『CODE46』 監督 マイケル・ウィンターボトム 2004年


砂漠と都市の光景に魅せられる


  人類が誕生して数十万年、地球を舞台に我々は果てしない時の流れを旅してきた。その間、地上の様相は激変し、自然の代わりにコンクリートやアスファルトが土地の表面を覆うこととなる。人間が生み出す科学技術は格段に進歩し、その結果、自然を消費し、欲望へと転化するサイクルはその回転速度を速めるばかりだ。

  このいっこうに回転をやめない巨大な車輪は、我々そのものをも蹂躙し、人類の旅自体が終結してしまうのではないかと、いささか、悲観めいた予測すら心の中に生まれる。しかし、そうした悲観を巻き込みながらも、変わらないものをテーマに描いた本作は、その主題もさることながら、それを取り巻く光景を画面に映し込んだ美しい♂f画となっている。

  半世紀後を舞台に、砂漠化の進んだ郊外を突っ切るハイウェイの疾走から映画は始まる。黒光りするビルの乱立した上海の都には滞在許可証が必要で、それを持たないものは、都の外、砂漠で暮らさなければならない。もちろん砂漠に暮らすものたちは都へのパスポートを求める。

  マイケル・ウィンターボトムの前作、『イン・ディス・ワールド』において実現されたこの夢は、しかし、依然として外側にいるものの夢に変わらない。半世紀の時間設定が関与したのは、その差別化の徹底でもある。砂漠と都市の境が、持つものと持たざるものとの境が、国境や、海ではなくて、ハイウェイのトンネルであることに、徹底して人工化された差別を感じさせる。そのトンネルの中では、殺菌のための洗浄も行われるのだ。なんともおぞましい光景である。

  しかし、そのトンネルの向こうの上海の姿が実にいい。ブルー調に統一された画面に繰り広がる、冷たい金属の建築群が、美しい。ビルの合間を縫う道路、ネオンに彩られた夜の上海の俯瞰ショット、何層にも行き交うエスカレーターの群れが美しいのだ。その美しさは、例えば、ミレーの絵にある農村と人間の美しさとは明らかに異なる、温度の違う美、冷たく冴える孤独の美である。土や肌のぬくもりのない、金属と孤独、ビルと人間との組み合わせが画面を通じて、否応なく孤独な感傷的気分にわたしを浸らせるのだ。

  その冷たい美しさのなか、サマンサ・モートンとティム・ロビンスは見知らぬもの同志が乗りあう地下鉄で運命の出会いを果たす。しかし、ここで足かせになるのが、遺伝子が25%以上合致するものとの性交渉を禁ずるCODE46だ。

  これは、いうなれば、未来版愛する二人の障害である。モートンはロビンスの母のクローンであるという、いかにも近未来的事実が明らかにされるが、もちろんその障害を乗り越えようとするのがドラマだ。例え遺伝子が同じであろうが、法律で禁止されようが、男と女の愛の問題には関係ないのだ。

  ここで二人は都の外へと脱出する。そして、そこから映し出される光景がまたまたいい。冷たい上海を離れた二人はアジアのとある街、モートンの生まれ故郷に到来する。様々な人種にあふれ、熱気に包まれた街を歩く二人を手持ちカメラが肉薄する。露店があり、土の地面がある。人いきれのする街中は活気にあふれ、生命に満ち溢れている。例えそこが持たざるものたちの楽園であろうと、二人にはどうでもいいことだ。夕焼けの中、渡し舟に乗る二人を後ろから捉えたショットはため息さえもでないほど、切なく美しい。

  しかし、この美しさも期限があればこそのものである。永遠の若さを手に入れたものはたぶん美しさの本質を失うだろう。失われることがわかっているものこそ、真の美しさを体現できるであろう。この二人の場合もまた同様である。すでに一度CODE46を犯したモートンはロビンスとの性交渉を拒絶するウイルスに感染させられている。異国の地で、その拒絶反応に耐えながらひとつになった二人は、しかし、また、当局に拘束される運命を待つ。

  そして、持つものの側のロビンスはその記憶だけを消去されて、以前の暮らしへと帰っていく。持たざるもののモートンは、記憶もそのままに砂漠の中へと追放される。未来社会における人間の記憶の操作や、完全なる監視社会への警鐘もよそに、砂漠へと放り出されたモートンは、しかし、その記憶を頼りに生きることだろう。

  こうして、未来都市上海から始まった物語は、砂漠で終わる。『イン・ディス・ワールド』で少年をパキスタンから、イギリスへとたどり着かせたウィンターボトムは、『CODE46』で、モートンを再び荒野へと放り込んだのだ。

  この回帰に何を見るかは人それぞれである。彼の描いた半世紀後の未来でも人間はたくましく生きている。それは外の人間も内の人間も同様だ。しかし、人間の管理が徹底され、記憶さえも本人の了承を得ずに消去してしまう社会にはやはり違和感をぬぐえない。画面ではことあるごとに監視カメラを意識した視点で撮影されたショットが挿入されるが、これも未来の監視社会を意識したものだろう。

  そんな未来社会はグローバル化が果たされた未来でもあるが、ふたを開ければ、名ばかりで、ただ多人種がいるというだけである。グローバルなのは体面のみで、肌と肌とを付き合わせたコミュニケーションの衰退振りは現代社会においてもすでに始まっている。パソコンの画面を通じた顔の見えないコミュニケーションは盛んだが、隣に住む人間の顔を知らない人間が増殖しているのが事実である。

  そうした未来都市において、二人の愛は劇的であり心を奪われるのだが、愛し合う二人に未来はないのだ。はかなく散る運命の二人を、砂漠と都市の光景に重ねて描いたウィンターボトムは、砂漠に向き合うモートンの背中を映して映画を終わらせる。モートンの視線と同化するわれわれは、あるひとつの記憶とともにその厳しさを甘んじて受けることになる。


text by 山崎慎介

目次へ