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 しんあいち歴史研究会ホームページ

    ようこそ しんあいち歴史研究会へ"

 

                           最終更新日2018/10/8

次回研修会のご案内 

         

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今月のイベント

 

 

 

 

           

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

平成26年度

行事予定

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 10月は、研修会で、郡上へ参りです。今月は、大盛況で参加者が定員になりましたので、会員とビジター双方の方の参加は、申し訳ありませんが締め切りました。ご了承ください。

内容は、案内を参照方。

 

 

 

 

平成30年度計画案(平成30年6月の総会承認されました。ありがとうございます)

 

変更のご連絡

 

H31年2月学習会は、総会で発表した日時、発表者が会場の都合で変更になりました。

開始時間は、同じですが、第2日曜日の2月10日です。お間違えの無いよう願います。

 

研修会

 

 

 

 

 月日 研修先 タイトル 内容 担当
4月22日(日) 滋賀県 高島市  

「近江高島の歴史と文化

 ―司馬遼太郎・白洲正子の愛した「近江」を旅する

 司馬遼太郎『湖西のみち』や白洲正子『近江山河抄』にも登場する滋賀県高島市を訪ね、「近江の渡来人」「継体大王」「中世の大溝城」など、近江の歴史と文化について学びます。 武藤明則 山田三代子
5月27日(日) 滋賀県 東近江市 草津市   近江国の聖徳太子〔厩戸王〕ゆかりの3ヶ寺と瓢箪山古墳及び石室復元模型を訪ねる。

 訪問予定地:石馬寺<東近江市五個荘>、    石塔寺いしどうじ<東近江市蒲生町>、  

滋賀県内最大・最古級の瓢箪山(ひょうたんやま)古墳石室模型≪安土城考古博物館内≫                                      芦浦あしうら観音寺<草津市芦浦町>です。

加藤博幸 平井恵美子 
6月24日(日)   総会含む 愛知県  田原方面 豊かな自然と歴史が息づく渥美半島・田原市を訪ねて  豊かな自然と歴史が息づく渥美半島・田原市を訪ねて・・・                                 激動の幕末を生きた田原藩家老・渡辺崋山の光と影を追い、画家、蘭学者でもあった先覚者崋山の心に迫りたいと思います。 高橋浩子 荒川哲夫 早川綾乃

9月21(金)

〜22日(土)

能登半島 金沢 能登半島と金沢を巡り、この地域の古代から中世の歴史を辿る  気多大社の由緒は大己貴命が出雲より船に乗り来臨して化鳥と大蛇を退治して、この地を開いたと述べています。この地域は古くから開かれたことがわかります。また、羽咋神社には垂仁天皇皇子磐衝別の陵墓があります。能登半島の先の方には源平合戦で敗れた平時忠が逃れ、その子孫がこの地に土着します。現在に残る時国家の館はその住居です。戦国時代には七尾城や金沢城を巡り激しい戦いがあり、そして金沢城は前田百万石の居城となります。古代から中世にかけてこの地域では何が起こり、日本の歴史にどの様に影響を与えたのでしょうか。これらの地を探訪して考察します。 衣川真澄 早川綾乃 荒川哲夫 山本京子
10月28日(日) 美濃路方面 郡上一揆と白山信仰を訪ねる美濃路  江戸時代宝暦年間(1754〜1758年)に美濃国(現岐阜県郡上市)で大規模な百姓一揆が発生した。そしてこの一揆により、一揆勢は獄門4名、死罪10名はじめ多くの罪人を出し、郡上藩主は改易され、幕閣の中にも多くの者が罪を負った。この足跡をたどり、合わせてこの地方でさかんな白山信仰を美濃路の白山神社に見てゆく研修会を実施します。 杉本雄三 荒川哲夫 大竹三好
11月25日(日) 中山道・塩尻宿・平出遺跡他   塩尻周辺の歴史と縄文人の心に思いをよせて  今回は少し足をのばして、塩尻宿・本洗馬歴史の里・平出遺跡他、塩尻周辺を探訪したいと思っています。                       中山道の要所である塩尻宿・愛知県出身の紀行家の管江真澄住居跡・また平出遺跡では古代の人々の自然と共生した生活、祈りの心などを体感して頂けたらと思います。 平井恵美子 近藤忠保 宮地訓司
H31年3月24日(日) 奈良県 元興寺、大安寺。南都七大寺 在りし日を訪ねて  南都七大寺は平城京が「青丹よし奈良の都」とうたわれた頃の南都六宗の中心的な存在でした。その中でも特に元興寺・大安寺を訪ねます。在りし日の南都の町、奈良の旧市街地は京都・金沢と並び、太平洋戦争の戦災をまぬがれ、古き良き日本人の生活風景を残す、全国でも希少な町です。

早川綾乃 砂田公司

守屋道治

 

 

 学習会

 

 

 

 

 

実施日   タイトル    内  容 担当
7月22日(日) 会場:金山市民会館 第一会議室  平城京の闇と光(平城京遷都と元明天皇の苦闘)  夭折した息子の文武天皇の夢を継いだ元明天皇が決断した平城京の遷都は、極めて困難な事業であった。息子文武天皇の死を悲しんでいる時間はなく、ひたすら仕事に打ち込んでいる。仕事にのめり込むことによって悲しみを忘れようとする母の姿が見える。続日本紀を丹念に読むと公民(おうみたから)を思いやる政治姿勢を貫いていることが見えてくる。彼女の進めた事業を明らかにしていきたい。 服部文弘
8月26(日) 会場:金山市民会館 第一会議室   郡上一揆と郡上踊り  美濃郡上八幡藩主金森頼錦の改易をもたらした、宝暦4年(1754年)から足かけ5年にわたって郡上藩内で「郡上一揆(郡上宝暦騒動)」が起こった。その結果、処分が幕閣にまで及び、一揆を起こした農民4人が獄門、10人が死罪となりました。                             今回、一揆の経過をたどりながら、その原因に迫ります。そして「郡上踊り」が有名になる中、この「郡上一揆」もその影をおとしていると言われています。 杉本雄三
12月9日(日) 会場:金山市民会館 第一会議室   坂本龍馬を取り巻く女性達  150年前の11月15日、稀代の英雄坂本龍馬が33歳の短い生涯を閉じた。土佐での少年時代、江戸に剣術修行に出てから尊王攘夷運動にのめりこんでいく時代、慶応年間の討幕運動の時代ごとに、龍馬の周りにはそれを支える多くの女性がいた。視点を変えて龍馬を語ってみたいと思います。 出来田耕三
1月27日(日) 会場:金山市民会館 第一会議室  漢字逍遥  世界中から難しいだの複雑だのといわれている漢字仮名交じりの文の日本語。中国で発明された漢字の成り立ちや日本における音・訓の話、そのほかいろいろ寄り道をしながら皆様を漢字ワールドにお誘いできればと思っています。肩ひじ張らず気楽な気持ちでお聞き下さればいい漢字・・・ 宮地訓司
2月10日(日) 会場:金山市民会館 第一会議室  仏教鑑賞の基礎知識  仏教とは狭義には礼拝の対象となり仏陀(釈迦)の像という意味になりますが、今日では広く仏教の尊像のすべてを仏教と総称して呼んでいます。今回、@仏像にはさまざまな種類があることA仏教にも人間社会と同様にランキングがあり、グループごとに分かれていること。B仏像の素材と制作技法の種別、姿形など、仏像について少しでも基本となる知識をえていただくことを目的として学習します。 加藤博幸 

 

 

 

 

 
 

 

 しんあいち歴史研究会運営方針

歴史を学ぶ事を通じて、会員相互のが、親睦研鑽することをめざす                           

   1.歴史を学ぶことに喜びを持つ集団を会員の創意によって育てて行きたい                    

    研修会7回/年、学習会4回/年、会誌発行3回/年とし、                    

    多くの会員の意見発表の場にしたい。

   2.研修会や学習会の企画内容については、会員の意見を尊重する。

   3.同好の志の「勉強会」を開催し、会員相互の親睦と充実を計りたい。

 

 しんあいち歴史研究会役員(H30.6.24の総会で選出された方々です)

 名誉会長  前川 浩一      研修会担当 リーダー   荒川 哲夫(兼)

 相  役  近藤 忠保         学習会担当 リーダー      砂田   光司

 会  長     衣川   真澄

 副 会 長  高橋 浩子      会誌担当  リーダー      廣瀬   俊文

 同  上     荒川 哲夫     

 同  上     守屋 道治       事務局   局長                     山本 京子

 顧  問     中村 清

                           

 

 お問い合わせ等は、下記のアドレスにお願い致します。

 

    当研究会 事務局 下記メールアドレスまで(本日より下記に変更しました)

         kyoko.y.summer@gmail.com

       

入会方法

  • 当会の会員になる手続きは、会費を左記のしんあいち歴史研究会事務局宛にご納入いただくだけで、だれでも、いつでも、会員の資格を取得できます。  なんの制限もありません。入会金も無料です。
  • 会費は、一年分5000円です。まとめてご納入いただければ幸いです。(10月以降の入会の方は、2,500円
  • 当会の会員になると、4ヶ月毎に当会の会誌『歴研会誌』(年3回)を配布されます。
    【申込先】 しんあいち歴史研究会 事務局 
  •             〒446-0044   愛知県安城市百石町2-19-7 山本 京子 気付
              FAX 
    0566-72-2803 (ファックス専用) 
  •     メールアドレス: kyoko.y.summer@gmail.com       

入会ご希望の方はFAXに、氏名・郵便番号・住所・電話番号を明記して、事務局までお申し込みください。
折り返し会費振込用紙をお送りいたします。

 

 

 

平成30年10月研修会

平成30年11月研修会

平成30年12月学習会

会誌

 

 

会誌74号の原稿募集は、締め切りました。11月25日発行です。ご期待ください。

  


       

 

過去の記録

平成21年9月〜

H21年9月研修会 「加藤唐九郎の志野を訪ねて」

*9月27日(日)、新涼の候とは言え、この2〜3日は夏が忘れ物を取りに戻って来た様な「やや暑」の日が続く中、県下 名古屋市守山区、お隣の岐阜県は 可児市多治見市を訪れ、焼き物(陶器)の歴史を学ぶ研修会が行われました。題して「加藤唐九郎の志野を訪ねて」企画・担当は孤軍奮闘、大島寛氏。参加氏32名。さて、何を隠しましょう、もともと大島氏は 瀬戸市に窯(白萩焼)を持つ、れっきとしたプロの陶芸家。氏の言葉は優しい。「思いを形に、形を焼き物に、表情を形に、仏を焼き物に」と。愛らしいお地蔵さんや小動物を作陶される。「特に笑顔を焼かせたら氏の右に出るものはない」と諸先輩の陶芸家から、お墨付きをもらう程と聞いている。さてもさても今回の研修は大島氏ならではの企画と言えましよう。この日のネライは 愛知県瀬戸市に生まれ、陶芸界の中心的存在であった加藤唐九郎(1898〜1985)記念館、 可児市に於いては、とことん薪での焼成にこだわり「志野」「黄瀬戸」を作陶される安藤日出武氏の陶房・半地上式のあな窯、 多治見市では、林英仁氏の桃山窯を見学し、貴重なお話を拝聴しながら茶の湯と茶碗の世界にどっぷりと浸ろうとするもの。そもそも我国に於けるルネッサンスと言うべき安土、桃山期の茶道の興隆により、飛躍的な発展をとげた、古美濃焼き。その中でも「志野」「織部」「黄瀬戸」が名陶であることは言うまでもありません。何はともあれ先ずは加藤唐九郎記念館に研修の第一歩をしるす。記念館では唐九郎のご三男・加藤重高氏(82歳)にご案内をいただきました。戦国武将、茶陶芸術家でもある古田織部の生涯と織部焼きのビデオ鑑賞。館内の陳列ケースには桃山期の発掘陶片がびっしり並ぶ。特に織部の文様がペルシャ風、どことなく愛らしい……。唐九郎は美の頂点を極めた桃山期の作陶の技法を探求し、ついに昭和五年本格的な復元に成功した。その志野茶碗(銘・氷柱)に注目する。筆者のような素人目にも器形に迫力ある動きが伝わってくる。茶碗、鉦鉢、花入れ、水差し、絵柄壷等を鑑賞し、風雅なひとときを味わう。 可児市の前出、安藤日出武氏の陶房では……。我々の一団の到着を待ちかねておられたご様子で、やさしい美濃弁で出迎えて頂きました。古式ゆかしいあな窯の前に案内され過酷な薪(木曽福島産の赤松)のみで焼成に挑むお話をユーモアを交えながら話され、我々もつい笑いに誘い込まれる。一回の焼成に6昼夜を費やすと言われ、不眠不休の大変な作業である。冗談にネコナシ(寝こ無し)窯と言いましての」。終始にこやかなお顔と美濃弁でのお話は失敗談もあり、しかし何と言っても桃山期と同様な作陶にかける、すざましい氏の情熱に心が引き締まる思い……。豪快にして繊細な作品が並ぶ客室にてお抹茶のご接待を受けました。茶の緑は心をゆったりとさせてくれる。リラックスタイム。多治見では、茶道を楽しみ、工夫した茶道具を紹介する桃山茶寮へ。(桃山窯の前出、林英仁氏宅)手入れの行き届いた、ゆかしいお庭の奥座敷に案内され、やはりお抹茶を頂きながら、氏の茶への思い入れの確かさが伝わるお話を拝聴。昭和16年生まれのタンディな紳士。氏の作品が床の間にズラリ。筆者はついつい織部に目が吸い寄せられる。今回は「焼き物」と言う知的刺激に充ちた研修であり、先の安藤・林両氏とも同様に言われる事は「茶碗は観て飾るものでなく、生活の中に取り入れ使ってこそのものです。生かして下さい」と力説された言葉がとても、とても印象に残っています。〈レポート 高橋浩子〉

H21年1O月研修会 「高遠城の攻防戦」

1025()、 10月研修会は、伊那路方面の歴史塚訪である。8時、金山ダイエ-前を出発。名古屋高速から中央道に入り、最初に訪れたのは、飯田市山本宿の伊豆木にある「小笠原書院」である。この小笠原書院は、江戸幕府ご用材の裏木で建てたといわれる。小笠原氏は、信濃の名門で初代小笠原長清は、鎌倉幕府の頼朝に仕え弓馬の術を持って知られていた人物である。七代の小笠原貞宗は、室町幕府の足利尊氏に仕え弓馬の術に礼法を加えた人物。小笠原家では、代々の当主により「小笠原礼法」が考案され、江戸時代になると武家の礼法は「小笠原流礼法」が主流となりました。この書院は旗本一千石小笠原家の旗本の陣屋跡である。中は簡素な造りで、質実剛健の武家屋敷そのものであった。ここの見学が終わると、次の訪問は、高森町歴史民族資料館である。ここの目玉は、何と言っても日本最古の貨幣{冨本銭」である。この冨本銭は、高森町下市田の武陵地1号古墳から出土した。横穴式石室を持つ円墳である。午後は、高遠城跡・高遠歴史博物館の見学である。高遠城は、天文16年武田信玄により伊那谷侵略の前線拠点として大規模な築城工事を行われた。天正9年、高遠城主の武田信廉は、大島城に移り、代わって信玄の五男である仁科五郎盛信が跡を継ぐ。天正10年、天下布武を目指す織田信長による武田征伐が始り仁科五郎率いる武田軍は、織田城之介信忠軍の猛攻撃を受け全員壮絶な戦死を遂げた。慶長5年関ヶ原合戦後、徳川幕府の時代となり、高遠城には保科正光が人封する。元和3年、二代将軍秀忠の隠し子である幸松は、大老土井利勝の命で保科正光の養子となり、母・志津とともに高遠城に入る。元服して保科正之となり、寛永l3年、会津藩に移るまで19年間正之は、ここで過ごす。保科正之は、兄である三代将軍家光亡き後、家光の遺命より四将軍家綱の後見職となり、幕閣の中心に立ち、文治政治を推し進める。だから、高遠では、博物館の前に銅像を建てて今でも名君保科正之を顕彰しているのであろう。本日の歴史探訪は、保科正之に尽きると思いました. (文責 編集部 諸岡)

11月研修会「戦国の世を平和な世にした徳川家康」

〇平成211122日晩秋の候、静岡県は、「駿府城跡」「浜松城跡」「曳馬城跡」を訪ねる研修会が行われました。題して「戦国の世を平和な世にした徳川家康」企画・担当は研修部、大竹三好、後藤正の両氏。参加者30名。今研修会のコンセプトは、上記の名城の探訪のみにとどまらず家康の時代を見据えた先見性、忍耐力、人材の登用、財政力の確保などを参加者の皆さんと一緒に考察したいと・・・。

〇家康と言えば今更、経歴、事歴など述ペる必要もないと思うところですが、しかし、配布された資料は、尾張での人質時代、駿府での人質時代、桶狭間の戦い以後、人質から開放された岡崎時代を経て遠江を支配した浜松時代。さらに浜松から駿府へ…。その後、関東ヘ入府の江戸時代までを、それぞれの時代を彼の年齢を明記しながらダイジェス卜様式にまとめられており、また、あの有名な姉川の戦い、三方ケ原の戦い、長篠の戦い、本能寺の変の遭遇、小牧・長久手の戦い等も家庚のどの時代(何歳の時か)に起きた戦いであったか戦いの内容を述ぺながら明瞭こ記載されている。研修後日、何かの折に家康について事績等、調べたい事でもあれぱこの資料を手に取れば直ちに、つまびらかに・・・と思えるまとめ方。

〇まずは研修地の第1歩駿府城へ。こちらでは駿府ウエイプ・ポランディアガイドの久保寺進、築地廣の二氏による精力的なご案内を頂きました。駿府城の構造は三重の堀に囲まれている典型的な輪廓式縄張りの平城。我々は外堀三の丸の草深御門から入城し二の丸ヘと。「とにかく広い!!」家康は秀忠にニ代将軍の座を譲った後、大御所として駿府に入りそれまでの城を一回り大きく築城。ガイドさんは言う。Γ家康が人質時代の今川の城の痕跡は皆無です。跡形もありません」偲ぶよしがもないとは、これは非常に残念であっても仕方がないこと。家康が公式に駿府に入るのは天正14年(1586)、以後工事を進め、天守閣、二の丸までの完成をみるが城の完成と同時に天正18年(1590)に関東に移封されるので、わずか3年の駿府時代。しかし関ヶ原の戦いに勝利し、天下を取ることによって駿府に復帰。度々の出火、焼失をくり反すもその都度再建され、現在我々の見る家康大御所時代の威風堂々とした城となる。本丸御殿、本丸掘、クランク状の二の丸水路、巽櫓、米蔵跡、石垣刻印、家康手植の蜜柑等々見学。

〇お昼にはサクラ海老の天婦羅に舌鼓を打った後、一路西下し若き時代の家康に思い を馳せる浜松城ヘ・・・。典型的な平山城・浜松城は別名出世城とも言われてる。家康自身が数々の戦いを経て生き延ぴ、天下取りの夢を掴んだ事に始まり、以後の城主は老中、大阪城代、京都所司代等何人も幕府の要職に登用されている。Γ浜松は出世城なり初松魚」 (松島十|)の句碑もある。さてこの浜松城は前の駿府城とは比ぺものにならない程こじんまりとした城であっても暮秋の中の野面績の上に建つ城には風情がある。天下取りに成功し駿府城の主となった家康晩年の狸爺さんよりも、戦いに明け暮れ、その時を待つ忍従の時代の家康の方が好き、まさに前出の越前朝倉攻め、姉川の戦い、三方ヶ原、長篠の合戦等はこの浜松から出陣だった事を思うと緊張感が漂い妙に心も躍る。

○浜松城より東北に位置する中世の城・曳馬城跡(浜松城の前身)も見学。何も無いところが、また、想像力を駆り立てる。当会にはこの様な何もない城跡にロマンを求める会員も多い。

 今回も担当の大竹、後藤両氏の思い入れのある良い企画にて多いに歴史」を堪能、感謝!!

12月懇親会 観光船にて名古屋港を巡る」

〇平成2l年12月13日(日)毎年恒例の懇親会として観光船にて地元名古屋港(貨物取扱量は日本一)を巡る企画。担当、当会事務局長・近藤忠保氏、参加者は師走という事もありやや少なく20名。この日は曇り空。名古屋港ポートピルこ集合し12時ジャストの出航。湾岸道路の橋の上から港を見下ろす事は度々あるが、今回は海上から橋上を見上げる・・・。船窓より岸壁に建つ巨大な夕ンク、延々と続く各社の倉庫ピルの数々、まさにミナト・ナゴヤの岸壁の風景を見る。この様な視界はまた、普段の静かな生活空間と違い何か大いなる息づかいを見る思い・・・。巨大船群も真近に。船内では船料理に日本酒、ビール、ワイン等アルコール飲放題という気の利かせ方。料理も結構いけましたし、いつもの研修会や学習会とはひと味ちがう雰囲気。もちろん歴史好きの人間の集まりには変わりありませんのでどうしても最後は「史」の話題に花が咲く訳です。都合2時間の舶巡りでしたが、これもまた、非日常的な楽しいひとときでした。

 

平成22年1月24日(日)学習会「瀬戸の歴史と文化を訪ねて」

今年初の行事として名古屋市中区金山、中京大学文化市民会館・会議室に於いて学習会が開催されました。題して「瀬戸の歴史と文化を訪ねて」。当会では、まずは愛知県下、足元の歴史をもっと知ろうとの思いにより、過去、幾多の市や町の歴史と文化を学んできました。今回もその一つ、焼き物、瀬戸もので有名。数年前の愛知万博の会場でもあった「瀬戸市」のさまざまな文化、歴史はもちろんのこと習俗、自然、産業遺産、民話の数々等盛り沢山のメニュ―でもって当地在住の会員によるお話と紹介がありました。企画及び司会進行は荒川哲夫学習部長。担当は秋田正一、秋田卯子、加藤均、物部友記、益田順子の各氏。聴講者37名。▽一番バッターとして加藤均氏登場、映像による現代の瀬戸市を紹介……。21世紀に於ける瀬戸焼ミュージアム、重文・陶製狛犬で知られる深川神社、陶土の採掘場、窯垣の道、瀬戸物祭り等、活気溢れる同市の町の様子を見聞する。おまけは「日本一(?)美味なうなぎ屋は○○屋です」と。「じゃあ、一度試食に行こうかな」とは筆者の心の声。▽次に登場するは物部友記氏。尾張藩初代であり家康公第九子義直(源敬公)の眠る応夢山・定光寺(妙心寺派)の縁起、沿革を話され、更に源敬公と定光寺の密接な関係を説明。それによれば、義直はある日、狩猟の途中、この定光寺に立ち寄り、寺とその周りの景観を大変気に入っていた。慶安四年(1651)江戸で公が死去する際「吾が骸を応夢山に葬るように」と遺言したと言う。山上には墳墓、霊廟が造営されている。資料には緑濃い森を背景に、凛として建つ源敬公霊廟の写真、廟の配置図が載る。図には9人の殉死者が埋葬されている墓の位置も明記されている。物部氏は「これ程多くの殉死者を出した事は公の人格が優れていた事が伺える」とし、殉死者のエピソードも語る。▽同市、小田妻町に所在する「水野代官所跡」のお話は益田順子氏。現在は市街地から離れているが当時は、行政・司法の中心的な役割を果たす重要な地であった事。尾張徳川家の城内に大代官所が置かれており、この水野代官所はその出先機関であり、設置は天明元年(1781)であり文化と地方行政の中心的拠点として今日に於ける市役所、税務署、警察署、検察庁、裁判所の業務を一手に担う強い権力を持っていた事等を話される。水野代官の初代・代官はすでに尾張藩の御林方奉行職にあった水野正恭の兼任とある。益田氏は「水野村の水野氏はこの頃、強大な支配力をもって権勢を誇示しており、当地に代官を設置した折に、尾張・徳川家としても無視できず代官に起用した事が伺えます」と。代官所は前述の行政機関だけでなく教育施設「興譲館」も併設。遠来の子弟の合宿所あり、商人達の出入りも多かったとあるところから、かなりの賑わいとその息づかいが感じられる。▽秋田正一氏は世に有名なあの「小牧・長久手の戦い」の際、秀吉方・池田恒興の家来、梶田甚五郎と同じく池田方の侍13人の悲話を紹介される。彼等は共に主人の代参や落ち武者として、この瀬戸地方を通過、また物乞いをする際に村人に殺され金品や武具を奪われるが、その後、村では数々の忌まわしい事柄が続き「これはあの時の祟り」とする村民の心理から彼等を手厚く供養する。それらが現在梶田をイメージする等身大の人形を馬に乗せて練り歩く「おでく」という祭りになり、13人を供養する十三塚の所在も紹介されました。▽秋田卯子氏は「瀬戸にもあった地下軍需工場」と題して卯子氏ご自身がこの工場の所在を捜し歩かれたお話に続き、瀬戸地方に関連する6名の「学徒動員」の手記を紹介される。筆者は戦争体験は無いがこの生々しい証言と記録を涙無しでは読めない。つくづく今の平和な社会に生きている事に感謝!! ▽殿は荒川氏による「瀬戸山口の民話」の紹介。昔テレビでお馴みの日本むかし話に出てくる様な、ほっとする様なお話の数々……。他に瀬戸に於ける「磁器」の創始者であり、瀬戸の恩人と呼ばれる加藤民吉の成功の話等々……。▽何事も一歩、二歩と踏み込んでみなければ物事は理解出来ない。今回も瀬戸市の遠い過去から現在までの歩みを学び、この町の奥の深さを感じました。映えある瀬戸、語るべく今と夢ある未来に乾杯!!  〈レポート 高橋浩子〉

 

2月学習会「尾張名古屋の八事周辺の歴史を考える」                    '

O春寒の候、春はまだまだ浅い、平成22年2月28日(日)名古屋市中区金山、中京大学文化市民会館・会議室に於いて学習会が開催されました。テーマ「尾張名古屋の八事周辺の歴史を考える」江戸時代初期、尾張藩が名古屋を中心に発展するが、今回、語る「八事」(名古屋の東部)の周辺がどの様なかかわりを持って街道、流通面等が発展していったのか、それに伴う意義と位置づけを考えようと言うもの。企画・発表者はまさに八事周辺に在住される守屋道治氏。聴講者40名。◎プロジエク夕ーは守屋さんのご自身で操作。映し出される大画面を見ながらお話を聴く。まずは超古代の尾張平野の地形と気候風土の説明がある。地形においては何百万年という気の遠くなるようなスパンで寒冷期に勝手気ままこ流れる古木曽川|の流路に多量の河床礫が堆積し、これが東部丘陵を覆っている今回注目する「八事層」となる。また、洪積台地の上に形成された名古屋台地の説明では東側は古代人の居住区と考えられる遺跡が多く、西部は海岸線が迫る。海沿いをゆく古東海道(鎌倉街道)のお話も面自い。 筆者は名古屋の街をよく車で走る。守屋氏のお話に古代の地形を頭に描き乍ら走行するもこれからはきっと楽しくなる。◎皆様もよくご存じの「清洲越し」によって名古屋が栄えるお話。 清洲越しに至るまでのエピソード。名古屋城普請、築城に必要な運河開削工事(完成後の河川名は堀川)、名古屋の基盤割と町名等の説明。特に町名の大半が清洲町名の移入であるところが特徴。守屋氏は言う「清洲から名古屋への大移動であったが、住み慣れた清洲時代の町名をすべて再現することは異郷で住む寂しさを癒すことになったであろう」と。ホロッとするこのくだり。少々涙・・・。◎塩の道である飯田街道や下街道・・・。信州に送られる塩の生産と流通経路のお話にもカが入る。◎いよいよ今学習会のメインテーマ・八事界隈のお話に。江戸時代中期の地図と現在の地図が資料に組み込まれており八事の位置付け(岩之田→弥五刀→八事となる)を語る。名古屋に城下町が出来て以来、東方の八事丘陵が栄えたのは八事を通る塩の道でもある、飯田街道を抜きにしては語れない。多くの人々の往来はもとより、その街道をゆくには真言宗高野山派別籍本山である「八事興正寺」をはじめとする多くの古寺、古社があり、そのひとつひとつを詳しく紹介される。その中の1つ、江戸末期、尾張名所絵図に描かれる幽玄な風景の「壇渓」にも心惹かれるものがある。 ◎1月の学習会に続き今月も県下の身近な歴史を学ぶ機会を得ましたご担当の守屋氏は、多くの出典を参考にされており、八事を含む名古屋の今と昔の対比も面白<、息づく歴史を学ぶ2時間の学習会でした。 <レポート高橋浩子>

 

3月研修会「京都の歴史探訪・二条城と琵琶湖疏水を訪れる」               

平成22年3月28日(日)、春暖の侯とはいえ、少々肌寒くもあるこの日、京の都ヘと足を伸ばす研修会が行われました。 題して「京都の歴史探訪・二条城と琵琶湖疏水を訪れる」。企画担当は中村清研修副部長、近藤忠保、津田啓子、山田三代子の四氏。参加者数は京都という人気の高さが伺える空前絶後の56名。パスも補助席を使用する盛況ぶり。今回の研修のコンセプトは京都の歴史の転換点を象徴し、かつ今に残されている上記2項目の歴史的物件に注目し探訪しようというもの。

◎担当の中村氏は「琵琶湖疏水」についで熱く語る。Γ旅のはじめに」と前置きし、1200年前桓武天皇がここに都を遷都した理由こ始まり、京都の夏はむし暑く冬は塞い気候と、さらに北高南低の地形は鴨川の水流を速くし、水運には向かず、しかも洪水と干ばつに悩まされ続けた歴史を語る。

 江戸時代になると北前船などで賑わう大阪に対して京は奥地のハンデキャップが目立つ様こなり、こうした中でご存じ、角倉了以が運河・高瀬川の開削こ成功。これによって京都ヘの物流が飛躍的に便利になると、人口が増加する。増加に伴う水資源の不足を改善し安定した供給が課題となる。そこで京都の東に満々と水をたたえた琵琶湖の水を京都に導こうと議論が高まるが、当時の技術では長大なトンネルを掘削する見込みは立たなかったが、時は流れ、明治期に入ると、お雇い外国人技術者の指導で治水や土木工事が行われるようになり、彼等の指導を受けた日本技術者の第一期生、田辺逆郎の作成した「琵琶湖疏水計画」を府知事・北垣国道が採用。この疏水開削の目的は生活用水の確保だけでなく実は明治2年、京都は東京に遷都されて以来、盛観を失いつつあった。そこで京都の挽回復興の対策として運河を通して舶運を図り、合わせて工業用水や防火等に利用して京都発展の基礎にしようとしたもの。この工事は生活、工業、船運に限らず予期せぬ新たな近代化ヘの波及効果をもたらした。「今日の京都市の姿はこの琵琶湖疎水を抜きにしては考えられません」と中村氏は繕ぷ。

◎この近代化への貢献度、ナンバーワンであった琵琶湖疏水のボイントと見学地について近藤氏より説明がある。市内を流れる疏水は、第一、第二疎水と分流がある。我々はこの第一と第二の疏水が合流する地点「蹴上」に直行。散歩道にかかせない様な美しい景観が私違を迎えてくれる。緑色の水をたたえ静寂そのもの、ちょっぴり哀しい。 御所に水を送るためのポンプ室なる建物が前近代的なのがうれしい。周りの風景にインパクトを与え、毅然と建つ。また、蹴上では、水力発電を得るために600mの距離に約33mの落差を設けている。この高低差では船の航行が不可能なので傾斜面に「イクライン」という軌道を敷設、台車の上に船を乗せて運航を可能にしたという。現在は利用きれていないが、往時の姿が復元され、再現されたレールと索道に締結された台車に乗る船の姿を見学。蹴上のすぐ北東、南禅寺の丘陵地を流れる水路を繋ぐ煉瓦造りの水路閣(疏水閣)が架かっており、美しいアーチ形の工作物は古刹の境内には異質な風光に目を見張る。

◎さて一方の「二条城」にいては、研修担当初デビュ-の山田三代子氏の説明がある。二条城は家康の京における宿舎のみでなく、将軍宣下の賀儀が行われた徳川政権の象徴の城でもある。修学旅行や外国からの見学者も多数、来訪しており、ここは二条におけるメツカ。壮麗な二の丸御殿のT門から入城し、回字形の平城を巡る。随所に防御機能を備茸ており、軍事的側面からも怠りない構えである。また、二条城といえば、徳川最後の将軍・慶喜こよって大政奉還を宣言した場所としても有名であり、ここを幕府軍が退去して明治の幕が開く、まさに歴史の転換である。二条城は徳川の日の出と日没の象徴となる還命の城であることが印象を強くする。

◎今回の研修会に於いて特筆することは、昼食を京都大学の時計台記念館(尾張徳川家・京都屋敷跡)で美味しいフランス料理を味わった事です。、この種のお昼は当会では初のこととし、皆の興味を誘いました。尚、京都帝国大学の発足の歴史から今日の京都大学に至るまでの変遷を津田啓子氏が説明されました。

◎最後に再び主担当者である中村氏登場。1,000年の都、王城の地であった京都、実際には政治の中心であった時期は比較的短かかったが、「歴史の変動期には大きな役割りを果した。今回は神社、仏閣の探訪ではなかったが、明治維新をはじめ、さまざまな近代化を推し進め、さらに日本文化を生み青てた中心地としての京都をとらえたかった」と。今回め研修によって京都の歴史的転換期と近代化の数々を学び、参加者の全員は、「この都への見方と視野がかなり広がった」との感想が口々に・・・。              くレポート 高橋楷子)

 

平成22年度

4月研修会 「北河内の古代史を訪ねる」

〇平成22年4月25日(日)、春たけなわの候、京都は「八幡市」、大阪は「枚方市」両市を訪ねる研修会が行われました。題して「北河内の古代史を訪ねる」。八幡市では王城鎮護のために創建された「石清水八幡宮」。枚方市では百済王族の史跡である「百済王神社」「百済寺跡」。継体天皇樟薬宮跡伝承地である「交野天神社」を精力的に探訪しました。

 企画、担当は中本清、大竹三好両研修副部長。参加者38名。往路の車中では、先ず中村氏が持ち前の歯切れのよい口調にて北河内に流れる淀川流域の地形を説明されると共に今回、探訪する、八幡宮、寺院、寺社等の付置関係を明示された。探訪に先立っては、とにかく地理を頭に入れておく事が一番大事!!北河内とは木津川、宇治川、桂川の三川が大山崎(光秀と秀吉両軍の山崎の合戦で有名)で合流し大河となる淀川と三川の一つ木津川とで作る三角地帯を指す。

 さらに北河内は白村江の戦い(663)の相前後して亡命して来た百済王(くだらのこにき)氏一族が本拠地として勢力を張った土地。

〇さて、研修第一歩は、先述の大山崎の対岸に餐える天然の要衝の地、男山へと向かう。この男山の頂上に鎮座する八幡大神を祀るΓ石清水八幡宮」の堂々たる社殿がある。こ劃ま平安京の裏鬼門の位、士翼が読る。我々はケープルにてわずか5分ほどでラクラク頂上へ。ここは平安京の裏鬼門の位置に在り、清和天皇の御代、神仏習合の「宇佐八幡大菩薩宮」(大分県)から勧請(かんじょう)し創建される。社殿に戦いの神・八幡神を祀り、西国から侵入する厄病を防ぐ「厄除けの神」であったが、これがやがて王城鎮護の「石清水八幡大菩薩」として都人の絶大な信仰を集める様になる。主祭神は第15代応神天皇。明治の神仏分離により、八幡社」となる。

 担当の大竹氏のお話では「清和源氏の嫡流・源義家がここ石清水八幡宮で元服した事により、八幡太郎義家と名乗った。以後、八幡神は源氏の守護神となるのです」と。丹漆塗りの堂々たる社殿。その周囲を180mに及ぶ回廊が囲む。壮麗な社殿内部を禰宜・西 中道様にこ案内を頂く。桧皮葺の本殿に信長寄進の「黄金の金樋」が架けられており注目!!.又お聞きするところによると、尾張藩初代藩主・徳川義直(家穰九男)公の生母お亀の方(相応院)は当八幡宮、宮司・志水宗清の子女であると。尾張を拠点とする当研究会に於いては、この浅からぬご縁がまた、うれしい。正式参拝後、善現善女で賑わう広大な壌内を一巡。下山後皆は名物「走井餅」を求める。これも研修会の楽しみの一場面。

O木津川の流れ橋・・・全長300mの橋が洪水で流れてしまうなんて、どんな橋なんでしよう。興味津々。昼食の松花堂弁当を頂いた「四季彩館」の付近にこの気になる橋がある。皆は食後三々五々橋を見学する。増水時に水の抵抗を少なくする為にいろいろ仕掛けのある事を知る。人間の知恵って凄い!!。

〇研修後半は流れ橋をあとに交野天神社(かたのあまつかみやしろ)へ向かう。当社の起源は延暦6年(787)、桓武天皇がここ交野原に天神を祀ったのがはじまりとする。先の中村氏「天神社の境内は蜘蛛の巣が顔に触れる様なところです・・・」(笑い)やはり樹々の葉が生い茂っている。本殿の右奥に「貴船神社」がある。継体天皇が即位した「樟葉の宮」があった場所とされているが明確な根拠はないと。「樟葉の宮蹟」と刻まれた石碑が春の陽光J嘲劃の中にほっそりと佇む。史実と伝説がないまぜになっている地、訪れる人も少なく季節の風だけが吹きぬけてゆく。ここ交野原は、往古、四季折々の風情も豊か。キジ、ツル、サギ等の獲物にも恵まれていた事から桓武天皇や嵯峨天皇も、しばしばこの地を訪れ遊猟などに興しており、一帯は庶民の立ち入りを禁ずる「禁野」とされた。この「禁野」は現在で、地名として残っているそうです。まさこ、地名は歴史を物語る!!ですね。

〇今回、最後の研修地は、国特別史蹟である百済寺跡、百済王神社を探訪。先述の「百済王氏」の氏寺の跡と氏神である。現在は敷地全体が広大な史跡公園になっている。入口に「百済寺蹟」と刻まれた立派な石碑が建つ。そもそも「百済王氏」とは、660年頃百済の義慈王の子、禅広が来日、亡命し、難波に居住。持続天皇の時代に、禅広がはじめてこの「姓」を与えられた事に発する。更に時代は下って聖武天皇の御代、禅広のひ孫にあたる「歌福」が、奥州から東大寺大仏鋳造のために鍍金用とし黄金900両を献上、ご褒美に「河内守」の位を授かり、以後ここ河内を居住区とし勢力を広める。公園内部は美しく整備されている。こちらも先の天神社同様の閑静さ、樹々をわたる涼やかな風が頬をかすめる。発掘調査に基づいて基壇と礎石が復元されており、遠い日の威容が伝わってくる。基壇と礎石のみで後は何もないからこそ想像力を刺激して余計に楽しい。公園西隣在るこじんまりとした百済王神社では、旅の終り、今日一日、担当の中村、大竹両氏のおかげで楽しく学び、楽しく研修させて頂いた感謝の気持ちで参拝、二礼二拍手。こちら交野は北極星、北斗七星、天の川等、星にまつわるお話も多いと聞く。まさこ星のふる里・・・。メルヘンの世界を想像しながら、やがて帰途の人となる。        <レポート 高橋楷子>

 

5月研修会 「3、4世紀の古墳と遺跡の探訪」

平成22年5月23日、風薫る若葉の美しい季節。奈良は桜井市、奈良盆地の東南隅に読る三輪山麓周辺を訪ねる研修会が行われました。テーマは「3、4世紀の古墳と遺跡の探訪」。このあたりは日本古代のヤマト王権のふる里。最近の考古学的発掘調査により、つとに注目を浴ぴている。研修会のネライはその発掘によるホットな情報を提供しながら楽しく探索しようというもの。企画・担当は諸岡茂樹、衣川真澄、高橋浩子の三氏。今回は少々マニヤツクなテーマであった為か参加者は30名とやや少なめ。しかし少数精鋭という言葉もありますので・・・ん。残念な事は、昨夜来の雨が降り続き往路のバスの車窓超しこは風雨と言ってよい程の激しさを見るが、現地は守られているかの如く小雨となり大きな支障なく研修出来たことば、まずまずラッキーとする。

 桜井と言えば何と言つて、纒向遺跡と箸墓古墳は研修の目玉。更に付随してホケノ山古墳、慶雲寺古墳、最後に茶臼山古墳を訪ねる今回は古墳のオンパレード。往路のバス車中では衣川氏より纒向全般とそれぞれの古墳についての説明がある。資料もカラーの図や写真が満載。衣川氏は古代史研究家として本も何冊か出版されており、今回の研修には適任中の適任。更に氏は当会研修担当初デビューでもありました。主担当の諸岡氏は「耶馬台国はどこにあったか?」と間いを投げかける内容のお話であり、氏はやはり「畿内ではないか」として、箸墓はヒミコの墓であるとの考え方を述べられた。筆者である高橋は今回は研修しないが、ヤマトの象徴的な三輪山についてお話をしました。さて、いまいよバスは現地に到着。こちらでは桜井市歴史ガイド・中谷昌義氏にご案内を頂きました。

〇研修の第一歩は纏向の中心、大型建物跡と古墳群を見学。そもそも纏向遺跡とは、3世紀前半の国内最大規模の集落であり、初期ヤマ卜王権の発祥の地として私達の国の生い立ちに関る貴重な遺跡も我々はまず、纏向の中心である建物群の跡地に立つ。ガイドの中谷氏のお話では前年までの発掘調査の後は完全に埋め戻されているが3棟の建物があり、検出された柱穴の大きさや、束柱の穴の大きさから推定して高さが10m前後の堀立柱式建物(宮殿)が在ったと・・・。 ないものを見る。想像をたくましくする、いっとき。この遺跡のすぐ横をJRまほろぱ線の2輌の列車が走り抜けてゆく、探訪中に突風が吹く。これはΓよく訪ねてくれた」とする遺跡の住人達からのメッセージか(笑い)。.主担当の諸岡氏は宮殿の主は「ヒミコでは?」と主張される。筆者高橋は3世紀初頭にヤマト入りしていた物部氏の祖・Γニギハヤヒ命」ではと意見が分かれる。              

 次に纏向遺跡群の中ではあまりにも有名な箸墓古墳と宮殿に隣接する石塚古墳を探索。いずれも前方後円墳。石塚古墳からの出土物は衣川氏作成の資料に写真で載るが弧文円盤、朱塗の鶏形木製品など興味を魅かれる。 一方の箸墓は三輪山とセッとになっており、さまざまな伝説に彩られている。宮内庁管理であるため立ち入り禁止。被葬者はクエスチョン。我々は周濠のほとりからこの美しい古墳を眺め、しばし3世紀の太古におもいをはせる。   箸墓の東200mのところに位置するホケノ山古墳。ホタテ貝式の可愛い古墳。高さ8.5mの後円部に登れば桜井の町が展望。古代人と同じ目線で周囲の風景を見渡す。特筆することは我国初めての「石囲い木槨が出土したこと。      '

〇この桜井はそうめん発祥の地と言われ「三輪そうめん」として名高い。我が会もこちらを訪ねたならばとお昼はそうめんに決まり。副食も豊富で「食事も美味しく・・・」とは旅の楽しさのひとつでもある。          '       ‐

〇さて、研修後半は今回はホットな情報を提供するに相応しい桜井茶白山古墳に向かう。桜井市外山(とび)に所在する大型古墳は前方部が柄鏡形であることが特徴。竪穴式石室は1949年に発掘調査が行なわれたそうだが、この時の遺物の多さに驚く。鹿角をかたどった玉丈や玉葉、武器類、20面分の銅鏡片など。大王の墓であったろうとも。2009年6月、石棺を囲む「玉垣跡」の発見。同10月、赤い石棺全面に使用された水銀朱の総重量200キロと推定。 

 ガイドの中谷氏から発掘公開時には延ベ7,000人の見物人が訪れたと聞き、古代史ファンの裾野の広さを思う。現在は埋め戻されている。古墳の後円部に登る。普段は奈良盆地が一望出来、北の三輪山、初瀬川を望めるそうだが、今日は運悪く小雨のカーテンで遮られました。

〇終日傘の花開く研修会となりましたが、それでも訪ねた古墳の被葬者が判明しないミステリアスなこの地帯をよく歩きよく学ぶ、満足のゆく一日でした。     < レポー卜高橋浩子>

 

6月研修会 「斑鳩の里・三寺を歩く」       

 平成二十二年6月27日(日)、梅雨の侯、奈良県は生駒郡、日本最初の世界遺産に登録された国宝・法隆寺で知られる斑鳩の里へと足をのばす砥修会が行われました。題して「斑鳩の里・三寺を歩く」三寺とは法隆寺、法起寺、法輪寺を指す。

担当は大竹三好・高橋浩子の二氏、参加者44名。この中には、主担当の大竹氏のお誘いによって、名古屋市在住の中国内蒙古自治区出身のモンゴル仏数徒」の学徒3名の方々も含まれていました。

 モンゴルでも中国文化大革命に於いて紅衛兵による多くの伽藍、仏像などの破壊があり、その後の復興もままならないものがあると聞く。日本もかっては時代的に廃仏稀釈なる大きな波がありましたが、それを乗り越えて来た現在の「法隆寺」を紹介して「彼等に夢を与えたい」と大竹氏は熱い思いを語る。しんあいちの面々も彼らを温かく迎えました。

〇往路のバス車中では、大竹氏による法隆寺全般にわたるお話として、当寺の創建、再建をまじめ、戦国末期の危機、江戸時代の窮状、明治初期の廃仏希釈等の幾多の困難をクリヤし、近年の世界遺産登録に至るまでを時代ごとに大別して説明され、私、高橋は同じく法隆寺東院北東部に、こじんまりとした佇まいをみせる格式高い尼寺「中宮寺」の昔と今を語らせて頂きました。

〇梅雨の侯ではあっても、向暑の侯でもあり、斑鳩の里もそこそこに暑い。早朝、出発時に降った雨傘が日傘に早がわり。さぁ、いよいよ世界最古の木造建築として古典的な美を誇る法隆寺を拝観、我々は南大門より-歩足を踏み入れる。雨上りの鈍く光る長い敷石の正面に堅固な中門が建ちエンタンスの柱の廻廊に囲まれた優美な塔、金堂などの伽藍を観る。法隆寺の五重塔は何度観ても胸のトキメキを覚える。今回は5人のボランティアガイドの方々にご説明をお願いしました。法隆寺はご存知の様に西院と東院に別かれており、今回の研修では主に西院を重点的に拝観しました。威風堂々とした金堂に安置される代表的な金銅釈迦三尊像等を拝し、天井には西域色豊かな天蓋、周囲の壁面にはパネルながらも再現壁画が描かれ、創建当初の美しさを偲ぶ。しかし、現法隆寺は建物や造仏の年代を含め数々の謎に満ちた寺であり、ひとロにレポートするにも難しさがある。ガイドさんの言葉が印象的「現在のこの法隆寺は残念ながら聖徳太子が建立されたものではありません。年配の方達はきっと法隆寺と言えぼ太子様と認識されておられるでしようが・・・」と。飛鳥時代から近世に至るまでの数々の宝物を安置する大宝蔵院ではその代表的な仏像「百済観音」を拝し、そのすらりとした優美なお姿に感嘆!!春季より開催中の法隆寺秘宝展覧も見学出来ました。

〇法隆寺・西院拝観後は何と言っても欠かせないのは大和三門跡寺の随一としてその伝統を誇る「中宮寺」への参拝。「尼寺」と聞くだけで何かほっと安堵感を覚えませんか?飛鳥時代の創建(旧地は現在の東方500m程の所に在り、土壇として残る)よりこの方1300年の長さにわたり法燈を守り続けていられる事が嬉しい。加えてご本尊であるアルカイックスマイルで有名なあの弥勒菩薩様に再会できるよろこび・・・。清純な気品をたたえるその像の御前に活けられる大きな白百合の花も、とても印象的。

〇研修最後は残る二寺「法起寺」「法輪寺」の見学。法起寺はもともと太子の嫡男・山背大兄王の母・刀自古郎女の居宅であった岡本宮を寺にしたという。まわりの田園風景の中に突如として建つ国宝・三重塔(三重塔では現在最古)。路を前にして当会研修副部長・中村清氏による説明がある。卍崩しの勾欄干、雲型組物など色濃く残る飛鳥時代の様式に見入りました。

 法輪寺の三重塔もドラマがある。昭和19年落雷焼失後、昭和50年に作家・幸田露伴(著書に5重塔の名作がある)の娘で同じく小説家の幸田文らの尽力によって飛鳥様式に再建、復元したものです。

〇今回の斑鳩の旅路は修学旅行以来という会員もおり、思い出話に花咲くひとこまもあり、多勢の仏様との出会いもしかりですが、筆者がこのたびで一番思う事は、平安、鎌倉、室町、江戸とそれぞれの時代の人々が塔や建物その他を必ず修復、復元にはげまれたお陰で現在の私達がその姿を拝する事が出来る。息づく歴史に対面できる事に感謝せねば・・・と。

                                 < レポー卜高橋浩子>

7月学習会 「日韓古代史……・倭諸国と伽耶諸国」 

 
*平成22年7月25日、厳しい暑さが続く中、名古屋市中区金山、中京大学文化市民会館にて学習会が行われました。演題は「日韓古代史……・倭諸国と伽耶諸国」講演者・森田邦春副会長。聴講者34名。今学習会のコンセプトは、古代に於ける倭諸国と伽那諸国との関係を考古資料をもとに平和的、友好的であった事、また文化、経済の面でも真摯な交流があった事を述べようとするもの。開口一番、森田氏は「今回の課題の伽耶とは……」と切り出し、日本書紀の中でよく知られる任那の事であると……。カラー写真が豊富に載る資料が配布される。学習会では毎回、おなじみとなった守屋道治氏の操作による大型スクリーンに映し出される資料によって勉強。何はともあれまずは朝鮮半島の地形を頭に入れ、気候と風土の説明がある。印象的な事は、湿気が少なく空の青さが違う、また半島は山地が多く杉、槇、桧が自生しない事等。○次に古代の概略を見るとして新石器時代を経て、馬韓、辰韓、弁韓の三韓時代があり、次におなじみの高句麗、百済、新羅の三国時代を学ぶ。高句麗は軍事大国、百済は経済富国、新羅は文化盛国であると。さていよいよ主題である三国時代に付随する伽耶諸国の説明に入る。そもそも、伽耶諸国とは半島南部に於ける6ツの小国の緩い連盟関係の国々のこと。地理的にも海上交通路として有利であるため、森田氏はこの伽耶を「交易のクニグニ」と位置づけられた。その伽耶も6世紀中葉には伽耶連盟の盟主である大伽耶を最後に新羅に征服される。○遡ってこの伽耶の建国神話「卵生降臨神話」がおもしろい。西暦42年、天から降りてきた黄金の函に入る6個の卵から生まれた6人の男子が伽耶諸国のそれぞれの国王となる、その中の一人の男が身の丈9尺、顔が高貴であったため、この土地の王として諱を首露とし、この国の名を「金官伽那」と呼ぶようになったと言う。森田氏のお話は次第に佳境に入り、氏が2009年10月、この金首露王と王妃(インド・アユタ国の王女、韓国名・許黄玉)の陵墓を訪れた時、丁度お参りする金氏のご子孫の方とお会いした思い出話をご披露された。その時の記念写真も配布資料に載っている。○さて、伽耶の建国の説明を後に、今回の主題の一つでもある重要な日韓の交渉史へとお話は進む。文物と人の往来の最も活発な時期は半島の三国時代、日本列島の古墳時代であるとする。両地域の文物と人の移動は相互的であり、一方的ではなかった。一例をあげると、半島に於ける前方後円墳は6世紀前葉に限定されることからも、これらは列島から移住した豪族の墓でマチガイないとする……。これも人々の移住を説明する大きな材料の一例であると。○今回のメイン、伽耶と倭の相互交流のお話では、森田氏のトーンが一段と上がり、力の入った説明となる。しかし長いレポートは禁物。要約すると伽耶は前期は金海を本拠とする金官伽耶、後期は高霊を本拠とする大伽耶が盟主的存在となる。金海や高霊製の文物が列島各地の有力首長墓に副葬されている事実。対して北部九州から入手したとみられる銅矛が金海地方に集中的に出土する事等から伽耶と倭の親密な交流を物語る……。資料にはその証となる鉄斧、鉄蹄、銅器、耳飾、冠、武具等のカラーの写真が載る。○古代、弥生時代以降は常に戦いの歴史ばかりと思い込みがちですが「この時代半島と列島は一衣帯水の関係」(森田氏)であったと知り、何か温かいものが胸をよぎる。今学習会の締め括りに言われる森田氏の言葉が印象的。「物や文化が一人歩きするわけではなく、必ず人がそれらを運ぶ!!」。                            〈レポート 高橋浩子〉

 

