新城市設楽原歴史資料館

運営母体 新城市
住 所 新城市竹広信玄原552
電話番号0536-22-0673
休館日毎週火曜日(火曜日が休日の場合は次の平日が休館)年末年始(12月29日から1月3日)
開館時間午前9時から午後5時(入場は午後4時30分まで)
入館料300円
備 考
アクセスJR飯田線三河東郷駅
HP http://www.city.shinshiro.aichi.jp/sitara/ (公式HP)

展示の内容

概 略 設楽原(したらがはら)の合戦の戦況の説明。
武田勝頼と織田徳川連合軍、鉄砲が効果的に使われた戦闘。
鉄砲をたくさん撃ったはずなのに発掘される鉄砲の弾丸はほんのわずかなのだそうです。
勝頼軍があえて決戦を挑んだことで負ける。
歴史上あまりにも有名な"長篠・設楽原の戦い"の戦況説明,"火縄銃"の系統的な展示。
鎮魂の祭り「ひおんどり」に関する展示。
幕末の外交官 岩瀬忠震に関する展示
愛知県では
ここでしか
見られない
展示
設楽が原の合戦に関する展示ではここが一番。ただしモノは少ない。
火縄銃に関する展示ではここが愛知県で最も充実しています。
近くに織田、徳川軍の馬防柵が再現されている。
岩瀬忠震に関する展示は当然ここだけです。
ひとこと メインとなりうる設楽原の戦闘の展示がパネル展示が主体で貧弱なのが残念。
備 考


地 図



地図は公式HPより

場所は設楽原の戦場の中。
周辺を歩くことで、本やHPでは伝えられない地形や距離の感覚がわかります。

外 観



非常に立派な建物。いかにも博物館という雰囲気の建物です。

設楽原の戦いの背景

応仁の乱
室町幕府が始まって100年ぐらいたった頃の話です。
室町幕府8代将軍足利義政の将軍職継承問題がきっかけでした。
義政(よしまさ)が死亡し、 弟か後から生まれた幼少の子供が後を継ぐかというよくある権力闘争の話です。

最初、義政には子供がいなかったため、弟の義視(よしみ)を跡継ぎに決めていたのですが、その後日野富子との間に子供が生まれ、ちょっと待った!ということになったのでした。
弟の義視(よしみ)には後視人 細川勝元
長男の義尚(よしひさ)には後視人 山名宗全 が付きました。義尚の母親の日野富子の圧力がはたらいたようです。

日野富子も野心家で、税をきびしくとりたて、幕府の財政を支える いわゆる「やり手」。
しかし、噂の絶えない女性だったようで、本当に義政の子供だったのかどうか疑わしいとの悪女的存在でした。

それに加えて斯波氏と畠山氏の家督争いが加わりました。
斯波氏は斯波義敏と斯波義兼がそれぞれにつき、
畠山氏は畠山政長と畠山義就がつきました。

戦乱が11年続き泥沼化し京都の町は焦土と化し、室町幕府が衰える。 これが応仁の乱です。

戦国時代の始まり
中央で大きな対立が起きると、その配下を中心に地方へ広がりました。
京都の足利将軍家の力が弱まるわ、
各地の守護大名がその戦いにあけくれるうちに、その家臣がクーデターを起こすわ、
大混乱に陥ってしまいました。
実力のある家臣が力を握り、同盟や姻戚関係で結びつき、戦いにあけくれる 戦国時代に突入しました。

応仁の乱後
細川家 と 山名家 の当主は戦乱の中で病死して、応仁の乱は一応収束します。
足利将軍 は結局 「息子」 である義尚(よしひさ)が相続するのですが、この9代義尚も 南近江 で戦乱を起こした 「六角家」 を攻撃中に、甲賀忍軍に破れて そのまま病死してしまいます。
各地の戦国大名はそれはそれで力が拮抗していたために、主導権の行方は定まりませんでした。
将軍という権威と名前はかろうじて残り、各地の戦国大名にこれが利用されました。
10代将軍は義稙
11代将軍は義澄 あまりエピソードはありません。

12代将軍は足利 義晴ですが、「細川家」 の援護を受けていました。
ところが彼の 「弟」 を擁立しようとした 「三好家」 との戦いに敗れ、「近江(滋賀県)」へと撤退します。

