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菱垣廻船と樽廻船 2/2

運 用

流通方法

大坂二十四組問屋から商品と代金が廻船問屋に渡され、同時に別に送り状を江戸十組問屋に送ります。
江戸十組問屋は送り状を廻船問屋に示し、商品を受け取ります。



▲送り状
 荷物を送る側が発行した荷物の内容、量、価格などを記した書類

料金

現在調査中
運賃積みだった菱垣廻船や樽廻船の料金がわかる史料が見つかりません。
このように基本的なことなのでどこかでわかると思います。そのうち わかったら記述します。

時間

江戸初期 1700年頃には大坂-江戸間所要日数は早いので10日、おそいので2ヶ月程であったとの記録があります。
平均では27日となります。
時代と共にスピードアップし、江戸中期で大坂-江戸間の航行日数15日間。
江戸末期は普通の航海でも兵庫-江戸間が平均12日なりました。

元禄期には大阪〜江戸間を1隻が年間4往復していたのに対し、天保年間(1830〜1843)には8往復と稼働率も倍増しました。

荷姿

こも包み
稲藁であらく織った「むしろ」
モノを包む梱包材



▲藁が梱包材の中心でした。
 菱垣廻船は混載のため、重いものは下に、軽いものは上にぎっちり詰め込まれました。

海 難

嵐が来ればやることは限られており、あとは神仏に祈るしか方法はありませんでした。

風まかせ、しかも積載量重視 安全軽視の弁才船、当然海難事故は多かった。
いったん嵐が起これば浸水し、船も壊れます。
木造船ですので、沈没こそないものの水舟となり、漂流することになりました。

まずは帆を降ろし、風による影響を小さくします。
横波による転覆を避けるため、船を風波に直角にさせる必要があります。
船首から今で言う「シーアンカー」を出すため、碇綱、または碇を付けた綱を海中に垂らします。
これの抵抗により、船は風に流されながらも波には直角になります。

嵐になれば比較的早い時期に船の安定度を高めるため輸送中の荷物を海に捨ててしまう。
刎荷(はねに)といいます。

更に状態が悪くなると、船の安定度を高めるために帆柱を切り倒してしまいます。
帆柱はもともと倒せる構造になっているのですが、嵐の時は間に合いませんので、斧などで切ってしまいます。
舵も弁才船の欠点で大波で飛んでしまいます。
これまでやってしまうと後は神仏に頼むだけということになります。
唯一の動力である帆とコントローラーの舵を失ってしまうと嵐がおさまっても「漂流」ということになります。
こうして外国まで流れていってしまったという記録もたくさん残されています。

神仏頼み

刎荷を行い、碇を海中に出す「たらし」を行い、それでもだめなら帆柱を倒してしまう。
あとは神仏に祈るだけ。
その神仏への誓いの証(あかし)としてチョンマゲを切り落とします。
切り落としたマゲは無事に帰れば神社へ奉納します。
そのようなマゲが各地の神社に残されています。

損害補償

元禄年間(1688〜1704)には、「保険」に相当する相互保障機能が整備されました。

嵐にあえば、船は多かれ少なかれ損害が出ます。
その損害は荷主全部が公平に負担します。
この精神は現代の海商法にも規定されています。共同海損(きょうどうかいそん、General Average ) という概念です。
荷物を刎荷(はねに)されてしまった荷主も たまたま捨てられなかった荷主も損害は公平に負担します。
積荷の損害を荷主すべてが共同で負担する合理的な方法でした。

損害回復

海に浮いている荷物あるいは沈んだ荷物のうち可能なものは陸に揚げ、そこで競売をします。
その売り上げを積載荷物の量によって荷主に分配しました。

不正

遭難が起これば幕府の管轄事項となります。
遭難の証明書が番所から発行されます。
それでも不正は行われたようです。
荷物をどこかの小さな港で降ろし、嵐にあったものとして刎荷してしまったと訴え出ればそれを信じるしかありませんでした。
こうした不正が多く行われたため菱垣廻船は信用を失い、樽廻船の進出を許すこととなりました。

救助

静岡県伊豆の国市韮山町の江川邸にはこのような内容が記された高札が残されています。
江川太郎左衛門は江戸幕府の世襲代官で有力政治家です。

伊豆半島は下田を中心に樽廻船、菱垣廻船の航路にあり、海難も多かったので住民に高札で このような指示がなされていたのでしょう。
  定
一 公儀の御船はいうに及ばず 諸廻船共、逢難風時は助船を出し 船破損せざる様に成程丈精出すべき事。
一 船破損の時は、其所 近き浦々の者共精を出し、荷物船具等取揚べし。
  其取揚場所の荷物の内、浮荷物は弐拾分一、沈荷物は拾分一、但 川船は浮荷物は三十分一、沈荷物は弐拾分一。   取揚候者に遣わすべき事。
一 沖にて荷物刎る時は、着船の湊におゐて、其所の御代官手代、庄屋、出合遂穿鏨船に相残荷物船具等の分、證文を出すべきこと。
   附り船頭、浦々のものと申合、荷物盗取刎捨たる由、於偽申は後日に聞といふとも、船頭は勿論申合候輩に至る迄、    その罪重かるべき事。
一 湊に長く船を繋置輩あらば、その子細を所の者 相尋日和次第早々可為致出帆、其上にも令難渋ば 何方の船か承届け、近辺は其地頭、御代官、遠方は勘定奉行、又は其辺の奉行所へ急度可申達事。
一 御城米廻り船々具水主等、不足の悪船に積立べからず。
   並日和能節令破損は、船主沖船頭可為曲事、惣て利不尽の義申掛、且又仇を不成様可被仰付事。
一 自然寄船、并荷物於流来は、可揚取之、半年過迄荷主無之においては、揚置候輩可取之、若右の日数過、荷主出来といふとも不可返之、雖然其所の地頭、御代官、可請差図事。
一 博徒惣じて賭勝負弥堅可為停止事

右條々可相守之、若於相背は可被行罪料者也

     正徳元年  奉行

要旨は
・公用船、民間船とわず悪天候時は助けること
・遭難の場合は荷物、船具の回収にあたること。
 回収された荷物は拾得者に以下の比率で拾得者に権利を譲る。
  海船遭難で 浮いた荷物は 1/20
        沈んだ荷物は 1/10
  川船遭難で 浮いた荷物は 1/30
        沈んだ荷物は 1/20
・沖で遭難時に荷物を捨てた場合には最寄の港で残った荷物の検査をうけること
  虚偽申告は罪が重い
・長期の停船は届け出ること
・船頭の悪事に加担しないこと
・漂流船や荷物が漂着した場合は地元行政により半年保管後 拾得者が取得してよい。
 半年後に持ち主が判明しても戻す必要はない。
・賭博は禁止