平成22年8月学習会「琉球物語(その自然と歴史)」 

*平成22年8月22日、激暑の中、名古屋市中区金山、中京大学文化市民会館にて学習会を開催。
テーマ「琉球物語(その自然と歴史)」。講演者・中村清研修副部長。聴講者74名。前日、夏の甲子園・全国高校野球大会で優勝した沖縄・興南高校のナインが深紅の大優勝旗を掲げて凱旋する日と重なり、その快挙により、遠いオキナワを身近に感じた聴講者74名は篤い想いで聴き入る。膨大、精査された資料(本編28頁+添付資料18頁)により琉球の地勢とその特徴、歴史書への登場、海外交易による繁栄、薩摩侵攻と明治政府の琉球処分、琉球文化の様相等項目別に詳細に亘って説明された。講演の冒頭、民俗学者・柳田国男の「日本民族の故郷は黒潮の先の南方諸島」なる説を聞いた島崎藤村は「椰子の実」を作詞した。そのくだりの説明の後、全員で国民歌謡として愛されている「椰子の実」を合唱、清涼な歌声が会場に流れる。歌声が「遠き島〜琉球物語」の序曲となり、中村氏の絶妙な演出により、トークが冴える。○古代、大陸から分離した沖縄諸島の間は「イノー」と呼ばれる大陸棚であり、沖縄諸島の東側は深く切れ込んだ海溝となっている。大陸から分離した経緯の説明。黒潮の潮流を図示、台湾・与那国島⇒沖縄諸島西側⇒屋久島⇒足摺・室戸沖⇒三宅・八丈島を北上する幅20キロ、時速5キロで流れる大河のような潮流を古代の航海術では横断不可能であり、そのことにより大陸の影響を受けず孤島的存在であった。また、悪石島と宝島との間にある「トカラ構造海峡」と呼ばれる深い海峡が東西に横切る、これにより大陸と陸続きであった九州・屋久島の「本土系」と奄美大島や沖縄の「琉球系」とは一線を画くし陸続きでなかったことにより、動物の生息種類が隔てられている。この境界線を「渡瀬線」と呼ばれている。○黒潮が運んできたものは人であり、人は稲作の技術、道具、言語、文化、文明を持ち込んだ。稲作は中国・長江河口から直接琉球に持ち込まれたのではなく、九州から南下した。但し赤米は琉球から北上して九州に持ち込まれたとの説明があった。○最古の歴史書は近世1650年の「中山世鑑」。琉球は中国大陸に比べ文明は遅れ原始的な社会が続き、九州地区よりさらに500年以上も遅れていたため、文字による記録はなく、口伝により語り継がれた。沖縄特産の宝貝は貨幣として流通していた「買・財・贈・貿・賓・貧」等金銭にまつわる文字が「貝辺」であることを披露された。○琉球王統は12世紀末、沖縄本島の北部、中部、南部の三勢力(三山)に別れて権力者が現れ、1187年中山王が即位、その後権力闘争を経て1470年第ニ尚氏が政権を握り、以後400年に亘る琉球王朝が続いた。○クズク(城塞)は朝鮮式石組に類似しており、戦国時代の日本の城郭の石積みよりも200年も先行していた。これは大陸の軍事勢力の影響を受けたものと考えられる。○珊瑚礁の小さな王国が400年間この地を支配できたのか、それは海外交易による経済力により政権が磐石であったことによる。室町時代、琉球は南方の国々との交易品を中国進貢品として運び、日本、朝鮮にも転売、その利益を貯えていた。○慶長十四年(1609)家康の承認を受け薩摩藩は琉球を武力征圧した。幕府は従来どおり、琉球王国の存続と中国の「冊封体制」の継続を認めた上で、薩摩藩の支配を中国側に知られないように、衣類等日本風に変える事を認めなかった。このように、徳川幕府、薩摩藩の統制下にありながら、中国との関係を維持するとした「二元外交政策」なる変則かつ複雑な独立国として存在した。○ペリー提督一行は嘉永六年(1853)浦賀に上陸する前に琉球・那覇に上陸し「琉米修好条約」締結した。この史実を始めて知り興味深く聴き入った。明治政府は明治五年(1872)琉球国を琉球藩とした。明治十二年(1879)明治新政府は廃藩置県を宣告し武力で首里城を開城。琉球藩を廃し「沖縄県」とした。これにより450年続いた琉球王国は終焉した。○まとめとして、柳田国男が大正十四年(1925)に講演した内容を引用。「沖縄の貧窮の原因は、今日悩み苦しんでいる沖縄の人たちにあるのではなく、沖縄を支配してきた為政者の政策の破綻にある」。さらに、日清戦争から五十年後の昭和二十年(1945)米軍は沖縄に上陸した。それ以後昭和四十六年(1971)沖縄返還協定調印を挟んで六十五年を経過した歴史は苛酷であった。薩摩侵攻から270年、琉球王国の終焉から130年の現在に至る歳月は、沖縄県人にとっては、日本によって翻弄された厳しい時代であり、いまだ根本的な解決の糸口さえ不透明な時代に直面している。中村氏は技術畑として「ファジー」な説明を避け、系統立てた説明、難解な箇所は写真・カットを配し懇切丁寧にご説明される手法を執られた。加えて弁舌爽やかでありその情熱が聴講者全員に伝播、最後まで真剣に聴きそしてメモを執る人多かりし。「沖縄の人々の永年の苦悩、苦痛に対し相応の代価(幸福)を受益出来る時代の到来を願う」そのような願いを込めて講演を聴いた。強靭な余韻が残った有意義な一日となった。

    〈レポート 大谷浩士〉

10月研修会「鑑真和上(東大寺戒壇院と唐招提寺を訪ねる)」

 *平成22年10月24日(日)、秋たけなわの候、奈良は「東大寺戒壇院」と「唐招提寺」を訪ねる研修会が行われた。題して「鑑真和上(東大寺戒壇院と唐招提寺を訪ねる)」。▽授戒僧として、唐より招聘された鑑真和上が日本で初めて、東大寺の大仏殿の前の戒壇を築いて三師七証の立会いに拠る授戒を聖武太政天皇、以下に行なった。授戒とは戒壇に上がり、過去、現在、未来の三世の諸仏に、戒律を守ることを誓わせる儀式である。その翌年、この戒壇の土を大仏殿の西に移し造営されたのが戒壇堂である。その後、鑑真和上は新田部親王の旧邸宅跡を賜り、唐招提寺を開く。鑑真和上は戒律の他、彫刻や薬草の造詣も深く、日本にこれらの知識も伝えた。また、悲田院を作り貧民救済にも積極的に取り組んだ。763年(天平宝字七年)唐招提寺において76歳で死去した。行きのバスで今回のテーマの鑑真和上の生い立ち、日本への渡日についての「東征伝」の説明が行なわれた。▽先ず午前中に訪れたのは、「東大寺戒壇院」である。ここは、大仏殿の西に位置し、度重なる戦火で罹災し、現在の建屋は、江戸時代に再建されたものである。堂内にある二段の戒壇の中央には多宝塔が安置され、それを守護する「四天王像」が四隅に配されている。四天王とは、もともとインド人が想像した世界の中心をなす、須弥山の四方を守る神であり、それが仏教の世界に持ち込まれた。▽創建時の東大寺戒壇院には、もとは銅像の四天王が安置されていたが、罹災して再興されないまま長い年月がたち、江戸期の再建に当たり、中門堂にあった四天王の古像を移したものが現在の四天王像であり、国宝である。その後、東大寺を散策し、昼食をとった。▽午後は「唐招提寺」を訪れた。「唐招提寺」は、鑑真和上が僧綱を辞任後、大和上の称号を賜り、新田部親王の旧邸宅跡が与えられ律宗修行の場のとしての「唐招提寺」を開いた。特に唐招提寺の金堂は、平城京遷都1300年祭に合わせて、10年の歳月をかけて、平成の大修理を行い、昨年末に再公開された。今回の研修会はそこも見学し、1300年前の鑑真が来日した時代も合わせて探索すると同時に、天平時代の仏像もじっくり観察できることもネライである。金堂には、盧舎那仏(脱活乾漆造りで、天平時代の作)等の三尊が10年ぶりに拝顔できた。又、金堂の西に戒壇があり、建屋は、江戸期に消失し、現在は、授戒の儀式は、露天で行なわれている。金堂と講堂の間に鼓堂があり、鑑真の招来された仏舎利が安置されている。死去を惜しんだ弟子の忍基は鑑真の彫像(脱活乾漆 彩色 麻布を漆で張り合わせて骨格を作る手法 両手先は木彫)を造って現代まで唐招提寺に伝わっている(国宝唐招提寺鑑真像)が、これが日本最古の肖像彫刻とされている。残念ながら、国宝に指定されて以来、鑑真和上の命日の三日間(毎年6月)のみしか、拝顔できず、今回は、御影堂の見学は出来なかった。しかし、御廟は一般公開されており、お参りが出来た。最後に、東室において、唐招提寺執事長兼伝香寺住職、いさがわ幼稚園園長であられる西山執事長による戒律の講話があった。内容としては、インドにて、釈迦が仏教を開いてから、どのようにして、律宗が日本に入ってきたかの説明と戒の中でも重要な五つの戒についての講話であった。その後、帰途に付いた。
〈文責 守屋道治〉

 11月研修会 「大浜の寺院と廃仏毀釈」

〇平成221128()暮秋の候、今年最後の研催会は近郷の郷土の歴史散策として県下、三河の碧南市及び西尾市を訪れました。テーマは「大浜の寺院と廃仏毀釈」 担当は前川清会長、川口とよ子の両氏。参加者22.まずは三河南部の碧南市。訪ねたのは江戸時代、三河の玄関口として舟の出入りで賑わいを見せた湊町「大浜地区」。パスを降りればそこは海沿いの町。海岸線を歩けば潮のかおりが「プン」と・・・。街中で日々をおくっている者にとっては、海育ちではなくとも何か郷愁めいたものが胸をよぎる。 

この地を散策して驚く事には、立派な構えの寺院の多い事。前川会長の説明によれば、大浜は幕領であった事もあり年貢米の江戸ヘの廻舟、三河の大名、旗本領からの諸物資の輸送等で湊は活気づき経済が活発であった。ゆえに豪商も数多く寺は彼らに支えられてきた。栄える町は必然的に「寺院が多い」と。また、航海の安全祈願も・・・。

〇大浜の寺院、最初に訪ねたのは南面山、天寿院「海徳寺」(浄土宗・l462年創建)。近隣では珍しいと聞く両脇に二王尊のある立派な山門をくぐる。

 本堂に上り、ご住職のご説明を拝聴。内陣に座するは、ご本尊の木造阿弥陀如来様. もともとは江戸時代まで伊勢神宮神域内の神宮寺の本尊であったが、今回の研俸テーマでもある明治初年代の神仏分離令による仏教の抑圧排斥運勳のあおりで本尊も廃棄され様としていたところを当海徳寺の和尚が譲り受けたという経緯を持つ仏様。

平安時代の造立と言われる丈六仏のご本尊は舟形の光背とともに内陣天井の中まで入る大きさ。その大きさから「大浜大仏」 と言われている。温容なお顔を押し合掌.漆塗りの柱、極彩色の欄間、花鳥風月が描かれた格天井など豪華な堂内を一巡し「ほう〜」とため息が・・・。なるほど、かつての豪商達が支えた寺であると実感が湧く。  

〇さて、前出の様に今テーマの一つ、単なる神仏分離令からΓ廃仏毀釈」にエスカレートする原因を前川会長は大変解り易く説朋される。

それによるとそもそもは天皇を神格化し、この国を神の国であるとする明治政府の思惑によって江戸時代よりの仏教国強化政策を否定し「神道」を推し進める政策をとる。

古来よりの神と仏が同じ地域に同居する神仏混淆を禁じ、仏を神の下に置く分離令が思いもよらない「廃仏毀釈」にまで展開されたのは「これまで僧侶の風下におかれていた神官達が、この時とばかりに明治政府の威を借りて廃仏に動いたことは否めない。また、民衆の中にも寺院側の寺請制度による特権の上に胡坐をかき教学や修業に対する厳しさを無くし、利益ばかりを追求する寺側に対する批判の目も見逃すことばできません」と。納得〃

この大浜においても、上総国菊間藩が構える陣屋(大浜出張所)に赴任する役人によっ神仏分離令による寺院の統廃合と神道化遂行を実施しようとしていた。これらにより藩側につく寺と三河護法会との聞で軋轢が生じ、農民も加わって、大きな騒動となる。

この騒動で一人の役人が殺される。(大浜騒動)

大浜陣屋跡が整備されていて騒動のあらましが伝わる碑文等を見学。

〇昔ながらの街並みを残した大浜。さらに歩を進め、2000坪の境内に徳川家祖廟を持つ東照山・称名寺(時宗)ヘ・・・。

担当の川口氏の説明によれば、徳川氏との関係はI5世紀前半まで遡る。特に天文年間に同寺で行われた連歌の会、家康の父・広忠の連歌から家康の幼名・竹千代が付けられたと言う。他に西方寺、林泉寺を訪れ、昼食は衣浦グランドホテル最上階にてバイキング。  

〇後半は先の大浜騒動の中心人物であり斬首刑に処された「石川台領」殉教碑のある「西尾市・葵町」へ。ここは受刑地でもある。800年の歴史を誇る西尾市。付録として西尾城跡に建つ旧近衛邸に上り、抹茶を頂く静かで心豊かなひと時を過ごす。担当者の配慮に感謝。

〇今回は晩秋の1日を歴史が息づく街・大浜を散策し由緒ある寺々の参詣、港、蔵、路地と加えて大浜騒動にまつわる地を訪ね、楽しく、新しい発見もある研修会でした。

 

23年1月 学習会 「尾張藩と藩政改革」

〇平成23123日、今年、第1回の例会は、名古屋市中区金山、中京大学文化ホールにおいて学習会が開催されました。

寒さ厳しい折とは言え、今年初の会という事もあり、出席者も多く37名が参集しました。 テーマは「尾張藩と藩政改革」。 担当は荒川哲夫、益田順子の両氏。今学習会のコンセプトは、私達の地元である愛知、岐阜両県にわたって広大な領地を保有する徳川御三家筆頭・尾張藩をあらゆる角度から照射、考察しよう・・・というもの。40頁にも及ぶ資料が配布される。   

〇お話のトップバッターは、荒川氏。

内容は尾張藩の成立、家臣団、領地、支配体制、藩政の改革と多岐に及ぶ。そもそも尾張藩の成立とは・・・。お話の中においては先ずは一番知りたい部分である。関ケ原の戦いの後、武蔵忍l0万石から尾張・清州藩に国変えとなった徳川家康の四男・松平忠吉が52万石として入封するが、慶長12(l607)嫡子のないまま死去。 代わって家康の九男・徳川義直が甲斐甲府藩から47万石で入封。その後、家康は東海道の要所として名古屋に天下普請の城郭とする名古屋城を築く。この時、清州の藩士以下、寺社、町屋も名古屋に移動させた事により、ここに尾張藩が成立する。 この時の移動は「清洲越し」として有名。しかし義直が尾張に入国したのは、実に家康の死去と同年の元和2(1616)であったと。家臣団の構成も気になるところ。 前の松平忠吉の旧臣、義直の甲斐の旧臣を核として構成。 よく知られるところとして、家康の命によって義直入封より仕える成瀬家(35千石)、竹腰家(3万石)の二家。 この二家は幕下附属衆(付家老)として当主の補佐と幕府との安定した関係を図るとともに両家年寄りとされ藩政の最高位を世襲した。 に一万石を有する家臣も数家あり、荒川氏は家臣団を尾張家に仕えた時期ごとに分類して知行取りの計数等を説明された。 なお、大坂の陣以前においては忠吉の旧臣が重きをなしていたと。 続いて尾張藩領のお話に入り、尾張藩は当初、先述のように嚢7万石であったが、慶長13(1608)将軍秀忠より尾張一円を与えられた後、美濃、信濃の一部編入もあり、その他、近江、三河、摂津にも領土拡大をもたらした結果、寛永6(1629)尾張藩公称石高約62万石が確定された。 藩の統治は両家老を筆頭とし、役方、番方と大きく2ツに分けられ民政は町方、村方、寺社領の組織に大別され、庶民はその居住区によって支配を受けたと。荒川氏の流暢な説明もいよいよ大詰めに。 尾張藩に限らず長い時の流れの間には必ず藩政の是正の時がやって来る。ここ尾張での大きな改革は二代・光友と九代・宗陸の時である。前者は二代目の常として藩政治の完成を目指す。後者は治水(洪水)対策と財政再建にカを入れる。 荒川氏はこの名古屋城の北西を流れる(庄内川)の洪水対策のお話では特に力が入りトーンが上がる。 思たばこの時の治水工事のおかげで現在のこの地域の人々は安全な生活を送れるのではないかと。宗陸サマナマというところかなっ。 さて、荒川氏から選手交代して益田氏の説明へとバトンタッチ。 田氏はいつもながらのソフトな語り口調にて尾張徳川家初代・義直から19代義親までのプロフィールの紹介がある。 A−4版23頁にわたる実に膨大な資料を作成してこられた。 まずは尾張徳川の藩主についての概略の説明がなされた。 初代・義直からの血統は9代宗陸で跡絶え、10代〜13代は将軍家、一橋、田安家から一方的に押し付けられる。 14代徳川慶勝は支藩・美濃高須家(2代光友の時代に分家)から宗家を相続。その後のl516代は短命であり再ぴ慶勝が17代に。1819代も他家から養子を迎えているが特にl9代はあの有名な徳川義親である。 田氏が語るそれぞれの藩主の中でも特筆すべき宗春(7代)、慶勝(14、17代)、義親(l9)についてレポートしましょう。 時に宗春は8代将軍吉宗と同世代。幕府の打ち出す質素倹約令に対して、規制緩和政策を打ち出し消費の拡大を目指した事によって、名古屋は活気に溢れ、民の喝采を浴びるが、しかし治世の終り頃には11万両(120億円)の赤字をかかえる事態となり。幕府のお?めにより以後l2年の長き隠居・蟄居処分となる。 吉宗死去にともない蟄居を開放されるが、幕府は宗春を許すことなく死後も墓に金網をかけたと言う。さて、宗春は藩主として英主か否か判断の分かれるところ・・・と益田氏。 慶勝の14代時代では幕末ということもあり、藩は佐幕派と勤皇派に分かれ動揺していたが、慶勝は勤皇の態度をとり、明治維新に大きく貢献している。 17代時代は、廃藩露県.(明治4)により、士族達ヘの家禄は全廃。慶勝は苦慮の結果、中下クラスの士族達のために北海道(八雲町)の開拓を進めている。(徳川農園)。この費用は慶勝個人のマネーであったと聞く。 さて、おなじみの義親、現在の()徳川黎明会を設立し、宝物の散逸の保護を図り、徳川美術館を開館させた人物。また、徳川農園の援助も惜しまず、北海道の名産・木彫の熊は義親のアイデアによるもの。 今回、荒川、益田両氏のお話により地元の尾張藩の種々が-層深く理解するところとなり、皆々の大きな拍手でもって終了しました。(文責高橋浩子)

平成23年二月学習会 「信長の愛した二人の女性」

〇平成23227()、春暖の候、名古屋市中区「ウイル愛知」県女性センターにて1月に続き、学習会が行われました。担当は、当会編集部長・諸岡茂樹氏。聴講者も多く40名が参集しました。

〇テーマは、「信長の愛した二人の女性」。信長は、当愛知県出身という事もあり、信長をテーマに上げますと集まりも多く、依然、信長の人気度は高い。

○諸岡氏は、昨夏より体調を崩され、闘病生活を余儀なくされておりましたが、持ち前の気丈さと「何としても発表したい」とその心の強さがパワーとなり、療養中でありながらも、この発表の日を迎えられた。

〇題名の中の二人の女性の名を先に申して起きましょう。それは、『武功夜話』の中でつとに知られる、ご存知「吉乃」の方と近江出身の女性「お鍋」の左の事である。

〇今回のお話の中では、王室である美濃の斉藤道三の娘・「濃姫」は少し脇に下がってもらいます。

『笑』諸岡氏は開口一番、「信長は、秀吉・家康に比して艶福の話題は少ない様だが、それは、我々が彼の破天荒な生き方に惹きつけられ、その魅力の法に関心があるため。実は、正室の他に11名の妻妾がおり、男子l2名、女子15名と計27名の子供が生まれている」と。この11名の妻妾のうち、本当に愛したのが先の「吉乃」と「お鍋」であり、今回は、この二人に限定してお話を進められた。

〇まず、この学習会の内容に即した犬山・江南・清洲等位置関係が一目で分かる地図が掲げられ、プロジェクターによる映像も用意される。吉乃の方・・・信長の最も愛する側室。丹羽郡の豪族・生駒家吉の女。嫁ぎ先の土田山城(信長の母・土田御前の実家)の夫・弥平治が戦死したため、未亡人となり生駒の実家に戻っていたところを信長が一眼ぼれ。吉乃はたいそうな美貌の持ち主であったという。あの信長でもマザーコンプレックスなところがあり、母似の美しい吉乃に母のイメージを重ねていたかも知れない。やがて、吉乃は身篭り、次々と三人の子供が生まれる。嫡男・信忠、二男・信雄、長女・徳姫であるが、この徳姫の出産後の肥立ちが悪く、重い病に倒れる。この間、信長が清洲から小牧山に城を移すに及んで、吉乃のために新御殿を建て、吉乃を「御台」として迎え入れ三人の子供とともに家臣に拝謁させる。

〇諸岡氏は、「如何に信長が吉乃を大事な女性として遇していたか、その愛の深さが分かる」、続けて「吉乃こそ信長の正室であったといわれなくもない。濃姫とは政略結婚であって愛して結婚したのではない」とも。中々手厳しい!!()

〇しかし、吉乃の病は益々悪くなる一方・‥‥。遂に小牧に移って3午後、永禄9(l566)913日、まだ28歳の若さで黄泉の国ヘと旅立つ。「久昌寺」に葬られる。映像では、「小牧山城」や吉乃御殿跡に建つ「龍神社」、小牧に向かって立つ「吉乃地蔵」等を見る。

〇お鍋の方…‥信長は永禄2年(1559)、尾張の国を一応平定し、尾張守任官の奏上のため上洛中、かねてより敵対していた美濃の斉藤義龍の暗殺団が信長一行に迫っているとの情報を得たので急遽、帰国の途につく。信長は近江に入ると鈴鹿山脈の八風峠を越えるルートを目指す。

〇この時の道案内をしたのが、この地を支配する土豪・小倉実澄の家臣・高畠源十郎とその娘・お鍋であった。資料には、道案内するお鍋が信長に対してズケズケものを言うことに周囲のものが肝を冷やしたとある。この時の信長は終始にこやかでお鍋の言う事をいちいち頷いていたとある。信長にとつては、お鍋はかなり印象に残る少女であったと思う。

〇この八風峠越えから歳月がたち、永禄10年(1657)、今は小倉実澄の妻であるお鍋を信長が突然訪ね、一夜の契りを結ぶ。この時の結晶が、翌年永禄11年(l568)に誕生した松千代。松千代は後、信長側近の小姓となる人。実澄との間には、既に松千代の兄である甚五郎が生まれている。

〇永禄1l年、信長に内応した実澄は、近江主語・六角承禎に討たれ、お鍋は二人の子供とともに近江を脱出し岐阜の信長に救いを求める。この落塊の未亡人を厚く保護した信長は、「城に長く逗留されよ」と優しい言葉をかける。

〇以上が、信長とお鍋の経緯であるが……。諸岡氏は、「鍋という名は、この岐阜に来てからの名であって、彼女は非常に料理が上手であつたため、信長は調理器具をもじって、鍋、鍋と呼んだ」と。お鍋の方は、まさに信長の胃袋をわしずかみにして自分の居場所を守ったのでしようね。()

〇お鍋は、倒室となった後、21女を授かる。信長にとつては、お鍋との間の子で七男となる「信高」の子孫が、あのスケーターの織田信成と聴き、会場は、「おお……」とざわめきが起こる。

〇さて、お鍋、本能寺の変後、信長亡き後は秀吉の妻・北政所(ねね)に仕え、更に関ヶ原の戦い以後は故あって失脚し、8O石程与えられて京都で静かな晩年を過ごしたという。

〇墓所は、京都柴野・大徳寺の塔中総見院。信長の正室である濃姫は今一つ「その後の足取り」というものが掴めなく影が薄いが、歴史には表れなくともどこかの空の下でしぶとく生き続けていらしたかも知れない。対して、お鍋の方は、最晩年まで詳らか。

〇諸岡氏は、ご病中とはおもえない程、お元気で終始活舌も良く、通り一辺でない興味注がれるお話の内容に聴講者は、もっとお聴きしたいと思う程のあっという間の2時間の学習会でした。

 

 平成23年3月 研修会 「徳川の始祖、松平氏を訪ねて」、


平成23年3月27日(日)馥郁たる梅の香りが漂う春暖の候。今月の例会は久し振りのアウト・ドアの研修会となり心も浮き立つ。「徳川の始祖、松平氏を訪ねて」と題して県下・豊田市は松平郷へ。岡崎市は額田郷、岩津郷を訪ねました。担当は後藤正研修部長、早川綾乃の両氏。参加者36名。出発前、車中で東日本大震災で犠牲となられた方々に対して全員で黙祷。今回の研修会は家康の遠い遠い先祖である「親氏」「泰親」「信光」の初期松平三代の軌跡を追い、草創期の松平の姿に想いを馳せようと…。
▼そもそも、初代松平親氏とは、一般的な伝承として諸国を流浪する「時宗」の僧であり、名を「徳阿弥」という。県下・碧南市大浜に流れつき滞在した時、後の徳川の重臣・酒井氏の祖となる一子を儲けるも松平郷に旅立ち土地の豪族・松平太郎左衛門信重に見込まれ、信重の娘の入り婿となり、この時、名を徳阿弥から「松平太郎左衛門親氏」と改める。親氏は智謀の人であり近隣の土豪を討ちながら勢力を拡大してゆく。問題はこの親氏(徳阿弥)の先祖である。もともとは源義家の流れを汲む新田源氏であり、足利氏に滅ぼされ、やむなく諸国流浪する民となったという。親氏は上野国新田郡得河郷の出身とされているのだが・・・?。ところが、担当の後藤氏は、これら伝承の検証として以下の事を述べられる。昭和46年に再発見された「松平由緒書」では、徳阿弥が新田源氏の末裔で時宗の僧とは一切書かれていないという事。徳阿弥が自ら申すに「我らは東西を定めず旅する牢流の者でありお恥ずかしく存じます」とのみ書かれていることから現在の主たる説として親氏(徳阿弥)は諸国を渡り歩く職人であったのでは…と。続けて親氏の勢力拡大についても、当時は室町幕府の最っとも安定、栄えた時期であり松平郷など三河の国は鎌倉時代から足利氏の御料所であり、幕府奉公衆も詰めており親氏が近隣の地を武力で侵略できるものでないとも。従って初期の松平郷が領地を拡大していったのは「買得」と言って土地を買い集めていったのではないかと推察。これには何か後ろ盾になる背景があったであろうと結ばれた。
▼往路のバス車中にて以上の様な説明を受けた後、いよいよ現地松平郷に到着。久し振りに田舎の空気に触れ、清々しい気分に浸る。研修の第一歩は、静寂な空間に達つ松平家の菩提寺・高月院へ。ご住職が今や遅しと我々を迎えて下さる。本堂に上りご住職ならではの興味あるお話を拝聴。高月院文書。親氏の木像等の拝観後、松平城(山城)に登り往時を偲ぶ。後半は岡崎・額田郷に入り幕府奉公衆・麻生氏ゆかりの阿弥陀寺、さらに大空寺では親氏に敗れた二重栗内記の墓とされている小さな五輪搭を見学。同市滝町では三代信光が建立した一族の菩提寺である萬松寺を訪ねる。寺の後方の裏山にひっそりと建つ信光の墓石と伝わる宝珠印塔はポツリと一墓のみ。午後の木漏れ陽を受けて尚々淋しげに建つ。研修もいよいよ大詰。担当の早川氏の居住区でもある岩津郷へ…。二代泰親と共に岩津に進出した信光の平山城である岩津城跡。信光明寺、圓福寺、若一神社も参拝。
▼伝説と史実がないまぜになり、さりげない謎解きスタイルの今回の研修会、よく見、よく歩く充実した一日となりました。

 平成23年度

平成23年4月研修会「遠州争乱・二俣城の悲劇」

〇平成23424日、ブルースカイに淡いピンクの花ビラがよく似合う桜も終わり、いよいよ春たけなわの候、遠州に足を伸ぱす研修会が行われました。 題して「遠州争乱・二俣城の悲劇」担当は前川会長以下、後藤 正、荒川哲夫、 早川綾乃の四氏。

〇参加者37名。そもそもタイトルの二俣城の悲劇とは、元亀3(1572)武田信玄の遠州侵攻により、徳川方の支城・二俣城が武田軍の支配下に置かれたと。

〇当時の家康は浜松城に拠点を置き、三河、遠江等を支配する大名であった。また、世に名高い事件として家康の嫡男・岡崎三郎信康が天正7(1579)9月、故あって父によって自刃に追い込まれた城であり、この二件の出来事をもって二俣城の悲劇とする。

〇もうひとつ、二俣城ではないが、とても悲しい出来事がある。皆様よくご存知の家康の正室であり、信康の生母・築山御前(今川義元の姪)も同年、夫・家康によって浜松城の南西・佐鳴湖畔において殺害された事である。

今回の研修地は遠州における築山御前殺害の折、その太刀を洗ったと言われる池。

〇同御前のお墓の在る西来院。悲劇の二俣城は天然の要塞。前の信康のお墓は二俣城の後方の清龍寺。

二俣城の陥落から世に有名な家康が武田軍に完膚なき敗北を喫した三方ケ原の合戦ヘと繋がる経路の確認とこの合戦に於ける家康軍が武田軍に一矢報いた犀ケ崖の夜襲の地(犀ケ崖資料館に上る)を精力的に探訪しました。

〇往路のバスの車中では、今回の研修のポイントを1ッ、2ッ・・・。すべてとは言わないが、家康が関与する出来事はかなり「徳川御用達史観」に乗って現代に伝えられている事柄が多い。

1ッ目。まずは先述の信康自刃と築山殿の殺害について。

信康の妻・徳姫(信長の女)の世に言う「徳姫12ケ条」により信長の怒りに触れた信康が自刃に迫い込まれたとする従来の通説に対してこの事件は信長は一切、関与しておらず、どうやら家康自身の意志によって行われた疑いが濃厚であると・・・。

紙面の関係上詳細に記せない事が残念ですが父・家康の浜松派対、信康、築山殿の岡崎派の派閥抗争・・・。

はたまた岡崎内部の家臣団の分裂の結果等の見方が上げられた。

〇2ッ目。三方ケ原合戦について

これも従来の通説では、武田信玄が家康の居城・浜松城を無視して西進するかに見せかけたのでそれを遮ろうとして家康は周囲の反対を押し切って出撃し大敗したと言うものであるが「武徳大成記」「四戦紀聞」「当代記」等の史料では、戦闘のきっかけは武田勢が浜松に向かってこないので気の緩んだ家康の部下達が武田勢の通過を見物しようとしてまばら駆けに出てゆき、武田勢に石を投げたりした事が発端となり武田勢はガレキを投げて応戦するも、次第に徳川方の人数が増すにつれ鉄砲を撃ちかけさせて本格的な戦闘が開始されてしまった。

つまり家康にしてみれば、軽はずみな部下達の起した行動によって不慮に合戦におよんだと言うのが真相。

〇ここでも御用学者達の真相をべールに包み「神君家康公」は敢然と強い信玄に挑戦したとする賛美の筆のあとが感じられます。

なお、戦闘のあった三方ケ原と言えども実際にはどの位置にあったと特定は出来ないとの事。加えてよく言われている武田勢の騎馬兵がここ三方ケ原で活躍したと言う事実も存在しないとも。

〇研修地のひとつ「二俣城」は信康自刃の地と言うドラマもあるせいか忘れられない。筆者がまた、山城好きであるためか・・・。

歴史の舞台であった地に立つと時間が逆流して来る。まるで往時の人々の記憶が乗り移ってくるかの様に。

〇ここは天竜川と二俣川が合流し急峻な崖を持つ天然の要塞。

我々は大手から入り本曲輪、竪堀、井戸曲輪を季節の風を頬いっぱいに受けながら見学。信玄の遠州侵攻「二俣城の戦い」はこの井戸曲輪の水の手を切られたことにより徳川方は降伏したのです。

〇今回もまた、担当の方々のおかげで大満足のゆく一日を得られました。

 

平成23年5月研修会 「笏谷石を訪ねて」

〇平成23522日、青葉、若葉が日に映えて美しい季節。「笏谷石を訪ねて」と題して福井県は福井市を探訪しました。主担当は今回、研修会初担当となる内田道雄・編集委員、サブ担当は大谷浩士、高橋浩子の二氏。参加者38名。出発時はやや小雨模様。 ご当地出身の内田氏は開ロー番、「そうなんです、今回は硬〜〜〜い石のお話です」と切り出す。そもそも笏谷石とは、氏の説明によれば、1,800万年前の火山活動によって噴出した火山灰が固まって出来た岩石であり、学術的には火山礫凝灰岩という。

福井市の中心に位置する標高l00mの山「足羽山」から産出され、特徴は灰青緑色で比較的、軟らかい。バスの車中でサンプルが配られ、火山岩片が多数含まれている様が肉眼でも識別出来る。 「笏谷石」この名称の由来は産地である昔からの地名から名付けられたとの事であるが、その昔の大昔、継体天皇が笏を谷に落とした事が元々の油来であると聞く。主担当・内田氏は先述の様に、ここ福井の出身であるだけでにこの「石」にまつ                                                  わる幼い頃の思い出話をされたりと説明にも、ひとしほ力が入る。露天掘り、横穴、竪穴と足羽山から採掘される笏谷石は墓石や装飾用の石材として、また、橋脚、鳥居、狛犬、種々な生活用品に利用され、全国に売り出されていいたが、平成11年頃より外国産の安価な石材が大量に輸入され採算が合わないからと、残念ながら現在は採掘は行われていないとの事。内田氏の説明は尚も続き、古来より随分と大量に採掘され、その利用度も多大であったことを知る。また、時代的には、継体天皇の治水、採掘の伝説。室町時代に於いて

は、一条谷の朝倉氏の石仏、石塔。安土桃山時代では北の庄の築城に。江戸時代では結城秀康の福井城築城に。

足羽山のふもとを流れる足羽川の水運を利用して九図龍川を経て三国湊より北前舟で全国に流通、等々、説明は多岐にわたり内田氏のふるさとの「石」に注ぐ思いは熱い。

〇往路の車中で、福井と言えば幕末を駆け抜けた三人の男(松平春嶽、橋本左内、由利公正)が有名。「幕末擾乱」と題して大谷浩士氏の説明。

また、今回の研修先のひとつ北の庄城に約10ヶ月程居住した今年NHK大河ドラマの主役「お江」の生涯についての説明は高橋浩子が担当。

〇現地到着、ふくい笏谷石の会・稲葉明美事務局長さんの出迎えを受ける。

稲葉事務局長のご案内で現地研修の第一歩は「朝日山不動尊」にて笏谷石の露天掘り採掘跡を見学。美しく淡い青緑色の剥き出しになった岩肌が眼前にそびえる様は壮観。

湿り気を帯びると、より青さが増すといわれるこの笏谷石。折良く(?)小雨に濡れる石は私達の目に美しい色合いを提供してくれる。

稲葉事務局長は「笏谷石の素晴らしさを全国の皆さんに知って頂き、この石の文化を後世まで残したい」との切なる想いでいっぱい・・・。笏谷石にまつわる説明を伺いながら、その想いが私達にもひしひしと伝わるものがある。朝日山不動尊を後に以後の見学地である瑞源寺は福井藩第五代藩主・昌親公とその母高照院の菩提寺。本堂と書院は福井城本丸にあった御殿と大奥の御座の間を移築したもの。

ご住職から柱の一本一本に至るまでのご説明と歴代藩主のお話等、興味深く拝聴。昌親公と高照院の廟所が本堂裏手の山腹に笏谷石製の大きな墓が二基並ぶ。

ああ、ここにも彷谷石が・・・。        

○福井市立郷土歴史博物館にて、やはり笏谷石の文化と魅力に触れ、次に向かうは昌親公別邸・養浩館庭園へ。広大な池より遠くに数奇屋風書院を眺めるこの風景になぜかホッと心が癒される。日本人の日本的こころに宿る、なつかしい一幅の絵を観るような・・・

○美しい石垣を誇る福井城跡。織田家第一等の幕臣であった柴田勝家の居城・北の庄城。いずれも石垣に笏谷石が使用されていました。

○今回の研修は彷谷石のオンパレード。この石を利用した独特の文化遺産に福井市民の誇りを感じる。と共に地域の活性化に今後も役立てばと願うばかり。さて、今回、地元福井の方々の熱く温かいおもてなしによって研修会は大いに盛り上がりをみせ、内田氏は面目躍如、初担当デビュー戦は成功裡に終了しました。(レポート 高橋浩子)

 

平成23626日(日)研修会 「洛西に古代秦氏の足跡を訪ねる」

梅雨の候。この日、ツユの晴れ間とは言え、やはりむし暑い……。「洛西に古代秦氏の足跡を訪ねる」と題して久し振りに京都に足をのばす研修会が行われました。出発に先立ち、研修資料、会誌第52号(87頁)が配布されました。案内担当は中村清、守屋道治、川崎政俊、武藤明則の各氏。参加者43名。研修先は秦氏の勢力範囲である洛西は太秦・嵐山一帯に点在する秦氏の氏神・松尾大社、同氏寺・広隆寺、更に秦氏の得意技である機織りと養蚕の始祖をまつる木嶋神社(蚕の社)等々……。今回は説明案内担当者を振り分けされ、古代豪族・秦氏と旅の概要全般については中村氏。松尾大社については守屋氏。広隆寺は川崎氏。蚕の社は武藤氏とそれぞれに密度の濃い内容の説明をいただいた。▼洛西、北と西を京都特有の柔和な稜線を持つ山々に囲まれ、西の山裾を川幅の広い桂川が流れている。この桂川沿いに古代の豪族(秦氏)が栄え、平安遷都後は貴族の別荘や大寺が続々とこの地に造営された。この中でも我々は今回秦氏ゆかりの寺々を探訪することを目的としており、先ず最初に訪ねるは松尾大社。鬱蒼とした松尾山の山裾の古寺で朱の鳥居をくぐれば楼門、拝殿、本殿が一直線に並んでいる。京都最古の神社とも云われ、祭神は海の神(宗像三女神の一)と山の神(大山くいの神)であり、山水に生活を左右された古代の人々が水を神格化したのであろうか、社務所裏の草むした谷あいには年中枯れたことのない霊亀の滝が流れ落ちる。亀の井と言われる湧き水がありひと口、口を潤せば甘い感触が口中に広がる。境内には菰被りの酒樽が数多く奉納されている。この亀の井の水を利用して酒造りが行われているのでしよう。室町時代の頃より酒造りの神としても信仰される様になったと……。▼さて、ここで「秦氏とは何者か」中村氏の説明によれば、5世紀頃、新羅から渡来した氏族。彼らは大陸から土木、灌漑、酒造、機織などの技術をもたらして、当時の日本国形成に大きな影響を与えた。特に秦氏が葛野川(桂川)に築いた大きな堰は嵯峨野一帯を農耕の可能な土地に変えたと言う。また、養蚕の方法を持ち込み絹織物の製造を可能にした。その様な彼らが本拠地としたのが太秦一帯だった。どうして太秦を「ウズマサ」と呼ぶのか……?。これがなかなか面白い。伝説では秦氏の指導者・秦酒公が朝廷に税として絹織物をうず高く積み上げた事により「禹豆麻佐」の姓を与えられたとか。別の説では彼らの出身地名であるとも。▼桂川に架かる有名な渡月橋一帯は嵐山と呼ばれている。料亭、みやげ物店、飲食店が多く大勢の観光客で賑わいを見せていた。今も昔も変わらぬ風情……。我々はこの渡月橋畔のレストランにて昼食後、秦氏が洪水防止のために堰を築いたと言われるその名も大堰川附近を散策。(ちなみに渡月橋を挟んで上流を大堰川、下流を桂川と言う)。▽6世紀後半から7世紀初頭にかけて、この頃の秦氏の棟梁は秦河勝と言い、この名前は桂川の暴れ「河」との戦いに「勝」った事から「河勝」と名付けられたとか……。う〜ん!!。この河勝が7世紀のはじめ(聖徳太子から尊仏像を賜って建立したのが蜂岡寺)広隆寺の前身か?。担当の川崎氏はこの寺は長い歴史の中でどの様な変遷をたどったのか、寺名や本尊の仏像についても不明な点が多々あると言われる。それはそれとして我々は、ここ広隆寺にていよいよ我が国、国宝第一号となった宝冠弥勒菩薩半跏思惟像にお会い出来る。像の座す霊宝殿はかなり照明を落としており薄暗いが、それでも菩薩様のお姿をしっかりとこの目に焼き付けて……。多くは書けませんが、とに角、わからない事だらけ、謎だらけのこのミステリアスな広隆寺。ただ確かな事は、この寺が創建以来豪族・秦氏の氏寺である事。秦氏は技術面だけでなく、文化や宗教も伝えている訳だ。▼最後の探訪地は「木嶋神社」。広隆寺より東に5分程のところ。本殿では「天照御魂」を祀るが、本殿東横には摂社である織物の始神を祀る養蚕神社「蚕の社」がある。織物や製糸業者の信仰が篤いそうだ。担当の武藤氏は「ここでは何と言っても石製の三柱鳥居です」と。この三柱鳥居は本殿西側に位置する「元糺の池」と言われる神池の中に建つ。神明鳥居を三ツ組み合わせた三方正面の三ツ鳥居で中央に組石の神座があり三方から奉拝出来るしくみ。池は薄暗い森の中にあり以前は清冽な清水が湧き出ていたと言うが、現在は渇水しているのが残念。古代人が水を神格化していた名残とも言える……。実はこの三柱鳥居も謎を秘めている。柱の方位はいずれも秦氏に関する神社、墳墓がある。夏至、冬至の日、それぞれの日の出、落日の方位。また、会員の中から秦氏の信仰していた古代東方キリスト教の三位一体説なども飛び出した。▼今回、これら秦氏ゆかりの神社、仏閣を訪ね、文明の香りに触れる貴重な一日となりました。  〈レポート 高橋浩子〉

 

平成23年7月学習会 「遣唐使・苦難と試練と希望」

〇平成23724()名古屋市中区金山、中京大学名古屋市民会館・会議室に於いて学習会が行われました。演題は「遣唐使・苦難と試練と希望」発表者は守屋道治氏。猛暑の中をビジターを含め4O名が参集しました。守屋氏は開口一番、そもそも遺唐使とは・・・とその意義と目的を話される。

6世紀後半から7世紀、東南アジアは動乱の時代を迎える。朝鮮半島では高句麗、百済、新羅は軍国体制の樹立を模索する中、中国統一した隋、唐の存在は当該地域の紛争の行方に大きな影響力を持った。倭国にとってもこれまでの独自に展開してきた自国のあり方の不備を知り、かつ国際情勢に対処する必要を迫られる.この国家体制強化を目的として、着手、完成の契機という点で遣唐使の意義は大きいと話される。 ″

遣唐使は630年〜894年と唐代の全期間に亘って公的通交、諸文物の移入に 努めており、日中関係の安定に寄与し新しい日本を作ってゆく。しかしながらと守屋氏は続ける。この倭国からの遣使以前に於いても対馬海峡を挟んで海人集団や一般人の往来は想像以上にあったと考えられ、朝鮮半島から多数の渡来人と共に多くの文物が移入され、政治、文化の面でも変化をもたらしたであろう・・・と。

〇さて「遣唐使」。守屋氏の作成する学習資料は2O頁にも及ぶ。非常に精査され、理解しやすくまとめ上げられている。淡々と、しかも持ち前の落ち着きのあるお話ぶりとポイントをしっかりとつく説明に聴き入る。 

資料では、遣唐使の時代を前期(63O661)中期(702777)後期(777838)に分ける。

〇前期は遣唐使一行の規模は小さく入唐は犬上御田鍬、高向玄理、南淵請安ら。航路は朝鮮半島の西岸を北上、渤海湾ロを横断し山東半島に上陸するを普通とした。倭国の豪族連合的体制からの脱却を急がねばとの報告を持って帰国。中期、72O年の派遣時は規模も大きく儀容も整い遣唐使の最盛期と言うべき時期。入唐者も吉備真備、僧・玄防等が有名。航路も筑紫から南島を経由。東シナ海を横断、揚子江付近に達する南路をとる。天平時代に於ける燦然たる文化はこの時期に於ける学問僧、留学生に負うところが大きい。

後期ともなれば形においては規模は一段と盛んな様であるが、実はすでに衰退期というべき時期でもあった。入唐者はおなじみの空海や最澄が知られている。 航路も筑紫から直かに東支那海を横断。空海の帰朝によって我国の仏教に密教の盛行を見るきっかけとなり、併せて唐風文化の拡がりを見せる。

〇中国・唐王朝は875年の黄巾の乱で衰退に向かい、我国の唐への渡海は見送られる様になっていたが、再び894年、菅原道真が遣唐使に任命されたが、渡海せず、国家としての遣唐使任命は打ち切りとなり、第1回の渡海から約200年間の歴史の変換期で大きな役割を果たしてきた。遣唐使時代は2O回の任命、16回の渡海で終わる。しかし公的遣唐使制度は廃止されたが民間ペースの交流は耐える事なく、より盛んになっていった。

○守屋氏のお話は他にも多岐、細部にまで及び、聴き手を惹き付ける。

例えば、

●遣唐使船の構造、乗員数や船団の大きさ、帆は竹製ですだれ状であったとは興味深い。

●渡航に於ける季節風との戦いと多くの遭難者のこと。

●遣唐使の滞在費用は中国が負担とは面白い。

●海外情勢のキャツチや学問の習得、さらに仏教の経典等の収集の他、第8次遣唐使はギリシャ神話の漢訳本を携えて帰国している。

●技術面ではガラス、鍛生、鋳生、細工の工人となるべき派遣された留学生もおり楽師として琴、笛の習得また囲碁についても多くの者が習得したと‥・。

○守屋氏のお話から東支那海の荒波を超え命を賭けて渡航した遣唐使達の躍動する姿を想像する。なお、最後に氏のお話の結びとして「遣唐使の情報は日本に於いてはすべてを採りいれるものではなく、選別して応用した」と。

<レポート 高橋浩子>

 

平成23年8月学習会 「親鸞上人750回御遠忌・三河一向一揆(研修会とジョイント)」

 平成23828()晩夏の候とは言え、まだまだ残暑きびしく・・・。昨月に続き、名古屋市中区金山、中京大学名古屋市民会館会議室において、学習会が開催された。今年は浄土真宗宗祖・親鸞聖人の750御遠忌(ごえんき)の年に当たる事から、この御遠忌を記念する絶好の機会ととらえ、当会研修部・早川綾乃氏が企画、担当され演壇の人となる。聴講者38名。

今、浄土真宗各本山に於いても「宗祖としての親鸞聖人と遇う」を基本理念に掲げて種々な取り組みがなされている様である。早川氏も最初に「この学習会のコンセプトとして親鸞聖人を歴史上の人物としてとらえ、その教えに少しでも入っていけたら」との思いを告げる。24頁にわたる資料が配付される。資料の内容は大別して@〜Gの項目となる。

@ 誕生。

A 出家の理由。

B 苦悩の時代。

C 法然との出合。    

D 法難(越後に遠流)

E 関東での専修念仏。

F 帰洛。

G 入滅。  

このように聖人の生涯を分かり易く解説している。また、この資料には独特の風貌で知られる聖人の「安城御影(愛知県安城市に伝来し生前に描かれた肖像画で現在京都・東本願寺所蔵)」のカラー写真と親鸞の年表、真宗法系略図、夫人・恵信尼との関係図、布教の足跡を示す地図なども、添付されており、聴講する者にとっては理解を速くする資料である。

〇早川氏のお話は流暢で要約すると生誕は平安時代の末期、承安3年(1173)京都は現在の伏見区あたりと言われ身分の低い公家の出身とも。この頃の社会は末法思想によって不安定な状態であり、人々の間では次第に来世を頼む浄土信仰が広がりを見せはじめていた。

親鸞は9歳の頃出家。出家の理由は諸説あるが、貴族の子弟の大半が出家する慣習に従った。はたまた親鸞の中に人間として生きるとは本当はどの様なものであるかを問い、尋ねる心が湧き起こったのか・・・。

29歳に至るまでの20年間を比叡山で修行する。

叡山の教えは「煩悩を絶ち悟りを開く」という教えであったが、どのように努力しても結果が得られずますます苦しみや迷いが生ずる苦悩の日々を送る。ついに29歳の頃、山を下り吉水の法然(浄土宗開祖)を訪ねる。この頃の法然は叡山での教えとは正反対の悟りを開くには煩悩は何の妨げにはならない。ただひたすらに「南無阿弥陀仏」と弥陀の御名を唱えようとする「専修念仏」を説き多くの人とその許に集まっていた。親鸞の法然との出合いは親鸞にしてまさに衝撃的巡り合いであった。この弥陀の心に触れ、弥陀の大悲のはたらきの大いなる事に気付き、人間としての生きる道が開けていることに目覚めるのである。しかしこの法然の教えは、さまざまな曲解を生み、また、吉水の門下の振る舞いにも問題が起こり、さらに時の権力者・後鳥羽上皇の怒りにも触れる事件等も生じ、ついに法然は土佐に、親鸞は越後国へ遠流どなる。(承久の法難)。この越後での厳しい環境の中での生活はあらためて雑草の様に生きる者が救いを願いとしている事にうなずく大切なきっかけとなり、実は他の誰でもなく親鸞自身にこそ、働きかける弥陀の大悲であつたと知る。やがて親鸞42歳の頃、関東ヘと移る。この地にてさらなる専修念仏に磨きがかかり門弟の数も数千人以上となる。関東に居住すること20年、都では亡き法然の教えが再び禁止の憂き目にあっている事を知り、念仏の教えの真理を明らかにする事こそ自分の生涯を尽してなすべき事と受け止め帰洛を決意。帰洛後は多くの著作を執筆している。

ついに親鸞は吉水時代に法然から受けた「選択本願念仏集」をもとにその精神を「浄土真宗」として明らかにしたのである。          

〇「人間万事塞翁が馬」という諺どおり、越後での厳しい生活を体験してこそ親鸞の中でなお一層の真理に目覚めるものがあった訳ですので結果的には流されてある意味良かったと解釈します(レポートライター)

〇浄土真宗は身近な宗派。90歳で入滅され、まさに前述のとおり750御遠忌の年に的をえた聖人の生涯と教えを聴講出来、うれしく有難く…!!。また早川氏ご自身もかって弥陀の心に触れた体験談を話され、今学習会は厳かに終了しました。 合掌。<レポート 高橋浩子> 

         

平成23年9月研修会 「親鸞聖人の足跡と三河一向一揆の寺院」

 平成23年9月25日(日)初秋の候、9月も第四週ともなれば涼しげな風が頬を撫ぜる。大雨をもたらした先の台風15号が東海地方を通過して2〜3日後「親鸞聖人の足跡と三河一向一揆の寺院」と題して研修会が行われました。先月8月に「親鷲聖人、その生涯と教え」なるテーマにて学習会を行っており、その8月とのジョイント企画として当地・三河に於ける聖人ゆかりの寺々を探訪する事が今研修の目的。

 担当は早川綾乃研修委員。参加者はやや少なくエントリーは29名。

台風前は依然として暑い日が続いたせいか外出を控える会員さんが多数いた様である。8月学習会でも学んだ様に今年は親鸞聖人750回忌御縁忌の年。

早川氏は開口一番「縁あるこの年に学習会及ぴ研修会をジョイントで行い今回は親鸞聖人の関東よりの帰洛を中心に門弟と三河の真宗のはじまりを伝説と歴史的背景を混じえながら三河一向一揆につながる現地の寺を訪ねて観ていきたい」と話される。

○研修会の第一歩、まずは「雲龍山・本證寺」(安城市野寺町)もともとは天台寺院。13世紀の初頭、慶円の開基。伝承では親鸞聖人(63歳)帰洛の途時、現在の岡崎市矢作の妙源寺の柳堂(後述)にて37日問、説法がなされた時、慶円は柳堂へ押しかけ難詰。対して聖人はあらゆる凡人を救わんがための「弥陀本願」であると諄々と説き示したといわれる。

これによって慶円は回心儀悔し聖人の弟子となる。また、ここ本堂は三河一向宗三ケ寺(他に勝鬘寺、上宮寺)の拠点のひとつ。さて、ここで我々は同寺ご住職より、よく耳にするところの一向一揆なるあらましを拝聴する。

 中世末期の浄土真宗(一向宗)の門徒による宗教一揆。15世紀後半から約1世紀にわたって近畿、北陸、東海など郷村制の進んだ地域に広がった。(守護・富樫氏を倒した加賀一向一揆、信長の軍勢にも屈しなかった石山本願寺-向一揆は有名)。

ここ本誰寺においても、三河一向一揆のひとつとして永禄6年(1563)寺側、民衆共に一向宗に帰依しているこの地|域は当地を治める家康へは年貢米を納めず京都に送る事実に家康側は寺に集められている兵糧米を強引に撤収しようとした、それを阻止する門徒との間で激しい戦いがあった、一向宗側の「聖戦」だったのでしょうが、おもしろい事に家康側の家臣の中にも一向宗にくら替えし、一揆側に加担する者もいたと言うハプニングもあった。

 本證寺の三門を一歩踏み入れた時、境内の広さに目を見張る。一揆の拠点であったことから、鼓楼や土塁を備え水濠に囲まれたまさに降格様式の寺院。現今までに当時の城塞としての様をよく保存しているのは全国的に珍しいとされる。こ日は人気もなく、それだけに耳を澄ませば、かってこの舞台で受難の歴史を背負った戦いがくり広げられた、その雄叫びが聴こえてくる様だ。寺の数多い寺宝の中でも特に文盲の民衆のために聖人の教えをわかり易く示す「絵とき」が有名。

〇今回の研修は一揆側の砦となった寺々のオンパレード。

「寂光院・勝鬘寺」(岡崎市針崎町)、「太子山・上宮寺」(岡崎市佐々木町)、いずれも天台宗であったが、勝鬘寺住持・了海、上宮寺住持・蓮行の時、聖人の教えを受け改宗。

 やはり永禄6年、家康側が兵糧米を奪った事に端を発し一揆の拠点として歴史に残る。両寺共々今に伝わる聖人ゆかりの寺宝の拝観と一揆で討死にした家康の家臣(一揆方)の墓にも合掌する。

〇ところで先述の妙源寺「柳堂」であるが、この地の領主・安藤氏が河内国から当地へ移住の際、持参した聖徳太子の自作像を安置するためにこの堂を建立。親鸞聖人が関東から帰洛の際、安藤氏がこの柳堂に聖人を招き、教えを乞い深く帰依

した。

 安藤氏は仏門に入る事を決意し念信と改名。後に堂宇「桑子山・妙源寺」(岡崎市大和田町)を建立。柳堂に参集した近隣の寺々の住持もそろって真宗に改宗した事によってここは「三河念仏発祥の地」と言われている。柳堂は、一重、寄棟作り、桧皮葺きの堂々たるお堂。我々は内陣の拝観を許され太子像を拝む。            .

