●戦前の「大衆文芸」 ●戦後の「大衆文芸」 ●新鷹会から輩出した直木賞作家たち                                           [もくじへ戻る]
雑誌「大衆文芸」と作家たち
野村敏雄(作家・新鷹会理事)
 折角よい機会なので、新鷹会と「大衆文芸」について書いておきたい。

●戦前の「大衆文芸」

 新鷹会は長谷川伸(以下敬称を省略する)が、昭和14年(1939)の秋から始めた小説の勉強会で、長谷川伸の没後も師の衣鉢を継いだ弟子たちによって現在も続けられ、毎月発行している同人誌「大衆文芸」(第三次)はすでに六百号を越えた。むろん長けりゃいいってものではないが、大衆文学の同人雑誌としては他に類を見ない長命を保っている。

 雑誌「大衆文芸」は第一次、第二次とあって、現在の「大衆文芸」は第三次になるが、第一次「大衆文芸」は、大正15年(1926)1月に創刊された。

 これは前年の9月21日、当時の大衆作家、白井喬二(しらい・きょうじ)、平山蘆江(ひらやま・ろこう)、長谷川伸、直木三十三(なおき・さんじゅうさん〈のち三十五〉)、本山荻舟(もとやま・てきしゅう)、矢田挿雲(やだ・そううん)、正木不如丘(まさき・ふじょきゅう)、江戸川乱歩(えどがわ・らんぽ)、土師清二(はじ・せいじ)、国枝史郎(くにえだ・しろう)、小酒井不木(こざかい・ふぼく)の11人が同人となって「二十一日会」を結成し、その同人誌として発刊したもので、報知新聞出版部が後援し編集部を池内祥三が担当した。大衆文学史上初の同人誌だったが、昭和2年7月を最後に、通巻十九号で廃刊した。

 第二次「大衆文芸」は、4年後の昭和6年1月、旧同人だった平山蘆江の手で復刊されたが、これは1年弱の短命で六号をもって終刊となった。

 そして、第三次「大衆文芸」(昭和14年3月)の発刊となるが、『大衆文学事典』(真鍋元之〈まなべ・もとゆき〉)によれば、第三次「大衆文芸」を復刊したのは長谷川伸の義弟の島源四郎(しま・げんしろう)であるという。島源四郎は真鍋元之に「大衆文芸」発刊の動機をこう語っている。

「あの頃の時代小説の堕落ぶりを見るに見かね、これではならぬと思い、文芸復興を願う気で発刊を思い立った」

 当時、島源四郎は神田錦町で出版社[新小説社](昭和9年創業)経営していたが、復刊に当たって長谷川伸に援助を願い、長谷川伸は月額二百円の扶助を約束した。こうして第三次[大衆文芸」は昭和14年3月に生まれたが、創刊号の冒頭言でも、

「今日までの所謂(いわゆる)、大衆文芸はたいへん広範な読者層を掴んでいると云っても、賢明な読者大衆からは見離されている。ジャーナリズムの商業主義が大衆に媚を呈するのに汲々として、文学、芸術と唱えるには余りに丁重卑俗なものに堕落させてしまったためである」

 として低俗に堕した大衆文芸の革新を標榜している。

「大衆文芸」は長谷川伸を中心に気鋭の新人作家が多く執筆した。同年の秋ごろ、島源四郎は若手作家の山手樹一郎(やまて・きいちろう)、山岡荘八(やまおか・そうはち)、村上元三(むらかみ・げんぞう)、鹿島孝二(かしま・こうじ)、大林清(おおばやし・きよし)、棟田博(むねた・ひろし)、長谷川幸延(はせがわ・こうえん)、神崎武雄(かんざき・たけお)、梶野悳三(かじの・とくぞう)、秋永芳郎(あきなが・よしろう)などを語らって、「十五日会」を作り、毎月十五日に日本橋のそば屋[よし田]に集まって、刷り上がった「大衆文芸」の合評と小説の勉強会を開くようになったという。

 小説の指導には長谷川伸が当たり、客員として土師清二が加わったが、翌年九月、会は村上元三の発案で「十五日の会」を「新鷹会」と改称し、会員同士の創作勉強会の方向へと軌道修正した。

