『リンダリンダリンダ』 監督 山下敦広 2005年


呪われた青春


  舞台の中で一身に光を浴びる少女を見て身震いがした。彼女の緊張が伝わってきたというよりも、こちらの緊張が彼女をさらに際立たせているようだ。なぜそんなにぼんやりとした目をしているのだろう、なんて訝しく思いながらも、鳴り出した音と響く声がこちらがわを瞬く間に飲み込む。カメラが片言の日本語で歌うソン(ぺ・ドゥナ)の横顔を捉えたとき、彼女の笑顔に充実感とはまた違う、すべてを突き抜けるような爽やかな諦めを感じた。

  はたして言葉の意味も理解せず、これほど曲を忠実に唄うことなどできるものであろうか。ソンは「くそったれの世界のため」に、「すべてのクズどものため」に、笑顔でそれはそれは楽しそうに唄う。この乱暴なはずの歌詞が、冒頭で言う、光を浴びた神々しいまでの彼女のイメージと絡み合い、そのこぼれる笑顔に後押しされ、奇跡のように赦しとなっている。それはまるで、くそったれの世界とクズどもの前で「終わらない歌を」唄うことにより、彼らを許し、そして与え受け入れているかのようだ。

  韓国の留学生であるソンは、言葉の壁もあり、普通そうであるように孤独な学校生活をおくっていた。文化祭の出し物もたった一人きりで行わなければならないほど周囲から隔離もされていた。彼女に必要だったものは紛れもなく同い年の同性の友人であり、その願いはソンにとってあまり良くない形で呆気なく叶ってしまう。

  物語は青春ものである。

  文化祭でバンド演奏を行おうとしていたドラムの響子(前田亜季)とキーボードの恵(香椎由宇)、ベースの望(関根史織)、ギターの凛子、ヴォーカル、ギターの萌の五人は、長いあいだ練習を積み重ねてきた成果を発表することもないまま、本番四日前にギター兼ヴォーカルの萌の左指骨折(バンド脱退)という事故のもとに、一気に解散の危機に見舞われる。五人のうち、どうしても文化祭での演奏を遂げたい恵、響子、望の三人は、恵が止む無くギターを担当し、そして演奏曲も、もともとのオリジナル曲からブルーハーツのコピーに変更し、なんとかバンドとしての体制を築くのだが、どうしてもヴォーカルだけが決まらない。

  そんな矢先、偶然通りかかったメンバーであった凛子にヴォーカルをやらないかと声を掛けるのだが、そもそも解散自体が凛子と恵の、お互いの完璧を目指したゆえの衝突が原因だったため、うまく収まるわけもなく、「そんなもの意味があるのかな」なんて、不敵にも言ってしまう凛子に、「意味なんて最初から無い!」と、恵は怒りを露わにしてしまう。ここで恵にとって、凛子に否定されたコピーバンド活動は、凛子が否定したがゆえに絶対に成功させなければならないという、若干冷静さを欠いたものになるわけだ。その興奮気味の恵の視界の中に、まさに不幸にも(いや、幸運か?)ソンが通りかかる。

  憎たらしい凛子を前にした恵は、まだ日本語のわからないソンに、半ば強制的とも取れる語気の強さでバンドのヴォーカルをやってくれないかと誘う。傑作なのはこの場面である。ソンはこの誘いの意味を少しも理解せぬまま、恐らく、この恵の攻撃的な口調(イントネーション)に怖気づき、または、友達の獲得というソンの願って止まない願望が恵のこの口調と強引にも融合し、この孤独な留学生は二つ返事で快諾する。すぐ後に言葉の意味を丁寧に響子に教えられて、無理です!と叫ぶのはご愛嬌だ。

  コミカルに描かれつつも、冒頭に書いた、それがあまり良くない形であると思われるのはなんとなくわかっていただけるだろう。たまたまそこにいて、なおかつ適当にあしらっても平気そうだから誘われた、という事情はなかなか当人にとっては苦しいものだ。そういった喜んでいいのか、悲しむべきなのか、よくわからない曖昧なところを非常によく表したシーンが作れるか否かで、青春映画の是非は変わってくるといったら、少し言い過ぎであろうか。というのも、この映画の青春というものに対する姿勢がじつにうまくこのシーンに集約されているからである。

  この映画は青春映画というジャンルの中に位置づけるのが普通だと思われるが、いわゆる青春モノの直情的な特有の熱っぽさや、ありのままのピュアなものとしてではなくて、むしろ複雑な痛みと退屈さに呪われた一時期を青春としているという違いだけはハッキリと区別しなければならないだろう。青春といわれる時期をどのように捉えるかという判断は、やはり人それぞれ、時代それぞれだとしか言いようがないのだけれど、それがリアルであるという凄みのようなものを表現できている映画はそんなに多くは無いと思う。そしてこの映画にはそれがあった。

  ヴォーカルを担当することになったソンは、大音量のヘッドフォンでブルーハーツの曲を聴いている。ソンの背中を眺めながら、恵、響子、望の三人がお喋りをしている。恵は先ほどのあまりに適当な誘いを二人に責められ 「だからさっき謝ったじゃん」なんて言い訳をしている場面だ。 「ソンさんが無理そうだったらしょうがないからアタシが歌うよ」 と恵が言い、ソンに呼びかけながら彼女の正面に回ったとき、ソンは静かに泣いているのだ。 「どうしたの!?」と、三人はソンに問い掛けるのであるが、ソンの顔も声も、そして泣いた原因さえも明かされずにシーンは終わる。

  注目すべきはソン自身の感情のありかを明かさないということだ。ソンがどの程度自分の微妙な立場を理解できていたかは謎であるから、これが純粋な嬉し涙であれ、悲し涙であれ、見る人によってこれは千差万別であっていいのだろう。もしかしたら、流す涙のわけは当人にもわからないものであったかもしれない。青春とはそういうものだったりもする。

  クライマックスの演奏シーンについては、これは見れば納得の素晴らしさである。映画のタイトルはリンダリンダリンダなのだが、「リンダリンダ」のあとに続けて演奏する「終わらない歌」の方が映画のイメージに符合するだろう。唄うソンの横顔には何やらこみ上げてくるものがある。まるで、ソン自身が今の感情を爆発させているのではないかと思えるほど、曲と彼女が重なりあって見えるのは、その曲の詩のせいであった。

  「世の中に冷たくされて ひとりぼっちで泣いた夜」 「もうだめだと思うことは今まで何度でもあった」 「きちがい扱いされた日々」などなど、留学生であり、孤独な生活をしていた彼女の口からこのような言葉が出てくるのは、大げさではなく、それが曲であることが一つの奇跡のように思えてくる。なおかつ唄ってる本人は音としてそれらを捉えているだけであって、おそらく意味まではわかっていないというなんともいえない残酷さ、やりきれなさは、痛いぐらい響いてくる。今自分を取り巻いている「くそったれの世界のため」に、「終わらない歌を唄おう」としている笑顔の韓国人留学生の姿は、日本人の我々にとってかなり驚異的な存在であることは確かだ。


text by 梶山健太郎

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