 当時のままの基礎を移さず柱栗も改めずその面影を伝えているところから国の重文に指定されている。ちなみにこの堂の前に大きな柳の木があったことに由来するそうだ。

 一方、三河一揆の際は同寺は徳川に味方したと言う。

〇研修の旅もいよいよ大詰。照高山・願照寺へと駒を進める。(岡崎市舟間超町)多くの寺々を廻り少々タタミも恋しくなる‥・。我々は本堂に座し、ご住職から法話を拝聴する。寺はもとは天台宗。やはり聖人帰洛の際に住持・専海の時に真宗に帰する。

 同寺には聖人の83歳の寿像を描いた、いわゆる「安城御影」が存在した。その後原本は京都の本願寺に進納したが、副本は同寺に伝わる。が、残念なことに現在は安全な公的機関に預けられているため、御影の拝観は不可であった。

 ご住職の法話は解り易くユーモアに富んだお話ぶりで肩がこらない。会員の皆々も大いに笑いを誘われた。面白いお話をするも、人の心の内の有様を自然と正す内容であり、研修の終りに相応しい趣でした。

〇早川氏‥ま8月・9月と連続の担当お疲様でした。

最後に早川綾乃氏は言う。「柳堂での説法伝説は実は近世の創作であって歴史的事実ではなかつたと現在では確定しています。これは真宗内部の本願寺派対高田派の対立関係の中で生じた本願寺派の創作であり、三河での真宗勧請は実は高田派の門弟による教化に始まると言う。一方の伝承の史実性が近年発見された数々の史料により高まっております」と。まま、創作でもこれも歴史的ロマンと受け止め、季節の風と共に巡った寺々に別れを告げ、精力的かつ内容の濃い研修案内を終えた早川氏に熱い拍手を送りました。

 平成23年10月研修会 「北摂津を訪ねる」

〇平成23年10月23日(日)、久しぶりに秋晴れの中、大阪府北部・淀川右岸一帯の旧三島郡・高槻市、茨城市、島本町を総称して「北摂津」と呼びますが、その北摂津を訪ねる研修会が行なわれました。題して「北摂津を訪ねる」。

〇今回は、この北摂津にゆかりの深いキリシタン大名で名高い「高山右近」、そしてその地に歴史的に興味のある隠れキリシタンの遺物を展示してある「茨木市立キリスト教遺物史料館」と、実在されたと現在考えられている一番古い天皇であられる継体天皇の墓の研修を行なった。

案内者は、森田邦春、中村清、近藤忠保、津田啓子の4氏。参加者は、40名。

〇先ず最初は、隠れキリシタン遺物の展示してある「茨木市立キリスト教」を訪問した。

中村氏の説明によると、「茨木市は、中世にはキリンタン大名として知られている高山右近の城下町で、本能寺の変のあと、右近は自らが安土城下に建てたセミナリオを高槻城下に移築し、また大阪に天主教会をたてた。秀吉が突如としてキリシタン禁教令を出すと、多くキリン夕ン大名は棄教したが、右近だけは信仰を捨てず領地を奪われて流浪の身となり、さらに家康によって国外に追放されてマニラで死去した。北摂連山にひときわそびえる竜王山の麓に、隠れキリシタンの村がある。この350年以上に及ぶ隠れ里かちは大正8年に、有名な「聖フランシスコ・ザビエル像」など次々と貴重な遺物が発見され、ローマ教皇の使節が訪れて「聖地」となり、昭和61年、「茨木市立キリスト教遺物史料館」が開設され、数々の南蛮美術品や文化財が展示されている。」

〇千提寺口でバスを降り、山道を10分あまり歩くと遺物史料館に到着した。中に入ると、隠れキリシタンの末裔の家族の方から説明を受ける。この隠れ里は、幕末開国期の長崎大浦での信徒発見のような、「文明開化」を迎えてもそのベールを脱がず、よく開けた大阪の近郊で300年もの間、宗教弾圧を潜り抜けて生き残っていたことに驚愕させられる。山中の家々の「開かずの箱」から次々と豪華なキリシ夕ン遺物やキリシ夕ン墓碑の発見が相次いだのである。

高山右近と妻・ジュス夕の出生地はこの村の西方5キロにある。年代的にも、十字架を刻んだ墓碑には慶長8年(l603年)の年号が刻まれていて、右近在城時期と符合する。江戸時代の高槻藩主(永井家)は「宗旨替え」を強行しすべての領民は仏教に改宗し、仏式葬儀を命令している。表向きには、一人のキリシタンもいなくなったが、キリンタン弾圧による処刑が1658年、l830年に行われた記録がある。

〇昼食後は、今年4月完成した今城塚古墳公園と古代歴史館を訪問し、その後、新池ハニワ工場公園を訪問した。公園内で継体天皇祭祀に使われた200点以上の形象埴輪、三島地区の古代歴史を展示する古代歴史館を研修した。今城塚古墳が、10年間の発掘調査と7年間に及ぶ整備工事が終了し、広さ9haの緑豊かな古墳公園として、今年4月に開園した。森田氏の説明では、「高槻市には宮内庁指定の継体天皇陵=太田茶白山古墳(墳丘長226m)があるが、ところが新池埴輪製作遺跡が発掘、この遺跡には埴輪を実際に製作した時期が、450年頃〜、480年頃〜、530年頃〜との三つの時期がある事が判明、450年頃〜製作埴輪と太田茶臼山古墳から出土の埴輪とが一致。継体天皇は507年即位の天皇なので、その墓が50年前に作られたとは考えられない。しかも530年頃〜に作られた埴輪と、今城塚古墳(墳丘長119m)出土の埴輪が一致。そこで(宮内庁は認めないが)、今城塚古墳が継体天皇の真陵であると一般には認められることとなった。

 製作年代を明らかにした史跡新池埴輪製作遺跡を訪ねた。新池埴輪製作遺跡は、5 - 6世紀の遺跡で、埴輪窯18基と工房、工人集落からなる全国最大級の埴輪工場跡である。 昭和63年(1988年)から調査がはじまり、平成6年(1994年)ハニワ工場公園として整備され、平成7年より開館した。 先ほど見学した今城塚古墳の埴輪は当工場で造られた。公園内は、複数の登り窯跡が復元されていたのとハニワ工房が復元されていたのは興味深かった。

〇今回は、高槻市の持つ歴史を大いに研修できたと確信した。〈レポート 守屋道治〉

平成23年11月研修会 「飛鳥の秘境・吉野官滝と大宇陀を訪ねる」

 平成23年11月27日、暮秋の候、奈良県は飛鳥から南ヘ山ひとつ越えた所にある「吉野・宮滝」、さらに飛鳥から東方の山を越えた所「宇陀jを訪ねる今年最後のアウトドアの研修会が行われました。

 題して「飛鳥の秘境・吉野官滝と大宇陀を訪ねる」担当は中村清、衣川真澄、武藤明則の三氏。定刻どおり8時にJR金山駅前を出発。参加者42名を載せたバスは快適に東名阪を一路、最初の目的地宇陀ヘと向かう。

 往路の車中では、最初にベテランの中村清氏が今回の研修地・飛鳥秘境の旅全般に於ける概要を説明。要約すると飛鳥の秘境とはここを不老不死の神仙境と感じ、かって古代の天皇が行宮を造営し何度も行幸哉|1た吉野・官滝の神秘的な風景の模様を情感豊かに語られ、また、天武天皇が大海人皇子当時に隠れ住み、壬申の乱の旗揚げもこの地からの旅立ちであり、乱に勝利した天皇家にとっての聖地であったとも。もうひとつの秘境・宇陀はその昔邱可騎野」あり、薬草採集などが行われたところ。

692(朱鳥6)11月17日、柿本人麻呂が軽皇子(後の文武天皇)と共にこの阿騎野に狩をしたおり詠う歌碑がΓかぎろひの丘」に建つ。万葉人の憩いの場所でと呼ばれ、貴族専用の狩猟地であったと。ちなみに「かぎろひ」とは説明によると朝焼けに似た気象状況といい、まず滅多に観られないそうだ。また、この時代の農耕社会に於いて最も大切な水を分けてくれる神社として宇陀には「宇陀水分神社」が大切に祀られている。水ヘの信仰が最も盛んな地域であり静かな心で参拝をし、晩秋のひとときを古代から続く歴史の幻想を広げ楽しく学ぶ一日にしたいと・・・。          、

このような中村氏のお話に心わくわく!! もう気持ちは現地の空の下ヘと・・・。尚、探訪先のより詳しい説明として再ぴ中村氏の「宇陀の街道めぐり」衣川氏の「吉野・宮滝」武藤氏の「宇陀水分神社」と三者三様の語り口調によるお話に聴き入り、より深い予備知臓を得る。

〇さて、いよいよバスは厚い山稜が重なる宇陀の里に到着。牧歌的な佇まいを見せる山と山との問に細長く伸びる街道(かっての伊勢と大阪を結ぶ交通の要衛地)の入り口に立つ時、第一印象は千本格子や虫櫨窓の民家が連なる風情に、ふっと映画などで観る大正、昭和の街並みが冷凍保存されている様な感を受けかえって心があたたまる。

我々はこの街道沿いに建つ伝統的な町家・旧内藤家「千軒舎」を見学。近隣に「森野旧薬園」がある。ここはその昔、関西一円から集められた薬草を私設の薬園で栽培して国内産の漢方薬を広めた名残の薬草園。(大正15年、国指定文化財)現在でも園の裏山では四季折々の薬草が可憐な花をつけるそうだ。

〇千軒舎をあとに次の探訪地「かぎろひの丘」へと歩を進める。かぎろひは前述のようにいつも観られる訳ではないが、どの様なものか配付された資料には夜明け前の空が時間の経過とともに黄、だいだい、紫へと色彩の変化をみせる幻想的な朝焼けの模様が載る。この風景を肉眼で観ようものなら、それこそ驚嘆の一言に尽きるだろう。この小高い丘からは奈良、三重の県境の鋭峰・高見山(l,248m)が望めますが、古代の人々が、現在の私達と同じ位置に立ち動かざる山、その美しい眺望を愛でたであろうと思うと心が躍る。それが嬉しい。丘の上の落ち葉を踏みしめながらの散策、耳を澄ませば往時の人々の楽しい会話が聴こえてくる・・・。そうだ、軽皇子も人麻呂も、この地に来訪したのも今日と同じ晩秋の一日であったのだ。人麻呂の詠う丘上の歌碑は軽皇子の父・草壁皇子の追慕の念を詠んだ歌とされている。

〇お昼はこの地方の名物「柿の葉ずし」に舌鼓を打った後、午後からの最初の探訪地・吉野川上流に沿う「吉野宮滝」へ。この地の歴史は縄文時代にまで遡る。我々は吉野歴史資料館にて石器、土器、石の皿などを見学し宮滝で暮らした古代人に思いを馳せる。さてさて、ここ宮滝は道教を信奉する斉明天皇が吉野宮を造営した事で知られている。その遺構が多数出土している。

 前述のように飛鳥時代より何故、この地を人々は神仙境と感じていたのか。非常に興味ある事柄であるが巨大な岩床の間を清流が縫うように流れ、対岸には十二単衣のように幾重にも重なる山並みを見下ろす様に美しい青ケ峰(858m)が一段と高く聳えているさまに一幅の絵の中にいるような感覚に・・・。なるほど、道教に由来する神仙境とはこのことかと納得する。

 ここは天武天皇の壬申の乱への出立の地とは前述のとおりですが、次の持続天皇も度々、この吉野宮に行幸している。

〇我々は再ぴ宇陀に戻り、万物の生命には欠かすことの出来ない「水」の神様「宇太水分神社」ヘと。先の森野旧薬園からほど近いところ。大和の水分四社のひとつで東を司る水の神と言う。古くから信仰が篤く、かっては源頼朝も石基壇を奉納し頼朝杉を手植えしたと伝承されている。現在の杉は二代目とされているが立派な幹と枝葉だ。コンコンとノックをしてみたが・・・(笑い)。今回の研修担当者の交渉カの賜物か、我々は広い境内の奥、鬱蒼と茂る森を背に三殿並ぶ国宝の春日造りの社殿の垣内に入る事を許可された。さまざまな彫刻が施された美しい社殿で、蟇股、龍、竹に雀や虎、雲に瑞鳥、水鳥、南天に鷹などまた、ボタンに獅子など近世的なモチーフも混在しており目を見張る。禰宜さんの詳しいご説明を拝聴した後、社務所前にてお神酒を頂くが、清浄な空気の中とシチュエーションのなせる業かこの一献の美味しいこと!!

併せて、お土産に絵ハガキまで頂戴した。

〇今回も歴史の舞台であった土地や建造物を訪ね、往時の人達の記憶をたどり、楽しく学ぶ一日でした。

 担当の中村、衣川、武藤の三氏に再ぴ感謝、感謝° 〈レポート 高橋浩子〉 

 

平成24年1月 学習会 「暦と信長」

〇今年初の例会は122()名古屋市中区金山・中京大学文化会館会議室にて学習会が開催されました。

真冬の一日であるが、ままおだやかな日でもあり聴講者 38名が参集しました。

演題は「暦と信長」。発表者は諸岡茂樹当会編集部長。

諸岡氏は当会の信長研究の第一人者。今回はその研究の中でも、いつもの信長の「事件簿」とは異なる「暦」と結びつけているところが大きな特徴。しかし大変興味魅かれる題材でもある。

諸岡氏は開口一番「はてさて、暦と信長はどう関連があるのでしようか」と問いかける。20頁に及ぶ配付資料にはさまざまな角度から検証されたその答えが豊富で分かり易く載る。

158210月、西欧はユリウスからグレゴリオ暦に改暦している。それは諸岡氏の説明を要約しますと、太陽の動きからして真の一年の長さは365.24220日であることに対してユリウス(ジュリアス・シーザーのこと)暦は細かい計算は省きますが一年につき0.0078日づつ違ってゆく事になる。

ユリウス時代、春分は325日としたが西暦325年には21日となり、16世紀後半になると311日となった。この狂いを改めようとして時のローマ法王グレゴリオ13世は天文学者のグラビウス等の助言を入れて1582年に改暦。これは、春分を321日にするため、1582年10月4日の次の日を「15日」として10日を削り、将来もこの狂いが起こらないように平年と四年に一度の閏年を設けた。これはまさに現在我々が使っている暦である。

この西欧の改暦は日本の時代に照らし合わせば織田信長が本能寺の変で斃れた天正1062日から「四ヶ月後の事」であった。

〇さて、今回の本題である「信長がどう暦と結び付くか」・・・であるが、諸岡氏の考えでは、信長はローマの宣教師により日本の暦の欠陥を指摘され、好奇心旺盛な性格も手伝い西欧の暦について学んだと思うと。さらに西欧では近々、ユリウス暦を廃止しダンゴリオ暦に変更されるであろうと云う情報も入手していたと思う。当時信長は天下統一を前にして自国(日本)の各地によって暦(月日)の違いは、発令等の点においても何かと不都合を感じており、この西欧の正確な暦というものを知り朝廷に暦の変更を申し出るが朝廷側は頑として譲らなかった。さらに諸岡氏は続けて「これは当時の朝廷は暦を牛耳ることが権威のひとつでもありこの信長の要求は絶対に呑むことは出来ず撤回させるために真剣に取り組んでおりました」と。しかし本能寺の変により信長の改暦の要求は実現しなかった。日本がグレゴリオ暦に改替したのは実に信長の死後、290年後の明治5(1872)のこと。この年のl23日を明治611日としました。歴史に「イフ」は禁物ですが、1582年当時、表向きは信長に逆らう者など無い、信長にとっては天下無敵の状況であり本能寺の変で斃れなければ新取の気鋭に富んだ彼は本気で強引に改暦に及んでいたかも知れない。しかし天は多くの意味で信長に味方しなかった様ですね。

〇諸岡氏は他に@吏アジアの暦。

       A無視できない月の力。

       Bイスラム圏で使われて続ける太陰暦。

       C一日をなぜ「ついたち」と読むのか。

               D24節気の名称と閏月。

       E十干、十二支について。

等々、知的刺激に満ちたお話を多岐にわたって語られ聴講者も全身を耳にして聴き入りました。

最後に諸岡氏は今月の学習内容とは別に昨年までのNHK大河ドラマΓお江」についで少々辛口の独自の持論を展開された。辛口評論とは云えすぐ前の暦の学習タイム時のきりりとした表情とは変わり実に柔和な表情でした。 〈レポート 高橋浩子〉

平成24年2月学習会「小牧・長久手の戦いを検証する」

〇平成24226日旧)、余寒の候、名古屋市は名古屋城の東方「ウイル愛知」会議室に於いて学習会が開催されました。演題は「小牧・長久手の戦いを検証する」担当は大谷浩士当会会長及び諸岡茂樹編集部長の両氏。聴講者は45名と多くの方々が参集しました。

大谷氏は現在、長久手市民であり、長年この方、この戦いを実地検分、研究の対象としておられ、諸岡氏は小牧市民であり同様にこの戦いには造詣が深く、今回の学習回の内容は正に担当者として両氏にぴったりの題材と言えようか・・・。

〇諸岡氏は言う。「天正l2(1584)3月に勃発したこの小牧・長久手の戦いは全体的に秀吉と家康の戦いの   、様に受け取られていますが実際は秀吉と信長の二男・信雄との戦いなのです」と。

そもそもこの戦いには例の本能寺の変の後、信雄が幼君・三法師(信忠の長男=信長の孫)の後見役として実質的に織田家の家督として政務を執る様になっていたが前年、賎ケ岳の戦いに於いて織田家筆頭家臣であった柴田勝家を滅ぼした秀吉は旧織田家中で隔絶した実力者となってゆく。やがて秀吉は主家筋である信   雄をうとましく思うようになる。信雄はしばらくして秀吉に織田家が纂奪されたことに気付き意を決して徳川家康を頼み秀吉に宣戦布告する。こうして尾張一円を戦場とする[小牧・長久手の戦い]が勃発する。

諸岡氏は続けて言う。家康の参戦については、「さてさて、家康にとっても秀吉が織田家を纂奪しこれ以上のカをつける事ヘの危惧と独走体制を許す訳にはゆかないと踏み、信雄の不満を利用し秀吉に待ったをかけようとしたのであろう」と。う〜ん納得!!

配付された史料には◎小牧の戦いの宣戦布告。

         ◎重要人物・池田恒興(信長の乳兄弟)が秀吉側に同心する事。

         ◎両軍の本陣の配置図(信雄・家康側は小牧山城、秀吉側は楽田城、重要拠点として犬山城)

         ◎伊勢方面と八幡林方面の戦い。

         ◎秀吉軍10万、信雄・家康軍3万。

         ◎秀吉軍、形勢不利になりいよいよ大坂城より秀吉出陣の事。

         ◎徳川四天王の一人、榊原康政の秀吉を罵倒する内容の挑発行為により秀吉側は兵を動かすこととなり次の戦場「長久手表の戦い」ヘと突き進む・・・等々の記述があり、その資料をもとに諸岡氏の詳しい説明がある。

〇さて長久手表の戦いへと移行するに当たって説明者も大谷氏ヘと選手交代する。大谷氏の説明はこの長久手表の戦いをリアルタイムにて紹介するスタイルをとっている。

まずは秀吉、家康両軍は対峙したまま膠着状態が続いたため、秀吉側の池田恒興はこの状態を打開するため手薄になっている家康の本拠・岡崎を衝く陽動作戦「中入れ」を進言。

この作戦によってまさに長久手表の戦いの火ぶたが切られた訳だ。

大谷氏は4月9日早朝の戦闘開始より時間を追って両軍の武将たちの動きを現在の地名を明示しながら説明される。我々はまるで戦いを俯瞰する様な面持ちで聴く。              

この戦いの勝者は家康軍とされているが大谷氏は両軍の勝敗の要因を多数上げている。つまり戦いにおける気合の入れ方の違いを指摘した。

〇長久手表の戦い後、所を変えてさらに攻防戦は続くが結局のところ秀吉は家康を力でねじ伏せるは困難と判断、信雄と単独和議に持ち込むことに成功。これにより家康も秀吉と戦う名分を失うのである。            .

さて、この戦いの一連の総決算は・・・?

長久手表の戦いでは家康側が勝利とされるが最終的には秀吉の外交戦略に軍配が上げられると見る。しかし、関ヶ原の戦いや大坂夏の陣の様に勝敗が明らか、でない茫洋としているところが、この戦いが今ひとつΓ全国区」になれない由縁かも知れない()

〇最後に大谷氏、諸岡氏ともに体調不十分でありながらも熱情のこもったお話に

理解も深まり大きな拍手を送り終会しました。〈レポート 高橋浩子〉

平成24年3月研修会 「近江・野州川周辺の歴史をたどる」                   

○平成24325()、春寒も次第に緩む頃、今年に入って初のアウトドアの研修会が開催されました。テーマは「近江・野州川周辺の歴史をたどる」。実に4ケ月ぶりのバスでの遠出であり、心浮き立つ。

担当は中村清、大竹三好、守屋道治、武藤明則各氏の四強メンバー。

滋賀県は近江、琵琶湖周辺は古代から中世、戦国にかけての歴史の宝庫。その中でも今回は湖南の野州川周辺の歴史探訪。・・・と来ればもう限りなく古代のイメージが頭に浮かぶ。

主な研修先は

◎弥生集落の銅鐸を展示するΓ野州市歴史民俗博物館」。

◎近江富士・三上山をご神体とする古社「国宝・御上神社」。

◎山岳仏教の聖地・金勝寺と狛坂磨の歴史を展示する「栗東歴史民俗博物館」。

◎平安末期の中世寺院・最古の遺構「国宝・阿星山・長寿寺」等々・・・。

メニューは豊富。

〇さて、今回の研修において総合的なプロデュースの役目をになうのは中村氏。

氏により今日一日の旅の概要を聴く。

ここ湖南地方の歴史の特徴は渡来人によって大陸や朝鮮半島の新しい鉄、陶、石、木の文化が移植され、ヤマト王権を支える役割を果たした、比叡山を頂点とする仏教文化を育て花開かせた等々、全般にわたって、いつもながらの流暢な語り口とポイントをつくとても分り易いお話に「さぁ、いよいよこれから現地にて日本の古代を探ろう!!」と次第に気持ちが高揚する。

〇湖南における最初の研修先はΓ銅鐸博物館」。野州市の大岩山から24個の出土した銅鐸が展示されている。この中には日本最大級と言われている実に見事な銅鐸も・・・。

そもそも銅鐸とは二千午前の弥生時代に製造された釣鐘型の青銅器(まつりの鐘)。当時の呼び方は不明。中国で鐘のことを「鐸」と言うことから明治以降に「銅鐸」と呼ばれる様になったとか。これは初耳。ちなみに江戸時代はその型から蛹(さなぎ)と呼ばれたそうだ。おもしろい。すでに往路の車中にて守屋氏から銅鐸の形状、埋納情況、歴史と用途等々の詳しい、説明を受けている。

館内での展示の中では特に銅鐸の表面に施こされているタテやヨコの非常に繊細な線の見事さに足が止まる。また、人、鳥、亀、獣等の絵柄は暖かみがあって思わず微笑んでしまう。

形は一世紀末頃から大型化するが大きくは近畿一帯を中心に生産された近畿式、濃尾平野で生産された三遠式とに分かれる。用途は定かではないが祭儀との関連が濃厚。初期の小型のものは西洋の鐘と同様、銅鐸内部で鐘を鳴らす様式であり、大型化に伴い、聞く銅鐸から見る銅鐸へと変化し鳴らすことを放棄した設計となっている。

しかし・・・と守屋氏は言う。Γ遺跡ごとに用途、保管方法、埋納の事情は異なっていたと考えられるため、すべての銅鐸を一律に論じる事は危険である」と結ばれた。

博物館に隣接して弥生時代の人々の生活や文化を実物大で体験できる公園があり、我々は復元された竪穴式住居や高床式倉庫、水田等を見学、住居内ヘは「入室」も可能で古代人的体験を一刻楽しんだ。

〇お昼は、さざなみ打つ琵琶湖東岸にて。紅白のしだれ梅が満開のお庭を見ながら箱弁当。美味しい。

〇後半の研修は琵琶湖の東岸、近江富士と呼ばれる「三上山」(432m)山麓に鎮座する「御上神社」ヘと・・・。中村氏の説明では「本来は聖なる神奈備・三上山を祀る社殿を持たない古代信仰形態であって、現在の社殿地は当時の遥拝所と思われます」と。

清涼な空気の中に佇む社殿は国宝。この頃すこし空模様が怪しくなり傘の花が闘いたが社殿としては珍しいとされている桧皮葺入母造りの屋根がしっとりと小雨に濡れて一層風情をかもし出している。建築年代は鎌倉後期と推定され屋根のみならず、漆喰壁、連子窓から仏堂的な要素が感じられる。漆喰の白壁が脊後の森の緑に映えて美しい。振り返れば三上山。この円錐形の美しく悠然とそびえ立つ姿を眼前にして心ときめき思わず手を合わせる。

○栗東歴史博物館では巨大な狛坂磨崖仏のレプリカを観る。山岳仏教の聖地である近くの金勝山中に現在も残っているそうだ。彫られた時代は、はっきりとわかっていないと。

しかし大昔の人は我々現代人の人智を超えた事をなさるものだとつくづく・・・。

○さて、研修の旅もいよいよ大詰め。

湖南の仏教文化に触れるべく湖南三山ひとつ、国宝長寿寺へと駒を進める。こちらの話もやはり往路の車中にて武藤氏より詳しい説明を受けている。氏は開口一番、「近江の人々にとって琵琶湖は仏が座します霊場、山々は祖先の霊が宿る世界でした」と。

そこから京都や奈良とは異なる仏教文化が人々によって守り継がれて来た経緯を話される。

ここ長寿寺は聖武天皇の天平年中(729〜748)良弁僧正によって建立された勅願寺。天台宗の古刹だ。天皇の皇女の長寿を願っての建立とされる。参道の両脇は手入れがゆき届き、お庫裏さんの心意気を感じる。この長い参道を歩くとやや拡散気味であった心がだんだんとひとつの穏やかな気持ちに凝縮して来る。不思議な空間とも言える。本堂にてお庫裏さんの法話を拝聴。人々を惹きつけてやまないユーモラスなお話ぶりに皆は大笑い。笑う事によって細胞が若返る・だから寺名と同様長寿につながるというもの(笑い)

内部が正堂と礼堂とに分かれた奥行きの深いお堂の中を巡り仏像や絵画を拝観。寺域も広大であり特に天正3年(1575)信長によって安土に移築された三重塔の跡地も今もって生々しく残っていた。

○今回は超古代から中世にかけての湖南の歴史散策でしたが復路の車中では「山と森林の博士」と異名を持ち林政にも明るい大竹氏に登場を願い「湖南の森林の崩壊と植林」なるテーマで、これは現代にも通じる非常に貴重なお話を聴く。瀬田川流域の田上山系は古代は桧、杉、樫等が生い茂る美林であったが、持続期の藤原宮の造営、聖武天皇の離宮、南都七寺の建立、大仏の体骨柱等多くの乱伐により山林は荒廃して土石が下流に流れて洪水が発生、大変な環境破壊の発生を招いた。しかし人間はやはり反省する生物。知恵と叡知によって江戸時代より山林の保護と河川の工事に着手。現状回復…ま膨大な費用と人員を長期にわたって投入せねばならず大竹氏は「森林を蘇らすは数百年もかかるのです」と熱く語られ我々は人にとって山や森からの恩恵は多大なものが有ると痛感する。

○今回も私達日本人にとって先人達の美意識や熱い魂に触れる非常に有意義な研

修内容であり、担当の四氏に再度、感謝、感謝!! 〈レポート 高橋浩子〉 

 

平成24年度

平成24年4月 研修会 「三河物語の世界を歩く」    

〇平成24年4月22日、陽春の候ではあるが、今回は残念ながら朝から雨模様・・・。

「三河物語の世界を歩く」と題して地元の岡崎市、安城市に於ける中期松平氏の史跡を訪ねる研修会が行われました。

副題として「庶家から惣領家ヘ。戦国時代の安城松平氏」。担当は後藤正・当会研修部長、サポーターとして山本京子、高橋浩子の二女性。参加者32名。

後藤氏は関口一番「三河物語と言えばご存知大久保彦左衛門忠教(l560~1639)このご老体が物語の中で安城松平氏の興亡を生き生きと伝えています。今日はこの物語に想いを馳せながら安城市内各地に埋もれる史跡を訪ね、中期松平氏の動向を探索する事が目的です」と今回の研修の主旨を説明。

地方とは言え身近な歴史だけに興味津々・・・。

〇昨年の四月、やはり後藤氏の担当にて松平郷から興った親氏、泰親、信光の初期松平三代の事跡と動向を探る研修が行われており、今回はその続編の体をなしている。

さて、三代信光が岡崎の岩津から安城に進出するところからお話は始まる。

この進出劇が非常に面白い。

安城の城下、街道をきらびやかな踊りの行列がゆく。

鉦、太鼓、笛、鼓を打ち嚇したところ、城兵、町の男女ともに残らず見物に出かけたため、空っぽになった城ヘ何なく押し入り簡単に城を入手することが出来たと言うのである。

この事件は文明年間(1469~1486)と推定されている。この時の城主は定かでない。

信光は奪取した安城城を三男の親忠に与える。この親忠が安城松平初代となるのだ。

ちなみに親忠は世に有名な岡崎・鴨田の大樹寺(徳川家菩提寺)を創建したことでも有名である。

〇さて、ここで研修の前半、後藤氏は初代親忠から長忠、信忠と安城三代までの事績といよいよ家康の祖父・四代清康が安城から岡崎ヘと進出するまでの過程を説明される。

そもそもタイトルにある様に安城松平(庶家)が宗家ヘと地位が向上する理由我々は興味を覚える訳だ。

これは岡崎の「井田野」における二度の合戦の勝利に答えが求められそうだ。一度目の合戦は初代・親忠の時代、西三河北部の中条氏を頭に呼応する近隣の連合軍が岩津惣領家を襲撃した際、親忠率いる安城軍の援軍により松平側の勝利。この時の親忠の軍時指揮能力が認められ、安城の地位が浮上する。二度目の合戦は二代長忠の時、「永正の三河大乱」と呼ばれる駿河の今川氏と北条早雲等が西三河に侵攻。またも岩津城は攻められるが長忠の援軍の活躍と諸々の理由によって今川軍が兵を引くことによって事なきを得る。が、しかし惣領家・岩津松平側は多くの討死者を出し絶家する。

三代信忠の時代になると岩津に替わって安城が惣領家を自認する様になる。しかし、やがて松平一族は一族同士の対等な関係が崩れはじめ大きく安城松平、大給松平、岡崎松平の三ツに割れてゆく。それぞれが利害を主張し内証を繰り返す時代に突入する・・・。

〇この様な情勢の中、ここで四代清康の登場となる。

清康は三河物語では「武略にすぐれ器用の仁であり三河各地を転戦活躍した一代の英雄」として絶賛されているが、25歳の時、家臣に斬殺されている(守山崩れ)。清康の事績を詳しく見ると、まずは岡崎松平の西郷信貞を攻め追放°拠点を安城から岡崎の「明大寺」に移しさらに現在の岡崎城になる「龍頭山」に移す。

その後、三河をほぼ平定し尾張まで出兵したと言うが・・・。実際に、これら全てが清康の成した事柄かはファジー。ここで後藤氏は、実のところ清康は伝承以外にこれと言った事績を示す史料はないとして、むしろ清康の叔父の桜井松平信定に注目している。安城松平三代信忠の弟である。信忠、清康、広忠の系列とは一線を画す。三河物語では「かなりの実力者」と認めている。

一説には、清康を葬ったとの噂のある信定は清康亡き後一時岡崎城主となり、清康の子・幼少の広忠(後の家康の父)を追放している。この後、信定に支配されていた松平一族は尾張の織田氏と関係を深めてゆくが、信定の死をもってそれは終了する。

一方追放された広忠は各地を流浪したと伝えられているが、今川義元の後援によって天文6(1537)に岡崎城に帰還して松平惣領の地位を取り戻している。

〇以上の様に後藤氏は岩津惣領家・信光以後の松平一族の結束から次第に-族内部の勢力争い・内訌へと変遷する歴史を丁寧かつ詳細に解説された。その解説をもとに後半の研修は、ゆかりの地を探訪する夕イムへと・・・。

◎数度にわたる井田野合戦により亡くなった多くの兵士を鎮める千人塚、大衆塚と井田城址。

◎安城城址、安城古城址。

◎福釜、藤井、桜井、山崎等安城地域に点在する松平諸家の史跡を訪ね、今となっては影も形もない、何もないものを見る、想像する楽しさを味わう。

〇ここで付記すべき事はサボーターの山本京子氏(安城在住)

山本氏はバス車中にて後藤氏とは異なる視点にて安城の古来からの歴史と文化、地形、言葉のアクモント等、多岐にわたって非常に歯切れ良く、テンポよく説明され皆、よく耳を傾けた。さらに不肖高橋浩子は京都、洛北、かの「詩仙堂」の壹主・石川丈山(江戸時代初期)が安城の出身である縁から「丈山」の事柄を少しばかり話した。

〇さて、終わりに我々は「松平」と言えば、どうしても家康が「竹千代」と名乗る幼少時代、人質として今川ヘ送られるくだりから以後の歴史に注目しがちであるが、どうして、どうしてその何代も以前、嫡流家でなかつた族葉・安城松平が岩津惣領家に替わって宗家になり後に家康を世に生みだすことになる歴史を学び今回、何かもうひとつ大きな知的刺激を受け息づく歴史を堪能する一日となりました。

 〈レポート 高橋浩子〉 

平成24年5月 研修会 「美濃、関、八百津、可児の四市の主たる歴史を探訪する」

〇平成24527()、向暑の候、岐阜県は美濃、関、八百津、可児の四市の主たる歴史を探訪する研修会が開催されました。

美濃は「?・卯建(うだつ)」と和紙の里、関市は円空と名刀・孫六の里、八百津は杉原千畝氏の人道の丘、可児市は信長の小姓・森蘭丸のふる里としてそれぞれに有名な探訪地である。企画・立案は砂田公司、大竹三好の両氏。砂田氏は主担当・初デビュー。参加者46名という最近にない多数の参加者を得ました。

〇美濃市においては金森長近が作った江戸商人の町並みを散策。ここはかって良質の原料と清流の恩恵によって根付いた和紙産業で栄えた町。この町に一歩足を踏み入れると、もう江戸の昔の物語の中に居るような感覚に・・・。

そこには、美濃和紙を扱い財をなした商人達が築いた町屋が並ぶ。中でもその美濃和紙の問屋や宿屋、造り酒屋等が目に止まる。一帯には屋根に「?・卯建(うだつ)」が上っている。これは中々の見ものである。「うだつ」とは本来は防火壁の事であるが、やがて豪商達の富の象徴として粋を誇った芸術品に昇華していったと・・・。

「卯建(うだつ)」の残る商家は全部で十九棟と聞くが一軒一軒デザインの異なる様(さま)も印象的。時代性や財力の違いによるものだそうだ。    

我々は卯建の家を代表する旧今井家住宅を訪ねる。現在は美濃の成り立ちが分かる史料館となっている今井家では母屋と離れ座敷、土蔵を備える江戸時代の商家の様子そのままを見学。中庭の木琴窟の美しい音もすがすがしい。今井家に隣接する「美濃和紙あかりアート館」。幻想的な雰囲気を持つ館である。和紙を通した薄明かりは人の心を和ませ、ほのぼのとさせる。まさに癒しの空間でした。

〇和紙と共に在るいにしえの町美濃を後に、円空仏と刃物の町・関市に歩を進める。ここは作仏僧・円空の終焉の地でもある(関市池尻)。ご存知のように円空は諸国を遊行し各地の霊山で修行を重ねながら誓願を胸に秘めおぴただしい数の仏像を彫り続けた。今回、我々は円空が晩年に同地に中興し、自坊とした「弥勒寺」を訪ねる。こ住職のご説明による「遠く飛鳥時代、ここに豪族武芸津氏の拠点であり弥勒寺なる七堂伽藍を備えた寺院が存在し他にも政庁跡や祭祀跡も見つかっています」と。これらを「弥勒寺官衛(かんが)遺跡」と称しすぐ南東に清流・長良川が五月の陽光を受けキラキラ輝き流れている。この長良河畔で円空は元禄八年(1695)入定し64年の生涯を終えたと言う入定塚に詣でる。

弥勒寺の西に何体もの円空仏が収蔵される「円空館」が緑の森に囲まれ静かに建つ。

このロケーションが素晴らしい。ここで拝観する円空仏は一様にすこし笑みをたたえ

たような柔和な表情をしておられる。お顔は彫り手の心情が表われるもの。仏像を拝

顔する皆の顔もつられてやわらかな表情に・・・。

同市・関鍛治伝承館では関鍛治の歴史や日本刀が出来るまでの製造工程を見学。参加

者の中では女性陣より男性陣の方が、今に受け継がれる鍛え尽くされた職人技に目を

輝かしていました。

〇さて今回の研修はメニューが豊富。次の探訪地は八百津におけるΓ人道の丘」。こちらでは多くの人が知る例の第二次世界大戦中、ナチスドイツの迫害から約六千人のユダヤ難民の命を救った、リトアニア領事・杉原千畝(19001986)の記念館を訪れる。

八百津は千畝の生誕の地。ポーランドよりリトアニアの主部カウナスに逃れ来たユダヤ人に苦慮したあげく人道の立場をとり本国の外務省の了解を得ずにビザを発給し続け、これによって多くのユダヤ人はヨーロッパを逃れ日本を通過して安全な国外へと出国出来た。

記念館ではこれら一連の千畝の軌跡、誕生から亡くなるまでを大型ビデオにて観賞。ヤダヤ人救出のシーンでは目頭を押さえる会員も・・・。

しかし戦後外務省を辞し難儀を味わうが、昭和四十三年頃(千畝68)よりイスラエル大使館の参事官を発信基地として、かつて多くのユダヤ人を救出した事が世界に知られ出す。

八百津に千畝を顕彰したのは実にイスラエルの人々であった。また、会員の中から「千畝の一連のこの事柄を必ずしも美談ととらえるには問題がある」との感想も漏れた。

〇いよいよ研修旅行も大詰。可児市兼山町に入る。この町は時計の針が止まったように昔と変わらぬ風情留めている。木曽川中流の南岸に位置し大昔は交通、軍事の上でも重要な地であった。

ここには前述のように蘭丸を含め父の可成、兄の長可等森一族のふる里。我々は兼山歴史民俗資料館を訪ねる。資料館側は「町では長久手の戦いで戦死した蘭丸の兄・長可の方を売り出したいのですが」と言われるが、なにせ、この地は蘭丸の人気度はバツグンだ。

それはやはり、あの本能寺の変において蘭丸は信長の小姓として最期まで信長の側に仕え奮戦し信長と供に紅蓮の炎の中に身を沈めたその壮絶さ、加えて年若く美男であった事がなおなお人々の心に憐憫の情をかきたてる由縁ではないかと思う。

最後に森一党の墓にも参拝し今回の研修会は無事終了する。砂田氏は研修会初担当にむけて長い時間をかけて準備をされ、この日を迎えられた。氏は円空仏に倣ってご自身も小さな仏様を彫っておられ、バス車中ではその「作品」を披露された。また、同車中で「卯建(うだつ)の町」「円空の里」「名刀・孫六」ともに説明とお話ぶりは堂に入ったものでした。

ベテラン大竹氏の書かれる資料はいつも年代を明示しながらとても解り易く説かれる。

担当された「杉原千畝」「森一族」それぞれのお話も興味魅かれる内容でした。最後に。大先輩大竹氏のアドバイスを受けて主担当・砂田氏は種々成功裡にデビュー戦を飾りました。

〈レポート 高橋浩子〉  

平成24年6月 研修会 「平安の昔を偲ぶ嵯峨野の寺」

〇平成24624()向夏の候、京都に足を延ばす研修会が行われました。題して「平安の昔を偲ぶ嵯峨野の寺」。今月の研修は梅雨のさなかでの開催。随分と雨の心配はしたものの、この日はすこし曇天。直射日光は避けられ、さして暑くもなく絶好の見学日和となる。当に担当者の方々の心掛けのたまものか。担当の面々は当会に於ける京都のオーソリティーこと川崎政俊氏を主担当とし、近藤忠保、津田啓子、山田三代子の四氏。49名という多数の参加者を得ました。

往路の車中、川崎氏よりΓ嵯峨野」−−良い響きですねー−−この嵯峨野に於ける全

般的概要の説明がある。洛西(右京)の中心地である嵯峨野の地名が現れるのは802年との事。原名は長安(中国)の北西に景勝をもって知られる嵯峨山から得たもの。その昔、この嵯峨野は歴代天皇の狩猟地となり一般の立ち入りを禁止したため草花が群生する花野と化し、花を愛で、月見をし、詩歌を詠む地となり大宮人た与の社交の場でもあり別荘地でもあったと。反面、悲哀を秘めた平家物語ゆかりの寺や悲恋の物語を伝える寺もひっそりと建ち文人墨客の為の隠棲地でもあり多彩な顔と風情をもつ嵯峨野。

今回、我々は嵯峨天皇の離宮である「大覚寺」、左大臣・源融が営なんだ山荘、栖霞観の跡のΓ清涼寺」、日蓮宗本山本圀寺・日禎上人ゆかりの「常寂光寺」、伊勢神宮へ下向するに先立ち斎宮に選ばれた皇女が潔斎の為に寵った「野宮神社」を精力的に探訪した。

嵯峨に入ってまず最初に訪れるは大沢池に臨む風光明媚な地にある「大覚寺」。墨染の衣もすがすがしい若く美男の僧が我々の到着を今や遅しと玄関先まで出迎えて下さる。この玄関は、一般的な通用口であり内部は明智光秀の居城・丹波亀山城の台所が移築されたものであり先に潜った門も同城からの移築とされる重厚な門。その名も「明智門」。

さて、以後はこちらのお坊さんの説明を頂きながらの寺内の見学。この嵯峨天皇の離宮を寺に改められたのは876年。嵯峨天皇の皇女による。代々法親王が住持した門跡寺院であり今でも寺というより御所風の気品ある雰囲気が漂い雅な風情が感じられた。

宸殿、正寝殿、心経殿、御影堂、五大堂等、他にも多数の建物が回廊によって結ばれており寺域の広さにも目を見張る。

御影堂にて大覚寺・荒木義典財務部長による講話を拝聴する。

お話はウイットに富みすこしも固ぐるしくなく、それでも究極はやはり「人の道」の大切さを説かれた。ここで「おやっ?」と思う事には大覚寺は「寺」であるにもかかわらずご本尊様である仏像を有していない事である。ご説明によれば弘仁9年(818)嵯峨天皇が当時全国に蔓延していた疫病の退散を祈願し、天皇自ら「般若心経」を写経し離宮で空海が祈ったところ、たちまちにして疫病が退散したことからこのご宸筆の「般若心経」がご本尊であるという。この点が一般の寺院と異なるところ。

往路のバス車中では、やはり川崎氏よりここ大覚寺は南北朝争乱の時代の幕開けと終焉を見た寺でもあると大変詳しい説明を受けており胸のざわめきを覚える。紙面の都合上、争乱の内容は割愛しますがやがて足利幕府三代将軍・義満によって1392年南北統一が成された講和の舞台となったのがここ大覚寺の「剣璽の間」である。しかし、その後北朝側の勢力が増し南朝側の大覚寺は荒廃し、さらに応仁の乱の兵火で全焼する。川崎氏は「焼野原のなかから大覚寺が再生を果たすのは、江戸時代初期の御水尾天皇の登場まで待たねばならなかったのです」と結ばれた。

さて、この大覚寺の暗く受難の歴史を背負ったお話はこれくらいにして---。寺の東側には明るい陽光を受けた大沢の池が広がりを見せている。思わず今までの緊張感が弛む。池にせりだす月見台に立てば背景の北嵯峨の緩やかに起伏する山々が美しく、平安時代前期庭園の貴重な遺構といわれるこの池で遠い昔の貴族たちが舟遊びしたまが偲ばれた。

ここで付記することは担当のお一人、津田啓子氏によるこの大覚寺を宗家とする生け花の「嵯峨御流」のお話にも耳を傾けた。氏もこの御流の門弟でもあられたとの事。

お昼は京都でも鉄鉢料理で有名な「泉仙」にて京ならではの彩りのよい美味な

お弁当を頂き、又午後からの研修ヘの鋭気を養う。 .       '

〇「清凉寺」瑳峨の釈迦堂の名で親しまれている。川崎氏の説明によればこの地一帯は源融(嵯峨天皇の皇子。源氏の姓を受けて臣籍に下り貞観14年(872)左大臣になる。)が営んだ栖霞観の跡で融の死後、阿弥陀堂が建立され棲霞寺と呼ばれていた。寛和2年(986)東大寺の僧・「然が宋から帰国し中国の五台山にならって愛宕に五台山清凉寺を建立しようとしたが果たせず、「然の死後、弟子の盛算が遺志を継ぎ棲霞寺内に釈迦堂を建てた。これが「清凉寺」のはじまりで「然が将来した三国伝来の釈迦如来を安置したという。

我々は通常は秘仏とされるこの国宝の如来様のご開帳にあづかった。担当の方々の交渉のおかげだ。正式には「木造釈迦如来立像」といいインドから中国を経て長い旅路の終着駅がこの清凉寺であった訳だ。拝顔すればガンダーラ風の容貌、目は黒い珠、耳は水晶をはめ込み縄状の頭髪である。像の高さは160センチ程といい衣は両肩から波紋を広げた様に落ち裾で規則正しい段をなしていた。寺内では像の胎内に納められていたという文書、御経、更に五色の絹で作られた五臓など貴重な文物を拝観した。

これより清凉寺をあとに「徒歩」にて南西に進路をとり「常寂光寺」へと向かう。この道中が何ともいえない風清に満ちている。ひっそりと静まりかえる小庵、路傍の石仏、道しるべの古びた石標、遠目に厭離庵、落柿舎などを見、近くに向井去来の墓、小倉山の東麓を占める堂々とした佇まいを見せる二尊院に圧倒されながらやがて小倉山の山腹、目的の常寂光寺にたどり着く。皆もまだまだ足は大丈夫であるが見ると眼前には寺の入り口・山門までの長い石段が待ち構えておりふっと溜息が―――。山門からも更に石段はつづき茅葺の仁王門に出る頃は青息吐息。見れば山に向かって本堂、多宝塔などが建つ。静寂で清らかな空気が漂いいつまでもこの空間に居続けたい心持である。坦当の近藤忠保氏の説明によればこの常寂光寺は前出の日禎上人が豊臣秀吉の方広寺大仏供養の際、法華の不受不施派の伝統を守って出仕せず、文禄5年(1596)にこの小倉山に隠棲したのがこの寺の始まりと云う。多宝塔の建つ辺りがら大文字山を遠望し眼下に広がる京洛の素晴らしい眺望を楽しんだ。又、藤原定家が小倉百人一首をここで編んだとされる「時雨亭跡」と刻まれた石碑もありいろいろと味わい深い当に常寂光土に遊ぶ趣きを感じた。

さあ、どんどん歩きます。常寂光寺より東南に向けてΓ野宮神社」ヘと歩を進める。先の常寂光寺までは人影はまばらであったがこちらの道中では次第に人の往来が多くなる。右に見る広大な小倉池が池畔の木々の緑を映し出し美しい。やがて嵯峨野のものさびた雰囲気を表現している小柴垣と竹林のほの暗く長い小径にさしかかる。しかし、もうここには物語や詩歌の跡を慕ってくる人々で「銀座」と化している。静かに風情を楽しむ、と言う訳にはいかない。もっとも我々も大勢の中の一員ではあるが―――。

いよいよ最終の探訪地、野宮神社に到着。林の中に黒木の鳥居が立ち黒文字の小柴垣に囲まれている。社は意外と小さく簡素な佇まいだ。ここが斎宮のための潔斎の場であることは前述のとおりですが担当の山田三代子氏の説明では「斎宮は伊勢神宮に奉仕する未婚の皇女や王女のことで出発に際して、まず宮中の初斎院で潔斎し更にここ野宮で一年聞も潔斎したのです」続けて「源氏物語・賢木の巻や謡曲・野宮によっても当時の様子が偲ばれます」と話された。境内社の中でも縁結びにご利益のあるという野宮大黒天が人気の的狭い境内には良縁を求める?善男善女で溢れ返っていた。

今回の研修は嵯峨野の旅情を味わい、点在する古寺や神社を巡った。日々埃と喧噪の中で暮らす者にとっては命の洗濯、心身をリフレッシュする一日でもあった。後半は長い距離を徒歩での探訪であったが担当者の方々の手順の良さと行き届いた配慮により多数の参加者にもかかわらず一人の迷子も脱落する人も皆無であった。本当にありがとうございました。

〈レポート 高橋浩子〉  

平成24年7月 学習会 「継体天皇の謎・王権交代の真相に迫る」

〇平成24722()名古屋市東区、愛知県女性総合センター・ウイルあいちにて学習会が行われました。猛暑の候ではあるが特別会議室には45名の聴講者が参集しました。

 この日の演題は。発表者は衣川真澄氏。氏は当会でも古代史の研究面では非常に豊かな学識をお持ちで著書も多い。我々は今回の「継体天皇の謎云々」についてもどの様なお話が伺えるかと大きな期待を込めて席に着く。衣川氏は身を黒のスーツでビシッと決めて立ちいつもながらの穏やかな口調で語りかける。

先ずは「はじめに」として、氏が日頃より日本古代の歴史に於いて胸にしていられる思いを述べられる。「それは拠り所となる資料は限られているが日本古代の本当にあった歴史を明らかにし学ぶ歴史にして後世に役立つレベルにして提供したいと考えている。ご存じの古事記や日本書紀の第一の命題は万世一系の天皇思想の礎を築くことですから、その思想に合致する様に改変されているのは間違いないがそれ以外の本当に存在した神話、伝承、記録を基にした歴史書は忠実に編纂されたと捉えています」と。今学習会はこの立場に立ってお話を進められた。

継体天皇―――。謎は多いとされるが非常によく知られた名称だ。一応基本的な意味での知識として「継体」という名称は漢風諡号という死後の贈り名で奈良時代以後から用いられた。従って継体天皇が生前にその様に呼ばれた可能性はない。実名の男大迹(おおど)に大王をつけて男大述大王と呼ばれていたと思われる。が、今レポードでは一貫して継体天皇とお呼びし時には歴史上の人物として継体と略する事もお認めください。

さてそれでは衣川氏の種々のご説明を拝聴する事に――――――。まず継体天皇の出自は7世紀以前に作られた「上官記逸文」によれば継体の父方の系譜と母方の系譜が詳しく記されているとし歴代に渉って豪族との婚姻関係がわかる。近江に於ける継体の父・彦主人王は高島郡三尾の別業を本拠地にしていたと考えられる。一方母方は継体の三代前には「君」の姓を与えられ越前の広域首長の地位にあったと推測する。

衣川氏は特に「母方の検討」として資料の中で北陸の九頭竜川両岸に築かれた広域首長の大規模な古墳分布を示されて、ここから考えられる事は首長は福井平野の水田にとりこむ為の九頭竜川の水を支配し分配して富を築いていったのではと言われる。更に古墳からは鍍金冠、四獣鏡、短甲等が出土し、これらの大規模古墳は継体の母方の長の墓と考えてよいでしょうと。つまり継体の母方の「実家」はこの地に強大な力を誇っていた豪族であった訳だ。

さて、継体の母・振媛は大そう美人であったと。近江の彦主人王がその噂をきいて越前国坂井から振媛を召し入れて妃とし、やがて継体が生まれる。しかし継体が幼い時に父・彦主人王がなくなる。振媛は嘆き継体を連れて故郷の越前「高向」に帰り養育する事となる。衣川氏は今回の発表にあたってこの高向(福井県坂井市丸岡町高田)を訪れ高向宮跡と高向神社を撮影され、その写真が資料に大きく載る。

継体は越前にて成長し次第に強力な経済基盤を築いてゆく。これには大きな治水事業が成功し水田面積を大幅に拡大、又、港を整備し畿内や朝鮮半島との交易にも力を入れて大きな収益が得られたためだ。治水工事や農業生産に必要な大量のΓ鉄」が琵琶湖の水運によって越前に投入された事も経済発展の大きな原因である。滋賀県一帯は古代には一大製鉄地帯であった。

衣川氏のお話はいよいよ佳境ヘと入る。

多くの方々がよくご存じの様に6世紀のはじめ第25代・武烈天皇が子のないまま亡くなり皇統が絶えます。政権の中枢にいた大連・大伴金村らが次代の天皇に相応しい人物を探し、越前にいた応神天皇5世の孫・男大王を見出し第24代・仁賢天皇の皇女であり武烈天皇の姉・手白香皇女を娶らせ皇后とし男大述王は即位してここに「継体天皇」となる。

要するに先に述べた様に越前にて一大勢カを築いた継体は次期天皇の座に相応しい人物と見なされた訳ですね。   .

