悲劇を生きた沖縄の偉人

板良敷(牧志)朝忠
いたらしき (まきし) ちようちゅう

第7話 2003.5.7




■奔流する時代の波


 続おきなわ歴史物語の第7話 その後の牧志朝忠の家族たち、という文章の中で著者の高良倉吉氏は朝忠のことを「アメリカのビンセンス号の乗組員たちと世 界情勢について語り合った時、『世界一の強国はどこか』と聞き、『七つの海を支配するイギリスだ』とアメリカ人が答えると、『今はそうかもしれないが、や がてアメリカが強国になる』と言ってアメリカ人をうれしがらせた」とある。
 この当時としての驚くべき正確な認識とその先見性は、どこから生まれたのだろうか。あるいはジョン万次郎から得た知識か。それにしても、仮に万次郎から話を聞いたとしても、それを理解し知識とできたのは彼の非凡な才能である。

琉球三冤録

 
いよいよ、朝忠の悲劇を、これまた喜舎場朝賢の「琉球三冤録」を中心にまとめてみる。

 その1.異例の特進、「表十五人役」
 「安政四年丁巳十一月薩庁命ありて異国通事大湾親雲上朝忠を十五人席勤務に任じ仮に日帳主取の事務を執らしむ」、この書き出しから始まる「琉球三冤録」 の記述は、国王の近習の座にあり、公式書面を閲覧できる立場の者の書であるだけに、当事者の息遣いまでが伝わるような臨場感がある。ただ、表現に詩人特有 の誇張が見られ、一部勘違い的なところや立場の偏りもあるが、それにしてもよくこれだけの記録を残してくれたものである。伊波普猷氏が、文書に残すことを 懇請して実現したのも頷ける。

 当時、英仏露米等列強国が相次ぎ来琉し、条約締結を迫るが、摂政三司官は対応仕切れないとして薩摩へ頼り、薩摩は薩摩で江戸幕府へ伺いをたて、その結果 異国人の要求を全て拒否する態度を取った。更に、琉球の対応は悉(コトゴト)く在藩奉行所役人に監視され、甚だしきは、園田、市来(イチキ)のように琉 装で会談に同席する手段までとられていた。いかに薩摩が、外国との通商を表向き恐れていたか、それは幕府に対する恐れでもあった。
 琉球側は身動きがとれずにいたが、それに苛立った異国人は暴力沙汰寸前までいくことも度々であった。これは恐怖である。王府は一計を案じ、正式な国政と は関係のない役職、総理官なるものを捏造(ネツゾウ)し、按司親方の中から適当な人物を選んでこれに当てた。これで摂政三司官は表舞台に出ることなく、 外国人応対を陰から操縦できた。ただ、直接異国人と言葉のやりとりをするのは通事役であり、王府の真意が直接に伝わってこず、余計判りにくくなって大変で ある。

 「大湾は通事の役を執り、昼も休する能はず夜も寝る能はず其尽瘁(ジンスイ)の労多き」と東汀随筆続編では形容されている。この時代多くの琉球役人は 薩摩を敬遠気味で、足疎くしたのに反し、朝忠は積極的に薩摩へ接触し、周囲から国情を薩州に漏らす者と疑われてしまう。悪いことに薩州は、こんな朝忠を高 く評価して物品を下賜し、褒賞すること数回に及んでいる。そして、摂政三司官の専管事項である評定所の人事権、いわゆる推薦、選挙、任命の絶対権限を完全 に無視し、薩庁の意向で強引に、それも被選挙権を持たない平士の朝忠を、表十五人という大役に着けてしまったのだ。琉球王府にとっては、未曾有のことだっ た。

 これがどれほどの衝撃であったのか、朝忠びいきの海音寺潮五郎ですら小説「鷲の歌」でこう表現している。「大湾朝忠が才人であり、とくに外国語にかけて は稀代の才能のある人物であることは、皆知っている。しかし、十五人衆は国政の根本にも関与する重職である。家格、貫禄、年輩の三つがそろう必要がある。 でなければ、世間が納得せず、ひいては官職そのものが軽くなり、国の大本が乱れると思わずにいられない、と三司官も、十五人衆も、大方が大いに不満であっ た。」と。
  
 その2.仏軍艦購入顛末
  島津斉彬は、海外交易がこれからの国家の生きる道であると考えたらしい。国家とは、表向き幕府のことであるが、その実本当は自藩のことかも知れない。戦国 の時代から、島津藩は東南交易に目を向け、中央幕府から圧力がある度に、日本脱出を匂わして処罰を免れてきた、と司馬遼太郎は語っている。その極め付き は、天下分け目の関ヶ原の戦いにおいても、豊臣方についた島津を徳川家康は処罰できなかったという。

 こんな島津斉彬に、歴史の追い風が吹く。比嘉春潮によると、仏人(1844年セシル提督)による琉球開港への武力での威嚇(イカク)は薩摩を狼狽させ、 江戸への急報となり、大老の阿部正弘の指揮を仰ぐこととなった。阿部は重大問題として、藩主の島津斉興にではなく息子の斉彬へ意見を求めている。これまで も建白書で琉球窓口外交論を説いていた斉彬は、「琉球は日清両属であり、もし異国人が清国の許しを得て通信貿易を請うことになると、琉球王はこれを拒むこ とはできない。そうなると日清両国が紛争に陥り、これは国家の良計ではない。琉球を日本域外に置き、通信貿易の2件は琉球を限りに黙許するのが良策。宗教 は固く拒絶するのが良い。」との意見を述べたらしい。まさに斉彬のその後の行動の布石そのものをみる意見である。この9年後にペルリの来航となる。

