悲劇を生きた沖縄の偉人

板良敷(牧志)朝忠
いたらしき (まきし) ちようちゅう

最終回 2003.7.21


最近、文庫本も出ているようです。
 朝忠の遺族

 喜舎場翁は東汀随筆続篇十七に、「亡父牧志朝忠復禄の儀に付請願」という一文をのせている。

 内容は、あれほど藩のために尽力した父が、根も葉もない噂で罪をきせられ、死亡した。このうえは、是非とも名誉を挽回して、失った地所の代価を賜りた い、という遺族の請願であった。「明治33年12月 沖縄県首里区字町端23番地内第4号 士族即ち故牧志朝忠家跡相続者 牧志朝昭 沖縄県知事男爵奈良 原繁殿」という結びの宛名の次に「右請願書は牧志朝昭が依頼に依て草稿を調整し交付したるも、未だ幾日ならず朝昭病没いたし、惜ひかな未だ県庁に提出する に至らざりしを。」と翁の添え書きがある。

 実は、高良倉吉氏の続おきなわ歴史物語第七話にも「その後の牧志朝忠の家族たち」という文章があり、これを喜舎場翁の文章と重ねて読めば、思わず目頭が熱くなる内容である。

 栄枯盛衰を地でいくような内容で、朝忠の死後、領地召し上げで収入が途絶えた家族には、生前の莫大な交際費が借財として残っており、結局一家は首里の豪 邸を売り払って西原間切石嶺村へ都落ちとなる。妻ナベにしてみれば、幸福の絶頂から奈落の底へ沈むような凋落である。40歳の彼女には、18歳前後の長男 朝英、16歳の次男朝昭、14歳前後の三男朝珍という3人の子どもがいた。

 西原では不慣れな小作農家となる。恐らく学問しか経験のない兄弟にとって、百姓の生活は耐え難いものと想像されるが、それとあってか頼みとする長男が2 年後に死亡してしまう。決まりによって次男が跡取りになるが、15年の後、小作地が年期明けで明け渡しとなると、頼みにしていた預金は文替わりの切り下げ で3分の1に目減りしており、これまでの借金を差し引くと文無し同然となってしまった。途方に暮れる一家を見かねて、ナベの兄弟が7円を貸してくれる。

 西原を出て、具志川間切天願村へ移り住み、そこでも貧乏な小作農をする。12年後朝昭は40歳で24歳のウトと結婚する。貧乏が晩婚の原因と、高良氏は 説明する。そして、3年後再び小作が満期となり、母ナベも老齢を理由に百姓を嫌がり、一家は首里へ戻る。三男朝珍は分家して、貧乏ながら所帯も構えていた ので、そのまま天願村に残った。朝珍はここで三人の女児を授かったらしい。

 首里区町端村でも貧乏で、朝昭は占い稼業で生活をしていた。しかし、女児カマドが生まれても生活は苦しく、1年後の1891年首里にも住めず、一家は大里間切与那原村へ移り住む。これは奇しくも、門中発祥の板良敷の地であった。

 高良倉吉氏の記述は、家族のための弁明という文章に進む。「これまで述べたことがらは、国立国会図書館の所蔵する沖縄関係文書のなかに人知れず眠ってい た無題の一件の史料にもとづいている。『牧志朝忠遺族調書』とでも称すべきこの文書は、『沖縄県中頭郡役所』の銘の入った罫紙に書き込まれているので、お そらくなんらかの理由で行政上の目的をもって作成されたのであろう。牧志家の当事者、もしくは事情をよく承知している関係者からのヒヤリングから得た情報 だと考えられる。作成の時点は中頭郡役所の設置される1896年(明治29年)か、その直後ではないかと見られる。」

 喜舎場翁の文書はこの4年後となっているが、住所からすると再び首里へ帰っている。ただ、せめて次男の朝昭が病没せず、翁が行動を早めに起こしてさえいれば、すくなくとも遺族の名誉は救われたかも知れないのだ。目頭が熱くなるとは、このことである。

■高良倉吉・続おきなわ歴史物語
    第七話「その後の牧志朝忠の家族たち」


 
高良氏は続ける。「このように、朝忠の歴史の表舞台での好人物ぶりが躍動的であるがゆえに、かえって家族のその後が哀感を誘うのである。・・・・(遺族 は)夫・父の思い出として何をかたくなに大切にしていたかについても知らない。・・そしてまた、牧志・恩河事件のせいで朝忠を語るエピソードがあまりに少 なく、とくに近親者からしか生じないような伝承が朝忠に関してはほとんど皆無だということが気になる。事件と家族の流浪が沈黙の構図を生み出したのであろ うか。」

 あれだけのことを成した人物の、係累が不詳とは信じられないことである。私がこうした探索を身の程知らずに試みたのには、このことが原因であった。いく らなんでも、先人に対して失礼すぎる。これを契機にどなたかが、本格的な力で牧志朝忠を蘇らせて欲しいと願うのみである。今回の資料集めの中で、親族らし い女性が泉崎におられると教えられ、それらしい喫茶店を捜してみたが、ついに見つけることができなかった。もし子孫の関係者がどこかでこの文章をご覧いた だけたなら、改めて偉大なあなたのご先祖に対して、敬意と感謝を捧げているものがいることを、そのご霊前にお伝えいただきたいと思っている。
 合掌


