近未来映画作家アンドリュー・ニコル

〜バベルの塔は二度崩壊する〜

      
  映画や小説などで語られる近未来に、明るい姿を重ね合わせることは難しい。どれも人間の犯す過ちの体現として、未来都市は陰鬱に表現されているからだ。     SF小説の旗手であったフィリップ・K・ディックは、その著作『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(ハヤカワ文庫)で、人間と人間に隷属させられるアンドロイドとの対照性を描きながら、アンドロイドと人間の違い≠、ひいては人間とは何かを追求した。

その原作をもとに作られた映画『ブレードランナー』(監督リドリー・スコット)は、酸性雨の降りしきるじめじめした暗い都市と、入り乱れた人種が息苦しく蠢く空間を、来たるべき近未来世界としてわれわれの前に提示した。  科学の発達と人間の幸福は比例するのか。そうした疑問を呈するのがSF小説であり、SF映画である。

ニュージーランド出身のアンドリュー・ニコル(40)もまた、近未来を語る映画作家だ。テレビのCMディレクターを経て映画界にデビューしてからまだ八年、かかわった作品も三本と少ない。そのうちの一本は脚本のみの参加で、残りの二本は監督と脚本を担当している。

三作品の根底を流れるテーマは一貫しており、彼の描く未来像の影もまた濃い。そこでは科学の進歩とそれに伴って浮き彫りになる世界の不条理性を徹底的に描き出しているのだが。果たして、われわれはそれらの作品から何を読みとるべきなのか。

まずは彼の作品において象徴的な役割を担う、「階段」のシーンについて検証したい。

『ガタカ』の階段描写 遺伝子とのたたかい

 『ガタカ』(1997)はアンドリュー・ニコルにとって初の監督作品であり、脚本も担当している。近未来が舞台で、子供は遺伝子操作によって生むのが日常的となっている。遺伝子操作によって生まれた子を普通の子≠ニ呼ぶのに対し、遺伝子操作をされないで生まれた子を神の子≠ニ呼ぶ。

この物語は、その神の子≠ニして生まれたビンセント(イーサン・ホーク)がDNAを偽ってガタカ(航空宇宙会社)に入り、土星へと旅立つまでを描いている。神の子≠ノ対するDNA優性者として、ジェローム(ジュード・ロウ)とアントン(ローレン・ディーン)が登場するが、前者はビンセントへのDNA提供者であり、後者はビンセントの弟である。二人は常にビンセントとの比較の対象として存在する。

ここから「階段」について述べるわけだが、まず「階段」というのが、上の層と下の層をつなぐ物体であり、また、その差(上層と下層)を視覚的に体現している物体だといえることを念頭に置く必要がある。

『ガタカ』における差≠ニは、もちろん神の子≠ニ普通の子(遺伝子操作された)≠ニの差であり人間としての決定的な差である。その差は『ガタカ』内の「階段」によって強く明示されている。そして、この作品においては、その使われ方が逆転しているところに痛烈なメッセージが潜んでいるのだが、それはいったいどういうことなのか。


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