▲静岡県伊豆の国市韮山町の江川邸にはこの外、一般的な高札が大量に展示されています。

船 員

乗組員

・船頭
沖船頭、乗船頭とも呼ぶ。
沖船頭とは船主に雇われた船頭で、居船頭とは船主が船頭を兼ねる場合です。
経験豊かな船乗りなどが担った運行の責任者。

・楫取(かじとり)
航海長です
表仕(おもてし)、表(おもて)とも呼ばれる。
船首にいて航海の指揮をとる者。

・片表(かたおもて)
副航海長
楫取を補佐するもの。

・親仁(おやじ)
水主長(かこちょう)
水主を指揮して操帆、操舵など、甲板作業全般をとりしきる役割。

・楫子(かじこ)
操舵手
舵を取るもの。

・碇捌(いかりさばき)
碇を操作するもの

・賄(事務長)
船頭を補佐する。
岡廻りとも呼ばれる。
知久(ちく)とも呼ばれ、事務用の机を兼ねた船箪笥が「知久箪笥」と呼ばれる。
積荷の受け渡し、船内諸経費、港の出入関係の出費などを受け持つ。

・若衆(わかしゅう)
水主の若手。
追廻しとも呼ばれる。
操船から船内の雑事まで何でもなりながら一人前に育っていきました。

・炊(かしき)
最下級の乗組員。
水主の見習い。
20歳以下の少年で主に炊事を担当していた。

三役とは 楫取、親仁、賄 の3名を呼ぶ
水主(かこ)とは三役と炊以外の乗組員を呼ぶ。
当時としては高給取りでした。

人 数

千石積みの船でいえば
江戸の初期は12〜15人が乗り組んでいました。
時代とともに効率化、省力化され江戸末期の千石積の乗組員は11人が普通でした。

生 活

菱垣廻船は夏でも冬でも航行しました。
夏はフンドシ一丁。
冬は「さしこ着」。
 古着を重ねて糸でとじ合わせた暖かい丈夫な上着でした。
冬の夜はドテラを着て寝ました。

食事は米の飯でした。
 その当時三食米の飯が食えることは豪華だったので、それにつられて船員になった人も多かったのでしょう。

港での停泊中は三役は陸の船宿に宿泊しました。
しかし、下級のものは港についても船で寝泊りしました。



船乗りは荒くれもの。女がつきものです。
港には遊女が多くいました。
ハシリガネといい、船に出向いて船で宿泊する船員たちを相手に商売を行う女たちもいました。
ハリシガネと呼ばれるときもある。どちらが元になっているのでしょう?

芸者置屋や売春宿などの雰囲気は風待湊の集落の目印にもなっています。
●渡鹿野島
三重県志摩市(旧志摩郡磯部町域)的矢湾にある島。
人口500人程度の小さな島であるが、この島の若い女性の比率は異常に高い。
最近ではタイやフィリピンなど東南アジアの外国人女性になっている。
その筋では知られた風俗の島。
このような田舎でありながら歓楽街がある。ダイレクトなサービス。

的矢湾は安乗があり、樽廻船、菱垣廻船の寄港地。
千石船のソフトウェアーが残されている珍しい例。

江戸十組問屋

元禄7年(1694)に江戸の問屋商人 大阪屋伊兵衛が中心になり結成された問屋の組合です。
設立の時の大坂屋伊兵衛の覚書が残っています。それによると
@当時の菱垣廻船は,難船が多かったこと
A難船と偽って積荷を掠め取る不正も多く行われていたこと
が結成の動機でした。

すなわち、初期のころは 荷主である問屋が運送業者である廻船問屋に対して立場が弱かったのですが、
組合を結成することで、合同して交渉力を高めようとしたものです。

十組問屋とは、
・塗物店組(塗物類)
・釘店組(釘・鉄・鍋物類)
・内店組(絹布・太物・繰綿・小間物・雛人形)
・通町組(小間物・太物・荒物・塗物・打物)
・綿店組(綿)
・表店組(畳表・青筵)
・川岸組(水油・繰綿)
・紙店組(紙・蝋燭)
・薬種店組(薬種類)
・酒店組(酒類)
の十組です。

各組に行司を置き、行司のうち交代で大行司に就任し、難破船や海難荷物の処理、廻船の改めにあたりました。

大坂の問屋組合もこれに呼応し、大阪十組問屋が結成されました。
これにより荷主の方が強くなり、この荷主に雇われた船はグループの意識が強くなり、廻船問屋にかかわらず全ての船に菱垣のトレードマークが付けられました。
これが菱垣廻船です。

二十四組問屋

大阪十組問屋が発展して二十四組問屋になりました。
江戸の十組問屋に対して大坂から品物を送るのが,二十四組問屋でした。
「江戸買次問屋(かいつぎとんや)」(のちの二十四組問屋)が結成したものです。

綿買次問屋
油問屋
鐵釘積問屋
江戸組毛綿仕入積問屋
一番組紙店
表店(畳表)
塗物店
二番組紙店
内店組(木綿類)
明神講(昆布,白粉,線香,布海苔,下駄,鼻緒,傘,絵具類)
通町組(小間物,古手,葛籠,竹皮,日傘,象牙細工類)
瀬戸物店
薬種店
堀留組(青筵類)
乾物組
安永一番組(紙類)
安永二番組(金物,鋼,鐵,木綿,古手,草履表,青筵,火鉢類)
安永三番組(渋,櫓木,砥石類)
安永四番組(打物,釘金,砥石類)
安永五番組(煙草,帆木綿,布海苔類)
安永六番組(指金,肥物,鰹節,干魚,昆布類)
安永七番組(鰹節,傘,柳行李,白粉,砥石,木綿類)
安永八番組(蝋店)
安永九番組(木綿,灰,紙屑,針金,古綿,古手,櫓木類)
安永追加九番組鰹節組・同東組(紙,木綿,綿類)
同紅梅組(足袋,下駄,雪駄類)
同書林組,同榮組(白粉,竹皮,木綿類)
同航榮組(菱垣廻船問屋,書林,小間物,布,畳表,諸方荷次屋,蝋,紙類)