しかし、継体天皇は西暦507年河内の樟葉宮(しんあいち歴史研究会では過去中村清氏の主担当にて見学)に於いて即位の後16年もの長きにわたって、この間、宮を転々とする。511年山城国・綴喜に、518年乙訓に、523年ついに大和に入り磐余玉穂に宮を置く。衣川氏は「なぜ継体天皇がこの様に宮を転々とされたか」その問いかけに答える。

@506年武烈天皇崩御の後、大臣・巨勢男人(武烈の姉・財朗女の夫)は武烈の弟・真若王を退け権勢を維持する。そこで大連・大伴金村は真若王と共に越前の実力者・継体を頼り前述の様に「樟葉」に進出、巨勢男人との対峙がはじまる。ちなみに真若王の「真若」とは孫という意味がある。真若王は勾皇子(まがりのみこ)とも呼称され「勾」とは歯が曲がりている事。真若王の祖父の名は「市辺忍歯別王」です。忍歯も歯が曲がりて乱杭歯の事。歯を強調する事によって祖父と孫の関係を詳らかにしています。市辺忍歯王の

 子が仁賢天皇、この天皇の子である真若王は後のΓ安閑天皇」です。ここから分かる事は安閑は継体天皇の子ではないという事です。

 (日本書紀では安閑は継体の子とされていますが改変の匂いがします)

A512年ごろ詳細は省きますが勾皇子と継体天皇のグループと対立する朝廷は半島に於ける任那4県を百済(武寧王)に割譲する。日本の朝廷は配下の任那の諸国を支配するカが衰えていたと思われる。

B523年百済の武寧王が亡くなり、ついに継体天皇は大和に入り巨勢男人は身を

 引き政権を継体に譲る。

以上が継体天皇の16年にわたる流転のプロセスを簡単にまとめましたが、もちろん衣川氏はこの辺りを非常にカを込めて説明されました。

氏の結論として――――――。

知恵を働かせ鉄という利器を平和的に利用して、自然の理にかなった開墾によって莫大な利益を得、交易を盛んにして先進の文化を取り入れ発展させた越前の盟主であった継体天皇でもΓ抜きんでた富と経済力を持ち、王者に相応しい徳を持っていたとしても権謀術数が渦巻く大和朝廷を掌握するには尚なお多くの年月を要したということなのでしょう」と。更に続けてΓ継体は権力を手中に収める為に軍事力を用いなかった事は着目すべきことで平和的な皇位の確立は、後の皇位継承のあり方に大きな影響を及ぼしていると思われます」と結ばれた。

今学習会では、ひとつは継体天皇が皇位に推されるほどの大きな勢力を築けた理由と、即位後の王権交代にまつわる謎ときとこの二ツのブロックに分けて説明された。拝聴して継体天皇の実像がかなり鮮明度がました感があり会員の皆も満足の顔、顔、顔であった。

〈レポート 高橋浩子〉  

平成24年8月 学習会 「世界を驚かせた日本人の心はどの様にして生まれたか」

〇平成24824()暦の上では処暑を過ぎたとは云え、まだまだ残暑厳しいこの日、愛知県女性総合センター・ウイル愛知特別会議室にて先月に引き続き学習会が開催されました。テーマは「世界を驚かせた日本人の心はどの様にして生まれたか」この様な精神論的な学習会のテーマは過去にない少々異質な題材である。それだけに新鮮な「ひびき」を持って我々にせまる。

発表者は中村清研修副部長、聴講者はビジターも含めて63名。会議室は満席状態となる。

 そもそも中村氏が今回、この題材を発案されたのは、先の201131l日のあの東日本大震災の後の日本人のとった秩序ある行動、つまりあの様な大災害にあっても大規模な暴動や集団による略奪等が起きなかった事が世界の人々を驚愕させ、さらなる「日本人を世界に再認識」させた点に着目。そこで氏なりのお考えとして表題における様な日本人の心の誕生の原点に迫り、今回一度、この辺りをじっくりと探求してみようとの思いからである。写真、地図、さまざまな図が豊富に載る32頁に及ぶ資料が配布された。その資料をもとに中村氏は本題に入る前、まずは予備知識としてΓ世界と日本の災害のちがい」なるお話から入り、大別してΓ日本人の自然観と倫理観」Γ多数神国と唯一神国の社会の違い」等に触れ、いよいよ主テーマであるΓ日本人の心の特性」ヘと段取りよくお話を進められた。

要点をかいつまんで紹介しますと、災害は自然災害のみを指すのではなく、人的災害もある。世界の災害に目を向けた場合、歴史的にも天候不順による凶作(食糧不足)やペス

ト等の疫病蔓延は自然的なものであるが、外敵による侵攻によって絶対的覇権を争う戦争により大量殺戮に血塗られた歴史はまさに人的災害である。日本列島に住む我々にとっての禍とは、自然現象のくり返えす地震や津波であるが、異常気象による食糧不足は世界と共通する。しかし外敵の侵攻は歴史的には13世紀の元寇くらいのもの。日本は中国や西欧にみる民族間の争いはなかったがその反面、自然災害の突出した国であった。まさに正と負の均衡そのものの感がある。

ここで中村氏は、日本における自然災害のひとつ火山の噴火と異常気象の関係を説く。その前に。「日本の里山風景は遠い昔の火山の火物によって出来ている。日本の国土は火山の存在で成り立っているのであって火山なしでは盆地も平野もない唯の離れ島に過ぎないのである」と氏は断言される。

う〜ん!!。温泉なども含めて火山から多大な恩恵に浴している訳で、ありがたい事ではあるが・・・。最近では富士山のマグマの活動も目が離せないと云われはじめており、必ず来ると頻繁に報道される「東海・東南海地震」も身近な不安材料であり、地震が火山の噴火を呼ぴ起こすとも云われ、なかなか火山様々とは云っていられないこの頃である。

さて噴火と異常気象の関係は大規模な火山の噴煙が地球規模で大気圏を漂い太陽光を遮断することによって気象の変化が起きる。その結果、広範囲な冷害、干ばつ、飢饉を誘発すると。資料闇まΓ日本列島の災害記録」として縄文時代から近代までの地震、噴火、大津波の記録とそれに伴う世の中の変化が克明に載る。人智ではなす術もない大きな受難の歴史を背負っている訳だ。

 中村氏は世界における過去の火山噴火にも目を向ける。

やはり噴煙は寒冷化等の気象異常をもたらし、飢饉はもとより政変、民族の大移動、王朝交代等大混乱を招いている。氏は力説する。「気象は人類の歴史を左右して来た大きな要因である」と。

〇学習会後半はいよいよ主題である「日本人の心の原点とは・・・」へと。

これは非常に重要な問であるが、中村氏は極めて説得的な答を出しておられる。氏の出された答えを結論から云えば「それは古代からの日本列島固有の自然と稲作を中心とする暮らし方から来ているのでは」と云われる。これはまた途方もない大昔に想いを馳せることになるのだが。

 お話を要約しますと、狩猟採集を主な生業にしていた縄文人も渡来人の持つ水稲文化を受け入れ、次第に稲作にも励むようになる。こうして生まれた農耕社会では収穫を増やすには人々は集団でカを合わせ努力しなければならない。そこに共同社会、助け合いの精神が生まれる。また、日本列島は四季がはっきりとしている事から季節と時を選んで一斉に行動を開始する。これは日本の自然条件が住民の習性を左右し、協調性や連帯感の強い特性を作り上げた。それぞれの集落に分かれ住んだ農耕人は何よりも集落の「和」を重んじて争いを避けおだやかな平和社会を求めた。しかも日本の温暖、湿潤な自然が、感受性豊かで母性的優しさを育んだ。中村氏は「この様に日本列島の自然環境と稲作をめぐる諸々の条件が日本人の精神構造を作り上げた」と。

 宗教についても日本は生活の安寧を願って火、水、山、海の自然神等の多数の神を祀った。何でもありの神々にすがる古代人のいじらしさに、つい微笑が生まれる。

資料では血なまぐさい歴史に溢れる一神教の国々と日本の多神教の違いが述べられている。過酷な自然条件を背負う一神教の世界の人々はやはり、和を重んじて妥協すると云う選択肢は持たなかった様だ。

最後に中村氏は総まとめとして「日本人の心の原点は、今まで述べた様に古代よりの地域社会の「和」を最優先し、互いに助け合おうとする民族の遺伝子が、あの大災害の時にも世界が驚く様な秩序を持った行動が出来た」と。「しかし」と氏は続ける。「日本は海で囲まれた島国。過去人民を巻き込んだ他国からの覇権の争いもなくおだやかな精神文化を育んで来たが、現在はグローバル化の時代。時代の波に対応出来る強い国際人を育成してゆく必要がある」と力説された。

聴講する会員の中からも同様「ガマンや忍耐は日本人の美徳だが、これも行き過ぎるとただひたすら、相手に合わすことになる。もっと自己を主張し、自分で選び抜く力を養うべき」との声も上がった。

20冊以上の参考図書をもとに非常に濃密できらめく様な知識が凝縮している資料を提供して頂き、また氏の滑らかな語り口調も相俟って、さらなる知的刺激を受けた2時間にわたる講演でした。

〈レポート 高橋浩子〉

 

平成24年九月研修会「東海道に於ける鈴鹿、関、亀山を訪ねる」

〇平成24年9月23日()、三重県に足を運ぶ研修会が行われました。

この日の午前中は少々傘の花が開くあいにくの雨模様となったがこれも午後からは雲の切れ目から青空がのぞき足取りも軽くなる。今回の研修テーマは「東海道に於ける鈴鹿、関、亀山を訪ねる」。古代から近世にかけて発達した東海道・・・。

遠く古代に想いを馳せればヤマトタケルも東国征伐の帰途、大和ヘの帰還の際、近世東海道に接近する街道(古代の鈴鹿みち)に足跡を残したとされ、その足跡を探訪しさらに主として江戸時代、東海道の宿場町として整備栄えた亀山、鈴鹿の関それぞれの宿の見学を目的としている。

時代も古代と近世。バラエティーに富む研修内容である。

担当は守屋道治、近藤忠保の両氏。参加者39名。

〇研修の第一歩、亀山に到着。先ずはバス窓外に三重県下でも原位地のままの中核的城郭建築として唯一の遺存例とされる、伊勢亀山城の多門櫓を観る。近藤氏の説明では、亀山城は最初、文永2年(l265)伊勢平氏の流れをくむ関実忠が伊勢国鈴鹿郡若山に築城したと。以後長期にわたって関氏が城主であったが、天正18年(1590)関氏が陸奥白河へ転封により、豊臣秀吉に従った岡本宗憲が入城。

岡本氏は関氏の城の東に新たに築城したとされるのが現在の亀山城であると。

現在は多門櫓と石垣、土塁、堀の一部しか残っていないが残念なことにその中の

多門櫓はこの時期改修中でありブルーのシートで覆われ全容を見学は来なかった。

この城も戦国時代には織田信長の伊勢侵攻等により度々戦場となるなど、波乱の歴史を脊負うが江戸時代では幕府の宿所としての役割があり総じて平和な城としての「人生」であったようだ。

〇亀山城跡に別れを告げ亀山歴史博物館ヘと。

古代から近世に至るまでの亀山市の歴史、文化に関する資料の展示を拝観後、いよいよ「亀山の宿」ヘと歩を進める。亀山の宿は東海道53次の江戸から教えて46番目の宿場町。特徴は東海道では珍らしい城下町が「宿」となっているため、宿場の東と西に門が設けられ夜間は通行止めとなった事。東西2.kmに及ぶ宿場であるが、我々は主に西方面を重点的に探訪した。

●歌川広重などの浮世絵にも描かれる京口門(西の入口)の跡地。

●亀山の宿を代表する商家、建築を今に伝える呉服商を営み大店であった旧館家住宅。土蔵を備えた重厚な建物だ。敷居をまたげばそこはもう時代劇の世界。前だれ掛けの番頭さんや丁稚どんの忙しく働く姿を想像する。

●古い町家が点在する街道。雨に打たれながらの散策であるが、やがて江戸後期の亀山城主である石川家の家老職・加藤家の屋敷跡に出る。その屋敷地の大半と長屋門、土蔵、母屋の一部が良好な状態で現存している。ご家老が朝な夕なにこの立派な長屋門をお供を連

れて潜ったのだと・・・。想いの世界の中でも人の息吹きを感ずるのは良いことですね。

●加藤家をあとに遍照寺本堂へ。明治5年の廃城令によって亀山城二の丸御殿の大書院と式台部分が移築されており壮大な大名御殿とはこの様な姿であったかと貴重な遺構を観る。ここでハプニングが・・・。しんあいちの面々が多勢本堂前の境内を埋めたため、お庫裏さんが驚いて出てこられ「こんなに沢山の方々が。どうぞ、どうぞ」と我々を本堂の中に招き入れて下さったのです。予定に入ってないスケジュールでしたが、遍照寺の由来のご説明と全国的にも貴重な鎌倉時代彫刻の阿弥陀三尊像の拝観に浴した。

〇さあ、次の宿場町、東海道47番目の「鈴鹿の関宿」ヘと向かいます。

関は古代から交通の要衝であり鈴鹿の関所が置かれたところ。関の名もこの「鈴

鹿の関」に由来しているとか。しかし残念なことはこの鈴鹿関跡の詳細な位置と規模等判明していないと。関宿は東西1.8kmの範囲の中、江戸時代から明治にかけて建てられた古い町家が軒を並べ人が静かに暮らしている。往時の姿を色濃く残している。この空間をガイドさんの説明を受けながら探索した。

世の中、何が幸いするかわからない。実はこの関宿よりはるか南にJR関西線が開通したことにより、人と物流の移動が亀山を中心に発展していった為、この街並みが取り残されてしまった。

故に後世の我々はこの時代的な味わい深い町家の見学が出来る訳だ.そこが実にうれしい。

往時は参勤交代やお伊勢参りの人々で賑わった。そのざわめきや旅人達のさまざまな情景が浮かぶ。通りを散策中、旅人が一時休息した店の前の「店棚」に座してみれば、いにしえの人々ヘの親近感が湧く。変わらなく時代を継なぐ風情仔心が温まった。関宿を代表する大旅寵・会津屋にて昼食後、後半の研修―ヤマトタケルを偲ぶ旅へと進路を東ヘとる。

〇往路のバス車中にて担当の守屋氏から前出の古代鈴鹿みちの「定義」の説明を受けており以後の探訪に於いての理解も早い。

●杖衝坂はヤマトタケルが東征の帰途、大和帰還を目指す道中、伊吹山の神々との戦いで病(鉱毒か)に倒れ、弱った体で剣を杖の代わりにして登ったとされる急坂。この急坂を登るとき「自分の足は三重の勾りのことくして、はなはだ疲れてしまった」とおっしやった(古事記)。これが「杖衝坂」と「三重県」の名の由来だそうだ。昔のどなたが命名したかわ分かりませんがなかなか心に響く名ですね。現在は石タダミの坂であるがやはり急坂であり我々も登り降りしたが結構「有酸素運動?」になった。江戸時代、かの芭蕉も登坂中に落馬した模様で、その句碑が残る。

●能褒野(鈴鹿川の北岸)はヤマトタケル尊が死去したところと伝わる。

勇猛な尊もついにお倒れになったところだ。そこに能褒野神社と御陵が存在する。参拝。能褒野一帯には他に尊の陵墓と伝わる古墳が多々ある。その中のもう1ツの神社も訪ねた。「加佐登神社」と云い尊の御笠を収めた所と語り継がれている。神社の奥の深い森の中に大小さまざまな塚があり、尊が白鳥になって飛出し給へた後に衣のみ残ったと云う「白鳥塚」御遺物を収めた「奉冠塚」等を辿った。尊は去ってもその「面影」は随所に残る・・・。

<レポート 高橋浩子>

 

平成24年十月研修会

「白山スーパー林道の白山信仰の拠点『平泉寺跡』と『福井県立恐竜博物館』を訪ねる」

〇平成241028()秋もめっきり深まるこの日、北陸地方に足を伸ばす研修会が行われました。

テーマは少々長く「白山スーパー林道の紅葉を楽しみ白山信仰の拠点『平泉寺跡』と国内最大級の『福井県立恐竜博物館』を訪ねる」いつもの研修会より距離的にも遠出である。それだけ旅心が刺激されてワクワクする。しかしただの観光旅行でない。バスの中でもしっかりとお勉強して行けるところに違いがある。今回主たる内容は福井、石川、岐阜の三県にまたがって聳え立つ「白山」を対象とした白山信仰の発生とその盛衰を学び、かつ信仰の拠点である平泉寺跡を訪れ独特の光芒を放った往時の姿に想いをめぐらす。もうひとつ。大きく視点を変えて太古の昔に誘われての恐竜との「出会い」も楽しみのひとつ。また、今回の研修には素敵なおまけも付いている。往路「白山スーパー林道」を走行する間、窓外に燃える秋山の大紅葉を楽しむ・・・。

気合の入る担当者は白山信仰を説く森田邦春、恐竜を説く砂田公司、スーパー林道を説く内田道雄の三氏.事前の宣伝も功を奏し参加者50名。満席御礼となる。

〇白山スーパー林道は石川県白山神宮と岐阜県白川村を結ぶ全長33qに及ぶ林道。11月初旬には冬季閉鎖されるとの事でまさにその直前の運行でありスレスレセーフ。

林道よりバス窓外に観る山の頂きから谷底まで赤、橙、黄、緑の織りなす綾錦、大自然の見事な紅葉を堪能。自然美の世界に感動する至福のひと時でした。

紅葉だけではない。白山の遠望という楽しみもある。実はこの日は朝から少々雨模様。よって白山は厚い雲のベールに隠れて残念ながら遠望はかなわなかったが配布された研修資料の表紙に冠雪した美しい白山のカラー写真が載っておりベールの向こうに堂々たるその姿を頭に描いた。この林道は標高650m〜1,455mにありバスは縫うようにスルスルと進みやがて林道随一の名所「ふくべの大滝」に。下車。落差86m、まるで天から降ってくるような雄大さに歓声が上がる。滝はむき出しの岩に落下、激突、舞い上がる水煙は豪壮そのもの。この頃、雨脚も強くなり時折突風も吹いたりと。ここ大滝ではこの様に髄分と手荒な歓迎を受けた(笑い)

〇そろそろお昼時も近い。今回は逮出であり時間と場所の関係もあり昼食は車中食となる。バス発車時、金山にて積み込んだお弁当を食す。会では初めてのことであった。

〇林道に別れを告げ次の目的地「恐竜博物館」ヘと。流石に恐竜たちの「住居」だけに大きな建物だ。玄関より長いエスカレーターで地階へ。いきなり1億年前の最強の肉食恐竜と云われる「ティラノサウルス」の出迎えを受ける。グオーンと鳴く声がちょっぴり物悲しい。館内滞在45分と短かったが、首長尾長の巨大草食恐竜もいればニワトリのような小型のものも。その種類と進化の過程を見学し一刻恐竜たちの生きた太古の時代に溶け込んだ。

〇さあ、いよいよ福井県は勝山市平泉寺町「白山神社」ヘ。

まずは白山神仰なる定義をひとつ・・・。

古代の人々は自然界に神の存在を認め自然神を崇めていた。姿の良い山に神異を感じるのもしかり。この白山がご神体であり聖地であった。

奈良時代の事。少年の頃に見た十一面観音の霊夢によって厳しい修行を重ねた泰澄大師は白く輝く白山に誘われて初めて白山登山口に修験者の道場を開いた。これが後の「平泉寺」である。時代を経て平安時代になると神仏習合の思想が確立し神の山であった白山も「白山権現=白山妙理大菩薩」と呼称され神仏同体となり次第に山そのものが神から菩薩へと変身。本地は十一面観音であり寺が中心となり祭祀は仏教で行われてゆく。

中世に入ると荘園の発達と共に公地が減少し、国司は必要以上に税を絞り取るようになる。まだ有力寺院でなかった平泉寺もターゲット。国司の暴政から寺を守るため平泉寺は屈強な僧兵に寺領を防衛させた。やがて平泉寺など白山権現の寺々は巨大な宗教勢力である天台宗・叡山の傘下に入るとこの地方の地主は墾田を白山に寄進し子分の農民を率いて白山修験者となってゆく。

鎌倉期の平泉寺は大きく寺領を広げ南北朝期には「僧兵八千」を有する様に。室町時代には最も繁栄した。が、室町後期になると次第にこの地域一帯に真宗=一向宗が流達してくると門徒化した農民と平泉衆は壮絶な戦いを展開するが結果は門徒宗が勝利し平泉寺は滅した。その理由は平泉寺の僧侶は農民を奴として扱い、過酷な税を取り立て無報酬の労働にこき使っていたからだ。

それならばと農民達は自分の後生を保証してくれる一向宗の寺に寄進した方が良いとの思いから、加賀門徒の力も借り越前門徒達が一大蜂起した訳だ。

その後の平泉寺は豊織期に戦国大名の好意によって再興されたが往時の隆盛さには及びもつかない小規模なものであった。

飛んで明治になると神仏分農令により平泉寺は寺でなくなり仏教色を取り除き「白山神社」として新たに出発することになる。

以上が平泉寺の歴史の幕開けから終焉。続いて白山神社に至るまでを超簡単にまとめた白山信仰の変遷です.もちろん配布資料にはこの白山信仰と平泉寺を息づく歴史として詳細な説明を頂いております。

〇日常のスケールでは計れない悠然とした時が流れたこの白山神社。境内を散策し本殿に参拝した。石畳の参道沿いには樹齢300年以上といわれる古木の杉並木が鬱蒼と茂る。緑濃い苔も見事だ。夕暮れ近い。前出の泰澄大師がご神託を受けたとされる参道左手の「御手洗池」もまわりの樹木の影を受けてほの暗い中でひっそりと水面を見せている。

ここに波乱に満ちたある種の歴史の残酷さと寂しさを感じるのは、この季節・秋涼のせいか、肌にせまる冷気のせいか・・・。

〇今回の研修も担当者の方々のお力はもとより、安全管理、事務処理のスタッフの方々の協力で無事終了しました。

<レポート 高橋浩子>

 

平成24年十一月研修会「湖北のかくれ里と観音の里を訪ねる」

〇平成24年11月25日()日増しに寒くなる折、古代から大陸との玄関口であった琵琶湖の北部を研修しました。

テーマは「湖北のかくれ里と観音の里を訪ねる」。

晩秋の琵琶湖の奥ヘと誘われる研修の旅でした。

「晩秋の湖北」と聴けばもうそれだけで胸が騒ぐ。明るく華やかで賑々しい湖南と比ぶれば湖北は対照的に静かでもの寂しさが漂い、まさに冬の一歩手前、晩秋に訪ねるにはぴったりの雰囲気である。

準備万端、担当者は中村清、武藤明則、内田道雄の三氏。参加者は50名。またもやバスは満席御札の盛況。今回の研修、人気度抜群だ。

先ずは、旅の概要として中村氏より総合的な説明があり、今研修の主目的なるもの全体像を把握する。

〇最初の探訪地はテーマにある如く、湖北仏教文化のメッカと言われる長浜市木之本町・観音の里ヘと・・・。

ここにかつて奈良時代末「巳高山・鶏足寺」「世代山・戸岩寺」などを代表とする堂宇が建立され格調を誇り盛大な湖北仏教文化圏が形成されていたが、時代と共に政情の変化、兵乱の摩火、経済の欠乏などから次第に都の大寺院に吸収される結果となるが、寺宝の十一面観音立像、薬師如来立像はじめ宝器は当時の里人達の献身の努力によって守り続けられ、それらの御仏が現在の「己高閣」「世代閣」に収納され今に伝わっている。両閣ともに名残の紅葉の中に在り観音さんのお館として何とも風情がよい。閣庫はほの暗く前面の堂々たる御仏の傍らには手足を失った痛々しい姿の像も多数おいでになる。これは戦国時代に里人達が土に埋め、川に沈めて戦火から守った証しだそうだ。里人の信仰心と観音をお守りする心がひしと伝わってくる。同時に1200年後の現在、私達はこのお館で数多くの御仏を拝する事の出来る幸せに感じ入るばかりである。

そもそも古来よりこの辺りは中央政権と密接な氏族の繁栄した土地であり、奈良時代に中央の仏教と北陸の白山信仰が混ざり合い形成された独特の習合仏教文化圏がここに築かれたとされる。この信仰の歴史に触れ、心温る気持ちを抱きながら、さあ、いよいよ次は今回のメインでもある国宝「渡岸寺十一面観音立像」にお会いする時が近づく。バスは木之本町より南下し長浜市高月町渡岸寺に着く。

ここも「観音の里‐たかつき」として木之本同様、観音菩薩さんが多数伝わっている。その多くは小さな里堂に安置され今なお里人達によって手厚く守られていると聴く。恵まれた自然や風土の美しさに相侯って人情の厚い土地なのでしょう。

里の南北に流れる清流・高時川の畔に目指す向源寺内「渡岸寺観音堂は建つ、堂内に入れば泰澄大師が彫刻したとつたわり日本彫刻史上最っとも美しいとされている傑作・十一面観音様が凛としてお立ちになっている。

非常に肉好きが豊かであり官能的なプーポーション。片方の長い右の御手をすこし前に出し今まさに衆生(しゅうじょう)をお救いになさろうというお姿である。

仏像に造詣の深い担当の武藤氏の説明によれば天平8年(736)聖武天皇の勅願により「万民豊楽」を願い作像されたと・・・。

この観音様の持つ特色である大きな頭上面は、極めてインド的と話される.ふつう、仏像は「中性」と言われるがこちらは体型と容姿からずいぶんと「女性」をイメージする観音様である。

美しいものに出合いたいという気持ちは誰にでもある。

堂内ヘは次々と拝観者が訪れ溢れかえっている。説明する寺側の担当者はレコード盤の様に同じ言葉をノドが枯れる様に、くりかえし説明を続けておられる。それにしても我々に静かな眼差しを向けるこの観音様は一体一日に何人もの人々と対面するのであろうか・・・。

〇そろそろお昼時。昼食はまた木之本に戻り、鯖の棒ずしで名高い「すし慶」にて。大変美味評判は上々。木之本は江戸時代の主要道「北国街道」の街道筋に当たる。その昔は人馬の往来も激しく、旅籠や商家が軒を連ねていた。食後はこの名残りを留める古い街並みを散策した。途中地酒を求める男性諸氏。壷ビンを手に「土産というよりバスの中で呑んでしまいそう〜」と笑い合う。

来年のNHK大河ドラマ「黒田官兵衛」を宣伝する旗が風にはためいている。そうだ!!ここ木之本は官兵衛の出身地だった・・・。

〇さて、後半の研修は琵琶湖の最北・塩津を経由して西浅井町大浦の「北淡海・丸子船の館」を見学。ここにかつて湖上輸送の主役として活躍した現存する実物の「丸子船」が展示される。全長17m、この百石船(米俵250俵積載可能)を真近に見、触れ、琵琶湖に育くまれ、水運の歴史と共に船が運ぶ湖の記憶を訪ねた。

〇今回の旅のもう1つのメイン白洲正子著「かくれ里」の本文にも取り上げられる奥琵琶湖の入江、つづらお半島の「管浦」を探索。昔は周囲を山に囲まれ湖上からしか近づけない秘境中の秘境と言われた。

我々はまずこの管浦の集落全体を見下ろす場所、奥琵琶湖パークウエイ展望台にバスを着ける。一本の燃える様な深紅の紅葉の木の下で参加者全員の記念撮影。

澄んだ空気が流れ風光明媚な湖北の一大眺望を楽しむ。見下せば管浦の里はやはり山を背に前面はすぐ湖であり狭い扇状地に展開する集落であ戸ことが一目瞭然.

なる程かくれ里とは上手い表現だ。             

さて、集落に足を踏み入れれば人影はまばら。先ずは第四十七代淳仁天皇(大炊王)を祭神とする須賀神社に参拝。

大変な悲劇を背負った天皇である。天皇は天武天皇の孫に当たられる。藤原仲麻呂の奉請で擁立され、天平宝宇2年(785)に即位された(25歳)が国の大事は孝謙上皇によって行われた。上皇はやがて僧・弓削道鏡を信任・重用した。これを不満とした恵美押勝(藤原仲麻呂)が反乱を起こしたが失敗。これらに関与したとの各によって淳仁天皇は廃帝となり、ここ淡路の管浦に流されて亡くなられた。

そこで一社を倉立し「淡路廃帝」として祀られている。また社が建っている処こそ帝の御陵だとされる。また、一説には兵庫県三原郡南淡町にも淡路凌がある・・・。

史実と伝説が絢交ぜになっているところに興味を覚える。

郷土資料館にて鎌倉末期の「管浦与大浦下庄堺絵図」なる大変貴重な絵図を拝観。また、室町時代末期制作の仮面史上においてこちらも貴重な能面三面等を拝観した。湖畔での里人との会話も楽しい。湖水を渡るひんやりとした風に頬を撫でられる。さあ、もうお別れしましょう「かくれ里」。

〇研修もいよいよ大詰め。「近江の青の洞門」と言われる「西野水道跡」ヘ。

午前中に見学を終えている渡岸寺観音堂の西方、西野山を琵琶湖に向かって掘り抜いた排水トンネルのこと.江戸時代の末期、大雨の度に水害に苦しんでいた西野の村人達が数々の難問をクリヤして自らの力で成し遂げた一大事業であった。配布された資料には当時の作業や資金面がいかに難儀なものであったか。反面感動的な場面も書かれており、熱いものを胸に抱いた。

平成の現在でも自由にこの水道内部を見学できるとの事であったが、内部は暗く足元も悪く長靴、ヘルメット、懐中電灯等が必要との事で研修当日は皆その用具を持ち合わせないため、諦めるが、もとよりとても怖くて入れない。

しかし、ある女性会員は「レインコートも持参して後日挑戦したい」と強気の笑顔で言う。なかなかの烈女である。

この江戸末期の初代のトンネルのすぐ南に、第二代である昭和25年に掘削された水道が残されているが、現在は見学通路として琵琶湖に通じている。我々はこの通路を歩いて湖側に出たがトンネル内は照明設備は無く、入口より余々に暗くなり、いっとき夜の闇に吸い込まれる空間に・・・。

第三代の現在の水路は昭和55年に掘削された大規模な余語川排水路である。

滔々と流れ入る様は豪快そのもの!!

〇旅の最後は賎ケ岳古戦場と羽衣伝説(担当の内田氏の説明あり)で知られる余語湖畔の散策をもって終了。

<レポート 高橋浩子>

平成251月 学習会「宇宙の歴史――神話からの脱却と科学の夜明け」

 

〇今年初の例会は名古屋市中区金山、日本特殊陶業市民会館にて学習会が行われました。

テーマは「宇宙の歴史」副題として「神話からの脱却と科学の夜明け」講演者は砂田公氏。

氏は宇宙のお話になると少年の様に目がキラキラと輝く。

学習会としては今までにない異質の内容となるが宇宙も途方もない時間、空間の歴史を刻んでいる訳ですから、立派な歴史の学習に匹敵する。聴講者は43名。

大寒中にもかかわらず多数の参加者を得ました。

サンサンと降り注ぐ日中の太陽も沈む一刻は真っ赤になって夕暮れを歌う。やがて冴えわたる夜空に描かれる月や、ささやきが聞こえてきそうな星々の美しさに見とれ、神秘の世界に誘われる。

縄文、弥生の時代から21世紀に生きる私達も全く同じ光景を眺めるとは、ある種の感動を覚えずにはいられない。

今回の学習はこの様な身近な天体から、かなり踏み込んだ宇宙創生の根幹にかかわる内容となっている。

〇まずは「宇宙」と題したDVDを見る。クリアな映像だ。宇宙船アポロが採取した月の石・マントル、月の誕生までのジャアント・インパクト、隕石が衝突して出来たクレーター。幻想的な月もここまで暴かれると夢が失われそうではあるが・・・()

金星の表面の映像、火星は地球の半分の大きさであるがオリンパス山、マリオネス谷、水の中で出来た石があり水が存在した証拠。

火星人はいなかった()が小さな生物がいるかも? 太陽系惑星の中では火星は地球にとってはお隣の星だけに注目度大である。

木星の嵐は350年も続いていると。固い地面はナシという。土星は地球の10倍あり、ガスで出来た輪がある等、それぞれの惑星の特徴を映像は語る。中学〜高校時代に学んだ事柄を思い出す。

〇配布された資料はカラーの絵や図が大変豊富で内容は濃密。

最初に「日本の宇宙のはじめ」として古事記より抜粋した文章から入り、天に現われた神々、地上の神々を紹介し、さらにお互いを誘い合うイザナギとイザナミの神が国や大小の島々を生み、続いて山の神、海の神などを生むまでを古事記が表すところの世界(宇宙)を話された。

では外国での宇宙感はどうであったか。古代エジプト人は天と地を結ぶ神々は空気であり、空気の神が天を支えている。

古代インド人は宇宙を司っているのは巨大な蛇。人智の及ばない範囲は神の領域。お話は進み、宇宙の中心が人間であった天動説からやがてコペルニクスの地動説へと。l6世紀のことだ。しかしこの地動説が正しいと証明されるには17世紀のケプラーによる楕円活動、惑星の速さ、公転周期の三大法則の発見とさらに「なぜそうか」というニュートンの万有引力による証しを待たねばならなかった。

資料には詳しく図解されている。この万有引力とは、ニュートンはリンゴが木から落ちるのも、月が地球を回っているのも、地球が太陽を中心に回っている事も巨大な物体が関係している。惑星運動を解析しすべての物体には引力が存在し、それは距離に反比例し互いの重さの穫に比例する。後にニュートンの時間、空間を絶対視するに対して「光」を絶対視し、時間、空間は相対的であるとするアインシュタィンの「相対性理論」が打ち出された。砂田氏はこの理論も説明をされた。つまり、「高速で運動する物体に起こる時間短縮の事」。ここでふと「浦島太郎」を思い出す。浦島太郎のお話からアインシュタインは相対性理論を構築? まさかフフフ・・・。

〇砂田氏のお話はこの辺りから熱い語りとなり、いよいよ佳境ヘと入る。

「宇宙の始まり」というとてつもない深い内容のお話。宇とは無限の空間の広がり、宙とは無霞の時聞の広がりを表わす。つまり空間と時間を合わせたもので「四次元時空間」そのものだと言われる。う〜ん。

宇宙にも年齢があったことが最近になって判明しておりそれ何と137憶歳であると。

学習会のメインテーマである宇宙のはじまりとは? つまり「ビックバン」の理論である。アメリカの物理学者ジヨ―ジ・ガモフは,宇宙は大爆発から始まったとしその結果、現在では宇宙の生成は空間、時間、光、物質などまったく存在しない「無」と呼ばれる状態から始まったと考える。ビックバンが起こる直前には非常にわずかな間に急速な膨張が発生したらしい事もわかって来ている。

想像を絶するスピードのインフレーションと共に宇宙が始まり現在に至り、さらに膨張を続けていると。

「ビックバン」は大法螺吹という意味であってガモフのライバル、イギリスの天文学者クレード・ホイルが皮肉って言った言葉だ。それが奇しくもガモフの理論の名として後世に残した。

むつかしい学習の内容で、この様な世の中によくある「瓢箪から駒」的な分に触れると笑いを誘いホットする。

さて、宇宙の未来であるが、砂田氏はそのシナリオは三種あると説明する。

一つには、次第に膨張がゆるやかになり、ある時半転して高温密度状態の宇宙に逆戻り「ビッククランチ」してしまう。

二つには膨張し続けてゆくもののスピードが遅くなる。何兆年もの未来は宇宙の星々は燃え尽き加速膨張してまずまず希薄になり再び空っぽの状態になる。

しかし心配はない。宇宙には正体不明のダークエネルギーとダークマスターと言う謎の物体が残っているからブレーン(別の宇宙)同士が引き寄せ合い同じサイクルを無限に繰り返す。この様な創生と破壊を繰り返す事を「サイタリック宇宙論と呼びます」と砂田氏は締めくくられた。

〇今回はレポーターを非常に悩ませる()むつかしい内容であつたが、それでも何度も資料を読み返せば「膨張する宇宙のイメージを、たとえば焼く前のぶどうパンと膨らんだ後の同種のパンを比べ、焼いた後のパンはぶどう()同士の間隔が広がる」等の遊び心的な面白い表現もあり、ふつふつと興味が沸き上がる。

氏のお話は非常に多岐にわたり、さりげない謎ときの部分もあり、とても知識欲が刺激される学習内容であったと改めて思います。

また、ブラックホールは強力な重力、オリオン座の左上の星・べテルギウスは現在、温度が下がっている。確かにこの星は赤く生彩が無い。

ガスが固まり1000万度になると星になる。等々資料とは別のお話も頂いた。聴講者全員は興味津々の様子であった。

さて、学習会の後、新聞、テレビ等での宇宙関係の報道に目が向く様になつた。2月21日、NASAが太陽系以外の恒星に水星よりも小さく月に近い大きさの惑星を発見。同じくNASAが火星の岩石を採取、破片から生命の痕跡の発見に期待・・・。いま、太陽の黒点が減少しており活動の低下が続く等、宇宙の情報は結構多い。この情報に気づく事が出来るのも、興味魅かれるのもひとつには学習会で学んだおかげ、たまものと密かに思うところである。

最後に一見つかみどころの無かった宇宙の真理を少しづつではあるが理解の度を深め、同時に私達人間も大いなる宇宙からの生命エネルギーによって生かされているのではないかと思うのです。宇宙に感謝、感謝!!<レポート 高橋浩子>

 

平成25224日 学習会「尾張藩の林政政策と明治以降の林業の変遷」

 

〇如月、厳しい寒さの中、梅の蕾も膨らむ日平成25224()名古屋市中区金山、日本特殊陶業市民会館で学習会が開催された。

テーマは「尾張藩の林政政策と明治以降の林業の変遷」。講演者は大竹三好研修副部長。

大竹氏は荒廃する山林の現状を憂い、私財を投じて原野を購入して、植林事業に取り組んでおられる程、林業についての研究をライフワークとして研鎖を重ね、山林研究の第一人者。

聴講者45名。

はじめに、日本は森林国である。国土の2/3は森林である。豊かな森林は為政者によって、大規模に伐採され、過去3回危機に直面した。

1 律令国家の成立で遷都による新都市建設の資材として大量の木材を搬出した古代の略奪。(600850)

2 豊臣秀吉、徳川家康の天下統-の過程で近世の森林略奪。(15701670)

3 太平洋戦争前後の森林略奪。(1940l960)

 

1 律令国家建設→600年頃、推古天皇の飛鳥宮。   

645年  孝徳天皇難波宮。

694年  持続天皇藤原京。

710年  元明天皇平城京。

740年  聖武天皇恭仁京

745年  東大寺建立。南都七寺建立。

大和地方の樹木は伐採され、木材の調達の範囲を拡げ近江国、琵琶湖の南、田上山あたりの山林を伐採し尽くした。そのため、山の生態系が破壊され、山の崩壊となり土砂が瀬田川、宇治川、淀川に土砂が流出、巨椋池、大阪湾を埋め尽くし、各河川は洪水を繰り返した。

江戸時代、政権が安定すると、幕府は山林の保護のため、樹木の伐採を禁じ、違反者を厳しく取り締まった。

瀬田川流域で大規模り水害が頻発するため、石垣留、築堤、掻揚堤、杭柵留、飛芝植込、雑木植込等、地山の滑落、土石流を防止するための工法を多用して治水工事を施工した。

さらに、2〜3項目について「大規模建造物・森林等年表」等を参考にして説明が続いた。  〇尾張藩の木曽の御料林政策に説明が移る。

木曽山系の森林は江戸城、駿府城の増築の資材として搬出。続いて名古屋城城下町の建設の資材用として多量の材木は伐採された。   '

元和元年(1615) 家康は、尾張藩初代、義直と浅野幸長の娘・春姫との婚礼祝いとして木曽の美林と木曽川沿いの領地を与えた。

明暦 3(1637)  江戸城下の大火。

万治 3(1660) 名古屋城下の大火。江戸・名古屋城下の二大火災の罹災者復興のため御料林の樹木を伐採。このため、御嶽山の山麓まで禿山となり、山崩れが多発、河川も洪水の被害が頻発した。

寛文 4(1664)  尾張藩はお日付役兼国奉行佐藤半太以下、勘定奉行(木材奉行)を現地に派遣し現状を調査させた。

             後日「査察報告書」が提出され、文政の林政改革の検討が開始された。改革案の-つとして留山(地元民の立入禁止)

巣山(鷹の保護政策のため、地元民の立入禁止)を決定した。

元禄12(1697) 尾張藩士・市川甚左衛門は八百津の錦織湊に転属になった。

錦織湊とは、木曽谷の渓流を利用して原木を流し、この湊で回収するための設備を備えていたが、設備の不備により回収率は低かつた。

市川は地元民の知恵を借り藤網張りのメインロープに縦方向にサブの藤縄を編み込む等改良を重ね、回収率を高めた。

宝永 4(1707) 市川は上松奉行に栄進した。

奉行として‐「ヒノキ、サワラ、アスナロ、コウヤマキ」の伐採を禁止。

明山(地元民の立入が可能な山城)。一時期伐採禁止。

入会場(村有林で村民が自由に活用可能な山威)。同上。

保護のための施策を実行すれど、山の荒廃は鈍化しない。

ネズコを加えた「五木」の伐採を禁止し、違反者を厳しく

取り締まる。

植林も奨励したが、山肌は花崗岩で表層の腐葉土が少なく失敗、自然木を育成した。

一定の範囲ですべてを伐採する方法から、若木を残して必要な原木を選定して伐採する方法に改めた。長い年月かけて、造林に力を注いだ成果が実り木曽谷に美林が蘇った。

明治新政府に移管された山林は宮林とし、尾張藩以上に厳しく管理した。

昭和39(196O) 木材の自由化により、安価な外材の輸入量が増大。

昭和55(1980) 国内産の木材は価格が下落。以後林業の経営は破綻し、山林は荒廃。崩壊の-途を辿る。

大竹氏はこの現状に強い危機感を持ち、機会あるごとに関係方面に警鐘を鳴らし「山林再生」への啓蒙活動を続けられておられる。

1 山林は放置され、植林、間伐等の作業は放棄した結果、密集する樹木によって光は遮られ、下草がなく降雨により表土が流され、山崩れが発生する。

2 一部の篤志家が植林作業に取り組むが、鹿等の動物により若芽を食い荒らされ成育せず枯れ絶える。

3 汚染された空気を浄化する機能を持つ樹木が、中国等の極度に汚染された空気により、樹木は弱る。弱った樹木は病虫害等に対する抵抗力を失くし、風倒木となり、山林は早いスピードで崩壊している。

大竹氏は、山林のオーナーとして植林に取り組んでいる経験を踏まえ、日本の山林の崩壊を、事例を示し熱く訴える。そして「林業再生案」を提示する。

短期計画

1 大工、左官等の技術集団を養成して木造建築の技術者を輩出させる。

2 ハウスメーカーに木材販売出来る組織を創設する。

3 集成材の製造、その製造工場のネットワークを構築。

4 零細の山林業者に対し、植林、間伐、枝打ち等の補助金を支給する。

5 花粉患者対策として雌木から伐採する。

6 木材、家具の輸出を研究する。

長期計画

l 森林学校を創設して森林経営者を育成する。

2 l0年以上放置された山林は低価格で国の機構が買い上げ、新たに林道を新設して、搬出ルートを確保、民間企業に販売する。

3 大規模林業経営者には長期、低利の融資制度を整備する。

4 林業の研究機関を創設、研究調査をする。

このように、山林破壊により、生態系が壊され、人の生命にも影響を及ぼす等深刻な事態に対し「大竹私案」で荒廃した山林を蘇生させたいと強く訴えた。

藤原京遷都以来、木材は都市づくり、大寺院建設等の資材として切り尽くされた。荒廃の限りを尽くした田上山系の復旧工事→明治11年から着工。

完成の目途を平成26年として国家事業として130余年の長期に亘って取り組んでいる。工法として「山腹式」を採用。手作業で階段工床→わら伏込み→埋め戻し→植林。何代も引き継がれる地道な作業の結果、山系全体が緑の山として蘇生した。税金で補填した資金は約9.384兆円。

伐採を繰り返した為政者。それによって国家としての体制が確立され、美しい、国としての歴史を重ねて来た。その後始末として田上山系と同じ現象が全国各地で発生し、憂慮すべき事態となって久しい。国の成り立ちの原点に立ち戻り、未来の子孫のために緑の山に生き返らせるための施策を実行に移すべきであると強く感じた。大竹氏の警鐘は「山を知り、山の痛みの叫びの伝達人」だからこそ、説得力があり、その真剣さが表情に表われていた。

学ぶ事が多くあり、熟考する機会となった学習会は意義深い内容であつた。

(文責 大谷浩士)

平成25324日 研修会「朝鮮通信使の遺構を訪ねて」

 

〇寒い冬期も一段落。今年はじめのアウトドアの研修会である。

久しぶりの東方面、静岡県は清水市に向かう。テーマは「朝鮮通信使の遺構を訪ねて」担当は早川綾乃、加藤均の両氏。参加者は40名。

今回は新東名をバスは快適に走行し最初の訪問地は東海の名区・清見寺。ここに朝鮮通信使の扁額や関連する文化財が保存されている。

早川氏は「これらの文化財は侵略と連行から友好と交流の時代へと転化する中で残されたもの」と言われる。これに先立ち往路の車中では、担当者の両氏より通信史に於ける情報を綿密に調査された内容の説明がある。

まず、早川氏は開口一番「私が朝鮮通信史に興味を持ったのは、いつ頃かはよく覚えていないが、沖縄のグスク巡り等の旅をするうち、朝鮮や琉球は明から冊封を受けていた同時代、日本も室町幕府時、明から冊封を受けていた。

冊封を受ける国同士の善隣友好関係であろうとした事に興味を持ったのです」とその動機を語る。なるほど、早川氏らしい感性である。

以後、来日した通信使の往来した東海道にその足跡を旅するうち不思議なことに自然と向こうから情報が集まって来たと言う。きっと早川氏の出す波動を大向こうがキャッチして応えてくれたのでしょう。     .

さて、資料には江戸時代の朝鮮使節団の一覧表が載る。

都合12回の来日であり、今回探訪する清見寺ヘの立ち寄りは5回である。あまり知られていないが実は琉球使節団の来山の方が8回と多い。

〇慶長l2(1607)、日朝の国交が正式に締結されるまでには両国にとっては幾多の難儀(倭冠、秀吉の朝鮮出兵の禍等)をクリヤした結果である。12回の来日のうち、初期の3回は秀吉が朝鮮を侵略した文禄、慶長の役の戦後処理の使節であって、日本からの使いに対する回礼使。その後の9回は「誼(よしみ)」を交わす意味で通信使と言う。

早川氏は「江戸時代を鎖国時代とよく表現しますが、これはマチガイです」。

「日本は朝鮮との問に正式な国交を持っており釜山の倭館には5〜6百人の日本人が常駐しており朝鮮を通して中国等東アジアの世界と結ばれていたのです」。

後になってオランダ等とは通商のみであって正式な外交関係は朝鮮のみ。やはりこうした友好関係が、私達がよく文献で見る華やかな通信使の絵巻となつたのでしょうね。

さて、注目することには、朝鮮と日本の仲介役・対馬藩の存在である。

対馬藩は玄界灘に浮かぶ孤島の藩。日本本土より、むしろ朝鮮に近い。この対馬藩の宗氏が日本側の窓口、事務局となる。江戸時代の善隣関係は幕府の姿勢の反映は勿論、この宗氏の役割、藩の役割を抜きには考えられない。

慶長l2(1607)の国交回復の陰には宗氏の生き抜くための並々ならぬ国際感覚の下地があった様だ。それは家康の国書の偽造、朝鮮国王の国書の改ざんと言った偽装工作が隠されている。秀吉時代に侵略した朝鮮に詫を入れ国交を回復し朝鮮貿易を再開せねば対馬藩の生きる道はない訳だ。

ひとつに対馬は、山は険しく深林多く良田なく・・・。と言われ、米が自給出来ない等の風土の宿命を負っている。

島の生活を支えたのは朝鮮米であった。半島との交易が島人の死命を握っていたから何としても対馬は偽装工作をしてでも朝鮮と友好関係でいなければならなかった。しかし、たび重なるこの工作がついに寛永12(l635)幕府に発覚。藩主に罪の咎は無く、家老柳川氏が流罪(弘前)となるが、この国書の偽造という危ない綱渡りをしたおかげ(?)で朝鮮との間では二百数十年にわたる平和な関係が保たれた訳である。まさに、瓢箪から駒ですね。車中での早川氏は説明の終りに際し、朗々とよく通るお声で詩吟を披露された。

酒豪の彼女に相応しい新井白石「春日の作」うららかな春のよい季節、大いに飲もうではないか・・・。この詩吟の内容とまったく同じ、この日は本当に春うららの暖かい一日であった。

静岡は気候温暖なせいか清見寺境内の満開の桜が我々を迎えてくれる。慶安4年(1651)建築と言われる重厚な三門(空門、無相門、無願門)を潜り大玄関へ。

まずは来山した朝鮮及び琉球の使節団がここから明媚な風景を賞したと言う玄関上の間・潮音閣にて春霞みで少々瀧げではあったか美保の松原を遠望する。

使節団の一行と同じ目線だ。現在、寺のすぐ南にJR東海道線がひっきりなしに走り、埋め立て地には国際港清水の近代的な建造物が建ち並び往時の景観は損なわれている。

三門より30mくらいの南、民家の横に「皇太子殿下(大正天皇東宮時代)海水浴

の地」と刻まれた石碑が建つ。その昔白砂の海岸線は三門の目の前まで迫っていた事がわかる。う〜ん隔世の感!!

さて、我々は大万丈にて今回のメインテーマである使節団の扁額や詩文を拝観する。正面に流球王子の筆による「永世孝享」の額。その中でも特に目を引く事は慶長12年(l607)初めて来日した正使・呂祐吉、副使・慶進、従事官・丁好寛の三使併称の詩板である。

三者三様の特徴ある詩文であり現存最古の貴重な史料であると。詩文の内容は素晴らし過ぎて解説等とても筆が及び

ません。配布資料にはカラーの詩板と現代語訳が載る。

そもそもこの清見寺の由緒とは昔、東北の蝦夷に備えて白鳳年間、この地に関所が設けられ清見関(きよみがせき)と呼ばれていた。

その傍に関所の鎮護として仏堂が建てられ、この仏堂をもって当寺の始めと伝えられる。鎌倉時代に大規模な再興があり、室町時代は官寺としての地位、戦国時代は寺の地勢により自然の要塞となり戦乱の巷と化すも江戸時代に入ってからは徳川幕府より2百石の朱印地を有し徳川一門の帰依を受ける。

明治維新の変革に際しても、寺の経営よろしきを以て頽廃を免れ、その後には明治天皇の行幸、大正天皇東宮時代の御成りもある。法燈一千余年、当に東海の名区(朝鮮半島の東の海にある日本で最も景色のよいところ)

この巨鼇山に毅然と餐える大小の殿閣を見学した。庭園の美しさは言うに及ばないが、裏山の山林の中、琉球王子の墓が建つ。江戸幕府に赴く途中、駿河に於いて病死しここに埋葬されたと言われる。異郷の地での病死とは淋しく辛い事。合掌。

〇お昼は四季采館開花亭にて美味な本場桜エビのかき揚げを賞味し、午後からは東海道広重美術館にて十四代将軍、徳川家茂上洛150年の節目として歌川派の絵師達によって描かれた「御上洛東海道」を観賞後、清水インターチェンジより一路、豊橋まで西下し「豊橋市二川宿本陣資料館」ヘ。

ここではとても偶然とは思えない、今回朝鮮通信使を語る担当者・早川氏のもとに研修内容に合わせるかの様に、天から降りて来たとしか言いようのない展示物を拝観することになる。それは将軍や朝鮮通信使の渡河のためだけ架けられた「船橋の絵図」大河川に臨時に何艘もの船を横に並べて網等で繋ぎ合わせている。

天和2(1682)と正徳元年(1711)の起川、美濃路佐渡川の船橋絵図であった。

本日324が展示の最終日。ギリギリセーフ。絶妙のタイミング。まさに冒頭に述べた「通信使の方が向こうから私(早川氏)のもとにやつて来る」そのものである。

〇往路の車中、早川氏と共に加藤均氏の熱情、迫力あるご説明ぶりにも耳を傾けた。

東アジアの歴史に造詣の深い加藤氏のテーマは「朝鮮通信使側から見た目本とその時代背景」日本が新しい将軍の譲位を朝鮮に報告し、朝鮮側がそれに応えて通信使を派遣することが定例化した。

朝鮮から見て日本の新政権が自国に対して有効か、政権の安定度はどうかと言う探情が重要な感心事。加藤氏は「朝鮮側が天皇制、幕藩体制、政治観を極めて正確に記述しており、鋭い観察眼に驚きを感ずる」と。さらに、朝鮮側は日本人の集団的な順応性や団結性を挙げている。指導者として統括しやすい民であり、有事の際には驚く程変化する可能性があるとも述べている。通信使に対する日本側の最高の接待(特に饗応記録では、鯛、アワビ、カラスミ、煮しめ等五ツ星レストランでも調理できないと思う程贅を尽くした献立=東京大学埋蔵文化財調査室・堀内秀樹)は友好の証しと共に自国の国力の誇示もあった。それは朝鮮側も非常に満足の体であっても実にクールな観察も‥・。

加藤氏は他に1392年に始まる「李氏朝鮮王国」「儒教」「朱子学」についでも種々濃く深

く独特の視線で語られた。

また、日朝間に立つ優れた外交官、朱子学者の雨森芳洲の説く「誠信外交」についても名言と締めくくられた。

〇煌びやかな衣裳とカネ、ドラ、タイコ等で独特の音楽を奏でながら江戸に赴く通信使道中絵巻の事は歴史の一頁として、多くの人々の知るところであろうが今回担当の早川、加藤両氏からは、善隣の使節団となる過程、対馬藩の苦脳、道中の文化交流、通信使の素晴らしい漢詩、友好下の日本と朝鮮だが、その水面下での思惑等々豊富な題材を提供して頂いた。研修会後、歴史を学ぶと言う事がいかに大切で大きな意味を持つか。隣国同士は特に争い、憎しみを持つべきでないとの認識を改めて強く感じた次第です。

<レポート 高橋浩子>

 

 

平成25年4月 研修会「二上山山麓に古代の時空を歩く」

 

〇平成25年4月28日()、陽春の候、奈良県に足を運ぶ研修会が行われた。

この日はゴールデンウィークの最初の日曜日で、朝から青空の日本晴れで研修会にはもってこいの天気で足取りも軽くなる。今回の研修テーマは「二上山山麓に古代の時空を歩く」。副題として、―中将姫伝説と悲劇の皇子・大津皇子。ここに古代の幻想を見る―。

 県下、大和と河内の国境に聳える秀麗「二上山」を仰ぐ葛城地区を探訪した。

担当は大谷浩士会長、高橋浩子副会長、衣川真澄、山本京子、柴田篤子の強力メンバーの5氏。参加者47名。

〇研修の第一歩は、ゴールデンウィークのためか、途中大渋滞に見舞われ、車内で過ごす時間が多く、充実したプレゼンが行なわれた。

先ず、トップバッターは、大谷会長が体調不良で欠席のため、高橋副会長が担当のリーダーとして、今回の研修会の概要の話で始まった。

〇「今回の探訪先は、まず、当麻寺。人は死後もまた現世に生まれ変わると信じた古代の人は二上山の麓に「当麻寺(たいまでら)」を建立し極楽往生を願う。飛鳥から難波に通ずる日本最古級と言われる竹内街道の要衝に当たるこの地は神秘的な歴史に満ちている。と説明あり。次に、相撲の開祖とされる蹴速、郷土の英雄の塚である当麻の蹴速塚を見学。次に、二上山の麓にある、傘堂、大津皇子の墓と伝わる鳥谷口古墳を研修。なお、皇子の墓は、二上山の山頂にもあるとのこと。最後の訪問地、石光寺の説明があった。光る石伝説の寺、日本最古級・弥勒石仏堂の開扉。又、日本最古の石仏が発見された。とともに、ここの庭園は、牡丹が有名で、その鑑賞が出来るとの事で又楽しみが増えます。春もたけなわのこの時期、当麻寺中の坊、石光寺の庭園には繚乱の牡丹の花の見事さに目を奪われると思われます」と結ばれた。

〇次に衣川氏が欠席された大谷会長の原稿「当麻蹴速」を代読。

「相撲とは」と始まる。「すもう」は動詞「すまう」の連用形「すまひ」が名詞化した。

「相撲」は「あいうつ」→格闘を意味する漢語である。「角力」は「角⇒比ベる、競うこと、力を競うこと」。「動物の角」敵を倒す凶器。との「すもう」の解説あり。

〇また、日本書紀に相撲の始まりとして野見宿禰と当麻蹴()速の命を賭けた勝負の記載を紹介。

『第11代垂仁天皇の時代、大和当麻村に勇敢で力の強い男がいた。名は当麻蹴(蹶)速(たぎまのくはや)。そして「俺の力勝る豪傑は世に存在しないのか。もしそのような豪傑が挑戦を申し出たなら、受けて立つ」と。出雲国の野見宿禰なる厳つい男が名乗りを上げた。

垂仁777日、両者の戦いは、当麻寺の参道の広場で始まった。麻蹴(蹶)速はあばら骨を蹴られ骨折、腰骨を踏み砕かれ、絶命。

天皇は、当麻蹴(蹶)速の土地を野見宿禰の殊勲賞として与える。野見宿禰は臣下となり、子孫は埴輪を制作する氏族となり「土師(はじ)」の姓を与えられる。との説明あり。

〇「当麻寺」について衣川氏の説明があった。

当麻(たいま)は、元は「たぎま」が訛って「たいま」と発音されるようになった。「たぎま」は「たぎたぎしはざま」から来ているようである。「たぎたぎし」とは道の凹凸がはげしい様をあらわす言葉として古代に使われていたようだ。

仁徳天皇は、難波に高津宮を開き(5世紀初)、このときに丹比野から大和に至る山越えの当麻道も作られたのであろう。

この道が、履中天皇が即位する直前に、妃争いの結果、弟の住吉仲皇子に宮を襲われる事件があり、履中天皇は、少女から敵の待ち伏せに遭遇しない当麻道を教えられた。その後、当麻道は古代の官道として整備され、竹之内街道と呼ばれるようになった。

『日本書記』には、推古天皇治世2l(6l3)に難波から都に至る大路を設けたという記述があり、これが、竹之内街道と長尾街道を官道として整備したとされている。隋や三韓との交易の流通を促進することと、王陵の谷への交通の利優性をよくする意図もあったと思われます。」説明は続く。

〇当麻寺の創建とその後の状況は、創建について確かな伝承は見つかっていないが、鎌倉時代に記された『上宮太子拾遺紀』には、推古20年(6ll年)用明天皇の皇子で聖徳太子の異母弟である麻呂子皇子が、聖徳太子の勧めによって河内国に万法蔵院を建てられたが、朱鳥6年(692年)麻呂子皇子の夢告により、この万法蔵院を現在地に移し、寺号を禅林寺としたのが始まりと記してある。麻呂古王が弥勒仏を本尊として草創した。そして、当麻の地は役行者ゆかりの地であり、役行者の所持していた孔雀明王像を本尊弥勒仏の胎内に納めたと記してある。

「この寺院は二上山の南麓の傾斜地に建てられている。食堂、講堂そして東西両塔が南面して建てられています。この立地の制約のために、本来あるべき南大門、それに続く中門はなく回廊もないという当時の仏教寺院の伽藍配置としては、大変特異なものです。」との説明あり。

〇次に、山本氏による「中将姫の物語」の説明あり。

中将姫(天平19年(745818宝亀6年(774314)は、奈良の当麻寺に伝わる当麻曼荼羅を織ったとされる伝説上の人物。平安時代の長和・寛仁の頃より世間に広まり、姫の深い信仰心と哀しい生涯は長く語り継がれ、様々な戯曲の題材にもなりました。