息子義輝は11才 で元服(成人)し、義晴 から将軍職を譲られて第13代将軍 となりました。
義輝は足利氏最後に輝く星で、将軍とはいえ、 「塚原 ト伝」 から剣術を学んだ剣豪でした。

足利義輝 は近江の 「京極家」 にご厄介になりながら、「細川家」 や 「六角家」 に協力を依頼し、その軍勢を借りて京都へ戻ります。
しかし、京都を支配していた 「三好家」 と戦いました。
結果は三好家が優勢で、破れた細川家も没落してしまいます。
足利義輝は再び京都から脱出することになります。

その後、三好家は足利家 との講和を提案。
六角家 の取り成しもあって 足利義輝 は 三好家 と和睦しました。
このようにして、彼は再び京都へ戻ります。

彼は京都でも将軍の力を高めるため画策し、織田家 や 上杉家 に幕府の役職を与え、また 上杉家 と 武田家、上杉家 と 北条家、今川家 と 徳川家 などに使者を送り、戦いを止めて和睦するよう勧めています。

三好家の当主 「三好 長慶」 の部下として「松永 久秀」 がいました。
松永久秀 は 三好家 の中に不和を生じさせ、自分と敵対する 三好家 の家臣を滅ぼし、主君である 三好長慶 の息子と弟を 暗殺・毒殺 します。

その三好家の混乱に乗じ勢力を拡大しようとする足利義輝と争いになります。
寺院参拝 と称して京都に向かった 松永久秀 と 三好三人衆 は、密かに兵を進め、足利義輝 のいる 「二条城」 を包囲します。
そして一斉に城を襲撃、足利義輝 を襲います!

29歳の足利義輝は戦死し、足利氏は滅亡し、ここに大混乱の戦国時代が本格的にスタートしました。

三河の戦国時代

宇利城の戦いは新城の戦国時代の幕開けでした。

戦国時代に入ると、新城地方は戦国大名の勢力争いの渦中に巻き込まれました。
宇利城主熊谷備中守実長もそのなかの一人でした。

宇利城

 

▲宇利城本丸
 森林に覆われた山の中

 

▲宇利城縄張り
 連郭式と螺旋式を併用した山城で、文明年間(1469〜87)に熊谷重実により創建されたものです。
 三方を山に囲まれた天然の要害に築城されており、曲輪(くるわ)、土塁、壕、井戸等、山城としての遺構が比較的しっかり残っています。

宇利城の戦い
享禄3年(1530)11月4日、松平清康は三千余りの軍勢を率いて、東三河をめざして岡崎を出発した。
当時 東三河は今川氏の勢力範囲であったが、氏輝の代になるとその力も失われてきました。
清康はこの機に東三河を手に入れようとした。
吉田、田原、牛久保、作手、田峰、野田、西郷、伊奈、設楽などの勢力はそれぞれ松平方になびいたが、宇利城主熊谷実長が従わなかったので、宇利城に向けて進軍をはじめました。
野田城主菅沼定則を案内として、東上(一宮町)で豊川を渡り、八名井の今水寺で休息し宇利へ向かいました。

宇利の郷に入ると民家に火を放ち、兵を正面と背面の二手に分けて城に迫った。
城の大手には松平右京亮親盛(清康の叔父)、松平内膳正信定(清康の弟)が、搦め手には清康の旗本が攻撃にあたり、作手の奥平貞勝が先導しました。
正面から攻めかかった松平右京亮は討死しました。

宇利城は前面が沼田で,裏手三方を山で囲まれた登りの険しい地形であるため、松平軍勢は苦戦をしましたが、松平方に通じた城内の岩瀬庄右衛門が城に火をつけたので、総崩れとなり、城主実長は裏山伝いにいずこともなく落ちのびていったといわれます。



▲永禄3年(1560)の勢力地図
 三河地方は今川義元の勢力下にありました

力の変化

永禄3年(1560)、織田信長が、桶狭間(おけはざま)に今川義元を破ると、中部地方の戦国地図は大きな転機を迎えました。

永禄5年(1562) 松平元康、信長と同盟。翌年家康と改名
永禄8年(1565) 信長、信玄と同盟
永禄11年(1568) 信玄、駿府に侵入。 信長、入京。
元亀元年(1570) 家康、姉川で信長を支援。 本拠を浜松に移す。