以上の通り,木綿類を扱う問屋が重複しており,需要が多かったことがわかる。
仲間の総人数は347名に及んでいました。

二十四組問屋には取締方,惣行事,大行事,通路人などの役員があり,仲間定法を定めて,全体を管理していた。
その規約には,次のような条項が定められていました。
1.注文を受けた買次荷物は,なるべく安価に買い入れて送付すること。
2.荷物送状には必ず積み込み荷物の元価を記入すること。
3.江戸荷主よりの買次諸荷物の海上請合,船歩銀の減額請求等には一切応ぜざること。
4.菱垣廻船以外には一切積み込まぬこと。
5.荷渡し後の荷物の異変には,その責に任ぜざること。
さらに仲間の新加入に対する条件としては,実子の分家による加入,奉公人の別家による加入,
その他無関係者等に対し各々加入金に等差を設け
全く新規の加入者は仲間全部の同意を得,金百両を加入金として振る舞うことを定めていました。

航 路

出羽、北陸方面の御城米を下関回りで江戸へ運ぶ西廻り航路と、
酒田以北の荷を三陸沖を通って江戸へ運ぶ東廻り航路などが名を残しています。



▲河村瑞賢が整備した城米を運ぶ航路
 江戸を終着点にした東廻り航路と西廻り航路がありました。

航路の整備とは
・廻漕船の選定
・物流拠点の整備
・廻漕船の援助(入港税の免除等)
・寄港地の限定と整備  のことです。



▲大坂より江戸迄 廻船海上絵図
 安永9年(1780)の絵。沿岸沿いに江戸まで行く航路と、熊野から下田経由で直線的に江戸まで行く航路の2つが描かれています。



▲菱垣廻船も樽廻船も大坂から江戸まで一気に航海することが多かったのですが、
 風が悪いときには各地の港で風待ちをしました。

日和山

日和山は全国の港の近くに100箇所以上存在します。
いったん船出をすれば3日〜6日は一気に航行するため、その間の天候を予測しなくてはなりません。
各地には天気に対する経験則があり、地元の人にはよく知られていました。
船頭もそれらの情報を仕入れ、判断の材料にしました。
地元の人が集まり話しやすい雰囲気の銭湯は地元の天気や地形の情報を得る場所でした。
一発 外れれば遭難につながりましたので、その天気予報の精度が船頭の腕を決めました。

方角石

方位石とも呼びます。
方角石は港近くの小高い山の上にすえて、漁師や船頭が天候を判断するときに方向を見定める目安に用いたものです。

日和山の中でも方角石があったものは一部です。
日本全国に方角石がいくつ残されているのかは私はわかりません。
最古のものは 輪島港の享和4年(1804)のものです。

 

▲的矢港 日和山の方角石
 現在は磯部町の郷土資料館に保管され、複製が現地に設置されています。
 的矢には日和山は2つあり、大的矢と小的矢と呼ばれています。
 その2つともに方角石が残されており、側面には「文政5午灘廻船中」と刻まれています。
 文政5年は1822年です。



▲磯部町の郷土博物館にはもう一つの日和山が保管されています。
これは大的矢の日和山(東側)のものでした。
文政5年(1822)に方角石が更新された時に古い方角石が山麓に放棄されたようで
昭和12、3年に発見され保管されているものです。
輪島港のものよりも古い可能性があります。

 

▲鳥羽の方角石(複製)  西宮市立郷土資料館展示
 鳥羽港は遠州灘を乗り切る風待ち港として非常に重要でした。
 海がよく荒れることで知られる熊野灘を乗り切った船頭は鳥羽港で一息入れ、一気に江戸を目指して船出しました。
 鳥羽港周辺には、「樽廻船中」が奉納した方角石が3基知られています。

日和山

●的矢の日和山に登ってみました。
的矢には2つの日和山があり
ここ
ここ です。

いまどき日和山などに登ってみようという人はほとんどいないので
地元の人に聞いても場所がわからない。案内板もなくちょっと苦労してしまいました。
管理も良くはないようで 上ってみても高く木が おおい茂っていて眺望がきかない。
でも 私としては船頭が見たであろう風景がどのようなものだったのかをどうしても確認したい・・・

 

▲小的矢の日和山 南西の方角を望む

上ってみてわかったことは
「出航前にちょっと上って様子を見てみよう」という感じではなく、
集落からかなり距離があり、高さもかなり高い。
昔ならば往復に半日はかかったことだろう。それだけ真剣だったのでしょう。

遠い水平線は見ることができる。
的矢であれば下田がある東の方向と潮岬がある南西の方向ははるかに見渡すことができる。
東の下田へ向かうにしても、数日間の天気を予測するために西の方角も重要だったのでしょう。
台風がやってくる南西の方角、寒冷前線が来る北西の方角は特に注意がむけられたのではないかと思います。
いずれにしても日和山は全方向に眺望がきく場所に設けられました。

 

▲大的矢の日和山 下田の方向である東の方角を望む



▲鳥羽市日和山

灯 台

烽火(のろし)
廻船の夜間航行の安全目印として、島や岬に設けた「かがり火」を燃やすための小屋。
江戸時代前期に河村瑞賢が西回り航路を整備した時に紀伊大島、鳥羽の菅島などに烽火を設置しました。

灯台
船の目標として燈明台、高灯篭、のちの灯台があります。

 

▲住吉の高灯篭(江戸時代の姿の模型)           ▲復元されている現在の高灯篭

 元は大阪市の住吉大社境内の神前浜にあった。
 1950年(昭和25年)ジェーン台風により破壊され、その後、場所が移され復元された。



▲見尾火燈明堂(みおびとうみょうどう) 復元
 静岡県の御前崎の先端に復元されている江戸時代の灯台です。
 寛永12年に徳川幕府が設置した江戸時代の灯台。
 建物は2間四方の大輪建(だいわだて)の木造のお堂で、明治4年頃まで毎夜村人が種油の行灯(あんどん)に火をともし、御前崎沖を航行する船に位置を知らせてきました。