その生涯は、13世紀の『当麻曼荼羅縁起絵巻』や『古今著聞集』あるいは14世紀の『元享釈書』などに収められている。

〇中将姫は、聖武天皇の御代のこと、中臣鎌足公の孫、正一位武智磨公の嫡子である朝臣藤原豊成公の娘という。母は、品沢親王の息女で紫の前。若かりし頃そのお姿は美しく天皇が宮中に召され近従となった。亀年の末、天皇がご病気になり、その病気を治した褒美として豊成公は女官紫の前を頂いたが、残念なことに御子に恵まれず、豊成公も早や初老の年齢に達していた。そこで夫妻は木本明神に参龍し、ご託宣を受け、豊山長谷寺の観音大悲によって姫君を授かった。この時、観音大悲は、「これを汝の子とすべし。されどこの子三歳の時、汝等夫婦のうち一人は必ず命終わるだろう。」とお告げになった。

帝は、豊成夫婦が一子を得るため長谷寺へ参詣し、そのご利益で女子露生の報を思い出し、ものもわからぬ嬰児に三位中将の官名をお許しになったのです。喜んだ豊成は吉日を選んで姫君の名乗りの宴を開き、帝の大恩に感謝しこれから後、人々はみな中将姫と呼んだ。(13歳の時に、三位中将の位の内侍となるという説もある。) その後、母の紫の前がなくなり、豊成は後妻を貰ったが、後妻が、中将姫と不仲になり、殺害を試みるが、失敗する。その後、16歳で天皇より後宮に要望されたが、断り、17歳の時出家。29歳の時、極楽浄土に迎えられた。」との説明がありました。

〇最後に、高橋氏による「二上山」の説明あり。奈良県と大阪府の境、山頂が北の雄岳(517メートル)と南の雌岳(574メートル)に分かれているのでこの名が付く。2千万年からI千万午前に活動した火山の跡である。ちなみに火山活動の大噴火の産物が今日、全国的に使われている石材であって火山灰が固まって出来た凝灰岩は軽くて細工が容易、土木、建築用に利用される。古墳時代には石室や石棺の材料として切り出された。平成22年当会研修会に於いて奈良・桜井の箸墓古墳を探訪した際この古墳は遠く葛城の二上山から石材が運ばれ築造したと説明された事を思い出す.たたくと金属音のするサヌカイトも多く産出され縄文時代からヤスリやオノ、ヤジリに利用された。

現在の二上山は火山の姿からはほど遠くおだやかで美しい双峰に魅せられる。ところで、高橋氏は3年前雄岳の山頂まで登ったがその時の感動は忘れていない。ひたすら山頂を目指した訳はそこに在る天武天皇の第三皇子、悲劇の大津の皇子の葬られたお墓にお参いりしたい一心からに他ならなかった。」と高橋氏は話された。

〇「鳥谷口古墳」が真の大津皇子の墓ではないかとの学説が出されている(県立橿原考古

学研究所付眉傳物舘、河上邦彦前館長)こちらも規模は小さくツギハギだらけの7世紀後半の方墳である。出土物は少なく土器や鉄クギ等であり、この時代はもう一時代前の様な煌びやかな副葬品はどの古墳からも出ないという。まだ二上山には山頂と鳥谷口の古墳の他にもまだあり墳墓の主は殆ど判明しないとされる。ミステリーとロマンをかきたてられます。」と説明された。

〇傘堂については、高橋氏は「雌岳の麓に太い柱1本で屋根を支えた風変わりな小堂が建つ。傘を広げた様な形から傘堂と呼ぼれている。名工・左甚五郎の弟子が建てたと伝承されている。延宝2(l674)大和郡山城主・本多攻躊が位牌堂として建立したもので仏像を納めた厨子を置き阿弥陀仏が祀られていたという。この仏像は現在は付近の明円寺に保管されている。傘堂に詣でれば、ポックリ往生でき周囲に迷惑を掛けないと伝わる気の利いたお堂。この傘堂から二上山の頂上が間近に見える。」

〇最後に、柴田氏による、「石光寺」の説明があった。

奈良県当麻町にある石光寺(せっこうじ)は山号を慈曇山と号する浄土宗の寺院である。富麻寺の北、二上山を背景に位置し、牡丹で有名な寺で、通称「染寺」とも呼ばれている。天智天皇(626672)の時代67O年頃、桑野の地に不思義な光を放つ大石があり、その場所を掘ると弥勒三尊の石像が現れ、天皇の勅願により寺院が建立されることとなった。開山は修験道の聞祖である役行者(えんのきょうじゃ)、「役小角」(えんのおづの)ともいわれる)で、石光寺と名づけられたということである。石光寺はボタンの花でも有名である。境内には約5OO種類、3OOO株ものボタンが植えられ、初、夏には百花爛漫の賑わいを見せる。また、11月から1月ごろ咲<、ワラ帽子に包まれた寒ボタンも見もので、冬咲きのボタンはここだけのものという。二上山を背景に牡丹の咲き乱れる様は格別である。

〇当麻町に着いたのは渋滞もあり、予定より1.5時間遅れた12時を回っていた。そこで、先ず、当麻寺の門前にある釜飯で有名な玉や本店に入り、昼食となった。ここの釜飯は、海老、鶏肉、豚と種類も豊富で、事前に希望を取ってもらい、好きな物が選べたことは担当の方の思いやりが、ひしひし感じてきます。

〇昼から、当麻寺を研修。本堂で、お寺の担当者による曼荼羅絵巻の講話を拝聴。本堂、講堂、鐘楼、東西搭を見学。続いて、お寺の駐車場脇にある、当麻蹴(蹶)速の塚を参拝、二上山に向かう。二上山中腹に大津皇子の墓といわれている鳥谷口古墳を参拝。一部石室が露出しているが、入り口から中が観察できた。最後に、石光寺を参拝した。ここは、当麻曼荼羅縁起と日本最古の石仏が有名。又、庭一面の牡丹の花が、丁度咲き頃で、ほぼ満開。境内には、染井の糸掛桜があった。ここを後に帰路についた。

今回も同様。大いに楽しく学ぶ有意義な一日でした。〈文責守屋道治〉

 

H25年5月 研修会「平安貴族が夢見た浄土の世界を訪ねる」

 

〇平成25526()若葉が光る美しい季節。京都府の南端、木津川の流域・南山城の小田原山・浮瑠璃寺(真言律宗)と補陀洛山・海住山寺(真言宗)を訪ねる研修会が行われました。

題して「平安貴族が夢見た浄土の世界を訪ねる」。年間を通して一番良

い季候であるこの月参加者も多く44名。担当者は「京都の歴史」に造詣の深い川崎政俊、「仏像のお話」とくれぱ当会では第一人者と言われている武藤明則の両氏。

今研修も先の4月の研修と同様「極楽浄土」がキーワードである。

25頁にわたる資料が配布され、内容も非常に分り易くまとめてある一冊である。

〇まずは探訪先の南山城の歴史全般について武藤氏の持ち前のテンポよく、歯切れのよいご説明に耳を傾ける。

南山城は木津川を通して早くから朝鮮半島等と交流があった。古墳時代は大和王権の関わりも深い椿井大塚山古墳等、巨大な前方後円墳が築かれ、飛鳥、奈良時代では高麗寺等多くの寺院が建立された。

聖武天皇の御世、ここは一時「恭仁京」に選ばれ王城として栄えたが、平安時代になると、東大寺や興福寺等南都仏教の世俗化を嘆いた僧侶達の隠遁の地となり旧仏教革新の地ともなる。

鎌倉時代になるとこの地の石仏に見られる様に人々は石に仏を刻んで信仰の対象とした等々・・。

この様に、ここ南山城は古くから開けた地であり、人々の信仰篤き土地であった事が伺われる。

〇さて続いて武藤氏は今回のテーマ「浄土の信仰」つまり阿弥陀如来と西方極楽浄土、九品往生、さらに特筆すべき平安時代の浄土信仰についてお話された。

阿弥陀如来とは西の遥か彼方にある極楽浄土の教主であり、夕日が黄金色に輝き命を迎え入れてくれる「来迎のほとけ」である。

大無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経の三部経に分かれており、特に観無量寿経は4月研修の当麻晏茶羅に観る太陽が西の空に沈みゆく映像を観想する「日観想」が主体である。

研修会が行なわれる前段では「九」という数字がポイントであり、ある思想を表わすがそれは-体何でしようと、担当者のご両人からミテリアスな問いかけがあったが、 これはどうやら「九品往生」の事で

あるらしい。

これについては、その信仰の深さ、生前の業によって九ツのパターンの浄土に迎えられる。また、迎えに来下する仏様のメンバーや乗り物も異なるという。九ツのパターンとは下品下生から

次第に上り、上品上生までの九段階に分かれる浄土のエリアの事。

これは、また、少々ドキッとする内容である。この辺りのお話を聴く時の皆は心なしか背筋が伸び真剣な表情に・・・()。やはり皆、自分自身は将来どの世界の住人になるのだろうかと思いを巡らしたのでしよう ()

平安時代後半より仏法が衰え社会が乱れるようになると言う 「末法思想」が高まり人々は不安に陥るがこの様な世情の中、源信は「往生要集」を表し地獄の様相と極楽の荘厳さを説き、ただひたすら南無阿弥陀仏と仏

の名を口に唱える「称名念仏」を勧める。この称名念仏を認知させた事は後の法然の「専修念仏」の教えに多大な影響を与えていくのである。

〇さて、今研修は南山城の一角にある先述の二寺院のみを探訪するゆったりタイムの行程である。二寺院の説明は川崎氏から。氏の味わい深いお話ぶりに耳を傾けた後、いよいよ最初の寺、小田原山・浮瑠璃寺へ。

寺はいまも懐かしい鄙びた日本の原風景の中に静かに佇んでいた。馬酔木や花木が植えられた細く長い参道沿いには、軒下で地場の野菜を、カエルや亀の可愛らしい小動物の置物を、ささやかなお土産を

並べる店が続く。

のどかな昔ながらの風景に心が和む。

歩を進めて行くとやがて小さな山門が見えてくる。

このいかにも時代を感じさせる山門を潜ると、目の前に5月の眩いばかりの新緑の木々に囲まれた池が広がっていた。

宝池と言い湧水を集めた池。この池を中心に東に薬師仏を祀る三重塔、西に九体の阿弥陀様を祀るお堂が建つ。

三位一体か。どうやらこの位置関係が重要な意味を持つらしい。往路のバス車中での川崎氏の説明によれば、当初の寺号は辺りの地名から名付けて「西小田原寺」と言った。

京や南部の大寺に飽き足らない僧によって、隠遁所や修行場として建てられた堂坊が多く同寺もその一寺院であった。

その後年月を経て興福寺の一条院門跡であった恵信という僧が、堂宇が乱立していた伽藍を新たな構想で整理した配置が上記の様な構成である。

現在の寺名「浄瑠璃寺」は創建時の薬師仏の浄土である浄瑠璃世界から付けられた。

何とも上品で美しい響き。心魅かれる寺名ですね。

薬師仏は東方浄土の教主で現実の苦悩を救い目標の西方浄土へ送り出す「遣送仏」であり、対して阿弥陀仏は西方未来より理想郷である楽土へ迎えてくれる「来迎仏」である。成程!!ここで重要なことを一つ学ぶ。

この寺では位置的に見て、最初に東の三重塔の薬師仏に苦脳の救済を願い、その前で振り返って浄土の池越しに彼岸の九体阿弥陀仏に来迎を願うのが本来の正しい礼拝順序であると。理にかなった非常に分かり易い筋書きだ。

しかし我々はまずは筋書とは反対に、最初西側の阿弥陀堂(国宝)に入堂し礼拝する。

金色に輝く九体の阿弥陀如来像が横一列に整然と並ぶお姿に圧倒される。この九体の如来様こそ先述の「九品往生」を具現化したものである。ですからこの寺は別称「九品寺」とも呼ばれる。上質のユーモアたっぷりの僧侶のご説明を拝聴する。

さて、皆、自分のその時、お迎えの時、どの阿弥陀様がお迎えに来られるか・・・?

上層界へ迎えられたいなら今からでも善行を積めばその切符を手にする事が出来るか・・・。はて・・・?

身が引き締まる思いの後、浄土の池周辺の散策。バックに緑の森を従えた朱の美しい三重塔を見学後、余韻を残しつつ寺を後にする。

昼食は門前の「あ志び乃店」にて美味しい、とろろご飯を頂く。このお店の玄関口までのアプローチ沿いの少し崩れかけた土塀が、何とも風情を醸し出している。

いかにも鄙びた里に在る食事処という雰囲気であった。

〇木津川の流域では最も上流の盆地が南山城の甕原(みかのはら)として名が知られた場所。

この地がかつて都(恭仁京)に選ばれたところ。現在、恭仁京跡の真北にある三上山の中腹に「補陀洛山・海住山寺」が建立されている。

本日の研修後半の探訪する寺院である。寺名の海(うみ)に住む山寺(やまでら)とは「これいかに」と言う思いを乗せながら昼食後バスは三上山ヘと向かう。

途中から道幅がとたんに狭くなり、手順どおりタクシーに乗り替える。

山裾の集落を通り抜け海住山寺への登り口より松林に覆われた狭い山道をくねる様にして進み15分程で到着。百人一首にも登場する甕原を一望におさめる地だ。

寺内にて、とても上品なお庫裏さんのご説明を拝聴。

創建は恭仁京造営に先立つ6年前天平七年(735)のこと。

大仏造立を発願された聖武天皇が、その工事の平安を祈るため一宇をを建立させ、十一面観音菩薩を奉安して「藤尾山観音寺」と名付けたのに始まると言う。

しかし平安中期に灰燼の厄に遭い全てを失ったが承元二年(1208)解脱上人・貞慶が思うところあって旧寺を中興されてよりここ寺名を海住山寺と名付け寺基が定められたとする。

観音様の浄土は「南海の洋上にある補陀洛山である」とここで知る。成程。ですから観音の浄土に因んだ寺名と納得する。

開祖・貞慶は厳しい求道と戒律を厳かにして仏道に向かわれた僧。

浄土宗の開祖・法然上人とは対極に位置する。

寺の裏山(山上)からの展望は素晴らしい。

甕原の広がる平野とその彼方に連なる山並みに向かって深呼吸。

往時の人々と同じ目線で眺める私達・・・。

眼下には今は水田と化した恭仁京跡。その中程に残る山城国分寺跡が昔の面影を伝えるのみである。

恭仁京はわずか5年で廃絶したと聴く。境内にて、日本で二番目に小さいとされている五重塔を見学。

〇当会に在籍していればこそ、普段では容易に思いつかず行けそうにないところを研修させて頂ける喜びに、まず担当の川崎、武藤両氏に感謝する次第である。

今回は5月の爽やかな風と共に沢山のありがたい仏様を拝観した。

仏様を前に末法思想が流行し平安貴族たちの死ヘの畏れと、必至に極楽往生を切望する姿を想像し、この時代の人々がとてもいじらしく思える一日となりました。

ありがとうございました。  文責 高橋浩子

 

6月研修会 「衰退する名門吉良氏と台頭する松平氏」

 

〇平成25623()、向暑の候、県下・西尾市は吉良の庄を訪れ名門吉良氏の歴史とそれに深く関わる松平氏の足跡を視る研修会が行われました。題して「衰退する名門吉良氏と台頭する松平氏」。担当は後藤正及び高橋浩子の両氏。蒸し暑く梅雨の後半でありながらも参加者43名を得られました。

特に主担当である後藤氏はここ3年来にわたってテーマの中にある松平氏の事績を深く探求してこられ、一昨年発祥の地である豊田市松平郷からの検証を始めとし、昨年は安城市に侵攻する松平氏を、今年は吉良の庄に関わる松平氏の動向を訪ね調べる事を目的としている。合わせて今回は鎌倉時代初期よりのここに名門吉良氏の台頭の歴史も同時に学ぶ研修会である。

〇いつも通りの金山駅前からの出発であり研修目的地までの道のりは比較的短い事からバス車中では短的かつ要領よく説明がなされた。

まず、後藤氏は「地名に因む吉良の歴史」を語る。

承久2年(1221)鎌倉幕府と朝廷方との間に起こった承久の乱の折、当時鎌倉幕府の中にあって源氏筆頭の地位にあつた「足利陸奥守義氏(文治5.1189〜建長6年・l254)」が鎌倉方の大将として活躍しその功績により三河守護職に任じられたことから始まる。この足利義氏のプロフィールを紹介しますと義氏の妻は後の執権北条泰時の娘。母は尼将軍北条政子の妹・時子であるから義氏は政子の甥に当たる。

頼朝の死後、将軍を継いだ頼家、実朝が次々に悲業の最期を遂げた後、頼朝の血筋が絶えたため当時の鎌倉では八幡太郎義家以来の源氏の正統である義氏が筆頭の位置にあった。ゆえに承久の乱の折には源氏重代の宝である髭切丸の太刀と源氏の象徴の白旗一流を与えられ出陣したのである。承久の乱は鎌倉方の圧勝に終わり義氏は恩賞として、三河の守護として赴任すると共に守護所を矢作(岡崎市)に設け矢作川の下流(矢作古川)の吉良の庄内西側に長男・長氏を、東側に三男・義継を据え三河の支配体制を固めてゆく。その後、矢作古川より西部を「西条吉良」、東部を「東条吉良」と名乗るようになる。

そもそもこの研修は特にこの東条吉良氏が後年松平氏の介入を許し、また松平と結ぶ縁にも注目しながらの行程となる。

ちなみに義氏自身は二男の泰氏と共に本貫の地、下野国足利荘(栃木県足利市)に帰り、義氏の五代あとが室町幕府を開いた足利尊氏である。

〇高橋からの説明は吉良氏と松平氏との関係を説く。

矢作古川を挟んで東西ふたつの吉良は当初の関係は良好だったが、やがて互いにその正当性を主張して争うことになる。

争いは、およそ100年にわたったが、特に応仁の乱では西条吉良城主・義真が細川勝元の東軍に属し、対する東条吉良城主・義藤が山名宗全の西軍に属したことから反目は、ここに頂点に達した。

この乱の最中、東条の義藤が西条に攻め入り完敗し行方不明となり、ついに帰城はなかった。

城主を失った東条吉良の家臣は幼い跡継ぎ「持清」を抱え困惑した。

この頃松平氏は西三河一円に勢力を拡大しつつあり男子を周辺の豪族や小領主たちヘ次々と入り婿させ勢力伸張の一ツの手段にしていた。ここに来て東条吉良氏も結局は松平氏を頼らざるを得なくなりついに「松平義春」を城主に迎え入れる。その後も松平との縁は重なるが、世は戦国の様相一段と深まり吉良氏の勢力は衰退する一方であった。

持清の子「持廣」は歴代城主の中でもっとも度量の広い人物と言われ実子が無かった為、松平清康の娘であり家康の父・広忠の妹(後の俊継尼)を養女として育てる。 ここでも松平とのご縁を視る訳だ。

持廣は養女の婿に犬猿の仲であった西条吉良氏から迎える。「西条義安」である。後年義安は織田方に内通との疑いにより静岡に幽閉され、空となった東条には再び西条から「義昭」が入城。結果的にはこの義昭が最後の東条城主となる。

〇さて、ここまで担当両人による吉良氏の発祥と重なる松平家との縁を説きましたがここで一息おき、バスはこの研修の最初の探訪地「鎧が淵古戦場」に到着。永禄3年(l560)桶狭間の合戦の後、今川から独立した家康が織田信長と同盟して以後、ここ今川色の濃い吉良義昭と対立し永禄4年(l56l)家康軍と義昭軍が激戦を交えた跡地。

このあたりは永禄当時まわりの山々に囲まれ、満々と青い水をたたえた深い淵があったそうだ。地の利を心得ている義昭の勝利に終わり家康側の大将・深溝松平好景は討ち死、多くの兵がこの淵の水底に沈んだ。しかし、松平の結束は固くやがて義昭は松平勢の反撃を受け包囲され、東条城の北西「藤波畷の合戦」では勇将・富永伴五郎(東条城の若き家老)が戦死、ついに義昭は開城し家康の軍門に降ったのである。この時点でもって鎌倉以来の名門吉良氏は一旦滅びるのである。合戦の跡地は現在、広大な田園風景の中に「古戦場跡」の碑がひっそりと建ち、往時を偲ぶよすがは何も無いが激戦の地であった田畑の中にぽつりと「伴五郎地蔵堂」が建つ。30坪程の敷地に建つ小ぢんまりとした堂であるが伴五郎を慕う地元の人々により手厚く守られ(供養され)手向けられる花は枯れる事がないと言う。我々が訪れた時も丁度お掃除の方が敷地内の樹木の手入れに汗を流されていた。

マイナーながら当地での冨永伴五郎の人気度はかなり高い様だ。25歳の若さでの「討ち死に」に対して人々の情が寄せられているためか。

歩を進めて見学した大通院の彼のお墓の前の供花も真新しい・・・。

〇さて、ここ三河・吉良の庄を訪ねるならば東条城の見学と東条吉良氏の菩提寺・花岳寺、関ケ原以降に復活した吉良氏の菩提寺・華蔵寺の拝観は欠かせない。

東条城は小高い丘の上に本丸虎口と城門が復元されている。黒い堂々とした城門は鎌倉時代の創建当初に近い状態に再現されていると聴く、また現在では数少ない中世の城郭の有様を視ることも・・・。

皆は城門を潜り主郭の平坦部に集まり、担当の後藤氏の説明を聴く。長い時の流れに沿い後世に開墾が行われた可能性もあり、よくわからないとするも、わずかに残る土塁らしきもの、当時は城から海が見え波の煌めきが眼に映ったであろうことや、「平安な時代には吉良氏の愛でた文化がその海の潮香と共に流れて来る気がする」と情景と情緒を交えて語られた。二郭からの眺望は素晴らしく、先述の「藤波畷」の戦地跡もすぐ眼下に広がる。遠くに吉良の庄内では一番高い山「八ツ面山」も望める。

実は「吉良」の名はこの八ツ面山から産出する雲母(きらら)から転化した名だと言われている。三郭と言われる平坦部も広がりを見せており、我々は東条城跡をくまなく回る。

前世はいつの時代に生きたのか解りませんが()、なんとも懐かしい風景に出合った様な気がして城跡の見学はいつも心踊る経験である。

藤波畷の戦いで敗れた東条義昭は城を開城し後に入城したのは青野松平氏である。この時より吉良氏は暗く重い歴史を背負う事になるが世の中は捨てたものではない。月日が経ち家康が天下を取って後、家康の恩情で先述の静岡に幽閉きれたと紹介した義安の子の義定が吉良家の再興を許される。再興後の吉良氏の菩提寺が「華蔵寺」である。

同寺の御影堂には義安、義定父子の木像が安置されこの二体の傍らに子孫で忠臣蔵の敵役である吉良上野介義央も座しておられる。拝観した皆は「芝居や映画で観る意地悪爺さんのイメージとは程遠い若々しく穏やかな良い表情をしておられる」と感心しきりであった。

華蔵寺に隣接する花岳寺は往時広大な寺域を有している様を立て看板の絵図で確認。境内にて松平氏から吉良家に最初に入った松平義春の墓、東条吉良氏中興の祖・尊義の墓等に合掌。

〇今年6月は年次総会の中でも二年に一度の大きな総会と言う事もあり風光明媚な三河湾の海を望む吉良温泉は昼食を兼ねた議場「吉良の庄」にて行われた。

役員改選等の内容を含めた議題であったが、全員異議無しの声と共に無事終了した。ところでこちら議場に向かう移動の車中で、高橋が三河吉良の庄と室町幕府創設の足利尊氏との強い絆と接点をお話した。

〇旅の最後は矢作古川の西、西条吉良側にも立ち寄る。鎌倉時代後期、西条吉良の分家「今川範国」が駿河守護職となり駿府に赴いた。その今川氏の発祥の地(碑が建つ)も訪ねた。

〇今回は鎌倉以来の名門吉良氏と台頭する松平氏との関係を軸に吉良庄内の各地を探訪したが一見、地方の狭くマイナーっぽい史蹟と思われ勝ちですが、ここに鎌倉時代から現在までの実に800年と言う時の積み重ねに思いを馳せれば、それはやはり遠くて深い旅路であったのではないでしようか。 

                                文責 高橋浩子

                            

H25年7月学習会 「日本のあけぼのの須佐之男の時代を探求する」

 

〇平成25720()盛夏最中、名古屋市東区「ウイル愛知」特別会議室において「日本のあけぼの須佐之男の時代を探求する」と題して学習会が開催されました。

担当は当会、会誌担当リーダー・衣川真澄氏。聴講者は46名。

まずは大谷会長のご挨拶から入り、開口一番「今日この頃の暑さは明治〜昭和時代は経験したことのない暑さです。しかし実は平安時代の人々はこの暑さと同様の経験をしたとされます。猛暑の中を多数のご参加ありがとうございます」と話される。

会長の言葉から、そうか我々は1千年ぶりの酷暑を経験しているのだと思うと少々気が遠くなる。

さあ、ではこれから衣川氏の語る「スサノオの威力」でこの夏の暑さを一気に吹き飛ばしてもらいましよう。

〇氏はまず神話に登場する須佐之男を描いた姿を紹介する。

その一つは九州の伊都国博物館に展示される大変恐ろしい形相をした舞楽面。一方、島根県松江市の八重垣神社に収蔵される板戸に描かれた像は幸せいっぱいの凛々しい顔。前者は天照大御神の治める高天原において乱暴狼籍を働き出雲に追放される乱暴者。後者は出雲では、この地を荒らす八岐大蛇と言う怪物を退治してその後、出雲を平和的に治めた英雄の為政者。

この二つは記紀に記された須佐之男のイメージに基づいて描かれたのであろう。

衣川氏は「記紀はこの様に須佐之男に全く異なる事績を記述するが、その実体はどうであったか」と。これが今学習会でのまさに課題となるポイントである。

ご説明の拠りどころは『古事記』『日本書紀』はもちろんのこと中国の史書も参照しておられる。また、神社伝承や考古学研究の成果も用いて氏らしい穏やかな性格ならではの「中庸な結論」に導くとされている。

〇記紀に記される須佐之男の誕生は父・イザナギが顔を洗い、左目を洗ったとき天照大御神、右目を洗ったとき月読命、鼻を洗つたとき「須佐之男」が生まれたとする。

イザナギは天照に高天原を、月読に夜の国を、須佐之男には海原を、それぞれに治める拠を指命する。ところが須佐之男は、海原は「イヤダ″」と言い泣いて拒絶し母のいる根の国へ行きたいと返す。父・イザナギは須佐之男に呆れ「望みどおりにせよ」と言い須佐之男を追放する。彼は根の国に行く前に高天原の天照に暇乞に行ったがその時、山を揺らし天地を轟かせて高天原に上る。天照は驚き自分の治める国を奪いに来たのかと問い質す。

須佐之男は邪心の無いことを証明するため誓約(うけい・・・正邪を決めるために両者が同一の行為をする事)をしてお互いの持ち物から子を産む。

須佐之男は天照に自分の持ち物の剣から三女神を産ませ、天照は須佐之男に自分の持ち物の玉から五男神を産ませる。

三女神は須佐之男の持ち物から生まれたので彼の子。天照の持ち物から生れた五男神は彼女の子とされる。

何やらとてもややこしい感じがします。この勝負は須佐之男の勝ちとされ邪心なき事が証明されたにも関わらず慢心し須佐之男は高天原の大切な田を壊し、宮殿に汚物を撤き散らしたりと狼籍を働いたため、怒った天照は天岩屋戸の奥に身を隠してしまい世の中は真っ暗になってしまった。

ここから皆さんもよくご存知の「天の岩屋戸」の神話に続く。

その後、この様な重大事を起こした須佐之男は高天原から追放された。

ここまでが須佐之男の手のつけられない荒ぶる一面である。

ここで疑問に思う事は、須佐之男は単に暇乞の為に高天原に上かったはずだ。誓約にも勝ち清い心が証明されたにもかかわらず、何故、悪態に変身したのでしよう。記紀は時々核心部分をあいまいにする。

氏は「須佐之男の狡猾さを暗に示すためだろう」としています。

また、氏は言及しませんでしたが須佐之男は天照と誓約をした時、剣を差し出して彼女に子供を産ませていますがこれはとりも直さず[両者の間に肉体関係があった事を示すものであってここに兄妹(姉弟)婚の痕跡が見られる」と言う意見もある。

「天の岩戸神話」は日蝕神話に位地づける場合もある。インドのアッサムやカリフォルニアのインデアン部族の伝承にも似た説話があると言う。失われた太陽の力を呼び戻そうとする冬至の祭りと解することも。ちなみに氏は天照大御神を「卑弥呼」に比定しておられる。

さあ、次はここまで諸悪の権化であった須佐之男が善神に変身する不可思議さにお話は移行する。

高天原から追放された須佐之男は出雲国の斐伊川の上流に降り立つ。

そこで若い娘を間に泣いている老夫婦に出合う。娘は櫛名田比売と言い彼女が毎年襲って来る八岐大蛇の今回の生け賛になる事を知る。

大蛇退治を決心した須佐之男はさまざまな手段を講じ、十挙剣を抜き大蛇をズタズタに斬って殺す。

その時大蛇の尾から出現した剣が草薙剣(くさなぎのつるぎ)である。須佐之男は出雲国の須賀に稲田宮を建て、櫛名田比売と共に国を統治してゆく。

ここでお馴染の「八岐大蛇とは一体何なのでしようか」 と氏は問いかける。氏は大蛇とは1つの表現であって、それは毎年収穫期を狙い半島から襲って来る勇猛で野蛮な異民族集団(担婁(ゆうろう))だったのではと・・・。

この民族は『魏誌』や『後漢書』の東夷伝に載ると言う。気候風土上、常に穴居し非常に不潔で臭く規律のない最悪の無法者達と紹介されている。この様なとんでもない集団に毎年襲われたのではたまったものではないがスサノオの率いる集団が彼らを退治して英雄となり、この地を支配した。また、別の説として8本の支流を持ち雨期に増水して荒れる斐伊川は八岐大蛇のイメージにぴったり。

スサノォが大蛇を退治(治水工事) して下流の稲田を救い豊穣をもたらしたと言う説もあり、種々だと言われる。他にも砂鉄を採掘していた先住者を滅ぼした等幾色の説もあり想像が膨らみ面白い。

大蛇退治に使用された剣(断蛇剣)は奈良・石上神宮に所蔵されていると。配布資料にはその写真が載る。

さて、昔の人は須佐之男の善神的イメージより荒ぶれるイメージに強く魅かれたのでしょ

うか。恐ろしい疫病を彼の荒々しい威力でもって祓ってもらおうと京都の八坂神社をはじ

めとする須佐之男を祀る神は全国各地にありますね。

テーマにおける須佐之男の二面性に関しては以上の様な表現から読み取れるが、彼が悪から善へ変身するその原因と理由について記紀は語らない。

〇配布された資料は古代史のオーソリティー衣川氏らしい思いの丈がぎっしりと・・・。それらはみなとても参考になる内容である。

例えば記紀成立過程を覗きながら、さまざまな仮説を立てられている。紙面の都合上、大まかな結論を紹介しますと、

@ 須佐之男は本当に天照の弟であったのか?

A 須佐之男はどこから来たのか?

2世紀頃、朝鮮半島?(わい)の国から渡来した人物。

B 須佐之男と言う名は本名ではなく「ウマシクシ」である。

C須佐之男の後継者は大国主命。

大国主命の没後、倭国の大乱を経て卑弥呼が女王として共立される。その後彼女の亡き後は男王が立つが支持を得られずいよいよ「トヨ

(壹与)」が登場、後を継ぐのである・・・。

等々日本のあけぼの須佐之男の時代についで彼の横顔と共に衣川氏のオリジナル性に富むお話は、皆の興味をひき想像力を逞しくさせた。

古代に誘われ同時に古人(いにしえひと)に好奇心を抱かせる語りに二時間にわたって耳を傾けました。 

   文責 高橋浩子

 

H25年8月学習会 「日本と渤海の交流史

○平成25年8月25 ()残暑の候、名古屋市中区金山、日本特殊陶業市民会館第二会議室において学習会が行なわれた。

テーマは「日本と渤海の交流史 」。担当は森田副会長。残暑なお厳しい折からも聴講者46名という多数の参加を頂いた。

古代史研究を主としておられる森田氏は最近では古代の朝鮮半島及び大陸の情勢に目を向けられ特に古代の日本とそれらの国々との関係に注目されている。そこで今回は西に唐と接し南に新羅と接し東は沿海州にかけて今から1300年前に忽然と出現した古代東アジアの王国「渤海国(698927)」を取り上げられた。20頁に及ぶカラー写真も豊富な資料が配布された。

「これだけ詳細な説明文の資料を頂ければ私達はかなり渤海通になれるかも・・・」ウフフ・・・。森田氏の編集の素晴らしさに脱帽。

今回の学習会は資料の朗読を益田順子氏が担当し森田氏が重要かつ注目に値する部分の解説を加えるというスタイルで進行した。

○森田氏は「はじめに」として新羅の名を知らない人はいないと思うが「渤海」の名を知る人は少ないと思う・・・と。

しかし渤海国の全容を詳細に語るには時間の制約もあり、今回はテーマの通り我が国と渤海国との交流に重点を置きそこから渤海国とは何たるかを少しでも理解して頂けたらと思い取り組んだ」とその意気込みを述べられた。

森田氏のお話の概要を紹介しますと、まず渤海国が栄えた 7 世紀末から約230年間の間の東アジ ア情勢に目を向けると、その世界は中国史の展開によって形成されて来たのである。それが政治的、文化的に一体となったのは唐代になってから。唐の文化には目を見張るものがある。それは北方ユーラシア草原で活躍した遊牧騎馬民族や西域のシルクロードで活躍した交易民が周辺のさまざまな国の文化を唐へ運び込んだ為だ。例えば北西インド、中央アジア、サザン朝ペルシャ、イスラム、東ローマのビザンツ等の文化だ。これらの諸文化は融合され唐において独特の国際文化が形成された。渤海国も新羅も日本も高度な文明を築き上げていたこの唐に使者を送り政治制度や学芸も貪欲に学び共に成長していったのである。唐に学ぶ生徒同志と言う感じが・・・。

○さて、いよいよテーマの渤海国使節団の日本への来着であるが資料には実にこの辺りの事柄が丁寧に説明されている。

まず前述の様に日本は渤海国とは、共に唐貢する間柄であったが渤海からは朝貢を受ける立場 をとっており、その回数は34回。だが日本からも目的を以って遣渤使を送っておりその回数は15回。それらの記述は『続日本記』『日本後記』による。

森田氏の資料において特に第一回目の「渤海使節団の来着」の解説には多くの頁を割いており臨場感が溢れて興味深い。氏も「最初の渤海使来着についてはその後の交流を考える上で多くの示唆を含んでいると思うので多少詳しく述べることにする」とおっしゃる。従ってレポートもこの点を重視して書いてみる。

1 回目の渤使は神亀4年( 727)日本海沿岸部の蝦夷地に漂着。北西の季節風を利用して実に風任せの状況だ。しかし漂着後、団員24人中16名が殺害され残る8人は蝦夷地から命からが ら出羽国まで逃げ延びる。おそらく冬季であったろう。出羽国では冬の季節に合った衣服を支

給され、その三ケ月後いよいよ入京を果たすのである。ここまでは、随分と過酷な体験をしたであろう事が読み取れる。

さて、入京後は日本国朝廷に拝賀するに相応しい衣服、冠、履が施され神亀5年の正月には使節達は宮中の朝賀の諸行事に列席し式典で渤海国王・武芸王からの国書と貢納品を聖武天皇に奉呈している。時に奈良の都はまさに馥郁たる梅の香りが盛りの頃であろう。天皇に拝謁し重責を果たした使節団の輝く顔が目に浮かぶ。資料には奉呈した国書の内容文も載る。実にそつのない丁寧な文であるが、そのままでは長いので要約して紹介すると・・・日本と渤海の国土の相違、日本の天朝を寿ぎ、敬仰の念を述べ自国の事を不相応にも諸民族を支配して高旬麗の旧地を回復し扶余の古い習俗を保っているとへり下る。今後は隣国としての友好を深めたいとの思いを連綿とつづる。最後に貂の皮を300枚献上するが珍しいものではないと思うが笑わないで欲しいと・・・。

この国書は格調高く末永く好 を厚くしたい望みが伝わって来る文面だ。これに対して聖武天皇は使節団を宴会に招きもてなし身分に応じて禄を与えたのである。かくして我が国は、この最初の渤海使を丁重にもてなすと共に帰国の際には船を新造して、同神亀5年6月には越の海岸から発つ渤海使達を本国へ送ったのである。もちろんさ我が国からも信書と贈物として採帛(さいはく)、綾(あやぎぬ)、?(あしぎぬ)、絹糸、真綿を託した のである。友好という表面の顔の裏にはどうしてどうして、したたかな軍事同盟が宿っていた訳だ。(ウーン)。その反面同盟によって渤海から唐の内情を知らされる事も。

情報を得られることは大きな利点であった。例えば唐朝最大の乱、8年も続く楊貴妃も関係する 「安史の乱(755763)」の情報等・・・。

しかも乱の終焉後、唐の政情が安定して来るとやがて渤海使節団の目的は軍事から経済的に変換され、渤海は多くの品物を交易し、経済的利益を得ようとする意図が顕著になる。

森田氏は言う。「渤海使に対する日本側は、接待費はもちろんの事、滞在費まで負担した。

朝貢されることは気分が良いが使節団の帰国時はその『倍返し』で見送る事で出費が重みバランスシートは赤字だった」と。日本人は人が好く見得も張ったのか・・・。その後、バランスシート等も鑑みてか渤海の来朝を制限する動きが見られるが渤海側は遠慮なく来朝し相当な利益を上げていった模様。この頃はもう日本から見て渤海の事をうっとうしく思う様になって来た感があるがそれでもまた、大陸の新しい情報や音楽や芸能、暦等の文化がもたらされたから何とも言い難い。日本も渤海も同じ漢字国であることから漢詩文化等の教養、文才を競い合う事も出来た様だ。このあたりのことはなかなか微笑ましく・・。

○資料は華麗なる宮廷外交の展開として渤海使の応接に活躍した才人達にも筆が及んでいる。

接待役には美男子を揃え響応役には知性と才能豊かな人物が選ばれたとある。また、渤海国王への国書の作成を誰に任ずるかにも神経を使い、それを当代一の能筆家に書かせている。

森田氏は「現在と全く同じ、外国からの賓客を迎えるに際し政府はいろいろ配慮するが、往時の国際外交での応接も渤海使の文人達に負けまいとする気負った姿勢が伝わって来ますね」と。

宴の席ではお酒が入れば興に乗り音楽に合わせて踊る「踏歌」なるものがある。若く美しい女性達で編成するダンシングチーム「女楽」がその役割を担い、いやがうえにも宴を盛り上げた。

この宮廷貴族の宴会は外国からの賓客のためだけでなく恒常的に行われていたらしい。ここでしかとしながら森田氏、「宮廷貴族のことばかりに目を向けてはいられない、庶民はいったいどんな生活をしていたのかが心配」と庶民派・森田氏ならではの言葉が印象的であった。

同時に氏はまた、女楽の舞姫達の中でも特に美貌と技芸に長けた者達が渤海を通じて唐へ売られた等の哀しい裏面史にも触れておられる。

○今回の学習会の内容も非常に多岐にわたっており特に資料は前述の様に読み応えのある素晴らしさに学習意欲が注がれた。それに対してレポーターの筆はなかなか細部にまで及ばないものがあり忸怩(じくじ)たる思いが宿る。唐を中心とする東アジア圏にあって朝鮮半島を統一した新羅。その北方の茫漠たる大陸に広大な版図を広げた渤海。そして海に囲まれた我が国・日本。故郷を後にしてはるばる千里。日本海の波頭を超えて共に往来し合った遣使達の足跡や行動、その交流の推移をしっかりと学ぶ学習会でした。

文責    高橋浩子

 

H26年9  1 泊研修会 「出雲の国造と神楽」

平成25年9月29日(日)・30日()に出雲を訪ねる研修会が行われた。研修テーマは「出雲の国造と神楽」。今年は伊勢神宮と出雲大社が揃って遷宮を迎える年であり,会員の関心も高く参加者は 40 名であった。担当の早川綾乃,後藤正,守屋道治の3氏には,何度も出雲に行って下調べをした上で資料を準備していただき,歴研ならではの充実した研修会であった。

私(武藤)個人としては,前年8月に引き続いて2度目の出雲旅行である。

初めて出雲へ行った時、そこは確かに「神々の国」であると思った。湖面の静かに波立つ宍道湖を低い山々が取り囲み、頂からは夏の雲が立ち上っていた。

「八雲立つ」とはこのことを言うのだろう。はるか昔,高天原を追われたスサノオはあの雲の上から出雲に降り立ち、オオクニヌシは葦原中国を平定し豊かにした。アマテラスに国を譲ったオオクニヌシは出雲大社に鎮まり、高天原から遣わされた天穂日命の子孫である出雲国造が代々祀り続けている。夕暮れになると夕日が宍道湖を染めながら出雲大社の方へと沈み,朝になれば何艘ものシジミ船が湖面に浮かぶ。時間が静かに流れる中で、人々は神々とともに暮していた。もう一度,あの地にこの身を置いてみたい。そう思いながら今回の研修会に参加した。

バスはいつもより早い 7 15 分に金山を出発した。「朝早いですから」と,クロワッサンの差し入れ。やさしい心遣いが嬉しい。車中では研修担当 3 氏より説明を受ける。『出雲国風土記』の「国引き神話」に始まり,出雲大社,出雲国造,佐陀神能・・・と説明は続く。

○大山

バスが中国自動車道から米子自動車道に入り鳥取が近づくと右手に大山が見えてきた。「国引き神話」の中で、八束水臣津野命が「高志の都都の三埼」を引いてきて「三穂の埼」をつくった時に綱をつなぎとめたとされる山である。伯耆富士と呼ばれるだけあって山容が美しく威厳さえ感じる。

○荒神谷遺跡

島根県に入ったのは午後 2 時頃であったろうか。最初に向かったのは,1984年から翌年にかけて銅剣 358 本と銅鐸 6 個、銅矛 16 本が発見された荒神谷遺跡である。出雲神話は架空の物語であり史実ではないという通説を覆す大発見であった。

これらの青銅器が埋納された弥生時代終り、日本は 100 余りのクニに分かれて争っていた。斐伊川の下流域に広がる出雲平野でも人々はいくつかのムラに分かれて暮していた。ムラムラは出雲独特の銅剣を結束のシンボルとして共有することでクニとしてまとまり争乱の世を生き抜こうとしたのではないだろうか。それは近畿の銅鐸や九州の銅矛を手に入れることができるほど広域のネットワークであったに違いない。どうして大量の青銅器が埋納されたかは謎であるが、ひとつの時代が終ったことは確かだろう。彼らが神名火山として日々崇めていた仏経山を望む荒神谷の

地に埋納したところに謎を解く鍵があるのかも知れない。

○西谷墳墓群

荒神谷遺跡の西に西谷墳墓群がある。弥生時代の終りに四隅突出型墳丘墓が造られ,古墳時代以降も古墳や横穴墓が造られ続けた所である。倭国が乱れた2世紀,西谷の丘陵地に四隅突出型の王墓が出現する。この頃造られた西谷3号墳から吉備や北陸の土器が発見されていることや,四隅突出型墳丘墓が山陰地方だけではなく北陸地方にも広がっていったことを考え合わせると,出雲王は吉備や北陸と同盟を結ぶことによって勢力の拡大を図ったのではないだろうか。西谷に王墓が出現するのは荒神谷に銅剣が埋納されてから間もない頃である。銅剣をシンボルとして結束していたムラムラは、ひとりの出雲王によって支配されるようになり,ついには銅剣を埋納することになったのかも知れない。四隅突出型墳丘墓は出雲王による支配のシンボルであったのはないか。西谷 3号墳に上がると,近くを流れる斐伊川の向こうに出雲平野を見渡すことができる。日本海沿いに出雲へやってきた北陸や九州の人々は、三瓶山を過ぎたころから西谷の王墓を見ながら出雲の玄関口である神門水海へ入っていったことだろう。中国山地を超え出雲大川(斐伊川)を下ってきた吉備の人々は、王墓を見ると出雲へやって来たことを実感したに違いない。四隅突出型墳丘墓は邪馬台国の時代にいくつか造られたが、卑弥呼が亡くなり壹与が女王になった頃に終焉を迎える。ヤマト王権が倭国を統一し大和に前方後円墳が出現すると、西谷にも古墳が築かれるようになる。王墓の上に立ちながらオオクニヌシの国譲り神話を思い出した。

○万九千神社

斐伊川の河口にほど近い神立の地に万九千神社がある。鳥居をくぐって正面の神社に参拝すると、それは立虫神社であった。よくよく見ると万九千神社は右手にあった。神無月(旧暦 10 月)に全国から出雲に集まった神々が,国に帰る前に訪れる神社である。神無月は出雲では神在月である、旧暦 10 10 日、龍蛇神であるウミヘビに導かれて全国の神々が稲佐の浜に集まってくる。神々が乗る神輿は絹垣に囲まれて出雲大社へと向かう。神楽殿において国造によって「神迎祭」が執り行われ、神々は御旅社である十九社に鎮まる。翌日からオオクニヌシと神々は、縁結びや翌年の収穫など人には予め知ることのできない神事(幽業)を神議りにかけて決める。この間、出雲大社の他に、日御碕神社や朝山神社,万九千神社,神原神社,神魂神社,多賀神社,佐太神社で「神在祭」が執り行われる。17 日夕刻、神官の「お立ち〜、お立ち〜」という声とともに神々は出雲大社を去る。26 日に万九千神社で神等去出祭が執り行われると、神々は明年の再会を期して直会を催してから、それぞれの国へ帰っていく。

神無月に全国の神々が出雲に集まるという伝承は、平安時代末の「奥義抄」以来様々な資料に記されているが、由来は定かではない。一説によると、オオクニヌシがアマテラスに「国譲り」をした時、「この現世の政事は皇孫であるあなたがお治めください。私は隠退して幽れたる神事を治めましょう」と言ったからであるという。

万九千神社には本殿はなく、拝殿後方に「神籬磐境」があり、その背後には仏経山を望むことができる。自然を崇拝していた古代出雲の人々の祈りはヤマト王権に屈した後も今日まで形を変えて続いてきたのであろう。神名火山を背にして磐座を取り囲みながら最後の宴を催す神々の姿が目に浮かぶようだ。

○出雲大社

出雲大社は八雲山を背にした神域にある。神域の入り口である勢溜に立つ鳥居から参道に入っていく。松並木をまっすぐ進み,手水舎で口と手を清めてから境内へと向かう。毛利綱広が 1666 年に寄進した銅鳥居をくぐると社殿が見えてくる。大注連縄のかかる拝殿の前で二拝四拍手一拝の拝礼をしてから後ろに回って大社造りの本殿を参拝した。国宝であり、日本で一番高い社殿である。出雲大社の創建は記紀に語られている。『古事記』によると、オオクニヌシは国譲りを迫るタ

ケミカヅチに対して「宮柱をしっかりと掘り据えて,千木を高天の原にも届くほどに高々と立てた宮」を造ることを条件に承諾した。また『日本書紀』によると、高皇産霊尊はオオクニヌシに対して、「住処となる天日隅宮を,千尋もある縄を使い、柱を高く太く、板を厚く広くして造り、天穂日命に祀らせよう」と述べた。ところが『出雲国風土記』は少し異なる創建を伝える。

神魂命が「天の尺度をもって所造天下大神(オオクニヌシ)の住む宮を造り奉れ」と言って御子の天御鳥命を天から下し、「皇神らが宮処に集まって所造天下大神の宮を杵築いたので寸付(きづき)と云う」とある。この時に築かれた「杵築の大社」(キヅキノオオヤシロ)は明治4年(1871)に出雲大社(イズモオオヤシロ)と改称された。

出雲大社では創建以来、造替と修造の遷宮が行われてきた。最も古い記録としては、『日本書紀に「斉明天皇5年(659)、出雲国造に命じて神之宮を修造させた」とある。平成 25 年は出雲大社と伊勢神宮がそろって遷宮を迎える記念すべき年となったが、両遷宮にはいくつかの違いがある。伊勢神宮では持統天皇4年(690)以来、20年に一度の式年遷宮が行われてきたが,出雲大社が60年に一度の遷宮を制とするようになったのは慶長 14 年(1609)からである。また、伊勢神宮では社殿だけではなく装束・神宝や宇治橋等も造り替えるのに対して、出雲大社では延享元年(1744)に造り替えて以来、この時の本殿を修造する方式に変えている。     

出雲大社の「平成の大遷宮」では、国宝として建造時の状態をできるだけ変えないことを基本方針として、屋根の檜皮葺き替えや腐朽部材の取り替えなどが行われた。修造に先立って平成20年に仮殿遷座祭が行われ、オオクニヌシは本殿から仮殿へと遷された。そして、修造を終えた平成25年5月10日に再び本殿へ遷す本殿遷座祭が行われた。

遷宮を終えた本殿は檜皮葺きの大屋根が美しい。そこに日本建築の美と職人の技を見ることができる。通常の古建築では 2 5 寸の檜皮が使用されるが、出雲大社では 4 尺の檜皮が使用される。檜皮は,原皮師と呼ばれる職人が檜に登り、80 年から 100 年経った立木の皮を一旦剥ぎ、それから8年前後で再生した皮を再び剥ぎ取ったものである。60 年に一度のことでもあり,檜皮葺きの職人には 4 尺皮の経験者はいない。大屋根の模型を使って訓練を重ねながら技術を修得したという。彼らは、檜皮を左手で抑え、口に含んだ竹釘を一本ずつ舌で押し出しながら右手に持った金槌で素早く打ちこんでいった。その量は約70万枚,41トン。11ヵ月を要した檜皮葺きが終わると,大屋根に棟木が据えられ、千木と勝男木が掲げられた。こうして古来の美と技は伝承されたのである。

○島根県立古代出雲歴史博物館

出雲大社の参拝を終えてから隣接する古代出雲歴史博物館を観覧した。入口に続く並木道の長さは約 110mあり、古代出雲大社の引橋(階段)と同じ長さである。道の両側には,たたら製鉄を伝えた金屋子神が白鷺に乗って舞い降りたという言い伝えのある「桂の木」が植えられている。桂の葉がハートの形をしていることから若いカップルの人気スポットになっているらしい。館内に入って中央ロビーでまず目にするのは、2000 年に出雲大社境内から発掘された宇豆柱である。杉の大木を 3 本束ねて 1 本の柱にした直径約 3m の巨大な柱である。中央ロビーの先が常設展示室になっており、古代出雲大社の復元模型,『出雲国風土記』の写本、荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡から発掘された青銅器などが展示されている。これらを見て回りながら、古代出雲大社の巨大さと姿かたちに驚き、『出雲国風土記』の世界に日本人として郷愁を感じ、銅鐸に残

るウミガメや四足獣の文様に古代出雲人の祈りを思った。

中でも興味深いのは、5 人の現代建築学者が製作した出雲大社の模型である。これらは発掘された宇豆柱や出雲大社宮司千家家に伝わる「金輪御造営差図」などをもとに鎌倉時代前半の本殿を推定して製作したものであり、比較しながら見るとおもしろい。2人は当時の本殿の高さは16丈(約48m)あったと推定しているが,他の3人は16丈説を否定している。

本殿の高さは、太古は 32 丈(約96m)、中古は 16 丈(約48m)、近古は 8 丈(約24m)という言い伝えがあるが、平安時代には高さ15 丈の東大寺大仏殿よりも高かったという記録があることから、当時の出雲大社が 16 丈の壮大な建物であったとしても不思議ではない。しかし、さすがに 16 丈の高さは技術的に無理があったのか、平安時代には何度も転倒したと記録にある。宝治2年(1248)造営の本殿が焼失した後は、高さが 8 丈に満たない規模の小さいものになった。

これを仮殿式遷宮と呼ぶのは、小規模な本殿はあくまでも仮設であり、いつかは古来の立派な姿に戻さないといけないという意識からであろう。寛文7年(1667)の造営から正殿式遷宮に戻され、延享元年に造営された現在の本殿の高さは8丈である。

なぜこれほど巨大な神殿を造り、守り伝えてきたのだろうか。鳥取県稲吉角田遺跡から出土した弥生土器には長い柱とはしごをもつ高床の建物が刻まれており,出雲大社のはるかな源流を思わせる。巨大神殿に対する憧れと祈りは遥か昔から出雲に続く精神性に根付いたものであり、オオクニヌシは国を譲っても巨大神殿を建てることによって精神性を守ろうとしたのではないだろうか。

○玉造温泉

研修初日の夜は玉造温泉「松の湯」に宿泊。玉造温泉にはオオクニヌシとともに国造りをした少彦名命が発見したという言い伝えがあり、日本でも最古の歴史をもつ温泉である。『出雲国風土記』には「ひとたび濯げば形容端正しく、再び浴すれば万の病ことごとに除こる。古より今に至るまで、験を得ずということなし。故,俗人,神湯と日うなり」とある。当時から老若男女、多くの人が毎日のようにやってきて賑わいをなし、酒宴をひらき遊び楽しんでいたらしい。我々研修会参加メンバーも古代人に倣って「神の湯」で病を癒し美しくなってから酒宴を楽しんだ。

○佐太神社

研修 2 日目は佐太大神を主祭神とする佐太神社への参拝から始まった。佐太神社はかつて秋鹿郡と呼ばれていた松江市の北、鹿島町佐陀宮内にある。『出雲国風土記』には「佐太の御子の社」とあり、神名火山である朝日山の麓に鎮座していた。延喜式には出雲国二ノ宮とある。『出雲国風土記』には多くの神々が登場するが、佐太大神,野城大神,熊野大神,所造天下大神の 4 神は「大神」とされている。それぞれ佐太神社,野城神社,熊野大社,出雲大社に祀られており、かつての出雲国には有力集団が 4つの地域に分かれて存在していた歴史を反映したものであると言われている。もしそうならば佐太大神は朝日山の麓に住む集団によって祀られていた神であったが、出雲国の1地域の神にすぎなかった所造天下大神ことオオクニヌシが

 

 

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出雲全体を治めるようになると、その地位を低下させていったのだろう。佐太神社の本殿は大社造の社が3殿並んでおり、佐太大神をはじめ12柱の神々を祀っている。毎年9月24日の夜から翌日にかけて、本殿 3 社と摂末社すべての御神座の茣蓙を取り替える御座替祭が執り行われる。この祭で舞われる神楽が佐陀神能である。もともと神楽は神を招来し託宣を聞く神事として営まれてきたが、慶長の頃、宮川兵部小輔秀行が京に上って能の所作を学んで帰り、古くから伝わる出雲神楽を能楽風にアレンジしたことから「神能」と呼称されるようになった。出雲一帯の里神楽に大きな影響を与えたことから「出雲神楽の源流」とされる。

