渥美の窯の200年のお話
愛知県には瀬戸市、常滑市(とこなめ)という日本最大のやきものの生産地があります。
現在でも生産が続く瀬戸、常滑だけでなく愛知県の各所で陶器が作られていました。そして渥美半島の空にも、やきものを焼く煙が盛んにたちのぼっていたころがあったのです。
しかも生産された陶器は超一級品。古窯の作品は数々あれど、国宝に指定されているのは「渥美」だけです。
そんな一級品を作っていた渥美の窯がなぜ衰退してしまうのか?
また現在なぜ一般の方にあまり知られていないのか?
そのような不思議な窯である渥美古窯をちょっと調べてみました。
これから述べる渥美窯の製品は「渥美」と呼ばれます。また渥美半島に分布している古窯をまとめて「渥美古窯」と呼んでいます。
12世紀のはじめ(平安時代)から13世紀まで。この時代が渥美でたくさんの陶器を生産していた頃です。比較的早い時期に開窯された窯です
渥美古窯の製品の8割は、甕(かめ)・壷・茶碗・小皿などの日常雑器の類です。
しかし「渥美」を特徴づけているのは残り2割の「特注品」なのです。
時の権力者から特別に注文を受けた陶器や瓦。宗教的色彩の濃いものも出土しています。
新しい文化を作ったオーダーメイドの製品が各地に出荷され、その中にすばらしい製品が残されています。
「渥美」の色は黒っぽく、粉状の土で、厚いつくりで、表面にはけで釉薬をかけた灰釉陶器(かいゆうとうき)です。
雑器には模様はありませんが、特注品に線刻模様があるのが特徴です。
それは「刻文壷」と呼ばれますが、丹波と越前、東海以外の中世の窯業地ではみられない特殊な製品です。とくに袈裟襷文・蓮弁文のある壷・瓶類は渥美古窯の初期の特産物であると考えられます。
刻文とは竹のへらなどで陶土を線刻したもので、三筋文・袈裟襷文・蓮弁文・秋草文などがあります。
●袈裟襷文(けさだすきもん)
袈裟襷文壺 松山市石出寺裏山経塚出土 (日本陶磁大系より)
細い竹を縦に割ってその端をつかって横方向に3段の線をひき、そのあいだを同じ方法で縦方向にも線をひいて、一定の区画をつくる模様です。銅鐸の表面の模様にも多くみられます。
渥美古窯の初期に属するものの模様です。
●三筋壷
主に常滑、一部に猿投、渥美などの古窯で焼かれた壷にみられる模様です。2本ないしは3本の刻線を水平方向に一周させた模様です。
北峰仏教・山岳宗教の五輪思想から、首・肩・胴の三筋で空風火水地を表しているとか言われています。
●蓮弁文
このような蓮の花の模様です。
蓮弁文は他の陶磁器の模様にもみることができますが、写真のようなパターンの蓮弁文は渥美古窯独特のデザインです。
渥美の場合いずれもお経を埋めた経塚(きょうづか)の遺構から多く出土している高級特注品の模様です。
まずは有名なのは国宝秋草文壺(あきくさもんつぼ)。
高さ41.5cm 口径16cm、胴部径29cm、底部径14cmの中くらいのサイズの壺です。
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国宝秋草文壺(川崎市教育委員会HPより)
この壺は、まず形がいいんですね。口はやや外反して胴の上部のふくらみと、底に向かってすぼまっていく傾斜のバランスが優雅。
また、肩から胴の上部にかけてかかっている黄緑がかった自然釉(ゆう)が美しさを引き立てています。
流麗な刻画文があるのが特色です。ススキ・ウリ・柳などの秋草やトンボなどの文様が大胆な構図で線彫りされており、現代でも通用しそうなデザインです。日本的な秋の風情を伸びやかに表現しています。