航 法

●地乗り
海岸沿いを走り、いつでも山や地形を見ながら航海する方法。
いざというときにはいつでも退避できる航海術です。

●沖乗り
陸地が見えないような沖を航海します。
航行距離を短縮するために行われました。

●間切り走り
逆風に向かってジグザグに走ること。
しかし風が強く、波が高く、荒れてくると難しくなります。

●はね荷
嵐の時に破損、転覆、沈没の危険にさらされた時には、まず甲板など上の方に積んである荷物を捨てて安定化させます。

●沖掛り
航海中に風がなくなり、風を待つ時、沖合いで碇(いかり)を入れて待つことをいいます。

●潮掛り
潮の干満から来る潮流の変化に対して、なるべく順潮を利用するために碇を入れて待つことをいいます。

●つかし
逆風や横風による波の打ち込みがひどいとき、帆を下げて風浪にさからわない方法のことです。

●たらし
「つかし」の際に風下に流されないように碇綱を何本か海中にたらしてブレーキ効果をもたせるようにしたのが「たらし」です。
もっとひどく流されるときには綱に碇をつけます。

鳥羽から下田までの遠州灘は難所でした。
冬には北西の季節風が吹きつけ強風。
しかも舵を失い漂流すれば岸から離れ太平洋に流されてしまいます。

菱垣廻船と樽廻船は特急直行便。
立ち寄る港は意外と限られています。

大坂湊

大阪の港は河口港です。
現在の港と違い岸壁がありません。
菱垣廻船のような大きな船は安治川を遡り、安治川橋の手前に停泊し、荷物は小船に積み替えて市中へ運ばれました。
または、「沖係り」といって沖に碇をおろして停泊しました。

安治川口と木津川口の2つの入港ルートがありました。
菱垣廻船や樽廻船は安治川
北前船 は木津川 というようにおおよそ縄張りが決められていたようです。
ちなみに、京都と大阪を結ぶ三十石船は八軒屋船着場で天満の対岸に大阪キャッスルホテルのあたりでした。
それぞれの港口には、安全に入港できるよう航路標識の棒杭が並んでいました。
一番沖に立てられている長い棒杭は「鯖の尾(さばのお)」と呼ばれる形になっていました。



▲大阪湊新田再見図
 江戸末期の大坂湊



▲現在の大阪港
 今は沿岸部は埋め立てが行われ大きく広がり、、かつての港町は都心のビジネス街になっていますが堀の形に昔の様子を残しています。

●天保山(てんぽうざん)
日本で最も低い山として有名な天保山は 川による土砂の堆積により浅くなった港を 天保2〜3年(1833)に港を浚渫して その土砂を積み上げた人工の山です。
沖をゆく船からもよく見えたため「目印山(めじるしやま)」とも呼ばれていました。

●木津川千本松(きづがわせんぼんまつ)
木津川は諸国からの廻船や北前船が入港する港でした。
北前船は大阪から北海道へ1年に1回航海し 冬は木津川に停泊していました。
天保3年(1832)に沖に向かって約1.5kmの堤防を築き松の木を植えました。
天橋立、三保の松原と並び称される名所となりました。

●船番所(ふなばんしょ)
船番所は幕府が設けた海の関所で、諸国から大阪に入港する船を調べたり、船の事故があったときに調査をする役所でした。
中津川の四貫島(しかんじま)にあった船番所は河村瑞賢による九条島の開削後安治川沿いに移されました。
大阪には木津川にも船番所がありました。

安乗(あのり)

紀伊半島を回ったところにある的矢湾の安乗湊。



▲的矢湾
 リアス式海岸の代表例 
 湾の入り口は1km ですが奥までは10km ある。
 2重3重の湾になり山が間近までせまり風も少ない。
 これはもう天然の良港という言葉がぴったり。樽廻船、菱垣廻船の中継基地になったこともうなずけます。

安乗は的矢湾の入り口にある港。
すぐ湾外に出られるのでベストポジション。

正確な場所は ここ です。

 

▲安乗湊 現在は埋め立てや漁港の築造により港は全く変わってしまいました。
 昔はベザイ船が直接接岸できる岸壁はなく、浜だったとのこと。

的矢

的矢湾のやや奥にある的矢の集落 今では空き地が目立つ老人の町になってしまっているが
かつてはたいへん栄えた湊だったようで その面影は各所に残っています。

 

▲的矢の集落と現在の港



▲明治時代初期の的矢の港。
 ベザイ船が並ぶ。ここにも接岸できる岸壁はなかったようで やや沖に停泊させ伝馬船で上陸する。
 舵は外して艫(とも)側を岸に向けて停泊している。

鳥羽

熱田、江戸、大坂の三叉路。
大坂を出港した菱垣廻船は鳥羽で2〜3日停泊し江戸をめざして出発しました。
安乗と近いので、どちらかへ寄港したのでしょう。

下田

伊豆半島の南端に位置する下田は天然の良港として、古代、中世を通じて交通・軍事の重要拠点でした。
また、江戸時代末期には函館と共に開港場となり、国際港となりました。

 

▲下田港
 湾の中の小さな河口にある良港。明治以降も継続して繁栄したためさびれた印象はありませんが 道筋が昔の町を残しています。



▲江戸時代の下田港復元模型



▲現代の下田港
 漁船が主な船になっています。

二代将軍 徳川秀忠は元和元年(1615) 大坂-江戸航路の途中にあって、風待ちや避難にもっとも重要な 下田港の警備を今村伝四郎に命じ、翌年にはその父彦兵衛を初代下田奉行として、江戸往来の船を監視させました。
まず、遠見番所が須崎(バンドコロヤシキという地名が残っている)に設けられました。
これが船改番所(御番所)の始まりです。
その後寛永13年(1636)に大浦湾に移されました。
寛永5年の古地図には 間口40間、奥行16間、牢なども配された敷地が記されています。
やがて開かれた東北〜江戸航路の船も必ず下田で検問を受けたため、そのにぎわいは出船入船三千艘といわれ、享保6年(1721) 幕政の安定にともない御番所が浦賀に移されるまで、105年にわたり下田の繁栄を支えました。

下田奉行所跡
下田の奉行所跡は現在下田警察署跡になっており、何も残されていません。

 

浦賀と同じように行政としての奉行所と実務を行う船改番所は離れた場所にありました。



▲御番所(船改番所跡)から見た海
 番所では廻船問屋が検問にあたった。
 問屋は商人ではなく、船を検査して検問料を取り立てる役割を担った。

浦賀

享保6年(1721)、伊豆下田の下田奉行所からここに移され、浦賀奉行所となりました。
江戸に入る船は浦賀港 番所で検査が行われました。



▲浦賀奉行所と船番所



▲浦賀灯明堂(復元) 浦賀湾の入り口に建つ。
 慶安元年(1648年)に建てられ、明治5年に廃止。



▲ここからみる海。このあたりが新綿番船のゴールになったのでしょう。

 

