渥美の窯の200年のお話 2
もうひとつの「渥美」をめぐるエピソードが奥州藤原氏との関係です。
大アラコ窯と竜ヶ原古窯をはじめの4ヶ所で藤原顕長の銘が入った陶片が見つかっています。
竜ヶ原古窯址群は赤羽根町にあり、大アラコ窯はそこから北西700mの田原町にあります。
赤羽根町歴史民俗資料館展示資料
▲窯跡から出土した銘入りの陶片
刻まれている文字は藤原氏「比丘尼源氏、従五位・・・朝・と読まれます。
これは正五位下行兵部大輔兼三河守・藤原朝臣顕長と従五位惟宗朝臣遠清の連名による14行の銘文です。
竜ヶ原古窯で発見された壺の破片は かつて赤羽根町歴史民俗資料館でみることができたのですが、最近訪れたら、既に展示されなくなっていました。
同様の銘が入った壷は日本の各地で発見されています。■三島市三ツ矢新田経塚
このような特別なものが現在でもあちこちで発見されていることには驚かされます。
同類のものがかなり大量に焼かれていたということですね。
■山梨県南部町経塚日本陶磁大系より
▲顕長・遠清銘壺 三島市三ツ矢新田経塚出土
はるか遠方の三島市三ツ矢新田の経塚から発見された壺には次のような文字が刻まれています。
1、正五位下行兵部大輔兼(しょうごいげぎょうぶだいちゅうけん)
2、三河守藤原朝臣(みかわのかみふじわらあそん)
3、顕長(あきなが)
4、藤原(ふじわら)
5、藤原氏(ふじわらうじ)
6、比丘尼源氏(びくにのげんじ)
7、従五位下惟宗朝臣(じゅうごいげこれむねあそん)
8、遠清(とおきよ)
9、惟宗氏(これむねうじ)
10、内蔵氏(くらうじ)
11、惟宗氏尊霊(これむねうじそんれい)
12、惟宗尊霊(これむねそんれい. )
13、藤原尊霊(ふじわらそんれい)
14、道守尊霊(みちもりそんれい)
この内容は藤原顕長と惟宗遠清が同じ目的をもって尊霊の前に供すると言うことが書いてあります。
これは渥美古窯の時代決定に大さな役割を果たしました。
「尊霊」などの文字があることから土器は久安元年(1145)8月22日待賢門院崩御の際のものと思われます。
■大アラコ出土の壷山梨県立博物館カタログより
▲渥美「顕長」・「遠清」銘短頸壷
山梨県南部町の篠井山山頂から発見された経塚容器。
渥美から海上輸送され、富士川をさかのぼり、富士山が一望できる地にもたらされたものでしょう。
山梨県立博物館カタログより
十四行六十四文字の銘文が彫られています。
■藤原顕長ってだれ?愛知県陶磁資料館展示
▲田原町大アラコ出土の壷
平安時代末期 (12世紀)
この壷には以下のように書かれています。
1.従五位下 惟宗朝臣遠清(じゅうごいげこれむねあそんとおきよ)
2.藤原氏(ふじわらし)
3.惟宗氏(これむねうじ)
4.内藤氏(くらうじ)
5.惟宗氏尊霊(これむねうじそんれい)
6.惟宗尊霊(これむねそんれい. )
7.藤原氏尊霊(ふじわらそんれい)
8.道宗氏尊霊(ふじわらそんれい)
顕長は白河法皇およびその御猶子(ゆうし)で、鳥羽天皇の中宮藤原璋子、すなわち待賢門院ときわめて深い関係のあることが知られています。
藤原三代秀衡の父基成は顕長の甥です。
藤原顕長は天治2年(1125)に紀伊守に任ぜられ、保延2年(1136)に三河守に、久安元年(1145)に遠江守に、そして久安5年(1149)に再び三河守にもどり、久壽2年(1155)までその任にありました。
つまり、藤原顕長が渥美半島に関係していたのは、三河守であった保延2年から久安元年までと、久安5年から久壽2年までの間であり、顕長銘の入った壷がやかれたのは、この時期であったことがわかります。
おそらくあとの三河守の時期の作品であろうと思われます。
▲藤原顕長系図
http://www.kdcnet.ac.jp/bigaku/Researc/051207touji04.files/frame.html#slide0028.htmlより