このような文様の描き方は、中国陶磁の影響を一歩踏み越えて、日本人独自の表現手法でした。これはそうした日本陶磁の新しいページを開く、日本を代表する陶器です。
平安時代末の12世紀後半頃に渥美窯で焼かれたものと考えられています。
かつては知多半島・常滑生産説がありましたが、現在は渥美半島・渥美説が有力です。
昭和28年(1953)には国宝に指定され、現在は東京国立博物館で展示公開されています。
ちょっとわき道にそれますがこの渥美の国宝秋草文壺が発見された時の話を少し。
この壺が発見されたのは渥美半島ではなく、そこから遠く離れた神奈川県川崎市です。
夢見ヶ崎という台地の西端市内唯一の前方後円墳として知られる白山(はくさん)古墳の後円部下側からです。
古墳自体は昭和12年に桃泉閣という料亭が建設されている時に発見されました。
全長87mの前方後円墳の堂々たる古墳であり、この地区の最大の豪族の墳墓だったのと考えられています。
加瀬地区古墳分布(KASE-NET HP より)
秋草文壺はこの古墳の後円部の縁から昭和17年(1942)に、日本住宅営団の土地造成のためのトロッコの路床を作る際に出土した土取り工事中に偶然発見されました。
この壺が発見された白山古墳では現在は市街地に取り込まれ、跡形も残っておりません。わずかに案内の指標が残るだけです。
現在、その近くに、「白山幼稚園」があり、「白山」という名称もかろうじて残されています。
古墳からは卑弥呼が大陸より下賜されたという「三角縁神獣鏡」が発掘されているようです。白山古墳跡(KASE-NET HP より)
壺が埋められたのは当然ながら、ずーと後、700年以上後のことであり、古墳の造営時ではない。
ほぼ完全な形で発見された国宝秋草文壺はその後発見者から土地の所有者にわたりました。更に、出土品は古墳の発掘を行った慶応義塾大学にと約束していたため、それに従い大学の所有物になりました。
国宝(昭和28年(1953)指定)ですから「なんでも鑑定団」ならおそらく数億円の値段がついたのでしょうが、中に入っていた人骨の供養料として5円(今では数万円の価値でしょう)を受けとっただけとのこと。でもこれで国民の財産になったんですからこれでいいんでしょう。
ちなみに名品は出荷されてしまうので産地である渥美には残っていないと思います。渥美の山を掘ろうなんて考えないで・・。
発見当時、国宝秋草文壺は粘土を敷きつめ河原石を積んだ遺構の中に置かれており、壺の中には火葬された人骨が詰まっていたということですから、これは骨壺(火葬骨臓器)なのですね。
日本の秋の風景を流麗な線刻文で表現した美術品も「骨壷」と思ってみるとちょっと複雑な心境になってしまいますね。
でも現在の骨壷も結構いい材料で作られていますので、似たようなもんでしょう。
では、この壺の中に遺骨を納められた人物はいったい誰だったのでしょう。
壺が埋められたのは後世のことで古墳の造営時ではない。古墳の埋葬者とは関係なし。
残念ながら誰の墓かわかっていません。
平安時代末期ですから、都から派遣された貴族なのでしょうか?それともファッションに敏感な地元の有力者だったのか?
いずれにしても当時きわめて高価だった陶器を使うのですから、かなりの財力を持った人だったのでしょう。
なぜ、渥美の壺が使われたのか?
どうして南加瀬の地に骨壺として埋葬されることになったのか?
本来「骨壷」として特別注文されたものなのか、それとも別の目的で作られたものが転用されたのか?