○八雲立つ風土記の丘

ここからはかつての意宇郡。『出雲国風土記』には、国引きを終えた八束水臣津野命が意宇の社に杖を突き立てて「おゑ」と言ったから「意宇」というとある。意宇平野を中心とする東部と出雲平野を中心とする西部に 2 つの勢力があった。出雲西部の勢力がヤマト王権に屈服すると、出雲東部が政治、経済、文化の中心となった。意宇平野には、4 世紀末から 5 世紀にかけて方墳や前方後円墳などの古墳が多く造られ、奈良時代には出雲国庁や国分寺が置かれていた。八雲立つ風土記の丘は松江市大庭町にあり、意宇平野を望む丘陵の上に立っている。古代の意宇を知る上で欠かせない遺物や資料が展示してある。大谷会長と高橋副会長が所長の本間恵美子氏と旧知の間柄であるということもあり、所長から直接解説をうけることができた。

奈良時代の意宇平野の復元模型を見ると、『出雲国風土記』の世界がよく分かる。平野の中央に神名樋野(茶臼山)があり、周囲には多くの古墳、神社、寺がある。南東に出雲国庁があり、その北側を古代山陰道が東西に走っている。西に直進すると石見に至り、国庁近くの十字路を北に曲がると朝酌の渡し場から千酌の港を経て隠岐へと至る。熊野山を源流とする意宇川は国庁の南を東へと流れ、やがて北東に向きを変えて中海に注いでいる。

○神魂神社と熊野神社

神魂神社と熊野神社はかつての意宇郡にあり、いずれも出雲国造にゆかりのある神社である。神魂神社は天穂日命がこの地に天降って創建した神社であり、その子孫である出雲国造が 25 代まで奉仕したと社伝は伝えている。本殿は現存する最古の大社造建造物であり、昭和27年3月に国宝に指定された。熊野神社は意宇川上流の山麓にある。もともと熊野山中で磐座祭祀の形をとっていたが、麓に社殿を設けて祀るようになったと云われている。主祭神は加夫呂伎熊野大神櫛御気野命である。何とも長い神名であるが、神聖な祖であり熊野に坐します尊い神の櫛御気野命」の意であり、実際の神名は櫛御気野命である。食物神であり、スサノオと同神とされる。

熊野神社の本殿の横に鑽火殿がある。出雲国造はここで代々、神火相続式を行ってきた。国造の代替わりの時に、先祖伝来の火燧臼と火燧杵で火をきり出し、それを用いて調理した御飯を祖神

とともに食べるものである。これにより新しい国造は祖神である天穂日命と同体になれるとされ、今でも出雲国造の嫡流を受け継ぐ千家家によって続けられている。神火相続式できり出された火は国造館の御火所で保管され、国造だけがその火で調理したものを食べ続ける。こうしたことから出雲国造は意宇郡を本拠にしていたとされている。この説を支持する武光誠氏は、『出雲王国の正体』の中で出雲国造の祖である出雲氏について次のように説明している。

「2世紀はじめに、出雲東部に有力な3系統の豪族が出現したと考えられる。彼らは、佐太神社、熊野神社、野城神社を核に、周囲の首長たちを指導下に取り込んで成長していった。やがて、出雲氏の先祖である熊野大社を祀る集団が2世紀なかばに出雲西部にも進出し、めざましく発展した。そして、大国主命の祭祀によって出雲をまとめた。」このような出雲国造の意宇郡本拠説に対して、村井康彦氏は『出雲と大和』の中で次のように反論している。

「東にあっては熊野大社、西に移ってからは杵築大社を奉祭したというが、前者の祭神は櫛御気野神であり、後者の祭神はむろん大国主神である。・・・居所によって奉祭神を取り替えたとするような説は立論そのものに全く意味がないといってよい。・・・

居所(本拠)は出雲国のほぼ中央部で、雲南から西北流する斐伊川の中下流域、神名火山(仏経山)の山麓一帯であった。」いずれの説をとるにしても、世紀なかばには出雲氏は仏経山の麓に居を構えオオクニヌシを奉祭しながら出雲を政治的に支配していたのであろう。それは仏経山を望む西谷の地に四隅突出型墳丘墓が築かれ始めていた頃である。

出雲を服従させたヤマト王権は、出雲氏を国造(くにのみやつこ)に任命することによって彼らが治めていた出雲を支配しようとした。いまだヤマト王権は弱体であり、地方を支配するにはその地の有力豪族の力を借りなければならなかったのである。

大化の改新が画期となり律令制による中央集権的な政治支配が進むと、ヤマト王権は国造を郡司に変え、これを中央から派遣した国司の下に置いた。出雲氏も意宇郡の郡司として国司の支配をうけるようになったが、国造の立場を維持することが許された。政治的支配権を失った出雲氏は出雲国造(こくそう)を名乗って祭祀権を継承した。

奈良時代になると、新任の出雲国造は上京して天皇の前で神賀詞を奏上することで国造に任命されるようになった。祖神・天穂日命はオオクニヌシとの交渉により国譲りに成功すると、その結果を高天原の神々に奏上した。神賀詞はその時の奏上を儀礼の場で再現したものであり、朝廷への服従儀礼であるとされるが、祖神の功を朝廷に再認識させる狙いもあったのであろう。やがて国司と郡司との対立が激しくなると、ついに延暦17年(798)に郡司を解かれて西に移り杵築大社を奉祭するようになった。奈良時代に国司に代わって編纂した『出雲国風土記』の中に、当時の出雲国造の思いを知ることができる。室町時代に千家家と北島家とに分裂してからは、両家が交代で出雲大社の祭祀を行ったが、明治政府は千家家だけを出雲大社の宮司とし、現在に至っている。     

○山代二子塚古墳

6世紀中頃から7世紀にかけて、茶臼山西側の台地に相次いで大型の古墳が築かれた。山代・大庭古墳群と呼ばれ、出雲東部を支配した首長たちが葬られている。中でも山代二子塚古墳は島根県最大、日本国内でも最大級のものである。この古墳は前方後方墳であるが、明治時代に旧陸軍が射撃場を造るために後方部の東側を削ってしまった。島根県が平成 10 年に復元・整備し、全国で初めて古墳の土層を見学できる土層見学施設が設けられた。当

時の人々がどのように土を運んで古墳を築いたかがよく分かる。全国的には、3〜4世紀に古墳の築造が始まり、5 世紀に巨大な古墳が造られるが、6世紀になると規模が小さくなっていった。なぜか出雲では 4 世紀にはあまり古墳は造られず、6世紀に巨大古墳が造られている。6世紀後半に築かれた古墳は、出雲の東部と西部とで出土する大刀や石棺に違いが見られる。それぞれの大刀はヤマトの異なる豪族の工房で作られたものであり、東部と西部の豪族は異なる中央豪族と結びついていたと考えられている。当時、中央では蘇我氏と物部氏が政治の主導権をめぐって激しく争っていた。東部が蘇我氏と結びつき西部が物部氏と結びついていたとすると、用明2年(587)に蘇我馬子が物部守屋との政争に勝利したことにより、西部の豪族は衰退していったが、東部の豪族は出雲国造として茶臼山周辺に巨大な古墳を築造し続けたのかも知れない。

○和鋼博物館

研修会 2 日目、宍道湖畔で昼食をとってから、最後の訪問地である安来市の和鋼博物館へと向かった。同館は日本で唯一のたたらの総合博物館であり、JR安来駅の北、安来港の西に位置している。古来、安来市南部や奥出雲ではたたら製鉄が盛んに行われ、江戸時代になると安来港から積み出された鉄は全国へと運ばれた。明治の中頃に近代製鉄法が普及すると、たたら製鉄は次第に衰退していったが、その伝統と技術は今も日立金属安来工場によって引き継がれている。その前身である日立製作所安来工場によって昭和 21 年に設立された和鋼記念館が和鋼博物館の始まりである。司馬遼太郎は「砂鉄のみち」を辿るにあたり当館を最初に訪れ、当時の様子を『街道をゆく』の中で伝えている。安来の南に連なる中国山地は古代より良質の砂鉄が採れる所であったが、中でも奥出雲の砂鉄はもっとも良質であるとされた。奥出雲は神話の世界でもある。鳥上山に降臨したスサノオはこの地でヤマタノオロチを退治し、その尾から出て来た天叢雲剣は今も草薙剣として熱田神宮の奥深くに神体として祀られている。ヤマタノオロチ伝説は製鉄と結び付けて解釈されることがある。それによると、ヤマタノオロチはスサノオが降臨する以前からこの地で製鉄を営んでいた技術者集団のことであり、オロチのおどろおどろしい様は山間のあちこちに上がる野たたらの炎を形容したものであるとされる。ヤマタノオロチ退治は、スサノオが製鉄技術者集団を服従させたことを意味しているであろう。司馬は「砂鉄のみち」を辿る中で、鉄器は農耕の生産性を著しく向上させることによって人間の欲望を拡大させたとしている。鉄器をつくるには大量の木炭が必要になる。中国や朝鮮は森林が少なく鉄器を大量に生産することができ

なかったため、それが欲望の限界をなした。しかし、森林に恵まれた日本はいろいろな鉄器を大量につくることによって欲望を拡大してきたため、好奇心が強く組織を膨張させることへの願望が強いという日本人の原気質が形成されたという。

奥出雲は森林と砂鉄に恵まれた地であった。オオクニヌシが葦原中国を平定したのはスサノオから受け継いだ製鉄の技術と集団によるものであり、アマテラスがオオクニヌシに国譲りを迫ったのは「日本人の原気質」によるものだったのかも知れない。

○研修を終えて

出雲は奥深く謎の多い地ですが、そこには私たち日本人の原風景が確かにありました。参加者の皆様方とご一緒できた2日間は楽しい思い出です。研修をご担当いただいた3氏に感謝申し上げます。          文 責    武藤明則

 

 

H26年10月 研修会「街道遠州方面を訪ねる(街道テーマ第2弾)      

会は天候にも恵まれ、まだ紅葉には早いものの、少し色づき始めた27日()に行われた。

今回の研修会は守屋道治さんと近藤忠保さんの担当で「街道遠州方面を訪ねる(街道テーマ第2弾)」ということで、遠州方面へ!!GO  この会での研修会はやはり歴史のある京都や奈良方面が多い中、今回は東方面への研修会であった。バスは定刻に金山を出発!!一路最初の目的地袋井へ向かう。

○最初はバスの中で守屋さんによる「街道」についての解説です。道路というものは、小さなけもの道や、住民の生活のために造られ、この道を通行する人や物が多くなったのに伴い広げていったものと思っていました。

しかし、道は時の権力者によって整備され、また全国を結ぶ街道が整備されたのだった。古くは飛鳥平安時代に計画的に整備・建設され、地方では、6〜12m、都の周辺では24〜42mに及んだという。大きな道を造ることで権力を誇示するものだったのだろう。広い道路は当時の隋や唐におけるものを手本に取り入れていったものだそうだ。その街道どうしを全国に結び次第に街道網が整備されたのだということだ。

古代における街道は、中央と地方の情報の伝達・物資の輸送のために全国的に整備され、中央と地方の情報連絡に駅路、中央から地方へ使者を送迎するための伝路が整備されていった。もちろん街道を整備することで物資の輸送だけでなく、大陸方面からの防衛のための兵の移動にも大きく効果を発揮したに違いない。いち早く兵を目的地に移動させるほか、街道沿いには兵のための食料となる米、塩などを確保するための宿駅が設置されたというのもうなずける。このために道幅も広く取り大量の兵を短時間に移動させるには一列縦隊でなく三列、六列として、より多くの兵をいち早く移動させるために道幅を広げなくてはならない。この道が現在のハイウエーと同じ性格を持ち一定間隔でサービスエリアのような宿駅も整備され、またこの路線が現在のハイウエーと同じ所を通っていたと言う。今も古代も、道とは急峻な地や、湿地、大きな河川など障害となる箇所を避け、見通しのよい場所に一直線に造っている。言ってみれば合理的な考えであろう。

中世における東海道は鎌倉街道ともいわれているが、江戸時代の東海道よりかなり内陸側を通っていたという。気候・地勢、利用目的、利用者、整備状況などの状況が異なり、かなり相違していたそうだ。いずれにしても、道は単独でなくて必ずほかの道と結ばれている。これは古代だけでなく現在も都会の道もどんな田舎や人気のない山間部の道も必ずほかの道とつながっている。人がこの世界で生きている限り……。

○そんなことをつらつら考えていたら、最初の目的地の「油山寺」へ到着。今から千三百年前、行基菩薩の開山と言う古刹。本尊の薬師如来は、行基菩薩の作で、孝謙天皇が御眼病のみぎりに、御眼病の平癒を当山の薬師如来に祈願され、るりの滝水で御眼を洗浄なされ、全快されたことから「眼病平癒の寺」と云われているという。まず、地元のボランテイアの方による解説。山門は元掛川城大手門で万治2年(1659 年)井伊直好公が建立したもので、歴代の掛川城主の信仰は厚く、明治6年の際、城主太田備中守が眼病全快のお礼として当山に寄進、移築されたものであり「城郭造、重櫓層門、本瓦葺、桁行 9.3 メートル、梁間 4.6 メートル、2階25畳、漆喰白壁、窓、柱 0.6 メートル、角総欅材、正面大扉は楠の一枚板を用いて

いる」という立派な山門である。これはお寺の門でなく城の門だな!!と感心。

そのあと山門と同じく国指定の重要文化財である三重塔へ、建久元年(1190 年)源頼朝公が眼病全快のお礼に建立されたもので「木割豪壮にして層輪は強大、屋根の反り、枡組は美しく、桃山期の姿を今に伝え、桃山の三名塔の一つに数えられている」という立派な塔である。「塔の高さはおよそ 23 メートル、上層は唐様と天竺様を用い、中下層は和様式、三手先組一式、上層は 2.3 メートル四方、中層は 2.8メートル四方、下層は 3.6 メートル四方」で優美な姿は必見の価値あり!! また、当山の守護神である軍善坊大権現は、足腰の病に霊験あらたかであるところから油山寺は目の仏様のほか、足の神様として日々全国から信者のご祈祷、参拝が後をたたないということです。

○続いてすぐ近くにある「可睡斎」へ向かう。まずは雲水(修行僧)からの寺のいわれなどを拝聴。この寺は曹洞宗・総持寺の直末寺で現在も雲水の修行の場となっており、日々修行で入山する方が多いとのこと。この日の雲水は定年退職後に実家の寺を継ぐこととなり「この歳で修行をしているが、一日でも早く入山した者が歳には関係なく先輩であるので、自分の子供のような雲水にこ

 

 

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き使われている!!修行とはそういうもので大変厳しいものです」とのこと。どこでも同じかな??何か同情したくなる。      

可睡斎とは当寺 11 代目の住職仙麟等膳(せんりんとうぜん)和尚が、幼い徳川家康とその父を戦乱の中から救い出し匿った。浜松城主になった家康は、親しく和尚を招き旧恩を謝し、その席上で居眠りをする和尚を見て家康はにっこりし、「和尚我を見ること愛児の如し、故に安心して眠る。我その親密の情を喜ぶ、和尚、眠るべし」と申し、それ以来仙麟等膳和尚は「可睡斎」と称せられ、後に寺号も東洋軒から「可睡斎」と改められたということです。家康の帰依を受けて天正 11 年に東海 4 カ国の現在で言うと寺院を管轄する役所の「総録司」となったとのことです。このあと諸堂を(開山堂、僧堂、本堂、高祖廟)拝観し、お昼の精進料理をいただくことに。

曹洞宗では精進料理のその名のとおり肉、魚類を一切使わず、野菜、野草、海草などを主に調理し、食材となる植物等にも「命」があるという考え方から、最小限の命を最大限に生かす工夫をし、しかもおいしさを追求しているとのことで、おいしい昼食でした。そういえば子供のころ聞いたことがあるぞ!食事を食べるときに「いただきます」と言うのは、生き物の命を「いただきます」という意味だと!!ありがたいことです。感謝、感謝。   

そして食後はトイレへ!担当の近藤さんから事前に「ここのトイレはぜひ入ってみてください」と。おおっ!これは何じゃ、我々のトイレの概念を一蹴するかのような清潔かつ裸足でもすーっと入れるトイレ、曹洞宗では「東司」と言うそうですが、トイレ中心には仏様も。日本一のトイレだそうです。以前永平寺に行ったとき曹洞宗では、「東司」も修行の場なので誰が汚そうと誰かがいつも掃除をしていますと聞いたことがある。修行の場とあれば常に清潔に保たなくてはならないのだ。胸に突き刺さるものがあるな!

○ここからバスに乗り「蓬莱橋」へと向かいます。フーテンの寅さんが、この橋でトランクに腰をかけている場面がありましたが、世界一長い木造の橋で明治 12 年完成。地元開拓農民らの出資で作られたもので、現在も有料の橋です。

もちろん東海道とは関係がありませんが大井川に架かるとても長い橋で、全長897.4m、幅 2.7m、途中で富士山も望め、雄大な気持ちにさせられる気がします。

○東海道五十三次の 23 番目の宿場である島田宿にある「島田市博物館」は蓬莱橋から、ちょっと上流へ。館内では地元ボランテイアの方からの「箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川」と詠れた東海道難所に大井川の川渡しや、増水で川止めにあったときには旅客が足止めされ賑わった状況、また大井川上流から切り出された木材の集積地としても発展した様子が詳細に展示され、細かく説明があった。現在では上流に幾つものダムができ、川の流れも水量が少なくなっているが、当時はさぞかし流れも速く川越は大変なことだったろうと想像してみる。大井川の川渡しは、徳川家康が東海道に宿駅伝馬制度を設け街道を整備し、この際、天竜川のように渡船を認められたところもあったが、大井川・安倍川などは徒歩での通行と定められた。このため大井川は東海道最大の難所で、増水のたびに川止めとなり、旅人は水が引くまで何日も待つこととなった。そこで島田の宿が川越の業務とともに発展していった。この川越業務の起源は室町時代にさかのぼるといわれ、制度として確立したのは 1696 年(元禄 9 年)とのこと。島田代官は川越の管理と統制のため二人の川庄屋を任命、川越の事務を取り扱ったのが川会所だそうだ。川庄屋の下に、年行事・添役・侍川越などをおき、毎日川の水深を測り渡賃を決めていた。渡賃は水深に応じて決められ、乳まで来る水を「乳通し」、帯くらいを「帯上・帯下通し」、股のあたりまでを「股下」通しといって、それぞれ渡賃が異なっていた、肩車、平連台があり、大名行列の川越は駕籠ごと連台に載せ、川上と川下に人足を並ばせて、流れに流されないようにして渡ったということです。現在番宿のなかには住居として使用されているものもあり、見学できるのは右側の十番宿・川会所、左側の三番宿・仲間の宿、・札場などで、街道の面影が色濃く残っているところであった。現在の大井川は高い堤防で守られているが、宿場の川よりには旧堤防(というより堤といったもの)の名残もあり桜が植えられている。往時の賑やかさと川越がいかに大変なことだかといったことが偲ばれる島田宿であった。

文責    内田  道雄


 

H26年11月研修会   

平成25年11月24日(日)秋深まる季節。甲賀忍者の里、甲賀の歴史と史跡を訪ねました。当日は朝から青空が広がり、天気良ければほぼ研修会は成功と言う加藤博幸さんの話しで研修会がスタートしました。行き先は垂水頓宮跡、土山宿、望月城、甲賀忍術屋敷、櫟野寺、油日神社となかなか盛りたくさんの訪問地ですが、事前に詳細な調査していたので大変楽しみ。まず探訪の第一歩は土山インターを下りてすぐ近くの垂水頓宮を訪れる。頓宮とは斎王が京都から伊勢まで5泊6日かけて斎宮まで群行して行く途中に設けられた宿泊所のことで、唯一場所が特定されて残っている跡が垂水斎王頓宮である。  頓宮の歴史を知る貴重な史跡として保存されています。

深い森に囲まれた宮は、実に神秘的な雰囲気を醸しだしている。

次に訪れたのは、鈴鹿峠の西に位置する宿場として栄え「坂は照る照る  鈴鹿は曇る  あいの土山雨が降る」と馬子唄にも唄われた土山宿である。現在も往時の町並みを残している。天保14年(1843年)の東海道宿村大概帳によると本陣2軒旅籠が44軒も

あり。宿場の規模と比べても多かったとある。これは鈴鹿峠の口元にあつた為、宿泊客が多かったとされている。この土山の中心にあったのが現在も残っている土山本陣です。旧土山本陣は、1634 (寛永 11 )3 代将軍家光が上洛の際建てられ、初代土山喜左衛門が本陣役に任命された。土山氏の祖は守護の六角氏から重く扱われ、感状(感謝状)をもらった甲賀二十一家の一つ頓宮氏から分家し甲賀五十三家の一つとなった土山鹿之助が祖である。大名や明治天皇が座った上段の間や庭園などが残されている又、有名人が泊まったことを記録をした宿帳や大名の関札などの資料が保存されている。明治天皇が明治元年9月22日に宿泊、天皇即位後初の誕生日であったため、次の日、本陣で祝賀式が挙行され住民に酒肴が下賜されたといわれている。

現土山本陣は子孫の方がお住まいになっており、当主の奥様から本陣内部の部屋の造りや保管されている様々な資料の詳細な説明を受け、本陣を維持管理されるご苦労を感じる次第でした。

土山本陣の見学を終え当時の面影を残している町並みを散策、まず町の管理や運営を行っていた問屋場を復元展示している東海道伝馬館を見学、街道や宿の展示物は必見の価値があります。

昼食は加藤さんが苦労して探し当てた、つるや食堂、限られた予算のなか美味しい料理を頂くことでき、感謝感謝。

食事後は、甲賀と云えば忍者、忍者ゆかりの史跡望月城址、甲賀忍術屋敷を訪れた。望月城は甲賀五十三家の望月氏の城、「方形単郭」の正方形の甲賀独特の城で虎口以外の4面は高くて厚い土塁の壁に囲まれている。これは外部から中の様子を遮断するためである。その高い土塁に登るとその全体像が把握できその素晴らしさが実感できる。この高い土塁を参加者の大半が登ったことにはビックリ、皆様の探究心の強さには驚かされた。この城の構造は西尾根からの攻撃を防ぐためであろう、深い堀切の先に横長に土塁が設けられ城への侵入を遮断している。谷を挟んだ南側には望月支城がある。甲賀の城はこの様に本城、支城とセットとなっているものが多くゲリラ戦

を得意とする甲賀独特の構えとなっている。

次に数少ない現存する甲賀忍術屋敷に行く。この屋敷は甲賀五十三家の一人望月出雲守の住居として元禄年間に建てられたもので、家の構造は一見平屋風にみえるが、内部は三階構造となっており様々な仕掛けがほどこされている。片手では開かない引き戸、どんでん返し、中二階に登る為の隠し梯子、からくり窓床下に設けられた落とし穴と分家屋敷(今はないが)に続いている抜け穴は一見の価値があるものになっている。

甲賀の史跡は忍者の里と思ってしまいがちであるが京に近いこともあり数多くの神社仏閣が残されている。今回の研修の最後を飾るのは白州正子が愛した櫟野寺、油日神社である。仏像の宝庫といわれる櫟野寺は、延暦11年(792年)最澄が比叡山を開く為、木材を求めこの地を訪れた時  十一面観音を安置したと伝えられる。大同元年(806年)坂上田村麻呂により建立され

たといわれている。収蔵庫には田村麻呂を刻したといわれる田村毘沙門天が収められている。また寺の名前のいわれとなった樹齢2000年以上の櫟の樹は、白州正子が訪れた昭和44年頃にはまだ健在だったが、平成14年には枯れてしまい、受付玄関のところにその切株で作られたテーブルが残されている。本堂の裏にある収蔵庫には巨大な十一面観音像のほか重要文化財クラスの仏像が多数安置されている。

今回33年に一回しか開帳しないといわれた十一面観音像を拝観できた時はあまり仏像には関心がない私もビックリ、とても感動した。

加藤さんの骨折りの賜物である。この十一面観音像は通常立像が多い中この観音像は一丈二釈(3.2m)もある日本最大級といわれる巨大な坐像である。

最後に夕日に映える油日神社を訪問する。この神社も白州正子がたびたび訪れたといわれている。ユニークな神主さんからこの神社は1400年前の創建と伝えられ、油日大明神という火の神が山頂に降臨した時、油火のような大光明がさしたので名前が付けられたとされるなど神社の由来の説明を受ける。重要文化財の本殿、拝殿、楼門、回廊など立派な建物群が鬱蒼と森の中に残っていてとても幻想的な佇まいである。隣接する甲賀民族博物館には加藤さんが事前説明の中で特に強調していた、白州正子が絶賛したという、田植えの神事に使われた、一見の価値があるといわれたユニークな木彫りの人形「ずずいこ様」が展示されている。この「ずずいこ様」には正直おどろかされました。

つるべ落としといわれる秋の夕日を浴びながら油日神社を最後に古代から京に近く東国に至る枢要な地であり様々な文化、歴史が色濃く残る甲賀の研修を終え帰路についた。今回の研修が初めてという加藤さんですが、その学識の深さを改めて感じる素晴らしい研修会でした。感謝、感謝

文責    荒川 哲

 

H26年一月学習会 「西太后」

 

1 26 ()、暦の上では厳寒のみぎり、名古屋市中区金山、日本特殊陶業市民会館に於いて

学習会が開催された。

テーマはズバリ「西太后」。内容は中国最後の王朝・落日の大清帝国を支配した稀代の女傑のイメ

ージに迫り、47 年間もの長きに亘って王朝に君臨し、最後まで失脚しなかった。学習会ではその

「訳」を追求し、さらに「太后の真の野望とはどの様なものであったか」を問いかける。

担当は高橋浩子副会長。40 名の方々に出席を頂いた。この学習会当日は 3 日前の 1 24 日に亡くなられた諸岡茂樹前編集部長の葬儀の日でもあり、当会から大谷会長、森田副会長、砂田事務局長の 3 名が葬儀に参列された。

こちらでも会の冒頭全員起立、1 分間の黙とう。慎んで諸岡氏のご冥福をお祈りした。ところで私こと高橋は毎年 1 回開催される歴史研究会全国大会に出席している。そのおりよく皆さんに「高橋さんはいつから歴史が好きになったのですか。何かきっかけでもあって?」と質問される。そんな時、私の答えはいつも決まっている。「私はオギャーと生まれる前から、母の胎内にいる時から好きだったんですよ」と。イエ、これは皆さんを煙にまいているわけではなく本当のこと。冗談ではありません。きっかけは何もなく体質的、純粋に好きと言う他に言葉は見つからない。特に歴史の時代を問わず人物に興味を持っている。善男善女、悪人悪女、どんな人物でも私にとっては愛しい人ばかり。利害関係がないから()。しかし悪人悪女の場合はそこに品格と教養を備えていなければならない。知的野性味が加わればなお良い。日本史のみならず世界史も楽しい。特に世界史に登場する女性は皆、魅力的で個性的な人ばかり。だからこそ歴史に名をとどめるのでしょうが・・・。その中の一人、今回の「西太后」も興味を持って研究したい対象の女性でした。

○実は私、学習会当日より数日前から体調不良に陥り当日まで尾を引いていましたが、これはきっと「西太后に入れ込み過ぎた()ため、ついに太后の毒が当たったのかも知れない」との思いで壇上に立った。

西太后がその独特の光芒を放った生涯を終えたのは今から丁度 100 年前のこと。中国の官撰の歴史書は前王朝の滅亡から 100 年前後に書かれたものが多い。前王朝時の当事者達が生存中は彼等をおもんばかる故に公平な歴史を書くことは難しい。が当事者が死に絶える一方で遺物や秘密史料が豊富に残っている 100 年前後が歴史を書き紹介する頃合いとされている、その意味では西太后はまさに「今が旬の歴史上の人物」と言える。そこがネライである。学習会では太后の生誕から生い立ち、側室として紫禁城の花嫁となるまでの過程、そして出産、皇帝との死別、その後の太后の前に立ちはだかる種々の難局と試練、東太后(皇后)の「静の迫力」と西太后の「動の迫力」との対比・・・。

若くして崩御した我が子第八代・同治帝の次代を担う甥の第九代・光緒帝とのやり場のない対立。西太后にまつわる話題は豊富で尽きない。学習会を通じて高橋が強調したかった事柄のひとつは王朝に於ける太后の長期にわたる君臨。その理由である。清朝末期の大臣、官僚、重役達は今さら、権力闘争をして強力な男性権力者に統べられるより、子宮で思考するヒステリックで自己中心的であっても西太后のような女性の権力者を頂いている方が何かと便利で利用しやすかった。しかし西太后も勝る者。官僚達のその思惑を敢然と逆手にとったことだ。太后の野望は「理想とする国家」よりも、自分自身があらゆる贅沢を享受することにあった。長期政権の究極は、太后は莫大な富を一

人占めにせず都度、還元したことにある。度を越した贅沢が許されたのも甘い汁の還元があればこそ誰も文句は言わない。清の祖制で守られている地位と名誉はクーデターが起きない限り安泰であった。説明を聴講される皆さんもこのあたりのお話には興味深く耳を傾けて頂いた。

ところで第九代・光緒帝についても今一度、強調すべき部分を話したい。日朝戦争の敗北を機に旧態然とした清国の在り方に疑問を持ち、西太后打倒のクーデターを計画したが敗れる。西太后の様な怪物に素手で向かう様なものだった。若かった。イデオロギーだけでは人はついて来ないのだ。しかし私は光緒帝の端正な面立ちとその眼差しの奥にある国家を想う深い憂慮と理念に、燃えた心に拍手を送らずにはいられなかった。さて、清朝末期、時代の歯車が悪しき方向に回転するも絶大な存在感とともに手を替え品を替えて良くも悪くも王朝を牽引して来た西太后の姿を想起し、今でもシルエットの様に浮かび上ってくる・・・。

文責高橋浩子

 

H26年二月学習会「朝鮮通信使」

 

2 26 ()、如月の寒波の続く候、名古屋市中区金山、日本特殊陶業市民会館において学習会を開催。担当、早川綾乃氏。テーマ「朝鮮通信使」。参加者 34 名。25 3 月早川綾乃氏の担当で「朝鮮通信使」の史蹟、清見寺を中心とする研修会で学んだ、さらに深く掘り下げた成果を発表することとしての本日の学習会に臨んだ。江戸時代を通じて 12 回の朝鮮通信使が来朝したが、それ以前の室町時代三代将軍・足利義満は中国皇帝に「上奏文」を携えた使者を送った。それに対して皇帝から「なんじを日本国王に封じる」なる詰命書を渡され外交関係を樹立

した後中国から使節団が来朝、日本側は鹿苑寺金閣に迎え歓迎した。それ以後、遣明船の派遣が認められ勘合貿易が始まる。朝鮮とは 60 回に及んで漢城に日本王国使を送ったが、足利政権の権力が衰退すると、対馬・西国の諸大名が競って「日本国王」を騙り、貿易船(巨酋使(きょしゅうし))を出した。

○秀吉は天正 15 年(1587)6月、対馬藩の宗義調・義智に対し九州平定を告げ、対馬一国の安堵の旨を伝え、朝鮮王国の服属・上洛を命じて「朝鮮服属」に尽力することを命じた。秀吉の高圧的な態度を恐れた対馬藩は家臣を「日本国王使」として漢城に送り「秀吉国内統一の祝賀の通信使」派遣を要請したが、朝鮮側は「秀吉は前王から政権を纂奪した」として警戒し拒絶した。しかし執拗な要請を受け、天正 18 (1590)7 月正使王允吉(ふぁんゆんぎる)・副使金誠一(きむそんいる)派遣した。秀吉は3ケ月後の11月7日にようやく謁見した。秀吉の要求は朝鮮国王を閣下と呼び「明を攻めるため、朝鮮国王は先導となれ」と命令した。この要求を朝鮮は拒絶した。これが発端となり、文禄元年(1592)の朝鮮侵略(文禄の役)となる。

日本軍は、緒戦は有利な戦いであつたが、中盤以降形勢不利となり小西行長等にる講和交渉の現地交渉を踏まえて朝鮮側は正使黄槙(よふぁしん)             

・副使朴弘長(ぼくほんちゃん)の使節団を文禄5年(1596)に日本に送った。秀吉が予め呈示した条件の朝鮮南西道の割譲、朝鮮王子の人質等7項目は完全に無視した上で「日本国王に封じる」と言う一項のみであった。秀吉は嚇怒し直ちに再度の征韓の大号令を発した(慶長の役)。結果として日本軍は敗退した。秀吉の逝去を伏せて「全軍撤退」を敢行。撤退する日本軍は現地の民間人の多くを日本に移送した。

○徳川政権下、前政権の戦争終結後の関係修復について両国間において水面下で交渉が継続された。その中にあって対馬藩では米の生産等皆無であり、朝鮮との交易の利益を主財源としている特殊な事情により、貿易再興の遅れは藩にとって死活問題であった。そのような事情により、対朝鮮国との交渉役として対馬藩主・宗氏並び家臣の活躍は大きかった。徳川政権は「前代の罪を改めた」とする謝罪の国書を朝鮮国王に届けたとされる書) それを受けた朝鮮は「国書に対する返書」を携えた「回答兼刷環使」を派遣する事にした。「刷環使」とは日本が友好の誠意の証明として、数万の捕虜を帰国させれば「刷環」することになるとの意味を表現した。慶長 12 (1607)講和使節団「回答兼刷環使」を日本に送ることを決定した。使節団の任務は敵情視察、捕虜返還、鉄砲買い付け等も含まれていた。家康は使節団に対し友好的な態度で謁見した。禁輪品の鉄砲についても特別の配慮を示し許可した。捕虜返還についても合意したが、朝鮮側の受け容れ体制が杜撰(ずさん)で、上陸した港で帰国者は解散させられ、仮設の住居、食料、貸付金等の救済処置は一切なく、たちまち困窮した。その事により帰国希望者は減少した。その後、使節団を迎える日本側の体制が整い、通過する藩においては使節団専用の館を新営、什器備品も特別にあつらえた。琵琶湖畔40 キロを「朝鮮人街道」として整備した。この街道は各大名、オランダ商館長、琉球使節団等通行不可とし「将軍襲職の祝賀のために来朝した朝鮮使節団の専用道路」として格

付けをした。岡崎において将軍は「慰問使」を派遣する等破格の厚遇をした。寛永 20 (1643)2 月、朝鮮側は日本交隣外交の姿勢を積極的に推進するようになり462 名の大規模の使節団を派遣した。こうして江戸時代の使節団は「敵対する国」から除々に肯定的な認識に変化「野蛮人と蔑む先入観は間違いである」。「日本は文化的に進歩している」と日本に対する評価は友好的な雰囲気に好転した。また日本側の儒学者、学僧等の文化人は使節団から送られる書籍や文化財等の朝鮮文化に接し多くの感銘を受けた。先に研修した清水・清見寺の朝鮮通信使の足跡についても説明を加えた。引き続き、雨森芳州についての説明があった。芳洲は対朝鮮外交について多くの指針を提起、使節団の滞在中、幕府と朝鮮側との折衝役を勤め、朝鮮側からは「雨森は傑出した抜群の人物」と全幅の信頼を寄せられていた。対朝鮮外交について「日本側の尺度で交渉すれば不都合が生ずる。相手国の歴史、言語、習慣、人情、作法、伝統等理解した上ですべてを尊重して誠信の交わりを行うべき」と説いた。「その先進的な国際感覚と思想は、現在両国間の外交が途絶えた状態を正常に復す方法の指針とすべきではないでしょうか」と早川氏は強く訴える。早川氏は何十冊にも及ぶ専門書を精査し「朝鮮通信使」について研究を重ねて資料を作成された。その内容は持ち時間内では語り尽くせぬ程膨大であり、悠久の浪漫物語であった。「歴史を学べ」先人達の善隣友好関係の構築を苦難の中で成し遂げた先例がいま生かされるべきではないだろうか。その強い想を込めて早川氏はマイクを置いた。

文責大谷浩士

 

 

H26年三月研修会 「教如上人と本願寺東西分派」

 

○平成 26 3 23()、春寒も次第に緩む頃、関ヶ原番外編として「教如上人と本願寺東西分派」と題しての研修会が行われました。

担当は当会研修部の早川綾乃氏、参加者 29 名。研修地は近江の大津市、長浜市から岐阜県大垣市にかけて行われた。今回の研修内容は主に「上人の受難」をテーマにしている。そもそも教如上人(15581614)とはどなたもご存知のとおり、浄土真宗・東本願寺を創立した上人である。配布された資料はその教如の人物像と事績が時系列で非常に詳しく述べられており、往路の車中では先ずその資料に従って上人の基礎的知識の説明がなされた。それらを要約すれば教如は父・顕如、母・如春尼の長男として大坂(石山)本願寺で生誕する。繁栄する寺内町で開放的で自由な雰囲気の中で育つ。13 歳で得度。この頃、信長との石山合戦が始まる。交戦、和睦を繰り返すも教如 23 歳のとき、父・顕如は朝廷の介入により和睦し信長に大坂を明け渡し、紀伊鷺ノ森御坊に「宗祖御真影」と共に本山を移転する。天正 8 (1580)。しかし教如は鷺ノ森には同行せず信長に対して徹底抗戦を主張し籠城する。強い覚梧と決断があった。顕如、教如父子の意志疎通が欠けていたことも要因であろうが、ここに両者は対立、義絶状態になる。だが籠城から 4 ケ月、さしもの教如も信長の軍門に降参。大坂退去の際、本願寺は寺内町と共に焼失。いわゆる 11 年間にも及ぶ石山合戦はここに終結した。教如は鷺ノ森の父の許に合流しょうとするも拒否され後、諸国を「流浪」と称する 2 年間の旅に出る。教如 25 歳の時、天正 10 (1582)衝撃的なニュースが伝わる。本能寺の変だ。変後教如は父母が暮らす鷺ノ森を再び訪れ、教如の弟・興正寺顕尊の尽力により父子は和解する。信長の死により今後の政治情勢の流動を鑑みて一族の結束が大事

と考えてのことであった。本能寺の変後は秀吉の時代となり、秀吉の命により本願寺は鷺ノ森から貝塚願泉寺に移転。続いて大坂城の面前に位置する天満に本願寺を移す。旧大坂本願寺の様な寺内特権はなかったが、本山が再び旧縁の地大坂に帰還したのである。実に石山合戦終結から5年後のことであった。しかしまた、5年後、天正19年(1591)秀吉は京都七条堀川に本願寺移転の命を下す。京都移転後、父・顕如が亡くなり教如は本願寺を継職する。すべてが順調に・・・

と思われていたこの時期、教如の身に突然難儀が降り被る。顕如の「譲り状」なるものが出現したのだ。その内容は本願寺を教如の末弟・准如(教如より 19 歳年下)に相続させると言うものだった。現在ではこの「譲り状」は偽文書とされている。ともかく、この件は秀吉も黙認したことによって教如は隠退を余儀なくされる。5 年後、慶長 3 (1598)秀吉、如春尼も亡くなり教如は家康に急接近する。今後の政治情況と指導権の転回を読んでのことであろうが先見の明がある。教如の思惑は着々と成果を見、実現する。慶長7年(1602)家康は教如に京都・烏丸六条の地を寄進した。この地に教如が創立したのが現在の「東本願寺」である。この時教如 45 歳。対して准如の本願寺は「西本願寺」と呼ばれる。ここに本願寺東西分派を見ることになるわけだ。教如

には意志の強さも相俟って強い運命の力が作用していたように思う。以上早川氏の資料と言葉から簡潔に要約してみた。

○現地研修ではまず大津市から。ここは「大津別院」。建物の周囲は高いビルが建ち並んでいる。その谷間に別院は静かにひっそりと・・・。凛とした空気が漂っている。東本願寺設立を目指していた教如上人が家康と会見するために建立した別院である。当番制で本山から出向されている執事の方から院内の説明を頂いた。本堂、書院共に江戸時代初期の真宗寺院建築の特徴を伝え

ており貴重な遺構を拝見した。特筆すべきは教如上人自ら図画された「親鸞聖人等身御影」が本堂内陣に安置されている事。合掌する。一方書院の見事な格天井、壁、襖などにも様々な絵が描かれており、美しさにほう〜とため息が漏れた。

○先を急ごう。バスは北上し次の目的地長浜へ。ここは「東本願寺五村別院」。かつて教如が秀吉の意向により隠居を命じられた時、上人に深く帰依する湖北の門徒衆が五村のこの地に坊地を寄進し一宇を建立し上人をお迎えした。東本願寺建立後は五村の御堂は「元の本山」と称されたところ。スケジュールでは15分位の立ち寄りのつもりであったが若いお坊さんの熱心なご説明と共に堂々たる坊舎をくまなくご案内して頂き感激。多くの時間をさいた。教如上人のご遺骨が奉安されている立派な御廟にも参拝。

○さてバスは近江を後に一路岐阜県安八郡へ。ここは「横枕山・光顕寺」。秀吉没後、上人は家康に急接近、関東において家康と親しく会見後、京都への帰路、この地で石田三成の伏兵に囲まれ襲撃される。近郷の門徒衆が上人を護ろうと戦ったが形勢不利となり上人も「最早これまで」と自決を覚梧され引き戸の板に辞世の句を刻まれた。この消え入る様な句の文字を我々は必死に判読しようとしたがすんなりとは読めないところがかえって良い()。しかし上人は流石に運の強いお方だ。この危機も九死に一生を得て難を逃れることになるのだ。この時の危機を救った門徒衆を後に「土手組(どろてぐみ)」と称される様になる。農具でもって上人を護った手に土のついた農民との意味である。我々はこの戦闘で亡くなった 19 名の戦死者の墓前に手を合わせた。身命を捨てて上人を助けた熱い想いが伝わって来る。

○さて旅もいよいよ大詰め。光顕寺に別れを告げバスは大垣へ。ここは「西圓寺」。教如上人は一担は難を逃れたが、再度攻められる事必定であると考えこの西圓寺の住職・賢秀が上人に酷似していることから身代りとなって関ヶ原へ進み三成軍は誤って賢秀を捕え死亡させた。計略は見事に当たった。この間に上人はなんとか京へ帰還出来たのである。多くの僧俗に助けられた上人は後にこの寺々に直参御免と篤い品々と感謝状を送っている。

○教如上人の寿像(存命中の御影)から伺えるのは面長鼻筋高く、眼光鋭く、背丈も 180Cm ほどあったと伝わる。かなり威圧的であったのでは・・・。本願寺の直系でもあり門徒の尊敬を一身に集めていたであろうことは想像にかたくない。今回は早川氏の孤軍奮闘にて教如上人一色のオンパレードの研修であったがそれ故に私を含めて参加者にとっては人間としての上人の輪郭がより一層鮮明になったのではないだろうか・・・。

文責 高橋浩子

 

H26年四月 研修会  「葛城の地を巡り、古代葛城氏の盛衰等に思いを馳せる」

 

平成26427日(日)、アウトドアの研修には最適の季節。うららかな春光を浴びながら古代の夢を追う探訪として奈良県葛城方面への研修会が行われました。テーマは「葛城の地を巡り、古代葛城氏の盛衰等に思いを馳せる」ロマン溢れる題名だ。 研修担当としてはもうベテランの域に位置する衣川真澄、武藤明則の両氏。協力者として強力な味方・中村清氏があたられた。参加者42名。 「古代、奈良盆地の中央には巨大な湖沼があり人の住む地は東西に分かれていました」とは開口一番の衣川氏の弁。盆地の東を支配した大和王家に対して西に勢力を伸ばしたのが葛城氏。バスは金山を出発してから2時間弱、西名阪・大和郡山インターから南下する国道24号線をひた走る。やがて西側の車窓に葛城山(960m)、金剛山(1125m)の雄大な山容が現われる。今回の研修地はまさにこの双峰の東麓一帯に広がる葛城市、御所市を訪れる。葛城王朝を築いた彼らの足跡を綴る道は盆地の西端を南北に走っていた。 ここに点在する神社や遺跡を巡り我々は謎が多いとされる葛城一族の事績を学ぶと共に、そこに漂う深い歴史の存在を胸裏にえがいた。

  さて、衣川氏作成の資料の主な内容は葛城の地名の由来は定かでないこと。また、葛城氏の台頭は大和王権の後に出た新王朝・河内王朝の側につき活躍した豪族であり婚姻を通じて新王朝と繋がり頭角を現したのだろうと。ここに「葛城襲津彦」なる人物が登場する。軍事の才があり朝鮮半島において将軍として名を上げ功績が認められ葛城の地を領地として得る。 彼の娘磐之姫が仁徳天皇の皇后となる。この葛城の地は鍛冶遺跡が多く検出される。襲津彦が朝鮮半島から連れ帰った漢人の子孫がこの地で鉄製品を生産したのであろうと。王家との間に婚姻関係を結び大いに繁栄した一族であったが雄略天皇との争いに敗れ滅亡することになる。滅亡までの経緯は紙面の都合上、明示できないが衣川氏は「記紀」を参考にしながら氏ならではの文脈で詳しく述べている。また、御所市に在り今回の研修で参拝する高鴨神社の氏子「鴨氏」と葛城氏の関係においてはよくわからないとしながらも衣川氏の推理では鴨族が祀る祭神名が「大国主命の御子・阿遅志貴高日子根」であることから考えて葛城氏以前のもっと古い時代にこの地に来て土着の人々と同化。その後葛城氏の祖である「剣根」が国造となり支配者としてこの地を統治。鴨氏はその支配下に入ったと考えられると・・・。 「なるほど・・・」とうなづくに足りる推理だ。

一方、武藤氏から配布された資料は「地図から見た葛城氏」として鮮やかなカラー写真が豊富に載る。衣川氏の資料を補足すべく段取り良くまとめられており、大いに参考となった。

  葛城氏は朝鮮半島との外交においても活躍している。その外交の源は半島⇒難波津⇒ヤマトを結ぶルートを押さえた事による。このあたりの事柄を武藤氏は持ち前の歯切れのよい語り口調で説明された。さあバスはいよいよ葛城市に到着。古代の世界をのぞく今日の第一歩。 最初の訪問先、同市忍海町、歴史博物館へ。館内中央にドンと据えられた長持ち型石棺を前に学芸員の方の説明を受ける。我々は往路のハスの車中にて予備知識を得ているので理解度は速い。遺跡からの数々の出土品展示物を拝観。

「笛吹町」何とまあ響きの良い名であることか。ここで「葛城坐火雷神社」が鎮座する。先の博物館からやや南西に位地している。火を扱う宮中の台所の神様と言われるがずいぶんと厳いかめしい名である。正式な社の名称より土地の名をとって「笛吹神社」と通常は称されている。本殿横において、お若い宮司さんにご説明を受けた。祭神は火雷大神と天香山命(笛吹連祖神)。火の神様であることから火を扱う職業や消防関係の方々の参拝も。また、その名も笛吹きから連想して笛、フルート、尺八等の楽器の上達を願う人々の参拝も多いようである。境内には県指定天然記念物の樹木が茂り、おもしろいことに神社境内には少々異端的な「大砲」が境内中央に保存されあたりの空気を威圧するかの様にニラミを効かせていたことである。大砲は日露戦争後に政府より奉納されたものとお聴きした。

奈良と言えば「?の葉鮨」御所市に入り昼食を。後半の研修はまず同市室町に在る「室宮山古墳」の探索。前方後円墳であり竪穴式石室の内部を見学出来た。見学には地表よりかなり下方に降りなければならず担当の方の行き届いた配慮によりアルミ制の脚立と内部を照らす懐中電灯が用意された。 築造年代は5世紀前半とされ被葬者は先の葛城襲津彦と推定されている。

この室宮山古墳の西側、国道24号線をはさんでやはり同市森脇に「一言主神社」が在る。桜並木の広い参道の奥に社が・・・。祭神はその名もスバリ一言主命。命は一言だけ願いを聞いて下さる有難い神様だそうだ。それならば一番の大事な願い事を用意してくるべきだった()。一言主命はどうやら葛城氏の祖霊神である様だ。境内の一隅にある銀杏の大木は樹齢1200年と聴き圧倒された。堂々たる風格に思わず手を合わせた。さて、いよいよ今日の研修の〆は御所市でも南端に在る鴨神の「高鴨神社」へ。往古、ここは鴨氏発祥の地。祭神は先に述べたとおり。全国鴨社の総本山である。やはりこちらでも拝殿横にて神社の由来や鴨族との関係について宮司様のご説明を受けた。拝殿の幔幕には楠正成の家紋・菊水が染められている。社の裏山をひと山越えればもうそこは河内国。河内の悪党(現在で言う悪党とは全然意味が違う)楠正成は戦勝祈願によく参拝に訪れたそうだ。神域は鉱脈の上に在ることにより多くの「気」が常に放出さていると。気を浴びた我々は心身ともに甦ることが出来たでしようか・・・。

 葛城氏に対する多くの謎は雄略天皇が葛城氏を滅ぼした後、その残党や神社をことごとく放逐した事による、歴史のヤミの中に永遠に封じ込められた形で残念だ。だが謎は大いなる想像を生む。担当のご両人にはそのところを大いに膨らまして頂いた。復路のバス車中では中村氏に今回の研修内容に照らし合わせた「古代国家」について総括的なお話を頂いた。今日も一日無事、安全に研修を終えた事に感謝、感謝?                                       文責 高橋浩子 

 

H26年5月研修会 「諏訪周辺の石仏と石像をめぐる」 

 

風かおり青葉若葉が日に映える美しい季節。今回は長野県諫訪周辺を探訪する研修である。主諏訪の南、高遠出身であり諏訪で活躍した石工?守屋貞治 (1765?1832)作の石仏を見学し、そこから石造の歴史、種類、様式等も学習しようとするもの。また、知識の泉が広がりそうだ。テーマはズバリ「諏訪周辺の石仏と石像をめぐる」。

主担当は歴史と旅のことならドンと任せてと、いつも頼もしい限りの加藤博幸氏。アシスタントとして山田三代子、津田啓子の両氏。参加者35名。

まず、加藤氏は石仏の概念を「石」だけに固いお話ながら資料をもとに非常に分かり易く説明された。加えて今回のメインディッシュである守屋貞治の石作仏の特徴と彼の出身地?高遠に何故石工職人が多く生まれたか、その理由を語られた。

 当時、財政の逼迫していた高遠藩では農家の二?三男を冬の間の農閑期に石切り職人として他国へ出稼ぎに行くように奨励し運上金の取り立てが行われた。しかし、旅先での評判の良い職人はその土地に定住して石切り家業を専門とする者も現われた。まさにその中の一人が守屋貞治であった。

加藤氏は続けて貞治の職人根性の凄まじさと、石仏製作中に於いては経文を唱え香を焚いて取り組んだ等の信心的な気持ちの人となりのエピソードも紹介された。また、今回の研修の下地となっている諫訪氏についても系図をもとに説明を頂いた。

古代から連綿と続く系図であったがその中でも戦国時代、諏訪頼重が武田信玄の侵攻を受けす諏訪宗家は廃絶。頼重の娘?諏訪御察人と敵方の信玄との間に授かった勝頼が武田を継承するも天正10年(1582)信長によって滅ぼされた史実は巷間によく知られている。宗家の滅亡の時、頼重の叔父?満隣一派は、いち早く武田に恭順したため難を逃れ諏訪家は満隣の子、孫と継がれ孫の「頼水」は後年諏訪高島藩初代藩主になる。以後じゅう十代を経て明治維新を迎えている。

さて、現地研修のレポートに移る事にしましよう。

バスは諏訪と言えば御柱祭りで有名な諫訪大社下社春宮に到着。この春宮の北裏手に在る「万治の石仏」の見学から始まる。研修日以前から呼び物である 春宮の脇を流れる砥川沿いの細い道を登りつめると、やがて川の扇状地に出る。この一角に万治の石仏は「たったお一人」で鎮座していた。そのお姿は想像していたよりかなり重厚で大きい。高さ2m余りか半球状の自然石の頂部に頭が載っている。

そもそもこの石仏の誕生由来を聞けば何とも神秘的である。春宮に大鳥居を奉納するため、この大石を用いようとノミを打ち入れた折、何と石から血が流れ出たと言う。驚き恐れた石工は造作を止め、あらためてこの不思議な石に阿弥陀様を刻み慰めた。

見学の折、会員仲間から「この石仏の風貌、誰かに似ている!!」のと。「そうだ、今年米大リーグ・ニューヨークヤンキースに移籍した、元楽天のマー君こと田中将大投手よ」。また視点を変えれば、この石仏の顔はまさに「モアイ像」。あの南米チリの絶海の孤島・イースター島のモアイ像の顔とそっくりなのだ。「マー君もモアイ像とのあだ名があるとおりだ」この時皆で納得し大笑いした。丸い胴体に万治3年と建立の年号が刻まれていた。

何と350年もの長きにわたって鎮座している訳だ。離れがたいが、ままいろいろ謎を秘めたこのユーモラスな石仏に別れを告げ、砥川の清らかな瀬音を後にして先を急ぐ。

昼食は下社秋宮近くの「食祭館」にて。敷地内に御柱が一本天空にむかって立っている。さて後半の研修地は上諫訪「温泉寺」へ。

諏訪湖畔の東岸、上諏訪温泉郷の一画に在る。参加者の中には「温泉に入れるの?」と冗談まじりに問う人も(笑)。

寺の参道沿いに建つ三棟の覆屋に守屋貞治製作の西国三十三観音霊場の本尊を彫刻した石仏が祀られている。いよいよ貞治の石仏との対面だ。

貞治?年の作と言われ24体以降は弟子が引き継いだとされている。拝観後、皆は「貞治の石仏はみな温かみのある表情でほっとする」と口々に???

人々は誰しもさまざまな情念の中で生きている。だから貞治の心がほっこりする様な表情の石仏に対峙すればやはり皆、懐かしい安寧な気持ちが更生えるからでしよう。

境内本堂前の貞治58歳の円熟斯に彫られたとされる「延命地蔵」を拝観。すこし吊り上った切れ長の目、瞼の縁がくっきりと彫られていた。とても気品のあるお顔であった。

境内は広大な敷地を有しており本堂裏手の見事な庭園に目を見張り裏山の中腹にひっそりと建つ平安時代の和歌の才女?泉式部の墓にもお参りした。

温泉寺より国道20号線を東へ、茅野市「頼岳寺」へ。

先に述べた諏訪高島初代藩主?頼水が建立した諏訪氏の菩提寺だ。廟所のお参いりと共に子安地蔵堂に安置される高遠出身の石工作である掌善、掌悪の二童子像を拝観。白蓮華を持つ掌善童子の愛くるしいお顔が印象的。

?さていよいよ研修の旅も大詰め。最後の研修地は頼岳寺よりさらに東へ、諏訪郡原村「深叢寺」へ。貞治54歳時の造立「十三仏」の拝観。

個々に十三体あると思いきや、そうではなく塔身部分に十二体の像を刻み、その上に延命地蔵を載せて十三体となる石像であった。十三仏とは各忌日の法要のとき主仏としてお参りする仏のこととお聴きした。

今回の研修は加藤氏の精力的なご案内にて貞治の石作仏を中心に江戸時代の庶民信仰の対象となった近世の石仏、石像を巡った。

「石仏のオンパレード」であったが見学しながら都度、石仏の専門的な見方、石塔や印塔についての知識の教示も頂いた。

石だけに固く重く深い内容であったと思う。石仏に対面し皆様の胸裏に何か精神的、心理的な問いかけがあったでしようか?