これとは別に奥州藤原氏の居館、平泉館跡から渥美窯の優品が多数出土しています。
二代基衡の時代、奥州藤原氏の財力で基成や顕長ら国司層を通じて、渥美窯に特注品を焼かせていたと思われます。
顕長と連名で登場する惟宗氏は土師部(はじべ)。■岩手県と愛知県を陶器がつなぐ
陶器製造のプロデューサーでしょうね。
氏姓制度に「土師氏、惟宗氏を賜る」との記録があり、渥美半島古窯が惟宗氏によって行われていたと考えられています。
以上のように奥州藤原氏と渥美とは強いつながりがあります。
はるかに遠い、平泉で出土している陶磁器片の中で国産の焼き物の9割は、常滑と、同じく渥美の壷甕類(つぼかめるい)です。
壺は直接経典を入れる経筒として用いられたものであり、たいへん重要なものです。
国内外を問わず焼き物は、遠隔地から運び込まれた大変貴重なものだったのです。
経を直接入れるのにふさわしい入れ物でした。
「渥美」はその華麗さゆえか、非常に喜ばれたようで、特に、義経で有名な奥州藤原氏に特に好まれたようです。岩手県では「渥美」は7カ所から出土しています。
よほど藤原氏は「渥美」を好んだようで、とうとう渥美窯の工人を招き、宮城県石巻市水沼に窯を築いてしまいました。■中国一番、渥美は二番
その時の窯の跡3基の発掘調査で黒っぽく茶色の袈裟襷文の固い破片が多数出土しています。
しかしこの水沼窯、コピー製品の悲しさ、あまり活発な生産活動を行っていなかったようで、製品はごくわずかです。
また産する粘土が粗悪なため、渥美窯に比べ品質も落ちました。
あまり発展することもなく、衰退してしまいました。
藤原氏がこれらの壺を、威信財として使ったようです。
大陸から輸入された白磁四耳壺(はくじしじこ)は、最高級品ととらえられていたようであり、国産の壺はそれに準ずるものです。
国産の壺の中では、さまざまな文様が施された渥美窯産刻画文壺(あつみようさんようこくがもんこ)が一番であり、その下に三本の線が引かれた常滑窯産三筋壺(とこなめようさんさんきんこ)、さらにその下に波状文四耳壺という価値観があったようです。
渥美の壺は常滑の壺とともに経塚に多く使われました。
ふたたび寄り道して経塚について・・・・
経塚とは、平安時代中期におこった末法思想を思想的背景として、書き写した仏教の経典を地下に埋めたものです。
末法の世に入り、仏の教えがすたれた後、未来の仏である弥勒が第二の釈迦として56億7千万年後に出世するときに、地下に埋められた経典がわき出して、過去の仏教と、未来の仏が邂逅するという、映画の1シーンのような場面を人々はイメージしたのでしょう。
わが国では平安時代の永承7年(1052)が末法の初年と信じられ、時の権力者は競って経典を地下に埋めました。
その後、極楽往生や追善供養の性格を強め、平安時代末期から鎌倉時代に最盛期を迎えるようになります。
経塚は神社の境内地や背後の小高い丘陵地に造られることが多く、地表下に小石室を設け、その上に直径約四メートルの小丘状の封土を築くのが一般的です。経塚の遺物として、経典を保護する外容器が多く発見されています。経塚の立地として丘陵上や神社の本殿背後、寺院の境内、中世墓地群の一角などから発見されていることが多いようです。
最近 末法の世が言われて久しいが、救世主たる弥勒が現れるのはまだ56億年以上先の話である。
一方現代のタイムカプセルも一時ほどではないがさかんに埋められている。
昔の人が56億年先をめざして埋めたタイムカプセル、経典を「開発」「研究」の名のもとに1000年後の我々が掘り出してしまうのは、ちょっと複雑な気持ちである。
また、56億年先まで残るような材質で現在タイムカプセルを作ろうとしたら、現在の技術者はどのような回答を用意するのだろうか?