京をめざす道

そのころ、武田信玄が上洛に向けて動き出し、東三河をめざしました。
すでに信長は、永禄11年足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて上洛し、家康と共に信玄の西上をはばんでいました。

京をめざす激しい勢力争いの接点で、この地域の豪族たちは、時の流れをさぐりながら、多難の時代をのりきろうとしていました。

風になびく葦

長い間三河の守護代として野田にいた富永氏の勢力が衰えてくると、田峰の菅沼氏、長篠の菅沼氏、作手の奥平氏の山家三方衆が、土地の豪族として勢力を伸ばし、諸大名の動きの中でその生き残りをかけていた。
ひとたび判断を誤ると、一族滅亡の危機は突然に襲ってくる。
身を守る術は、時には人質を差し出すことであり、時には一族兄弟が敵味方に分かれることであった。

次はこの山家三方衆従属関係の変遷です。
天文年間(1540頃) 松平清康死後・・・今川方に
永禄3年(1560) 今川義元死後・・・松平方に
永禄8年(1565) 信玄侵入・・・ 武田方に
元亀4年(1573) 信玄死後・・・ 徳川方に

野田の菅沼定盈(さだみつ)は、武田軍の東三河侵攻後も徳川氏に従っていました。
川路の設楽貞通(さだみち)、西郷の西郷清員(きよかず)とともに、豊川三人衆として武田方に対抗し、元亀2年(1571)新城の竹広表で戦っています。

 

▲戦国時代の奥三河勢力図
 菅沼氏、奥平氏、設楽氏が連合し奥三河を支配していました。

信玄来る

・野田城の菅沼定盈(さだみつ)は三方ヶ原の戦い当時、家康方に属していました。
・翌年、野田城を囲んだ信玄に思いがけない出来事が起こりました。

野田城攻めの信玄
三方ヶ原で家康を破った信玄は、そこで越年し、兵を休めると、翌元亀4年(1573)、宇利峠(新城市・静岡県境)を超えて菅沼定盈の野田城を攻めました。

野田城



▲野田城の縄張



▲野田城跡
 林になっていますが、地形はよく残されています。

野田城包囲
城兵400人は3万人近い武田軍を相手に1ヶ月に及ぶ篭城戦によく耐えました。
「菅沼家譜」によれば武田方は「敵また金掘りを東の桑淵の方に入れ、用水を留む」と、水を絶つ作戦にでた。
家康は支援のため旗頭山(はたがしらやま)あたりまで出陣したが、大軍の囲みをみて、吉田城に退いた。

この城攻めの中で、信玄が鉄砲に撃たれたという言い伝えがあります。(「浜松御在城記」「菅沼家譜」)
宗堅寺(新城市)に伝わる信玄砲のいわれです。



▲信玄砲
 銃身のみで木部はない。銃身長105mm

野田城の戦いのさなか、城内から笛の音が聞こえてきた。
この笛は名人と言われた村松芳休が吹いていたものです。
その音に誘われて出てきた信玄を鳥居三左衛門が撃ったものがこの信玄砲だと伝えられています。
「菅沼家普」によると篭城する前に家康が菅沼定?に贈った鉄砲の一つであると記されている。
玉鋳型と鳥口が一緒に伝えられています。

謙信の書状
1ヶ月あまり持ちこたえた城は、武田側の山家三方衆の仲介を受け入れて、2月10日開城。
捕えられた定盈は人質交換によって死をまぬがれ、翌年、再び野田城主となっています。
この定盈の野田篭城を賞した上杉謙信の書状が菅沼家に残されています。

この戦いの後、信玄は上洛を断念し、甲州へもどる途中 53年の生涯を閉じました。

長篠城の攻防

長篠城の攻防戦については長篠城史跡保存館をごらんください。

・できるなら、何としても避けなければならぬ結末
・生き残るための決断は、あまりにも悲しい代償を奥平一族にもとめました。

奥平の決断
野田城を落とした武田軍が、甲州に去るとともに、家康は奥三河の領土回復をめざして動き出した。
天正元年(1573)7月、菅沼正貞を攻め、長篠城を奪回しました。
そうした動きの中で、家康が作出の奥平貞能(さだよし)、貞昌(さだまさ)父子に与えた誘いの手紙「起請文(きしょうもん)」の写しが「譜牒余録(ふちょうよろく)」の中にある。