▲浦賀奉行所の復元模型         今では浦賀奉行所の石垣のみが残されています▲



▲浦賀船番所の復元模型 

浦賀文化センターに詳細展示があります。

風待港

駿河湾にも港はあったのですが、菱垣廻船も樽廻船も紀伊半島から伊豆半島まで一気に乗り切るため、 通常はこれらの港に寄ることはありません。風が悪いときの避難港としての役割です。
しかし、これらの港は通常はより小さな船が回って物資を運搬したため、それぞれに発展していました。

須賀利

熊野灘に面した紀伊半島はリアス式海岸。湾がたくさんあり、
暴風になればどこでもどこでも避難できそう。
そのような中でもここ須賀利は4方向と言ってよいくらいを高い山に囲まれて特に避難港としては優れていました。

 

▲須賀利の港

昭和50年代にトンネルができるまで車でも来るのに苦労したとのこと。
連絡船が主要な交通手段でした。
そのような隔離された場所であっても 建物は立派で千石船がもたらした富が莫大だったことを思わせます。



▲この高い山が須賀利の日和山 この山の向こうは熊野灘になります。

方座

紀伊半島にある方座は河村瑞賢が東廻り航路を開発した時に指定した寄港地。
役人を常駐させ船に便宜をはかった。

 

▲方座の港



▲熊野灘の海岸線
 紀伊半島の海岸線はこのようなリアス式海岸が続く どこでも天然の良港。

掛塚湊

掛塚湊は天竜川の河口東岸にあった港。
天竜の山林の木材の集散地として繁栄した。
豪華な山車祭りがかつての繁栄を示している。



▲掛塚港

 

▲掛塚港の停泊場
 停泊場は明治になってから作られた。しかしそこも土砂で埋まってしまい今では陸地になってしまっている。

相良湊



▲相良港 小さな川の河口にあった港



▲仙台河岸と呼ばれる船着場の石垣が残っています
 田沼意次が相良城を築いたときに仙台公(伊達重村)が石垣用材を寄進したことからこの名前がつけられています。

清水港



旧港もおそらくこのあたりなのですが、明治以降も港町として発達したので、昔の名残はほとんど残されていません。

妻良

めら 伊豆半島の西側 駿河湾側にあります。
伊豆半島もリアス式海岸になっており、どこでも避難することができそう。

 

▲妻良の港と旧市街地
 古い港町特有の密集した場所に狭い路地。
 菱垣廻船、樽廻船に関するものはほとんど残されていない。



▲妻良の集落の入り口には 木戸がある。木戸を通って集落のメインストリートに入る。
 冬の間は風が強く 砂や風が集落の中に入らないようにする工夫。

新綿番船

菱垣廻船による大阪-浦賀間のスピード・レースです。

綿は大阪から江戸に運ばれた主要産物でふだんでも菱垣廻船により大量に運ばれていました。
綿は大坂近郊の河内地方が一大産地であり、江戸に送られた繰り綿は、年間2400〜4700t(江戸中期)にも上っっていました。
初物が好まれたため大坂(大阪)周辺で秋 旧暦十月に収穫した初物の「わた」(繰り綿)を一刻も早く江戸に運ぶためレースとなりました。

新綿番船は元禄7年(1694)江戸と大阪に十組(とくみ)問屋仲間が誕生した頃に始まったと考えられています。
何度か中断がありましたが、明治16年(1883)まで約180年間続きました。

帆船レースとしては19世紀に、中国から英国まで快速帆船「ティークリッパー」で新茶を運んだレースが知られますが、それよりも時期的に早く、かつ制度の整備度合いも高かった日本のレースです。

初期(17世紀後半)の頃は大坂〜江戸間(片道)を、地乗(じのり)航法(陸岸に沿って航海する方法)で約1ヶ月もかけて航海していましたが、年々スピードアップし 安政6年(1859年)には、新綿番船が大坂から浦賀(横須賀)入口まで約650kmを50時間、平均速力7ノットの記録を残しています。
通常の廻船では、一週間から一カ月ほどかかったとされますので相当の速さです。
この7ノットというスピードは浪華丸の実験航海で得られた速度とほぼ同じでした。

船は各問屋とも最新鋭の高性能艇を出しました。
出発地は大坂・天保山沖。各問屋の名誉をかけたレースになりました。



▲菱垣新綿番船川口出帆図
 安治川河口から天保山沖を描いた含粋亭(がんすいてい)芳豊(よしとよ)の作品
 出帆を認める切手を受け取るために早船で切手所(右中)へ急ぐシーン。
 菱垣廻船問屋9軒、酒荷物を運ぶ樽廻船問屋8軒などが軒を連ねています。
 上原芳豊は歌川国芳の門人で、嘉永〜慶応(1848〜68)頃に活躍しました。

人気イベントで、非常なにぎわいが見て取れます。

この絵には倉庫群が描かれていますが、これらは樽廻船の問屋のものです。
樽廻船の出発地でもあったのでしょう。

レース艇は新綿番船の時はより早く江戸に向かうため通常より沖合に停泊しているようです。



▲絵の右端にある「切手場」
 上荷船の水主(かこ)たちが安治川の切手場からレース参加手形を受け取ることから始まります。
 黒い着物の人はレース役員が正装の黒い紋付を着ています。
 小型の船は切手を受けて沖で待つ菱垣廻船にいち早く運ぼうと複数の櫓が取り付けられています。



▲樽廻船の問屋
 樽問屋八軒



▲菱垣廻船の問屋
 菱垣問屋九軒



▲酒所 西宮の樽廻船問屋
 西宮六軒出店

ゴールは浦賀でありその入り口の灯明台の鼻に見張り船を置き、これに切手を渡して順位が決定しました。



▲新綿番船での菱垣廻船の様子
 通常よりもたくさんの帆を付けています。舳先に3つの弥帆(やぼ)、主帆の左右にも補助の帆がついているようです。
 これらの帆は互いに影響するため、その操作は非常に難しかったことでしょう。
 最精鋭の乗組員が通常よりも多目に搭乗していました。

新酒番船(しんしゅばんぶね)

