日本史研究
幕末篇

 坂本龍馬の章


1.龍馬の写真

 一枚の古写真がある。

 幕末に撮られた有名な坂本龍馬の立ち姿の写真である。

 この写真は長崎にある上野彦馬のスタジオで慶応年間に撮られ、永らく撮影者は上野彦馬本人といわれてきたが、高知県立歴史民俗資料館館長の松岡司によれば、実際にレンズを向けたのは弟子の井上俊三という土佐人の写真師であるらしい。この写真は昭和十二年、東京三越で開かれたアサヒカメラ主催の写真文化展に出品されており、このとき既に撮影者は井上俊三であるとはっきり掲げられていた。それが戦後になってしばらくしてから彦馬撮影と断定、最近でも東京都写真美術館の三井圭司らの論文「坂本龍馬湿板写真の調査経緯について」において、彦馬のスタジオで、彦馬の機材を使い、彦馬本人が撮影したとされている。その根拠は明らかにされていない。では事実はどうなのかというと、はっきりしているのは、慶応年間に長崎の上野彦馬のスタジオで撮影されたということだけである。撮影者の可能性としては、彦馬本人か、弟子の井上俊三の二人が挙げられるが、もしこの坂本肖像写真の一枚が井上撮影のものなら、もう一枚のいすに座った坂本の写真も同じく井上であろう。また他の同スタジオ撮影の肖像写真である後藤象二郎も、桂小五郎も、高杉晋作も、そして他の社中(近藤長次郎、沢村惣之丞、長岡健吉ら)の肖像も、すべて井上が撮影した可能性が高い。
以下に簡単に理由を述べる。

 井上俊三は、慶応元年に土佐藩長崎駐在重役であった後藤象二郎の命により写真術習が課せられ、化学修学のため長崎に赴き、上野彦馬の門をくぐった。藩命なのだから井上にとって撮影は公務であり、慶応二年九月には藩金三百両でカメラ機材一切が買い上げられたが、スタジオだけは彦馬の写場を使った。経費は会計方へ請求すればいいから、俊三は出入りする土佐藩士にレンズを向けても一銭も取らなかった。つまり坂本にしろ、後藤にしろ、他の土佐藩士にしろ、彼らはいずれも井上のモデルとしてレンズの前に立った。そして彼らは無料で写真を撮ってもらったのである。
 もっともこの写真の撮影者が誰であるかなど大した問題ではない。私が取り上げたいのはカメラの前に立った坂本龍馬という人間である。手を懐に入れて大刀も差さずに皮靴を履いているこの有名な写真は坂本龍馬の人柄をよくあらわしているとよく言われる。武士の時代に護身用のピストルを懐に、草履の代わりに皮靴を掃き、颯爽と長崎を船に乗って駆け回る男、すなわち坂本はこの時すでに刀の時代の終焉をいち早く察知し、実用的な新しい西洋文化を取り入れた国際人なのだと。いわゆる「時代を先取りした龍馬」のイメージである。子供のころは泣き虫で勉強が出来ず、江戸に剣術修行に行き頭角を現す。北辰一刀流の免許皆伝者で、幕臣勝海舟の片腕として、神戸海軍操練所及び勝塾の塾頭となり航海技術を学ぶ。その後、長崎で亀山社中を設立し海運業に乗り出す一方で、薩摩と長州の同盟周旋に力を尽くし、それを成し遂げたのち、船中八策を打ち出して日本近代国家の基礎を築くなどなど。まだまだあるが大体こんなものが、坂本龍馬の肩書であろう。

しかし子供のころの話は後世に創られたものだし、北辰一刀流は学んだが、坂本が北辰一刀流免許皆伝者である証拠はない。また幕臣勝海舟の私塾の塾頭の一人であったかもしれないが、幕府直轄である神戸海軍操練所の訓練生ではない。さらに亀山社中は坂本の設立した会社ではないし、坂本が薩長同盟を周旋したわけでもない。それに自前の船も持てず海運事業が困難となった挙句、いろは丸を紀州藩の藩船にぶつけて沈没させて賠償金を取るという当り屋行為も平然とやってのける。そして坂本が起草したとされる船中八策なるものが存在したという証拠もない。何よりもあの坂本の写真であるが、同じ時に撮影されたもう一枚の写真では、龍馬は長刀を指して写っているから、普段から坂本は大小の刀を身に着けていたと思われる。後で述べるが、坂本は刀剣愛好家と言っていいほどの剣好きであった。また有名な皮靴であるが、当時皮靴を履いていたのは坂本だけとは限らない。同志である沢村惣之丞は当時帽子をかぶり洋服で皮靴を履いて写真に写っているし、池内蔵太とされる写真の男も皮靴である。長岡健吉は断髪して蝶ネクタイを締めている。後藤象二郎の写真も刀を差しておらず、何も坂本だけが特別新し物好きだったわけではない。また坂本自身も他の写真では草履を履いているし、いつも皮靴だったわけではない。