 
あとがき

 この文章を書き終えて2日後、偶然ある場所で作家の大城立裕氏に出逢った。まさに、琉球の時代背景と制度的仕組み、或いは幕末当時の琉球人の感情などを 知るため、氏の小説「琉球処分」を読んでいた真っ最中で、初対面ながらそのことを素直に申し上げた。そして、牧志朝忠を私も書いていると、恥を忍んで申し 上げると、大城氏は笑顔で「では、嶋津与志さんの『琉球王国衰亡史』を読まれましたか」と尋ねられた。

 私は椅子からずり落ちそうになるほど狼狽した。もとより資料に関しては手のでないものが多くて、所詮多くを求めるのは無理と諦めてもいたが、まさか現在活躍中の作 家の小説が沖縄に存在しているとは、知らなかったのである。これは大変だ。或いは、私の見解と大きく違う事実があれば、私の文章を修正しなくてはならない。少な くとも、先人に対して失礼とか、どなたか力のある方が甦らせて欲しい、という文末は消さなくてはならない。いや、それより、もし浅学な私が身のほど知らず に、にわか勉強で組み立てた推論が覆されるのではないか、その懸念が私を支配した。

 早速小説を買い求め、その夜の内に読み通した。そして、安堵した。大筋において、嶋氏の書いておられることと、私が知り得た資料から記述したことと、決 定的な差異はなかったからである。それどころか、朝忠の最期に関する他殺説を書いておられるのは、これぞ私の描いていた方向にまさにピッタリではないか。 これを敢えて表現された、嶋氏の勇気に感心させられた。本当に誰も触れていないのだ。

 又、家譜系図の類の消失も、王府筋の没収によると明記されている。これも板良敷の家譜を書物で探ろうとする私に対して、物知りの古老が小首を傾げ、抹消 の可能性をほのめかせたことに符号してくる。ただ、同小説『琉球王国衰亡史』の末尾(岩波書店版 240頁)に書かれている朝忠の生まれた土地を「文政元年、朝忠首里當蔵村に生まれ後又赤平村に移る。」とあるが、これがどこで確認できたのかを知りたい ものである。もしそれが本当であるなら、場合によっては朝忠生誕の地というモニュメントを作ることも夢ではなくなる。いつかこの夢を実現したいものであ る。

 こうしたことから、私は事柄の小さな差異には目をつぶり、文章を修正することは止めにして、このあとがきを書くことで補足することにした。

 ついでながら書くが、この人物探訪記ともいうべき変なものを書き始めたのは、沖縄赴任の翌年の1996年10月である。それまでにも牧志朝忠に興味は持 ち、彼に関する文書をそれとなく捜してみたが、これといったものが見あたらなかった。10月に先ず、沖縄タイムスの写真家、宮城護氏から拝借した、新城俊 昭氏の高等学校「琉球・沖縄史」に書かれた簡単な説明が手始めであった。それ以降は、いろんな方に資料の存在を尋ね、何と書き始めてからしばらくして、 やっと喜舎場朝賢を知るというお粗末ぶりであった。その後手掛かりが掴め、県立図書館で新資料を読むたびに、それまでの記述を書き直すこともたびたびあっ た。断片的に書きながら、資料や裏付けの足りないところを思い切って、我流の推論で埋めていたからである。

 そんな私のために原口泉氏の新聞スクラップを提供してくださった、国際書房のご隠居さんにも感謝したい。名乗り頭も仲田龍太郎氏から詳しく教わり、やが て書いているうちに王府の組織図も理解できるようになった。しかし、いかんせん、在沖2年の身では知識不足は否めず、思い違い、誤解の類もあるかも知れな い。是非、その際はご指摘いただき、正確な事柄のご教示をお願いするばかりである


  上記文章は、1997年1月19日
 に書いたものです

 追記・
板良敷朝忠の子孫については、2003年1月にこのホームページを読まれた係累の方から連絡をいただき、その後お逢いできました。
 尚、そのときの説明では、門中の系図によると板良敷朝忠は 与那原出身ではないとのことでした。となると、直接尚質王との繋がりは無くなりますが、いずれ名乗り頭の関係で王族の係累であることには変わりないようです。
 
ご親族の方からの資料によると、朝忠の門中は玉川御殿(うどぅん)の分家筋「識名殿内(シキナドンチ)の流れで、十一世・外間朝昆の3男となっています。この系図では、朝忠には3人の男児が生まれており、長男朝英(1843-1867)は子孫なし、次男朝昭は1846年生まれで死亡年月不明。ただ、喜舎場翁の東汀随筆続篇が正確なら、朝昭は明治33年頃まで生きていたことになります。54歳前後です。3男朝珍が唯一子供をもうけており、朝佑となっていますが、年月は不明です。その後の記述は皆無です。
 私がお逢いした板良敷家の子孫の方は、朝忠の兄・長男の朝清のご子孫でした。とても朝忠を愛し、尊敬されているご様子で、その後もお付き合いいただいています。
 

  
どうも最後までお読みいただき、有り難うございました。
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