樽廻船によるレース。その年新しくできた酒を江戸へ運び込む順位を競ったレースです。

初物好きの江戸庶民は競って新酒を求めました。
今のボジョレヌーボーのお祭りのようなものだったのでしょう。

縁起物として酒に大変な高値がつき、一年の酒の値段が決まる重要な年中行事でした。
店にとっても、船頭にとっても、たいへんな名誉と信用となるため、新酒を積んだ船が大阪湾を出港する期日は酒蔵家の協定で厳重に定められていました。
そうなれば、もうレースの要素はそろっていますし、 初物好きの江戸っ子と 利にさとく、祭り好きとされる大坂人が、盛り上がらないはずがありません。

「新酒番船」の始まり
享保15年(1730)に樽廻船が登場するとすぐに樽廻船によるレースが開始されます。
菱垣廻船による「新綿番船」レースに遅れること約30年ということになります。

時期
初期は10月の秋の頃でした。
早造りの新酒ができる時期です。
酒は翌年6月頃までに売り切ってしまうという慣行が天明期ころまでみられました。
しだいに酒造が寒造りに集中してくると、番船の仕立ても遅くなり、
文化11年(1814)は11月下旬
文政6年(1809)は12月5日
幕末安政6年(1859)になると翌年3月
に新酒番船が出航しているようにレースの時期は変動しています。

出場者
早くに登場した伊丹・池田、「酒どころ灘五郷」(西郷、御影郷、魚崎郷、西宮郷、今津郷) 大坂8軒・西宮6軒の樽廻船問屋それぞれから1艘づつ総数14艘が出場限度。
江戸末期の千石積の乗組員は11人が普通でしたが新酒番船ではより多数が乗り組んだようです。
レース前に伝馬船など小さな船で沖の樽廻船まで運ばれました。

スタート
スタート地点は初期は大坂安治川口と後期は西宮浦の2ヶ所でした。
規定ではスタート時刻は卯の刻(夜明け)でしたが、
時間を申し合わせて同時にスタートをしたこともあったようです。
数艘づつ2回に分けて行われることもありました。

天明5年(1785)から(文化2年(1805)からという記述もある)は西宮浦に全艇が集まり出発するようになりました。
天候によって安治川口からの出帆が不利ということで、大阪側からの申し出があったようです。

船頭は切手渡し場で出発証明書になる「切手」を受け取り、すぐさま伝馬船で沖の本船に乗りつけ、イカリを上げて出帆します。
西宮の浜にはこの出帆を見ようとして見物人が集まり、鉦(かね)や太鼓で大変な騒ぎだったといいます。

ゴール
ゴールの方法は新綿番船とは異なり、廻船が品川沖に到着すると、ただちに伝馬船を下ろして大川端の問屋まで最後の力走をし、ここがゴールとなりました。
浦賀で積荷改めも途中にありました。

記録
レース記録では江戸まで平均6日でした。
寛政2年(1790)には新酒番船が西宮から江戸までわずか58時間で航海、平均速力6.5ノットという記録を樹立しています。
毎年の記録によれば新酒番船の一番になった船の所要時間は、平均で6日でした。

番船の到着順位や値段はただちに飛脚によって上方へ知らされた。

栄誉
レースに勝った船員たちは赤い半纏を着て、「惣一番」の幟をたて町中を練り歩きました。
そして金一封授与、料亭で歓待もされました。
船の到着順位は「かわら版」などの刷り物にされ、賭博の対象にもされました。

番船がすべて揃うと、江戸の酒問屋の行司や関係者がきき酒をし、今年の新酒の出来柄や立値段を決めるという行事がありました。
新酒番船の立値段は祝儀の意味も含み、幾分高値につけられました。
また酒問屋の前では初物を祝って、「振る舞い酒」が行われました。

新酒番船のスタート地点 西宮 今津



▲西宮今津
 今は埋立地で風景が変わってしまったこのあたりの沖が出発地でしょうか。

 写真はhttp://www.nishi.or.jp/~kyodo/sitei/toudai.htm

▲今津灯台

新酒番船のゴール 新川

新酒を満載した廻船の廻りには多くの瀬取船が横づけされ、送り状に従い荷物を仕分け、荷下しをするといった、活気に満ちた光景が展開されたことでしょう。

 

▲酒問屋が並んでいた新川
 明治17年の地図(左)と現代の衛星写真(右)を比べてみました。

新川は隅田川(大川)河口付近の 600m足らずの運河でした。
1660年、河村瑞軒が開削したといわれる運河です。
近年まで水路として残されていたのですが、戦後の残土処理のため1948年(昭和23年)から埋立が開始され、1949年(昭和24年)には完全に消滅してしまいました。
今では町名として残されているだけです。

新川は酒問屋の町です。文政期の『江戸買物独案内』によると下り酒問屋37軒の70%が新川にあったそうです。
今ではビルが並ぶ単なる都心となっているようです。
キリンの本社が中央区新川にあったり(新川の酒問屋がキリンになったというわけではないようですが・・・)、今でもその歴史は残されているようです。

油問屋も集中していました。
万治3年(1660年)、霊巖島に「油仲間寄合所」が設立され、大坂からの下り油の売買所と定められました。
鹿島清兵衛や同利右衛門は江戸屈指の富豪として、幕末に御用金を命じられていました。



▲新酒番船入津繁栄図 慶応2年(1866)
 新酒番船の入津後の風景。

朝霞楼(ちょうかろう)芳幾(よしいく)(1833〜1904)が描く。 歌川国芳(うたがわよしくに)の弟子。



▲川の両岸には酒問屋の蔵が並ぶ。
 その町並みの中を一番になった水主(かこ)たちが誇らしげに練り歩く。

東京みなと館には新酒番船の到着を再現した模型があります。

 

▲新川風景
 新酒番船入津繁栄図を元にして作られているようですが、雰囲気は良くわかります。



▲描かれた新川
 酒問屋が並ぶ様子がわかります。

江戸随一の「酒蔵のまち」として大正12年頃までは繁栄していました。
戦前までは独特の雰囲気がありました。
『樽ころ』と呼ばれた荒くれの酒好きの若い衆が闊歩し、年功序列の徒弟制度があり、花柳界、待合がすぐそばにあって素人の女の人なんかは通れませんでした。
町もぷーんと酒の匂いがして、酒の町という雰囲気がしたもんです。



▲伝馬船
 大型の千石船で到着した酒は隅田川河口で小型のはしけに移され、河岸へと運ばれます。

 

▲新川河岸風景 右側は 明治の小網町河岸の古写真
 新川の酒問屋の河岸もこのような雰囲気だったのでしょう。



▲振舞い酒
 新酒入荷のご祝儀として タダ酒が振舞われました。
 今でも残っている習慣

 