 ではあの写真の男は何者なのだろうか。

 まず立ち姿の写真であるが、これについては小美濃清明という刀剣研師が『坂本龍馬と刀剣』(新人物往来社刊一九九五年十一月)という面白い本を書いている。それによれば写真で坂本は短刀を差しているが、その差し方がおかしいのだという。どうおかしいかと言えば、通常刀剣というのは帯に差すものであるが、写真の坂本は袴の紐に差している。つまり写真撮影の直前に帯に差している短刀を袴の紐に差し直したと考えられるのだ。なぜそうしたのかといえば、帯に差していたら短刀の柄しか写真に映らないからで、坂本は短刀全体を写真に残そうとしたというのである。その場合長刀も邪魔だから外すことになる。またあの写真の坂本は両足を交差させていて、わざわざ短刀を一番見えやすい位置に持っていっている。坂本が懐中右手に持っているのは、ピストル、あるいは万国公法であるというようなことを解説か何かで読んだことがあるが、その根拠はない。懐に入れている右手は短刀が隠れないように裾を引っ張っているようだ。要するに龍馬は自慢の短刀を身に付けた自分の姿を撮ってもらいたかったということなのだ。さすが専門家の観察は鋭い。

 小美濃氏は坂本が妻お龍に宛てた書簡を綿密に検証して、坂本が所有の「刀剣図考」から白鞘の短刀に新しく〈拵〉を誂えようとし、それが本に載っていた楠正成の鞘黒漆の合口拵であり、彼が写真で身につけている短刀がまさに楠正成の鞘黒漆のそれであることを綿密な分析の結果の後、見事に実証して見せている。何よりも坂本は幕末の志士のうちでも屈指の刀剣愛好家であったという点を刀剣の専門家は鋭く指摘する。楠正成は幕末の志士にとって英雄であった。そして坂本もまた、その英雄を敬慕し憧れる典型的な「太平記」好きの西国武士、幕末の志士であったのだという。
 しかしその小美濃氏も最後に次のように書いている。

 龍馬が他の志士たちと大きく異なったのは、私心を捨てて大義に生きるという心情を〈薩長同盟〉〈大政奉還〉という歴史的事実へ昇華させたということである。そして、私心を捨て大義に生きる龍馬にとって〈薩長同盟〉も〈大政奉還の建白〉も決して矛盾する行動ではないのである。その意味で真に正成の末裔というにふさわしい志士は龍馬のみではないだろうか。(第一章「短刀の謎」P34)

 刀剣の専門家の立場から写真を分析して見事に坂本の実像に迫った小美濃氏であるが、その彼をして坂本龍馬という人間を理想化している。確かに坂本の行動には「太平記」に基づく倒幕思想が根底にあった。しかしそれは当時の勤皇の志士と呼ばれる者にはよく見られることであり、何も坂本だけが特別だったのではない。いや「私心を捨てて大義に生きる」などという心情は坂本には程遠いものなのだ。坂本は私欲のためなら、藩を捨てるし、倒幕相手の幕臣勝海舟の使い走りもするし、また船に乗せてやると言われれば薩摩藩直轄の組織である亀山社中に入社し、同時に西郷隆盛の後ろを付いてまわり、西郷の一声で長州探査にも努力を惜しまない。脱藩浪人という立場をフルに利用し、また利用もされる自由人とは名ばかりの勤皇の志士が坂本龍馬である。

 小美濃氏は刀剣という切り口で、わずかではあるが坂本龍馬の実像に接近した。
 しかし歴史の壁は厚く、その実像を明らかにするのは並大抵ではない。そこでまず私は、坂本の成し得た仕事として最も重要とされる「薩長同盟の仲介」に焦点を絞って「幕末の英雄坂本龍馬」という虚構を明らかにしたいと思う。


