『9souls』 監督 豊田利晃 2003年


精神、心、魂…。これは誰のソウルなのだ?


  ソウルはソウルによってしか描かれる事はないし、またそれによってしか見る者のソウルは震えない。9人いれば9人の物語があることは至極当然な話である。だが、物語と魂は別物である。現に誰もが皆、自らの物語が終結する前に、少しでもこの物語に魂を吹きこもうと、日々悪戦苦闘を重ねている。魂なんて自分にしか分からないものなのかもしれない。いや、ほとんどがそうなのだ。

  しかし、それが当事者にしか理解出来ないものだとしても、それはそれで一つの美しい物語であると可能な限り私は思いたい。見逃したくないのだ。鈍感でいたくはないのだ。少しでも耳を澄まし、世に溢れる数限りない雑多な物語の中から一つでも多く、煌くソウルを見つけ出したいと思うのだ。だが…。

  9soulsという映画がある。名前を聞けば、ご承知の通り、この映画には九つの魂を描くというコンセプトがある。では、この映画のいう魂の概念とは一体なんであろうか。魂とは、動物の肉体に宿り、生命を司るもの、肉体から離れてもこれは存在する…つまり、これは霊魂の考えであるが、この映画は心霊映画ではないはずなので、これではないであろう。

  では、なにかと考えれば、精神という云わずと知れた言葉がある。「知性的・理性的な、能動的・目的意識的な心の動き」または「個人を超えた集団的な〜時代精神、民族精神など」(共に広辞苑)とある。べつに広辞苑の宣伝をするわけではないが、豊田監督の描きたかった魂とは、きっとこちらの事であろうと思われる。必ずしも、精神が知性、理性的とは考えないが、しかし、「描く」という事、「伝える」ということを考えてみれば、そこにある程度のそれが必要になることは云うまでも無い。これらのことがこの9soulsには決定的に欠けているのである。

  では、その顕著な具体例を挙げてみよう。

  9人の主演者の中でも最も映画にとっての力点となる人物、松田龍平演じるミチルは、十年間部屋に引き篭もった末に、父親をナイフで殺し、バラバラにし、そしてその肉を食らうという奇行を働いて刑に服することとなるのだが、この稚拙な脱走劇を見る限り、なぜ彼がカニバリズムにまで至ってしまったのかがまるで窺い知れない(要するに、非常にキャラクター形成が甘い)。

  彼は父権的な象徴として、憎むべき、決して消えてはくれない象徴として、東京にそびえ、屹立するタワーを眺めるが、その男根的象徴ともいえる東京タワーよりも、もっと身近なはずの新たな父権(9人のメンバーのうちのリーダー格、原田芳雄演じる、長谷川虎吉)に対して、ひどく中途半端な殺意の衝動しか抱いていない。それは父を食うという行為にまで至った彼の、父権的なものからの超越、脱出の理由、またはその行動に、強い疑問符打つこととなる。

  しかも、虎吉は息子殺しである。映画の中盤に、父殺しと息子殺しの二人は、「セットだな」と9人のメンバーの一人に唆されるシーンがあるが、これもミチルという人物設定のいいかげんさを見ると、まるで意味のないセリフになってしまっている(ふつう、この種のセリフは重要なメタファーである)。

  挙句の果てに、ミチルはラストに弟の昇を殺してしまう。こちらの殺人の理由として考えられるのは、弟の裏切り行為に対する単純な怒り、または、ローン会社の社長である弟に金銭中心主義の世の中に対する怒りをダブらせて(このことがミチルの魂のありかたをひどく錯綜させる)しまうことである。

  もはや、ミチルの有していたはずの「目的意識的な心の働き」、つまり父権的なものに対するミチルの精神、魂の方向性は、目の前にいる気に入らない人間を殺すという、ひどく衝動的で曖昧なものに成り下がってしまう。そして、社会への怒りというあまりに広大かつ、普遍的なものがそこに加わることにより、もはやミチルの魂というものは混乱を極めてしまう。衝動的という言葉で思いつくのは一つしかない。…それは動物である。云うまでもないが、動物というものにはこの映画で描こうとしている魂は存在しない。長くなってしまったが、これがこの映画の致命的な魂の不在の代表的理由である。  

  ストーリーにばかり言及してしまったが、それとは乖離した、映像として見るこの映画はどうであろうか。9人が脱獄し、駆けているシーンの場所は富士山の5合目だという話だが、草も木もないこの場所にあるのはいたずらな解放感だけであり、目を引く美しさはない。豊田監督が「大脱走」に強く影響されたと語っているので、このシーンはその影響であろう。…かなりどうでもいいことだ。礼を失した云い方をすれば、あほらしい。

  他の映像で印象的なものと云えば、やはりオープニングの空撮であろう。都心上空からのビル群を撮っているこのシーンは、ぽつぽつとビルが消え失せ、皇居の森林も枯れ果て、まるで世界の終わりを表しているような凄みがある。最終的に、なにも無くなった大地に、東京タワーだけが消えずにポツリと佇んでいる。これはミチルの見る観念的な世界の描写である。この映像だけ見れば、あくまでも映像だけだが、これはなかなか秀逸であると感じた。こういうことが出来る監督であるのに、事実、あまりに薄っぺらく、支離滅裂な映画を作ってしまったことは、とても残念なことだと思った。


text by 梶山健太郎

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