一 今度申合候縁邉之儀依九月中ニ祝言可ク候
一 新知行三千貫進置候祕此内半分三州ニ而(略)
   元亀四酉八月二十日 家康

その数日後、奥平父子は一族とともに作出(つくで)の居城を脱出し、武田方を去った。
この苦悩の日の親子の行動は「寛永諸家系図伝」の「奥平貞能伝」等に詳しい。

奥平氏が武田に背いて家康方につくと、人質として甲州に送られていた仙丸(せんまる)ら3人の若者が処刑されました。

貞昌の弟 仙丸14歳、奥平一族の於フウ(おふう)16歳、虎之助16歳という。
「鳳来寺金剛堂前ニ磔。九月二十一日ノ事也」 (長篠日記)



▲天正3年の勢力図
  織田信長、徳川家康、武田勝頼

勝頼の長篠城包囲
・二つの川にはさまれ、平野への出口に築かれた長篠城は、武田軍と徳川軍の争奪の歴史でした。
・遠江の高天神城落城の翌年のことでした。

天正3年(1575)2月、家康は武田を離れた奥平貞昌を長篠城主とし、城の修築にあたらせました。
後戻りのできない立場を承知しての、家康の期待であった。

大軍来る
4月の末、勝頼の率いる1万5千は三河に侵入し、長篠城に迫った。
5月に入ると、主力は家康方の吉田城を攻撃する。
5月8日長篠に戻った武田軍は医王寺山に本陣を置き、城をはさむ滝川(豊川)、大野川(宇連川)に鳴子網を設けるなど幾重にも城を取り巻いた。

城には貞昌と徳川軍の援兵合せて500人がいたが、先に家康から送られた兵糧米300俵を加え、士気は高かった。

「十一日兵ヲ二手ニ分ケ、一手勢城門ヲ押シ開キ突テ出デタリ(略)」 (太平古現禄)

13日までの6日間、日夜猛攻を加えた武田軍は、ついに瓢郭(ふくべくるわ)、弾正郭(だんじょうくるわ)を押さえ、城の食料庫を奪った。
城兵はよく守ったが、死傷者の数は日を追って増した。

一方武田軍の死傷も多く、勝頼は総攻撃を止め、戦法を兵糧攻めに切り替えた。



▲長篠城縄張



▲武田軍の進軍経路

鳥居強右衛門

・篭城中の長篠から、岡崎城へ伝令の役目をかってでたのが、鳥居強右衛門勝商(かつあき)でした。
 現豊川市の市田の生まれで36歳、一児の父でした。

岡崎への使者

城を抜ける使者の役目は大きく、気持ちは重い。
「無事脱出できるか?」
「援軍は来るか?」
強右衛門は5月14日夜、厳重な包囲網をかいくぐって滝川を下り、川路の広瀬で上陸した。
カンボウ峠で「脱出成功」の狼煙(のろし)をあげると、作手を通り、岡崎に急いだ。

15日の午後貞昌の父貞能(さだよし)らに対面し、無事大役を果たすと「信長、来る!」の吉報を、一刻も早く城兵にと、再び帰路を急ぐ。

翌16日、城を目の前にして武田軍に捕えられ、篠場野(しのばの)で磔(はりつけ)となった。

■脱出について、鈴木金七との使者二人の説がある。
■城中に向かって「ニ、三日ノ内後詰(ごづめ)ゾ」と叫んだ強右衛門の忠勇に感じた落合左平次(武田方)は磔姿を図に写し、背旗の図柄にした。
 遺体は有海(あるみ)の新昌寺に葬られ、作手の甘泉寺に位牌があります。
■強右衛門の一子亀千代は後に、庄右衛門といい千二百石にとりたてられている。



▲鳥居強右衛門の岡崎への経路

設楽原の合戦

信長の岐阜発進
・2年前の三方ヶ原も1年前の高天神も信長の救援は間に合いませんでしたが、長篠城の救援は一転してハイペースで進みました。

武田軍が激しい城攻めを行っていた5月13日、信長は長篠城救援のため、岐阜を出発した。
出陣にあたり、細川藤孝、筒井順慶(じゅんけい)など在京の大名に鉄砲と銃手を頼んでいることが、藤孝宛の書状にかかれています。

「鉄砲放(てっぽうはなち)、同玉薬ノ事、申シ付ケラレルノ由尤候」 (細川家文書)

