『ジョゼと虎と魚たち』 監督 犬童一心 2004年


曇りなき青年の激しさ


  近づいては離れ、また近づいては離れる。予期されるあらゆる責任も省みずに、青年はただひたすらに近づいていく。たとえ、未来へと持ち越された不安や恐怖が、将来青年を悩ませ、苦しませようとも、それに目を瞑ることの出来る生命の激しさ、これは勇気であると思う。しかし、老人は青年に囁くのだ。お前にはまだ選択出来ると。このときとばかりに彼らは嘯き、青年を脅かすだろう。その勇気をさも残酷なものとして批判するだろう。だが、彼らも本当は忘れてしまっただけなのだ。青年は行動によってそれを思い出させてくれる。青年の歩いた軌跡を眺めてみればいい。そこにあるものはただ、ひたすらの、一片の曇りもない、ひとつの行動の結果としての美であった。

  すっかりオープニングに騙されてしまった。というのも、映画冒頭に恒夫(妻夫木聡)とジョゼ(池脇千鶴)の二人の記憶が静止画でワンカットずつ写されるシーンがあり、恒夫がこれらの記憶にコメントを添えながら映画は始まるのであるが、このシーンがあるおかげで、観る者はその恒夫の口ぶりから恒夫に起こった恋愛が、彼の判断を超えた何らかの理由で終局を迎えるであろうことを勝手に予想してしまうからである。(この理由とは恋愛映画の大体において片方の死であることが多いと思われる)。これは要するに、恒夫の喪失した恋、または失くしたからこそ引きずり続け、いまもなお輝いている彼の愛の物語を我々に期待させるということである。

  しかし、恋愛主点でこの映画を見ていた観客たち(恋愛主点というか、ロマンス主点)は、ラストを目撃するにあたって、ものの見事にこれらの期待から裏切られるようにこの映画は作られている。なぜならば、二人はこれといった強制された理由もなく、それもたった二年余りの期間で別れてしまうからだ。つまり、ジョゼは死んでくれない。ではなぜに二人は別れるのかといえば、それは恒夫のナレーションでもある通り、彼がジョゼから「逃げた」からである。(この場合での「逃げた」という表現は、肉体ではなく心であり、彼が無断でジョゼの前から姿を消すという事ではない)。

  ここで確認しておかなければならないことがある。それはジョゼが下半身麻痺の身障者であるということだ。つまり、我々の勝手に期待する二人の美しいロマンスというものを解体してみると、ジョゼという身障者の女と、恒夫という健常者の男には深い社会的溝があり、そこからの超越という、この明確な恋愛の「スパイス」のおかげでそれが成り立っているという事がわかる。そして身障者と健常者の恋愛において、もしもそこからロマンスや美のエッセンスを抽出しようとするならば、二人の愛の永続性が不可欠なものであるという事は云うまでもない。壊れないモノとしての前提がなければ、この二人の恋愛はロマンスには成り得ないということだ。だからロマンス主点でこの映画を見ていた観客たちは、二人の結果に失望せざるを得ないだろう。しかも、恒夫はジョゼの家から去る際に、なんと元彼女を外に待たせるという非常識極まりないことをしている。差別的な云い方をすれば、恐らくロマンス主点で見ている多くの女性の観客は、これを見て激昂するのではないだろうか。私たちの期待をどうしてくれるの!なんて。

  このように私も映画ラストまで、完全にロマンスものとしてこの映画を見ていた。騙されたと書いたのはそのためである。しかし、なんだかんだといって、俗な私はロマンスものとしても結構楽しめていたように思う。露わになった池脇のバストの形の悪さが、物語の持つ非現実的ロマンスに、ある種、強いリアリティを与えていたし、恒夫とジョゼの初めての交わりのシーンが、身内から「壊れ物」として抑圧、束縛されているジョゼにしては意外である、夕方に行われたということも、その大胆さの中にあるすがすがしい解放感ゆえに、大いに楽しめた。日陰者として育てられたジョゼの、恋愛においての見境のない積極性は、やはりそれ自体に永続性がないことを予感してでのものであった。ジョゼは一秒一秒を戻らないものとして存分に楽しんでいたし、それ以上を望む人間の際限のない欲望の醜さに敏感であった。

  映画ラストに二人は余りに呆気なく別れてしまう。ここで重要なのは我々はいったいどちらに感情移入するのか、ということだ。捨てられたジョゼが、逃げた恒夫か。ここで映画の見方が大きく変わってくるだろう。恒夫はジョゼと別れたすぐ後、元彼女と行く当てもなく歩道を歩いている時に、彼女の雑談の問いかけに反応出来ず、歩道の泣き崩れてしまう。このシーンは云うまでもなくかなり重要なシーンである。これがあることにより、印象が180度変わるのだ。

  たったこの3分間程のシーンが驚くべき効果を映画にもたらしている。そもそもこの3分間程のシーンは、非常に巧みに計算高く撮られていた。ガードレールの付いた道路沿いの歩道を歩く彼らをわざわざ彼らとは車道を挟んだ対向の歩道から捉えることにより、このときの我々と映画との距離感を実によく表しているのだ。つまりこれは、ジョゼとの愛の永続性を信じて疑わなかった観客の、裏切られたゆえに生じざるを得ない我々と恒夫との距離のことである。観る者ははっきりと、今までの流れとは違う、何らかの意図を画面から感じ取ることだろう。さらに、このシーンは視覚的効果だけではない。音声にも少しばかり工夫が凝らされている。観客の感情を揺さぶるのは、視覚よりもむしろ音声の方かもしれない。

  シーンには車通りの激しい道路が使用されている。これは明らかに監督の意図であろう。観る者は歩く二人がこれから一体何を話すのか固唾を呑み、息を凝らし、耳を澄ます。しかし、何やら二人の会話が聞こえづらいことに気が付く。大きい排気音をたてたトラックが二人の横を通り過ぎる。と、突然、恒夫が立ち止まり、溢れ出る涙をこらえ切れずにガードレールによりかかるようにして「ごめん」とだけ言いその場にしゃがみ込んでしまう。元彼女はただ立ちすくんで恒夫を後ろから見つめる事しか出来ない。ここでシーンが終わる。

  もしもこのシーンが恒夫が誰もいない静かな場所で一人むせび泣くシーンに置き換えられたとすれば、その涙は非常に感傷的なナルシシズムに溢れた見るも無残なものになっていたことだろう。重要なのは彼は泣こうとして泣いたのではないということだ。その表現として、映画のフィクション性の一つを形作る、音というものを、現実の音の優劣に戻す(つまり現実を生きる我々の、どんなに我々にとって重要な場面でも人間の声よりも車の音の方がはるかに大きく、存在感があるということ)ということが、恒夫にとってやはりフィクション染みたジョゼとの恋愛を限りなくノンフィクションに近づけているのである。云ってみれば、このとき、初めて恒夫にとってのジョゼとの恋愛とその終焉が、強い現実味を持って彼に刻み込まれたのである。観る者はその解放された刹那の生に、道徳よりも質感に満ちた美しい激しさを感じ取ることが出来るであろう。


text by 梶山健太郎

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