これもわかっていません。
ちなみに壺の中に入っていた人骨は、そのまま北加瀬の寿福寺に納められたとのこと。よかった。
さて話を戻して、再び「渥美」の名品の話。
もう一つの国宝は「国宝経筒外容器」です。
伊勢市朝熊町経ヶ峯経塚出土
平安時代末期の1173年(承安3年)の銘がある
高さ32.6cm 伊勢・金剛証寺所有
これは経塚というお経を埋めるための保護容器です。国宝経筒外容器
伊勢市朝熊町経ヶ峯経塚出土
朝熊山経塚群(あさまやまきょうづかぐん)
伊勢と鳥羽を結ぶ有料道路「伊勢志摩スカイライン」の途中にあるが、徒歩かバイクでしか行けない。
訪れる人も少ないため寒々とした風景は近寄りがたい雰囲気さえある。
40以上もの経塚が山頂東斜面に集中して造られています。
経筒に記された年代は保元元年(1156)から文治2年(1186)まであり平安時代です。
経塚の発見は江戸時代ごろか、遺物が発見されていたようです。
明治27年に老樹の根元から承安3年(1173)銘の陶製経筒が出土し、経塚の存在が知られるようになりました。
昭和35年、伊勢湾台風により付近の土砂が崩れ遺物が外に出てきたのがきっかけで
急遽 翌昭和35年に大々的な調査が行われました。
▲発掘時の風景
▲経塚群からは今では木が茂っており眺望が効かないが、木がなければこのような神々しい風景が広がるだろう。
伊勢神宮とのつながりが強く、ここに経塚を造営しようとした理由も理解できます。
▲朝熊山経塚群の発掘品の一部は近くの金剛証寺の宝物館に収められている。
残念なことにこの博物館は閉館になってしまって通常は公開されていない。
芦鷺文三耳壺 と名付けられている壺です。
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▲芦鷺文三耳壺(愛知県陶磁資料館展示)
同じく平安時代末期(12世紀)の渥美灰釉
昭和51年6月5日 国指定重要文化財
高さ39.3cm。渥美窯群の製品で、全面に芦が生える川辺で遊んでいる4羽の鷺が描かれていて、絵画的評価が高い。
これは渥美半島に特有な砂質の陶土を用いて紐造り成形されています。
色はごらんのように黒っぽい。
秋草文壺と同じように、独立した絵画を陶器に描く行為は中世に始まったことで、古代猿投窯や中世瀬戸窯の様なパターンとしての文様・規画文とは異なり、絵画的な線刻文の世界が展開されています。
以上のように渥美の製品は日本の各地で見つかっています。
北は岩手県から南は九州太宰府までの広い範囲にわたって発見されています。
主な分布地域は、伊勢・熊野地方から南関東の太平洋沿岸に限られています。
各地で出土したもので渥美半島でやかれたものだと分かっているものは甕・碗・皿・壷・鉢のほか、特別注文によってつくられたと考えられる刻文壷・経筒・外容器・瓦経などがあります。経塚や中世の墳墓(はか)のような宗教遺跡から発見されています。
太平洋岸に分布しているのは、その頃は、舟によって物品が運搬されていたためと考えられます。重く、壊れやすい陶器は船以外の輸送手段はなかったのでしょう。
渥美のブランドは伊勢、平泉をはじめ日本全国に響きわたっていたのです。
「渥美」が発見された主な場所
ところが、このような分布の範囲がわかったのは実はここ40年ぐらいの話で、それまでは各地で発見された陶器やその破片が渥美窯の製品とはわかりませんでした。
昭和38年頃まで各地で発見される出産地不明の壷を人々は「黒い壷」と呼んでいました。
黒い壷というのは、蓮弁文・袈裟襷文が肩に施してある一運の刻文壷の事で、当時、破片の色が黒ずんでいたことと、生産地が不明であるという謎めいた点を、からませて、それを黒い壷と呼んでいたのです。
その「黒い壷」の探索は、静岡県磐田市(あのジュビロ磐田の磐田です)の鈴木東一氏が一個珍しい壷を手に入れた事から始まりました。
そして、昭和38年の「陶説」3月号に本多静雄氏より「黒い壷」の投稿があり・それがキッカケとして、渥美半島への調査が始まりました。
同年、渥美郡史に加治坪沢古窯で発掘された蓮弁文壺の記録のあることを知った鈴木東一氏、鈴木繁男氏・鈴木幸朗氏は、二回にわたって加治農協の天井裏にしまってあった20数個の古い壷を調査して、ついにめざす「黒い壷」蓮弁文壷2個を発見しました。
生産地が不明であった一連の「黒い壷」は渥美古窯で焼かれたものと分かったのです。
