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来月のイベント
会の説明
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平成24年5月の研修会は、 「美濃・関・八百津・兼山を訪ねる」 です。 今回は、 ・うだつの和紙の里「美濃」・ ・刀鍛冶の里「関」・ ・杉原千畝記念館・ ・可児市兼山歴史民俗博物館 「金山城と森氏一族」 などを研修します。 (詳細は、後のチラシを参照ください。) 奮ってご参加ください。
平成24年5月27日(日)7時50分金山ダイエー前集合 8時出発 会費: 会員7,000円 、 ビジター7,500円
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お問い合わせ等は、下記のアドレスにお願い致します。
当研究会本部 大谷浩士会長 気付
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今後の予定
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H24年5月研修会
H24年6月研修会
H24年7月研修会
会誌 会誌54号目次(平成24年2月発行)
過去の記録 平成21年9月 H21年9月研修会 「加藤唐九郎の志野を訪ねて」
*9月27日(日)、新涼の候とは言え、この2〜3日は夏が忘れ物を取りに戻って来た様な「やや暑」の日が続く中、県下
H21年1O月研修会 10月25日(日)、 10月研修会は、伊那路方面の歴史塚訪である。8時、金山ダイエ-前を出発。名古屋高速から中央道に入り、最初に訪れたのは、飯田市山本宿の伊豆木にある「小笠原書院」である。この小笠原書院は、江戸幕府ご用材の裏木で建てたといわれる。小笠原氏は、信濃の名門で初代小笠原長清は、鎌倉幕府の頼朝に仕え弓馬の術を持って知られていた人物である。七代の小笠原貞宗は、室町幕府の足利尊氏に仕え弓馬の術に礼法を加えた人物。小笠原家では、代々の当主により「小笠原礼法」が考案され、江戸時代になると武家の礼法は「小笠原流礼法」が主流となりました。この書院は旗本一千石小笠原家の旗本の陣屋跡である。中は簡素な造りで、質実剛健の武家屋敷そのものであった。ここの見学が終わると、次の訪問は、高森町歴史民族資料館である。ここの目玉は、何と言っても日本最古の貨幣{冨本銭」である。この冨本銭は、高森町下市田の武陵地1号古墳から出土した。横穴式石室を持つ円墳である。午後は、高遠城跡・高遠歴史博物館の見学である。高遠城は、天文16年武田信玄により伊那谷侵略の前線拠点として大規模な築城工事を行われた。天正9年、高遠城主の武田信廉は、大島城に移り、代わって信玄の五男である仁科五郎盛信が跡を継ぐ。天正10年、天下布武を目指す織田信長による武田征伐が始り仁科五郎率いる武田軍は、織田城之介信忠軍の猛攻撃を受け全員壮絶な戦死を遂げた。慶長5年関ヶ原合戦後、徳川幕府の時代となり、高遠城には保科正光が人封する。元和3年、二代将軍秀忠の隠し子である幸松は、大老土井利勝の命で保科正光の養子となり、母・志津とともに高遠城に入る。元服して保科正之となり、寛永l3年、会津藩に移るまで19年間正之は、ここで過ごす。保科正之は、兄である三代将軍家光亡き後、家光の遺命より四将軍家綱の後見職となり、幕閣の中心に立ち、文治政治を推し進める。だから、高遠では、博物館の前に銅像を建てて今でも名君保科正之を顕彰しているのであろう。本日の歴史探訪は、保科正之に尽きると思いました. (文責 編集部 諸岡) 11月研修会「戦国の世を平和な世にした徳川家康」 〇平成21年11月22日晩秋の候、静岡県は、「駿府城跡」「浜松城跡」「曳馬城跡」を訪ねる研修会が行われました。題して「戦国の世を平和な世にした徳川家康」企画・担当は研修部、大竹三好、後藤正の両氏。参加者30名。今研修会のコンセプトは、上記の名城の探訪のみにとどまらず家康の時代を見据えた先見性、忍耐力、人材の登用、財政力の確保などを参加者の皆さんと一緒に考察したいと・・・。 〇家康と言えば今更、経歴、事歴など述ペる必要もないと思うところですが、しかし、配布された資料は、尾張での人質時代、駿府での人質時代、桶狭間の戦い以後、人質から開放された岡崎時代を経て遠江を支配した浜松時代。さらに浜松から駿府へ…。その後、関東ヘ入府の江戸時代までを、それぞれの時代を彼の年齢を明記しながらダイジェス卜様式にまとめられており、また、あの有名な姉川の戦い、三方ケ原の戦い、長篠の戦い、本能寺の変の遭遇、小牧・長久手の戦い等も家庚のどの時代(何歳の時か)に起きた戦いであったか戦いの内容を述ぺながら明瞭こ記載されている。研修後日、何かの折に家康について事績等、調べたい事でもあれぱこの資料を手に取れば直ちに、つまびらかに・・・と思えるまとめ方。 〇まずは研修地の第1歩駿府城へ。こちらでは駿府ウエイプ・ポランディアガイドの久保寺進、築地廣の二氏による精力的なご案内を頂きました。駿府城の構造は三重の堀に囲まれている典型的な輪廓式縄張りの平城。我々は外堀三の丸の草深御門から入城し二の丸ヘと。「とにかく広い!!」家康は秀忠にニ代将軍の座を譲った後、大御所として駿府に入りそれまでの城を一回り大きく築城。ガイドさんは言う。Γ家康が人質時代の今川の城の痕跡は皆無です。跡形もありません」偲ぶよしがもないとは、これは非常に残念であっても仕方がないこと。家康が公式に駿府に入るのは天正14年(1586)、以後工事を進め、天守閣、二の丸までの完成をみるが城の完成と同時に天正18年(1590)に関東に移封されるので、わずか3年の駿府時代。しかし関ヶ原の戦いに勝利し、天下を取ることによって駿府に復帰。度々の出火、焼失をくり反すもその都度再建され、現在我々の見る家康大御所時代の威風堂々とした城となる。本丸御殿、本丸掘、クランク状の二の丸水路、巽櫓、米蔵跡、石垣刻印、家康手植の蜜柑等々見学。 〇お昼にはサクラ海老の天婦羅に舌鼓を打った後、一路西下し若き時代の家康に思い ○浜松城より東北に位置する中世の城・曳馬城跡(浜松城の前身)も見学。何も無いところが、また、想像力を駆り立てる。当会にはこの様な何もない城跡にロマンを求める会員も多い。 今回も担当の大竹、後藤両氏の思い入れのある良い企画にて多いに歴史」を堪能、感謝!! 12月懇親会 「観光船にて名古屋港を巡る」 〇平成2l年12月13日(日)毎年恒例の懇親会として観光船にて地元名古屋港(貨物取扱量は日本一)を巡る企画。担当、当会事務局長・近藤忠保氏、参加者は師走という事もありやや少なく20名。この日は曇り空。名古屋港ポートピルこ集合し12時ジャストの出航。湾岸道路の橋の上から港を見下ろす事は度々あるが、今回は海上から橋上を見上げる・・・。船窓より岸壁に建つ巨大な夕ンク、延々と続く各社の倉庫ピルの数々、まさにミナト・ナゴヤの岸壁の風景を見る。この様な視界はまた、普段の静かな生活空間と違い何か大いなる息づかいを見る思い・・・。巨大船群も真近に。船内では船料理に日本酒、ビール、ワイン等アルコール飲放題という気の利かせ方。料理も結構いけましたし、いつもの研修会や学習会とはひと味ちがう雰囲気。もちろん歴史好きの人間の集まりには変わりありませんのでどうしても最後は「史」の話題に花が咲く訳です。都合2時間の舶巡りでしたが、これもまた、非日常的な楽しいひとときでした。
平成22年1月24日(日)学習会「瀬戸の歴史と文化を訪ねて」 今年初の行事として名古屋市中区金山、中京大学文化市民会館・会議室に於いて学習会が開催されました。題して「瀬戸の歴史と文化を訪ねて」。当会では、まずは愛知県下、足元の歴史をもっと知ろうとの思いにより、過去、幾多の市や町の歴史と文化を学んできました。今回もその一つ、焼き物、瀬戸もので有名。数年前の愛知万博の会場でもあった「瀬戸市」のさまざまな文化、歴史はもちろんのこと習俗、自然、産業遺産、民話の数々等盛り沢山のメニュ―でもって当地在住の会員によるお話と紹介がありました。企画及び司会進行は荒川哲夫学習部長。担当は秋田正一、秋田卯子、加藤均、物部友記、益田順子の各氏。聴講者37名。▽一番バッターとして加藤均氏登場、映像による現代の瀬戸市を紹介……。21世紀に於ける瀬戸焼ミュージアム、重文・陶製狛犬で知られる深川神社、陶土の採掘場、窯垣の道、瀬戸物祭り等、活気溢れる同市の町の様子を見聞する。おまけは「日本一(?)美味なうなぎ屋は○○屋です」と。「じゃあ、一度試食に行こうかな」とは筆者の心の声。▽次に登場するは物部友記氏。尾張藩初代であり家康公第九子義直(源敬公)の眠る応夢山・定光寺(妙心寺派)の縁起、沿革を話され、更に源敬公と定光寺の密接な関係を説明。それによれば、義直はある日、狩猟の途中、この定光寺に立ち寄り、寺とその周りの景観を大変気に入っていた。慶安四年(1651)江戸で公が死去する際「吾が骸を応夢山に葬るように」と遺言したと言う。山上には墳墓、霊廟が造営されている。資料には緑濃い森を背景に、凛として建つ源敬公霊廟の写真、廟の配置図が載る。図には9人の殉死者が埋葬されている墓の位置も明記されている。物部氏は「これ程多くの殉死者を出した事は公の人格が優れていた事が伺える」とし、殉死者のエピソードも語る。▽同市、小田妻町に所在する「水野代官所跡」のお話は益田順子氏。現在は市街地から離れているが当時は、行政・司法の中心的な役割を果たす重要な地であった事。尾張徳川家の城内に大代官所が置かれており、この水野代官所はその出先機関であり、設置は天明元年(1781)であり文化と地方行政の中心的拠点として今日に於ける市役所、税務署、警察署、検察庁、裁判所の業務を一手に担う強い権力を持っていた事等を話される。水野代官の初代・代官はすでに尾張藩の御林方奉行職にあった水野正恭の兼任とある。益田氏は「水野村の水野氏はこの頃、強大な支配力をもって権勢を誇示しており、当地に代官を設置した折に、尾張・徳川家としても無視できず代官に起用した事が伺えます」と。代官所は前述の行政機関だけでなく教育施設「興譲館」も併設。遠来の子弟の合宿所あり、商人達の出入りも多かったとあるところから、かなりの賑わいとその息づかいが感じられる。▽秋田正一氏は世に有名なあの「小牧・長久手の戦い」の際、秀吉方・池田恒興の家来、梶田甚五郎と同じく池田方の侍13人の悲話を紹介される。彼等は共に主人の代参や落ち武者として、この瀬戸地方を通過、また物乞いをする際に村人に殺され金品や武具を奪われるが、その後、村では数々の忌まわしい事柄が続き「これはあの時の祟り」とする村民の心理から彼等を手厚く供養する。それらが現在梶田をイメージする等身大の人形を馬に乗せて練り歩く「おでく」という祭りになり、13人を供養する十三塚の所在も紹介されました。▽秋田卯子氏は「瀬戸にもあった地下軍需工場」と題して卯子氏ご自身がこの工場の所在を捜し歩かれたお話に続き、瀬戸地方に関連する6名の「学徒動員」の手記を紹介される。筆者は戦争体験は無いがこの生々しい証言と記録を涙無しでは読めない。つくづく今の平和な社会に生きている事に感謝!! ▽殿は荒川氏による「瀬戸山口の民話」の紹介。昔テレビでお馴みの日本むかし話に出てくる様な、ほっとする様なお話の数々……。他に瀬戸に於ける「磁器」の創始者であり、瀬戸の恩人と呼ばれる加藤民吉の成功の話等々……。▽何事も一歩、二歩と踏み込んでみなければ物事は理解出来ない。今回も瀬戸市の遠い過去から現在までの歩みを学び、この町の奥の深さを感じました。映えある瀬戸、語るべく今と夢ある未来に乾杯!! 〈レポート 高橋浩子〉
