沖縄戦ではすべてが焼失した。
特に琉球王朝文化の中心・首里城とその周辺の遺産の多くは、
跡形もなく消えた。
そして、戦後の消えかかった琉球の文化遺産を、
奇跡のようにある男の膨大な記録資料が甦らせたのだ。

さぬき男

琉球文化研究家・鎌倉芳太郎

 四国の香川県生まれの男が、なぜか海南の文化に魂を奪われ、集めた研究資料数千点画家の眼で写したスケッチ混じりの記録ノート(後に鎌倉ノートと呼ばれるもの)81冊、プロの写真家をうならせた撮影技術で残した記録写真3千点余、このすべてが東京大空襲の被災を奇跡的に免れて残された。
 以下は、鎌倉芳太郎の足跡の一部である。


時代背景

 明治維新以降、日本の文化遺産は存亡の危機にさらされた。正倉院宝物は勿論、全国の寺院宝物類は無価値で廃棄すべきものと見なされ、現に大量の絵画が欧米へ流出していった。

 ここに大正13年4月3日付けの東恩納寛惇(ヒガオンナ カンジュン)の新聞記事がある。残念ながら不鮮明なコピーで、新聞紙名は不明。
「明治初年に矢鱈と舊(キュウ)物を破壊した時に 某という洋行帰りの若い知事が奈良縣に赴任した頃名所舊跡等と云ふ不生産的なものは成る可く取り払って 羊でも飼った方がよいと云ふ方針で興福寺の五重塔を取り除ける事になり 入札に付した處八百何十圓と云ふ札に落ちた そこで八百や千の金でどうして取りの ける積もりかと聞いて見た處 下から火を懸けて焼き払う積もりである 木材は焼けても九輪その他金目のものは残るであらうからその銅の價を見込んで札を入 れたのだとの答 ところがイザと云ふ時になってあの高い塔に火をかけられた日には危険で仕様がないと市民から抗議が出てツイ其のままになったのが今では御 覧なさい 奈良美術中最も優秀な作として世界に誇って居るではないか」

 これをみても、当時の日本の知識層は、いかに文化的資質に欠けていたかがよく判る。その連中が、集団となって差別意識むき出しで、この沖縄へ乗り込んできたのだった。
 その当時を表した別の資料がある。首里城復元記念誌「甦る首里城 歴史と復元」である。引用させていただく。
「廃藩置県以降、長期間、県の行政にたずさわる上級官吏はほとんどすべて琉球の文化を知らない県外出身のいわゆる『大和人(ヤマトゥンチュ)』が独占して いた。無論、郡長や首里、那覇の区長、それに学校長に至るまで大和人であった。そして明治政府による統一国家策の強まる中で彼等は沖縄を植民地視しただけ でなく沖縄固有の文化を否定した。例えば歴史と風土が生んだ琉装は野蛮視された。また、琉球音楽や伝統芸能なども劣等な文化であるかのように吹聴された。 更に母語(方言)までも強く否定されて沖縄の人は全く骨抜きにされた民族同様の状態に置かれていった。

 学校教育、社会教育も統一国家策に同調して琉球歴史を排除し、天皇中心の歴史に大きく傾き、沖縄自らの文化を卑下視して伝統文化を危機に陥れる状況を作り出した。
 

 こうした時代背景の中に、一人の男が生まれたのだ。

鎌倉芳太郎の誕生

明治31年(1898)10月19日 香川県の現三木町に父宇一、母ワイの長男として生まれる。

明治37年(1905) 7歳で母を亡くす。その後、父の事業失敗、住処を無くし、伯母の家で育てられる。幼少から絵の好きな子であったらしい。教師をしていた伯母の勧めで、香川県師範学校へ進学している。
在学中、当時中央で高名な竹内栖鳳門下穴吹香村に日本画写生の法を学ぶ、 とあるから絵の才能は相当あったものと思われる。 

大正7年(1918) 20歳 香川県師範学校を卒業。勉学のこころざし強く、周りからも勧められ、東京美術学校へ進む。
 当時、東京の専門学校へ行くというのは、大変な時代で、余程の才能と経済力がなければ実現しなかっただろう。それが実現したのは、芳太郎の勉学に対する強い意志と周りの理解、特に伯母の惜しみない協力があったのだろう。
 回想で、富岡鉄斉のような学問のある絵描きになりたく、一方では讃岐出身の平賀源内に憧れたり、レオナルド・ダ・ビンチのような生涯を夢見たりと、多感な青年であったことが書かれている。