長丁場お疲れ様でした。

文責 高橋浩子

 

 

H26年6月研修会 「中山道の歴史散歩」

 

6月2 2日(日)、そろそろ梅雨入りとなる侯、「中山道の歴史散歩」と題して岐阜県は醒ヶ井から美濃赤坂までの古代風景を研修した。当会は歴史に造詣深い人ばかりの集まり、「古代風景」と耳にするだけでも想像の輪が広がり、ワクワクするのは私だけではないでしよう。

悠然とした時の流れ、昔を今に伝えるヤマトタケルの伝説の残る居醒の泉、壬申の乱の舞台となった不破みち、聖武天皇の詔によって建立された美濃国分寺跡等???。季節の風とともに立てばそこに流れる時間はやはり別世界の古代風景の中だ。

担当は武藤明則、石田明乗、まさにダブルアキノリの両氏。また、総合的な面からの協力者として中村清氏が加わりました。武藤氏は過去何度も研修担当されるベテラン。石田氏は当会の研修会としては初担当。中村氏には毎回適切なアドバイスと説明を頂いている。参加者は3 6名。

今回の研修の要点は、この地に残る古代の大きな歴史の舞台となった史跡を巡りながら、日本がどのような過程で形成されてきたか、それを考え、思いを馳せようとするもの。

前述の史跡3力所の他に「美濃国一の宮?南宮大社」、「関ヶ原不破の関資料館と関跡」、雨天のため伊吹山を変更し「竹中家陣屋跡」、赤坂金生山から産出される赤鉄鉱を各地に搬出した「赤坂港跡」等を探訪。このように多彩な研修地に心が躍った。

最初の訪問地、そぼ降る雨の中、金属精錬の神を祭る美濃国一の宮「南宮大社」へと歩を進める。森の緑を背景にした壮厳華麗な朱の社殿が美しい。聞けばこの社は壬申の乱、平将門の乱、前九年の役等、古代の大きな騒乱に神験あらたかであって東国の守護神としての役割大であったという。主祭神は金属を扱うその名の通り「金山彦命」であるが、より古い「天火明命」を祭神とする境内摂社の「南大神社」にひかれる。天火明命は丹後の籠神社の主祭神である。

さて壬申の乱における大友皇子に対して、大海人皇子(後の天武天皇)の勝因は美濃国の兵によっていち早く交通の要である不破道を押え、東国を掌握したことと、尾張国の兵2万を味方にすることに成功したことだ。我々は関ヶ原町不破関資料館拝観後、関が原に残る壬申の乱の史跡と不破関跡を見学した。乱の折、大海人皇子が兜を外して掛けたとされる「兜掛け石」と同じく皇子が沓(くつ)を脱いだとき足をかけたとされる「沓脱石」を見学。いずれも畑の中の一角にあり、特に兜掛け石の方は樹木の下の小さな祠に大事そうに祀られていた。それぞれの石が本物かどうかの思いは各々の胸の内として、どうしてもこの手のものは現実的でおもしろい。

 乱を語り見るには、不破道のそばを南北に流れる関の藤川(藤古川)は避けて通れない。往時、この川を挟んで東側に大海人軍、西側に大友軍が陣取り、激戦を繰り広げたと伝えられている。現在の川幅はさほど広くなく、両岸は樹木がうっそうと茂り静まり返っている。そのしじまを破って川の上を時折JR東海道線の列車が走り抜けて行く。時が去り人も去り、戦いの面影は今では何も残っていないが、耳を澄まし目を閉じれば両軍の兵士達の雄叫びが聴こえてくるようだ。

さて不破の関跡であるが、壬申の乱でも見られるように非常事態に備えるため、奈良時代に設置されたが、延暦8年(789年)にはもう停廃されている。我々は人々の前から姿を消したそのまぼろしとも云える関跡を見学した。不破関は藤古川の左岸に自然の要害の地を利用して設置されており、すでに先の資料館にて土器、瓦、木簡などを見学し、奈良時代の関の姿を学んでおり、関への想いを巡らせながら土塁跡や庁舎跡等の探索となった。

今回は第17回総会も兼ねており、昼食処の「醒井?本陣樋口山」にて行われ、全ての議題において出席者全員の賛同を得、無事終了した。「本陣樋口山」の前に流れる清流?地蔵川では可憐な梅花藻の白い花が咲いており、清涼感を誘った。午後からは天候不順の為、伊吹山登山は断念し、変更地として中山道は垂井町に在る竹中半兵衛のふるさとを歩いた。なかでも竹中家陣屋跡は今も健在で、がっしりとした石垣と白壁の重厚な門が印象的であった。禅憧寺にてそぼ降る雨の中、半兵衛の墓に参る。

さて我々は垂井より東に進路をとり大垣市へと向かう。市の北西部青野町にて美濃国分寺跡を見学する。水田の中に一段と高く塔跡が残る。基壇が地上復元されており、その上に建っていたであろう豪壮なたたずまいを想像する。見えないものを見る。これも歴史の醍醐味であろう。その茫洋たる昔の香りをのせて心地よい季節の風が?を撫でてゆく???

国分寺跡に未練を残しつつ、同市に築かれている古墳時代後斯の昼飯(ひるい)大塚古墳を見学後、次に赤坂宿を訪ねる。この地はかつて赤鉄鉱を産出しており、粉にすると非常に純度の高いベンガラになる。このベンガラの雨による流下が字名の源となったと聞く。地金は赤坂港から各地へ搬出された。我々は江戸時代の様子を残す町並みの中にハイカラな雰囲気を醸し出している洋風建築の港会館に立ち寄り、数多くの古写真やベンガラ土器類を拝観した。

今回の研修は、この往時舟運で栄えた赤坂港跡の見学を最後に終了。今回も歴史の舞台であった土地や建物を訪ね、往時の人たちの記憶を迪る研修会であった。ダブルアキノリの両氏に感謝、感謝!!

文責 高橋浩子

 

H26年7月学習会 「明治天皇と日本の近代化」

 

7月2 7日(日)、盛夏のさなか、名古屋市中区金山、日本特殊陶業市民会館にて学習会が開催された。テーマは「明治天皇と日本の近代化」サブタイトルとして(王政復古から半世紀、近代日本の軌跡をたどる)。

猛暑のみぎりにもかかわらず会員、ビジター合わせて6 5名という多数の出席者をいただいた。担当は当会顧問?中村清氏。氏は当会における近代史研究の第一人者である。先年の学習会においても明治4?5年、一年10か月に及ぶ「岩倉具視遣欧使節団」に同行した久米邦武の書『欧米回覧実記』をもとに研究発表しておられる。

さて中村氏は開口一番「はじめに」として今般の学習内容の趣旨を語られたが、それを端的に紹介すれば、「明治期、日本がいち早く近代化を遂げたその理由とプロセスおよび明治天皇の役割、さらに同時期、近代化の対応に遅れた中国(清)と清を宗主国として自主的な対応のできなかった朝鮮国(李王朝)とが西欧諸国や日本との関係でどのような歴史の連鎖であったかを概観したい」と。またその延長線上において「現代につながる中国、韓国の反日抗日活動の起源にも触れてみたい」との思いも???

学習資料も18頁に及び、特に表紙は断髪され、サーベルを手に大礼服を召された凛々しいお姿の若き日の明治天皇の肖像写真が載る(明治6年10月8日、内田九一撮影の御真影)。中村氏は当時神格化されていた明治天皇の「個人情報」をほんの少々紹介された。身長16 7 cm酒豪であること。お肉が好物。魚嫌い、風呂嫌い、医者嫌い等々。我々はこの現実的な部分を知ることが嬉しい。やはり天皇も人間であられたか???

資料に基づき順次説明された内容の中でも、特に表題にあるような近代天皇としての誕生と立憲君主としての天皇の政治介入の有無の所であるが、資料と中村氏の弁を入れながら少し要約してみた。

米使ペリーの浦賀来航(1853年)以来、開国の是非を巡る政治の混乱期、攘夷を固持する孝明天皇の突然の崩御(1866年)の後、明治天皇の践祚、翌1867年の幕府による大政奉還、同じ年の暮れに王政復古の大号令が出る等慌しい。号令は14 才の明治天皇から勅令を受けての公家の岩倉具視や薩長による旧幕府への挑発であった。戊辰戦争の最中、薩長を中心とする新政府は、1868年3月に五箇条の御誓文の詔を発布、開明姿勢を示した。誓文の一文を紹介すると「広く会議を興し、万機公論に決すべし」。新しい政治体制は幕府(将軍)と朝廷(摂政関白)を廃止して中世、近世の先例をすべて取り払った。さてここで明治天皇の立ち位置であるが、新政府の中心メンバーは践祚したばかりの少年天皇に権力を委ねるつもりはなかったが、新政府の骨格は「天皇を核とする体制」の構築をスローガンに掲げるしか方法はなかったようだ。

天皇を中心とする親政とは云いながらも少年天皇はカイライであった訳だ。だがしかしながらと、中村氏がここで強調されることは「新政府首脳は天皇を一般民衆や外国要人の前に立てる逞しい天皇に育て上げようとしたことであり、事実、即位から12年後には質実剛健な性格、武人的で西洋的な近代君主に育てられ、また天皇はご自身の意見をはっきりと語られる堂々とした青年天皇に成長されたのです」と。氏は続けて「内外にご自身の姿を積極的に見せられることは、天皇の義務と受け止めていたのです」と御簾の向こうにお姿を隠す以前までの天皇との違いを話された。時代を越えて一民衆の一人としてあっぱれな御事であったと思う???

ところで立憲君主としての明治天皇の政治介入(?)であるが、すでに政治に対する主体的判断力は身に付けておられたが、君主の専制はなく、政治の中心は総理大臣にある。よって議会の議決に異議を唱えることはなかったが、政治的対立の調停者として機能を果たしたり、大元帥として日清、日露両戦争の指揮をとられた。氏は「具体的に天皇の功績をあげるのは困難であるが、近代国家への隆盛を導いたこと、何よりも国事を優先させ、勤勉な人格者であったことが、時の政治家が存分に活躍できる下地となったのでは」と結ばれた。この内容から思うことは政治に介入はなかったが、天皇は、天皇としての特殊なお立場を理解、意識され、執政者との間には絶妙のバランスが介在したのであろうと???

思わず明治天皇に関する事柄に紙面の多くを割いてしまったが、ここで当時の新政府の最大の課題について目を向けてみよう。それは我が国を西欧列強の植民地にさせないことにあった。そのための重要な施策の一つが先年学習した「岩倉具視遣欧使節団」であった。すでに学習済なのでここでは省くが、日本は後に主権を持った責任国家として国際的に認められるのである。教育振興、人材育成、殖産興業、富国強兵、臣民に対して天皇を神格化し皇室を旗印にし、心の拠り所とした。

そこでなぜ天皇は神にならなければならなかったのか。そこが一番の問いかけであろう。中村氏は答える。「最大の要因は西洋列強と外圧があり、主権を持った国家となるために核となりうる中心的存在を天皇に求めた。人心を集約するためには更にもっと上の神になって頂くしか、なかったのである」と。時代の申し子だったとも云えよう。 

以上のように物心両面において新生日本の国是となり繁栄の世になるが、やがて時代の波が押し寄せてくる。朝鮮国を巡る日本と清国の覇権争いだ(日清戦争)。この原因とプロセス、その結果を中村氏の資料は福沢論吉の唱える「脱亜入欧」の言葉とともに非常に分かり易く解説されている。

つづく日露戦争であるが、こちらも開戦までのプロセスと戦争終結からその後の講和条約までを資料は明記する。

端的に言えば日清戦争で清国の弱さを知った列強の一つロシアは満州を占領し、朝鮮半島まで南下する動きを見せた。日本は日英同盟を結び、撤退を要求したが聞き入れられず、ついに開戦に至る訳だ。大学教授、マスコミ、世論の多くは主戦論を唱えたが、非戦論者もまた多数おり、その中でも与謝野晶子が開戦後、旅順にある弟を嘆いて発表したあの有名な「君死に給うことなかれ」の詩は反戦の胸の内を歌っている。資料にはその全文が載る。これをしんあいちの名ナレーター津田啓子嬢にいつもながらの流麗な調子で朗読いただいた。

戦争の結果は言わずもがな。中村氏は日露戦争を「激動の世界史の幕開け」と明言された。

○さてレポートも大詰め。日本は開国、維新によって国家体制を固めてアジアにおいて先駆けて近代化に邁進した。日本に比べて中国、韓国の近代化は大幅に遅れた。日本ではそんななか中韓への蔑視風潮が広がり、対する両国はこの頃より反日抗日意識が植えつけられたようである。これが現代まで尾を引き歴史認識の違いが生じている

訳だ。

今回の学習会は明治維新以降の天皇の役割と中国、韓国を巡る近代史を理解しようとする内容であった。

そこのところを中村氏は10冊以上の参考図書を駆使し、著名な人たちの言葉も紹介しながら、我々に分かりやすくダイジェスト風な資料としてまとめて頂いた。近代史、その奥深さを少しでも知ってもらいたいと願う氏の思いがにじむ。

我々のこれまでの表面的な知識から一歩踏み込む現実的な実体をあぶりだした解説であった。感謝の極みである。大いに知的刺激を受けた2時間にわたる学習会であったが、レポートは紙面の関係上、表面をなぞる程度にしか書けないことに忸怩たる思いでいっぱい。

日、中、韓三国の歴史認識の違いは今もってすり合いは無く、難しい問題が横たわるが、日本の教育機関もそろそろ正直、客観的な視点から冷静に近代史を学ぶ意欲と必要性があるのでは???と学習会後、大いに実感した次第である。

文責 高橋浩子

 

H26年8月学習会「目指せ!外戚への道、望月の栄華・道長編」 

 

8月24日(日)、?夏のみぎり、7月に続き名古屋市中区金山、日本特殊陶業市民会館にて学習会が行われた。演題は「目指せ!外戚への道、望月の栄華・道長編」ずい分と威勢のよい題名である。副題として一摂関政治の死命を制した他力本願システムの実態とは?

時は平安時代真只中???。今までの学習会ではあまり取り上げられなかった時代背景である。担当は小川剛史氏。当しんあいち歴史研究会の若き精鋭である。さて「平安」という時代、「鳴くよ(7 9 4)ウグイス平安京」と歌われ以降400年という長きに渡った時代であったが、人気のある古代や戦国時代、江戸時代に比べてやや認知度は低いかもしれないが、それだけに小川氏から新たなこの時代の魅力を引き出していただければと斯待に心が躍る。因みに小川氏は当会へ入会2年半、学習会における発表は初担当である。聴講者 4 0名が参集した。

平安時代といえば、我々はどうしても、女性は十二単、男性は冠直衣と優美な衣裳を身にまとい恋の歌をとり交わす日々に明け暮れる王朝貴族のイメージが強く、その貴族たちの生活を支えている庶民(農民)層の重税にあえぐ姿を見落としがちであるが、今回はひとまず当時の貴族社会のみに目を向けて、恋の贈答歌ならず、非情とも云える権力への執着、政治的な策謀、野心と欲望とが渦巻く歴史の変転を見ようとするもの。こんな日常ではストレスが溜り、胃薬が手離せなかったのでは???

小川氏はその代表(選手)とでも云える平安中斯の摂関政治の最盛期を演出した「藤原道長」を中心にお話しされた。「摂関」とは言うまでもなく天皇の大権である政治?儀式を、天皇の幼少時、代わって執政することを摂政、天皇の成人後その執政を補佐することを関白という。小川氏は「摂関、この太政官制に組み込まれない二つの顕職は、道長以前の藤原良房(北家の総帥)の時代からのものであり、摂関の金看板だけでは不十分。天皇との強固なミウチ関係を構築し、後宮を掌握することこそ自家の権勢を安定に導くものであった」と。だが天皇とのミウチ関係になるには、娘を入内させ、その娘が皇子を産む。この皇子が次期天皇とならなければ意味がない。皇子を産むか否かは神のみぞ知る範疇のことであり、まさに小川氏の云う「他力本願システム」そのものだ。

資料は2 3頁にも及ぶ。衣川会誌リーダーが協力作成されたA3大の非常に詳しく記された藤原北家と天皇家との関係図も配布された。資料ともども永久保存の価値ありと認識する。

さあ、いよいよ小川氏の本格的な説明に入る。滑らかな堂々としたお話し振りである。氏のお話と資料から、まずは藤原道長の戸籍調べから順次昇進する様を見てみよう。道長は平安中斯の廷臣であり、61歳 (966?1027)の生涯を全うしている。北家を代表する兼家の三男。長兄?道隆、次兄?道兼の相次ぐ死により氏の長者となり、四人の娘(彰子、妍子、威子、嬉子)を天皇の皇后、中宮にして三代の天皇の外祖父として最高の権力を得、藤原氏の全盛斯を現出した。多くの人が知る「この世をば我が世とぞ思う望月の欠けたることのなしと思えば」の歌は有名である。見事な心情の吐露と思うが、亡くなる9年前の歌であり、この時はすでに重い病魔におかされていたのである。もう一つ道長の日記「御堂関白日記」もよく知られている。「御堂関白」と称されても道長は正式には関白になっておらず、内覧(天皇に奏上される文書、もしくは天皇の名前で出される命令書を事前に見る役目)の宣旨の後、右大臣を経て左大臣に就任し太政官の首席となる。

当代の帝は一条天皇である。小川氏は道長が娘?彰子を入内させるため、その成長を心待ちにする様子を語る。

当時、道長だけではなく、公卿輩は外戚という甘い果実を得るべく適齢斯の娘を次々と一条帝の後宮に送り込んでいる。遅れてはならじというあからさまな人間の欲望を見る思いである。さて遡ること一条の元服時は、道長の兄?道隆の娘?定子が中宮として後宮を独占しており、道隆の威勢に遠慮して他の公卿の面々は娘の入内を見送っていたが、道隆の死、定子の落飾という政局の激変により前述のように入内ラッシュとなるのである。入内まではよいが「皇子を産まなければ」という娘側のプレッシャーはいかばかりであっただろうか。

親の権力欲のための犠牲になったと云わざるをえない。

まま、そうも云っていられない。小川氏のお話はこの辺りから佳境に入ってくる。

道長は非常にラッキーボーイである。父の兼家が道長等三人の息子を恣意的に抜擢し高位に就けていたこと。兄二人の死と姉?詮子(一条天皇の母)の引立てがあったこと。適齢斯になった娘?彰子が入内しやがて皇子をあげたこと。

定子の兄?伊周の失脚による政敵の自滅。このような幸運に支えられたというのも政治家の才能の一つと言えようか???

しかし道長は棚からボタモチの如く幸運のお座布団に座していただけではない。積極的な動きも見せている。兎にも角にも外祖父となり摂政とならなければならない。彼は金峯山詣などして娘の懐妊と皇子誕生に賭ける鬼気迫る執念を見せている。その後の様々なあくどいやり方には千年も前のことでありながら胸が塞がる思いである。このあくの強さはオヤジサンの兼家譲りか???

さて以後の道長は三条天皇には研子を、後一条天皇(生母?彰子)には威子を入内させ、それぞれに中宮の座に据えている。まさに「一家三后」を実現させゆるぎない権勢を掌中にしている。望月の歌はこのハレの時に詠まれた歌であり道長の栄華のクライマックスを象徴している。道長のこれまでの道のりは決して平坦ではなかったことを述べた。小川氏の資料にはそこのところが微に入り細にわたって書かれている。

道長の権力欲の権化の部分ばかり記したが、実はかなり太っ腹なところもあったことを紹介したい。政敵に勝利した後、ライバルを破滅させることなく復権を支援、味方に引き入れて優遇するという美徳を持っていたことだ。これは「外祖父としての揺るぎない地位を手に入れた余裕と自信の裏付けです」と小川氏は言う。我々としても道長のある半面の心のやさしさを見てほっと救われる思いである。

道長はやはり大政治家であったのだろう。だが月は満ちればやがて欠けていく。三条帝に入内させた研子が皇女しか産まなかったことが発端になり、さしもの道長の権勢もかげりが見えてくる。栄枯盛衰は世の常である。

2時間半の学習会。小川氏は持ち時間を見事に使い切った。似たような名前が沢山出るなかご説明に苦労されたと思うが、内容的には順序がよくとても分かり易いお話しの仕方であった。権力、謀略、華やかに見える外面とはウラハラに現代の政治家とは比較にならない程のすさまじい貴族政治の世界の内幕を見る非常に内容の濃い学習会であった。

ありがとうございました。

文責 高橋浩子

 


H26.9月 1泊研修会 「さきたま古墳群と忍城跡」

 

平成26年9月26日(金)27日(土)に1泊研修会が行われた。両日とも絶好の天気に恵まれ充実した研修会となった。今回は守屋道治、荒川哲夫、早川綾乃の三氏担当で、三氏により周到な準備をして頂いた。深く感謝したい。

テーマは「さきたま古墳群と忍城跡」で埼玉県行田市?羽生市?川越市を訪れた。本会でも関東に行くのは稀と承ったが私自身も東京までは行くものの、今回のように関東平野の真っただ中をじっくり歩いたのは初めてであった。定刻に出発したバスの中で、守屋氏より埼玉県の歴史や地理的特徴、早川氏よりさきたま古墳群、荒川氏より映画「のぼうの城」で有名となった忍城の攻 防戦につきそれぞれ説明を受けた。配付された資料は良く纏められており、見学の際の予備知識として大いに参考となった。

さてバスは昼過ぎに行田市の忍城址に到着したが、残念ながら見学予定であった忍城に隣接する郷土博物館が休館であったため、本丸の周りを歩いて見学するのみとなった。見る限りにおいては小さな城であり、農民を加えてようやく三千と言われる城兵が三成方ニ万の兵を防いだのは信じられない思いであった。ただ古地図を見ると当時の忍城は浮き城とも呼ばれるほど周辺は低地で湿地帯であり、城も幾多の堀や湖沼に囲まれ通路となる陸水攻め地も迷路のように入り組んでいる。これらが三成の力攻めを諦めさせ、に転じさせた因となったと推察する。しかしながら忍城は平地の真ん中にあり、備中高松と違って周辺は見渡す限りの原野である。従い水攻めで効果を得ようとすると長大な堤が必要になり、仮にその堤を築いたとしても三方が山で囲まれている高松城とは異なり、水を完全に堰き止めることは困難ではなかったか。荒川さんによると堤自体の長さも28Kmから4Kmと諸説あるという。またその効果の有無は不明であるが、水攻めは失敗したと言い伝えられている。

三成の本陣が置かれた丸墓山古墳の上から忍城本丸が望めるが、周りは見渡す限り平地であり、この広大な拡がりを見ながら、水攻めの発想がどうして出てきたのか、理解に苦しむ。智将と言われる三成が分からぬはずはないとも思えるし、現地を見ずに水攻めを強要させた秀吉の命があったからとの見方にもうなずける面大である。結果的には忍城は小田原本城にいた城主成田氏長の命により降伏し和議を受け入れるが、最も遅くまで豊臣方を苦しめた城として後世に名を残すこととなった。

次に忍城址からバスで10分ほどの距離にある埼玉古墳群に向かう。この古墳群は大小九基の古墳があり関東でも最も多くの古墳が集中している場所という。まず「さきたま史跡の博物館」に入り、待機されていた館長に案内して頂いた。 館内の真ん中に展示されていたのが国宝の「金錯銘鉄剣」である。九基ある古墳の一基である稲荷山古墳より発掘されたこの鉄剣は古代の歴史研究に大きな影響を与えたという。つまり鉄剣に記された銘文にある辛亥年とは西暦471年であり、「ワカタケル大王」とは雄略天皇だと解釈されたことにより古代日本史を読み解く基点となったとのことである。また「ワカタケル大王」は倭の五王と称される王のうち最後の王武とされることから同時代におけるヤマト王権の支配域が関東にも及んでいたと推定できるようになった。

この鉄剣の他、館内には古墳より出土した鏡や武器?工具類、いろいろな埴輪類が陳列されていたが、中でも人の高さ程ある馬の埴輪には驚かされた。館長にお礼を言い、今は古墳公園となっている古墳群を徒歩で巡った。古墳群は円墳一基と前方後円墳八基が現存しているが、前方後円墳の軸は全て同じ方向を向いているそうである。北東から南西へ向いているが、築かれた時代が違うにも拘らず同じ向きなのは、何か意味があるのであろうか。どこの古墳か忘れたが、御神体の方を向いているという古墳の話は聞いたことがあるが。小生は九基の古墳全てを観たが大小高低さまざまであり、墳丘に上がれる古墳からは周囲を眺望できる。軸の前方後方にも神体のようなものは見いだせなかった。前述した丸墓山古墳は日本最大の円墳と言われている。この円墳へ続く堤が石田堤としてわずかに残っている。「金錯銘鉄剣」が発掘された稲荷山古墳は前方部も復元され完全な前方後円墳となっている。将軍山古墳では古墳の下に展示室があり、遺体の周りに副葬品を並べた埋葬の状況を見ることができた。武蔵国で最大の前方後円墳と言われるニ子山古墳には上がることはできなかったが広大な周堀が復元されていた。古墳を巡る道は散策路として整備されており、春は梅桜、秋は紅葉の園路として賑わうという。古墳群を後にホテルへ向かう。夕食後近藤さんの部屋に多くの人が集まり懇親のひと時を過ごした。    丸墓山古墳二日目はホテルを7時5 0分に出発し、田んぼアートが見られるという塔の傍を通り石田堤へと向かう。三成が築いたとされる石田堤は現在三力所にわず かに残るのみで、その一つである行田市の堤根にある堤は今では言われなければ、そのまま通り過ぎてしまうような道路となっており、横から眺めてようやくその形を認識できる代物となっている。ただ新幹線横には4?5メートル程の高さの堤が残っており、堤の断面をガラス張りで見られるようになっていた。それを見ると幾層にも土の層があり、いろいろな土を積み重ねて築いたことが窺われる。確かにこの規模であれば相当な労力を要したであろう。効果の有無からは無謀ともいえるこの堤を築いたのは、荒川さんの資料にもあるように天下を目前にした秀吉 の力の誇示ではなかったかと、小生も思料する。

石田堤を後に最後の目的地である川越市に向かう。まずは川越城本丸御殿を見学した。全国的に見ても本丸御殿として残っているのは、高知城とこの城のみである。川越城は、長禄元年(1457)に、関東管領の扇谷上杉持朝(もちとも)の命により、家臣の太田道真(どうしん)?道灌(どうかん)親子により築城され、本丸御殿が築かれたのは江戸時代の嘉永元年(1848)、城主松平斉典(なりつね)によるという。当初の本丸御殿は16棟あり、総建坪千坪を超す広大なものであった。現在は玄関と大広間、移築復元された家老詰所が残っている。 今でも中は使用されており、見学したときも多くの市民がお花(生け花)を創作中であった。表廊下は幅28m厚さ2寸の鏡板でできており、修復するときも木材の手配に苦労したと聞いた。

本丸御殿を見学後すぐ傍にある三芳野神社にお参りした。この神社は童謡「通りやんせ」のモデルになったという。その後徒歩にて市立博物館に向かった。川越は松平17万石の城下町で江戸の北の守りとして重要視され、代々幕府の重臣が城主となっていたという。館内では案内の職員から川越の古代より近世に亘る発展の歴史を説明して頂いた。精巧にできた江戸時代の城下町ミニチュア模型、川越から江戸城?富士山まで描かれた大屏風、黒漆喰(しっくい)の土蔵などに興味をそそられた。中でも明治26年の川越大火で類焼を免れた一軒の家があり、それが土蔵造りであったことから、その後はそれに倣って造られたという黒漆喰の土蔵模型には驚いた。漆喰が五層になっており、下地から表面の黒漆喰まで2 03 0cmはあろうかという壁厚であった。

博物館を出てバスにて昼食会場の料亭ささ川に向かう。いもづくしの弁当を味わった後、三々五々川越の街を散策した。高さ16mの時の鐘は3 9 0年もの間、時を刻み今も1日4回時を告げているという。また川越大火の時唯一焼けなかったという大沢家の店蔵を見たが、土蔵造りの窓のサッシも金属でできていると聞き納得した。黒漆喰の蔵造りの街並みを見ながらの散策は、土曜日であったせいかすごい人出でぶつからないよう注意しながらであったが、小江戸と呼ばれる川越を十分堪能できた。小生は行かなかったが、江戸城から家光公誕生の間や春日局化粧の間などを移築している喜多院まで足を運んだ方もおられた。

その後帰路に就いたが往きには隠れていた富士山が美しい姿で見送って呉れた。今回の2日間は対象が古代から中世近世まで及び、小生にとってあまり関心のなかった古墳などについても興味を?き立てられる旅となった。

ただ参加者が昨年一泊研修会の半分の21名とちょっと少なかったことが残念である。多くの方に体験して頂きたかったと思う次第である。

文責   廣瀬俊文

 

H26.10月度 研修会 「京都西山三山を訪ねる」

 

〇秋もめっきり深まりを見せている10月2 6日(日)、京都へ足を向 ける研修会が行われた。テーマは「京都西山三山を訪ねる」。秋の京都と聞くだけでも心がワクワク…。今回の京都研修.西山三山は三方を山に囲まれた京都の西南部にある。京都市街からはやや遠い。訪問先は中でも桂川の西岸一帯に在る浄土宗西山派の名刹「楊谷寺」「光明寺」「善峰寺」と「三鈷寺」を参拝した。担当は京都のオーソリティーこと川崎政俊、武藤明則、守屋道治、近藤忠保の四氏。参加者3 5名であった。

さてこの地は誰もが知る古代の都・長岡京が造営されたところとして有名であり、喰いしん坊にはたまらない美味な京たけのこの名産地でもある。長江寺南原古墳をはじめとする古墳群もあり川崎氏日く「古代文化のロマンを探索するには格好のところ」と絶賛する。

〇バス車中での説明を前にカラー刷りのきれいな資料が配布された。現地まで今回の研修内容について終始武藤氏が説明された。その内容は先ず西山三山に於けるそれぞれの寺の紹介から続いて浄土教の歴史、開祖法然の生涯、特に法然の教えと弟子・西山派証空(西山上人)については非常に歯切れよく滑らかで我々にとって理解し易いお話しぶりと内容であった。その中でひとつ印象に残ることを・・・。法然の教えは、衆生はひたすら念仏して往生するとするが証空の教えは南無阿弥陀仏がそのまま衆生往生を示す「念仏即往生の法門」と解き心から阿弥陀に帰依するならば光明の中に救いとられて無上の浄土に往生できるとする。う〜〜〜ん!!特にお念仏は申さなくともお念仏を称える心を持つことが大切ということか。

〇いよいよバスは西山地区に入る。青々とした孟宗竹の広大な竹林が我々を迎えてくれた。無垢な自然美が残されている。竹林を抜け野道、山道を走り山間に建つ「楊谷寺」に着く。最初の訪問地だ。ひと気は少ない。僧侶のご説明によれば8 0 6年の開山(開祖?延鎮平安時代初期である。注目すべきは山中から湧出した清泉が眼病に霊験があるということ。聞けば空海がここで度々修行をした際に目のつぶれた子猿がこの清水で目を洗っていたある日、この子猿の目がパッチリと開いた光景を見たことにより、眼病平癒を願う人々のために独鈷を使って深く掘り広げたという霊験あらたかな独鈷水(おこうずい)なのだ。早速我々もこの独鈷水でのどを潤し、目を洗う。目のかたちは治らなくとも近眼が、老眼が治ればとの思いだろうが皆真面目に洗眼していたがさてその効果は??・・?寺の本尊はもちろん眼病にご利益のある十一面千手千眼観音様である。

〇お昼は品よく彩りのよい京料理を戴く。「いっぷく亭」にて。その名のとおり一服したあと後半の西山浄土宗総本山である「光明寺」へ。西山連峰がたおやかな稜線を描く粟生の里に在る。

法然上人が念仏を説いた念仏発祥の地。境内は広大な敷地を擁しておりすべての堂宇を廻ることは時間の関係で無理ではあったが我々は御影堂と裏手の御本廟を見学。特に御影堂(法然上人自作の張り子の御影)では折から年中行事のひとつ「西山忌」の真最中であり堂内から美しい御詠歌の歌声がひびき、黄、青、赤、緑など色鮮やかな袈裟をまとった全国から集参したお坊さんが笛や笙の楽隊と共に次々と本堂に入堂する姿を拝見できた。これもしんあいちの研修にとっては又とない光影を見るチャンスでもあり何ともご縁を感じた次第・・・

〇今回の研修の大詰めは「善峰寺」と「三鈷寺」。善峰寺は釈迦岳の支峰?良峰の山腹に在る。開基は源算上人1029年のこと。こちらも歴史を感ずる堂々たる諸堂が建ち並ぶ。かつては応仁の乱で衰退したそうだが江戸時代にかの有名な徳川五代将軍綱吉の生母・桂昌院様によって再興されたことはつとに有名。豪壮な山門をくぐり抜け順路どおり歩を進めるとやがて樹齢600年以上と云われる天然記念物の「遊龍の松」(五葉松)が両手を広げた様に枝が伸びていた。

高さ2mその長さは40mあまりとか。いわれとして桂昌院お手植えとあるが、それでは樹齢と年代が合わない。とかく「有名人」と関係付けたい気持ちの表れか(笑)。

間々、濃い緑をたたえたこの松をめでながら幸福地蔵尊を拝みながら尚も歩を進めれば今回のメインイベントのひとつ「三鈷寺」に至る。善峰寺と境内つづきだ。山号は「西山」。平安時代の開基によりニ代を経て法然上人門下のまさに先述の証空(西山上人)が伝燈された寺。先程の参拝した荘厳な三寺とは違い非常にこぢんまりとした寺だ。それだけにかえって心が静謐になる。だがご住職のご説明では「応仁の乱以前は浄土宗西山派の根本道場として多くの寺領を有していました」、続けて「寺名の三鈷寺とは寺の背後の山容が仏器の三鈷に似ているから」とも。もちろん証空上人の事績と念仏の教えを詳しく御教示いただいた。いづれにしても歴史と伝統を持つ霊山だ。

特に本堂からの眺望がよく京都市街、東山三十六峰、北山、宇治方面までの雄大な眺めを堪能した。秋の空気は澄んでおり、それ故にどこまでも広く遠く・・・。おいとま時には客殿にて温かいお茶の接待も頂き、ふっと旅の疲れもいやされた。

〇やはり京都は多面的で懐が深い。今回は東山や北山の独特な賑わいと比べれば一味違う静かな西山の自然の中で生きた信仰の霊場を訪れた。阿弥陀様のお慈悲に思いをはせて????皆さん、深い心の安らぎを感じられたでしようか。素晴らしい研修をありがとうございました。

文責   高橋浩子

 

H26.11月度 研修会 「家忠日記の故郷を訪ねる」

 

〇11月2 3日(日)、?秋の候「家忠日記の故郷を訪ねる」と題して県下、額田郡幸田町「深溝(ふこうず)」を訪ねる研修会が行われた。 担当は後藤正前研修リーダー。氏は数年前より「松平シリーズ」をテ一マに年1回の研修を担当している。そのシリーズは過去、徳川の始祖・親氏が松平の郷主・信重の娘に入婿し、ここ西三河に根を下ろして以降、子孫が次第に各地に勢力を拡大してゆく様を探訪してきた。今回の研修はそのシリーズ最終盤である。参加者3 5名。ちなみに後藤氏は始祖の親氏の出自と履歴については通説とは異なった説を唱えておられるが、今回の研修地ではないのでここではその説は脇に置く。

家忠とはご存知のとおり松平14家のひとつ深溝松平の出身。有名な日記だけではなく1600年の関ヶ原の戦い前夜、伏見城にて戦死したこともつとに知られている戦国武将である。

そもそも深溝松平氏とは・・・ここで後藤氏の資料からすこしのぞいてみたい。永正年間、深溝松平の初代となる忠定は兄?元心(もとむね・五井松平)とともにここに今までの城主・大場氏を破る。兄のはからいによって当時の松平惣領家からこの深溝の地を与えられたことに発する。つまり、五井から分家した形となる。二代好影は吉良氏との戦いで、三代伊忠は長篠の戦でそれぞれ戦死している。

今回の研修の主役・家忠1555〜1600 )は四代目に当たる。 彼の初陣は2 0歳の時、父伊忠と共に従軍した長篠の戦15 7 5 )であったと云われる。父とは別行動であり命を長らえた。

さて、家康の関東移封1590)までは深溝城主の地位にあり「軍事」「土木」方面に従事する日々、多忙な日常であったようだ。また、家康の信任厚く、家康にとって重要な人物、特に女性の接待や警護をよく任されている。

後藤氏は言う。「女性の接待をよく任されたのは家忠がソフトな性格であったせいかも知れない」と。三河人特有な部分でもあろう。いよいよ家康の関東移封に伴い家忠は武蔵国忍城で一万石の大名となり以降はこの関東を拠点として領国経営に乗り出すも関ヶ原の戦いの前に伏見城の守りを任されて討死に。壮烈な最斯をとげた。45歳であった。五代忠利は本領である深溝を賜り、帰り、一万石を領する。その後吉田 (豊橋)に転封三万石を領す。六代忠房(家忠日記を世に出すことになる家忠の嫡孫)は吉田から刈谷、丹波福知山、肥前島原と転封。この忠房が深溝松平家の初代島原藩主である。その後一旦十代が宇都宮城主となるが十一代の時島原に再転封。以来明治維新まで累代島原城主であった。以上が簡略ではあるが深溝松平氏の歴史としてまとめてみた。

〇バス車中での後藤氏の説明は明快でありメインの家忠日記(後述)のお話もこれを書いた人(家忠)の気持ちが透けて見えてくる様な気持であった。さあ、いよいよ現地探訪であるが音提寺である瑞雲山本光寺を中心に深溝城址、大場氏跡、資料館、蒲郡の竹谷、五井松平の寺や墓所、城址を巡ったが本レポートはこの中でも日記の内容と本光寺の墓所に焦点をあてて書いてみたい。

まずは『家忠日記』から。日記を世に出したのは先述のとおり六代忠房である。彼は学問的探究心が強く祖父?家忠が山のように残した反故紙のようになっていた原本の塊を丹念にほぐし収載年次、月日の比定をして時間的順序を整えた。日記は天正5年1577)10月から文禄3年159410月までの18年間が継続して残される。後藤氏は「史料的価値の高いものに仕上げられており、武家日記として貴重な歴史を語る価値の高い物と言えます」と、戦国武将ファンらしく目を輝かせて言われる。日記の内容は男性の日記らしく簡潔な文で構成されている。戦国武将であるから戦いも日常のひとこまとして記されている。徳川と武田が駿遠国境で一進一退の攻防の状況、敵への内応を防ぐため前線での守りを交代制で行ったことなど随分と細部の事情を窺い知ることが出来る。

又、家忠が戦いばかりに明けくれていた訳ではないほっとする部分も。「鶉(うずら)つきに出候」として鳥を捕ることに興ずる日々が続く。そうかと思えば、翌日からは「勝頼が大井川を越えて来たものの引き下がったので我々も浜松まで引いた」と言うように戦いと遊びの日々が交互に訪れるさまが記されている。

家康の重要な城普請に関連する記述も多い。「ふる舞い」という言葉がよく出てくる。接待のことだ。接待したりされたり、贈答も日常茶飯事であった様だ。それは陣中でも。山や川へも出向き、山ではタカ狩り、川では網を使って?や鮒を捕る遊びを兼ねた川魚を楽しむ。武将としての「お仕事」を終え領地に帰ればふる舞いや遊びに興ずる。現代でも仕事のない休日にはレクリェーションに興ずるのと同じでありうれしくなる。戦国武将と聞くと威丈高な怖い近寄りがたいイメージが湧くが、同じく戦国武将である家忠については何やら急に身近な存在として、どこにでもいる近所のオヤジ様の様な気がしてくる。おっと、これは少々失礼かも。ふふふ・・・・

資料には、家忠が描く挿絵であろうかマンガチックで見ていてほほえましくなるような絵が多く紹介されている。他にも矢を射る人、エビ、犬追うもの、唐人、人魚、将棋盤(駒は現代と少々異なるようだ)、中にはピカソ的な絵もあり彼の絵心が感じ取られる。

趣は違うが日記から大きな発見がある。それは家忠の「家康」への名の呼び方である。家忠は家康より13歳も年下であるが日記の初斯の頃は家康を呼び捨てにしているが、天正12年15 84)の小牧?長久手の戦いあたりから「家康様」になってゆく。この呼称の変遷についての後藤氏の説明は分かり易い。つまり「家康は後年天下を取った人物であるので我々はどうしても逆照射して若い頃より彼を惣領家の実力者と感ちがいしてしまいがち」と。なる程。氏は続けて「松平氏は昔から結束して生きて来た同族的意識が強い一族であるから家康が所属する惣領家と云えどもまだ主従関係の構築はなく横一線の並びと考えられて来た。ところが秀吉と対等に戦った先の戦いの頃から家康の実力が認められたのか横から縦への主従関係へ意識が変化したのであろう」と。

日記は信長に対しては早くから「上様」と呼称しており、当時の武士の上下意識がはっきりと伺い知ることが出来る。日記のお蔭と云えようか。宗教行事の参加、なえ(地震)の記述もある。連歌、女舞々等の芸能を楽しむ。近隣の親戚との囲碁の打ち合い等々・・・・家忠の戦時以外の日常生活が目に浮かぶ。後藤氏の資料に触発されて一度「家忠日記」そのものを手にしたい気持ちにかられる。

〇次に先にも紹介した「本光寺」であるが、西御廟所と東御廟所に分かれている。我々はまず西御廟所から見学する。紅葉はすでに終りに近いが秋色いっぱいの空気がいい。

西は初代から四代?家忠までの墓石、五代?忠利を祀った肖影堂とその裏にある亀の石像。これは祖先から五代までの功業栄達を記した「祖宗紀功碑」である。他に十一代の墓所と一族家臣の墓石が並ぶ。作務衣姿のご住職にお出まし頂き一基ずつ墓石のご説明をいただいた。東は西より石段を幾段も登るやや小高い場所に築かれる。島原藩歴代藩主に当たる六代から十九代まで(十一代は除く)と六代忠房夫人の墓計十四基が並ぶ。ここで疑問が湧く。なぜ十?代は東に祀られないのか。

ご住職のお話では雲仙普賢岳噴火や眉山崩壊と津波の甚大な被害を被り、城下を視察した翌日に亡くなる悲運な最期であったことから藩政を全う出来なかったことから東に祀られることを憚かったためと云われる。自然災害とはいえ不運な巡りあわせであったようだ。十四基とも花崗岩で造られた切妻造りの屋根を持つ神殿を模した墓で、玉垣や献灯用の石灯籠まで形式も大きさも一定であった。なぜ夫人は一人だけ祀られたのか。お話によると、どうやら忠房夫人は良家の出であることや七代以降は当主以外の墓所を江戸や島原に築くことにしたためとも云われる。石廟が神殿を型どったのは忠房が神道への信仰が篤かったためとも云われる。この廟所が3 0 0年以上も守られて来たのは造営に関わった石都?岡崎の石工のすぐれた技術に依るそうだ。これは同じ三河人として喜ばしい限り・・・・。

もう一つの疑問。なぜ封地でない場所に全代の当主のご遺体を埋葬したのか。これは五代忠利が「深溝の本光寺が代々の墳墓の地」という遺命をのこしたためと伝えられる。神道や儒教をしっかり学んでいた六代忠房が形を定めたとも云われている。平成2 0年8月の「東海豪雨」により七代忠雄の墓所が傾き、その復旧のために発掘調査が行われた。その時3mも下から飾り立てた太刀、慶長小判、一分金、蒔絵の印籠、きれいなブルーのガラス製カップなど副葬品が多数見つかり注目を集めた。実物の拝観はできないが先の資料館にてそれらの品々の写真を見ていると深溝松平家の権勢のほどが?ばれた。資料には長崎?島原からはるばる本光寺までご遺体を移送するルートが明示されており、海路ではなく陸路瀬戸内海沿いを賑々しく練り歩く葬列を想像する。権勢の誇示もあったろうが、目を見張る沿道の人々の姿もまた想像に値する。

〇後藤さん。年一度であったとはいえ、数年に亘って松平氏を追う研修担当お疲れさまでした。ありがとうございました。さて公的な正史と云われる歴史書はあったことがあった通りに書かれるという単純なものではないと思う。時の為政者に都合の良い史書であったりする。ではどうすれば良いか。今回のような家忠が書くそもそも公開を目的としない日記などの資料を見つけ用いながら間接的に推理してゆくしかないのでは。この度の家忠日記を垣間見てその意を強くした次第です。

文責   高橋浩子

 

平成27年度

 

平成27年1月 学習会 「松平氏の歴史が変わる―松平・徳川中心史観からの脱却―」

 

 

□日時:平成27年1月25日(日)9:30〜11:30

□場所:日本特殊陶業会館 第1会議室

□参加者数:会員42名、ビジター11名、合計53名

 

松平氏の歴史を追いかけて10年ほどになる。その間の通説の変り方は目を見張るものがある。有能な若い研究者が続出し、史料を素直に読むせいかその論説には納得させられるものが多い。それまでの歴史家たちが思いつきの推測で論じたような奇説、珍説の類ではなく、一次史料を丹念に読み込んで真実に迫ろうとする客観的な実証主義に基づいたものだからだろう。

たとえば「本能寺の変」の動機について、明智光秀の信長への怨恨説に代わって黒幕説が流行ったことがある。光秀の背後に誰がいたかが論じられ、その結果考えられるありとあらゆる黒幕が登場した。なかにはいくらなんでもそれはないだろうと言いたくなるものまであった。現在では長宗我部氏関連の一次史料の発見から、信長の四国政策の転換が引き金になったという見方が有力だ。そこから先は推測の世界だが、そこで止まっているところがいい。わからない部分は将来に遺しておくのだ。

松平・徳川氏の歴史は、幕府の公式編纂史が江戸時代の270年間を通じて「神君家康」を絶対視するあまり、家康およびその先祖中心の歴史に捏造、改変を繰り返してきた。その結果真実の歴史がわからなくなってしまった。

大衆レベルでも軍記物や歌舞伎に登場する歴史上の人物が、幕府の規制もあって卑俗に貶められ、いわば庶民受けするものに改ざんされて流布したために、およそ真実とは程遠い人物像になって伝わってしまった。

問題は、明治時代になってもこの傾向がほとんど見直されず、それが通史として容認され、戦後もつい最近まで継続してしまったことだ。松平・徳川氏を中心として歴史を見る見方を「松平・徳川中心史観」というが、明治以後の「皇国史観」のなかで「忠義」をキイワードに同居しつづけ、事柄によってはかえって増幅されたものもあるほどだ。

戦後も20年ほどして松平・徳川の歴史にある視点が一貫して流れていることが発見された。これを「松平・徳川中心史観」というが、発見できたのは「皇国史観」という天皇を中心とした歴史の見方(神国日本)がどれほど歴史を歪め、戦争により国を荒廃させたかということへの深い反省があったからだと思われる。

戦後、皇国史観に代って登場したマルクス主義的歴史観は、社会を支配者と非支配者に分けて下層階級である庶民を絶対的正義として見る歴史観に立ったため、史料を客観的に見ることをせず、皇国史観と同じ過ちを犯してしまった。

こうした左右のイデオエロギーに捉われない客観的な歴史の見方が定着したのはほんの30年ぐらい前からだ。明治時代に日本にドイツから輸入された実証主義哲学が100年余りたって、やっと花開いた感じだ。そしてそれは冒頭述べたように、戦後の日本が経済的に安定したなかで教育を受けた若い研究者たちによって開花し、これからも開花しつづけると思われる。

以上を踏まえて、松平・徳川の歴史がどのように新しくなったかをいくつか例を挙げて述べてみたい。

 

松平氏は新田源氏の末裔ではない

江戸時代初期に完成した『三河物語』は松平氏の初代親氏を新田源氏の一族世良田氏の末裔が時宗の僧徳阿弥に姿を変えたものだとしているが、『松平氏由緒書』には親氏という名も徳阿弥という名も出てこない。近衛前久の書状では、家康が将軍になるためにいかに改姓したかがあきらかにされており、また幕府成立後も存立のために官撰史はつぎつぎと改ざんされており、これが後世の捏造なのは確かだ。

家康の祖父清康が世良田氏を名乗ったのは後世の捏造か

学者によっては、清康文書はすべて偽書だという。家康段階で捏造したのかコ川幕府になってから捏造したのかははっきりしていない。ただ戦国時代に系図の改ざんは珍しくはなく、清康段階で新田源氏を私称していた可能性も捨てきれない。

清須同盟はなく、家康が信長に家臣化した

桶狭間の合戦で信長が今川義元を倒したあと家康と同盟を結んだとされてきたが、それを裏づける同時代史料はない。勝った側の総大将の信長に敗けた側の一武将にすぎない家康が、母方の伯父の水野氏を頼んで家臣化したものとみられる。家康と信長を対等にしたい後世の創作とみられる。

三河一向一揆の主因は家臣間の内訌

桶狭間の合戦のあと三河で一向一揆が起きた。最近では不入権を侵害された一揆方の反発というより、親今川派の上野城主酒井忠尚ら反家康家臣団の抵抗との見方が強い。松平家の内部争いに真宗門徒や吉良家が巻き込まれた形だったようだ。このあと家康が三河を統一したとされているが、西三河の北半分は信長家臣の佐久間氏が支配する尾張領であり、このあとも家康が三河を統一支配したことはない。

姉川の合戦で家康が信長を助けたというのは創作

浅井・朝倉軍と織田・徳川軍が姉川を挟んで対峙した合戦。浅井軍に押しまくられて13段の備えのうち11段まで破られた織田軍を家康家臣の榊原康政が横槍を入れて救ったとされていた。最近では、そもそも13段の備えはなく、浅井の支城横山城を織田軍がぐるりととり巻いていたのを浅井が攻め、それを追い払おうと信長家臣たちが信長の下に駆けつけたという。戦いは小規模なもので、浅井・朝倉方の死傷者は少なく、そのあとの志賀の陣でも浅井・朝倉方は健在であり、後世言われるような一大野戦ではなかった。

三方原合戦の信長援軍は通説より多かった

家康が生涯ただ一度の大敗を喫したといわれる三方原の合戦。浜松城の家康を無視するかのように目の前を通り過ぎる武田信玄の大軍に、寡兵の家康が、鶴が翼を広げたかのような鶴翼の陣で襲いかかり、案の定大敗を喫した。信長は水野信元、佐久間信盛、平手汎秀といった織田方の大物を派遣したが、その数はわずか3千だった。これではいかに家康が勇猛果敢でも倍以上の敵に勝つのは無理だ、というのが今までの説だった。しかし新史料が相次いで発見され、それらによれば織田の派遣軍は1万数千から2万。家康軍と併せれば3万近くになる。信玄と数の上ではほぼ互角だった。敗けたのを信長のせいするための改変が行われていた。

嫡男と正妻を抹殺した信康・築山御前事件は家康の意思だった

信長の娘で家康嫡男信康の嫁の徳姫が、信康と築山御前の悪行を12カ条の弾劾状にしたためて父信長に送った。そこには武田と通じていることも書かれていた。驚いた信長は、家康老臣の酒井忠次を呼んでことの真偽を尋ねた。酒井はすべて事実だと答えた。信長は絶句し家康に信康を殺せと命じた。家康は泣く泣く息子と妻を殺した。これがコ川幕府の正史に書かれた信康事件である。

しかし『家忠日記』や古い形の『信長公記』には信長が関与したとは書かれていない。それどころか家康と信康の親子の確執が書かれている。今日では徳川家の内紛と捉える見方が一般的だ。お家騒動である。単なる親子対立に終わらないのは、政治路線をめぐる対立であり、家臣団を巻き込んでいることから、どちらかが倒れなければ決着しないということだ。こうした内紛は武田家にもあった。

徳姫の弾劾状は存在していない。信長はここでも悪者になっている。

関ケ原の合戦は天下分け目の戦いではなく局地戦だった。また小山評定はなかった。問い鉄砲もなかった

東西両軍併せて十数万が激突したといわれる合戦は、コ川主力軍を真田が中山道にくぎ付けにしたために、家康は独力で戦わざるを得なかった。明治維新後に日本を訪れたドイツ人将校のメッケルは、布陣図を見て東軍の負けと即断した。しかしその劣勢を家康は調略(東軍を寝返りさせること)でしのいだ。

最近では一次史料の綿密な検討から、小山評定で家康に味方するといの一番に決意表明をしたとされる福島正則は現地に居ず、そもそも小山で評定など開かれていなかったのだと解ってきた。また、なかなか裏切らない小早川秀秋のいる松尾山に、家康が問い鉄砲を撃ちかけたというのもフィクションだと解った。秀秋はその前に裏切っており、石田三成との間で早朝から戦闘を始めていて、石田方が敗れたという。

 

 以上の他に松平氏の新しい歴史はまだまだある。また、これからも続々と見直しが行われることだろう。問題は、歴史家の努力であきらかになった新しい歴史が一般になかなか浸透しないことである。歴史が地域おこしに役立っていることは多いが、地元の都合で江戸時代に改変されたままの歴史をイベントにしている。地元の英雄の真の姿を受け入れれば英雄ではなくなり、持ち上げにくくなる事情はわからないでもない。しかし良いも悪いも含めて人間味あふれる歴史上の人物ということでよいのではないかと思うのだが、いかかであろうか。

文責 後藤 正

            

 

H27.2月度 学習会 「大和朝廷以前の大国主の時代を探求する

 

はじめに

 中国史書において、倭国からの朝貢があったと具体的に記されるのは西暦57年です(『後漢書』倭伝)。倭の奴国から大夫が朝貢し、漢の光武帝が金印を与えたと記されています。この時代が記された日本の書物は記紀と云うことになるのですが、中国史書に記された記述とは対応が取れません。この時代の日本の様子はどのようであったのだろう。これを学習会において紐解いてみようと、初回は、平成257月学習会において「日本のあけぼの 須佐之男の時代を探求する」と題して紐解いてみました。

 今回の学習会はその続きとして「大和朝廷以前の大国主の時代を探求する」と題し行いました。

 

学習会の内容

大和朝廷が倭国をほぼまとめたのは記紀に記される崇神天皇の時代というのが大勢の意見ですが、それとても確定した見解ではありません。ましてやそれ以前の日本古代の歴史はどのように推移したのかは諸説が入り乱れるにおける弥生時代の遺跡発掘調査から、須佐之男や大国主が活躍した舞台は、斐伊川が流れる西出ところです。ところです。私は、記紀や風土記、中国史書の記録、古い神社などに伝わる伝承、そして、近年進展の著しい考古学研究の成果などを総合的に検討しています。そして、およそ大和朝廷以前の日本古代の歴史は図8に示すように推移して来たのであろうとの仮説を描いています。それに基づいて、学習会の企画を行い、実行をしています。以下に学習会の配布資料の導入部分の記述を紹介します。

「記紀には、大和朝廷が日本を支配する以前に大国主命が須佐之男から引き継いで日本の国作りを進め、天照大御神の子孫に国譲りをしたと記されています。『古事記』上巻には大国主命が国作りを進めていく中で起こったエピソードを集めた、いわゆる大国主命神話が語られています。

 『出雲国風土記』を読むと、神門郡滑狭の郷(出雲市神門町あたり)の条に、須佐之男の御子須世理比売がこの地に住み、天下を治めた大神(大国主命)が、逢うためにこの地に通ったという記述がありますから、斐伊川が形造った平野の地、すなわち西出雲地方が大国主命の本拠であったと思われます。

他方、考古学調査の結果を見ると、去年出雲の一泊研修において訪れた西谷古墳群には、弥生時代後期の歴代の出雲王の墓と考えられる四隅突出墳墓があります。これらの墳墓には大量の水銀朱が用いられ、その成分の分析から、その水銀朱は遠く中国から運ばれたものであることが分かってきています。弥生時代後期においてすでに出雲王が強大な権力を持っていたであろうことに驚きを覚えます。この学習会では、記紀や『出雲国風土記』等に記された大国主命に関わる記述から判ることと考古学調査から明らかになった弥生時代後期の状況を対比して考えた時、何が見えてくるか探求してみます。」このような観点で学習会を進めていきました。