 会員たちは「大衆文芸」を中心に意欲的に創作活動をつづけ、競って秀作を発表した。河内千介(かわち・せんすけ)の『軍事郵便』、村上元三の『上総風土記』、田岡典夫(たおか・のりお)の『強情いちご』、神崎武雄の『寛容』などが直木賞となり、大林清『庄内士族』、山手樹一郎『崋山と長英』、山岡荘八『海底戦記』、棟田博の『台児荘』などが野間文芸奨励賞となった。

 長谷川伸も先年の傑作『荒木又右衛門』につづいて『上杉太平記』、『相楽総三とその同志』などの名作を原稿料なしで「大衆文芸」に連載した。

 だが、執筆者たちの意欲にくらべて「大衆文芸」の売行きの方はさっぱりだった。創刊号、第二号とも1万部を刷ったが売れたのは創刊号が850部、第二号はたった500部という。売行きの不振が続いたが、雑誌の生命は長かった。

 昭和14年の日本はすでに日中戦争を戦っていたが、戦局が拡大し激化して、昭和16年太平洋戦争に突入してからは、出版事情は急速に厳しさを増し、用紙は割り当てとなり、雑誌の整理統合が進んで順調な発行は難しくなったが、そんな中でも「大衆文芸」は文芸雑誌として、戦争末期の昭和20年3月まで生き残ったのである。

 3月までとしてはのはこのとき空襲で神田一帯が焼かれ、新小説社の社屋も全焼したからだった。一切が灰になったため「大衆文芸」もついに休刊のやむなきにいたったが、敗戦を迎えたその年の10月、「大衆文芸」は早くも復刊第一号を出すのである。

 一般には、戦後最初に市場に出た雑誌は、新生社発行の「新生」(11月創刊)だといわれるが、「大衆文芸」は「新生」よりも1カ月も早く復刊している。
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●戦後の「大衆文芸」

 戦後の新鷹会は芝二本榎(現・港区白金台)のある長谷川邸で再開された。長谷川邸の前は道路を隔てて明治学院の正門である。

 ここで恐縮だがしばらく私事を書かせていただく。当時私は明治学院の学生だった。軍隊から復員して学籍へ戻ったのである。当然ながら学校の前にある屋敷が、芝居や映画で有名が長谷川伸の家だとすぐに知ったが、むろんその時は、後年、自分がその屋敷に出入りするなどとは夢にも思わなかった。

 その頃、私がはっきり記憶しているのは、長谷川邸の脇くぐりに打ちつけてある葉書より一回り大きな四分板の表札であった。表札には島源四郎、村上元三、穂積驚(ほづみ・みはる)、深沢将明(ふかざわ・まさあき)……という名が列記してあった。

 敗戦直後のあの時代のことだから、多分同居人だとうと私は察したが(その通りだった)、その中で穂積驚の驚は何と読むのだろうと悩んだりした。後に新鷹会に入ってから、「みはる」と読むのだと教えられ、なるほどと思ったが、長谷川先生がときたま冗談に「穂積ビックリはどうしたい」などと言われるのを聞いて、これにもびっくりして腹中で笑いが止まらなかった。

 それはさておき私は卒業のさい、事情があって大手の出版社に就職ができず、やむなく知人の紹介で神田にある小さな出版社へ面接に出かけたところ、その出版社が新小説社で社長が島源四郎だったのには、これもおどろきだった。

 島社長はその場で私を編集部員に採用し、明日から出勤してくれと言った。新小説社の社屋は焼け跡に再建したばかりの、小綺麗だがバラックに毛が生えたようなチャチな造りで、そこで私にお茶を出してくれた社員が、長谷川邸の表札にあった深沢将明で、島社長の遠縁で営業を担当していた。

 新小説社は月刊誌「大衆文芸」と「国民の科学」を発行していたが、社員6人の小所帯で編集部員は両誌を掛け持ちのようにしていた。「大衆文芸」の編集長が真鍋元之で、真鍋は戦地へ立つとき、蔵書を私の義兄に預けていった人だと、これも偶然わかった。「国民の科学」の編集長は風間宏(かざま・ひろし)という詩人で、画家・風間完(かざま・かん)の弟であり、明治学院の先輩であった。