沖縄との運命的な出逢い

大正10年(1921) 23歳 3月、東京美術学校図画師範科を卒業。
  4月、文部省より沖縄県に出向を命じられ、沖縄県女子師範学校教諭兼沖縄県立第一高等女学校教諭となる。
  一説によると、この時の沖縄行きは、赴任手当が全国で一番高く、伯母への返金を多くしたい芳太郎の想いがそうさせたらしい。初任給100円、下宿代 20円というから相当なもので、伯母への仕送りと、残りは沖縄研究に費やしたのだろう。ちなみに当時は、800円でそれなりの家が買えたというから、 100円の価値が判る。
  沖縄の地へ第一歩を踏み出した芳太郎に対して、沖縄の自然は学者にではなく美術家としての感性に強烈な印象を与えたようだ。芳太郎の心を魅了したの は、亜熱帯の強い日差しと溢れる南国の色彩、土地の人々の優しい眼差しである。そして、首里城と紅型(ビンガタ)という琉球文化を代表する遺産の研究 に没頭するのである。特に、紅型は生涯関わることになるのである。
  芳太郎は言う。「那覇の港へ着いて、そこへ出迎えていた『じゅり』 と呼ばれる水商売の女の、それはきれいであったこと」と。

  当時の感想が「讃岐人物風景」に記されている。
  「学校は首里と那覇の中間の、真和志にあって、遠くに壺屋の登り窯の煙が、砂糖キビ畑のかなたに見えるという景観で、小川のほとりには大きなホタルが飛び交うさまが見られ、生徒を見ると、なるほど沖縄には美人が多い」
  それから1ヶ月して住まいを首里の大中町に移し、元士族の座間味家に下宿。ここで首里の風俗や生活、なかでも首里方言は相当マスターしている。これが後に、消えかかった紅型職人との交流を生み出すのに、大いに役立ったのである。
  「琉球の自然は美しい。亜熱帯の輝く光と色に満ちている。高気圧圏に入ったときの空は、抜けるように青く黒みを帯びて深い。入れ墨(ハジチという女性の手の甲の入れ墨)をしている人がとても美しかった」
  ともかく感激した芳太郎は、教壇へ立つ合間に、琉球芸術の研究に没頭し、持参のカメラで現地の文化財を撮影したり、メモ魔と呼ばれる克明さで記録ノー トを作成した。スケッチにいたっては、尊敬していたダビンチのスケッチに習い、解剖図を描くように当時の歴史的風物や史跡を描き残した。特に、首里城の存 在に感激し、琉球王朝の文化の粋をそこに見て、微に入り細にわたる記録を残している。これらは後になって、沖縄の宝となる。

伊東忠太博士との出逢い

大正12年(1923) 25歳 4月、任期切れなのかどうか定かではないが、沖縄から一旦帰京し、再度勉強する為、東京美術学校研究科(美術史研究室)へ再入学している。そこで琉球での研究資料を、正木直彦校長に提出している。
  すると、その内容の素晴らしさに驚いたのか同校長は、当時、日本の建築界の巨人的存在であった東京帝国大学の伊東忠太教授を紹介した。伊東教授もその 内容の充実ぶりと可能性に惹かれたのか、以後芳太郎は、東京帝国大学の伊東忠太教授の指導を受け、琉球研究を続行することになる。
  この伊東忠太教授というのは、中国を始め、東南アジア、中近東をロバに跨り、3年掛けて回り、その後欧米を遊学し、建築家であると同時に美術史家としても名をなした人である。戦前の沖縄の国宝指定に貢献している。
  6月、こ の時、芳太郎はある新聞報道に仰天する。大正12年6月、沖縄で老朽化した首里城正殿の取りこわし式を実施するというのだ。あれほどの文化遺産が消滅す る。しかも、それは3日後とのことである。ことの重大さに驚いた芳太郎は、すぐさま伊東教授のところへ飛んで行った。教授も即座に内務省へ電話をし、すぐ さま出向いて黒板勝美文学博士と打ち合わせて、正殿を史跡名勝天然記念物として保存することを決定した。内務省から電報で工事中止の連絡が行ったのは、ま さに大屋根へ取り壊しの一撃が下される直前であったという。文字通りの危機一髪であった。


大正13年(1924) 26歳 4月、伊東忠太教授と共同研究の名義で、財団法人啓  明会より琉球芸術調査事業のため1万円の補助を受ける。東京美術学校助手(美術史研究室勤務)として、沖縄県へ出張。
  このうち鎌倉は3000円をもらい、ドイツの高級カメラのタゴールを1000円で購入している。現在では300万円相当といわれる。ただ、その取り扱 いは大変で、1ヶ月で撮影から現像までマスターしなければならなかったらしい。しかし、その努力の甲斐あって、後に大写真家の木村伊兵衛氏をして「大正時 代のマボロシの名写真家」と言わしめる作品が残ったのである。

  首里市の援助により尚侯爵家、その他首里、那覇の名家の所蔵品を調査、撮影する。 これが後の貴重な鎌倉資料となる。第2尚氏の3代目尚眞王の御後絵(オゴエと呼ばれる肖像画)も、このときの撮影で復元できたのである。この御後絵の実物は焼失しており、写真記録が無ければ永遠に人目に触れられないところであった。



