目、木津屋橋通りと塩小路通り間が三丁目、この三丁目の東側が現在の北不動堂町である。


この北不動堂町の六百六十六坪四勺の土地に、明治16年4月安寧小学校が移転、安寧小学校は大正15年12月18日に北西角の百四十二坪六勺を買収、その後堀川通りの拡張で現在の安寧小学校の場所へと移転している。


安寧小学校は明治2年、日本で最初の学区制小学校「下京第21番組小学校」として開校された小学校である。(平成8年に閉校)

学校が大正15年に買収した北西角の御方紺屋町の土地百四十二坪六勺は、近藤勇妾宅があったところ(現在の安寧小学校の前の中央分離帯あたり)であり、前所有者が西本願寺執行の小田尊順であった。


以上の点と伊東甲子太郎暗殺時の帰路、待伏せ地点等から不動堂屯所の場所は現在の北不動堂町、田中工務店と資生堂ビルあたりに違いない。


屯所の造りについて
表門、高塀、玄関、長屋、使者の間、長廊下、諸士の部屋、幹部の居間、客舎、厩、物見、小者の部屋、30人は入れる風呂などがあったとその規模を伝えている。
生残り隊士、池田七三郎によると、
「屯所は、真中が広間で右左に広い廊下があり、右側は部屋がいくつも並んでいて、これに平同志がいる。
左側にも同じくたくさんの部屋があり、これには副長助勤の人達が入っている。今で言うと大きな高等下宿か寄宿舎のようなものでした。」

しかし、この屯所としては最高の環境も慶応3年12月16日、伏見へ出陣の為にわずか半年程しか使われなかった。
その後、不動堂屯所は解体、慶応四年、本願寺派の本徳寺本堂が焼失したためその本堂として西本願寺北集会所の部材とともに明治3年移築され、明治6年3月に本徳寺本堂として完成したという説があるが、不動堂屯所の部材は使われていないという説もありこれもわかっていない。


リーガロイヤルホテル説を否定する理由
リーガロイヤルホテル(以前の名称は京都グランドホテル)の現住所は松明町であり、当時は畑地が広がっていたようである。
京都では昔から場所を表す時に「○○通り○○下る」というように通りを基準に表現する、前出の池田七三郎も「醒ヶ井通り七条下る三丁目」と説明している。

塩小路について調べてみると、平安京からの通りで、当時は一本北を通る現在の木津屋橋通りを塩小路と呼び、現在の塩小路通を八条坊門小路呼んでいた。
木津屋橋から塩小路まではほんのわずかな距離しかなく、醒ヶ井通と堀川通の距離もわずかしかないので、どこを基準に見るかでなんとでも言えそうであるが、もし塩小路が現在の木津屋橋通りのことを指すのではないだろうか?

そもそもこの説は、霊山歴史館の木村幸比古氏の調査で、坂本龍馬に仕えていた菊屋峰吉という人物が、堀川通塩小路に屯所があったと語っていたことが判明し、平成15年にホテルと地元の自治連合会が石碑を建てたことから広まった。
ただ、石碑には「この付近」となっており明確な位置は記されていない。


  安寧小img    北不動堂img
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