 すべてが偶然で、私は奇妙な因縁を感じたが、新小説社にいられたのは1年足らずで、年末に今でいうリストラにあった。赤字続きで「国民の科学」が廃刊に追い込まれたのである。「大衆文芸」は潰すわけにはいかない。いまから考えればいちいち納得できる状況の中で、新入社員の私を「お払い箱」にした島社長の胸中は複雑であったろう。私はむしろその島社長に同情した。

 しかし幸か不幸か、私はその1年で何人かの既成作家と知り合い(当然ながら新鷹会系の作家が多かった)、影響されて作家を志向するようになった。島社長もクビにした私に「大衆文芸」への執筆を勧めてくれ、私が2作目を「大衆文芸」に発表したところで、二本榎の長谷川邸へ私を連れていき、長谷川先生に引き合わせてくれた。初めて「瞼の母」の大作家と対面した私は、その日一日、頭の中が空っぽになり、好きな酒の味さえ分からなくなったのを覚えている。

 私が入門した頃の先生の門下には、客員の土師清二をはじめ山手樹一郎、山岡荘八、村上元三、鹿島孝二、大林清、棟田博、田岡典夫、戸川幸夫(とがわ・ゆきお)、井手雅人(いで・まさと)、池波正太郎(いけなみ・しょうたろう)など、錚々たる先輩作家が長谷川邸の客間に綺羅星の如く居並んで、新参の私など廊下の隅っこで小さくなっていた。

 新鷹会の勉強会は毎月十五日に開かれたが、なかなか厳しいものだった。先生の前に畳一帖ほどもある座卓があり、そこで新人が作品を朗読し、読み終わって一同から批評を受け、最後に先生から助言をもらえるが、先生はときどき言われた。

「下手な作品だからコキおろすのではなく、どうしたらその作品が良くなるかを考えるのがここでの勉強だ」

 自分の朗読の番が回ってくると声も足も震えてきて、最初のうちはどうも困ったが、勉強会で先生から受けた影響、恩恵には計り知れないものがあり、それらは時の経過とともに、どれほど自分の糧になったが、近頃やっと実感するようになった。

 新鷹会と「大衆文芸」は、後進の育成と商業ベースに妥協しない既成作家の意欲作を発表する場であるとも先生は言われたが、これも自分が年を食って若い人と一緒に勉強するようになって、ずいと肝に銘じている。

 長谷川先生は昭和38年、79歳で亡くなられた。没後、新鷹会は財団法人として発足し、先師の財産と衣鉢を継いで、今も休むことなく勉強会を続けているが、長い低迷に後に、近年ようやく有望な新人たちが育ち、読みごたえのある作品をつぎつぎ発表するようになってきた。現編集長・伊東昌輝(いとう・まさてる)も苦労のし甲斐があったというものだろう。

 喜ばしい限りだが、その意味で今回のアンソロジー出版は新人たちの励みとなり、将来定期的な出版継続が望めるならば、新人の意欲作もおいおい載ることになるだろう。さらにまた、自ら誇りを持ち意欲をもって作家を志す者であるなら、誰であろうと新鷹会は門戸を開いて歓迎する。

*この文章は『侍たちの歳月 新鷹会・傑作時代小説』(平岩弓枝監修・光文社文庫 2002/6発行)の「新鷹会と『大衆文芸』――解説に代えて」を改題し、WEB用に見出しを付加したものです。

●新鷹会から輩出した直木賞作家たち

 昭和15年(上半期) 河内千介『軍事郵便』
    15年(下半期) 村上元三『上総風土記』
    17年(下半期) 田岡典夫『強情いちご』
    17年(下半期) 神崎武雄『寛容』
    24年(下半期) 山田克郎『海の廃園』
    29年(下半期) 戸川幸夫『高安犬物語』
    30年(下半期) 邱永漢『香港』
    31年(下半期) 穂積驚『勝烏』
    34年(上半期) 平岩弓枝『鏨師』
    35年(上半期) 池波正太郎『錯乱』
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