2月学習会「尾張名古屋の八事周辺の歴史を考える」 ' O春寒の候、春はまだまだ浅い、平成22年2月28日(日)名古屋市中区金山、中京大学文化市民会館・会議室に於いて学習会が開催されました。テーマ「尾張名古屋の八事周辺の歴史を考える」江戸時代初期、尾張藩が名古屋を中心に発展するが、今回、語る「八事」(名古屋の東部)の周辺がどの様なかかわりを持って街道、流通面等が発展していったのか、それに伴う意義と位置づけを考えようと言うもの。企画・発表者はまさに八事周辺に在住される守屋道治氏。聴講者40名。◎プロジエク夕ーは守屋さんのご自身で操作。映し出される大画面を見ながらお話を聴く。まずは超古代の尾張平野の地形と気候風土の説明がある。地形においては何百万年という気の遠くなるようなスパンで寒冷期に勝手気ままこ流れる古木曽川|の流路に多量の河床礫が堆積し、これが東部丘陵を覆っている今回注目する「八事層」となる。また、洪積台地の上に形成された名古屋台地の説明では東側は古代人の居住区と考えられる遺跡が多く、西部は海岸線が迫る。海沿いをゆく古東海道(鎌倉街道)のお話も面自い。 筆者は名古屋の街をよく車で走る。守屋氏のお話に古代の地形を頭に描き乍ら走行するもこれからはきっと楽しくなる。◎皆様もよくご存じの「清洲越し」によって名古屋が栄えるお話。 清洲越しに至るまでのエピソード。名古屋城普請、築城に必要な運河開削工事(完成後の河川名は堀川)、名古屋の基盤割と町名等の説明。特に町名の大半が清洲町名の移入であるところが特徴。守屋氏は言う「清洲から名古屋への大移動であったが、住み慣れた清洲時代の町名をすべて再現することは異郷で住む寂しさを癒すことになったであろう」と。ホロッとするこのくだり。少々涙・・・。◎塩の道である飯田街道や下街道・・・。信州に送られる塩の生産と流通経路のお話にもカが入る。◎いよいよ今学習会のメインテーマ・八事界隈のお話に。江戸時代中期の地図と現在の地図が資料に組み込まれており八事の位置付け(岩之田→弥五刀→八事となる)を語る。名古屋に城下町が出来て以来、東方の八事丘陵が栄えたのは八事を通る塩の道でもある、飯田街道を抜きにしては語れない。多くの人々の往来はもとより、その街道をゆくには真言宗高野山派別籍本山である「八事興正寺」をはじめとする多くの古寺、古社があり、そのひとつひとつを詳しく紹介される。その中の1つ、江戸末期、尾張名所絵図に描かれる幽玄な風景の「壇渓」にも心惹かれるものがある。 ◎1月の学習会に続き今月も県下の身近な歴史を学ぶ機会を得ましたご担当の守屋氏は、多くの出典を参考にされており、八事を含む名古屋の今と昔の対比も面白<、息づく歴史を学ぶ2時間の学習会でした。 <レポート高橋浩子>
3月研修会「京都の歴史探訪・二条城と琵琶湖疏水を訪れる」 平成22年3月28日(日)、春暖の侯とはいえ、少々肌寒くもあるこの日、京の都ヘと足を伸ばす研修会が行われました。 題して「京都の歴史探訪・二条城と琵琶湖疏水を訪れる」。企画担当は中村清研修副部長、近藤忠保、津田啓子、山田三代子の四氏。参加者数は京都という人気の高さが伺える空前絶後の56名。パスも補助席を使用する盛況ぶり。今回の研修のコンセプトは京都の歴史の転換点を象徴し、かつ今に残されている上記2項目の歴史的物件に注目し探訪しようというもの。 ◎担当の中村氏は「琵琶湖疏水」についで熱く語る。Γ旅のはじめに」と前置きし、1200年前桓武天皇がここに都を遷都した理由こ始まり、京都の夏はむし暑く冬は塞い気候と、さらに北高南低の地形は鴨川の水流を速くし、水運には向かず、しかも洪水と干ばつに悩まされ続けた歴史を語る。 江戸時代になると北前船などで賑わう大阪に対して京は奥地のハンデキャップが目立つ様こなり、こうした中でご存じ、角倉了以が運河・高瀬川の開削こ成功。これによって京都ヘの物流が飛躍的に便利になると、人口が増加する。増加に伴う水資源の不足を改善し安定した供給が課題となる。そこで京都の東に満々と水をたたえた琵琶湖の水を京都に導こうと議論が高まるが、当時の技術では長大なトンネルを掘削する見込みは立たなかったが、時は流れ、明治期に入ると、お雇い外国人技術者の指導で治水や土木工事が行われるようになり、彼等の指導を受けた日本技術者の第一期生、田辺逆郎の作成した「琵琶湖疏水計画」を府知事・北垣国道が採用。この疏水開削の目的は生活用水の確保だけでなく実は明治2年、京都は東京に遷都されて以来、盛観を失いつつあった。そこで京都の挽回復興の対策として運河を通して舶運を図り、合わせて工業用水や防火等に利用して京都発展の基礎にしようとしたもの。この工事は生活、工業、船運に限らず予期せぬ新たな近代化ヘの波及効果をもたらした。「今日の京都市の姿はこの琵琶湖疎水を抜きにしては考えられません」と中村氏は繕ぷ。 ◎この近代化への貢献度、ナンバーワンであった琵琶湖疏水のボイントと見学地について近藤氏より説明がある。市内を流れる疏水は、第一、第二疎水と分流がある。我々はこの第一と第二の疏水が合流する地点「蹴上」に直行。散歩道にかかせない様な美しい景観が私違を迎えてくれる。緑色の水をたたえ静寂そのもの、ちょっぴり哀しい。 御所に水を送るためのポンプ室なる建物が前近代的なのがうれしい。周りの風景にインパクトを与え、毅然と建つ。また、蹴上では、水力発電を得るために600mの距離に約33mの落差を設けている。この高低差では船の航行が不可能なので傾斜面に「イクライン」という軌道を敷設、台車の上に船を乗せて運航を可能にしたという。現在は利用きれていないが、往時の姿が復元され、再現されたレールと索道に締結された台車に乗る船の姿を見学。蹴上のすぐ北東、南禅寺の丘陵地を流れる水路を繋ぐ煉瓦造りの水路閣(疏水閣)が架かっており、美しいアーチ形の工作物は古刹の境内には異質な風光に目を見張る。 ◎さて一方の「二条城」にいては、研修担当初デビュ-の山田三代子氏の説明がある。二条城は家康の京における宿舎のみでなく、将軍宣下の賀儀が行われた徳川政権の象徴の城でもある。修学旅行や外国からの見学者も多数、来訪しており、ここは二条におけるメツカ。壮麗な二の丸御殿のT門から入城し、回字形の平城を巡る。随所に防御機能を備茸ており、軍事的側面からも怠りない構えである。また、二条城といえば、徳川最後の将軍・慶喜こよって大政奉還を宣言した場所としても有名であり、ここを幕府軍が退去して明治の幕が開く、まさに歴史の転換である。二条城は徳川の日の出と日没の象徴となる還命の城であることが印象を強くする。 ◎今回の研修会に於いて特筆することは、昼食を京都大学の時計台記念館(尾張徳川家・京都屋敷跡)で美味しいフランス料理を味わった事です。、この種のお昼は当会では初のこととし、皆の興味を誘いました。尚、京都帝国大学の発足の歴史から今日の京都大学に至るまでの変遷を津田啓子氏が説明されました。 ◎最後に再び主担当者である中村氏登場。1,000年の都、王城の地であった京都、実際には政治の中心であった時期は比較的短かかったが、「歴史の変動期には大きな役割りを果した。今回は神社、仏閣の探訪ではなかったが、明治維新をはじめ、さまざまな近代化を推し進め、さらに日本文化を生み青てた中心地としての京都をとらえたかった」と。今回め研修によって京都の歴史的転換期と近代化の数々を学び、参加者の全員は、「この都への見方と視野がかなり広がった」との感想が口々に・・・。 くレポート 高橋楷子) 4月研修会 「北河内の古代史を訪ねる」 〇平成22年4月25日(日)、春たけなわの候、京都は「八幡市」、大阪は「枚方市」両市を訪ねる研修会が行われました。題して「北河内の古代史を訪ねる」。八幡市では王城鎮護のために創建された「石清水八幡宮」。枚方市では百済王族の史跡である「百済王神社」「百済寺跡」。継体天皇樟薬宮跡伝承地である「交野天神社」を精力的に探訪しました。 企画、担当は中本清、大竹三好両研修副部長。参加者38名。往路の車中では、先ず中村氏が持ち前の歯切れのよい口調にて北河内に流れる淀川流域の地形を説明されると共に今回、探訪する、八幡宮、寺院、寺社等の付置関係を明示された。探訪に先立っては、とにかく地理を頭に入れておく事が一番大事!!北河内とは木津川、宇治川、桂川の三川が大山崎(光秀と秀吉両軍の山崎の合戦で有名)で合流し大河となる淀川と三川の一つ木津川とで作る三角地帯を指す。 さらに北河内は白村江の戦い(663)の相前後して亡命して来た百済王(くだらのこにき)氏一族が本拠地として勢力を張った土地。 〇さて、研修第一歩は、先述の大山崎の対岸に餐える天然の要衝の地、男山へと向かう。この男山の頂上に鎮座する八幡大神を祀るΓ石清水八幡宮」の堂々たる社殿がある。こ劃ま平安京の裏鬼門の位、士翼が読る。我々はケープルにてわずか5分ほどでラクラク頂上へ。ここは平安京の裏鬼門の位置に在り、清和天皇の御代、神仏習合の「宇佐八幡大菩薩宮」(大分県)から勧請(かんじょう)し創建される。