『HYSTERIC』 監督 瀬々敬久 2000年


青いマスクからの超越


  年頃の子を持つ親の失望と怒り、しかし我が子への愛に強く執着してしまうという、相反する二つの感情の痛み、と云えばそれに近いかもしれない。それとは映画「HISTERIC」を観た直後の感想のことである。正直、この作品に対する期待は強かった。モデルとなった青学大生殺人事件から企画が持ちあがり、あらすじ、脚本に至るまで、すべてに目を通しただけに、作品がとうに頭の中で映像を成しており、実際に作られたこの音と映像を見ている間中、常に違和感が付きまとった。

  この違和とはいったい何かと云えば、それは私の作品への執着ゆえの違和であろう。そう、まるで我が子を見つめるような感覚が作品を観る私を支配していたのである。だが、私に作品の親を名乗る資格など毛頭無いのだが…。

 作品全体に流れる空気が、私に冒頭に述べた感覚を植え付けたのは間違いない。具体的に云えば、それは作品冒頭のワンルームアパートでの智彰と真美のビニール紐を使って自殺しようとするシーンによく顕れている。

  仰向けになった智彰に馬乗りに跨って紐を引き絞る真美を少し離れた後方から撮っているのはこの映画の始まりとしてはなかなか良かった。しかし、このシーンでは肝心の紐を引く真美の顔や、鬱血し膨れ上がっているであろう、智彰の表情も捉えられることはない。響くのは智彰の空しい咳ばかりだ。ベランダからか、部屋の天井もしくは、端の方から二人の動向を見つめるしかない。

  智彰を襲う、一瞬の死への恐怖(それは快感であるのかもしれない)や、真美の悲痛に満ちた目を、お互いの視線に成り代わって見て、感じることは出来ないのだ。この種の思いは他にもありとあらゆるシーンで感じることである。私はひたすら彼らとは縁遠い一人の傍観者であって、肉感的に彼らを感じとることはほとんど不可能なのだ。彼らは私の子供であると言うのに!…また書いてしまった。

 気になることはこれだけではない。特筆すべきは色の使い方であろう。作中に、青みがかったり、セピア調になったり、ひどく黄色がかったりと、わざと着色を施して撮っている箇所が幾つか見受けられた。真美と智彰の出会いのシーンでは、喫茶店ではカラーであったが外でのカットではほとんどがセピアで占められていた。

  回想シーンでもあるこの二人の出会いシーンのセピアは、ありがちではあるが違和感はない。続いて、二人がアパートでテレビゲームをしているときの、黒く周りを縁取られた黄色がかったカットもあった。こちらのカットはと云うと、なかなか秀逸であると感じた。

 黄色という暖色系の色を映像に加えるという事は、普通に考えれば観る者に暖かさを与えるための技術である。しかしこのカットでは、テレビを見つめながら肩を並べた二人を黄色で包み込み、黒い縁を付け、映像だけを見れば暖かな二人だけの世界を醸し出してはいるが、このとき二人が感じている世界からの疎外感を考えてみれば、これは明らかに黄色ではない。

  現に、このときの智彰はゲームの電源を突然切り、一言、「死のうか」なんてセリフを言っているのである。そしてこの後、問題のビニール紐で自殺を計ろうとするシーンに移行するのだ。これは一体どういうことか。あくまでもここからは私の推測でしかないのだが、このときの黄とはただの暖色としての黄として表現されたのではなく、青色(青は冷たい、悲劇的な表現として)の中にあるからこそ光る、狂気の黄として描かれたのではないかと考える。

  つまり、二人にとって自殺という行為は「死」へのゲーム(二人は自殺ごっこをしていた。ごっことはすなわちゲームである)でしかなく、表向き深刻そうではあるが、深層ではそれはより良い人生への子供染みた執着でしかないため、その軽薄すぎる二人の感覚的な色は、悲劇の茶番を演じる人間のシニカルな笑いの色、つまり狂ったような黄色であったのではないかと推察する。半ば強引ではあるけれど…。

  では、青色を使ったシーンではどうであったかと云えば、こちらはかなり不満が残るものであった。海岸沿いをアメ車で走る冒頭のシーンも確か青を使っていたが、ここで言及するのはそれではない。その問題のシーンとは、脚本でいえばシーン50の、真美が智彰と車でドライブ中に轢かれた犬の死体を発見するシーンのところである。

  注意しなければならないのは、脚本では智彰とドライブ中に、となっているが、映画ではこのシーンに智彰は出てこないことだ(映画では真美一人が、恐らくパトカーの助手席に座ってそれを眺めていると思われる)。それと、この犬は映画だと蘇るという、脚本にはない演出が施されていて、この映画を批評する上でとても重要になるシーンだということも。

  映画ではこのシーンはすべてが終わってからの映像として使用されている。つまり、智彰が海岸で死んでからということだ。そして、この映像を映画内で二回使うことにより、さらにこの表現は大きな意味をそこに内包しているということを物語っている。

 一度目の映像では、犬は横たわったまま明らかに死んでいて、そのまま次のシーンへと移る。つまり、そこには一匹の名も無い野良犬の死が描かれているだけだ。枯れ枝で犬の死体を突つく男の姿がさらにその映像に死の無意味さを醸し出している。死の無意味さとは同時に生の無意味さの裏返しであることは云うまでもない。そしてこのときの映像は青色。そこはかとない無情の気分が映像を包み込んでいる。この一度目の映像のほうには文句はない。問題はこのだいぶ後に繰り返される二度目の映像でのことだ。

  二度目の映像でもやはり青みがかった真美の横顔が印象的に映される。しかし、真美がしばらく犬を凝視していると、突然犬が目を開けてムックリと起きあがる。と同時に真美の乗る車も発進し、犬と男をゆっくりと追い抜かしていく。ここで真美は犬が蘇ったことに激しく動揺し、映像が真美の視線と同一になる。すごい勢いで助手席から振り返り、息を吹き返した犬を見つめる真美の姿はまだ青みがかったままである。そして真美の目から見る犬の姿も相も変らず冷たい青のまま。

  犬の死からの再生を目撃して、真美が受けとめたメッセージは決して青では表現されないだろう。真美にもし、あの青で表現される無情がこの先も続くのならば、真美のあの動揺の仕草とは甚だしい矛盾が生じる。真美はあの犬が起きあがった瞬間、確実に今までの価値観が一変したはずなのだ。死や生といった生物にはどうにもならない力を初めて正面から見つめたとき、そこには夢や希望といったロマンチズムとは乖離した人間の限界というものが見えてくる。

  人間ひとりひとりの可能性は無限ではないし、逆にとても限られたものだ。しかし、限られているからこそ、その可能性を模索していく姿勢に、生と死を超えた「太く短く生きる」ということが集約されているのではないだろうか。現実を現実として受け入れることが出来るようになったとき、もう青いマスクはいらないだろう。私たちの見たままの色、つまり犬は犬の色、草は草の色で表現されるべきなのだ。このとき、意味から解放された真美の目には、きっとそのままの世界が見えていたことだろう。


text by 梶山健太郎

目次へ