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渥美古窯の特注品の一つです■経筒
経塚で紙の経文を埋める際に、陶器は直接経文を入れる容器に使われる場合と、銅や木で作られた経の容器を保護するために陶器が使われる例があります。
後者を経筒外容器と言います。
経筒外容器のほうが低級とみなされるため、粗雑な陶器が使われたり、転用材で済まされてしまうことも多いようです。
塚の構造は墳墓の場合と似ていますが、微妙に様式が異なるようです。
▲このように蓋をかぶせた形で使用されます。
経を入れる容器■経巻
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■瓦経(がきょう)![]()
伊勢市の朝熊山経塚群から発掘された経の本体。
平治元年(1159)に書写された経巻(法華経、観普賢経)。
これは同じく「平治元年」の銘を持つ経筒に納められていたものです。
三重県史のHP「歴史の情報蔵」によると
奥書に「平治元年八月十四日雅彦尊霊、為出離生死往生極楽書写了」とあり、この教典が、「雅彦」の極楽往生を願って書写されたものであることがわかる。
「雅彦」とは同じ経筒内に納められていた法華経の奥書に「度会氏」と見えることなどから、当時の外宮神官度会雅彦と見て間違いないであろう。
禰宜の補任(ぶにん)記録によると、度会雅彦は、1135(保延元)年6月8日、37歳で外宮七禰宜に任じられ、1152年(仁平2)年には二禰宜に昇り、1159年8月15日、61歳で死去したとされている。
経塚から出土した観普賢経の奥書日付の1日後である。
恐らく、雅彦の死に臨み、その往生を願って観普賢経が書写されたのであろう。
現世後生の安穏を願った経塚がある一方、個人の極楽往生を願う経塚もあるのである。
経筒に刻まれた勧進尼僧真妙は、恐らく雅彦の妻であり、豪華な副葬品に、亡き夫への思いが現れている。
瓦経とは瓦に経文を刻んだものです。地中に埋納するという点では、焼いた粘土や礫石が最も適しています。
瓦経は渥美古窯のものがほとんどで渥美を特色付けるものです。出土地では伊勢地方から数多く発見されています。
渥美の地名・願主(お祈りをした人)の名が印してあるものが多く出土しています。
当然、瓦経は経筒外容器と同じように経塚から出土しています。経文は「大日教・法華経・妙法蓮華経・般着心経」などがあります。妙法蓮華経 伊勢市小町塚出土(1174年)
(日本陶磁大系より)
陶製光背は経塚に副納されたもので伊勢市の小町塚経塚から出土しています。
承安4年(1174)5月から7月にかけて、万覚寺の僧西観・遵西らの発願により、外宮の祠官であった度会常章・春章らが檀越となって作られたものであることが裏面の銘文から知られる。
伊勢神宮の神官(あるいはその縁者)が製作に関与しており、仏教信仰に傾倒していたことを窺わせ、神仏習合のあり方を考える上でも貴重な例となっています。
表に梵字が刻まれており、法波羅蜜・金剛嬉・金剛鬘・金剛歌・金剛舞・金剛法・金剛利・金剛因・金剛語の各菩薩を表している。
国指定重要文化財
国立博物館所蔵
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▲陶製光背
渥美製かどうかは記載されていませんが、
これも渥美製なら このような芸術的な特注品も渥美窯で焼かれていたことに驚きます。
右側の仏像は 愛知県岡崎市大和町の妙源寺に伝えられた如来座像です。
像底には僧隆円・僧西観・承安4年と陶製光背と共通の銘文が刻まれており、規模も同じであることからこの如来座像が小町塚経塚で出土したものと判明しました。
愛知県に里帰りしていたということになります。
渥美の古窯の発生要因
平安時代末期から鎌倉時代への変換はよく言われているように貴族社会から武家社会への大変換点である。
明治維新がそうだったように、イデオロギーの変換は概して生産性を高める。
この変換により、おそらく、従来の貴族主導の規制の社会から武家のみならず平民の社会になったのではないだろうか。
それにより農業でも醸造業でもより効率的な器がもとめられたのでしょう。
農業でも穀物貯蔵や水瓶以外にも播種や施肥の段階で大型の容器が必要となり、酒づくり、染色でもより大型の甕や壺の需要が急激に増えました。
生活でも日常の食事で雑器が必要になりました。
その一般大衆の求めにより、巨大な市場が創出されました。
その市場の需要をまかなうため、渥美を始めとする各地の中世古窯が歴史の舞台に登場することになったのです。
中世古窯は、陶器を作るための原料や燃料などが容易に入手できる場所であるとともに、製品を便利に運搬できる海上輸送に適した場所に一般的に立地しています。