社殿に戦いの神・八幡神を祀り、西国から侵入する厄病を防ぐ「厄除けの神」であったが、これがやがて王城鎮護の「石清水八幡大菩薩」として都人の絶大な信仰を集める様になる。主祭神は第15代応神天皇。明治の神仏分離により、八幡社」となる。 担当の大竹氏のお話では「清和源氏の嫡流・源義家がここ石清水八幡宮で元服した事により、八幡太郎義家と名乗った。以後、八幡神は源氏の守護神となるのです」と。丹漆塗りの堂々たる社殿。その周囲を180mに及ぶ回廊が囲む。壮麗な社殿内部を禰宜・西 中道様にこ案内を頂く。桧皮葺の本殿に信長寄進の「黄金の金樋」が架けられており注目!!.又お聞きするところによると、尾張藩初代藩主・徳川義直(家穰九男)公の生母お亀の方(相応院)は当八幡宮、宮司・志水宗清の子女であると。尾張を拠点とする当研究会に於いては、この浅からぬご縁がまた、うれしい。正式参拝後、善現善女で賑わう広大な壌内を一巡。下山後皆は名物「走井餅」を求める。これも研修会の楽しみの一場面。 O木津川の流れ橋・・・全長300mの橋が洪水で流れてしまうなんて、どんな橋なんでしよう。興味津々。昼食の松花堂弁当を頂いた「四季彩館」の付近にこの気になる橋がある。皆は食後三々五々橋を見学する。増水時に水の抵抗を少なくする為にいろいろ仕掛けのある事を知る。人間の知恵って凄い!!。 〇研修後半は流れ橋をあとに交野天神社(かたのあまつかみやしろ)へ向かう。当社の起源は延暦6年(787)、桓武天皇がここ交野原に天神を祀ったのがはじまりとする。先の中村氏「天神社の境内は蜘蛛の巣が顔に触れる様なところです・・・」(笑い)やはり樹々の葉が生い茂っている。本殿の右奥に「貴船神社」がある。継体天皇が即位した「樟葉の宮」があった場所とされているが明確な根拠はないと。「樟葉の宮蹟」と刻まれた石碑が春の陽光J嘲劃の中にほっそりと佇む。史実と伝説がないまぜになっている地、訪れる人も少なく季節の風だけが吹きぬけてゆく。ここ交野原は、往古、四季折々の風情も豊か。キジ、ツル、サギ等の獲物にも恵まれていた事から桓武天皇や嵯峨天皇も、しばしばこの地を訪れ遊猟などに興しており、一帯は庶民の立ち入りを禁ずる「禁野」とされた。この「禁野」は現在で、地名として残っているそうです。まさこ、地名は歴史を物語る!!ですね。 〇今回、最後の研修地は、国特別史蹟である百済寺跡、百済王神社を探訪。先述の「百済王氏」の氏寺の跡と氏神である。現在は敷地全体が広大な史跡公園になっている。入口に「百済寺蹟」と刻まれた立派な石碑が建つ。そもそも「百済王氏」とは、660年頃百済の義慈王の子、禅広が来日、亡命し、難波に居住。持続天皇の時代に、禅広がはじめてこの「姓」を与えられた事に発する。更に時代は下って聖武天皇の御代、禅広のひ孫にあたる「歌福」が、奥州から東大寺大仏鋳造のために鍍金用とし黄金900両を献上、ご褒美に「河内守」の位を授かり、以後ここ河内を居住区とし勢力を広める。公園内部は美しく整備されている。こちらも先の天神社同様の閑静さ、樹々をわたる涼やかな風が頬をかすめる。発掘調査に基づいて基壇と礎石が復元されており、遠い日の威容が伝わってくる。基壇と礎石のみで後は何もないからこそ想像力を刺激して余計に楽しい。公園西隣在るこじんまりとした百済王神社では、旅の終り、今日一日、担当の中村、大竹両氏のおかげで楽しく学び、楽しく研修させて頂いた感謝の気持ちで参拝、二礼二拍手。こちら交野は北極星、北斗七星、天の川等、星にまつわるお話も多いと聞く。まさこ星のふる里・・・。メルヘンの世界を想像しながら、やがて帰途の人となる。 <レポート 高橋楷子>
5月研修会 「3、4世紀の古墳と遺跡の探訪」 平成22年5月23日、風薫る若葉の美しい季節。奈良は桜井市、奈良盆地の東南隅に読る三輪山麓周辺を訪ねる研修会が行われました。テーマは「3、4世紀の古墳と遺跡の探訪」。このあたりは日本古代のヤマト王権のふる里。最近の考古学的発掘調査により、つとに注目を浴ぴている。研修会のネライはその発掘によるホットな情報を提供しながら楽しく探索しようというもの。企画・担当は諸岡茂樹、衣川真澄、高橋浩子の三氏。今回は少々マニヤツクなテーマであった為か参加者は30名とやや少なめ。しかし少数精鋭という言葉もありますので・・・ん。残念な事は、昨夜来の雨が降り続き往路のバスの車窓超しこは風雨と言ってよい程の激しさを見るが、現地は守られているかの如く小雨となり大きな支障なく研修出来たことば、まずまずラッキーとする。 桜井と言えば何と言つて、纒向遺跡と箸墓古墳は研修の目玉。更に付随してホケノ山古墳、慶雲寺古墳、最後に茶臼山古墳を訪ねる今回は古墳のオンパレード。往路のバス車中では衣川氏より纒向全般とそれぞれの古墳についての説明がある。資料もカラーの図や写真が満載。衣川氏は古代史研究家として本も何冊か出版されており、今回の研修には適任中の適任。更に氏は当会研修担当初デビューでもありました。主担当の諸岡氏は「耶馬台国はどこにあったか?」と間いを投げかける内容のお話であり、氏はやはり「畿内ではないか」として、箸墓はヒミコの墓であるとの考え方を述べられた。筆者である高橋は今回は研修しないが、ヤマトの象徴的な三輪山についてお話をしました。さて、いまいよバスは現地に到着。こちらでは桜井市歴史ガイド・中谷昌義氏にご案内を頂きました。 〇研修の第一歩は纏向の中心、大型建物跡と古墳群を見学。そもそも纏向遺跡とは、3世紀前半の国内最大規模の集落であり、初期ヤマ卜王権の発祥の地として私達の国の生い立ちに関る貴重な遺跡も我々はまず、纏向の中心である建物群の跡地に立つ。ガイドの中谷氏のお話では前年までの発掘調査の後は完全に埋め戻されているが3棟の建物があり、検出された柱穴の大きさや、束柱の穴の大きさから推定して高さが10m前後の堀立柱式建物(宮殿)が在ったと・・・。 ないものを見る。想像をたくましくする、いっとき。この遺跡のすぐ横をJRまほろぱ線の2輌の列車が走り抜けてゆく、探訪中に突風が吹く。これはΓよく訪ねてくれた」とする遺跡の住人達からのメッセージか(笑い)。.主担当の諸岡氏は宮殿の主は「ヒミコでは?」と主張される。筆者高橋は3世紀初頭にヤマト入りしていた物部氏の祖・Γニギハヤヒ命」ではと意見が分かれる。 次に纏向遺跡群の中ではあまりにも有名な箸墓古墳と宮殿に隣接する石塚古墳を探索。いずれも前方後円墳。石塚古墳からの出土物は衣川氏作成の資料に写真で載るが弧文円盤、朱塗の鶏形木製品など興味を魅かれる。 一方の箸墓は三輪山とセッとになっており、さまざまな伝説に彩られている。宮内庁管理であるため立ち入り禁止。被葬者はクエスチョン。我々は周濠のほとりからこの美しい古墳を眺め、しばし3世紀の太古におもいをはせる。 箸墓の東200mのところに位置するホケノ山古墳。ホタテ貝式の可愛い古墳。高さ8.5mの後円部に登れば桜井の町が展望。古代人と同じ目線で周囲の風景を見渡す。特筆することは我国初めての「石囲い木槨が出土したこと。 ' 〇この桜井はそうめん発祥の地と言われ「三輪そうめん」として名高い。我が会もこちらを訪ねたならばとお昼はそうめんに決まり。副食も豊富で「食事も美味しく・・・」とは旅の楽しさのひとつでもある。 ' ‐ 〇さて、研修後半は今回はホットな情報を提供するに相応しい桜井茶白山古墳に向かう。桜井市外山(とび)に所在する大型古墳は前方部が柄鏡形であることが特徴。竪穴式石室は1949年に発掘調査が行なわれたそうだが、この時の遺物の多さに驚く。鹿角をかたどった玉丈や玉葉、武器類、20面分の銅鏡片など。大王の墓であったろうとも。2009年6月、石棺を囲む「玉垣跡」の発見。同10月、赤い石棺全面に使用された水銀朱の総重量200キロと推定。 ガイドの中谷氏から発掘公開時には延ベ7,000人の見物人が訪れたと聞き、古代史ファンの裾野の広さを思う。現在は埋め戻されている。古墳の後円部に登る。普段は奈良盆地が一望出来、北の三輪山、初瀬川を望めるそうだが、今日は運悪く小雨のカーテンで遮られました。 〇終日傘の花開く研修会となりましたが、それでも訪ねた古墳の被葬者が判明しないミステリアスなこの地帯をよく歩きよく学ぶ、満足のゆく一日でした。 < レポー卜高橋浩子>
6月研修会 「斑鳩の里・三寺を歩く」 平成二十二年6月27日(日)、梅雨の侯、奈良県は生駒郡、日本最初の世界遺産に登録された国宝・法隆寺で知られる斑鳩の里へと足をのばす砥修会が行われました。題して「斑鳩の里・三寺を歩く」三寺とは法隆寺、法起寺、法輪寺を指す。 担当は大竹三好・高橋浩子の二氏、参加者44名。この中には、主担当の大竹氏のお誘いによって、名古屋市在住の中国内蒙古自治区出身のモンゴル仏数徒」の学徒3名の方々も含まれていました。 モンゴルでも中国文化大革命に於いて紅衛兵による多くの伽藍、仏像などの破壊があり、その後の復興もままならないものがあると聞く。日本もかっては時代的に廃仏稀釈なる大きな波がありましたが、それを乗り越えて来た現在の「法隆寺」を紹介して「彼等に夢を与えたい」と大竹氏は熱い思いを語る。しんあいちの面々も彼らを温かく迎えました。 〇往路のバス車中では、大竹氏による法隆寺全般にわたるお話として、当寺の創建、再建をまじめ、戦国末期の危機、江戸時代の窮状、明治初期の廃仏希釈等の幾多の困難をクリヤし、近年の世界遺産登録に至るまでを時代ごとに大別して説明され、私、高橋は同じく法隆寺東院北東部に、こじんまりとした佇まいをみせる格式高い尼寺「中宮寺」の昔と今を語らせて頂きました。 〇梅雨の侯ではあっても、向暑の侯でもあり、斑鳩の里もそこそこに暑い。早朝、出発時に降った雨傘が日傘に早がわり。さぁ、いよいよ世界最古の木造建築として古典的な美を誇る法隆寺を拝観、我々は南大門より-歩足を踏み入れる。雨上りの鈍く光る長い敷石の正面に堅固な中門が建ちエンタンスの柱の廻廊に囲まれた優美な塔、金堂などの伽藍を観る。法隆寺の五重塔は何度観ても胸のトキメキを覚える。今回は5人のボランティアガイドの方々にご説明をお願いしました。法隆寺はご存知の様に西院と東院に別かれており、今回の研修では主に西院を重点的に拝観しました。威風堂々とした金堂に安置される代表的な金銅釈迦三尊像等を拝し、天井には西域色豊かな天蓋、周囲の壁面にはパネルながらも再現壁画が描かれ、創建当初の美しさを偲ぶ。しかし、現法隆寺は建物や造仏の年代を含め数々の謎に満ちた寺であり、ひとロにレポートするにも難しさがある。