![]() |
アマテラスオオミカミのお孫さんで、ニニギノミコトという方が木花(地名)にお出でになり、海辺りをお歩きになったところ。これまでに見たともない美しい娘さんと出会い、一目惚れして結婚されました。その方こそ木花出身のコノハナサクヤヒメノミコトでした。
結婚してすぐ御腹が大きくなったのでニニギノミコトは自分の子供ではなかろうとお疑いになりました。そこで、コノハナサクヤヒメノミコトは、四方出口のないお産の小屋を作り、その小屋に火をつけて、その中でお産をすることにしました。そして、もし、他人の子なら焼け死ぬでしょうけど、あなたの子なら火をものともせず生まれて来るでしょうと身の潔白を告げられました。
すると、燃え盛る火の中から3人のこどもが無事生まれたのです。長男をホデリノミコトといい、海幸彦とも呼んでいます。また、弟の一人ににヒコホホデミノミコトといって、山幸彦と呼んでいる命がおりました。
稲背入彦命は、第12代景行天皇の皇子であって、大和から当地へ下向され白国に住居を構えられ播磨地方を支配させられ、伊和大神と並ぶ大きな勢力をもった豪族で別名針間(はりま)別命ともいった。
<稲背入彦命系譜> | <天皇家(初代〜48代)系譜> | |
景行天皇 ┳━ 大碓命 ┃ ┣━ 日本武尊 ┳━ 具倉王 ━━ 武国王 ━━ ┃ ┃ ┃ ┣━ 武卵王 ━━ 爾弥摩命 ━━ 奈鬼爾麻命 ┃ ┃ ┃ ┗━ 仲哀天皇━━ 応神天皇 ━━ 仁徳天皇 ━ ┃ ┣━ 成務天皇 ━━━ 和謌奴気王 ┃ ┣━ 五百城入彦命 ━━━━━━━━━━ 品陀真若王 ┃ ┣━ 草木命[日向君祖] ┃ ┣━ 稲背入彦命 ━━ 御諸別命 ━━ 阿曽武命 ┃ [針間国造祖] ┣━ 神櫛命 ━━━━ 千摩大別命 ━━ 須売保礼命 ┃ [讃岐国造祖] ┣━ 武国凝別命 ━━ ┃ ┗━ 豊国別彦命 ━━ 久邇止美彦命 |
1神武━2綏靖━3安寧━4懿徳━5孝昭━6孝安━7孝霊━8孝元━9開化━10崇神━11垂仁━12景行 ┓ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┗┳日本武尊━14仲哀━15応神┳16仁徳┳17履中━市辺押磐皇子┳24仁賢━25武烈 ┗13成務 ┃ ┃ ┣18反正 ┗23顕宗 神功皇后 ┃ ┗19允恭┳20安康 ┏27安閑 ┃ ┗21雄略━22清寧 ┣28宣化 ┗ ○ ━ ○ ━ ○ ━ ○ ━26継体┻29欽明━┓ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┗┳30敏達━押坂彦人大兄皇子━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓ ┣31用明━厩戸皇子(聖徳太子)━山背大兄王 ┃ ┣33 推古(敏達后) ┃ ┗32崇峻 ┃ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┗┳34舒明┳38天智━━━━┳41 持統(天武后) ━━ 草壁皇子 ┃ ┃(中大兄皇子)┣御名部皇女(高市皇子后) ┃ ┃ ┣43 元明(草壁皇子后) ━┳44 元正 ┣39弘文(大友皇子) ┗42文武━━45聖武━━46 孝謙 (48 称徳) |
稲背入彦命の孫のあたり、妃(高富媛)が出産のおり大変苦しまれ、命は白幣を山の峰に立て一心に安産を祈願された。
![]() |
兵庫県姫路市白国二丁目 | ![]() |
ご祭神は阿良津命といいます、孝謙天皇(718年(養老2)〜770年(神護景雲4)の)御代(天平宝字2年)758年に命の孫の佐伯宿禰芸胡多という方が、お祀りになったのが創立であると伝承されています。佐伯大明神として祭祈されていましたが、天皇の思し召しにより佐伯姓を白國姓に改め白國宿禰となりました。ご祭神の阿良津命は、白國の地を開いた稲背入彦命の曾孫になります。
祭礼 1月1日 5月8日 7月1日 10月9日
![]() |
兵庫県姫路市白国四丁目 | ![]() |
第十五代應神天皇(5世紀)の頃から祭祈していたと伝承されています。第八十八代後嵯峨天皇(1220年〜1272年鎌倉時代)の頃、飾東郡白國村の守護の武士(白國彈正左衛門)が、山の中腹に社を建立し、五穀豊穣(ごここほうじょう)等の農耕の神として、ことのほか崇敬し厚く祭祈したと伝えられています。以後、室町時代より現在までの約八百年間近隣の有志によって厚く祭祈されてきました。
祭礼 2月17日 10月9日 11月23日
![]() |
兵庫県姫路市白国三丁目 | ![]() |
文化文政(1804年〜1830年)の頃、隋願寺念仏堂の守り役を務めていた、半四郎という人が附近の山林を拓き、増位山より筧(かけい)の水を引き田を開墾しその開墾地の守護神として播州宝殿の石で社を造営しお祭りしたのが起こりと伝承されています。
祭礼 2月17日 10月9日 11月23日
![]() |
兵庫県姫路市白国五丁目 | ![]() |
古来より、近隣地域の崇敬者により維持管理されていましたが、昭和二十九年五月白国村々内より浄財を募り本殿を新築しました。それ以降三十五年の風雪の為に損傷し再び新築の必要に迫られていましたが、昭和六十年山陽自動車道の計画用地として一部を売却、また、昭和六十一年には関西電力より高圧線下の補償を受け平成元年に現在の本殿に改築しました。
トップへ戻る