途中、熱田神宮で戦勝を祈願し、14日夕刻には岡崎に到着し、徳川軍と合流している。
3万8千の大軍は、16日牛久保城(現豊川市)、17日野田城と進み、18日設楽原に到着した。

連吾川の選択
・武田軍対策
信長は武田の戦法に対し、鉄砲、柵木を新たな騎馬隊対策として準備した。
足軽に、柵木1本、縄1把を用意させ、鉄砲の数は千丁とも三千丁ともいわれる。

京都から応援兵士にはついて、多聞院日記は
「十七日、テツハウ衆 妻子ニ形見選出、アワレナル事也」と
遠国の戦いにかり出される庶民の悲しみを伝えている。



▲連合軍の進軍経路

・織田軍出動の知らせに、武田軍は、大軍をどう迎え撃つか、大きな選択をせまられました。
 「滝川を渡るか?否か?」

武田軍、滝川を渡る

設楽原に姿を現した織田・徳川連合軍の大軍を前にして、5月19日、武田軍は医王寺の本陣で軍議を開いた。
勝頼は馬場・内藤等老将の慎重論を退け、進撃論をとったといわれる。
この武田軍の動きには、いくつかの疑問がある。
・「信長、動く」の第一報の段階で、なぜ動かなかったのか。19日の軍議では遅すぎる?
・滝川を渡ることは、前に敵軍・背に大河となり、戦略にすぐれる武田軍らしくない?

郷土史家の牧野文斎は、この勝頼の決断について、「設楽史要」の中で次のように述べている。
1.家康、信長の野外の布陣を見て、野戦の絶好の機会と考えた
2.連吾川沿いの柵構築を敵の攻撃戦意喪失と見た。老将も同意見

こうして武田軍は19日から20日にかけて、滝川を渡った。
設楽原の東に布陣を終えた馬場、内藤、山県、土屋の諸将は決戦前夜、本陣近くの清井田(きよいだ)の泉で水杯を交わしたと「落穂集」は言います。
土師茶碗が1個発見されています。

馬防柵の構築と勝算

設楽原に着いた連合軍は、それ以上の進撃をやめ、連吾川の西に陣をしいた。
そして、平地部分の川沿い2km にわたって馬防柵を、二重三重に作り上げました。

連吾川の地形
・川の上流はカンボウ山に続き、下流は深い谷を刻んでいる。
 両軍の対峙した中流域は水田が開け、大軍が走り抜けるのはむずかしい。
・これらの地域情報は、織田軍滝川一益(かずます)に縁続きの地元滝川助義(すけよし:追撃戦で戦死)の進言による可能性が大きい。

馬防柵の構築
川は堀であり、柵は砦である。
信長は、この組み合わせに、「動く城」の働きを期待したように思われます。
内側には、戦闘隊形を保ったままの大部隊が配置可能であり、守りながら攻めるという戦法を自在に活かすことができる。
このために信長は,はるばる岐阜から柵木を持ち運ばせていました。
柵構築は墨俣の一夜城築城の手法です。

決戦前夜の両将の書状
勝頼 「敵失行之術(敵は手段に困っている)」 (桜井家文書)
信長 「○節根切眼前候 (敵の根を切るのは目前」 (細川家文章)

開戦 朝もやの設楽原

・戦いを避けた村人は、「小屋久保」や「長楽」に逃れ、決戦前の設楽原に沈黙の時が流れました。

両軍の対峙
5月21日(太陽暦7月9日)早朝、連吾川をはさんで、両軍は戦いのきっかけを待っていました。

・武田軍は、信玄台地の北から、馬場、内藤、山県勢が布陣し、勝頼は本陣を溝井田から「才ノ神(さいのかみ)」に移した
・連合軍は、弾正山(だんじょうやま)台地の南に徳川軍が布陣、中央隊、左翼隊は、鉄砲隊を前面に織田軍が二重三重に陣をしきました。

鳶ヶ巣(とびがす)の奇襲

朝もやを破って銃声が轟き、かん声があがったのは、鳶ヶ巣砦でした。
徳川軍の酒井忠次隊が、松山峠を越え武田軍の砦に奇襲攻撃をかけたのです。
突然の攻撃に、守備隊の多くが討死にし、燃え上がる砦の火煙は、設楽原戦線に大きな影響を与えたと思われる。
川路の設楽貞通はこの奇襲別働隊として参加した。