▲入船祝はっぴ(船頭半纏) 西宮市立郷土資料館展示
 惣一番と呼ばれる1位になった船の乗組員だけがこれを着る事ができました。
 一番になった水主は歓待され、ご褒美をたくさんもらえました。

 

▲新酒番船一番の杯 西宮市立郷土資料館展示
 惣一番になると、それを示す木札・紙札・杯などが与えられました。
 だれが作り、与えたものか?これからの勉強項目。



▲新酒番船一番札(複製) 西宮市立郷土資料館展示
 樽廻船問屋「藤田」の名前が見える

 

▲「飛抜 惣一番 藤田勝六」は、樽廻船問屋「藤田」の船頭勝六が一番だったことを示しています。
  「飛抜」とは後発船が先の船を追い越すこと。

 同じ絵柄でこのように 一番 枡屋松三郎 二番 藤田保蔵 三番 西田重蔵 と書かれたものも存在します。   (伊丹市立博物館)
 おそらく数年前か後の年の結果でしょう。
 右側の結果は文久3年(1863年)のレースです。
  一番 枡屋松三郎は御影の船主嘉納作之助の住宝丸。
  二番 藤田保蔵も御影の油屋金兵衛の伊勢丸。
  三番 西田重蔵は魚崎の山路重兵衛の重力丸。

 通常は一番から三番まで到着した日時と廻船問屋名、船頭名が記載されますが、前者のものは惣一番の記録しかありません。
 二番、三番がないことから、悪天候などの異常事態があったのかもしれません。

他にもいくつか資料が残されているようですが、実見していません。

●新酒番船祝芝居 西宮市立中央図書館 蔵
勝敗のために無理をして荒海を乗り越えるこの行事は、芝居の題材になったようです。
幟を自慢そうに掲げている図なのだそうです。

●新酒番船惣一番神札 小寺吉治郎 蔵

酒の流通

江戸の酒販売
元禄7年(1694)、江戸十組問屋が結成されたとき、酒問屋も酒店組として加入しました。
元禄16年の酒問屋は、
 茅場町組48軒、
 瀬戸物町組30軒、
 呉服町組34軒、
 中橋町組14軒 の126軒がありました。
酒問屋と小売り酒屋の仲介をする酒仲買は42軒とあります。

決済方法
関西から酒を仕入れた酒問屋は酒仲買にそれを売り、このとき値段が決められます。
原則として酒が酒問屋にわたった日から50日目に値段は上方の酒造家に報告されます。
売りつけが終わると30日(のち50日)のうちに問屋から内金が支払われます。
江戸の酒問屋は、順次代金を内金として上方の酒造家に送り、最後に総決算が行われます。

小売店
例えばという例で 江戸本郷の高崎屋の例を・・・



▲高崎屋酒店
 東京大学農学部の近くに ごく普通の小さな酒屋があります。

タダモノの酒店ではなく、創業は江戸時代にさかのぼる老舗です。
しかもかつては「大店(おおたな)」で非常に大きな店だったのです。
高崎屋は「現金安売り」の商売のしかたで武家屋敷や町人に人気がありました。
板橋や川口など宿場町にまで売り先を広げ、小網町に支店を出していました。

現在にも続いている店があるというのはたいへんうれしいかぎりです。

高崎屋酒店HPのアドレス。
http://www.hi-ho.ne.jp/ornellaia/



▲高崎屋の看板
 株式会社の名が見えますので、明治以降のものでしょう。



▲江戸の大店(おおたな)高崎屋 天保13年作
 宝暦年間創業と考えられる豪商。酒の販売とともに醤油、味噌なども扱う。
 後には両替商も兼ねました。

この絵は二代牛長の時に天保の改革により華美な住居を縮小する命令があり、
店の繁栄を示す居宅の図を書き残したものです。



▲絵には灘のブランド酒が描かれています。
 左から大鹿屋の「三国山」、小西の「白雪」、紙屋の「菊印」、そして伊丹の鹿島屋清右衛門の「松緑」
 背後には津国屋の「剣菱」の樽を担ぐ人も見られます。

船から出た言葉

●「まとも」 まともな人というように使われるが漢字で書けば「真艫」。完全な追い風のことを言う。

●「出戻り」 離婚した女性の状態をあらわすが 天候や風向きが悪く出港した港に戻ることを言う。

●「御新造」 新婚の婦人を呼ぶが、新しく建造した船をあらわす言葉です。

和洋折衷船(わようせっちゅうせん)

合の子船(あいのこぶね)と呼ばれました。
明治に入って西洋技術が入ってくると 全面的に置き換わることはなく、部分的に優れた点を取り込む形で和船は改良されました。



▲和洋折衷船
 帆柱が2本、縦帆、舵などが西洋技術。ベザイ船のおもかけが残る。


三角帆(ジブ)



▲船首につけられた三角帆
 明治19年より西洋船で使われる三角帆がつけられるようになった。

スパンカー



▲船尾につけられたスパンカー
 明治19年よりベザイ船にもつけられるようになった。





▲荒天時にはベザイ船の欠点のひとつとなった大きな舵は西洋船のような小型の舵に変化した。

船首
航が延長され形も西洋船らしくなった。
また船体には肋材(ろくざい)も使われるようになりました。



▲航の延長

千石船の終焉

明治中頃まで弁財船は造られつづけました。
弱い船体構造が嫌われ西洋形の船に置き換わったという記述を良く見ますが、これも間違いです。
帆は切りあがり性能が良い縦帆に置き換わったものはありますが、明治以降も盛んに弁才船は造られます。
積載量の多さと建造費の安さが最後まで競争力を保っていました。

明治の中以降、弁才船が急速に減少したのはエンジン付きの機帆船に駆逐されたからです。

現在どこにも千石船の実物は残されていません。

明治22年に東海道線 神戸-新橋間が全線開通し、扱荷物量も大幅に減少したことも菱垣、樽廻船の絶滅に大きく影響を与えました。

明治政府は遭難の頻度が高いことを理由に500石以上の和船の建造を禁止しました。
明治20年に日本型船新造禁止の法律が出され、経済性追求の姿勢にストップがかかりました。

