『雷魚』 監督 瀬々敬久 1997年
 

欲せられないものたち


  精神病のひとつである分裂病の患者たちは、他者の欲望をわが身のうえに感じたときにはじめて自分が生まれることができるのだという。それはつまり、他者から何かを期待される、もしくは望まれることにより、自分の存在価値を確認するということだ。それが彼らにとって生きるという意味につながるのである。

  このため、彼らはその妄想のなかで常に何かに追われたり、迫られたりしている。その何かとは他者であり、追われるという状態は何らかの形の欲望の対象となっていると判断していいだろう。彼らはそうした状況を無意識に作り出すことによって、かろうじて自己の存在を確立し、生きているのだ。

  これは裏を返せば、その患者たちはそれまでに、発病する以前までに、誰からも必要とされない、何も欲望されないという経験をしてきた証である。そして、その誰からも必要とされていないのだという自己否定の苦しい思いが、分裂病という精神の病を引き起こしたのである。ならば、そのような状況下にあって、しかも精神病を発病しないとすれば、そのものたちはどのようにして心の平衡を保つのであろうか。  

  ここに『雷魚』という映画がある。

  ガソリンスタンドに勤める男Aは、近場の河に小さな舟を浮かべて魚を獲っている。獲れた魚の中には雷魚≠ェたまに混じっている。この雷魚には寄生虫がいるために魚屋では引き取ってくれない。不要の魚だ。そこで男は、雷魚だけはガソリンで燃やして処分している。

  男は、子供二人を愛人に焼き殺されるという非業の過去を持つ。それ以来、男はただ存在しているだけの日々を送っている。

   今日も男は雷魚を燃やす。なぜなら、男は雷魚に自己を投影しているからだ。世間から欲せられないものとして、はみ出しているものとして、自己と雷魚を同一視する。男は雷魚を燃やすことにより、つまり、雷魚に投影した自己を燃やすことにより、焼かれた子供たちへの懺悔とともに、誰からも欲せられず、ただ存在するだけの自己を消し去っている。

  河に魚を獲りに行くのは、雷魚を焼きにいくこと、自己を焼きにいくことである。その瞬間だけは、生きる目的もなく、また、誰からも生きることを欲せられていないという現実感のない現実において、ゆいいつ、生を実感するときなのだ。それは、雷魚の焼失=自己の死を体感することにおいての逆説的な生の実感ではあるのだが。しかし、雷魚を焼くだけでは完全なる自己の焼失には届かない。中途半端なカタルシスを得るだけである。

  そんな男Aの前に、女が現れる。

  女は、重い病をおして訪ねた学校で、不倫相手に捨てられる。顔も見せずに電話だけで。そして、いっときの欲望、誰かに欲せられたいという欲望におされてテレクラに電話をする。そこで、会社を休んでテレクラをしていたサラリーマンに出会う。 ホテルでことを済ませると、枕元でサラリーマンは金を出した。女の、欲せられたいっときの終わりである。

  欲せられない存在に戻った女は、ガラス越しにシャワーを浴びるサラリーマンに何を見たのか。酷薄に自分を捨てた憎い男の姿か、それとも欲せられることのない自己の姿を、テレクラ慣れしたさえないサラリーマンに鏡で映したように重ね合わせたのか。たぶん、その両方であろう。そこへ、暗い殺意の衝動がふっと湧きあがったのだ。

  サラリーマンを殺すことは、おのれを欲しない男たちへの復讐とともに、サラリーマンのなかに見立てた自己鏡像の破壊を意味する。それは誰にも欲せられない忌むべき自己を消し去ること。理由はそれだけで十分だ。女はサラリーマンを刺し、首を絞めて殺した。べったりした鮮血がシャワーの水とともに排水溝へ流れ出す。  誰からも欲せられない自己と決別し、解放された女に残されたのは、重い病だけであった。

  そんなとき、男Aに出会った。

  男は、殺人を犯し、行くところのない女のなかに、己と同じ空虚を感じ、自己像を見出す。そして、女の願いを聞き入れ、首を絞めて殺す。対象は生身の人間だ。雷魚とは違う。温もりのある肌の下には、真っ赤な血が流れている。女を殺し、その屍を河に浮かべた舟の上で焼くことで、欲せられなかった自己、ただの存在だけの自己との完全なる決別を果たす。

  そして男は、偶然出会った知恵遅れの女を連れて街を出る。無邪気に自分を欲す女のなかに、欲せられる自己を見出して。

  しかし、なぜ街を出るのか。なぜ人のうごめく新宿に着いたところで映画は終わるのか。それは、男の住んでいた街自体が欲せられない街だったからであろう。  カメラは映す。遠くの工場を。ばらけた工場から吹き出る数本の白煙を。辺りにこだまするのは、工場からきこえる無機質な機械の音だけだ。コーンコーンという散発の音が、街のさびれ具合を如実に物語る。

  娯楽はパチンコだけで、ぽつりと佇む公衆電話が寂寥感を募る。都市と地方の格差。欲せられる街と欲せられない街。高度経済成長、バブル期の絶頂の中で、忘れ去られ、見捨てられた地方の街は荒廃の一途をたどる。そうした街に住む人間の心のなかにも荒廃した風景の感触が深く根を下ろす。ようやく生を手に入れようとしている人間が、死にゆく街からの脱出を試みるのは当然のことなのだ。

  かくして男Aは、それまでの自己を殺し、あらたな生を歩みだす。


text by 山崎慎介

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