 この時の調査結果は、平凡社の世界美術全集に写真付きで発表され、伊東忠太は「琉球芸術総論」、鎌倉は「琉球美術各論」を執筆している。前にも述べてい るが、伊東は明治25年から 4年間、中国、東南アジア、中近東から欧米と歴遊し、世界規模での建造物の変遷と特徴を知る第一人者であった。今回の調査結 果を政府に具申し、昭和初期の沖縄の建造物が改めて見直され、国宝として指定されたのである。その数24点で、なんと全国の半数以上だったという。

その後の経歴

大正14年(1925) 27歳 3月、東京美術学校美術史研究室に帰校。9月、同校で財団法人啓明会主催の琉球芸術展覧会並びに講演会が開かれ、「琉球美術工芸に就きて」と題し講演を行う
大正15年(1926) 28歳 4月、沖縄本島を中心にして、奄美大島、宮古島、八重山諸島を調査する。
昭和2年(1927) 29歳 9月、八重山より台湾に渡って調査旅行し、上海を経て帰国、東京美術学校に帰校する。同月、正木直彦校長担当の「東洋絵画史」のため、有給助手となる。
昭和3年(1928) 30歳 9月、財団法人啓明会創立10周年記念事業として、東京美術 学校で染色工芸資料3千余点を展示、「琉球染色について」と題して講演を行う。
昭和5年(1930) 32歳 1月、洋画家の山内静江と結婚。当時帝展洋画部入選の実力者静江は、後年紅型研究家芳太郎のよき協力者となる。
  4月 東京美術学校講師となり、「風俗史」講座を担当。その頃、「東洋美術史」を執筆、刊行する。その後「東洋絵画史」の講座を持ったり、「東洋彫刻史」を執筆したり、東洋美術の造詣を深める。
昭和12年(1937) 39歳 1月、沖縄県へ赴き、首里城、浦添城、昭屋城跡等の発掘調査を行う。
  
10月、伊東忠太博士と共同名義で「南海古陶瓷」を刊行。
昭和20年(1945)  47歳 3月、自宅が戦災にあい、蔵書3000点及び東洋美術史研究資料全部を焼失した。但し、琉球芸術資料(数千点)は東京美術学校文庫に保管のため焼失を免れる。これが琉球染色の本格研究の契機となる。
 この戦災で自宅が焼け落ちる時、うろたえ騒ぐ長男の秀雄氏に「絵を描く人間なら、目の前で燃えている自分の家の様子もしっかり見ておくように」と言ったらしい。教育者としての鎌倉芳太郎を、よくあらわしているエピソードである。
 前の年に東京美術学校助教授を辞職していた芳太郎は、これを天の啓示のように思ったらしい。「よーし、琉球染色の本格研究をやろう」「職なし、家なし、素浪人からの出発」それが後の人間国宝となる染色家、鎌倉芳太郎の誕生だった。
 それからは「琉球紅型」の実物大手彩色豪華本の制作にとりかかり、58歳でそれを完成。60歳で第5回日本伝統工芸展に「琉球紅型中山風景文長着」が入選、以後毎回出品し入選している。
昭和36年(1961) 63歳 社団法人日本工芸会の正会員になる。
 紅型の研究者から紅型の制作者となり、第1流の作家となるが、本来の紅型とは一味違った作品に仕上げている。これは「私はどこまでも本土からの旅人で あって、そこに伝わり育ってきた紅型の美しさに驚き・・・・学び得たが・・・・紅型の心はどこまでも琉球のもの」と言い、自らは型絵染めと称していたらし い。亜熱帯の光の下でこそ映える紅型も、本土の穏やかな光ではその色彩が浮き上がるとして、色調を押さえた万葉調の作品にしているのだ。
 
昭和47年(1972)  74歳 2月 首里の琉球政府立博物館で「50年前の沖縄」の写真展を開き、戦火に消えて全てを失った沖縄人に、かっての琉球文化の存在を知らしめる。観客は連日の大盛況で、鎌倉芳太郎の存在の大きさが認識される。
 4月勲4等瑞宝章を受ける。9月 第19回伝統工芸展で、最高の賞である日本工芸会総裁賞を受賞。 
 
昭和48年(1973)  75歳 重要無形文化財技術保持者、いわゆる人間国宝に選ばれるが、「わしは学者じゃ、職人ではない。従って人間国宝なんかじゃない」と呟いて、さして喜ばなかったらしい。 

昭和58年(1983)   84歳 8月3日に永眠する。晩年も妻静江や息子の嫁との共同作業で制作を続け、執筆活動も盛んにした。生涯沖縄を愛し続け、「わんにん うちなーんちゅどーや (俺は沖縄人だぞー)」と叫んだ讃岐男・鎌倉芳太郎は、やまとや沖縄の区別のない、もっと大きな世界を夢見る巨人であったと言える。
 戦後の沖縄展や沖縄関係の資料本制作には、鎌倉芳太郎の資料は無くてはならないものとなっている。

                   完
 
トップページへかえる

1