黒沢清、あるいは廃墟の作家



 「あんた、誰だ」
 「あなたは、誰」
  青山真治が『名前のない森』において、主演の永瀬正敏と鈴木京香に掛け合わせたこの言葉と、その数年前、『CURE』において、黒沢清が萩原聖人に言わせた言葉、
 「あんた、誰だ」
は、その言葉と意味が全くの一致を持ってわれわれの前に投げ出された永遠の問題である。

  暗闇の支配する映画館において、そして光が投影されるスクリーンを前にして、そこだけが照らされる空間にあって、あたかもそのスクリーンで繰り広げられる映像に呼応して、われわれの心の中が映し出されるような状況下で、「あんた誰だ」と問われれば、即座に返す言葉が見つからないのは当然のことであろう。黒沢は、自分が何者であるのかを、いや、そもそも何者かであることができるのかをその作品において常に問い続け、それによってわれわれの生を脅かす作家なのである。

  なんだか大それた言い方ではあるが、『スイートホーム』、『地獄の警備員』を経て、黒沢の名を世に知らしめた傑作『CURE』は萩原聖人に「あんた誰だ」と言わせ続けたことによる成功であり、また、その問いを発し続ける萩原自身を記憶喪失にする設定ですでに勝負はついていたのである。逆に言えば、「あんた誰だ」と問う人間が脅威の存在としてあるためには、彼を記憶喪失にするのは必然であったのだ。

  そもそも、自己とは記憶の塊から形成されるものであるのだから、その記憶をなくしたものから、つまり自己をなくしたものから問われる「あんた誰だ」には、反発しようのない強制力をその言葉に付加する。なぜなら、「あんた誰だ」の答えに窮したものが、その答えをみつけられないことを、それを言うことは心理的に許されないと誰もが思う言葉を、萩原は記憶がないことで素っ気なく言い放つことができるからだ。つまり「自分がだれだか分からない」と。

  自分が誰であるか分からない。この恐ろしい言葉、これは果たして他人事であるのか。萩原の連呼する「あんた誰だ」が鼓膜を抜け脳に伝達されるたびに、われわれは、自己に問いたださざるをえない。そして、その言葉はあいまいな記憶による自己確立を真に脅かす魔のスパイラルへとわれわれを突き落とすのだ。

 「あんた誰だ」と記憶の関係は『ニンゲン合格』において、さらに深く推し進められる。事故により寝たきりで意識を失っていた西島が十年ぶりに意識を取り戻してから、最初に着手するのは、十年前の記憶の再現だ。離散した家族を取り戻し、家を再興することが失われた十年を満たす、十年分の記憶を満たす唯一の方法である。記憶のない西島にとって、自分が何者であるのかを示してくれるのは他者=家族の記憶の中の自分だからだ。

  しかし当然のことではあるのだが、十年間の家族の記憶の中には彼の記憶はないに等しく、一度は西島のもとに集った家族もまた別々の暮らしへと戻っていく。自分には十年間の記憶がなく、家族の中にも彼の記憶がない。果たして、それは、西島が存在していたといえるのか。そしてこれから存在しえるのか。現実に打ちのめされた西島に、廃品の冷蔵庫がのしかかる。「おれ、存在したよね」という言葉を残し西島は死ぬのだが、すでに、そのような問いを発する時点で死んでいた、と黒沢は告げている。

  体験は体験する時点ですでに記憶化が始まっており、それをしたというのは記憶というひどくあいまいな脳の機能に拠る。しかし、自分が何者であるかはその記憶に頼らなければならず、その記憶を脅かす何か≠ニの遭遇に人間は恐怖を感じる。しからば、あいまいな記憶とは別に、心の中にもう一人の自分を感じたとしたら。そして、その自分が目の前に現れたとしたら。そこでも脅かされるのは、自分は何者であるか、本当に俺は俺なのか、という問題である。

 最新作『ドッペルゲンガー』において、黒沢は二人の役所を登場させるが、果たして本当の役所はどっちであるのかわからない。はじめから出ていた方が本当の役所だといえるのか。それとも、本当の役所は欲望を次々に実現させる方で、はじめから出ていた弱い役所は、強い役所が生み出した弱さではなかったのか。または、両方本物で、そのつどそのつど都合のいいほうが現れては消えているだけではないのか。無限に繋がるそうした思考を『ドッペルゲンガー』はわれわれに強いる。記憶に次いで心のなかのあいまいな自己像がまたもやわれわれを生の断崖においつめるのだ。

  さて、そうした記憶によるあいまいな自己や心の中の多面性をえぐる黒沢映画に必ず存在し、作品の肝ともいえる重要な位置を占めるのが廃墟≠セ。『CURE』では萩原の覚醒の場であり、『ニンゲン合格』では西島の家であり、『回路』では日本そのものが廃墟化し、『ドッペルゲンガー』ではロボットをめぐる争いの決着の場として存在するのだが、全ては、廃墟である自己の具現である。

  つまりは、われわれの中には何もないのだ。記憶や心に支配されているが、よく見てみれば、あるのは廃墟である自己であり、もともと何もない。何もない廃墟の上に、記憶やら心で装飾しているだけなのだ。それが、体面上の自己であり、一度、その体面を脅かす何か≠ノ出会えば、即座にその装飾は崩れおち、廃墟だけが無残に残されるのである。

  黒沢清の映画をホラーに分類することができるとするならば、黒沢映画を象徴するこの廃墟こそが、真に黒沢をホラー作家に分類させる理由である。なぜなら、その廃墟によって、幽霊などの超常現象でなく、人間の暗さや狂気の本性を暴くのでもなく、人間の存在、個人の自己存在そのものに疑問を突きつける究極の恐怖を黒沢は提示し続けているからだ。


text by 山崎慎介

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