ガイドさんの言葉が印象的「現在のこの法隆寺は残念ながら聖徳太子が建立されたものではありません。年配の方達はきっと法隆寺と言えぼ太子様と認識されておられるでしようが・・・」と。飛鳥時代から近世に至るまでの数々の宝物を安置する大宝蔵院ではその代表的な仏像「百済観音」を拝し、そのすらりとした優美なお姿に感嘆!!春季より開催中の法隆寺秘宝展覧も見学出来ました。 〇法隆寺・西院拝観後は何と言っても欠かせないのは大和三門跡寺の随一としてその伝統を誇る「中宮寺」への参拝。「尼寺」と聞くだけで何かほっと安堵感を覚えませんか?飛鳥時代の創建(旧地は現在の東方500m程の所に在り、土壇として残る)よりこの方1300年の長さにわたり法燈を守り続けていられる事が嬉しい。加えてご本尊であるアルカイックスマイルで有名なあの弥勒菩薩様に再会できるよろこび・・・。清純な気品をたたえるその像の御前に活けられる大きな白百合の花も、とても印象的。 〇研修最後は残る二寺「法起寺」「法輪寺」の見学。法起寺はもともと太子の嫡男・山背大兄王の母・刀自古郎女の居宅であった岡本宮を寺にしたという。まわりの田園風景の中に突如として建つ国宝・三重塔(三重塔では現在最古)。路を前にして当会研修副部長・中村清氏による説明がある。卍崩しの勾欄干、雲型組物など色濃く残る飛鳥時代の様式に見入りました。 法輪寺の三重塔もドラマがある。昭和19年落雷焼失後、昭和50年に作家・幸田露伴(著書に5重塔の名作がある)の娘で同じく小説家の幸田文らの尽力によって飛鳥様式に再建、復元したものです。 〇今回の斑鳩の旅路は修学旅行以来という会員もおり、思い出話に花咲くひとこまもあり、多勢の仏様との出会いもしかりですが、筆者がこのたびで一番思う事は、平安、鎌倉、室町、江戸とそれぞれの時代の人々が塔や建物その他を必ず修復、復元にはげまれたお陰で現在の私達がその姿を拝する事が出来る。息づく歴史に対面できる事に感謝せねば・・・と。 < レポー卜高橋浩子> 7月学習会 「日韓古代史……・倭諸国と伽耶諸国」
平成22年8月学習会「琉球物語(その自然と歴史)」 *平成22年8月22日、激暑の中、名古屋市中区金山、中京大学文化市民会館にて学習会を開催。 10月研修会「鑑真和上(東大寺戒壇院と唐招提寺を訪ねる)」 *平成22年10月24日(日)、秋たけなわの候、奈良は「東大寺戒壇院」と「唐招提寺」を訪ねる研修会が行われた。題して「鑑真和上(東大寺戒壇院と唐招提寺を訪ねる)」。▽授戒僧として、唐より招聘された鑑真和上が日本で初めて、東大寺の大仏殿の前の戒壇を築いて三師七証の立会いに拠る授戒を聖武太政天皇、以下に行なった。授戒とは戒壇に上がり、過去、現在、未来の三世の諸仏に、戒律を守ることを誓わせる儀式である。その翌年、この戒壇の土を大仏殿の西に移し造営されたのが戒壇堂である。その後、鑑真和上は新田部親王の旧邸宅跡を賜り、唐招提寺を開く。鑑真和上は戒律の他、彫刻や薬草の造詣も深く、日本にこれらの知識も伝えた。また、悲田院を作り貧民救済にも積極的に取り組んだ。763年(天平宝字七年)唐招提寺において76歳で死去した。行きのバスで今回のテーマの鑑真和上の生い立ち、日本への渡日についての「東征伝」の説明が行なわれた。▽先ず午前中に訪れたのは、「東大寺戒壇院」である。ここは、大仏殿の西に位置し、度重なる戦火で罹災し、現在の建屋は、江戸時代に再建されたものである。堂内にある二段の戒壇の中央には多宝塔が安置され、それを守護する「四天王像」が四隅に配されている。四天王とは、もともとインド人が想像した世界の中心をなす、須弥山の四方を守る神であり、それが仏教の世界に持ち込まれた。▽創建時の東大寺戒壇院には、もとは銅像の四天王が安置されていたが、罹災して再興されないまま長い年月がたち、江戸期の再建に当たり、中門堂にあった四天王の古像を移したものが現在の四天王像であり、国宝である。その後、東大寺を散策し、昼食をとった。▽午後は「唐招提寺」を訪れた。「唐招提寺」は、鑑真和上が僧綱を辞任後、大和上の称号を賜り、新田部親王の旧邸宅跡が与えられ律宗修行の場のとしての「唐招提寺」を開いた。特に唐招提寺の金堂は、平城京遷都1300年祭に合わせて、10年の歳月をかけて、平成の大修理を行い、昨年末に再公開された。今回の研修会はそこも見学し、1300年前の鑑真が来日した時代も合わせて探索すると同時に、天平時代の仏像もじっくり観察できることもネライである。金堂には、盧舎那仏(脱活乾漆造りで、天平時代の作)等の三尊が10年ぶりに拝顔できた。又、金堂の西に戒壇があり、建屋は、江戸期に消失し、現在は、授戒の儀式は、露天で行なわれている。金堂と講堂の間に鼓堂があり、鑑真の招来された仏舎利が安置されている。死去を惜しんだ弟子の忍基は鑑真の彫像(脱活乾漆 彩色 麻布を漆で張り合わせて骨格を作る手法
両手先は木彫)を造って現代まで唐招提寺に伝わっている(国宝唐招提寺鑑真像)が、これが日本最古の肖像彫刻とされている。残念ながら、国宝に指定されて以来、鑑真和上の命日の三日間(毎年6月)のみしか、拝顔できず、今回は、御影堂の見学は出来なかった。しかし、御廟は一般公開されており、お参りが出来た。最後に、東室において、唐招提寺執事長兼伝香寺住職、いさがわ幼稚園園長であられる西山執事長による戒律の講話があった。内容としては、インドにて、釈迦が仏教を開いてから、どのようにして、律宗が日本に入ってきたかの説明と戒の中でも重要な五つの戒についての講話であった。その後、帰途に付いた。 11月研修会 「大浜の寺院と廃仏毀釈」 〇平成22年11月28日(日)暮秋の候、今年最後の研催会は近郷の郷土の歴史散策として県下、三河の碧南市及び西尾市を訪れました。テーマは「大浜の寺院と廃仏毀釈」 担当は前川清会長、川口とよ子の両氏。参加者22名.まずは三河南部の碧南市。訪ねたのは江戸時代、三河の玄関口として舟の出入りで賑わいを見せた湊町「大浜地区」。パスを降りればそこは海沿いの町。海岸線を歩けば潮のかおりが「プン」と・・・。街中で日々をおくっている者にとっては、海育ちではなくとも何か郷愁めいたものが胸をよぎる。 この地を散策して驚く事には、立派な構えの寺院の多い事。前川会長の説明によれば、大浜は幕領であった事もあり年貢米の江戸ヘの廻舟、三河の大名、旗本領からの諸物資の輸送等で湊は活気づき経済が活発であった。ゆえに豪商も数多く寺は彼らに支えられてきた。栄える町は必然的に「寺院が多い」と。また、航海の安全祈願も・・・。 〇大浜の寺院、最初に訪ねたのは南面山、天寿院「海徳寺」(浄土宗・l462年創建)。近隣では珍しいと聞く両脇に二王尊のある立派な山門をくぐる。 本堂に上り、ご住職のご説明を拝聴。内陣に座するは、ご本尊の木造阿弥陀如来様. もともとは江戸時代まで伊勢神宮神域内の神宮寺の本尊であったが、今回の研俸テーマでもある明治初年代の神仏分離令による仏教の抑圧排斥運勳のあおりで本尊も廃棄され様としていたところを当海徳寺の和尚が譲り受けたという経緯を持つ仏様。 平安時代の造立と言われる丈六仏のご本尊は舟形の光背とともに内陣天井の中まで入る大きさ。その大きさから「大浜大仏」 と言われている。温容なお顔を押し合掌.漆塗りの柱、極彩色の欄間、花鳥風月が描かれた格天井など豪華な堂内を一巡し「ほう〜」とため息が・・・。なるほど、かつての豪商達が支えた寺であると実感が湧く。 〇さて、前出の様に今テーマの一つ、単なる神仏分離令からΓ廃仏毀釈」にエスカレートする原因を前川会長は大変解り易く説朋される。 それによるとそもそもは天皇を神格化し、この国を神の国であるとする明治政府の思惑によって江戸時代よりの仏教国強化政策を否定し「神道」を推し進める政策をとる。 古来よりの神と仏が同じ地域に同居する神仏混淆を禁じ、仏を神の下に置く分離令が思いもよらない「廃仏毀釈」にまで展開されたのは「これまで僧侶の風下におかれていた神官達が、この時とばかりに明治政府の威を借りて廃仏に動いたことは否めない。また、民衆の中にも寺院側の寺請制度による特権の上に胡坐をかき教学や修業に対する厳しさを無くし、利益ばかりを追求する寺側に対する批判の目も見逃すことばできません」と。納得〃 この大浜においても、上総国菊間藩が構える陣屋(大浜出張所)に赴任する役人によっ神仏分離令による寺院の統廃合と神道化遂行を実施しようとしていた。これらにより藩側につく寺と三河護法会との聞で軋轢が生じ、農民も加わって、大きな騒動となる。 この騒動で一人の役人が殺される。(大浜騒動) 大浜陣屋跡が整備されていて騒動のあらましが伝わる碑文等を見学。 〇昔ながらの街並みを残した大浜。さらに歩を進め、2000坪の境内に徳川家祖廟を持つ東照山・称名寺(時宗)ヘ・・・。 担当の川口氏の説明によれば、徳川氏との関係はI5世紀前半まで遡る。特に天文年間に同寺で行われた連歌の会、家康の父・広忠の連歌から家康の幼名・竹千代が付けられたと言う。他に西方寺、林泉寺を訪れ、昼食は衣浦グランドホテル最上階にてバイキング。 〇後半は先の大浜騒動の中心人物であり斬首刑に処された「石川台領」殉教碑のある「西尾市・葵町」へ。ここは受刑地でもある。800年の歴史を誇る西尾市。付録として西尾城跡に建つ旧近衛邸に上り、抹茶を頂く静かで心豊かなひと時を過ごす。担当者の配慮に感謝。 〇今回は晩秋の1日を歴史が息づく街・大浜を散策し由緒ある寺々の参詣、港、蔵、路地と加えて大浜騒動にまつわる地を訪ね、楽しく、新しい発見もある研修会でした。