このように名品の生産地が長い間わからなかったことは、「渥美窯」が一般の人に知られていない理由の一つです。
もちろん地元の人はそこに窯址があることは知っていました。陶片もたくさんありました。特に山茶碗は、ガンザラと呼ばれ畑・山林・薮の低みなどにゴロゴロしていました。
ただ、窯の址は猿投山の南側から岐阜県または浜名湖周辺の静岡県西部まで広く分布しているため特に珍しいことではありませんでした。
そのような中、昭和30年代、渥美半島では豊川用水路の建設と、それにともなう農業開発によって数多くの古窯が発見され、工事のためにくだかれていきました。
そこで昭和40,41年に愛知県教育委員会は、豊川用水路の建設によってくだかれる古窯の発掘調査を行いました。
渥美半島の古窯の調査はもっと前から行われていましたが、この教育委員会の発掘調査が、地元の関係者に古窯の調査、保存について、新たな関心をひきおこさせました。
また、その頃「黒い壷」と呼ばれていた、産地のわからなかった壷が渥美半島の古窯でやかれたものとわかったことも、渥美半島の古窯が注目された大きな要因となりました。
現在、渥美半島には99群、500基以上の古窯跡が確認されています。
窯跡は渥美半島の全域に広く分布しているが、斜面が必要なため、台地の端に位置する。窯は風により燃焼状態が変化するので窯の向きは慎重に選ばれた。
同時代に全ての窯跡が活動していたのではなく、燃料を求めて時代とともに移動していた。大きな流れとしては東から西へ(半島の根元から先端へ)と広がっていった。
主な渥美古窯の分布
詳細な分布MAPはこちら
渥美古窯の中でもっとも早く発見された古窯。大正時代に発見された。
最初の国指定史跡になっています。南向きの傾斜地を利用してトンネル状に掘り抜いた窯です。田原町の国道42号に案内表示があります。
指定当初は奈良時代の古窯跡と考えられていたが、戦後の窯業生産史の研究により渥美半島に分布する古窯の性格が明らかにされ、本古窯跡も散布遺物から中世古窯の一つと考えられるようになったそうです。
百々(どうどう)窯跡
台地の端の南向き斜面にある2本の窖窯。遺跡は埋め戻されて窯があった位置に石がおかれ大きさがわかるようになっている。
■皿焼古窯址群
13基の洪積砂層を掘り抜いた窖窯が発見されています。
これらの古い窯は、標高50m、面積1400平方メートルほどの、狭い山の斜面をうまく利用して造られており、大きく分け上下2段に構築されていたものです。
このうち12号窯は保存・展示するために建物を造り、発掘状態のまま公開されています。
渥美古窯の中で唯一発掘状態で保存されている窯です。
皿焼12号窯は、船底型の床面が二重に造られているという他には類を見ない窯です。第一次面の床には焼台や遺物をそのまま残して、その上に天井を削り落とし、粘土を加え第二次の席面が造られていました。また壁面や分焔柱にはスサ入り粘土や割れた茶碗・皿で、何度も修理した跡が見られ、繰り返し使われた燃焼効率の優れた窯であったと考えられます。
窯の規模は、その復原長が約14m、最大幅は2.5mで渥美古窯のなかでは中型の部に属します。焚□を掘り下げて、燃焼室を⊃くり、分焔孔を2つ設け、さらに下降して壁が左右に拡がっています。上り傾斜の焼成室には焼台が敷き並べられ、煙道部は幅が狭められ、全体が船底型に造られており、典型的な渥美窯の構造をしめしています。出土品は山茶碗と小皿が中心で、灰釉の小粒が降り注いだものや、濃緑の釉がかかったものもあり、窯の中の温度が1,200度に達していたことがわかります。
陶製五輪塔
皿焼古窯跡群から出土した遺物は、茶碗、小皿、甕、壷、片□鉢など日常雑器が主体ですが、陶製五輪塔、宝塔、風鐸、舌といった宗教的な用具も見つかっています。中でも陶製五輪塔は、水輪を欠くものの全体の姿が類推でき、陰刻の梵字が見られます。窯場から出土した五輪塔は全国でも例がなく、大変貴重な資料となっています。
(皿焼古窯館パンフレットより)
皿焼古窯館
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▲皿焼12号窯
平安時代から鎌倉時代の窯
皿焼古窯群は13基の窯が発掘調査されている。
山茶碗と小皿を中心に焼いた窯です。
床面が船底のように一旦下がって、その後急激に登るところが渥美の窯の特色です。
■皿山古窯群