 2.「薩長同盟」はなかった

 坂本龍馬関係の書物を見つけたとして、私がまず最初に確認することは、目次に「薩長同盟」という項目があるかどうかを確認することである。さすがに今日の研究の進歩によって、「薩長同盟」という言葉を坂本龍馬に関連付けて用いる研究者は次第に減りつつあるが、それでも便宜上「薩長同盟」という用語を用いる学者は後を絶たない。もっともそれを「薩長連合」と言い換えたからと言って、史実に一歩でも近づくことが出来るわけではないが。
 そもそも幕末期、すなわち龍馬が生きていた時代において、「薩長同盟」とか「薩長連合」などという言葉は、資料に一切出て来ない。当時は「薩長和解(単に和解ともいう)」という語が使われていたが、それすら「薩長和解の義」といった単なる目的語として使われていただけである。「薩長同盟」という語はおそらく戦後、それも随分経ってから作られた言葉である。坂本龍馬が脚光を浴び始めた明治末期すら「薩長同盟」などという言葉は使われていない。厳密に言うならば、坂本龍馬と「薩長同盟」が結び付けられたのは、戦後の幕末ブームにおいてである。後で述べるが、慶応二年正月において薩摩藩と長州藩が同盟を結んだということを示す確実な資料は存在しない。これは残っていないという意味ではなく、両藩が和解したという事実そのものがないということを、当時の資料が伝えているということである。それを説明するために、まず「薩長同盟」についての通説を確認しておく。

 【薩長同盟(さっちょうどうめい)】
 江戸時代後期の慶応2年1月21日(1866年3月7日)に京都二本松薩摩藩邸
で幕末の薩摩藩と長州藩の間で締結された政治的、軍事同盟である。薩長同盟、薩長連合ともいう。  フリー百科事典『ウィキペディア(wikipedia)』より
 
 
便宜上ネットに掲載されているものを掲げたが、だいたいこれくらいが一般に知られている知識であろう。しかしこの内容の殆どは間違っている。「政治的、軍事同盟」ということから察して、長州系資料が元になっているのだろうが、「締結された」ことを示す資料など存在しない。もう少し詳しく言うと、「薩長同盟締結」には四人の人物が関わっている。薩摩藩家老小松帯刀、同藩士西郷吉之助、長州藩士木戸貫治、土州脱藩浪人坂本龍馬である。この四人の他にも取り巻き連中は何人もいるし、薩長同盟と呼ぶからには、藩レベルでの締結でなければならないが、定説によれば薩長両藩同盟はこの四人だけで結ばれたことになっている。四人の役職をみると、小松帯刀だけが藩の重役で、西郷と木戸は確かに両藩の実力者ではあるが、藩の全権を担うだけの地位には無い。坂本龍馬に至っては一介の浪人に過ぎない。それにも拘らず、薩長同盟の締結において最大の功労者は、坂本龍馬であるとされる。当時の薩摩藩は幕府側であり、長州藩は朝敵の汚名をきせられ、幕府から討伐される立場にあった。しかも第一次長州征伐において長州藩は大敗をきしていて、再び幕府は長州に派兵する準備を整えつつあった。そのような緊迫した状況で薩摩藩と長州藩の同盟を成し遂げたのであるなら、龍馬こそ幕末明治維新の最大の功労者であると言っても過言ではないだろう。しかし資料を検討すれば、慶応二年一月に京都の薩摩藩邸で坂本龍馬立ち合いのもと、小松、西郷、木戸の間で結ばれたという「薩長同盟」は後世の産物であって、全く史実でないことがわかる。
 先も述べたように薩摩藩と長州藩が慶応二年正月の段階で、同盟を結んだという確実な資料は存在しない。それなのに何故か誰もが、薩長同盟を自明なものとして幕末史を捉えている。つまり最初に資料ありきではなく、坂本龍馬ありきなのだ。薩長同盟は明治維新において大きな転換点であったとされるが故に、これまでその存在を疑うことはなかった。そしてそれを実現に導いた坂本龍馬は明治維新最大の立役者としての地位を確立したのである。


  3.坂本龍馬の年譜

 薩長同盟について検討に入る前に、慶応元年から翌慶応二年に絞って坂本龍馬の行動を年表で確認しておく。しかし残念ながら正確な信頼おける年譜は存在しない。そこで一応確実と思われる資料から作成してみたが、これも便宜上であることを承知していただきたい。

