『ぼくセザール 10歳半 1m39cm』 監督 リシャール=ベリ 2004年


映画=夢、を体現する映画


  映画を見るにあたって我々に明示されている大前提は、「過去の映像を見る」という事実だ。それは、映画とはすでに撮られたものであるという至極当然の認識を指摘することでもある。フィクションであれノンフィクションであれ、風にゆれる木の葉や、役者が監督の指示の下に行う演技の映像は、過去の運動、行為の記録である。例え映画自体が近未来を描いていたとしても、それを映し、記録したのは過去であり、現在でも未来でもないのだ。まあ、実に当たり前のことなのだが。

  しかし、ここで問題なのは、そうした過去の映像をもとに構成される映画の構造は、我々が見る夢の構造と共通するものがあるということだ。なぜなら夢もまた、我々が経験し、見た映像を元に構成されるからだ。劇場の暗闇に浮かぶ巨大なスクリーンの映像がもたらす感覚もまた、映画を見ることと夢を見ることとの関係性の一翼を担っている。

  それは、夢を見ている状態が、つまりは両のまぶたを閉じ、睡眠に入った段階から形成される暗闇の中で見る夢が、劇場の暗闇の中に投影される映像を見る状態と酷似しているからだ。夢を見ているときでさえ、まぶたの下では眼球が激しく動いているという事実もまた、運動としての夢を「見る」という行為を裏付けよう。

  実際は、まぶたの裏に映像が映し出されているわけでは決してあるまいが、目は行動しているわけだ。そして、そのような見る行為において、夢と映画の関係を思考するとき、『ぼくセザール 十歳半』はまさしく映画を見ることと夢を見ること、そして映画、夢を見ることに対する姿勢について、根深い連関を我々の前に提示するのだ。

  映画は空から舞い降りるショット=カメラの動きで始まる。眼下に見える地上では葬儀が行われており、カメラの動きはあたかも一旦は天国に向かおうとした魂が、気を変えて肉体に戻ろうとするかのような動きをする。しかし、この動きが魂の動きでないのは、それから始まる物語の主人公が、その死体ではなく、葬儀に参列している少年セザールであることから容易に判断はつく。それならば、なぜこのような撮り方をするのであろうか。

  冒頭から意表をつくカメラの動きに釈然としない感覚を抱えながら、物語の進行と共に画面を追っていくと、この違和の要素の正体を徐々につかめるようになっていく。

  例えば、父親が刑務所に入ったという嘘を学校で広めたとして、セザールが祖父母の家に一週間謹慎させられるエピソードがある。同じ時期に、少し高慢で生意気な従姉妹達が偶然滞在したのだが、彼女らを毛嫌いするセザールはあまり二人にかかわらないようにする。

  しかし、初日の夜、ベッドでふと目を覚ますとなにやら音楽が聞こえてくる。その音に誘われてふらふらと従姉妹達の部屋を覗いてみると、下着姿の彼女らがリズムに合わせて踊っているのを目撃する。セザールに気づいた女達は挑発的な視線をセザールに投げかける。セザールは無意識のままに彼女らの妖艶な踊りから目を離せないでいるが、彼女たちの仕草により自分の下半身が異常をきたしているのに気づき、すぐさまベッドに引き返すのである。

  当然ながらこの後に期待するのは、翌朝のセザールの気まずそうな顔と、何もなかったかのように振舞う従姉妹達の様子であるが、映画は見事にそれらをすっ飛ばす。次に映されるのは、教室で親友モルガンから女性器の仕組みについて教わるセザールの姿なのである。この時間の跳躍には正直戸惑った。翌朝の光景も、祖父母の家を離れる描写もないので、セザールが教室にいることにさえ驚いたのだ。そのために、あの夜のシーンはセザールの見た夢ではないのかと一瞬疑念が走るのである。

  この場面はとりあえずよしとしたのだが、しかし、もうひとつ、あれはセザールの見た夢なのではないかと強く意識させるシーンがあった。それは、モルガンの父を探しにイギリスに行くために待ち合わせた駅でのシーンである。そこでセザールを待ち受けているのは、パスポートを忘れたために、彼が密かに恋している女の子サラとモルガンが二人きりでイギリスに行ってしまいそうになる、まさに悪夢のような状況である。

  窮地に立たされたセザールは、近くを通りがかった遠足の児童たちに混じって忍び込むことを思いつくのだが、そこでシーンはまたぱっと変わるのだ。そして、次のシーンでは列車に乗って眠るセザールを映すのである。ここではそのシーンのつなぎだけでなく、セザールの内心の声に残響を施していることが、夢の感覚をより強固に顕示している。

  この、夢であって欲しいような状況におけるセザールの声の残響が、我々のなかにある、夢の中の声の残響のイメージを喚起するのである。そしてここでもまた、難関を通過するときのサスペンスシーンはざっくり削り取られて電車の中の描写へ飛躍するのである。それにより、あれはセザールの見た夢ではなかったのかという感触がまたもや心に芽生えるのだ。

  そうした夢への連関的思念を抱いた我々に決定的な一打を加えるのが、少女の老婆への変身シーンである。イギリスに着いての父親探しが難航し、とりあえず公園のベンチに少女を残して親友とともに二人でコーラを買いに行くのだが、戻ってくると少女がおらず同じ場所に老婆がいる、というシーンだ。もちろん少女はその後見つかるのだが、まさしくこのシーンで明らかとなるのは、監督の決定的な意思表示である。

  我々が見る夢の中でしばしば起きる人物の入れ替わりを画面で示すことは、つまり、これは夢なのですよ、と映画で言っているのだ。そして、映画を見るということはそもそも、ある種の夢への架け橋を渡るようなものなのだと言っているのだ。その夢とは、願望や欲望を実現する夢かもしれないし、恐怖体験かもしれないが、まさしくそれは、正しい指摘である。と同時に周知の事実でもある。しかし、それを映画の中で体現しているところにこの映画の魅力がある。それは、冒頭のカメラの動きであり、シーンの飛躍であり、声の残響である。そして、セザールの行動が夢かもしれないという示唆である。それらが常に映画を見ることと夢を見ることとの親和性について言及し続けているのだ。

  セザールは少し太めのあまりうだつのあがらない少年であるにもかかわらず、クラス一の人気者の親友と競い合ったうえで、かわいい彼女を手に入れる。現実にはほぼ起こりえないこの結末も、夢という要素を付け加えれば、つまりこれはセザールの夢ではないのかという留保を付け加えれば、それまでの演出にも納得ができるのである。そしてまた、十歳という時代を思い出すときに、セザールの物語のような甘いエピソードを欲求する我々は無意識に夢想し、セザールの体験=夢を我々の胸に引き受けるのである。つまり、我々の夢として、かけがえのない郷愁として。

  そして、そのいっときの夢を締めくくるかのように、カメラは彼女と手をつないだセザールの元を離れ、舞い上がる風船と共に大空に上昇するのである。もちろんそれは、映画の冒頭のカメラの動きの逆である。つまり、いっときの夢の舞台としてセザールの人生に舞い降りたカメラ=我々は、セザールの夢の完結と共にその舞台を離れるのだ。むろん、それは我々の夢の完結でもある。


text by 山崎慎介

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