『HYSTERIC』 監督 瀬々敬久 2000年
 

シナリオと映画、その分岐点


  最高の料理には最高の素材が不可欠だ。しかし、どんなに素材が良くても調理しだいではまずくなる。映画『ヒステリック』は、観終わったあとにそんなやるせない気持ちを抱かせる映画だ。

  とにかく脚本が良くできている。実際にあった事件をもとに練りこまれたストーリーは、時系列をあえてバラバラにし、重い価値をもたれそうな殺人事件をひとつのエピソードとして軽く流す程度におさえているから、真美と智彰の絆、二人の物語の体裁をくっきりと浮かび上がらせる。また、脚本上におけるつかみ(ドラマ)≠フ連鎖が、物語を流れるように進行させ、読者の心を一分たりとも停滞させることがない。もちろんそれは時系列の配置転換の作用によるところも大きい。

  さて、それではなぜ出来上がった映画を観終わったときに、前述した苦い思いを抱くことになるのか。それはずばり、脚本と映画における生≠フ感触の違いから来る。脚本段階で感じられた生≠フべったりした粘着質的感触が、つまり、この物語の核である智彰と真美のどうしても離れられない二人の関係性が、映画では緊張感の拡散と共に鈍くなってしまっているのだ。

  それはなぜか。一言で言えば映像化の問題である。例えば、脚本段階において真美の心境を如実に語るワンシーンがある。それは、買ったばかりの、真美にとっては少し派手目の口紅を、喫茶店の化粧室で塗るシーンなのだが、映像化においてはもっと丹念に撮ってもよかったのではないか、と感じさせるほどにわりとあっさりしたシーンになっていて、その口紅にこめた井土の意図が全面的には観客に伝わらない。このシーンは、全くもってつまらない現実からの逃避と、そんな現実を呼び寄せるダサい自分からの変身願望を描写する、脚本においての最初のポイントともいえる重要なシーンだからだ。

  むろん、これは脚本と映画を比べたときに初めて気づく点であるということに留意しなければならないのは付け加えておくべきではあるのだが。ほかにも、無駄にフィルムに色みがかけられ、半端なヒップホップがBGMで流される。それは、それまで積み重ねられてきた緊張感を一瞬にして台無しにしてしまう。実際、物語の中盤で智彰が登場するさいのヒップホップにはしらけてしまったのが正直なところだ。監督の瀬々は敢えてそうしたベタな演出をしたのかもしれないが、残念ながら完全に失敗に終わっている。  

  かといって、すべてが映画的に成功していないかといえばそうではない。脚本では再現不能な映像的試みが野心的に行われている。アパートでの殺人描写がそれだ。このシーンはほぼ監視カメラ視点で描かれている。監視カメラ視点とは、部屋の上部に設置されたカメラで犯行を記録した視点だ。テレビの犯罪特集でよく見る防犯カメラの映像と同じと考えれば分かりやすい。

  クローズアップもカットの切り替えもない映像の登場人物に感情移入するのは難しい。あるとすれば「あ〜あ」といった第三者の傍観的な感情が起こるくらいだろう。被害者にも加害者にも感情移入できない殺人事件は、倫理的な重みを失い事件から出来事に降格される。この作品において、殺人事件を他のエピソードと同格に描くにはどうしたらよいか、殺人事件だけが前面に出るのをどう防ぐか、監督瀬々の創意と工夫が読み取れるシーンである。  

  もうひとつ映像的なシーンを挙げるならば、テレビ画面視点がおもしろい。これは、テレビゲームに興じている二人をテレビの内から撮るというものだが、我々と映画の住人とのご対面ショットによる視線の衝突には、峻厳な示唆が含まれている。それは、立場の転換の可能性である。ボニー&クライドがその罪にもかかわらず人々の心をつかんで離さないのは、二人の破滅的な行動や結びつきがどうしようもなく我々の心を揺さぶらせるからだ。そして、もしあの二人のうちのひとりが自分だったら、という甘美な夢想を呼び起こす。

  一方、退屈な日常に飽き飽きし、世の中を破壊してしまいたくなる衝動を覚えた自分を知覚するのだが、そうした現実を突き抜けたくても突き抜けられなくて悶々とした日々を過ごしている人間にとって、日本版ボニー&クライドといえる智彰と真美は、つまらない現実世界を突き抜けた向こう側の世界の住人としてテレビ画面の前に、スクリーンのなかに現れている。彼らはまさに己の願望を映す鏡のように銀幕の上で踊っている。

  そのことに気づいたとき、この二人に同化している自分を見出すであろう。そしてまた、二人にとって、いまだ平凡な生活を送っているこちら側の己とはどんな存在なのかと想像するとき、画面のこちら側とあちら側の決定的な差異が文字通り目の前に立ち現れるのだ。スクリーンという境界を隔てた向こう側には刺激的な生が待ち受けているのだが、一度その生を手に入れたならば、こちら側にはもう二度と引き返すことはできないのだ。メフィストに魂を売るファウストになることができるのか。このテレビ画面視点は、そうした思考を抱かせうる非常にエキサイティングな映像的手法とみなせよう。

  さて、これまでは映画と脚本による違いを述べてきたが、それではこの二つに共通しているものは何か。それは時系列だ。冒頭に物語の後半部分、結末や決定的な事件を持ってくる手法は、これから始まる物語の大きな推進力として機能する。この『ヒステリック』も時間を行き来する展開である。

  時系列の入り乱れた作品で記憶に新しいものにA・G・イニャリトゥの『21グラム』があるが、作家の沢木耕太郎はこの作品を評して、「段差の違う階段を昇るような奇妙な感覚の中で、その出来事が起きるのを待ち構えるようになっていく結果、それが単なる偶然じゃなくて、彼らの運命であるかのように思えてくる」と書いた。

  『21グラム』は三つの人生が入り混じるという違いはあるものの、『ヒステリック』にも同じ指摘が可能だ。事件の描写のあと二人の出会いがあり、捕まった真美のインタビューが挿入され、事件後になり、また事件以前の二人になりというごちゃ混ぜの作りが、頭の中の整理の段階で一本の太い糸となってつながる。それは運命の糸となり、彼らの足跡を辿る道しるべとなる。その糸が始めから終わりまで完全につながるとき、彼らは出会うべくして出会い、事件は起こるべくして起きたのだという避けられない宿命が開示されるのだ。

  井土、瀬々コンビの別作『ラッシュ!』も同様のシナリオ展開であるが、重さという点では『ヒステリック』の方が断然上である。ただ『ラッシュ!』においては、あれだけ頻出させたラストシーンで最後の最後に、このうえなく心地のよい裏切りを仕掛けたのはさすがの一言である。

  『ヒステリック』は、脚本家と監督が別の人間であることは、つまりは、脚本と映画は全く別物であるという事実を指摘しうる作品だ。もちろん、映画のできに比べて脚本の出来が数段上であるのは間違いないが、しかし、そんな比較はひどくくだらないものなのかもしれない。ただ、できることなら、井土紀州本人が監督した『ヒステリック』を観たいという思いが募るのはとめられない。


text by 山崎慎介

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