慶応元年1865
2月 8日 中岡慎太郎、土方楠左衛門、吉井幸輔らと伴に下関の白石正一郎邸に入る(寺尾五郎『中岡慎太郎と坂本龍馬』)
2月12日 中岡慎太郎、土方楠左衛門 大坂に入り翌日入京、中岡は十日滞在、此の頃坂本龍馬は大阪の薩摩藩邸か(寺尾五郎『中岡慎太郎と坂本龍馬』)
3月 3日 中岡慎太郎 博多上陸、その日のうちに大宰府へ(寺尾五郎『中岡慎太郎と坂本龍馬』)
3月26日 中岡慎太郎 薩摩藩の黒田清綱と博多で会談
3月28日 中岡慎太郎、大宰府から長州へ
4月 5日 坂本龍馬 吉井幸輔宅に同居、京薩摩藩邸で土方楠左衛門と会う(菊池明『龍馬‐最後の真実』)
4月13日 中岡慎太郎 長州からの帰路、博多で黒田と会談
4月14日 中岡 大宰府に戻る
4月22日 坂本龍馬 西郷吉之助に従い京を出る
4月25日 坂本龍馬 大坂天保山で薩摩藩船「胡蝶丸」乗船、鹿児島に向う(菊池明『龍馬‐最後の真実』)
4月29日 中岡慎太郎 伊藤博文 井上聞多を通して長州にて桂小五郎に面会
4月30日 中岡慎太郎 下関から京都に向かう
5月 1日 坂本龍馬 西郷吉之助、小松帯刀と鹿児島に入る
5月 5日 中岡、京都薩摩藩邸に入る。土方久元に会う
5月16日 坂本龍馬 鹿児島を出る
5月19日 坂本龍馬 熊本の横井小楠を訪問
5月23日 坂本龍馬 大宰府に入る 渋谷彦助に合う 五卿の衛士安芸守衛を紹介される。さらに長州藩士小田村素太郎を訪ねる(菊池明『龍馬‐最後の真実』)
5月24日 中岡と土方は薩摩藩岩下佐次右衛門の鹿児島帰国に伴い胡蝶丸に同乗し京都を出る。
5月24日 坂本龍馬 三条実美に拝謁
5月25日 坂本龍馬 東久世通禧に拝謁、東久世通禧「偉人なり奇説家なり」と日記 に書く
5月28日 坂本龍馬 大宰府を出立
5月 長崎で亀山社中結成
5月 1日 坂本龍馬 下関、綿屋弥兵衛宅で土方楠左衛門と会い桂小五郎との会見を求める 夜高熱を発する
5月  3日 土方 長州に入る。中岡はそのまま鹿児島へ向かう
5月 5日 坂本龍馬 土方楠左衛門の訪問を受ける
5月 6日 白石正一郎邸 坂本龍馬、土方楠左衛門、桂小五郎会談 中岡鹿児島に到
5月 7日 坂本龍馬、土方楠左衛門、桂小五郎会談(8日も)
5月 9日 「薩長和解の議もいよいよ相い纏りもはや用向きも相いすみ候に付き、これより諸卿方へ復命のため帰西に相い決し、九ツ時より乗船、・・・・」土方『回天実記』
5月15日 中岡慎太郎 西郷らと胡蝶丸で鹿児島を立つ
5月21日 中岡慎太郎 下関に入り西郷吉之助下関に入らずを坂本龍馬、桂小五郎に報告
5月29日 坂本龍馬、中岡慎太郎 京に向う
6月14日 坂本龍馬、中岡慎太郎 備前西大寺に入る
6月24日 坂本龍馬 京薩摩藩邸で西郷吉之助に長州藩用銃器の薩摩藩名義購入を要請
7月19日 中岡慎太郎、田中光顕京都を出足 坂本は伏見まで見送る
7月27日 坂本龍馬 福岡孝弟と伊達宗成に拝謁
8月 坂本龍馬 伏見寺田屋に入る
9月 7日 坂本龍馬 兄権平、姉乙女、おやべ宛てに手紙を書く
9月 9日 坂本龍馬 乙女、おやべ宛に手紙を書く
9月24日 坂本龍馬 西郷吉之助と京を出て大坂に入る 
9月26日 坂本龍馬 兵庫に入る 胡蝶丸で鹿児島へ
9月29日 坂本龍馬 上関で降りる 山口で広沢兵助と面談し長州再征が勅命されても薩摩藩は出兵しないと告げる(9月23日付大久保利通の西郷隆盛宛書簡を持参)
