『ボーン・スプレマシー』 監督 ポール・グリーングラス 2005年


追うことと追われることの果ての衝突


  酷暑のインド・ゴアからイタリアのナポリ、ドイツのベルリンを経て、最終的に北の大地ロシアへと辿り着く。記憶をなくした元CIAの特殊暗殺部隊リーダー、ジェイソン・ボーンは、常にどの国においても、群衆の中に身を潜ませる。そこには誰一人己を知るものはなく、行きかう人間が彼を振り返ることもない。もしいるとすれば、それは彼を追うCIAか地元の警察官たちだけだ。

  群衆の中において、巧みなロングショットで捉えられるボーンの姿は孤独である。彼がもし、元スパイでなければ、危機感をあおる軽快な音楽などは決して似合わず、そのさすらいには夜の街に流れる陰鬱なブルースなどがよほど似つかわしい。無駄口はきかず、言い訳や、泣き言はもちろんのこと、怒りや悲しみの叫びさえ漏らすことがない。一切の無駄を省いた行動からもその過酷なパックボーンが見え隠れするのだが、それは的確なカットと編集による徹底して無駄を排除した、物語の弛緩を許さない作品作りとあいまって、重い過去を背負った男の宿命的姿を、まっさらなスクリーンの上にあぶりだすのである。

  愛する女を、突然の暗殺者の到来とライフルによるたった一発の銃弾で失うことから物語は幕を開けるのだが、より正確に言えば、物語の始まりはその暗殺者とのインドの路地でのカーチェイスから始まったというべきである。なぜなら、そこから大きな運命のうねりの中へと放り込まれたボーンは、失くした記憶の断片を追いかけ、葬ったはずの過去から追われる存在となるのだから。

  つまり、始まりのカーチェイスにおいて、追う、追われるという物語の主題の提示がなされているわけだ。もちろんゴアの砂浜とベルリンの夜街を疾駆するボーンを捉えるショットからも、逃走と追走という主題を見出すことは可能であるが、ここでは、そのような抽象的なイメージよりも、走る運動に人間の始原的な美しさを感じさせる、ボーン役のマット・デイモンの姿態にこそ目を奪われることになるだろう。

  自分の記憶を孤独に追跡していくさなか、外の世界では彼を追うものが暗殺者から、以前にボーンが所属していたCIAへと変わるのだが、もはや彼にとっては己の追跡を邪魔しなければ誰が追ってきているのかは、どうでもいいことである。なぜなら、一度回りだした歯車は、過去ではなく、記憶との戦いを全面的に推進しているからだ。しかし、だからといって、過去は影のように付きまとい決して離れることはないということを忘れてはなるまい。

  悪夢の中に現れる夫婦らしき男女と家族写真の中の小さな女の子、そしてその夫婦を殺す自分の姿。インドで平穏に暮らしていたときから悩まされ続けたこの記憶が、ベルリンにおいて、焦点のあったひとつの映像として脳内に再現されたとき、ボーンは無意識の領内で写真の中の女の子を探せと己に命じる。そして当然のことながら、そのことと同時的に、ボーンは愛する者の命を奪われた被害者としての自分と、愛する者の命を奪った加害者としての自分の二つの己を内包しつつヨーロッパを縦断していくことになる。

  己の犯した忌まわしい罪を認識し、少女への謝罪を決行するという、旅の最終目的を決定づける出来事が、二十世紀、ナチを擁して大きな過ちを犯したドイツで起きるのは偶然であろうか。否応なく映し出されるヨーロッパの曇天に象徴されるそうした負の記憶と共に、ボーンは雪に覆われたロシアへと到達するのだが、そこで待っていたのは、インドで彼を狙った暗殺者との遭遇であった。

  この不意の邂逅から始まるカーチェイスは、物語を締めくくるカーチェイスでもある。もちろんそれは、この物語がカーチェイスで始まったからであるのだが、そこには、追うことと追われることという主題が提示されているからでもあった。物理的極限状態にまで引き上げられた車による追走劇は、即死の領域を侵犯しながら繰り広げられる。銃を扱うように手馴れた手つきで迅速にギアを操作しクラッチを踏むボーンに男の色気を感じる暇はない。というのも追い追われることへの決着が衝突という終末を否応なく我々に予感させるからだ。そしてその予感は裏切られはしない。決着には至らないものの、数度、ボーンは横から唐突に衝突されるのだ。

  ドイツでの覚醒時に、写真に映る小さな女の子から愛する家族を奪ったことを思い出した精神的衝撃が、このカーチェイスにおいて助手席に備えられたカメラが捉える、不意の車の衝突に対するボーンの身体のリアクションとシンクロする。つまり、車の衝突実験の映像において、運転席に乗せられた声なき人形が示す恐ろしい運動を、我々はボーンが体現するのを間近で見るだろう。そしてまさに、その突発的で暴力的な衝撃こそが、夢の覚醒時にボーンを襲った衝撃に他ならず、愛する者の命を奪われた自分が、以前に人の愛する者の命を奪っていた過去を思い出したときの衝撃であることを我々は痛感することになるのだ。

  この精神的衝撃の視覚化こそが本作の真骨頂であり、数多あるアクション映画とは大きな一線を画す所以であるといえよう。記憶と過去との衝突と、車と車の衝突から生じる衝撃がスクリーンを伝播して我々を襲ったとき、ジェイソン・ボーンの困苦の視野が我々の前に開示されるのである。


text by 山崎慎介

目次へ