23年1月 学習会 「尾張藩と藩政改革」 〇平成23年1月23日、今年、第1回の例会は、名古屋市中区金山、中京大学文化ホールにおいて学習会が開催されました。 寒さ厳しい折とは言え、今年初の会という事もあり、出席者も多く37名が参集しました。 〇お話のトップバッターは、荒川氏。 内容は尾張藩の成立、家臣団、領地、支配体制、藩政の改革と多岐に及ぶ。そもそも尾張藩の成立とは・・・。お話の中においては先ずは一番知りたい部分である。関ケ原の戦いの後、武蔵忍l0万石から尾張・清州藩に国変えとなった徳川家康の四男・松平忠吉が52万石として入封するが、慶長12年(l607)嫡子のないまま死去。 平成23年二月学習会 「信長の愛した二人の女性」 〇平成23年2月27日(日)、春暖の候、名古屋市中区「ウイル愛知」県女性センターにて1月に続き、学習会が行われました。担当は、当会編集部長・諸岡茂樹氏。聴講者も多く40名が参集しました。 〇テーマは、「信長の愛した二人の女性」。信長は、当愛知県出身という事もあり、信長をテーマに上げますと集まりも多く、依然、信長の人気度は高い。 ○諸岡氏は、昨夏より体調を崩され、闘病生活を余儀なくされておりましたが、持ち前の気丈さと「何としても発表したい」とその心の強さがパワーとなり、療養中でありながらも、この発表の日を迎えられた。 〇題名の中の二人の女性の名を先に申して起きましょう。それは、『武功夜話』の中でつとに知られる、ご存知「吉乃」の方と近江出身の女性「お鍋」の左の事である。 〇今回のお話の中では、王室である美濃の斉藤道三の娘・「濃姫」は少し脇に下がってもらいます。 『笑』諸岡氏は開口一番、「信長は、秀吉・家康に比して艶福の話題は少ない様だが、それは、我々が彼の破天荒な生き方に惹きつけられ、その魅力の法に関心があるため。実は、正室の他に11名の妻妾がおり、男子l2名、女子15名と計27名の子供が生まれている」と。この11名の妻妾のうち、本当に愛したのが先の「吉乃」と「お鍋」であり、今回は、この二人に限定してお話を進められた。 〇まず、この学習会の内容に即した犬山・江南・清洲等位置関係が一目で分かる地図が掲げられ、プロジェクターによる映像も用意される。吉乃の方・・・信長の最も愛する側室。丹羽郡の豪族・生駒家吉の女。嫁ぎ先の土田山城(信長の母・土田御前の実家)の夫・弥平治が戦死したため、未亡人となり生駒の実家に戻っていたところを信長が一眼ぼれ。吉乃はたいそうな美貌の持ち主であったという。あの信長でもマザーコンプレックスなところがあり、母似の美しい吉乃に母のイメージを重ねていたかも知れない。やがて、吉乃は身篭り、次々と三人の子供が生まれる。嫡男・信忠、二男・信雄、長女・徳姫であるが、この徳姫の出産後の肥立ちが悪く、重い病に倒れる。この間、信長が清洲から小牧山に城を移すに及んで、吉乃のために新御殿を建て、吉乃を「御台」として迎え入れ三人の子供とともに家臣に拝謁させる。 〇諸岡氏は、「如何に信長が吉乃を大事な女性として遇していたか、その愛の深さが分かる」、続けて「吉乃こそ信長の正室であったといわれなくもない。濃姫とは政略結婚であって愛して結婚したのではない」とも。中々手厳しい!!(笑) 〇しかし、吉乃の病は益々悪くなる一方・‥‥。遂に小牧に移って3午後、永禄9年(l566)9月13日、まだ28歳の若さで黄泉の国ヘと旅立つ。「久昌寺」に葬られる。映像では、「小牧山城」や吉乃御殿跡に建つ「龍神社」、小牧に向かって立つ「吉乃地蔵」等を見る。 〇お鍋の方…‥信長は永禄2年(1559)、尾張の国を一応平定し、尾張守任官の奏上のため上洛中、かねてより敵対していた美濃の斉藤義龍の暗殺団が信長一行に迫っているとの情報を得たので急遽、帰国の途につく。信長は近江に入ると鈴鹿山脈の八風峠を越えるルートを目指す。 〇この時の道案内をしたのが、この地を支配する土豪・小倉実澄の家臣・高畠源十郎とその娘・お鍋であった。資料には、道案内するお鍋が信長に対してズケズケものを言うことに周囲のものが肝を冷やしたとある。この時の信長は終始にこやかでお鍋の言う事をいちいち頷いていたとある。信長にとつては、お鍋はかなり印象に残る少女であったと思う。 〇この八風峠越えから歳月がたち、永禄10年(1657)、今は小倉実澄の妻であるお鍋を信長が突然訪ね、一夜の契りを結ぶ。この時の結晶が、翌年永禄11年(l568)に誕生した松千代。松千代は後、信長側近の小姓となる人。実澄との間には、既に松千代の兄である甚五郎が生まれている。 〇永禄1l年、信長に内応した実澄は、近江主語・六角承禎に討たれ、お鍋は二人の子供とともに近江を脱出し岐阜の信長に救いを求める。この落塊の未亡人を厚く保護した信長は、「城に長く逗留されよ」と優しい言葉をかける。 〇以上が、信長とお鍋の経緯であるが……。諸岡氏は、「鍋という名は、この岐阜に来てからの名であって、彼女は非常に料理が上手であつたため、信長は調理器具をもじって、鍋、鍋と呼んだ」と。お鍋の方は、まさに信長の胃袋をわしずかみにして自分の居場所を守ったのでしようね。(笑) 〇お鍋は、倒室となった後、2男1女を授かる。信長にとつては、お鍋との間の子で七男となる「信高」の子孫が、あのスケーターの織田信成と聴き、会場は、「おお……」とざわめきが起こる。 〇さて、お鍋、本能寺の変後、信長亡き後は秀吉の妻・北政所(ねね)に仕え、更に関ヶ原の戦い以後は故あって失脚し、8O石程与えられて京都で静かな晩年を過ごしたという。 〇墓所は、京都柴野・大徳寺の塔中総見院。▽信長の正室である濃姫は今一つ「その後の足取り」というものが掴めなく影が薄いが、歴史には表れなくともどこかの空の下でしぶとく生き続けていらしたかも知れない。対して、お鍋の方は、最晩年まで詳らか。 〇諸岡氏は、ご病中とはおもえない程、お元気で終始活舌も良く、通り一辺でない興味注がれるお話の内容に聴講者は、もっとお聴きしたいと思う程のあっという間の2時間の学習会でした。
平成23年3月 研修会 「徳川の始祖、松平氏を訪ねて」、
平成23年四月研修会「遠州争乱・二俣城の悲劇」 〇平成23年4月24日、ブルースカイに淡いピンクの花ビラがよく似合う桜も終わり、いよいよ春たけなわの候、遠州に足を伸ぱす研修会が行われました。 〇参加者37名。そもそもタイトルの二俣城の悲劇とは、元亀3年(1572)武田信玄の遠州侵攻により、徳川方の支城・二俣城が武田軍の支配下に置かれたと。 〇当時の家康は浜松城に拠点を置き、三河、遠江等を支配する大名であった。また、世に名高い事件として家康の嫡男・岡崎三郎信康が天正7年(1579)9月、故あって父によって自刃に追い込まれた城であり、この二件の出来事をもって二俣城の悲劇とする。 〇もうひとつ、二俣城ではないが、とても悲しい出来事がある。皆様よくご存知の家康の正室であり、信康の生母・築山御前(今川義元の姪)も同年、夫・家康によって浜松城の南西・佐鳴湖畔において殺害された事である。 今回の研修地は遠州における築山御前殺害の折、その太刀を洗ったと言われる池。 〇同御前のお墓の在る西来院。悲劇の二俣城は天然の要塞。前の信康のお墓は二俣城の後方の清龍寺。 二俣城の陥落から世に有名な家康が武田軍に完膚なき敗北を喫した三方ケ原の合戦ヘと繋がる経路の確認とこの合戦に於ける家康軍が武田軍に一矢報いた犀ケ崖の夜襲の地(犀ケ崖資料館に上る)を精力的に探訪しました。 〇往路のバスの車中では、今回の研修のポイントを1ッ、2ッ・・・。すべてとは言わないが、家康が関与する出来事はかなり「徳川御用達史観」に乗って現代に伝えられている事柄が多い。 〇1ッ目。まずは先述の信康自刃と築山殿の殺害について。 信康の妻・徳姫(信長の女)の世に言う「徳姫12ケ条」により信長の怒りに触れた信康が自刃に迫い込まれたとする従来の通説に対してこの事件は信長は一切、関与しておらず、どうやら家康自身の意志によって行われた疑いが濃厚であると・・・。 紙面の関係上詳細に記せない事が残念ですが父・家康の浜松派対、信康、築山殿の岡崎派の派閥抗争・・・。 はたまた岡崎内部の家臣団の分裂の結果等の見方が上げられた。 〇2ッ目。三方ケ原合戦について これも従来の通説では、武田信玄が家康の居城・浜松城を無視して西進するかに見せかけたのでそれを遮ろうとして家康は周囲の反対を押し切って出撃し大敗したと言うものであるが「武徳大成記」「四戦紀聞」「当代記」等の史料では、戦闘のきっかけは武田勢が浜松に向かってこないので気の緩んだ家康の部下達が武田勢の通過を見物しようとしてまばら駆けに出てゆき、武田勢に石を投げたりした事が発端となり武田勢はガレキを投げて応戦するも、次第に徳川方の人数が増すにつれ鉄砲を撃ちかけさせて本格的な戦闘が開始されてしまった。 つまり家康にしてみれば、軽はずみな部下達の起した行動によって不慮に合戦におよんだと言うのが真相。 〇ここでも御用学者達の真相をべールに包み「神君家康公」は敢然と強い信玄に挑戦したとする賛美の筆のあとが感じられます。 なお、戦闘のあった三方ケ原と言えども実際にはどの位置にあったと特定は出来ないとの事。加えてよく言われている武田勢の騎馬兵がここ三方ケ原で活躍したと言う事実も存在しないとも。 〇研修地のひとつ「二俣城」は信康自刃の地と言うドラマもあるせいか忘れられない。筆者がまた、山城好きであるためか・・・。 歴史の舞台であった地に立つと時間が逆流して来る。まるで往時の人々の記憶が乗り移ってくるかの様に。 〇ここは天竜川と二俣川が合流し急峻な崖を持つ天然の要塞。 我々は大手から入り本曲輪、竪堀、井戸曲輪を季節の風を頬いっぱいに受けながら見学。信玄の遠州侵攻「二俣城の戦い」はこの井戸曲輪の水の手を切られたことにより徳川方は降伏したのです。 〇今回もまた、担当の方々のおかげで大満足のゆく一日を得られました。
