『百年の絶唱』 監督 井土紀州 1997年


ダムに眠る八百万の神


  「あいつ途中からカルト宗教にハマりやがってさ、俺も誘われて大変だったよ」と井土監督が麻婆茄子丼を食いながら私に語ったとき、カツ丼を食べていた私は思わず顔を上げてしまった。シンクロ出来なかったと、監督本人の前で強固に言い続ける私は、このとき初めて映画にシンクロしたのだと書いている今思う。主演俳優が作品とは無関係のまったくプライベートなところでカルト宗教にハマり、その事実が作品に血肉を与えたということは、私にとってあまりに衝撃的であった。

  そもそも、これは映画のサブストーリーではないはずだ。そして、俳優自身の役作りのためでも勿論ない。だが、この笑って見過ごすことの出来ない事実の重みは、私がこの映画の力を理解する上で、大いに貢献してくれたと思う。私の錆付いたアンテナ。これを眼前に突き付けられた思いがした。

 中古レコード屋でバイトをするヒラヤマは行方不明となった男の部屋へレコードを引き取りに行く。その部屋を訪れたヒラヤマは、何か得体の知れない霊的な力を受信してしまう事となる。ヒラヤマを襲う数々の異変。すべてはこの部屋から始まったのだ。ヒラヤマの詩を書いているという趣味が実証する、彼の繊細さ、または非現実性が、失踪した男、圭の部屋に渦巻く思念の温床となってヒラヤマを侵しはじめる。ヒラヤマはこのときからヒラヤマを忘れてしまったのだ。いや、そもそもヒラヤマという男は、彼自身の中では始めから存在していなかったのではないだろうか。これは実感としてでのことである。ここにそのことを表した都合のいい文章がある。

「精神病のひとつである分裂病の患者たちは、他者の欲望を我が身の上に感じたときにはじめて自分が生まれることが出来るのだという。それはつまり、他者から何かを期待される、もしくは望まれることにより、自分の存在価値を確認するということだ」(『雷魚 』―欲せられないものたち― 山崎慎介)

  つまり、ヒラヤマはその存在を望まれたのである。ヒラヤマは他者の欲望の受け皿になることにより、その存在を確認したかったのであろう。だが、この映画の場合、その他者であるモノがあまりに強大であり、恐らくヒラヤマは己の存在を確認する暇さえなかったのではないだろうか。なぜならば、それはヒラヤマを侵したこの強大な思念の正体が、そもそも圭というたった一人の人間が残せる筈も無いほど、強く、まるでその果てが知れないほど広大であるからである。

  では、その思念の正体を明確に表しているシーンを挙げよう。それは圭が左右に大きく腕を伸ばし、半裸で横たわるシーンである。彼の周りには霧状のものが立ち混めており、よく見ると蓮の花が幾つか浮かんでいる。ある人は圭をキリストだと語ったが、このシーンを見ればそれは否定せざるを得ない。雲に浮かぶ蓮の花…。言わずと知れた、これはニルヴァーナである。絶対的静寂に包まれた仏教における理想の境地だ。すなわち、これは圭の思念に含まれる神懸り的な力を表している。圭の怒りの思念(故郷がダムに沈められたということ)のバックボーンとして、ここに神が存在するのだ。

  だが、ここで一つの疑問が生じざるを得ない。それは仏教にそもそも復讐の観念がないことである。(圭の思念には多分に復讐心が存在する。それが後にヒラヤマに人を殺させることとなる)。では、なぜ解脱し涅槃に到達した者が人を殺すのか。これは、この解脱が仏教によるものではないからだ。

  現在の日本という国を考えてみれば、この国にはポピュラーな宗教はたしかに仏教であるけれども、しかしその教義、または説法はほとんど普及していない。いわば無宗教国家であるといってもいい。信仰の自由というものが存在する限り、無宗教国家というものは当たり前な話なのだが、それにしても我々の神や信仰の対象というものは、強制されることは勿論皆無であり、探すことから始められる。では、ここで表される神とは一体何か?それは沈められた村に深く関わっている。

  圭は幼少の頃、村で亀を拾った。亀は大事に少年に抱えられ、そして箱の中で、ダムに沈められる村の小学校と共に屍となる。いったい、少年にとっての亀とは何だったのであろう。亀という生物が有するその大いなる意味…。亀は長者である。知恵の象徴であると言ってもいい。そしてそれは、自然界を代表する、いわば自然と密接に繋がれていた村を護る者だったといったら大袈裟だろうか。

  つまり、亀は村の人々にとって、天皇よりもより具体的な神としてそこに存在していたのだ。それは、いわば神道の「祖先神や自然神への尊崇を中心とする古来の民間信仰」(広辞苑)の象徴であったのだ。民間信仰とは何かといえば、これは共同体、または個人から個人に伝承されてゆく民族宗教のことである。

  これは無論、日本人には誰にでもあり、しかし確認することなく育まれてきた共通の意識、宗教のことである。では、さきほどの圭のシーンに表われる神とはいったい何かといえば、これは我々の明確な形になることのない大いなる神の存在が、仏教の涅槃の姿を借りて表われた、いわば超自然神であり、我々日本人が描く一つのイメージとしての発露であるのだ。

  すなわち、ここに仏教は当てはまることはないし、もちろんキリスト教もそうである。だが、裏を返せば、この神は仏教の神でもあるし、キリストでもあるし、そして亀でもあるのである。我々日本人にとって神とはあらゆる形を持つものだ。八百万の神という言葉もある。たとえそれに復讐の観念があったとしても、それが何だというのだ。あれは間違えなく我々の神であった。

  人はダムを作った。それは自然を超越してしまったということだ。人は人工の海を作った。海とは生命の根源である。我々は期待し、そして渇望する。神がそれを破壊することを。我々の神はどこにいるのであろう。それはもしかしたら、一人の俳優が迷い込んだ、あるカルト宗教のなかに答えがあるのかも知れない。


text by 梶山健太郎

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