『スカイクロラ』 監督 押井守 2008年


空へ


  年をとることなく、ただひたすら戦闘し、生きなけらばならない若者がいる。自殺という選択肢を選ぶ以外にその生に終止符を打つことができない彼らには、唯一死の可能性がある「空」以外に向かう場所はない……

  押井守の最新作『スカイクロラ』は、そんな世界を舞台に、そこで生きる若者たちの心情を押井得意の“言葉責め”ではなく身体の描写や声で表現し、現在の若者に押井なりのメッセージを織り込もうとした作品だ。

  彼が手がけてきた作品は、彼にとってみれば、自分が興味のあるテーマを注ぎ込んできた大人向けの映画であった。未見の人間にとっては、アニメーションという形態から、子供向けの作品と勘違いしてしまいそうだが、一連のテーマは、再開発が進む東京の姿や自衛隊の矛盾といった社会的なものや、肉体と精神の統合や乖離といった形而上的なものが好んで選ばれてきた。 そんな押井に、若者向けのテーマを選択させたのは、就職を控えた彼の娘であったという。

  現在の若者と呼ばれる世代に蔓延しているのは、やはり「平和ボケ」であろうか。ここでいう平和ボケとは、危機感の欠如を表す。危機感の欠如は何をもたらすのか。主体の確立の遅延である。主体の確立とは、自分を客観的に判断し、自分の本質を自ら決定することだ。簡単にいえば、自立である。

  押井が好きな哲学の言葉では、自分を客観的に見る行動を「対自」といい、そこから自らの本質を決定し、未来を選択していく行動を「投企」という。投企はその名称が表すように、自らの存在を世界に投げかけていくことだ。それによって、自らを前に進めていく。

  この投企を行えるのは、主体を確立した人間だけだ。ただし、ごく一部のエリートを除けば、自分の進路にかかわる重大な決断は先延ばしにしてしまうのが、人間のサガだ。特に、自由という名目上、あらゆる場所に道が開けているように思える現代の社会においては、「夢を追いかける」という言葉を免罪符に、その決断を先延ばしにしてしまう若者は多いだろう。そして、その決断を先延ばしにしても、アルバイトで生計をたてられる社会が今の日本の状態である。経済的な危機感にも乏しいのだ。

  主体の確立を避け、そして自らの決断を避けて、ひたすら心地いい自分の中の世界に居続けてしまう若者は、生をどのように受け止めているのだろか。世界と社会からの逃避を余儀なくなれるその生は、実はただひたすら苦痛なのではないだろうか…

  この苦痛という言葉が、スカイクロラで描かれる若者たちとリンクする。ただし、苦痛の内容はまったくことなる。

  スカイクロラで描かれる若者たちは年をとることがなく、寿命で死ぬことがない。永遠に若者であり続ける運命だ。しかし、永遠の命を与えられたものは、その永遠性に絶望するだろう。人間が生を感じるためには、限られた時間が必要だからだ。ハイデッガーは、「存在と時間」で、存在を確立させるのは、時間である、と説いているが、人間は残りの寿命を意識したときに初めて人間としての生を歩きだす。死を意識したときに、残された時間で何ができるのかを真剣に考え出す(対自)。そこから真の生が始まり、自分で道を選んで(投企)、その道を歩む喜びや苦しみを味わうことになる。

  スカイクロラの若者たちには、この選択肢がそもそもない。ただひたすら生き、戦闘するだけだ。スカイクロラの世界で行われる戦争は、平和ボケした人間たちの危機意識をあおることを目的に企業がショーとして行っている。国を守るとか、家族を守るといった大義もない。

  この戦争で彼らにとっての希望があるとすれば、それは空での戦死だけだ。戦死すれば、その瞬間、意識がなくなり、その生は終わる。ただし、企業がその能力を無駄にしないために、能力を引き継いだ同様の人間を生みだして、戦闘に送り出す。このため、同じ人間が輪廻して同じ空間にいることになる。死んで生き返った人間は以前の記憶をなくしているが、同僚たちは、同じ人間であることがすぐにわかる。彼らは、目の前で行われる悪夢を、生きる価値のない生を、享受するしかない。これが彼らの苦痛だ。

  現在の若者と、スカイクロラの若者と、どちらの苦痛がつらいだろうか。答えは個人によって違うだろうが、どちらも閉塞状態にあることは間違いない。そして、その閉塞状態を打ち破るには、同じことを繰り返すとは分かっていても、行動を起こすしかないのだ。


text by 山崎慎介

(http://d.hatena.ne.jp/shin-yama/より転載)

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