渥美はそのような条件に合致した。そしてなによりもベースとなる技術がありました。
また、渥美の地は三河の守の直領であったり、伊勢神宮の直轄地であったりしました。
一方陶器生産はその当時の最先端技術。時の政治や宗教の権力者が技術者を集め、テクノバレーやサティアン(ちょっと古いですね)を作るようなもの。
こうした背景で渥美の地に窯が築かれる素地がありました。
▲伊勢金剛証寺から見た渥美半島と神島。
船でわたれば すぐの距離。
ところが製品は他の東海地方の古窯のように、時代とともに品質が低下していってしまうのです。
たとえば山茶碗の作り方。その様式により古窯を三つの型式にわけているのです。
<第1型式>の古窯でやかれた山茶碗は輪花(口の縁が一定の規律で出入りしている形)のあとがハッキリしており、高台(茶碗の底についている台)もしっかりついています。このだんだんと品質が低下してしまうという現象は渥美に限らず、猿投古窯でも起こっていることです。
<第2型式>の古窯でやかれた山茶碗には輸花のあとがほとんどなく高台も雑でわずかにつけられているにすぎません。
<第3型式>の古窯でやかれた山茶碗は、高台はまったくなく、ロクロ成形の跡がハッキリ残っており、右回転ものが多く、底には糸きりの跡が残っています。
特注品でも最後は甕や壺を焼かなくなってしまうという現象がみられます。
これは裏をかえせば、非常に高価なものだった陶器が、大量生産により次第に一般層へ需要が広がったということです。
ちょうど独創的で先進的だが高価だったMACが、パソコンの普及により後発的だが価格が安かったWINDOWに駆逐されてしまったのとよく似ています。
高価な芸術品のような工業製品があまり普及していない所へ、中国製の安価な製品がどっと入ってくることで大量販売され、その代わり一般層へ普及するという構図は現在でも多くみることができます。
渥美半島の根元には二川古窯群という窯跡があります
これも灰釉陶器なのですが、時代がやや古いことを考えると、渥美のルーツだと考えられます。
更にその東、静岡県には更に古く、古墳時代からある湖西古窯群という窯跡が発掘されています。
須恵器窯ですが、研究が進んでいないためわからないことが多いそうです。
私は東山や猿投古窯の方から技術が流れてきたのではないかと思いますが、逆に湖西窯が猿投のルーツではないかという説もあるようです。陶器生産技術の流れ
愛知県陶磁資料館展示
▲湖西窯 五輪塔形経塚外容器
平安時代末期 (久安2年 1146年)
久安ニ年七月廿七日 遠海新所之立焼 五輪土塔」という記述があり、湖西市新所原の湖西窯で製作されたことがわかります。
渥美の古窯の構造的特徴
他の地域とは異なる舟底型の「窖窯(あながま)」が、山の斜面を利用して造られていた。焚き口部から傾斜して下がり、燃焼室との境の部分がもっとも低くなる構造である。
その規模は、全長15m以上のものが多い。中には20mにも及ぶものがあり、一般的に他の地域より規模の大きなものであった。
このため窯の容積が大きく方が表面積と体積の関係から効率は良くなると考えられる。エンジンでも大排気量の方が小排気量より概して熱効率は良い。
窯は黄色砂質のシルト層をトンネルのように掘り抜いて作られている。
厚い砂質の洪積層が傾斜している部分を選び燃焼部を掘り、左右二つの穴をあけそこから焼成部をほりぬくという手順をふんだ(斜面を下から上にトンネルを掘った)。
渥美半島の地質は珪砂層の純度が低く、大型の窖窯を掘り抜くには困難が伴う。窖窯の火度を高めてゆくと窯の天井が崩れてしまうという欠点を持っていた。
このような地形で効率を求め窯が大型化したことで非常に脆弱な窯になってしまっていたと考える。
また、炎を左右に分けて焼成室の温度を均一化するための分焔柱があったが、終末期の窯ではそれが無くなり、代わりに燃料室と焼成室の間に低い壁がつくられて炎を上に上げる工夫がなされていた。
床の傾斜は初期ほど急だったが時代とともに傾斜が緩くなっている。
これも窯の中の温度をできるだけ均一にし、部分的に温度が上がり天井が崩れるのを防いだり、製品の焼成の温度が部分的に上がりすぎるのを防止したりするための工夫だったのではないかと考える。
また、初期には大甕、壺と山茶碗、小皿が同じ窯内で一緒に焼かれたが、次いで大甕、壺だけを焼く窯と山茶碗を焼く窯が別になり併設されるようになり、最後は甕や壺を焼かなくなってしまう。
これも小さい製品と、大きい製品の温度むらを少なくすることを狙った工夫かもしれません。高温に弱い渥美の土を使う宿命だったのでしょう。
皿焼12号窯 (皿焼古窯館パンフより)
渥美の土は砂質である。
