『青い春』 監督 豊田利晃 2001年 
 

隣り合う死と開放感


  学校という空間が、他者との強制的な比較により、現実を突きつけられ、希望を捨てるための場であるとするならば、『青い春』はそうした酷な「生」を刻み付けた青春映画として、見事な出来となっている。

  まずそれは屋上のシーンに表れる。そもそも、従来の学校青春映画での屋上とは、教室や廊下などの四方を壁に囲まれた息苦しい空間の多い校舎の中で、ゆいいつ開放された空間として描かれてきた。あるものはそこで空を見上げ、雲の流れに心を任せる。叫びだすものもいるが、それは抑圧や迷いに対する前向きな内なる声の発露といえよう。

  しかし、監督の豊田は、この映画での屋上をたんなる開放された場としては描いていない。高さや空などの開放感に加え、そこでの度胸試しという要素を加えることによって、濃密な死の匂いを観客にかがせるのだ。  屋上での度胸試しのシーンは三度ある。それは屋上の手すりの外側に立って、胸の前で手を何回叩くことができるかというものだ。

  最初のシーンはいわば伏線としてのもので効力は発揮されないのだが、二度目のシーンでは、はやくもそわそわした死の予感が画面に顕在化する。それは物語の進行とともにいっそう強くあらわになって、三度目の、最後のシーンでは、避けることのできない黒い死のイメージがスクリーンを覆いつくすこととなる。

  これは、死と開放という一見相反しているが、実は密な関係にある二つのイメージを、登場人物たちの心の状態とともに屋上という場に集約して描いた豊田の見事な手腕といえるだろう。

  屋上から見える送電線のショットも印象的である。くしくも、国は違うが同じ高校生を描きカンヌでパルムドールを受賞した『エレファント』の冒頭シーンでも使われたように、非常に不安定な、そして不気味な感情を呼び起こさせるオブジェクトとして、効果的なショットを成立させている。

  高校生の心の中にある、言葉では言い表しがたい牴燭瓩鯢十个垢襪燭瓩法▲ス・ヴァン・サントと豊田が同じショットを使用したことには、偶然という言葉では片付けられない二人の鋭い感性や深い洞察力を感じずにはいられない。

  この映画の大きな魅力のひとつとして、主演の松田龍平の起用も挙げることができよう。その最たるものは、この物語で自分と他者との決定的な牋磴き瓩魎兇犬気擦襯掘璽鵑防修譴襦新井浩文演じる青木が、便所で水をかけられた仕返しをするシーンで、当の青木は追いつめられて怯える相手に一瞬躊躇し、そのために逆に小便やら大便をつかまされるはめになる。

  しかし、ここで九條役の松田は、相手への憐憫を一切排除した冷酷な鬼の眼光とオーラを放つ。そして、その眼に、青木は自分との決定的な牋磴き瓩鮖廚っ里蕕気譴襪海箸砲覆襦それはつまり、青木にとって、超えることのできない壁の存在の認識である。同じレベルに立ちたい、もしくはそのレベルを超えたいという願望の崩壊は、ひいては青木の自己存在の危険にまでつながっていき、精神的暴走の果てに“死”という生からの開放へと走らざるをえなくなるのだ。

  これは、その切れ上がった眼と薄い唇に、美しさと残酷さを併せ持つ松田ならではの魅力が爆発したシーンと言える。  

  同じ松本大洋原作の映画としては、曽利文彦監督の『ピンポン』がある。スポーツ青春ものの『ピンポン』を表としたら、はみ出した者たちを描いた『青い春』は裏といえようか。しかし、窪塚洋介演じるペコのドイツでの華々しい活躍を予感させて終わる『ピンポン』よりも、屋上から飛び降りざるをえなかった青木や九條たちを描いた『青い春』のほうに、より親近感を覚えるのはわたしだけであろうか。


text by 山崎慎介

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