10月 3日 坂本龍馬 下関で高杉晋作、木戸貫治と会見、薩摩藩の兵糧米を依頼
10月 4日 坂本龍馬 広沢真臣から薩摩藩への兵量米提供の確約を得る
10月 7日 坂本龍馬 白石正一郎邸に入る
10月11日 坂本龍馬 印藤聿に面会
10月14日 坂本龍馬、木戸貫治、高杉晋作、井上聞多、伊藤俊輔 会談
10月17日 この頃西郷と大久保は胡蝶丸で上京途中に長崎に立ち寄る この時上杉宗次郎に会う(18日付上杉宗次郎の井上聞多宛書)
10月21日 坂本龍馬 下関で木戸貫治に上京を求める
11月 坂本龍馬 大坂に入る
11月16日 大目付永井主水正尚志 広島着 20日長州藩の使者宍戸備後助を尋問
11月24日 坂本龍馬 大坂より長崎に向う
12月 3日 坂本龍馬 下関で「ユニオン号」使用権の約束書、「桜島丸攻守条約」を結ぶ
12月27日 木戸貫冶 黒田了介品川弥次郎他諸隊代表と伴に三田尻発す上京
12月29日 木戸貫冶 山口にて下関の坂本に宛てて半日も早く上京を促す 坂本ユニオン号問題に関わる
慶応二年 1866
1月 1日 坂本龍馬 下関地方町年寄福永専介宅で印藤聿より長府藩士、三吉慎蔵を紹介される
1月 高杉晋作 坂本龍馬に漢詩を記した扇とピストルを贈る ユニオン号問題紛糾 上杉宗次郎 自決(14日か24日)
1月 7日 木戸一行大阪着 その後伏見にて西郷の歓待を受け、小松帯刀邸に入る 長州処分会議開かれる(15日に中断)(山本栄一郎『真説・薩長同盟』)
1月10日 坂本龍馬 三吉慎蔵と下関より乗船、京に向う
1月16日 桂右衛門に帰国命令が届く 木戸貫冶の同船することにする
1月17日 坂本龍馬 神戸に入る
1月18日 木戸貫冶と薩摩人(小松帯刀、桂久武、諏訪伊勢、西郷隆盛、大久保利通、吉井幸輔、奈良原喜八郎)との最後の会合が小松邸で行われる
坂本龍馬 大坂薩摩藩邸に入る 夜、大久保一翁を訪問、三吉慎蔵同行
1月19日 坂本龍馬 伏見寺田屋に入る
1月20日 坂本龍馬 京二本松薩摩藩邸に入る 池内蔵太の母に手紙を書く
1月21日 「過ぐる二十一日、桂小五郎、西郷との説判約決の次第、委細坂本氏より聞取る」(三吉慎蔵二十三日日記)
1月22日 坂本龍馬 木戸寛治、小松帯刀、西郷吉之助と会談
1月23日 坂本龍馬 伏見に下り、寺田屋に入る 木戸貫治 大阪で盟約書の裏書を求め坂本龍馬に発送
一、戦いと相成候時は、すぐさま二千余の兵を急速差登し、只今在京の兵と合し浪華へも一千程は差置き、京阪両所相固め候事
一、戦、自然も我が勝利と相成り候気鋒相見え候とき、其節朝廷へ申上げきっと尽力の次第これあり候との事
一、万一敗色に相成り候とも、一年や半年に決して潰滅致し候と申す事はこれなき付き其間には必ず尽力の次第これあり候との事
一、是なりにて幕兵東帰せし時は、きっと朝廷へ申上げすぐさま冤罪は朝廷より御免に相成り候都合にきっと尽力との事
一、兵士をも上国の土、橋、会、桑も只今の如き次第にて、勿体なくも朝廷を擁し奉り、正義を抗し、周旋尽力の道を相遮り候時は、終に決戦に及ぶほかこれなくとの事
一、冤罪も御免の上は、双方とも誠心を以て相合し、皇国の御為に砕身尽力仕り候事は申すに及ばず、いづれの道にしても、今日より双方皇国の御為め皇威相輝き、御回復に立ち至り候を目途に誠しを尽くして尽力して致すべくとの事なり

