『グッバイ・レーニン』 監督 ヴォルフガング・ベッカー  2004年


  非常におもしろかった。壁の崩壊を病床の母に隠そうと四苦八苦する主人公の空しい試みが、社会主義の最後のあがきとダブって見え、おかしくも悲しい悲喜劇の様相を呈している。本当は西側に亡命したかった母の過去と、西に亡命して壁の崩壊後東側に戻ってきた父。壁の崩壊を喜ぶ姉。

  社会主義の理想と現実とのギャップは、壁の崩壊後、旧東ドイツが資本主義の波にあっという間に飲み込まれて、コカ・コーラの看板にたやすく侵略されたしまった事実を見れば一目瞭然であるのだが、しかし、その理想を否定することは誰にもできない思う。

  貧富の差、生まれたときからの持つものと持たざるもの、資本家と労働者、労働力の搾取。日本においても60年代の最潮期、70年代初めまではそれなりの地位を保っていた左翼思想(とりわけ学生達において)は、ジャパンマネーの価値が最高潮に達した80年代の国民の狂乱とともに若者達の間から抜け落ちた。そして、バブルが崩壊して冷水を浴びせられた90年代、新世紀になっても遅々として回復しない国の現状下に、ようやく何かがおかしいんじゃないかとみなが気付き始めたところだ。しかし、今気付いたところで世界はすでに西側のものになってしまっている。

  他方、マルクス主義、社会主義の実現による労働者国家の樹立は、すべてのものが平等で、金に支配されることがないユートピアとして存在した。しかし、資本主義の個に対し社会主義の全はともすれば全体主義にも落ちかねない。その危うさは、田荘荘監督の『青い凧』にも描かれているように、全体を批判するもの、全体からはみ出すものは自己批判を迫られ、労働改造に送られて、人格改造を迫られる。

  また日本で言えば、内ゲバで同志の命を奪った連合赤軍事件の例もある。全への奉仕のための個の殺傷は人間社会の理想であるのか。その矛盾とのたたかいに明け暮れ、自滅してしまったのが20世紀の社会主義、マルクス主義ではなかっただろうか。そして、より人間らしく、個の欲望がまかり通り、まさに人間的=動物的になってしまった弱肉強食である資本主義に凱歌があがったのだ。

  物語は最後、旧東ドイツ時代に宇宙飛行士で現在はタクシーの運転手をしている男とともに、主人公の母の遺灰をロケット花火で打ち上げて終わる。華やかに散る遺灰にのせて人びとの想いが運ばれる。


text by 山崎慎介

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