皿焼古窯址群の東側斜面に築かれた窯跡で、8基のうち3基が調査されています。ここからは、日常生活に使われた山茶碗や小皿、甕、子持器台や香炉といった宗教用具などが出土しています。窯の保存状態が良好な遺跡です。
渥美町の中では最も立地条件がよく、窯の数も多い。ここでは陶製五輪塔が焼成され、上流階級の受注に応じていたことが考えられ、宝塔片やその付属品の風鐸が発見され、全国にも例を見ない。
皿山古窯群で発見された風鐸(日本陶磁大系より)
■大アラコ古窯跡(国指定史跡)
芦ヶ池周辺は、渥美古窯群の密集地である。この古窯からは、「藤原顕長」の刻銘のある壺が出土しています。
藤原顕長(ふじわらあきなが)は、1136(保延2)年から1155(久寿2)年までの間に断続的に三河守に任ぜられていて、時代を特定することができています。
■へんび古窯址群
出土品の瓶の口縁端の作りは断面が三角形に引き伸ばされていて渥美窯の古い手法を残しています。
■竜ヶ原古窯址群
この台地は洪積砂層が基盤になっていて、地層が厚く表土に粘りの強い上土が覆っています。
一号窯より藤原顕長銘の短頸壺(たんけいつぼ)片が出土しています。
■大沢下古窯
大沢下古窯の発掘写真、現在は埋め戻されています (日本陶磁大系より)
1966(昭和41)年豊川用水の最終調整池初立(はつたち)ダムの工事中に窯址が発見されています。
発掘調査は,昭和41・2(1966・67)年に行われ、穴窯3つと平窯1つ4基の窯跡が検出され、軒丸瓦や軒平瓦、大仏殿の瓦,工房跡,工人住居跡などが発見されています。
この瓦窯跡は、渥芙古窯の中期段階の窯で 普段は甕、壷、鉢、山茶碗、小皿、陶錘などを焼いていたと考えられます。
出土した瓦には,いずれも東大寺の銘があり,鐙瓦(あぶみがわら)には「東大寺大仏殿瓦」の文字が刻まれていました。
場所はフラワーパークの北側、初立池(はつたちいけ)の本堤の南に位置。
現在は埋め戻され、場所がわかるように石で形状が投影されているだけです。
発掘されたこれらの瓦は、郷土資料館に展示されています。
焼かれた河原は残念ながら創建時のものではありません。東大寺は何回か再建されています。
この伊良湖東大寺瓦窯跡の発見により、ここが鎌倉時代の東大寺再建の時の瓦を焼いた窯のひとつであることが明らかとなりました。
この発見以前より渥美に東大寺の瓦窯があったことは指摘されていましたが、この発見により、それが実証されました。
江戸時代中期の古記録「朱紫」には「伊良湖崎の山間に初立というところあり。貞享三寅八月農夫古き瓦を掘り出す。径七寸ばかり」とあります。
また元禄六年杉江道雲の著「伊良湖名所記」には「伊良湖の湾より一里ばかり北にあたり東大寺などいえる伽藍柱礎の跡たえて破瓦の野外にもとめしも、近き頃まで余も見はべりし」と、紹介されており、古くから大仏殿瓦について人々に知られていたことがわかります。発掘された東大寺瓦(皿焼古窯館パンフより)
渥美瓦が歴史に登場するのは1180年(治承4)源平の合戦において平重衡(たいらのしげひら)により焼き打ちされ、東大寺が焼失した後の再建の時です。
朝廷は翌年に俊乗坊重源(しゅんじょうぼうちょうげん)を東大寺の勧進職(かんじんしき)に任命し,各地から再建の費用を集めさせました。
そして建久6年(1195)に再建されたとき大仏殿の屋根瓦の製作を引き受けたのが備前岡山の瓦場と,三河伊良湖の瓦場でした。
古来渥美半島には伊勢神宮領が多くあり,ここに住む荘官が発注を手配したのかもしれません。
ただし、現在の東大寺の大仏殿にはこの瓦が使われていないそうで、わずかに鐘楼(かねをつくところ)の平瓦数枚が発見されているだけとのこと。
その当時生産された枚数は5万枚といわれている。平瓦で長さ43cm・厚さ3cm、重さは7kgもあり、350tにもおよぶ大量の瓦はトラックもない鎌倉時代では海路で運ばれました。
近くの伊勢湾側にある福江港より伊勢にわたり陸路を行く説と,直接大阪湾に入る説があるが、私は、大阪湾から奈良までの水運が可能なので、奈良の直近まで船で運ばれたのではないかと思います。
ちょっと不思議なのは奈良では瓦を焼く窯は平城京の造営の頃には既に平窯(ロストル窯)に移行していたにもかかわらず渥美ではまだ窖窯が使われていたことで、これはもう少し調べてみたいですね。
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