『アビエイター』 監督 マーティン・スコセッシ 2005年


マイノリティーへの視線


  某新聞文化欄の映画評のコーナーで、この作品について「マイノリティーに視線を向ける彼らしさが見られなかった」と書かれていたが、果たしてそうだろうか。この記事の筆者は、『ギャング・オブ・ニューヨーク』でスコセッシが描いたアイルランド移民のような民族的少数派のことを指してマイノリティーと呼んでいるのだろうが、そこには「マイノリティー」という言葉に対する酷く狭い見地が潜んではいないだろうか。たぶんこうした意見を書く人間には、民族や人種等のマイノリティーだけでなく、階級的、境遇的マイノリティーに対する視野が決定的に欠落しているのではないかと思われるのだが、どうだろう。

  わたしがそう感じたのは、スコセッシが『アビエイター』でハワード・ヒューズなる人物を、その破天荒な人生において、決定的に他の人間とは違う、まさに「マイノリティー」な存在として描いていると感じたからである。そして、それと同時に苦悩する普遍的な人間としても描いているところに、本作の魅力が存在するのであるが。

  では、なぜそう感じたのか。まず、映画を見た誰もが記憶に留めているであろう、カメラのフラッシュを映したシーンが挙げられる。映画『地獄の天使』を完成させたヒューズは、試写の行われるホールに出向いたときに、その入り口で記者たちから執拗にカメラ撮影を繰り返される。瞬きも出来ないほどの強烈なフラッシュの光、そしてそのストロボの電球が割れてカーペットの上に散乱したなかを歩くヒューズの姿。

  これは、映す側から映される側へと移行させられたヒューズを視覚的に表現したシーンであるが、もちろんその変化にヒューズはとまどう。脅迫的に繰り返されるフラッシュに立ち止まり、振り返り、周りを見返すのだ。ここでわたしが言う、映される側とは、すなわち投影される側である。なにを。夢を、である。つまり、この業界において、投影される側とは、観る側の夢を投げかけられる側である。スコセッシはこのシーンにより、大勢の夢を見るものと、ごく一部の夢を体現するもの(もちろん夢を体現するもののほうがマイノリティーである)の境界線をそのフラッシュの卑俗な光と共に実にうまく表現しているのだ。

  もともと大金持ちであった彼が、映画という巨大産業に進出しマスメディアの格好の標的にされた瞬間から、人びとの夢の体現者としての重荷を背負うことになる。それは、飛行家としての最速記録や、世界一周の偉業の達成でもあり、可憐な女優たちとの浮名でもある。もちろん、これらは、ヒューズ自身の夢、意志でもあるのだが、公の人間になった瞬間からそれは、自分だけの夢ではなくなってしまう。

  例えば、イチローなどの例を挙げればわかりやすい。去年彼はメジャーで最多安打の記録を達成したが、記録がかかった後半からは、その達成に日本国民が固唾をのんで見守った。まるで自分のことのように、彼のひとつの安打に一喜し、ひとつの凡打に一憂したのだ。このように、映画業界に華々しくデビューしたヒューズを待っていたのは、彼の夢の体現と引き換えの大衆の夢という重荷である。

  映画というとりわけ夢の要素を多く孕んだ媒体を介してマスコミの前に大々的に登場したヒューズは、人びとの夢の重荷から逃れられない。それが、端的なシーンとして表されているのが次のシーンだ。二回目の墜落事故から回復したヒューズは、彼専用の試写室の中に閉じこもり誰の前にも姿を現さないのだが、そのときに、その試写室において、スクリーンに映写されるフィルムが、彼の体に投影されるシーンをスコセッシは用意している。

  これもまさに、夢を投射される側のヒューズという人物を簡潔に、そして、強烈に印象付けるシーンである。「生」のバランスを崩して煩悶するヒューズとその体に投射されるフィルムという画は、そのままヒューズにのしかかっていた大衆の無責任な夢を表現しているといってよい。そしてこの大衆の夢との関係の危うさは、ストロボの割れた電球とその上を歩くヒューズのショットによって、あらかじめ暗示されていたのである。

  これらのことにより、彼の人生における「マイノリティー」なるもの=夢の体現者、とその懊悩を肌身に突きつけられるのであるが、それではヒューズにおける人間の普遍的な悩みをどうスコセッシが描いたのか。それは、映画の冒頭のシーンから読み解ける。

  この映画は子供とその体を洗う母親のシーンで始まる。これは、そののちに稀代の細菌恐怖症(強迫神経症)として名を馳せることになるヒューズとその母親の描写であるが、スコセッシはその細菌恐怖症と母親との記憶を結びつけている。つまり、母の記憶を追うことと細菌恐怖症の悪化は相互作用のように繋がっていることを映画の冒頭で示したのだ。

  このシーンが物語の進行に連れ、その重みをどんどん増してくる。十代で両親を亡くしてから孤独に道を歩んできたヒューズが一旦その精神的バランスを崩したとき、つまり二回目の墜落事故の後、劇的に細菌恐怖症が酷くなるのだが、それは、ひとえに母なる安心感を求めたヒューズの心理的なものが大きく働いたからであろう。つまり、母親への記憶が細菌への嫌悪に繋がるのだ。母親を求めれば求めるほど細菌恐怖症の症状が悪化するのだ。

  しかしそれは、母的な安心感を欲しただけのことなのであり、母を求める普通の人間となんら変わりはない。そして、そう描いたスコセッシは、大金持ちの飛行機乗りで細菌恐怖症を患った奇人であるという独特な偏見に満ちたヒューズへの見方を、誰にも頼ることが出来ずに苦悩し母を求める普通の人間の側に大きく引き戻しているのだ。

  このように、スコセッシのマイノリティーに対する姿勢、視線はこの作品でも存分に感知できる。決して某新聞記者が言うことはあてはまらない。が、それ以上に、マイノリティー的なものと普遍的なものをハワード・ヒューズという一人の人間の光と影の両方を通して描ききった本作は、スコセッシらしさを超えた、スコセッシの代表作の一本となるだろう。


text by 山崎慎介

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