これは「東海湖」という湖に関係がある。600万年ぐらい前の大昔に名古屋市のあたりには琵琶湖の何倍もある巨大な湖がありました。この湖に流れ込む川が運んできた細かい粒子の粘土はその湖の周辺に厚く堆積しました。
この粘土が現在の愛知県の窯業を支えています。その良質な粘土が堆積している巨大なリング上に瀬戸も常滑もあります。
でも、渥美はそのリング上にはありません。渥美の土は東海湖起源ではなく、海に堆積した砂が主体です。 砂質の陶土は耐火度が低い。すなわち高温に弱いため温度が上がりすぎると窯の中で半製品の形が崩れてしまいます。
この欠点は大型の製品になるとますます大きくなってしまいます。これ以上の製品の大型化は困難だったのでしょう。
この絶妙な温度コントロールを必要とする陶土が、芸術品としての高度な職人芸を発達させた駆動力となったと同時に、歩留まりの悪さという大量生産時の致命的な欠点を合わせもっていたのだと考えます。
壷や甕の中に肩のところに一文字だけ「へら」で書いた記号が記してあるものがあります。
その文字を窯印と呼ばれ同じ窯内(かまのなか)で焼上げる場合、他者の製品と区別する目的でつけられたものと考えられています。
ということは、一つの窯で何人かの陶工が関与したか、異なる発注者がいたのでしょう。
窯印にはいろいろな文字があり、多いものと.して「上・万・大・十」などがあげられます。
この「上」は伊勢神宮との関係を示す記号であるという説もありますが伊勢神宮と関係のない常滑でも使われているのでよくわかりません。
おもしろいものとして「・・D・P・E」などと読めるもの、あるいは意味があるのか落書きなのかわからないものもあります。
この窯印は、一つの窯に1種類か2種類ぐらい見られ地域によって異なった符号を使っているところが多いようです。
六古窯ほど有名ではないのは、
●陶器が一般の人に多く広まってきた室町、戦国時代にはすでに渥美は衰退していたこと
●現在まで窯業が継続しておらず、記憶から遠ざかっていること。
●渥美窯の作品は長らく産地不明となっていたこと
主な理由と考えます。「渥美」の質が劣っているわけではないのは今まで述べたとおりです。
渥美窯の衰退の要因として
■ 新技術の導入がなかった。(窯の変遷を見るといろいろな工夫がなされており、技術的に保守的な印象は受けないのですが・・・瓦窯のロストル窯(平窯)への変化が遅かったことがちょっと気になりますが・・・)■ 窯の規模が大きく、不経済だった。(窯の規模を大きくするのはむしろ高効率を求めるためだと思うのですが・・・)などといろいろな説があるようですが、私はずばりこのように考えます。
■ 神宮領が多かったため、武家勢力の進出により支配勢力が変わった。パトロンが変わると技術は大きく変化します。■ 少量芸術品の製品を作るのに特化した製造工程(コストよりも品質重視)は、経済性を重視される大衆品を作るようになった段階で常滑や瀬戸との競争に破れた。
■ 窯、陶土の材質的な問題による技術的限界
前述したように窯の強度は地質上もろく、ちょっと温度が上がりすぎると崩れてしまう。■ 製品の大型化の要求に応えられなかった
製品も陶土の材質上温度が上がりすぎると窯の中で変形してしまう。 それでもなんとかうまく焼き上げる絶妙な職人芸のような温度コントロール技術があったのでしょうが、いかんせん歩留まり(完品になる率)が悪いか、またはその技術の伝承がうまくいかなかったのではないでしょうか。
これも技術的限界なのですが、製品が農産物や肥料の貯蔵、醸造の道具として普及してきたときに、それらの生産性を高めるために甕や壺の大型化が要求されたことでしょう。それが窯や材質の関係で困難になったとき、より容易に大型化可能な常滑の製品が近くにあれば、それは勝負になりません。
私からの質問を一つ。渥美古窯からはこんな物も発掘されてています。やも(ま?)めなと
田原町大草の惣作10号窯址から出土した小さな陶器
口径9.1cmの小さな碗であり、一面に唐草文が、他の面にざれ歌二首がヘラ書きされています。(田原町教育委員会所有)
ヘラ書きのタッチやざれ歌の内容からみると、渥美の工人(焼きものを作る人)が書いたのではなく、都あたりから来た人の中で、当時都で行われていた狂歌などを聞きなれていた人の製作だと考えられます。
田原町大草の惣作10号窯址から出土した
小さな陶器(日本陶磁大系より)
ながもふ恵
こつびには
そっとあわせよ
ささでうるふやも
やらうかと
つぴはうつつぞ
にはかには
こぴつはいかが
うせなんうせなん
この意味が私にはわかりません。多分専門家の方なら一発でわかるのでしょうが・・・
なんとなく色っぽいような雰囲気を持っていますが
だれか教えてくれー!!