平成23年五月研修会 「笏谷石を訪ねて」 〇平成23年5月22日、青葉、若葉が日に映えて美しい季節。「笏谷石を訪ねて」と題して福井県は福井市を探訪しました。主担当は今回、研修会初担当となる内田道雄・編集委員、サブ担当は大谷浩士、高橋浩子の二氏。参加者38名。出発時はやや小雨模様。 ご当地出身の内田氏は開ロー番、「そうなんです、今回は硬〜〜〜い石のお話です」と切り出す。そもそも笏谷石とは、氏の説明によれば、1,800万年前の火山活動によって噴出した火山灰が固まって出来た岩石であり、学術的には火山礫凝灰岩という。 福井市の中心に位置する標高l00mの山「足羽山」から産出され、特徴は灰青緑色で比較的、軟らかい。バスの車中でサンプルが配られ、火山岩片が多数含まれている様が肉眼でも識別出来る。 「笏谷石」この名称の由来は産地である昔からの地名から名付けられたとの事であるが、その昔の大昔、継体天皇が笏を谷に落とした事が元々の油来であると聞く。主担当・内田氏は先述の様に、ここ福井の出身であるだけでにこの「石」にまつ わる幼い頃の思い出話をされたりと説明にも、ひとしほ力が入る。露天掘り、横穴、竪穴と足羽山から採掘される笏谷石は墓石や装飾用の石材として、また、橋脚、鳥居、狛犬、種々な生活用品に利用され、全国に売り出されていいたが、平成11年頃より外国産の安価な石材が大量に輸入され採算が合わないからと、残念ながら現在は採掘は行われていないとの事。内田氏の説明は尚も続き、古来より随分と大量に採掘され、その利用度も多大であったことを知る。また、時代的には、継体天皇の治水、採掘の伝説。室町時代に於いて は、一条谷の朝倉氏の石仏、石塔。安土桃山時代では北の庄の築城に。江戸時代では結城秀康の福井城築城に。 足羽山のふもとを流れる足羽川の水運を利用して九図龍川を経て三国湊より北前舟で全国に流通、等々、説明は多岐にわたり内田氏のふるさとの「石」に注ぐ思いは熱い。 〇往路の車中で、福井と言えば幕末を駆け抜けた三人の男(松平春嶽、橋本左内、由利公正)が有名。「幕末擾乱」と題して大谷浩士氏の説明。 また、今回の研修先のひとつ北の庄城に約10ヶ月程居住した今年NHK大河ドラマの主役「お江」の生涯についての説明は高橋浩子が担当。 〇現地到着、ふくい笏谷石の会・稲葉明美事務局長さんの出迎えを受ける。 稲葉事務局長のご案内で現地研修の第一歩は「朝日山不動尊」にて笏谷石の露天掘り採掘跡を見学。美しく淡い青緑色の剥き出しになった岩肌が眼前にそびえる様は壮観。 湿り気を帯びると、より青さが増すといわれるこの笏谷石。折良く(?)小雨に濡れる石は私達の目に美しい色合いを提供してくれる。 稲葉事務局長は「笏谷石の素晴らしさを全国の皆さんに知って頂き、この石の文化を後世まで残したい」との切なる想いでいっぱい・・・。笏谷石にまつわる説明を伺いながら、その想いが私達にもひしひしと伝わるものがある。朝日山不動尊を後に以後の見学地である瑞源寺は福井藩第五代藩主・昌親公とその母高照院の菩提寺。本堂と書院は福井城本丸にあった御殿と大奥の御座の間を移築したもの。 ご住職から柱の一本一本に至るまでのご説明と歴代藩主のお話等、興味深く拝聴。昌親公と高照院の廟所が本堂裏手の山腹に笏谷石製の大きな墓が二基並ぶ。 ああ、ここにも彷谷石が・・・。 ○福井市立郷土歴史博物館にて、やはり笏谷石の文化と魅力に触れ、次に向かうは昌親公別邸・養浩館庭園へ。広大な池より遠くに数奇屋風書院を眺めるこの風景になぜかホッと心が癒される。日本人の日本的こころに宿る、なつかしい一幅の絵を観るような・・・ ○美しい石垣を誇る福井城跡。織田家第一等の幕臣であった柴田勝家の居城・北の庄城。いずれも石垣に笏谷石が使用されていました。 ○今回の研修は彷谷石のオンパレード。この石を利用した独特の文化遺産に福井市民の誇りを感じる。と共に地域の活性化に今後も役立てばと願うばかり。さて、今回、地元福井の方々の熱く温かいおもてなしによって研修会は大いに盛り上がりをみせ、内田氏は面目躍如、初担当デビュー戦は成功裡に終了しました。(レポート 高橋浩子)
平成23年6月26日(日)研修会 「洛西に古代秦氏の足跡を訪ねる」 梅雨の候。この日、ツユの晴れ間とは言え、やはりむし暑い……。「洛西に古代秦氏の足跡を訪ねる」と題して久し振りに京都に足をのばす研修会が行われました。出発に先立ち、研修資料、会誌第52号(87頁)が配布されました。案内担当は中村清、守屋道治、川崎政俊、武藤明則の各氏。参加者43名。研修先は秦氏の勢力範囲である洛西は太秦・嵐山一帯に点在する秦氏の氏神・松尾大社、同氏寺・広隆寺、更に秦氏の得意技である機織りと養蚕の始祖をまつる木嶋神社(蚕の社)等々……。今回は説明案内担当者を振り分けされ、古代豪族・秦氏と旅の概要全般については中村氏。松尾大社については守屋氏。広隆寺は川崎氏。蚕の社は武藤氏とそれぞれに密度の濃い内容の説明をいただいた。▼洛西、北と西を京都特有の柔和な稜線を持つ山々に囲まれ、西の山裾を川幅の広い桂川が流れている。この桂川沿いに古代の豪族(秦氏)が栄え、平安遷都後は貴族の別荘や大寺が続々とこの地に造営された。この中でも我々は今回秦氏ゆかりの寺々を探訪することを目的としており、先ず最初に訪ねるは松尾大社。鬱蒼とした松尾山の山裾の古寺で朱の鳥居をくぐれば楼門、拝殿、本殿が一直線に並んでいる。京都最古の神社とも云われ、祭神は海の神(宗像三女神の一)と山の神(大山くいの神)であり、山水に生活を左右された古代の人々が水を神格化したのであろうか、社務所裏の草むした谷あいには年中枯れたことのない霊亀の滝が流れ落ちる。亀の井と言われる湧き水がありひと口、口を潤せば甘い感触が口中に広がる。境内には菰被りの酒樽が数多く奉納されている。この亀の井の水を利用して酒造りが行われているのでしよう。室町時代の頃より酒造りの神としても信仰される様になったと……。▼さて、ここで「秦氏とは何者か」中村氏の説明によれば、5世紀頃、新羅から渡来した氏族。彼らは大陸から土木、灌漑、酒造、機織などの技術をもたらして、当時の日本国形成に大きな影響を与えた。特に秦氏が葛野川(桂川)に築いた大きな堰は嵯峨野一帯を農耕の可能な土地に変えたと言う。また、養蚕の方法を持ち込み絹織物の製造を可能にした。その様な彼らが本拠地としたのが太秦一帯だった。どうして太秦を「ウズマサ」と呼ぶのか……?。これがなかなか面白い。伝説では秦氏の指導者・秦酒公が朝廷に税として絹織物をうず高く積み上げた事により「禹豆麻佐」の姓を与えられたとか。別の説では彼らの出身地名であるとも。▼桂川に架かる有名な渡月橋一帯は嵐山と呼ばれている。料亭、みやげ物店、飲食店が多く大勢の観光客で賑わいを見せていた。今も昔も変わらぬ風情……。我々はこの渡月橋畔のレストランにて昼食後、秦氏が洪水防止のために堰を築いたと言われるその名も大堰川附近を散策。(ちなみに渡月橋を挟んで上流を大堰川、下流を桂川と言う)。▽6世紀後半から7世紀初頭にかけて、この頃の秦氏の棟梁は秦河勝と言い、この名前は桂川の暴れ「河」との戦いに「勝」った事から「河勝」と名付けられたとか……。う〜ん!!。この河勝が7世紀のはじめ(聖徳太子から尊仏像を賜って建立したのが蜂岡寺)広隆寺の前身か?。担当の川崎氏はこの寺は長い歴史の中でどの様な変遷をたどったのか、寺名や本尊の仏像についても不明な点が多々あると言われる。それはそれとして我々は、ここ広隆寺にていよいよ我が国、国宝第一号となった宝冠弥勒菩薩半跏思惟像にお会い出来る。像の座す霊宝殿はかなり照明を落としており薄暗いが、それでも菩薩様のお姿をしっかりとこの目に焼き付けて……。多くは書けませんが、とに角、わからない事だらけ、謎だらけのこのミステリアスな広隆寺。ただ確かな事は、この寺が創建以来豪族・秦氏の氏寺である事。秦氏は技術面だけでなく、文化や宗教も伝えている訳だ。▼最後の探訪地は「木嶋神社」。広隆寺より東に5分程のところ。本殿では「天照御魂」を祀るが、本殿東横には摂社である織物の始神を祀る養蚕神社「蚕の社」がある。織物や製糸業者の信仰が篤いそうだ。担当の武藤氏は「ここでは何と言っても石製の三柱鳥居です」と。この三柱鳥居は本殿西側に位置する「元糺の池」と言われる神池の中に建つ。神明鳥居を三ツ組み合わせた三方正面の三ツ鳥居で中央に組石の神座があり三方から奉拝出来るしくみ。池は薄暗い森の中にあり以前は清冽な清水が湧き出ていたと言うが、現在は渇水しているのが残念。古代人が水を神格化していた名残とも言える……。実はこの三柱鳥居も謎を秘めている。柱の方位はいずれも秦氏に関する神社、墳墓がある。夏至、冬至の日、それぞれの日の出、落日の方位。また、会員の中から秦氏の信仰していた古代東方キリスト教の三位一体説なども飛び出した。▼今回、これら秦氏ゆかりの神社、仏閣を訪ね、文明の香りに触れる貴重な一日となりました。
平成23年7月学習会 「遣唐使・苦難と試練と希望」 〇平成23年7月24日(日)名古屋市中区金山、中京大学名古屋市民会館・会議室に於いて学習会が行われました。演題は「遣唐使・苦難と試練と希望」発表者は守屋道治氏。猛暑の中をビジターを含め4O名が参集しました。守屋氏は開口一番、そもそも遺唐使とは・・・とその意義と目的を話される。 6世紀後半から7世紀、東南アジアは動乱の時代を迎える。朝鮮半島では高句麗、百済、新羅は軍国体制の樹立を模索する中、中国統一した隋、唐の存在は当該地域の紛争の行方に大きな影響力を持った。倭国にとってもこれまでの独自に展開してきた自国のあり方の不備を知り、かつ国際情勢に対処する必要を迫られる.この国家体制強化を目的として、着手、完成の契機という点で遣唐使の意義は大きいと話される。 ″ 遣唐使は630年〜894年と唐代の全期間に亘って公的通交、諸文物の移入に 努めており、日中関係の安定に寄与し新しい日本を作ってゆく。しかしながらと守屋氏は続ける。この倭国からの遣使以前に於いても対馬海峡を挟んで海人集団や一般人の往来は想像以上にあったと考えられ、朝鮮半島から多数の渡来人と共に多くの文物が移入され、政治、文化の面でも変化をもたらしたであろう・・・と。 〇さて「遣唐使」。守屋氏の作成する学習資料は2O頁にも及ぶ。非常に精査され、理解しやすくまとめ上げられている。淡々と、しかも持ち前の落ち着きのあるお話ぶりとポイントをしっかりとつく説明に聴き入る。 資料では、遣唐使の時代を前期(63O〜661)中期(702〜777)後期(777〜838)に分ける。 〇前期は遣唐使一行の規模は小さく入唐は犬上御田鍬、高向玄理、南淵請安ら。航路は朝鮮半島の西岸を北上、渤海湾ロを横断し山東半島に上陸するを普通とした。倭国の豪族連合的体制からの脱却を急がねばとの報告を持って帰国。中期、72O年の派遣時は規模も大きく儀容も整い遣唐使の最盛期と言うべき時期。入唐者も吉備真備、僧・玄防等が有名。航路も筑紫から南島を経由。東シナ海を横断、揚子江付近に達する南路をとる。天平時代に於ける燦然たる文化はこの時期に於ける学問僧、留学生に負うところが大きい。 後期ともなれば形においては規模は一段と盛んな様であるが、実はすでに衰退期というべき時期でもあった。入唐者はおなじみの空海や最澄が知られている。 航路も筑紫から直かに東支那海を横断。空海の帰朝によって我国の仏教に密教の盛行を見るきっかけとなり、併せて唐風文化の拡がりを見せる。 〇中国・唐王朝は875年の黄巾の乱で衰退に向かい、我国の唐への渡海は見送られる様になっていたが、再び894年、菅原道真が遣唐使に任命されたが、渡海せず、国家としての遣唐使任命は打ち切りとなり、第1回の渡海から約200年間の歴史の変換期で大きな役割を果たしてきた。遣唐使時代は2O回の任命、16回の渡海で終わる。しかし公的遣唐使制度は廃止されたが民間ペースの交流は耐える事なく、より盛んになっていった。 ○守屋氏のお話は他にも多岐、細部にまで及び、聴き手を惹き付ける。 例えば、 ●遣唐使船の構造、乗員数や船団の大きさ、帆は竹製ですだれ状であったとは興味深い。 ●渡航に於ける季節風との戦いと多くの遭難者のこと。 ●遣唐使の滞在費用は中国が負担とは面白い。 ●海外情勢のキャツチや学問の習得、さらに仏教の経典等の収集の他、第8次遣唐使はギリシャ神話の漢訳本を携えて帰国している。 ●技術面ではガラス、鍛生、鋳生、細工の工人となるべき派遣された留学生もおり楽師として琴、笛の習得また囲碁についても多くの者が習得したと‥・。 ○守屋氏のお話から東支那海の荒波を超え命を賭けて渡航した遣唐使達の躍動する姿を想像する。なお、最後に氏のお話の結びとして「遣唐使の情報は日本に於いてはすべてを採りいれるものではなく、選別して応用した」と。 <レポート 高橋浩子>