まずは『古事記上巻に記された、いわゆる大国主神話の一部を皆さんと一緒に辿りました。具体的には、八十神の迫害、大国主の根の国訪問の条の口語訳を読み、そこに記されたことや、その内容について正確に理解をして、その意味や意義について考えてみました。

次に『出雲国風土記』に記された大国主に関する記述や出雲地方だったということを明らかにしました。

この西出雲地方には須佐之男や大国主が活躍した時代と重なる時期に築造された四隅突出墳丘墓群があります。次に四隅突出墳丘墓について考えてみました。その代表的な墳丘墓である西谷3号墳の発掘調査の結果の概要を紹介しました。

 この埋葬状況を見ると、木棺内には大量の水銀朱が敷き詰められており、その成分の分析の結果、遠く中国で産出したものであることが分かってきました。弥生時代の後期、この墳丘墓に埋葬された西出雲の王と考えられる人物は、すでに中国と交易をして水銀朱を手に入れるほどの強大な権力を築いていたことが分かります。この人物が須佐之男や大国主と繋がるのか、現時点では関係する資料や証拠は見つかっていませんが、興味をそそられる命題です。四隅突出墳丘墓は広島県の県北を流れる江の川の流域、三次地方で発生し、その後出雲地方伯耆・因幡に広がります。そして後半期には北陸まで広がりますが、古墳時代に入るとその築造が見られなくなるという、山陰・北陸にしか分布をしない弥生墳丘墓の一つです。その分布を詳細に見ると、伯耆・因幡地方に広がった四隅突出墳丘墓は一時期途絶えて、後半にまた築造されるという経過をたどっています。そして但馬・丹後・若狭地方にはその分布が見られません。これらの地方には別の勢力が居り、四隅突出墳丘墓を用いる西出雲地方の勢力と伯耆・因幡の領有をめぐって互いに争っていたことが浮かび上がってきました。

 『古事記』には、イザナミが火の神を生み、産道を焼かれて絶命し、伯耆国との境近くの比婆山に葬られたという記述があります。現在の島根県安来市伯太町にイザナミを祀る比婆山久米神社があります。また、安来市を走る国道9号線沿いに黄泉平坂の伝説地があります。黄泉国とは西出雲勢力と争った但馬・丹後・若狭地方の勢力が支配した日野川流域(現在の安来市と米子市辺り)をそう呼んでいたのかもしれないことを述べました。

学習会はその後、吉備国と大国主の関係を紐解き、さらに『古事記』上巻や第二次大戦後に発見された『粟鹿大明神元記』に記された大国主の系譜について考察し、弥生時代後期の勢力分布について、須佐之男が率いた北九州〜西出雲地方を基盤とする勢力、出雲国意宇郡(現在の松江市辺り)〜吉備・讃岐・紀伊国を基盤とする勢力、但馬・丹後・若狭国を基盤とする勢力があり、これら3つの勢力が互いに争ったり、同盟したりしていたのであろうと結びました。

           

おわりに

 会場のウィル愛知、第5会議室には定員一杯の会員やビジターが参集され熱心に耳を傾けて頂き、大変ありがたく感謝申し上げます。

スライドを用いて資料を写しながら、説明申し上げたのですが、パソコンのマウスの調子がおもわしくなく、スライドを切り替えるのに無駄な時間を浪費してしまいました。その結果、定刻になっても説明が一部終了しないで終わったこと、質疑の時間が取れなかったことが悔やまれます。 文責 衣川 真澄

 

 

H27.3月度 研修会 「戦国武将と茶の湯 古田織部  

 

訪問先 スケジュール (3月22日)

名古屋金山発→京都 織部流扶桑派家元邸 武家点前―興聖寺(古田織部墓)参拝

→織部流扶桑派家元講話→きょうと和み庵にて昼食→北野天満宮散策

→名古屋金山着

 

織部流扶桑派の宗匠のお宅にて武家点前を体験、総勢49名参加。今回このイレギュラーな内容が実現できたのも、縁である。戦国武将と茶の湯という一見、不思議と思われるタイトルだが、けっしてそうではない。もともと、数寄とは男たちのものだからである。このタイトルを掲げた以上、男らしいお点前を体感していただくには織部流の武家点前しかないと腹をくくり、実際動き出したら「歴史研究会ならば、宗匠のお宅で。」という、願ってもない展開となった。それが、京都の流儀に従った結果のお土産だった。

織田信長とういう独裁者は権力と正義を独占し、それに加えて美学を独占しようとした。その信長の志を直感的に理解していた秀吉。だが、秀吉は自分にその美学を独占するという能力が欠けていることを自覚していた。その屈折した心理が利休を死に追い込み、古田織部に新しい武家茶の確立を要請した。

しかし、たいがいの武将たちはそんな恐ろしいことは想像もせずに、利休流の茶を楽しんでいた。その利休の弟子たちの中から有名な武将を七人あげて「利休七哲」という。織田有楽斎、荒木村重、蒲生氏郷、細川三斎、瀬田掃部、芝山監物、牧村兵部。

その熱心さにおいて、古田織部は群を抜いていたが、その美意識から七哲には数えないのが正しいという。秀吉の眼力のすごいところは、そういう異端児的能力の高い織部に武家茶の創造を託したところである。もちろん千家としてはこの異端児を七哲に入れることはできないのである。

しかし、大きな疑問として秀吉の黄金好きの美意識と織部のデフォルメの強い美意識が、お互いを認め合ったかどうかである。秀吉の黄金好きはある意味劣等感の表れであるように見える。そして利休自刃後、自身そのことに気が付く、ということはあってもおかしくない。そうなると利休のわび茶に共感できない秀吉は織部のひょうげた沓形茶碗にみられる無愛想さの中に武人の魂を見出してもおかしくない。そう思って武家茶の創造を織部に託したのかもしれない。

織部流の話は研修会のなかで宗匠から伺ったが、その武家点前を体験した帰りの車内では、陣中の茶の湯を彷彿とさせたという話題になった。その姿は、合戦中の陣内での茶ということを容易に想像させるものだったのである。紋付袴すがたの男点前。その動きは無駄がなく、そして美しい。武家と茶の湯というテーマは参加された皆さんには実体験でわかっていただけたはずである。

そしてこの縁はまだまだ続く。 文責 早川 綾乃

 

 

H27.4月度 研修会 「 街道シリーズ第3回 「東山道(阿智、神坂)と中山道(中津川宿)を訪ねる

 

担当は、 大竹三好、近藤忠保、守屋道治 の3名

 

訪問先 スケジュール

名古屋金山→東山道・園原ビジターセンタ→東山道見学→神坂神社→信濃比叡→昼神温泉にて昼食→中津川中山道資料館→中津川宿散策→名古屋金山着。

 

 当日(426日)は4月の長雨も過ぎ去り、絶好の研修会日和でした。参加者は、43名。 バスは、金山を出発し、一路、中央道、園原インターに向けて走行しました。バスの中では、主担当の大竹さんによる東山道の詳細な説明が資料に基づき有りました。

 

〇律令時代の七道

律令時代の七道は概ね地形的要件に基づいて区分されているが、西海道以外では、行政機関は置かれてなかった。西海道は大陸との外交・防衛上の重要性から太宰府が置かれ諸国を管轄した。

朝廷は畿内から遠隔地に領土を拡大する「軍事の道」と税物を運ぶ「徴税の道」を全国に造成を始めた。七道の国府は幹線官道(駅路)で結ばれた。七道は大路、中路、小路に分けられ、駅路は原則として30里(16km)に駅家を起き、駅ごとに駅馬が常置された。

 ・山陽道 大路 駅ごとに20匹  ・東山道 中路 駅ごとに10匹

 ・東海道 中路 駅ごとに10匹  ・北陸道 小路 駅ごとに 5匹

 ・山陰道 小路 駅ごとに 5匹  ・南海道 小路 駅ごとに 5匹

   ・西海道 小路 駅ごとに 5匹  

〇東山道

東山道とは、古代の行政区域の一つ東山道を連絡した駅路であり。「支配・軍事の道」「納税の道」「防人の道」「貢馬の道」として使われた。

律令時代の東山道は畿内より近江、美濃、信濃、上野、下野、陸奥の諸国と国府を結ぶ幹線道路であった。

そしてその呼び方は、日本書紀には「ヤマトミチ」と言い、現在は「トウサンドウ」と言う。

〇神坂峠

神坂峠は木曽山脈の南部の岐阜県中津川市と長野県下伊那郡阿智村の間にある標高1539mにある峠である。

東山道の第一の難所として知られ、荒ぶる神の座す峠として「神の御坂」と呼ばれていた。峠は、急峻で距離も長かった為、峠を越える途中で転落して多くの人、馬が命を落とした。

神坂峠の頂上付近からは、古代安全祈願の祭祀で使用された滑石で作った鏡、刀子、釖(とう)、勾玉、臼玉、菅玉などや須恵器、土師器、灰釉陶器などが発掘され、神坂遺跡と言う。

これらは、阿智村の中央公民館に保管・展示されています。 

律令で東山道を造る際は坂本駅と阿智駅、各々馬30匹と東山道最大の馬と人員を配置した。

又、平安時代の初期に、伝教大師最澄は、この峠のあまりにも急峻さに驚き、旅人のために峠を挟んで美濃側と信濃側の両側に「広済院」と「広極院」というお救い小屋を設けた。

 

次に守屋が担当した、説明された中山道と中津川宿についても説明された資料の一部を紹介したいと思います。

中山道は、江戸幕府が管轄する幹線道路である五街道の一つであり、東海道と共に江戸と京都、大阪を結ぶ最も重要な道路であった。

中山道は、日本の屋根を形成する中部山岳地帯を望みながら、山の狭                                                    間や中腹、盆地、平野を貫き、本州の中央部を縦断してえどから京都に達している。 

江戸の日本橋を旅立ち、板橋宿から本庄宿までの武蔵10宿、新町宿から坂本宿まで上野国7宿、信濃国に入って軽井沢から本山宿までの15宿を通って木曽に入る。 

木曽には、贄川(にえかわ)・奈良井・藪原・宮ノ越・福島・上松・須原・野尻・三留野(みどの)・妻籠・馬籠の11宿があり、信濃国には26宿があった。

美濃国には、落合・中津川・大井・大湫・細久手・御嵩・伏見・太田・鵜沼・加納・河渡・美江寺・赤坂・垂井・関ヶ原・今津の16宿であった。柏原から守山宿まで近江国の8宿、合計67宿が中山道の宿駅である。京都に着くためには草津宿で東海道と合流し大津宿を通らねばならないから、この2宿を加えると江戸から京都までは69宿である。中山道69宿というのは、板橋宿から守山宿まで67宿と草津宿と大津宿を合わせた呼称である。落合宿と中津川宿は、江戸を出て中山道の44番と45番目の宿駅である。美濃国16宿のうち、落合宿から鵜沼宿までを東美濃九ケ宿ということもあった。

〈中津川宿の様子〉 

 中津川宿は、江戸日本橋を出発して板橋宿からかぞえて、中山道45番目の宿駅である。「中山道宿村大概帳」によると、江戸へ85里12町8間、落合宿へ1里、大井宿へ2里半の位置にあった。

中津川宿は、四ツ目川 川上川(中津川)がつくった扇状地の扇端部分にあって、川上川の河岸段丘の上につくられた。中津川宿に入るには、川上川の川原から中山道を東に向って段丘を登る。取り付いたゆるやかな斜面の通りが下町である。江戸時代の下町は、現在の下町通りより低い所を通っていたが、今は通り抜けが出来なくなっている。この斜面を登りきって左に曲がると横町である。このとおりは短く北に70mほど進むと、再び右に直角に曲って本町に入る。本町を東に進むとNTT中津川ビルがあるが、同ビルの少し西側から東あたりが、中津川宿の街並では海抜標高が一番高い。それより東は四ツ目川に向って下り坂になっており、四ツ目川の川床近くまで道が下がっていた。この四ツ目川までが本町である。

 中津川宿は、宿場町としての賑わいを見せたが、商業の町としても繁昌し、中津川以西の塩、砂糖、油などの物資を木曽地方や裏木曽三ヶ所、それに恵那郡内の苗木領の村々へ売り、木曽地方の桧笠、曲物、塗物細工や惠北地方の筵、楮(こうぞ)、和紙を仕入れて中津川以西へ販売していた。月に6日の市が立った。毎月市が立つ町は、木曽、東美濃では中津川宿だけであり、中津川は恵那郡北部、木曽地方の集散地であった。

〈本陣?脇本陣〉
宿駅の任務の一つは、旅行者の休息や宿泊の施設を有することであった。武家は 常に軍旅にある気持ちであるから、その主人のいるところはいつも本陣である。という意味から転じて、武家の主人の休息または宿泊する旅宿を本陣というようになったといわれている。本陣は、宿によって違うが、中津川宿では、本陣脇本陣は各1軒で、その位置はほぼ宿内の中央に位置していた。中津川における現存の街道保存地区で位置関係を見ると、NTT中津川ビルの位置に脇本陣があり、ビルの1階が「中津川市中山道歴史資料館」となっている。そして、道路を隔てて真向いに本陣跡があります。その資料館には、中山道の紹介や、幕末時代の混乱期の重要な文献が多数展示されている。特に、皇女和宮降嫁の行列や天狗党の往来の様子を示す古文書等が展示されており、一見の価値がある施設です。

 

今回の研修会は、まず最初に到着した阿智村の「園原ビジターセンター」にて資料館職員より東山道神坂峠周辺の説明をいただき、30数名の方々が林道、そして復元された古道・東山道を散策しながら神坂神社を参拝。

 参拝の後、東山道を下り、伝教大師最澄が東北への布教の折、神坂峠越えで大変苦労され、旅人を救済する為に造られたお救い小屋「広極院」の跡にある信濃比叡にて御住職より心癒される楽しい法話を拝聴しました。

 お昼は、花桃の里「月川温泉郷」の満開の花桃の街道を車窓より楽しみながら昼神温泉の阿智村保養センター「鶴巻荘」に移動。昼食をたのしんでいただきました。

 午後は、中津川市に移動し、「中津川市中山道歴史資料館」の安藤館長さんにバスの駐車場まで出迎えをいただき史跡の案内をしていただきながら資料館へ。

 資料館では、館長さん及び学芸員の方から丁寧な展示物の説明が有り、再度、旧宿場跡を館長さんの案内で説明付きで宿場内を散策し、予定通り無事金山に帰ることが出来ました。

当日はお陰様で一日中晴天に恵まれ、研修会に参加された方々には、ある程度満足いただけたものと担当一同、先ずホッとした一日でした。 

文責 近藤忠保

 

 

H27.5月度 研修会 「桓武天皇の平安京遷都

 

□平成27年5月24日(日)

□参加人数:会員37名、ビジター3名、合計40名

訪問先スケジュール

金山→神泉苑→京都市平安京創生館→平安京散策→福助(食事)→御霊神社→下鴨神社→→上賀茂神社→将軍塚大日堂→金山

 五月晴れの研修会。この桓武天皇の平安京遷都に総勢40名が参加。当初一人で担当する予定であったが、小川剛史さんという力強い助っ人を添えていただき、バスは快調に走り出した。3月の武家点前から二か月。ほぼ同時進行という形で準備してきたが、平安京、京都である。平安時代のもので現代でも残っているものは本当に少ない。研修地を決めるにはなかなか悩んだ。しかし、そこは京都である。話題提供には事欠かない都である。

「神泉苑」

延暦13年(794年)の平安京遷都とほぼ同時期に、当時の大内裏の南に接する地に造営された禁苑であった。もともとここにあった古京都湖(古山城湖)の名残の池沢を庭園に整備したものと考えられ、当初の敷地は二条通から三条通まで、南北約500メートル、東西約240メートルに及ぶ、池を中心とした大庭園であった。史料に初めてその名が見られるのは『日本略記』の記事で、桓武天皇が延暦19719日(800812日)行幸したという内容である。延暦21年(802年)には雅宴が催されたとあり、この頃から神泉苑は天皇や貴族たちの宴遊の場となったとみられる。また『日本後記』には、嵯峨天皇が弘仁3(812)ここで「花宴の節(せち)」を催したとあり、記録に残る花見の初出と考えられている。季節を問わずまたどんな日照りの年にも涸れることのない神泉苑の池には竜神(善女竜男)が住むといわれ、天長元年(824年)に西寺の守敏と東寺の空海が祈雨の法を競い、空海が勝ったことから以後東寺の支配下に入るようになったという。実は、神泉苑を行程に入れられたのは三回目の下見で確定した。なかなかボリュームがある研修会となり、歩く場面もたくさんあったからである。しかし、唯一現代に残る平安京遺跡である。ここを外すわけには行かない。

「京都市平安京創生館」   

平安宮(へいあんぐう)造酒司(みきのつかさ)(あと)に建つ、京都市平安京創生館は平安遷都1200年を記念して制作された「復元模型」があり、大内裏や、社寺、貴族の邸宅などが精工に復元され京都の礎となった平安京の初期の姿を一望することができた。まさに、リアル平安京である。そして壁面には洛中洛外図屏風が描かれ、風俗そして、立地を絵と模型を合わせてみることができるのである。ボランティアガイドさんの案内で京都を平安時代の目線で見るとまた違った趣を感じることができる。

「マップをもって平安京散策」

次は実際に自分の足で内裏周辺を歩く。まず、Mapをもって宴の松原へ向かう。内裏に向かってすぐ左。内裏が火災などになった時のために使うよう作ってあった空き地である。空き地ゆえに夜は物悲しい奮起で藤原三兄弟もここで肝試しをしたという場所である。そして内裏の中を歩き桐壺や紫宸殿、弘徽殿、大極殿、朝堂院と歩いてみると内裏の大きさが自分の体に入ってくる。Mapの地図に落とし込まれた案内と地上にある看板を見比べて、源氏物語の世界に入っているメンバーもいた。

「福助にて食事」

平安京創生館アスニーに戻り、食事。京都にしてはあり得ないぐらいお値打ちなランチである。しっかり歩いたメンバーに戻ってすぐ食べていただける好立地もあり、疲れを癒す。

「御霊神社」御霊祭は京都(洛中)で最も古い祭りと言われる。その御祭神は崇道天皇である。桓武天皇の同母弟である早良親王のことである。桓武のもっとも恐れた怨霊の根源である。そして、井上内親王もここに祀られている。光仁天皇の皇后で、聖武天皇の皇女伊勢神宮の斎王を務めて光仁天皇に嫁いだちょっといわく因縁のある女性である。晩年の桓武を苦しめた怨霊たちがここに祀られてまた、御霊祭はその供養をする祭りであり、洛中でもっとも古い祭りと言われるゆえんである。

「上賀茂、下鴨神社」

桓武天皇の平安遷都以前から京都にあった神社である。その歴史は古く、奈良時代から朝廷の崇敬を受けてきた。桓武天皇は遷都の年に上賀茂神社へ行幸をしている。いらい、天皇家ばかりか戦国武将も参詣し、葵祭は京都のお祭りの代表格である。

「将軍塚大日堂」

ここは、青蓮院門跡の飛地境内であり、昨年12月に改修工事がおわり、一般公開された。その将軍塚とは、桓武天皇が、平安遷都の安寧を願い、鎧兜を埋めたところである。東山にあり、御所を眼下にすることができる。その視界の広がりに参加者の皆さんから歓声があがった。大舞台にはガラスの茶室があり、ビジュアル的にも美しい。

きになって帰ってきた。近年中に何らからの形で皆さんにご紹介できたらと思う。

文責 早 前向乃内親王もここに祀られている。光仁天皇の皇后で、聖武天皇の皇女伊勢神宮の斎王を務めて光仁天皇に嫁いだちょっといわく因縁のある女性である。晩年の桓武を苦しめた怨霊たちがここに祀られてまた、御霊祭はその供養をする祭りであり、洛中でもっとも古い祭りと言われるゆえんである。

「上賀茂、下鴨神社」

桓武天皇の平安遷都以前から京都にあった神社である。その歴史は古く、奈良時代から朝廷の崇敬を受けてきた。桓武天皇は遷都の年に上賀茂神社へ行幸をしている。いらい、天皇家ばかりか戦国武将も参詣し、葵祭は京都のお祭りの代表格である。

「将軍塚大日堂」

ここは、青蓮院門跡の飛地境内であり、昨年12月に改修工事がおわり、一般公開された。その将軍塚とは、桓武天皇が、平安遷都の安寧を願い、鎧兜を埋めたところである。東山にあり、御所を眼下にすることができる。その視界の広がりに参加者の皆さんから歓声があがった。大舞台にはガラスの茶室があり、ビジュアル的にも美しい。

            

おわりに

今回、平安京というあまりにも身近な京都を題材にして皆さんに喜んでいただけるか心配であったが、思いのほか今まで行ったことのない京都だったとの声を沢山いただき、ありがたかった。また、唯一現代に残る平安京神泉苑も訪ねることができ、神泉苑に行けてよかったとの声もいただいた。担当名利につきる。そして、小川剛史さんのご協力をいただき、六勝寺・白河院の時代を車内で熱弁をふるい掘り下げていただいたが、現在目で見られる史跡はほとんどない。京都平安京創生館の中での展示がやっとその全容の一部を垣間見ることができる少ない手段だ。しかし、その地名、は今も残っている。いつか、そのあたりの研修会ができないかと車内で熱弁を振るわれた小川さんを見て思った。そして、時間の都合で割愛せざるを得なかった、桓武天皇の東征である。私としては、そんな宿題を残す形での研修会を終えて、まだまだやるべきことがあることに前向きになって帰ってきた。近年中に何らかの形でみなさんにご紹介 できたらと思う。

文責 早川 綾乃

 

 

H27.6月度 総会・研修会 「刈谷の歴史を辿る依佐美送信所、於代の方(家康の生母)と水野氏

 

 6月 28 日この日は会の年次総会を兼ねて「刈谷の歴史を辿る」という表題で、研修会が開催された。 依佐美送信所跡」 於大の方ゆかりの地」 水野氏について・刈谷城、緒川城」をめぐるものであった。当日は天気にも恵まれ、あまりにも身近で知っているようでいまいち深くは知られていない刈谷市周辺の歴史についての研修会であった。

距離的にも近いこともあり、目的地までの時間が少ないためバスの中での研修時間が少ない中「依佐美送信所」の作られた経緯、どのような役割を担っていたのか、なぜ依佐美につくられたのか、またいつごろ撤去されたのかなどについての説明が行われた。

まず、現地の鉄塔跡地を訪れ広大な敷地に建っていた高さ 200m の鉄塔の基礎を見るため近くにバスを停め跡地に赴いた。建設当時のこの壮大なアンテナの建造技術に目を見張り、一刻も早く運用することで世界各地との自前による通信網の確立に心血を注いだであることがうかがえた。

続いて依佐美送信所記念館に行き、ボランテイアガイドの案内により送信所のジオラマから広大な敷地に設置されたことや、当時使用していた無線設備などについて話を伺い感心する。現在のように電話や人工衛星を利用した通信など考えられないときに、それまで利用していた外国会社の所有する海底ケ−ブルから、わが国を国際的に少しでも有利な国際通信を行いたいとの当時の技術者の思いを考えさせられるところであった。

その後 18 回総会を行い、提案事項も承認され無事終了し、これからの 1 年会員の皆様のための有意義な総会であった。

午後は、まず楞厳寺へ。楞厳寺では住職から水野家や於大の話があり、耳を澄ましたのち県指定の文化財「伝通院画像」や市指定文化財「伝通院調度品」などが所蔵されている収蔵庫で、住職の取り計らいで我々も拝観することができた。境内には水野家の墓所もあり、墓所は塀で囲われていたがフライングで内部まで入ってお参りした。

その後、徳川家康の生母である於大の方ゆかりの椎ノ木屋敷跡地へ、松平家から離縁された於大が、姉と二人でひっそり住んだと言われる所、現在は公園となり敷地もかなり狭くなったようであるが、小高い丘の上の静かなたたずまいの所であった。於大のこの椎の木屋敷に住まい水野家の菩提寺の「楞厳寺」や「乾坤院」にお

                                      

参りしたとのことである。

この椎の木屋敷の近くに刈谷城址があり、一同徒歩にて刈谷城址へ。荒川さんから「刈谷城址」「緒川城址」の築城についてのいきさつ、水野家の家系についての解説に続いて現地での城の造りの説明があり、逢妻川の左岸の台地に築かれた、東西256m、南北200mの城で、本丸跡、現在も残っている土塁を実際に見て回った。

またこの後には、境川・逢妻川(衣浦湾)をはさんだ西側にある緒川城址へ。緒川城は水野家の当初の城であるが、対岸の刈谷の重要性を認識し緒川城は次男に守らせた経緯にあり、現在は宅地開発の波にもまれ、城址は小さな公園となっているが残念ながら残っているのは主廓跡地のみである。主廓跡地に登ればはるか衣浦湾の向こうに刈谷が見え、この二つの城がいかに重要なところであったかが窺い知れるところである。

そして最後は於大の再嫁した阿久比の久松家の墓地のある「洞雲院」へ、墓地は林の中薄暗いようなところに久松家の墓のなかに「伝通院」の遺髪を納めた墓があり、家康の生母であるためか他の墓同様立派な墓であった。

今回の研修会は近くでバスの乗車時間も短くて比較的楽であったように思います。日頃なんとなくわかっているようでも意外に身近なところへは足を延ばすことが少くないようです。たまには身近なところで時間的にもゆったりとできる地を訪ねるのもいいのではないかと思っています。 文責  内田 道雄

 

H27.7月度 学習会 「古代人の道具と生活

 

はじめに

当研究会では古代の古墳遺跡を森田前副会長に研修旅行や学習会で教えて頂きました。

今回はそれより古い時代に我々の祖先が何時ころから日本列島に住み始めたかを調べることにしました。

古代の本は少ないので図書館の古い本を利用して原稿を作成しました。

インターネットで新しい資料を入手して肉付をしていたら平成12年(2000年)に「上高森遺跡」の旧石器捏造事件が発生していた。日本考古学協会が調査して「座散乱遺跡」、「馬場遺跡」も高校の日本史の歴史教科書から削除されていた。

平成13年岩波書店発行の新しい「日本史年表」を見つけて、インターネットで最新の資料を入手して原稿を修正しました。

 

 

発表当日

「縄文・弥生概略表」をホワイトボードに貼り、右側の年数、左側の期間、気候、海面の高さ、人口の項目にし、期毎に説明しながら文字、数字を記入した。

 

 

縄文時代

草創期は(紀元前13000年〜前7000年)6000年、早期は(前7000年〜前4500年)25000年、前記(前4500年〜3000年)1500年、中期(前3000年〜前2000年)1000年,後期(前2000年〜前1000年)1000年、晩期(前1000年〜前500年)500年合計12500年と非常に永かった。

「早期」には温暖化が進み海面が上昇して日本列島は大陸から離れ島国になった。気候は現在より二度ほど低く、海面は30mほど低かった。

霧島市の「上野原遺跡」では桜島火山の噴火の火山灰の下から竪穴住居跡、石蒸し料理施設、燻製料理炉穴、土杭などが出土し、集落面積は15000uもあった。我々の祖先の集落跡である。

日本列島の人口は石器、土器、居住・遺跡面積から推定して21900人であった。

前期」は温暖で海面は2m高かった。青森市の「三内丸山遺跡」では掘立柱建物跡、貯蔵穴,土杭墓、ゴミ捨て場、道路が出土した。

クリ・クルミ・トチなどの殻が出土し、クリは DNA 鑑定で植栽されていた。さらに一年草のエゴマ、ヒョウタン、ゴボウ、マメなども植栽されていた。出土した動物の骨の7割弱はノウサギとムササビの骨であった。

竪穴住居、高床式倉庫跡があり、祭祀用の大型掘立柱建物、土偶も多く出土した。人口は106000人と増加した。

「中期」気温は温暖になり、海面は現在とほぼ同じで魚介類と動物を食料にできた。

川崎市の「下原(しもっぱら)遺跡」で石皿、磨石、石斧などの他約600本の石鏃ガス出土し、塚からシカ・イノシシ・魚の骨が多数見つかった。土偶,土版、石剣などの信仰用具と考がれられる遺物も出土した。

道具を使って食料を確保して人口は262500人と縄文時代で最大となった。

「後期」は寒冷になり、箱根山の噴火や富士山の噴火が長期化して食料の入手が困難になった。

関東では火山灰が堆積して動植物が減少したので東京湾で貝を採り食料とした。東京都大田区の「大森貝塚」が形成された。明治10年(1877)にアメリカ人の動物学者のエドワード・S・モ−スが貝塚を見つけて門下生が発掘して貝殻、土器、土偶、石鏃、石斧、人骨、クジラの骨など多種多量に出土した。

関東では人口が71900であったが22000人に減少した。全国では262500人であったのが161000人に減少した。

「晩期」に入ると寒冷に向かい気温は2度前後下がり漁場は縮小し、貝も採れなくなった。食料不足で人口は57800人まで激減した。

 

 

弥生時代

日本列島に水稲耕作の技術を持った集団が北部九州に移住して来た。「前期」に福岡市の「板付遺跡」では環濠集落を造り、低地に水田を造成し、少し高い所に住居を造り稲作を栽培した。米は栄養価が高く保存もできるので多人数養えたので人口が増加した。

環濠集落内に水田、住居、貯蔵施設、墓を造った。土器の壷・鉢・瓶・高杯(鼠害防止)が出土した。近隣に稲作技術が伝播して人口が増加しだした。

「中期」に清須市の「朝日遺跡」は当初は海面した土地の西側を居住域、東側に墓地を設けていた。その後、北に移動し西側に首長等の居住域に環濠を設け、北東に居住と墓を移動した。

木製農具、赤く塗られた土器、紡錘車・縫い針、銅鐸などが出土した。最盛期には1000人居住していたと推定されている。

「後記」やや冷涼な気候になり、退海期になり耕作地が増加した。

佐賀県神崎郡の「吉野ケ里遺跡」は環濠で囲まれ総延長は2.5Kmあり、約40ヘクタールもあった。竪穴住居・高床式倉庫・貯蔵穴跡が出土した。

発屈された棺の中の人骨には,怪我をしたり、矢が刺さったままであったり、首より上が無いものもあり、倭国の内乱があつたと思われる。その後、卑弥呼が共立され王となって内乱が治った。

稲作が伝播して主食は確保されて人口は縄文晩期の57800人から弥生時代に594900人に急増した。人口が増加して古墳時代に続きます。

加藤氏の寿命の質問に16歳と回答し、15歳の余命が16年で21歳と訂正します。

 

H27.7月度 特別学習会 「昭和天皇と激動の日本」で言いたかったこと

 

しんあいち歴史研究会は首題の特別学習会を、2015  7  12 日、89 名の参加者を得て開催しました。戦後 70 周年の節目の年を迎えて、先の大戦が何故起こったのか、あの強大なアメリカとの戦争に何故踏み切ったのか。その時、昭和天皇はどのように行動されていたのか。この学習会において、昭和の軍国主義から敗戦に至

る歴史への認識を深め得たものと思う。

 

 

歴史には連鎖があるので、昭和時代の話に入る前に、明治時代からの我が国を取り巻く情勢から話を始めました。先ず、徳川幕府(旧体制)を倒した明治新政府は、これからの日本をどのように近代化すればよいのか、そのモデルとすべき国家像を求めて、岩倉米欧使節団は 1  10 か月にわたって主要な先進国を実地調査した。その結果、国際社会とは弱肉強食の世界であり、日本の植民地化を防いで自立させるために、@殖産興業、A富国強兵、B天皇の神格化(国民の人心統一)、を基本方針とすることにした。

 

 

当時の外交課題は、世界最強と云われたロシアの極東への南下政策(中国東北部、朝鮮半島への進出)を我が国への最大の脅威と受け止めて、朝鮮の支配権をめぐって日清戦争を戦い、次いで日英同盟のバックアップを受けた日露戦争で、からくもロシアの進出を食い止めたが、その後もロシアの報復戦を怖れつづけ、軍事力の維持強化に努めなくてはならなかった。

日本がロシアに勝利したことは、世界中を驚かせました。すなわち、世界史上初めて非キリスト教の黄色人種国が白人のキリスト教国を破ったので、世界が日本を見つめる目は、危険な異教徒の国であり、黄色人種による災禍を排除せよとの黄禍論が叫ばれ、人種差別問題が顕在化しました。一方日本では、ロシアに勝ったことで一等国になったと自惚れ、中国や朝鮮民族に対する蔑視意識が生まれるようになりました。

 

 

戦後、多額の対外債務の支払いと増税が国民の生活にのしかかり、加えて関東大震災と経済不況のあおりを受けて農村の疲弊がはなはだしくなった。こうした中で 発生した、世界経済恐慌を回避する為に、世界の列強は自国経済圏の防衛に走り、日本では国家主義者や右翼が勢力を増してきて、満州の利権に着目し、 満蒙は日本の生命線」と考えてその占有を国策として決定するに至った。この背景には、当時の先進諸国に倣って、遅ればせながら帝国主義国家の仲間入りをしようと考えたと見ることが出来よう。

満洲の広大な平野とその資源を活用すべく、謀略によって満州を抑えた日本軍は、さらなる資源を求めて中国全土に戦線を広げたが、中国国民党の蒋介石軍は次々と奥地(重慶)に拠点を移し、泥沼の日中戦争となった。

 

 

折しも勃発した欧州戦争(第一次世界大戦)に参戦した日本軍は、山東半島の青島などドイツの拠点を攻撃し占領した。西欧列強がアジアに目が届かぬ隙に、日本はロシアやドイツが持っていた満州や山東半島の租借条約を引き継ぎ、中華民国との条約の 99 か年延長を要求して、「対華 21 か条要求」を突き付け、最後通牒を以 って承認させた。

中国は国連にその非を訴えたが否決され、反日、抗日、侮日運動が盛んとなった。この事件を分岐点として、日中間の対立は太平洋戦争の終戦まで続き、これが日本の軍国主義化への転換点と云われています。

米英は蒋介石軍を援助すべく、フランスの植民地となっていたベトナム経由で重慶に戦略物資を供給していたので、日本軍はそのルートを遮断しようと考え、仏領インドシナ北部(北部仏印:ベトナム)へ進駐しましたが、ここまでの行動は日中戦争を収拾するが為の作戦行動であったと云えよう。

 

 

日中戦争の収拾の目途がつかない中、日本陸軍はヨーロッパでの戦争という世界的な大変動の中から転機をつかむよりほかに手はないと考えるようになった。蒋介石もまた単独では勝てないので、日米の衝突に期待して長期戦を続けていたのである。この頃には、エネルギー源は石炭から石油に移行していて、石油資源のない日本はインドネシア(オランダの植民地)からの輸入の協議を進めたが成立せず、遂に南部仏印(マレーシア)へと進駐した。

日本は快進撃をするドイツとの軍事同盟(ドイツからの提案)は、米国の参戦を阻止できると楽観的に考えていたが、アメリカは対日石油の禁輸を決定したので日米の対立は極限に達し、外交交渉も決裂して真珠湾攻撃となった。こうして、もともと別個の戦争であった「アジアの戦争」と、 ヨーロッパの戦争」が結びついて第二次世界戦争となったのである。

対米英宣戦布告は、憲法の定めにより昭和天皇の名において発したが、その文面には自存自衛のためのやむを得ぬ戦と云っています。立憲君主たる天皇は、その文面の最後に「豈、朕が志にあらんや」と付け加えさせて、天皇自身は米英との戦争に賛成していないとの思いを表しています。天皇は若い頃から西欧的思考の教育を受け、皇太子時代の半年間の外遊によって、国際協調、平和外交を望んでいたが、只一人での軍部の独走との対決はかなわず、 3 8 か月の戦いの後、天皇の決断(聖断)による終戦の玉音放送となった。

 

 

満州事変からアジア・太平洋戦争に至ってしまった経緯の要点を以上に述べたが、その根本的な要因の一つには、日清・日露戦争での成功体験によって、マスコミと国民が舞い上がった点にあり、それは国民に真実を伝えない軍部と、軍部に逆らえない政府に由来しており、太平洋戦争では天皇にさえ真実を報告しない軍部の独善的体質にあった。

この体質は、日本国民の事なかれ主義(迎合主義)と、流されやすく、熱しやすくて冷めやすい気性、さらには、過ぎ去ったことは水に流して良しとし、過去から学ぼうとしない気風が災いしていると思う。

 

 

 

対米開戦に至った原因を探る時、私は次の事柄に行き着くと考えています。

@ 明治憲法に定められた、天皇の 2 重性格(憲法の欠陥)。

憲法上、立憲君主として内閣に従う天皇と、陸海軍を統帥する天皇(大元帥)との二重性格があり、陸海軍は統   帥権の独立を楯に、内閣をないがしろにした。天皇は憲法上の制約で、自分の思いを告げられず、苦悩された。長州閥の陸軍と、薩摩閥の海軍の確執・不一致が続いた。

A 天皇の神格化を軍部が悪用して言論統制を計り、国民を洗脳した。

不敬罪や治安維持法を制定して、神格性を高めて天皇制批判を封じた。

皇国史観の右翼や青年将校の跋扈(テロや謀略)を許す口実となった。

国民を天皇の赤子と称して戦場に送り、特攻隊員とした。

B 合理的思考の出来ない、精神主義のトップリーダー達。

陸海軍大学の席次で決まる、硬直した人事制度から来るトップリーダーの精神主義と責任感の欠如。テロや謀略へ暴走する青年将校らの下剋上的な行動を、維新当時の 23 世世代の上官には抑える力量がない。

C 三国軍事同盟(ドイツ)に期待した無責任な開戦決断。

 日中戦争の解決が出来ない中、ドイツの快進撃を見てから結んだ三国軍事同盟と、ソ連との不戦条約によって、米国は参戦しないだろうとの楽観的願望に基づいた、ドイツ頼みの対米宣戦と云わざるを得ない。

 

 

空気に流されて、マスコミや国民が熱狂してしまい、誰が決めたか分からないうちに戦争に突入し、誰も最後まで責任をとろうとする者がいない。ポツダム宣言の受理に際しても、閣議での議論の争点は国体の護持(天皇制の存続)が保証されるか否かで結論が出せず、立憲制に反して天皇の聖断に依らざるを得なかった。米国は、天皇制を存続させて利用した方が占領政策上得策と判断し、天皇の戦争責任も追及しないよう連合諸国を説得しました。

 

 

マッカーサー占領軍最高司令官(GHQ)は、天皇の神権の破棄を命じ、天皇は自ら人間宣言を行った。極東軍事裁判(東京裁判)は、勝者による敗者への報復裁判だとの批判がありながらも、日本人の多くがその判決を受け入れてけじめとし、7年後の占領からの独立と再出発につなげた。

 

 

戦後、天皇は新憲法下の象徴天皇の枠を超えて、自ら天皇外交を展開した。終戦直後の政治的混迷の中、マッカーサーとほぼ半年ごとに会談し、戦後の重要な方針や政策がまとめられて行った。中でも天皇は、戦力を放棄した我が国の安全保障と天皇制の維持のためには、独立後の日本においても、米軍の駐留継続を切望する旨をGHQに伝えた。その結果、サンフランシスコ「講和条約」と、米軍駐留を認める「安保条約」がワンセットで取り決められたのである。その背景には当時の共産主義の世界的盛行がありました。

 

 

戦後日本の急速な経済復興に対して、中国、朝鮮、東南アジア諸国の復興は随分と遅れた。終戦 70 周年を迎えた昨今の日中韓の険悪な情勢の背景を考察する時、我々はこれらの国々との賠償を含む国交正常化条約などの戦後の外交交渉の経緯を、よく知る必要があります。(2015  8  15 日) 文責 中村 清

 

H27.8月度 学習会 『魏志倭人伝』等から卑弥呼の時代を再理解する

 

はじめに

 今年の2月に「大和朝廷以前の大国主の時代を探求する」と題して学習会を担当しました。今回はその続きとなります。私の解釈する日本古代史においては、大国主命の時代の次に卑弥呼を女王に頂く倭国が誕生したと考えていますので、その理解の上に立脚して、学習会を進めました。

 邪馬台国の卑弥呼というと、邪馬台国は何処にあったのかという命題が取り上げられます。この議論は、江戸時代の政治家でもあった学者、新井白石の頃から論争が始まって、皆さんがご存じのように収束を見ていません。むしろ諸説が提出されて論争自体を楽しんでいるように見えます。この学習会ではその論争を楽しむのではなく、むしろ封印をして、それ以外の大事なこと、歴史の流れの中において、この時代はどのような時代であったのかを探求してみました。

学習会の内容

 三部に分けて論を進めていきました。第1部は『魏志倭人伝』の基礎知識と題し、陳寿によって西晋の時代に記された中国の史書『三国志』の中の魏書の第30巻に記された東夷伝の倭人の条を便宜的に『魏志倭人伝』と称していること。編者の陳寿とはどのような人物であったのかなどの基礎的な知識について学習を行いました。

 第2部は『魏志倭人伝』を少し読み解いてみると題して、「壹」をなぜ「台」と置き換えて読むのか、「狗奴韓国」について持論をご披露した後、『魏志倭人伝』の一部を実際に読み解いて、文に登場する倭国の官名について考察をしました。更に邪馬台国の政治体制について記された部分を読み解いて、記紀に記された天照大御神を頂点とする高天原の政治体制と比較し、類似点が多くあることを理解しました。

 第3部は卑弥呼の時代の再理解と題して、日本古代の歴史の流れの中において卑弥呼女王の支配した倭国はどのような経緯で出来たのか、中国を含めた東アジア情勢の中で捉えた時に何が見えてくるのかという難しい所に踏み込んで述べてみました。

おわりに

 会場のウィル愛知、第7会議室には、ほぼ定員一杯の会員やビジターが参集され熱心に耳を傾けて頂き、大変ありがたく感謝申し上げます。今回は、予定通りの時間で説明を終わることが出来たので、初めて質疑の時間を取っていただきました。質疑にも場数を踏んで慣れる必要があると今回感じました。説明をした立場からすると、質問者は説明した内容を充分理解したうえで質問頂いていると考えがちですが、難しい内容もありますので、理解に至らないでご質問されている場合がある訳で、そういう場合には、行き違いが生じで、ちぐはぐな問答になります。そうならない様に今後心がけたいと思います。文責  衣川真澄

H27.9月度 一泊研修会「世界遺産 熊野三山を訪れ、その信仰と歴史を学ぶ

                             等から卑弥呼の時代を再理解す

 

 

前日まで雨の日が続いて、天候が心配されましたが、当日は好天に向かい、宿泊したホテルの露天風呂から仲秋の名月を愛でることができるほどになりました。終わってみれば、良いお天気に恵まれた楽しい充実した旅となりました。

一泊研修ということでいつもよりも早い7:30に出発、バスは東名阪自動車道から伊勢自動車道を走って最初の訪問地、尾鷲市にある三重県立熊野古道センターへ向かう。その車中では、配布した研修会資料の学習を始めました。まずは衣川から熊野三山についての基礎知識を説明、続いて高橋浩子副会長から「蟻の熊野詣で」と題して、平安時代院政期に頂点を迎えた皇族、貴族、下って武士階級の熊野信仰と熊野詣でについて、荒川哲夫副会長から「熊野古道」と題して地理的な視点から古道の概略とその特徴、また、その魅力について語って頂きました。

熊野古道センターでは、熊野三山、古道、縄文から近代に至る熊野の歴史についての展示を見て頂きました。耳からだけではなく視覚的に全般的な知識を学んで頂いたわけです。

熊野は冬でも温暖な地域です。バスで七里御浜を走り、熊野灘を眺めると、海岸近くはエメラルド色、遠くは黒潮の流れる濃いブルーの海がとても美しい。

途中でそのような海を眺めて食事のできるレストランで昼食をとりました。そして、熊野那智大社の近くに在る大門坂に残る熊野古道に降り立ち、石畳を少しの時間歩きました。ここには夫婦杉と呼ばれる杉の古木が古道をまたいでそびえており(写真)、そこを通り抜けて、苔むして趣のある古道の雰囲気を味わいながら、往時を偲ぶことができました。

 この日は、これを最後として、一路熊野川を遡り、熊野本宮大社の近くの川湯温泉「みどりや」に宿泊しました。ここには清流の河原に造られた露天風呂があり、川向の静寂に包まれた林を眺めながらゆったりとお湯に浸かって心楽しく過ごすことができました。

二日目、川湯温泉を8時に出発し、朝のすがすがしい静寂の中で熊野本宮大社参拝しました。

参拝を終わった後、集合して若い禰宜さんから熊野本宮大社について説明を聞きました。

丁度良い機会と思ったので、正面の家津美御子を祀る本殿の千木の先端が水平で女神を祀る社殿と同じなのはなぜか質問をしてみました。それはこの社殿が建てられた時には、家津美御子ではなく、那智大社の主祭神の女神と同じ夫須美大神をお祀りしたためで、現在は入れ替わって家津美御子を祀るようになっているという回答をいただきました。そのような社にとって不都合な話は素直には教えて頂けない場合が多いのですが、若い禰宜さんと云うことで素直に教えて頂けました。とても参考になりました。

禰宜さんのお話を聞いたのち、本殿を辞して、熊野川の河原にある大斎原を散策しました。大斎原の大鳥居の前で記念写真を撮りました。

本宮大社の傍に在る世界遺産熊野本宮館の展示を見て、お買い物タイムの後、バスに乗り、熊野川を下って新宮市内にある熊野速玉大社を参拝しました。

ここ新宮市には、秦の始皇帝の時に不老不死の仙薬を求めて日本にやって来たという徐福の伝説が伝えられ、徐福公園なるものが造営され、中国からの来訪者が多くやって来ています。この研修会では徐福伝説についても学ぼうということで、守屋道治事務局長に担当していただきました。

初日にバスの車中でまとめて頂いた資料「徐福について」を説明して頂き、この二日目には熊野速玉神社の訪問後、徐福公園、徐福が上陸したという碑がある海岸、その傍にある徐福を祀る社がある阿須賀神社を案内していただきました。

因みに阿須賀神社は『熊野権現垂迹縁起』において、熊野地方に三権現がおいでになって最初にお祀りしたと記されている由緒ある神社です。

ここ新宮市にはもう一つめずらしい場所があります。「浮島の森」と呼ばれる小さな浮島があります。水面に浮かぶ島に暖地性植物、寒地性植物が混在した森が形成されています。国の天然記念物に指定されています。ここも訪問し見学しました。

最後は、新宮市から熊野市に戻って、花の窟神社と鬼が城を訪問しました。ここは、研修担当メンバーの早川綾乃さんの担当です。花の窟神社の傍に在るレストランにおいて、お値打ちで豪華な昼食をいただいた後、神社をお参りしました。この神社は、大きな岩の崖をご神体としてお祀りしています。祀られている神様はイザナミ尊と火之迦具土神です。『古事記』上巻において、イザナミが火之迦具土神という火の神を産んで産道が焼かれ亡くなるお話がありますが、そのイザナミはこの地で亡くなり、この神社にお祀りしたとこの地方に伝わっています。

早川さんは「巨石遺跡花の窟」と題して、花の窟の巨岩は、それ自体をご神体として弥生時代から祀られていたが、なぜイザナミを祀るようになったのか。『古事記』はイザナミの死を語り、『日本書紀』本文においてはイザナミの死の記述を避けている。これはどういうことなのかについて、研究した結果を発表され、大変興味深かったです。

鬼が城は好天に恵まれて、エメラルド色の海がひときわ美しく、巨岩の絶景を思い切り堪能することができました(写真)。

また、帰りの車中では、事務局メンバーの津田啓子さんの朗読が絶品でした。最近話題になっている、この熊野の地で遭難したトルコの軍艦エルトゥ―ルル号のお話し。遭難したトルコの軍人たちと献身的に救助・介抱した地元民との心温まる物語を美しい声で朗読いただき、参加者はしばし聞き入り、感動を頂きました。

このように素晴らしい一泊旅行を実現することができました。関係者の皆様の努力と参加していただいた皆様のご協力のたまものと感謝しています。 文責 衣川 真澄


 

 

平成27年10月研修会「   北陸の要衝板取宿・木の芽峠と三方五湖の年縞」

 

                            担当 山田美代子・荒川哲夫・内田道雄

 

□平成27年10月25日(日)

□参加人数:会員      ビジター     合計

□金山→板取宿→宿場散策→駐車場からの木の芽城説明→敦賀(昼食)→

三方五湖レインボーライン駐車→若狭三方縄文博物館→舞鶴若狭道、北陸高速経由→金山

 

  10月の研修会は「北陸の要衝 板取宿・木の芽峠と三方五湖の年縞」と題して25日まずまずの天候の中行われました。晩秋の北陸は「弁当忘れても傘忘れるな!」と言われるほどよく雨が降る季節ですが、日頃の皆さんの心がけのおかげで楽しい研修会となりました。バスは定刻通り金山を出発、北陸道の今庄インター経由で一路板取宿へ…

 木の芽峠は関ヶ原と同じで、千米級の山が迫ったその鞍部の一番低い所が峠で、国道、高速道路、鉄道が通っているところです。現在ではトンネルで簡単に通行できますがつい百年前までは峠越えは大変じゃなかったかなと思われました。

その峠の越前寄りに板取宿はありました。要衝には関所があり、ここ板取宿も「口止め番所」として越前の結城秀康が設けたところと言われていますが、なるほどここに「関所」を設ければすべての動きが察知できる。でも今はさびれて数軒の家があるのみ、ましてや居住している家は1軒のみとのことであるが道路は石畳が整備され、またそのうちの1軒は私たちのためにボランテイアの方が開放していてくださいました。この家は「妻入り兜造り型民家」と言われ大きな茅葺きの二階建ての家で、特殊な形で大雪時には二階からの出入りが可能となっているとのこと、中は建物保存(防虫)のために常時薪を焚いておりボランテイアの方も大変でしょう!!

 続いて今庄365スキー場のセンターハウスへ!本来なら木の芽峠城などの城址を散策したいところですが、残念ながら大型の車はこのスキー場から先は進入できないとのことで、センターハウスの展望台から荒川さんの説明がありました。スキー場から山の頂に点在する城址は鉢伏山城、木の芽峠城、観音丸上、西光寺城といずれも標高700米にあり、またこの城の反対側(西側)は敦賀湾で、城とするには外敵の侵入を阻むのには最適だったのだろうと思われる。私の感じでは城というより「砦」といった趣が強いところ。しかし、この峠は人々の往来や武将たちの要衝であったことは容易に想像できる。現在ではこの峠の下にトンネルができ、車で容易に往来できるが、トンネルができるまでは、さぞかし不便な道であったことでしょう。

ここからはまた板取宿まで下り木の芽峠トンネル経由で敦賀へ、敦賀湾に面した風光明媚な「長兵衛」で海の幸一杯の昼食、おいしい海鮮丼で満足満足!! 午後は一路三方五湖のレインボーラインへ、若狭湾、三方五湖を眼下に望み頂上駐車場へ。駐車場からの眺めは広々とし湖により水の色が違って見える三方五湖を満喫したのち、若狭三方縄文博物館へ!

博物館では学芸員の方から三方五湖の年縞についての解説と映像による話があった。三方五湖のうち水月湖はその地形などから特殊な湖で、大きな川が流れこまないため湖底が荒らされず、毎年沈む珪藻(プランクトンの一種)、木の葉、泥砂などが7万年も堆積し、この堆積物を一枚一枚はがして分析することで、年代が測定できこのデータとこれまでの世界中のデータをすり合わせることで、年代測定の標準とするのですが、水月湖でのデータがその標準となったとのことです。この年縞は湖底から73米までボーリングしその試料を引き上げ放射性炭素を測定することでデータを得るという誠に手間暇のかかる分析とのことでした。これは歴史というより考古学的な話でありました。

帰路は加藤博幸さんの面状兄弟の話。今回の北陸道木の芽峠のほかに、木之本から直接今庄へ抜けることができる北國街道の話で、毛受兄弟の弟毛受勝助は兵が減少しても勝家は、「千ばかりになっても極限にあって合戦に及ぶときは心を一つにして戦えば勝利するものぞ、我に続け」、と兵を率いて決戦に挑もうとした。まさに此の時、討死に覚悟の勝家に、毛受勝助は主君の前に駆け付け、「ここは殿の討死するところではありません。今ここで決戦に及んで雑兵の手にかかり相果てたとあれば末代の恥辱となりましょう。ここは一旦北ノ庄にお逃げになり陣を立て直してから再戦に望まれるのが良策と存じます」と進言し、更に「恐れ多いことですが馬印と主君の陣羽織?を我に預け下さりませ。そうすれば此処に踏みとどまり、敵拾万騎が追いかけ来るとも一人として通しませぬ」。この勝助の渾身の諌言に納得〔決断に?〕して金幣の馬印を勝助に渡し、「心あるものは毛受にあやかり共に残れ」と言い残して栃ノ木峠を越えて越前に逃れたのである。いかにも武士の心構えといった主君に使える者の心意気の話でした。

この北國街道は勝家が安土城への軍用道として整備したもので、それまでの木の芽峠越えより半分の距離のため栃木峠越えの道を整備したと言われています。 文責 内田 道雄

 

平成27年11月研修会『国境に生きた土豪たち』

担当  後藤 正

□平成27年11月22日

□参加人数:会員37名、ビジター3名、合計40名

□行程  金山→川口殿屋敷→船戸橋合戦場→寺脇城→福田寺→信玄坑→根羽の信玄塚→川手の山田氏→向井戸砦→金山

中世の農業革命ヤト田

11月研修会は、人に知られることがほとんどない美濃、信州、遠州の国境地帯の奥三河方面であった。言い方を変えれば三河平野を流れる矢作川の最上流部であり、上村川、根羽川、名倉川の3つの川が合流して矢作川となる辺りである。海抜5百〜7百メートル。近年人口減少が進み、過疎を通り越して「限界集落」一歩手前の中山間地である。

なぜこんな所を選んだかと言えば、中世戦国時代はこうした中山間地こそが栄えたからである。人々が定住し、数多の歴史が紡がれていたからである。山の中腹に段々に棚田を作った稲作農業は平安時代から鎌倉時代にかけて始まり、戦国時代には主流になった。谷戸田(ヤト田)などと呼ばれたそれは、山の上から腐食した落葉により醸成された豊富なミネラルを含んだ水が棚田をめぐり流れる。上から下に常に流れる豊かな水はほとんど枯れるということがなく、毎年の安定的な収穫を可能にした。  それまでの焼畑農業は数年を経ずに他所へ移動して地味が回復するのを待たなければならなかった。移動せずに毎年確実に収穫できるのは画期的な農法であった。平野部でももちろん稲作農業は行われていたが、平野は大河の両岸に形成されるものだから、洪水により人も含めた壊滅的被害に遭うことがしばしばであった。ヤト田はその点安全度が高かった。国境の奥三河、東濃、南信州もそうした地帯のひとつであった。このような農業革命が中世に起こっていたのである。

 

ダム建設計画による地域崩

もうひとつの理由は、この辺りに「設楽ダム」建設計画があるからである。半世紀に及ぶダム建設計画の去就は、水没予定地区の設楽町名倉の川向、津具の八橋の住民をとうとう都市へと追いやってしまった。