低価格大量生産方式でゆくか、高価格高級品少量生産方式でゆくか、という選択肢は現在の企業でもたくさんみることができます。
たまたま渥美の窯はその後者を選択し、時代の変化を見誤ったためにやがて滅びてしまいました。
あるとき権力者が近くで陶器を焼いているという話を聞き、自分の所でもできないかと陶工を連れてきて窯を開いたら、うまくいった。
しだいに技術が向上し、土地の土の性質と燃料の木と空気を知りぬいた熟練した陶工も現れてきた。
パトロンの庇護のもとにオーダーメイドの最高級品を作った。
豊富な資金の中では経済性はあまり重視されず、その代わり名人芸のような技術は発展し、国宝級の名品を多く生み出した。
渥美のブランドは上流社会でもてはやされ、遠方まで大事に運ばれ大切にされた。
金で取引されることよりも、贈答品や下賜の形で供給されることも多かったのかもしれない。
国家プロジェクトである寺の再建の時も、特別注文が来た。
パトロンがいたために土の質が悪くても、その地を離れることはできなかった。
その厳しい技術上の制約が陶工の名人芸に更に磨きをかけた。
しかし、あるとき時代が変わってしまった。
パトロンの力が失われ、冷酷な「経済性、市場原理」の波が押し寄せた。
渥美のブランドは新しい顧客である一般層には何の価値もなかった。
名人芸はこの波の前にひとたまりもなかった。
かつて名品を作っていた陶工もプライドを捨てて、質が悪くてもコストが安い製品を作ろうとしたがどうしてもうまくいかない。
レディーメイド戦略で対抗した常滑が低コストを武器にやがて市場を席巻してゆく。
窯の煙が一つ減り、二つ減り・・・
やがて窯の煙は全くみられなくなり、かつて活気と職人の誇りにあふれていた海沿いの町は小さな漁業の町へと戻っていった。
渥美の名前も窯の場所も忘れ去られ、たまに日本のあちこちで見つかる壺を見た人々は「このようなすばらしい作品をいったいどこで作ったのだろう?」といぶかしんでおりました。
渥美の窯の200年のお話 おわり
渥美町 郷土資料館
渥美町 皿焼古窯館(渥美町郷土資料館に連絡)
田原町 博物館
赤羽根町 歴史民俗資料館
に行って 学芸員の話を聞いてみよう
書籍http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/2091/index.html irihikoさん
http://www.honokuni.or.jp/irago/index.html 渥美町観光協会
http://www.amitaj.or.jp/~ta-haku/index.html 田原町博物館
http://www.fukue-h.aichi-c.ed.jp/index.htm 福江高等学校
http://www.hum.pref.yamaguchi.jp/index1.htm 山口県立萩美術館・浦上記念館
http://chubu.yomiuri.co.jp/index.html 読売新聞
http://www.city.kawasaki.jp/88/88bunka/home/top/ptop1.htm 川崎市教育委員会
http://www2.nkansai.ne.jp/off/monpaku/index.HTM 日本・モンゴル民族博物館
http://www1.odn.ne.jp/~cev90640/No.12/seikimatu.html 井口喜晴氏
http://www.tcp-ip.or.jp/~hagiitar/index.htm 萩さんのページ
http://www.aichi-c.ed.jp/index.htm 愛知エースネット
http://www.tokai.yusei.go.jp/atsumi/index.html 渥美郵便局
http://www.iwate-np.co.jp/index.html 岩手日報
http://210.254.136.67/scripts/hiraizumi/kanko-rekisi/lib/lib_j1.html 平泉町文化財センター
http://kaseyama.hoops.ne.jp/index.html KASE-NET
http://www.kdcnet.ac.jp/bigaku/Researc/051207touji04.files/frame.html#slide0028.html
http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/rekishi/kenshi/asp/hakken/detail.asp?record=193
博物館「伊良湖No.10」1979年発刊
沢田由治著 日本陶磁大系7 常滑渥美越前珠洲 1989年平凡社
佐々木達夫著 日本史小百科 陶磁 平成3年東京堂出版
皿焼古窯館 パンフレット
渥美郷土資料館
田原市博物館
赤羽根歴史民俗資料館
皿焼古窯館
文化会館考古資料展示室
伊勢市立郷土資料館