設楽原開戦は卯の刻(午前6時)という。
設楽原決戦の行われた5月21日は,今の暦でいうと7月9日に当たります。
ちょうど梅雨が開けた頃で、地面はぬかるんでいました。



▲徳川軍は山を大きく迂回して背後から武田の砦へおそいかかりました



▲長篠城から見た鳶ヶ巣砦跡
 左の最も高いあたりに武田軍の砦がありました。

動く城の火縄銃
・柵を挟んで、襲う騎馬と守る火縄銃の戦い、設楽原決戦は、不思議な戦いでした。
 戦場の最前線が、始めから定められていました。



▲設楽原の連合軍配置図

織田・徳川連合軍の兵力は3万8千、鉄砲3千丁。 対する武田軍の兵力は1万5千人。
武田軍は全面対決の準備もなく、圧倒的に不利な状況でした。

この決戦における最初の激突は、馬防柵ラインの最南端で起こりました。
鳶ヶ巣のかん声が聞こえる午前6時、徳川の大久保隊は、足軽鉄砲隊が柵の外に出て、武田方の山県隊前面に鉄砲を撃ちかけた。
山県昌景(やまがたまさかげ)の率いる赤備えの一番騎馬が押し太鼓とともに一斉に柵を襲う。

柵と鉄砲
騎馬隊が馬防柵に近づくと足軽隊は柵内に逃げ込み、入れ替わりに柵内から騎馬隊に鉄砲を撃つ。
最初の撃ち手が弾込めに下がると、二番手の撃ち手が弾込めに下がると、二番目の撃ち手がすかさず第二の銃弾を浴びせる。
そして三番手が出てくる。
騎馬隊が後退すると、足軽隊が再び柵外に出て攻撃を仕掛ける。
近づくと下がって銃弾を浴びせる・・・

・騎馬を防ぐ簡易な砦としての馬防柵は、同時に鉄砲の支持台となる。
 二段三段の構えと合わさって、鉄砲の威力は倍加される。

・繰り返される攻撃の中で、鉄砲に支えられた馬防柵は見かけ以上に堅固であり、次第に武田軍側に大きな犠牲をもたらす消耗戦になっていった。

激戦、三重の柵攻防

・柵を前にした武田軍の作戦は?
・馬防柵をめぐる攻防は、激しさを増すほどに、柵の効果もまた増していきました。

武田軍の作戦
全戦線にわたって立ちはだかる馬防柵ラインを前にして、武田軍は、
「右翼と左翼から柵の背後にまわりこんで敵陣をゆさぶる。
中央の主力部隊が一点に集中攻撃をかけ、錐もみ状態となって突破口を開き、一挙に家康本陣を突く」 という作戦に出た。

右翼の攻撃では、騎馬隊が要衝の丸山を抑え、真田隊、土屋隊が馬防柵第一柵を突破した。
一方、左翼の山県隊は大久保隊の奮戦により柵の背後を突くことができず、次第に弾正山前へと戦線を移していった。

攻撃を繰り返しても、武田軍は柵の前に屍の山を築くばかりでした。

やがて、三重の柵を乗り越えて敵陣に突入した一部甲州武者がいました。
弾正山前の攻防では、山県隊の猛攻に続いて内藤隊が柵に迫り、第一、第二の柵を破った。
20人程が第三の柵を乗り越えて家康本陣へ突進したという。

これはむしろ連合軍側で感動をもって伝えられていました。
忠勝公恩武功其外聞書
「内藤修理(昌豊)千五百ノ人数ニテ三重メノ柵ヲ乗リ越シ、スデニ二十人余押シ込ミ来タリ候トコロヲ(本多)忠勝様・・・」

このほかにも武田軍は勇壮な話をたくさん残しました。

中央部の八剣山付近で
柵上に登り大音声をあげてところを鉄砲隊の射撃を受けて華々しく散った「土屋昌次」31歳。
敵の弾丸をものともせず弟一柵を倒し、弟二柵に突破口をあけた、土屋昌次は最後の弟三柵にたどりついた所でした。
信玄西の高台に石碑があり「土屋昌次柵にとりつき大音声」と解説されています。