平成23年8月学習会 「親鸞上人750回御遠忌・三河一向一揆(研修会とジョイント)」 平成23年8月28日(日)晩夏の候とは言え、まだまだ残暑きびしく・・・。昨月に続き、名古屋市中区金山、中京大学名古屋市民会館会議室において、学習会が開催された。今年は浄土真宗宗祖・親鸞聖人の750御遠忌(ごえんき)の年に当たる事から、この御遠忌を記念する絶好の機会ととらえ、当会研修部・早川綾乃氏が企画、担当され演壇の人となる。聴講者38名。 今、浄土真宗各本山に於いても「宗祖としての親鸞聖人と遇う」を基本理念に掲げて種々な取り組みがなされている様である。早川氏も最初に「この学習会のコンセプトとして親鸞聖人を歴史上の人物としてとらえ、その教えに少しでも入っていけたら」との思いを告げる。24頁にわたる資料が配付される。資料の内容は大別して@〜Gの項目となる。 @ 誕生。 A 出家の理由。 B 苦悩の時代。 C 法然との出合。 D 法難(越後に遠流) E 関東での専修念仏。 F 帰洛。 G 入滅。 このように聖人の生涯を分かり易く解説している。また、この資料には独特の風貌で知られる聖人の「安城御影(愛知県安城市に伝来し生前に描かれた肖像画で現在京都・東本願寺所蔵)」のカラー写真と親鸞の年表、真宗法系略図、夫人・恵信尼との関係図、布教の足跡を示す地図なども、添付されており、聴講する者にとっては理解を速くする資料である。 〇早川氏のお話は流暢で要約すると生誕は平安時代の末期、承安3年(1173)京都は現在の伏見区あたりと言われ身分の低い公家の出身とも。この頃の社会は末法思想によって不安定な状態であり、人々の間では次第に来世を頼む浄土信仰が広がりを見せはじめていた。 親鸞は9歳の頃出家。出家の理由は諸説あるが、貴族の子弟の大半が出家する慣習に従った。はたまた親鸞の中に人間として生きるとは本当はどの様なものであるかを問い、尋ねる心が湧き起こったのか・・・。 29歳に至るまでの20年間を比叡山で修行する。 叡山の教えは「煩悩を絶ち悟りを開く」という教えであったが、どのように努力しても結果が得られずますます苦しみや迷いが生ずる苦悩の日々を送る。ついに29歳の頃、山を下り吉水の法然(浄土宗開祖)を訪ねる。この頃の法然は叡山での教えとは正反対の悟りを開くには煩悩は何の妨げにはならない。ただひたすらに「南無阿弥陀仏」と弥陀の御名を唱えようとする「専修念仏」を説き多くの人とその許に集まっていた。親鸞の法然との出合いは親鸞にしてまさに衝撃的巡り合いであった。この弥陀の心に触れ、弥陀の大悲のはたらきの大いなる事に気付き、人間としての生きる道が開けていることに目覚めるのである。しかしこの法然の教えは、さまざまな曲解を生み、また、吉水の門下の振る舞いにも問題が起こり、さらに時の権力者・後鳥羽上皇の怒りにも触れる事件等も生じ、ついに法然は土佐に、親鸞は越後国へ遠流どなる。(承久の法難)。この越後での厳しい環境の中での生活はあらためて雑草の様に生きる者が救いを願いとしている事にうなずく大切なきっかけとなり、実は他の誰でもなく親鸞自身にこそ、働きかける弥陀の大悲であつたと知る。やがて親鸞42歳の頃、関東ヘと移る。この地にてさらなる専修念仏に磨きがかかり門弟の数も数千人以上となる。関東に居住すること20年、都では亡き法然の教えが再び禁止の憂き目にあっている事を知り、念仏の教えの真理を明らかにする事こそ自分の生涯を尽してなすべき事と受け止め帰洛を決意。帰洛後は多くの著作を執筆している。 ついに親鸞は吉水時代に法然から受けた「選択本願念仏集」をもとにその精神を「浄土真宗」として明らかにしたのである。 〇「人間万事塞翁が馬」という諺どおり、越後での厳しい生活を体験してこそ親鸞の中でなお一層の真理に目覚めるものがあった訳ですので結果的には流されてある意味良かったと解釈します(レポートライター)。 〇浄土真宗は身近な宗派。90歳で入滅され、まさに前述のとおり750御遠忌の年に的をえた聖人の生涯と教えを聴講出来、うれしく有難く…!!。また早川氏ご自身もかって弥陀の心に触れた体験談を話され、今学習会は厳かに終了しました。 合掌。<レポート 高橋浩子>
平成23年9月研修会 「親鸞聖人の足跡と三河一向一揆の寺院」 平成23年9月25日(日)初秋の候、9月も第四週ともなれば涼しげな風が頬を撫ぜる。大雨をもたらした先の台風15号が東海地方を通過して2〜3日後「親鸞聖人の足跡と三河一向一揆の寺院」と題して研修会が行われました。先月8月に「親鷲聖人、その生涯と教え」なるテーマにて学習会を行っており、その8月とのジョイント企画として当地・三河に於ける聖人ゆかりの寺々を探訪する事が今研修の目的。 担当は早川綾乃研修委員。参加者はやや少なくエントリーは29名。 台風前は依然として暑い日が続いたせいか外出を控える会員さんが多数いた様である。8月学習会でも学んだ様に今年は親鸞聖人750回忌御縁忌の年。 早川氏は開口一番「縁あるこの年に学習会及ぴ研修会をジョイントで行い今回は親鸞聖人の関東よりの帰洛を中心に門弟と三河の真宗のはじまりを伝説と歴史的背景を混じえながら三河一向一揆につながる現地の寺を訪ねて観ていきたい」と話される。 ○研修会の第一歩、まずは「雲龍山・本證寺」(安城市野寺町)もともとは天台寺院。13世紀の初頭、慶円の開基。伝承では親鸞聖人(63歳)帰洛の途時、現在の岡崎市矢作の妙源寺の柳堂(後述)にて37日問、説法がなされた時、慶円は柳堂へ押しかけ難詰。対して聖人はあらゆる凡人を救わんがための「弥陀本願」であると諄々と説き示したといわれる。 これによって慶円は回心儀悔し聖人の弟子となる。また、ここ本堂は三河一向宗三ケ寺(他に勝鬘寺、上宮寺)の拠点のひとつ。さて、ここで我々は同寺ご住職より、よく耳にするところの一向一揆なるあらましを拝聴する。 中世末期の浄土真宗(一向宗)の門徒による宗教一揆。15世紀後半から約1世紀にわたって近畿、北陸、東海など郷村制の進んだ地域に広がった。(守護・富樫氏を倒した加賀一向一揆、信長の軍勢にも屈しなかった石山本願寺-向一揆は有名)。 ここ本誰寺においても、三河一向一揆のひとつとして永禄6年(1563)寺側、民衆共に一向宗に帰依しているこの地|域は当地を治める家康へは年貢米を納めず京都に送る事実に家康側は寺に集められている兵糧米を強引に撤収しようとした、それを阻止する門徒との間で激しい戦いがあった、一向宗側の「聖戦」だったのでしょうが、おもしろい事に家康側の家臣の中にも一向宗にくら替えし、一揆側に加担する者もいたと言うハプニングもあった。 本證寺の三門を一歩踏み入れた時、境内の広さに目を見張る。一揆の拠点であったことから、鼓楼や土塁を備え水濠に囲まれたまさに降格様式の寺院。現今までに当時の城塞としての様をよく保存しているのは全国的に珍しいとされる。こ日は人気もなく、それだけに耳を澄ませば、かってこの舞台で受難の歴史を背負った戦いがくり広げられた、その雄叫びが聴こえてくる様だ。寺の数多い寺宝の中でも特に文盲の民衆のために聖人の教えをわかり易く示す「絵とき」が有名。 〇今回の研修は一揆側の砦となった寺々のオンパレード。 「寂光院・勝鬘寺」(岡崎市針崎町)、「太子山・上宮寺」(岡崎市佐々木町)、いずれも天台宗であったが、勝鬘寺住持・了海、上宮寺住持・蓮行の時、聖人の教えを受け改宗。 やはり永禄6年、家康側が兵糧米を奪った事に端を発し一揆の拠点として歴史に残る。両寺共々今に伝わる聖人ゆかりの寺宝の拝観と一揆で討死にした家康の家臣(一揆方)の墓にも合掌する。 〇ところで先述の妙源寺「柳堂」であるが、この地の領主・安藤氏が河内国から当地へ移住の際、持参した聖徳太子の自作像を安置するためにこの堂を建立。親鸞聖人が関東から帰洛の際、安藤氏がこの柳堂に聖人を招き、教えを乞い深く帰依 した。 安藤氏は仏門に入る事を決意し念信と改名。後に堂宇「桑子山・妙源寺」(岡崎市大和田町)を建立。柳堂に参集した近隣の寺々の住持もそろって真宗に改宗した事によってここは「三河念仏発祥の地」と言われている。柳堂は、一重、寄棟作り、桧皮葺きの堂々たるお堂。我々は内陣の拝観を許され太子像を拝む。 . 当時のままの基礎を移さず柱栗も改めずその面影を伝えているところから国の重文に指定されている。ちなみにこの堂の前に大きな柳の木があったことに由来するそうだ。 一方、三河一揆の際は同寺は徳川に味方したと言う。 〇研修の旅もいよいよ大詰。照高山・願照寺へと駒を進める。(岡崎市舟間超町)多くの寺々を廻り少々タタミも恋しくなる‥・。我々は本堂に座し、ご住職から法話を拝聴する。寺はもとは天台宗。やはり聖人帰洛の際に住持・専海の時に真宗に帰する。 同寺には聖人の83歳の寿像を描いた、いわゆる「安城御影」が存在した。その後原本は京都の本願寺に進納したが、副本は同寺に伝わる。が、残念なことに現在は安全な公的機関に預けられているため、御影の拝観は不可であった。 ご住職の法話は解り易くユーモアに富んだお話ぶりで肩がこらない。会員の皆々も大いに笑いを誘われた。面白いお話をするも、人の心の内の有様を自然と正す内容であり、研修の終りに相応しい趣でした。 〇早川氏‥ま8月・9月と連続の担当お疲様でした。 最後に早川綾乃氏は言う。「柳堂での説法伝説は実は近世の創作であって歴史的事実ではなかつたと現在では確定しています。