悲劇を生きた沖縄の偉人

板良敷(牧志)朝忠
いたらしき (まきし) ちようちゅう

第8話 2003.6.8




海音寺潮五郎「鷲の歌」より
死装束の小禄三司官
その3.牧志・恩河事件

 薩摩の、と言うより島津斉彬の威光が消えると、琉球ではこれまで肩身の狭い思いをしていた摂政三司官と反薩摩派が、一気に巻き返しに打って出た。これを斉彬崩れという。軍艦購入に積極的に動いた玉川王子をはじめ、小禄三司官や恩河親方、牧志朝忠等は、薩摩に琉球の情報を流して利益をあげた国賊呼ばわりから、果ては玉川王子を擁立して尚泰王の廃摘を企てたとするクーデター説まで、その流言飛語は止まるところを知らなかった。この糺問(キュウモン)役の代表が、玉川王子の兄である伊江王子であった。

 安政6年(1859年)2月23日、まず恩河朝恒の物奉行職が解任され、3月28日入獄させられる。暗示的なのは、事件発端の2月23日の3日前、つま り2月20日に、島津斉彬公薨去(コウキョ)に就き上下一般謹慎をする様に、という評定所の廻文が廻されていることである。

 斉彬の死は前年の7月16日で、琉球国への正式な表文がもたらされたのが12月20日、そして廻文が2月20日で恩河親方の解任が2月23日、反斉彬派 の地歩固めが着々と進み、用意万端整ってのすさまじい攻撃が始まったのが伺い知れる。新しい薩摩藩主久光の反応を見極めるには、十分な時間的余裕である。

 投獄とそれに続く拷問の惨状は、「苦楚惨酷に堪へず(琉球三冤録)」と表現されている。脚の皮肉が拷問の棒に剥ぎ取られるほどに厳しく問われる。その罪 状がいかなるものかと言えば、国庫から先島へ交付すべき金銭を横領したというだけ、それも「無根の風説」であったというから、恨みとは恐ろしい。恩河は「苦楚惨酷に堪へずと雖も更に之を承けず」と、最後まで首を横に振り続けた。

 次の小禄三司官は同年5月9日に免職となり、7月18日投獄されている。小禄三司官を獄に下した此の日「地震數回大雨盆を傾くるが如し」と琉 球三冤録に書かれている。さらに同書に「此日仲里は筑佐事(チクサジ・獄卒)を遣わし小禄に喪服の白衣を着し自邸に来るべきを命ず 小禄即ち命の如く白装し肩輿に駕して来る」とある。罪人とは言え、元三司官という閣僚級の重責者であり、その死装束の雰囲気がありありと目に浮かぶ。しか し、拷問は恩河と同じであった。小禄も脚の肉が裂け、骨が見えるまでになったが罪は認めなかった。というより、認める罪がなかったのだ。

 同年9月25日、本命ともいえる牧志朝忠が、免職投獄となる。ただ、ここからが朝忠の余人と異なるところで、彼は糺問(キュウモン)係の大屋子の詰問 に、一切逆らわない態度に出た。そのことが朝忠を悲劇に結び付ける結果を生むことになるのだが、それは結果論による後生の批判である。。朝忠が見続けていたものは、目前に並ぶ血に飢え、復讐心に燃えた俗物群の顔である。そして朝忠には、小禄や恩河が命を賭してまで守ろうとする、面子というものがなかった

 冷めた頭脳の持ち主には、この疑獄が何を求めているのか、初めから判っていた。彼等の求めているのは決して真実等ではなく、薩藩によって潰され続けた積 年の体面への血による贖(アガナ)いである。その血は、だれかが捧げなくてはならない。どうせ免れないのなら、自分の血を存分に、という態度である。

 ただ、ここでどうしようもなく問題になるのは、小禄親方が三司官選挙で最高点獲得者ではなく次点獲得者を選任するよう、薩官へ内密の働きかけをするよう 朝忠に依頼したという嫌疑まで、朝忠は認めてしまったことである。ある一点を睨み続け、一切逆らおうとしない朝忠の、頑なな姿勢が見える。一点とは、真実 を求めようとしないものへ、真実を語ることの虚しさである。彼は表情ひとつ変えず首肯したかも知れない。朝忠には躊躇いがみられない。

 この点に関しては、糺問の内容が判らず、どのような誘導尋問が行われたか不明であるが、これにより朝忠への拷問は回避され、代わって小禄親方への再拷問が行われたことである。その苦痛に耐えての悲鳴が、屋敷外まで聞こえたと記録にある。

 ここからが少し理解に苦しむのだが、琉球三冤録に書かれているのを見ると、朝 忠は在獄中一時自宅へ逃げ帰り、家人に遺書を手渡したと喜舎場翁は書いている。これだけの重大事犯の最中にである。その遺書の内容が、また凄い。「我れ未 だ曾って小禄の嘱を受けて三司官選挙干渉せしことなし。今之を承認したるは一時の権を用いたりと。蓋(ケダ)し拷問の残酷に堪へず、承(ウケ)ざるも死 す、承るも死す、寧ろ之を承けて一時の苦楚を免るゝの勝れるに如かず。」

 これでは小禄家ゆかりの者ならずとも、憤りに震えるのではないか。海音寺潮五郎も、このくだりの解釈には手を焼いている。「鷲の歌」ではこう説明してみ せる。「たしかにそうだ。朝忠は才人によくあることだが、気性の剛毅さに欠けていたのかも知れない。あるいはまた、この時代のこの国の審問は一人ずつする のを原則として、対決はほとんど行われなかったから、審問者らは、すでに小禄は白状したと言ってだましたのかも知れない。」と。

...安政の大獄にも並び称される、琉球史上初めて発生したこの疑獄事件は、その後も明白な決着を得ることもなく、いつしか巷間では「白党」対「黒党」の 闘いと呼ばれたりもしているが、当時のひとびとのこの事件に対するある種の判断がよく示されている。白党とは疑惑の罪だけで裁かれた者を擁護する立場の一 派、黒党とはそれを裁いた反薩摩派の面々である。しかし、この背景には、島津侵攻以来支配され続け、自己のアイデンティティを得られなかった琉球人の歴史 的な怨念が込められていたのも事実である。現存する彼等の子孫にしてみれば、あまり触れて欲しくない悪夢であろう。この件に関して、過去の認識を深めるこ とは求めても、単なる正邪の判断でことの真相を求めるような愚だけは避けたいものである。

 この疑獄事件に関する琉球三冤録の一文を、最後に記してみよう。筆者である喜舎場翁の、詩人特有の誇大表現に多少注意を要する。
 「今回の大獄事は我國古来未曾有の大事件にして(略)赤木に蟲が生じ其蟲従前未だ曾て見ざる所 城中城外其夥しき 勝へて言ふべかざる 或は樹木に懸け垂れし或は地上に這い行く 良久しくして蝶と爲て飛ぶ 其形亦異状黒翅赤腹なり 紛々擾(フンプンジョウジョウ)首里城中に乱飛し行路を妨ぐるに至る 本年七月に至る蟲と爲り蝶に化すること五回 亦天に怪光を發すること數回 又地震日々月々荐(シキ)りに起こり一日十餘回なることあり 人家の石垣破壊すること多し 亦園比屋布嶽(首里城門外に在り)中に榕樹(ガジマル)赤液を流出すること渾(スベ)く血の如く 路上に注ぎ垂れること毎日一升計り 二三十日にして止む」。
 沖縄において蝶(ハベル)は独特の意味を持つようだが、それにしても、当時の首里周辺のざわめきと不安が手に取るようである。

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