 表に御記入しなされ候六条は小・西両氏および老兄龍等も御同席にて談合せし所にて、毛も相違これなく候。従来といえども決して変わり候事はこれなきは神明の知る所に御座候。
2月 6日 坂本龍馬 印藤聿に寺田屋の遭難状況と三吉慎蔵の安否を報告する手紙を書く
2月22日 村田新八 山口で木戸貫治に会い盟約書と坂本龍馬の手紙を渡す
木戸寛治 坂本龍馬に裏書の礼と寺田屋事件を見舞う手紙を書く
中岡慎太郎 坂本龍馬を見舞う
2月29日 坂本龍馬、お龍 伏見より舟で大坂に向う
坂本龍馬 お龍と結婚 中岡慎太郎、媒酌
3月 4日 薩摩藩船「三邦丸」大坂出港 西郷吉之助、坂本龍馬、中岡慎太郎、三吉慎蔵、お龍乗船
3月 8日 「三邦丸」長崎入港 坂本龍馬、お龍と近藤長次郎の墓参りをする
3月10日 「三邦丸」鹿児島入港 坂本龍馬、小松邸や吉井邸に宿泊を重ねる
3月14日 中岡慎太郎 三吉慎蔵に手紙を書く
3月16日 坂本龍馬 お龍と日当山温泉に行く
3月17日 坂本龍馬 お龍と塩浸温泉に行く
3月28日 坂本龍馬、お龍 霧島温泉宿泊
3月29日 坂本龍馬、お龍 霧島登山、霧島神宮宿泊
3月30日 坂本龍馬、お龍 霧島温泉宿泊
4月 1日 坂本龍馬、お龍 塩浸温泉宿泊
4月 8日 坂本龍馬、お龍 日当山温泉に宿泊
4月12日 坂本龍馬、お龍 鹿児島に入る
4月14日 坂本龍馬 開成館訪問
5月29日 坂本龍馬 西郷吉之助と会談
6月 2日 坂本龍馬、お龍 「桜島丸」で鹿児島出港
6月 4日 坂本龍馬 長崎に入り小曽根邸にお龍を預ける
6月14日 坂本龍馬 五島で水難同士を弔い碑の設置を依頼
6月15日 坂本龍馬 馬関に向うため長崎を出港
6月16日 坂本龍馬 下関に入り高杉晋作と会う
6月17日 第二次長州征伐 小倉口の戦い始まる 「桜島丸」門司を艦砲射撃 坂本龍馬、高杉晋作、村田新八観戦
6月20日 坂本龍馬 白石邸で高杉晋作と会見後山口に向う
6月25日 坂本龍馬 山口で薩長同盟の功により長州藩主、毛利敬親より短刀を拝
7月 3日 坂本龍馬 小郡より下関に向う
7月 4日 坂本龍馬 下関に入る 木戸貫治に手紙を書く
7月20日 将軍家茂死去
7月25日 坂本龍馬 長崎で五代才助と会見
7月27日 長州軍 小倉城本陣を総攻撃、熊本藩兵陣屋に火を放ち退却
坂本龍馬 木戸貫治に長崎の幕府軍の様子を伝える手紙を書く
7月28日 坂本龍馬 三吉慎蔵に水夫と機関士を大洲藩に派遣と手紙を書く
亀山社中 経営困難 坂本龍馬、長崎、下関、鹿児島を往来
8月15日 坂本龍馬 鹿児島より長崎に入る
8月16日 坂本龍馬 三吉慎蔵に手紙を書く
坂本龍馬 下関で中岡慎太郎と会見
9月 伊予大洲藩、国島六左衛門 坂本龍馬の斡旋で蘭国商人ボードウインより英国蒸気船「アビソ号」(いろは丸)を購入
坂本龍馬 伊予大洲藩と「いろは丸」貸借契約を結ぶ
坂本龍馬 長崎油屋町大浦お慶屋敷で後藤象二郎と会見
10月 3日 亀山社中 薩摩藩より給金を受取る
10月22日 坂本龍馬 プロシャ商人チョルチーと商談
10月23日 坂本龍馬 購入船の下見をする
10月28日 亀山社中 帆船「大極丸」を薩摩藩の保障で購入
11月 坂本龍馬 五代才助と下関に入り広沢兵助と薩長合併の商社設立を協議
11月 坂本龍馬 溝淵広之丞と会う
11月16日 坂本龍馬 溝渕広之丞と小銃の購入について面談
11月20日 坂本龍馬 寺田屋お登勢に手紙を書く
12月 4日 坂本龍馬 小曽根邸で兄権平に小倉口の戦いの様子を手紙に書く
12月25日 孝明天皇崩御