これは真宗内部の本願寺派対高田派の対立関係の中で生じた本願寺派の創作であり、三河での真宗勧請は実は高田派の門弟による教化に始まると言う。一方の伝承の史実性が近年発見された数々の史料により高まっております」と。まま、創作でもこれも歴史的ロマンと受け止め、季節の風と共に巡った寺々に別れを告げ、精力的かつ内容の濃い研修案内を終えた早川氏に熱い拍手を送りました。 平成23年10月研修会 「北摂津を訪ねる」 〇平成23年10月23日(日)、久しぶりに秋晴れの中、大阪府北部・淀川右岸一帯の旧三島郡・高槻市、茨城市、島本町を総称して「北摂津」と呼びますが、その北摂津を訪ねる研修会が行なわれました。題して「北摂津を訪ねる」。 〇今回は、この北摂津にゆかりの深いキリシタン大名で名高い「高山右近」、そしてその地に歴史的に興味のある隠れキリシタンの遺物を展示してある「茨木市立キリスト教遺物史料館」と、実在されたと現在考えられている一番古い天皇であられる継体天皇の墓の研修を行なった。 案内者は、森田邦春、中村清、近藤忠保、津田啓子の4氏。参加者は、40名。 〇先ず最初は、隠れキリシタン遺物の展示してある「茨木市立キリスト教」を訪問した。 中村氏の説明によると、「茨木市は、中世にはキリンタン大名として知られている高山右近の城下町で、本能寺の変のあと、右近は自らが安土城下に建てたセミナリオを高槻城下に移築し、また大阪に天主教会をたてた。秀吉が突如としてキリシタン禁教令を出すと、多くキリン夕ン大名は棄教したが、右近だけは信仰を捨てず領地を奪われて流浪の身となり、さらに家康によって国外に追放されてマニラで死去した。北摂連山にひときわそびえる竜王山の麓に、隠れキリシタンの村がある。この350年以上に及ぶ隠れ里かちは大正8年に、有名な「聖フランシスコ・ザビエル像」など次々と貴重な遺物が発見され、ローマ教皇の使節が訪れて「聖地」となり、昭和61年、「茨木市立キリスト教遺物史料館」が開設され、数々の南蛮美術品や文化財が展示されている。」 〇千提寺口でバスを降り、山道を10分あまり歩くと遺物史料館に到着した。中に入ると、隠れキリシタンの末裔の家族の方から説明を受ける。この隠れ里は、幕末開国期の長崎大浦での信徒発見のような、「文明開化」を迎えてもそのベールを脱がず、よく開けた大阪の近郊で300年もの間、宗教弾圧を潜り抜けて生き残っていたことに驚愕させられる。山中の家々の「開かずの箱」から次々と豪華なキリシ夕ン遺物やキリシ夕ン墓碑の発見が相次いだのである。 高山右近と妻・ジュス夕の出生地はこの村の西方5キロにある。年代的にも、十字架を刻んだ墓碑には慶長8年(l603年)の年号が刻まれていて、右近在城時期と符合する。江戸時代の高槻藩主(永井家)は「宗旨替え」を強行しすべての領民は仏教に改宗し、仏式葬儀を命令している。表向きには、一人のキリシタンもいなくなったが、キリンタン弾圧による処刑が1658年、l830年に行われた記録がある。 〇昼食後は、今年4月完成した今城塚古墳公園と古代歴史館を訪問し、その後、新池ハニワ工場公園を訪問した。公園内で継体天皇祭祀に使われた200点以上の形象埴輪、三島地区の古代歴史を展示する古代歴史館を研修した。今城塚古墳が、10年間の発掘調査と7年間に及ぶ整備工事が終了し、広さ9haの緑豊かな古墳公園として、今年4月に開園した。森田氏の説明では、「高槻市には宮内庁指定の継体天皇陵=太田茶白山古墳(墳丘長226m)があるが、ところが新池埴輪製作遺跡が発掘、この遺跡には埴輪を実際に製作した時期が、450年頃〜、480年頃〜、530年頃〜との三つの時期がある事が判明、450年頃〜製作埴輪と太田茶臼山古墳から出土の埴輪とが一致。継体天皇は507年即位の天皇なので、その墓が50年前に作られたとは考えられない。しかも530年頃〜に作られた埴輪と、今城塚古墳(墳丘長119m)出土の埴輪が一致。そこで(宮内庁は認めないが)、今城塚古墳が継体天皇の真陵であると一般には認められることとなった。 製作年代を明らかにした史跡新池埴輪製作遺跡を訪ねた。新池埴輪製作遺跡は、5 - 6世紀の遺跡で、埴輪窯18基と工房、工人集落からなる全国最大級の埴輪工場跡である。 昭和63年(1988年)から調査がはじまり、平成6年(1994年)ハニワ工場公園として整備され、平成7年より開館した。 先ほど見学した今城塚古墳の埴輪は当工場で造られた。公園内は、複数の登り窯跡が復元されていたのとハニワ工房が復元されていたのは興味深かった。 〇今回は、高槻市の持つ歴史を大いに研修できたと確信した。〈レポート 守屋道治〉 平成23年11月研修会 「飛鳥の秘境・吉野官滝と大宇陀を訪ねる」 平成23年11月27日、暮秋の候、奈良県は飛鳥から南ヘ山ひとつ越えた所にある「吉野・宮滝」、さらに飛鳥から東方の山を越えた所「宇陀jを訪ねる今年最後のアウトドアの研修会が行われました。 題して「飛鳥の秘境・吉野官滝と大宇陀を訪ねる」担当は中村清、衣川真澄、武藤明則の三氏。定刻どおり8時にJR金山駅前を出発。参加者42名を載せたバスは快適に東名阪を一路、最初の目的地宇陀ヘと向かう。 往路の車中では、最初にベテランの中村清氏が今回の研修地・飛鳥秘境の旅全般に於ける概要を説明。要約すると飛鳥の秘境とはここを不老不死の神仙境と感じ、かって古代の天皇が行宮を造営し何度も行幸哉|1た吉野・官滝の神秘的な風景の模様を情感豊かに語られ、また、天武天皇が大海人皇子当時に隠れ住み、壬申の乱の旗揚げもこの地からの旅立ちであり、乱に勝利した天皇家にとっての聖地であったとも。もうひとつの秘境・宇陀はその昔邱可騎野」あり、薬草採集などが行われたところ。 692(朱鳥6)11月17日、柿本人麻呂が軽皇子(後の文武天皇)と共にこの阿騎野に狩をしたおり詠う歌碑がΓかぎろひの丘」に建つ。万葉人の憩いの場所でと呼ばれ、貴族専用の狩猟地であったと。ちなみに「かぎろひ」とは説明によると朝焼けに似た気象状況といい、まず滅多に観られないそうだ。また、この時代の農耕社会に於いて最も大切な水を分けてくれる神社として宇陀には「宇陀水分神社」が大切に祀られている。水ヘの信仰が最も盛んな地域であり静かな心で参拝をし、晩秋のひとときを古代から続く歴史の幻想を広げ楽しく学ぶ一日にしたいと・・・。 、 このような中村氏のお話に心わくわく!! もう気持ちは現地の空の下ヘと・・・。尚、探訪先のより詳しい説明として再ぴ中村氏の「宇陀の街道めぐり」衣川氏の「吉野・宮滝」武藤氏の「宇陀水分神社」と三者三様の語り口調によるお話に聴き入り、より深い予備知臓を得る。 〇さて、いよいよバスは厚い山稜が重なる宇陀の里に到着。牧歌的な佇まいを見せる山と山との問に細長く伸びる街道(かっての伊勢と大阪を結ぶ交通の要衛地)の入り口に立つ時、第一印象は千本格子や虫櫨窓の民家が連なる風情に、ふっと映画などで観る大正、昭和の街並みが冷凍保存されている様な感を受けかえって心があたたまる。 我々はこの街道沿いに建つ伝統的な町家・旧内藤家「千軒舎」を見学。近隣に「森野旧薬園」がある。ここはその昔、関西一円から集められた薬草を私設の薬園で栽培して国内産の漢方薬を広めた名残の薬草園。(大正15年、国指定文化財)現在でも園の裏山では四季折々の薬草が可憐な花をつけるそうだ。 〇千軒舎をあとに次の探訪地「かぎろひの丘」へと歩を進める。かぎろひは前述のようにいつも観られる訳ではないが、どの様なものか配付された資料には夜明け前の空が時間の経過とともに黄、だいだい、紫へと色彩の変化をみせる幻想的な朝焼けの模様が載る。この風景を肉眼で観ようものなら、それこそ驚嘆の一言に尽きるだろう。この小高い丘からは奈良、三重の県境の鋭峰・高見山(l,248m)が望めますが、古代の人々が、現在の私達と同じ位置に立ち動かざる山、その美しい眺望を愛でたであろうと思うと心が躍る。それが嬉しい。丘の上の落ち葉を踏みしめながらの散策、耳を澄ませば往時の人々の楽しい会話が聴こえてくる・・・。そうだ、軽皇子も人麻呂も、この地に来訪したのも今日と同じ晩秋の一日であったのだ。人麻呂の詠う丘上の歌碑は軽皇子の父・草壁皇子の追慕の念を詠んだ歌とされている。 〇お昼はこの地方の名物「柿の葉ずし」に舌鼓を打った後、午後からの最初の探訪地・吉野川上流に沿う「吉野宮滝」へ。この地の歴史は縄文時代にまで遡る。我々は吉野歴史資料館にて石器、土器、石の皿などを見学し宮滝で暮らした古代人に思いを馳せる。さてさて、ここ宮滝は道教を信奉する斉明天皇が吉野宮を造営した事で知られている。その遺構が多数出土している。 前述のように飛鳥時代より何故、この地を人々は神仙境と感じていたのか。非常に興味ある事柄であるが巨大な岩床の間を清流が縫うように流れ、対岸には十二単衣のように幾重にも重なる山並みを見下ろす様に美しい青ケ峰(858m)が一段と高く聳えているさまに一幅の絵の中にいるような感覚に・・・。なるほど、道教に由来する神仙境とはこのことかと納得する。 ここは天武天皇の壬申の乱への出立の地とは前述のとおりですが、次の持続天皇も度々、この吉野宮に行幸している。 〇我々は再ぴ宇陀に戻り、万物の生命には欠かすことの出来ない「水」の神様「宇太水分神社」ヘと。先の森野旧薬園からほど近いところ。大和の水分四社のひとつで東を司る水の神と言う。古くから信仰が篤く、かっては源頼朝も石基壇を奉納し頼朝杉を手植えしたと伝承されている。現在の杉は二代目とされているが立派な幹と枝葉だ。コンコンとノックをしてみたが・・・(笑い)。今回の研修担当者の交渉カの賜物か、我々は広い境内の奥、鬱蒼と茂る森を背に三殿並ぶ国宝の春日造りの社殿の垣内に入る事を許可された。さまざまな彫刻が施された美しい社殿で、蟇股、龍、竹に雀や虎、雲に瑞鳥、水鳥、南天に鷹などまた、ボタンに獅子など近世的なモチーフも混在しており目を見張る。禰宜さんの詳しいご説明を拝聴した後、社務所前にてお神酒を頂くが、清浄な空気の中とシチュエーションのなせる業かこの一献の美味しいこと!! 併せて、お土産に絵ハガキまで頂戴した。 〇今回も歴史の舞台であった土地や建造物を訪ね、往時の人達の記憶をたどり、楽しく学ぶ一日でした。 担当の中村、衣川、武藤の三氏に再ぴ感謝、感謝° 〈レポート 高橋浩子〉 ' |
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