和船が海難事故に結びつくとの観点ではすでに、明治7年3年1月の時点で政府が布告した郵船商船規則のなかでうたわれており、そのなかで西洋形の船舶を奨励する方針を打ち出していました。
 まずは、北海道の開拓使は明治8年5月に管内に「北海道ノ義ハ海路危険、殊ニ冬天風浪ノ際従前ノ船製ニテハ難破ノ憂不少候ニ付、五百石積以上即凡七十四噸四分余日本形新製ノ義不相成候…」という布達を出し、500石積(約74トン)以上の日本型船の新造を禁じ、西洋形帆船の新造を奨励しました。
同じ内容の全国布達は明治18年、実施は20年から行われました。

しかし、弁才船はそう簡単には減りませんでした。
明治10年頃には弁才船の建造費用は1,500円程度と推測されることに対して、西洋型帆船は7,000円。なんと4倍強。
まずは古い船を極力長く使うことが行われ、次に「あいこの船」として、一部の構造を西洋型帆船と同じものにすることで、弁才船でも「西洋型帆船」と定義し新造が行われることで長く生き延びました。

しかし、明治30年台初期に汽船が増加し、初めて隻数が弁才船と逆転し、衰退が始まりました。

信仰

菱垣廻船、樽廻船の船主や船頭の信仰を集めたのは、四国の金比羅山と志摩の青峰山。

青峰山

あおのみねさん
志摩半島鳥羽市にある
山頂付近に正福寺 天平年間(729〜748)に聖武天皇の勅願により行基が開山したと伝えられる。



この青峰山正福寺が信仰を集めた理由は
・志摩半島沖を航海する船の目印になった
・山のふもとにこのような岩があり、いかにも「神の住む山」の記号性があった。
 この岩は荒天時には灯明をともし、目印になったという伝説がありました。
・鯨の背にのって現れた観音様と伝わる本尊の言い伝えがあり海由来だった。
と考えられます。



▲青峰山山頂付近にある大きな岩
 海からも見え、それがこの山の目印になっていたのでしょう。
 神がいるとすればここにいる!という迫力をもっている。

 

▲弘化2年(1845)に奉納された高さ7mの石灯篭。
 「永代常夜燈 大阪西宮 樽船問屋中
  天保八丁酉年五月 海上安全」と記されている。



▲灯明岩
 岩の下には小さな祠があり、その周辺にはなぜか石が積み上げられています。

御船神事

静岡県の各地には「御船神事」といって船を神輿のようにあつかう祭りが多く伝わっています。

●相良町(牧之原市)の御船神事

 

▲相良町に残る菱垣廻船模型
 御船神事に使われる



▲御船神事
 行列で船の奉納模型を荒波にゆられるように振り回す。

なぜ旅客を運ばなかったの?

瀬戸内海の諸都市を結ぶ「渡海船」と呼ばれる船がありました。
多くは数十石程度の小型船でしたが、中には400石積級のものもありました。
金毘羅船は有名ですが、「小倉渡海(こくらとかい)」と呼ばれる北九州と大阪を結ぶ大型船もありました。
しかし、太平洋を江戸へ走る廻船には旅客船は聞いたことがありません。

なんらかの幕府の規制があったのか
遭難が多く恐怖の航路だったのか

復元弁才船

現在 ベザイ船は1艘も残されていません。 全て廃却されてしまいました。
実物サイズの精密な復元船は4艘あります。正確にはありました。

●「気仙丸」
岩手県大船渡市赤崎町蛸ノ浦漁港に係留保
350石積み 全長18m、幅5.75メートル 、船の高さ5m。帆柱は17m、木綿製の帆は16反。

今回の震災でも津波に流されつつ奇跡的に残りました。現在修理中ですが、やがて元気な姿を見せて再公開されるでしょう。

●「みちのく丸」
北前型
全長32メートル、全幅8.5メートル、帆柱までの高さ28メートルで、総重量は150トン。
千石積(重量/150トン)
青森市
みちのく北方漁船博物館

●「白山丸」
北前型
新潟県小木町(現佐渡市)
500石積

●「浪華丸」
菱垣廻船
大阪市の「なにわの海の時空館」に展示されていました2013年で博物館が閉館。引き取り手も現れなかったのでまもなく惜しまれつつ破壊されてしまうことでしょう。

菱垣廻船、樽廻船を扱っている博物館

西宮市立郷土資料館

http://www.nishi.or.jp/homepage/kyodo

神戸大学海事博物館

http://www.museum.maritime.kobe-u.ac.jp/index.html

神戸海洋博物館

http://www.kobe-meriken.or.jp/maritime-museum/



▲樽廻船模型

大阪市「なにわの海の時空館」

http://www.jikukan.or.jp/

名古屋海洋博物館

http://www.nagoyaaqua.jp/muse/index.html

静岡県静岡市清水区「フェルケール博物館」
http://www.suzuyo.co.jp/suzuyo/verkehr/

 

▲菱垣廻船1/10模型、樽廻船1/10模型
 樽廻船は安政6年(1859)の図面をもとにした1700石積

このほか 合の子船、御座船などの大型精密模型が多数展示されています。

横浜マリタイムミュージアム

http://www.nippon-maru.or.jp/

東京都「船の科学館」

http://www.funenokagakukan.or.jp/

北前船を扱っている博物館はこちらにリストアップしました。

参考資料
http://www.jsanet.or.jp/seminar/text/seminar_175.html
http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2002/01046/mokuji.htm
http://www1.cts.ne.jp/~fleet7/Museum/Muse026.html
http://www.konishi.co.jp/html/fujiyama/konishibunko/itamitokonishi/txt/siryou3.html
http://www.konishi.co.jp/html/fujiyama/itaminorekishi/Part_12/page7.html
http://homepage3.nifty.com/yoshihito/kaiun.htm
http://r.gnavi.co.jp/a034500/custom1.htm
http://www.nishi.or.jp/~kyodo/zuroku/zuroku12.htm
http://www.manabook.jp/notes-takasakiya-histry.htm
http://www.asahi-net.or.jp/%7Emm2y-inb/Higaki-01.html
http://www.abura-ya.com/rekishi/rekish29.html
http://www.city.kobe.jp/cityoffice/06/014/info/info.html
http://nflibss1.zaidan.info/MediaDEPO/depo_list_page.asp?seikabutsuNo=S200600337
http://www.koti.jp/marco/hanpu.htm
http://sorairo-net.com/rekishi/yokosuka/nishiuraga/001.html
http://www.uminet.jp/know/history/10.html
http://www.city.hakodate.hokkaido.jp/soumu/hensan/hakodateshishi/tsuusetsu_02/shishi_04-07/shishi_04-07-01-05-01.htm
http://posh.pel.oiu.ac.jp/labo/lighter4.htm

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