『誰も知らない』 監督 是枝裕和 2004年


芳しき崩壊の香り


  映画冒頭のバスのシーンに何か得体の知れない恐怖を感じた人ほ多いだろう。明の呆けた顔や穴の空いたくたくたのTシャツから漂うものが、我々にそう感じさせたのも大きな理由の一つではあるが、それだけではないものをこのシーンからは感じる。

  それが、バスの中から明を捉えるカメラの位置のせいなのか、少々明るすぎる車内の蛍光灯のせいなのか、はたまた車外に遠くきらめく空港の、ただの旅の通過点に過ぎないような、まるで現実とは乖離した光の群れのせいなのか、まるで見当がつかない。ただ云えるのは、我々はそれらの情景全てから紡ぎ出される、ある匂いを嗅ぎつけることだ。それはあまりにも恐ろしく、悲しい香りであった。

  全てのカットに計算された緻密さを感じると共に、まるで計算されていないような俳優の自然な動きが感じられた。カンヌでの柳楽優弥の偉業も、是枝監督の手腕といったところであろう。その証拠に、この映画の主演メンバーである子役たちは、全員、素晴らしい好演技をしている。

  年齢で力量を測ることは野暮な事ではあるが、それにしてもこの映画で見せる子役たちの笑顔は全くの「素」であり、風景の美しさを一層際立たせている。柳楽優弥演じる、明の見せる、セリフとは違うところでの演技、つまりそれは目や口元の動き、肢体の操り方などであるが、もちろんこれは賞を取るに値するものであろう。だが、私が最も心を動かされたのは、北浦愛演じる、京子の姿であった。

  母親のマニキュアの壜を誤って床に落としてしまい、それに気づいた母親のYOU演じる、けい子が、

「ちょっとなにやってんのよ」

と、京子を詰問するシ−ンでのことだ。京子はけい子に謝るでもなく、

「お母さん、本当はどこに行ってたの?」

と逆に問い返すのである。けい子は不意を衝かれた驚きで、

「仕事で大阪だっていってるじゃない」

と、京子の巧みな論点のすり替えに対して、今まで通りの子供たちへの建前しかいうことはできない。京子はそれ以上けい子に問うでもなく、悲しそうに指に付着した赤いマニキュアを見つめる。このとき、見つめている時の京子の横顔が大写しになるのだが、これがたまらなく切ないのである。この横顔が出せる北浦の技術と共に、これを掬い上げ、撮れる監督の目の鋭さには恐れ入った。

  そもそも、京子は下の弟、妹二人が母親そのものに愛情を求めるのに対して、彼女はそうではなく、母親の持ち物に対して強い執着を見せている。マニキュアへの京子の強い執着も、けい子が酒に酔って帰宅した時に、自分の指に塗ってくれたという思い出があるからである。

  つまり、京子はあの夜の束の間の親子らしい、母と娘らしい、夢のようなひととき(母から娘への化粧を使った、伝承のような時間)を心の中に深く閉じ込め、それを深く愛しているのである。京子は現実に目の前に生きている母を既に思い出化しているのだ。京子の目に映るけい子は、常にその現実以上に自身の思い出によって美化され、肯定されているのである。これは、母の裏切りに対して、兄の明よりもいち早く感付いていた聡明な京子ゆえの、生き抜く術であったのだといえる。

  他にも、京子は物への執着を見せている。金を送ってこずに家出をした母親に苛立って彼女の服を売り、金を作ろうとする長男、明に対して、京子は強い抵抗をする。京子が怒り、明から掴み取っていったのは、母のコートではなく、ズボンでもなく、灰色のスカーフであった…。これが偶然にもスカーフであったことについて、もはや語るまでも無いであろう。この最も女性的ともいえるものに。

  このように京子の存在が、この映画の美しさと残酷さを強く高めていると同時に、並々ならぬ現実感を観る者に与えている。主役の明が、子供らしさを無理にでも剥ぎ取らざるを得ない、苦境に瀕する子供であるのに対して、京子は自らの愛の対象なしでは生きられない子供独特の苦境を演じているのだ。

  つまり明の苦しみは、家族を食わせられない父親的な金銭の苦しみであり、京子の苦しみは明がその社会的な苦しみを味わっているのに対しての、極めて個人的、子供的な愛情への渇望の苦しみなのである。もちろん京子の苦しみは明にも感じる事が可能ではあるが、この置いていかれる子供たちが感じる、二つの苦しみを、別々の人間を使って、極めて生々しく描く是枝の手腕は、賞賛に値するものだ。

  全体を通じて感じる光の美しさが、この映画をさらに印象深いものにしてくれる。不思議なのは、これら印象深いシーンの数々が、実にありふれた風景であるということだ。奇を衒って撮影されたアングルでもなければ、物語にとって特に重要となるシーンでもない。それらを具体的に挙げるならば、一家が引っ越した新しいアパートのリビングで、暖色系の明かりの下で家族そろって蕎麦を食べるシーンや、仰ぎ見る公園の桜、電気が通らなくなった暗い部屋から見る昼下がりのベランダなど、挙げていけばきりがないほどに数々のとびきり美しい風景がこの映画には散りばめられている。

  これは恐らく、撮影において、出来る限りの自然光を利用しているからではなかろうか。この光の存在が、二時間余りに及ぶ非常に淡々と進んでいく物語に、退屈させる事のない緊張感を生み出しているのだ。なぜならば、観る者はそれらの美を目撃する喜びも束の間、すぐにそれの崩壊を予感してしまうからである。太陽の、ときに鋭すぎる光線が、少年たちの柔肌をとても瑞々しく見せていた。素晴らしい映画であった。


text by 梶山健太郎

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