 一方、阿部はこの意見を受け入れて、江戸詰の斉彬を直ちに鹿児島へ帰任させ、「将軍も同意したので、いちいち存意に任せて処理し、機宜に応じて後患のな いようにせよ。もとより琉球は外藩だから、幕府は強いて干渉はしない。それでいちいち幕府の指令を受けるに及ばず、専断に事を処してよろしい。」と言って いる。

 琉球王府の平和外交に通じる柔軟な外交姿勢をとったのは、老中阿部正弘であったと、原口泉氏(当時鹿児島大学助教授)が琉球新報(1995年頃) 「フューレ書簡と幕末政治史」のなかで説明している。当時の政治状況を知るためには非常に参考になるので、いま少し引用させていただく。
「阿部は、牧志が島津斉彬に報告したと思われる、ペリー浦賀来航の情報に接しながら、現場の浦賀奉行所に通知しなかった。通知すれば、武装を固めて打ち払 う体制を整えねばならない。幕府に対しては攘夷の旗頭を掲げた水戸斉昭が目を光らせている。阿部としては、苦肉の策であったにちがいない。」

 安政四年(1857年)10月10日、島津斉彬(ナリアキラ)の特命を受けた市来四郎が着琉。市来は、ほとんど間髪を入れずに、朝忠をして表15人への 取立を実現させている。摂政三司官は歯がみをする思いでこれを受け入れる。この辺りは、海音寺潮五郎の「鷲の歌」に、三司官通達文として分かりやすく訳さ れているので、くどいようだが引用しよう。
 「右の通りお国許(薩摩)から命じてきたと、お仮屋方から申されたので、上聞に達して、お取立てを仰せつけられおくことになったのだ。ご趣意のほどをありがたく理解して、将来の奉公に一層精励いたされよ。以上、とくに申しそえおく。」 11月13日 三司官
 島津藩というより斉彬の朝忠に対する熱い視線が感じられ、その一方で三司官の歯ぎしりが聞こえるようなよそよそしい通達文であるが、これから展開する歴史劇の抜き差しならない渦中に、関係者が引き込まれるプロローグではある。

 市来四朗の特命とは、軍艦購入、それにともなう銃器類の大量調達、琉球と薩摩の青年の海外留学、その他の工作である。幕府の力が低下しているとはいえ、 まだ鎖国の時代である。軍艦を直接島津藩が購入できる訳が無く、当然琉球国を名目上の名義人にした闇取引がその裏に秘められている。これは、かって老中阿 部が示した寛容な言葉の見事な言質を取っての作戦であろう。

 再び原口氏の文章から引くと、「琉仏修好条約は結ばれたものの、島津斉彬には焦りがあった。米国の駐日公使ハリスが幕府に通商条約の締結を求めたからで ある。日本が開港され、貿易が始まると幕府は関税収入の独占をはかるために直轄地にしか開港地を設定しないであろう。従来、薩摩が確保してきた琉球貿易の 利益は大きな打撃を被るにちがいない。斉彬の頭の中に幕府の先手を打つことがひらめいた。」

 安政5年2月に始められた仏人宣教師との軍艦購入交渉は、数カ月間にわたり難航した(その間に薩摩の意向に従わず反対した座喜味三司官は解任されたりし ている)が、7月には契約書も作成された。代金は18万5,000両、6年年賦で初年度6万両という内容であった、と原口泉氏の「フューレ書簡と幕末政治 史(琉球新報)」にある。交渉役は、王府側は恩河親方、小禄親方、牧志朝忠にトカラ国の伊良知親雲上と偽った市来四郎、仏人側は在琉中のフューレ、ジラー ル、ムニクーの3宣教師だった。王府の摂政三司官は「怠慢延遷し其事を果たさず(東汀随筆続編)」とある。つまり、逃げ腰でなにもしなかったのだ。という より、手は出せなかった。

 8月2日には正式契約書がフューレの手に渡ったとある。本来ならば、英雄的業績として賞賛されるべきことだった。ところが、こともあろうに7月16日、 肝心の島津斉彬が急逝してしまっていたのである。一説ではお家騒動による、亜砒酸を使った毒殺とも言われている。跡を継いだ弟の久光は、西洋嫌いで有名で、兄とは正反対の藩政を直ちに打ち出した。さぁ大変、軍艦購入など、もっての外となった。(この部分は参考にした資料の誤りと後日判明した。斉彬と正反対の藩政を打ち出したのは、隠居の興である。跡を継いだのも久光の息子・忠義である。これは斉彬の遺言によるものらしい。
 藩主の訃報は島継ぎの飛舟で9月2日の朝、那覇に届いた。久光(これも薩摩藩とすべき)の指示は、契約の破棄と計画の中止というものであった。契約書が手渡されて、一ヶ月が過ぎ ている。それにしても、鹿児島から琉球までの間で、藩主の死が伝えられたのが1ヶ月後とは、あまりに時間がかかり過ぎている。市来は苦境に立ち、朝忠と切 腹を覚悟したが、なんら解決にならぬと制止され、考えに考えた挙げ句、次の言い訳を思いつく。
 
 それは交渉の責任者だったトカラの伊良知親雲上(実は市来四郎)が落馬して、死亡したことにする。ご丁寧に墓まで那覇の興済寺に急造している。このあた りの口実の作り方は、なんとも馬鹿げているが、大真面目なのである。これにより資金の調達が不能になったと理由立てるが、仏人側も素直には受けず、交渉は 難航に難航を重ねた。それでも牧志と恩河の懇願が功を奏したのか、違約金1万両で解決している。この交渉力こそ、牧志の天才的外交力といえる。このことで は、原口氏も朝忠のことを 「平和的な外交交渉の天才」と絶賛している。
 解決の日は、9月14日であった。
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