さらに北方の丸山陣地では,佐久間信盛の固い守りを突き崩し,取りつ取られつの死闘を繰り返した馬場美濃守と真田信綱・昌輝兄弟。
南の勝楽寺前においては,大久保忠世・忠佐兄弟の軍に攻撃を仕かけてゆく山県昌景率いる赤具足隊の,駆け引きを心得た勇戦ぶり。

柵を破り織田軍中へ突入して討死した米倉丹後,恵光寺快川。

しかし、突破口を開くには至らず、激戦の中で武田軍は次々と倒れていった。



▲設楽原より発見された鉄砲の弾
 壮絶な火縄銃の戦いだったわりには発見された鉄砲の弾はごく少量です。

甲州に連なる山並みを、はるかにのぞみながら倒れた無念さを地元の「古戦場かるた」は次のように伝えています。

・山県の最後胴切りの松に秘め (碑・・・火おんどり坂)
 山県三郎兵衛昌景の戦死地。  場所は武田軍の左翼にあたります。
 長篠合戦余話によると、山県昌景は体中に弾丸を浴びて、両腕の自由を失ったので采配を口にくわえて指揮していました。  そして、最後に敵の弾丸に馬を撃たれ落馬してしまった。
 配下の志村又右衛門が胴切山の中腹に昌景を運んだが既に亡くなっていたという。
 敵が迫ってきていたので家臣は山県の首を落として落ち延びたので敵に首は渡すことはなかった。
 村人は残された胴を葬り、塚にして松を植えた。
 「胴切りの松」と呼ばれたが、今は残されていない。

・三子山に真田兄弟の墓並ぶ (碑・・・宮脇北)

 古戦場から少し北に離れた三子山裾
 武田軍の右翼にあたります。
 兄の真田源太左衛門尉信綱と、弟である真田兵部丞昌輝はこの設楽原の地で討死しました。

敗戦

無念の引揚貝
・常勝軍にも、遂に、引き揚げのホラ貝を鳴らす時がきました。

「勝頼甲州流ノ引揚貝ヲ鳴ラサシム、其貝音陰ニ響イテ古老涙ヲ流セリ、敵ハ策アルヲ疑ヒ躊躇シテ進マズ」と。(設楽史要)

常勝を誇りとしてきた武田軍が、今、壊滅的な打撃の中で引揚貝の音を聞く。
勝頼は才ノ神の戦地本陣から、宮脇に出て、カンボウの山伝いに甲州をめざして落ちていく。




▲退路

この戦いでの武田軍の戦死者は一万余人、連合軍の死傷者も六千人を下らなかったという。
この合戦は、信長の鉄砲を用いた新戦術の前に、無謀な突撃を繰り返す勝頼率いる騎馬軍団のイメージが強いようですが、実際の戦闘は、両軍が入り乱れてのし烈なものでした。

追撃戦
・武田軍本陣から、勝頼の旗指物(はたさしもの)が北へ動き出すと、激しい追撃が始まりました。
・辛うじて戦場を離脱していく勝頼の退路は厳しいものでした。

甲田から甲州へ
勝頼は数百人の旗本に守られて、一旦高遠城に後退。
上杉と一旦和睦し、上杉の押さえ部隊1万を率いる高坂昌信と合流後。甲斐に退却した。

資料館の北東300mほどのところに、勝頼の戦地本陣才ノ神があります。
信玄台地の一番くびれた部分であり、その北側は宮脇原です。

甲田の地名
甲田は宮脇の小字名です。このあたりから昔の甲が出てきたとも、武田家伝来の「諏訪法性(すわほうしょう)の甲」が落ちていた場所だともいう。
信州に向かう街道にかけられた甲田橋の名が、武田の悲運を伝えています。

名将最後の地
甲田橋を過ぎ、浅谷(あさや)から出沢に出ると、川沿いの小高い場所に、馬場美濃守信房の碑があります。
遠ざかる勝頼主従を見とどけた名将信房が、殿(しんがり)のつとめを果たし、62歳の最後をとげた地です。

滝川を渡った勝頼は共に戦った菅沼定忠に導かれ定忠の居城の田峰城に戻ろうとしました。
ところが田峰城は叔父定直、家老今泉道善が謀反を起し、占領されていました。
城には入れず、そこで、勝頼は武節(ぶせつ:愛知県稲武町)に向かった。

田峰城に興味を持たれた方はこちらをごらんください。

その後、高坂弾正の迎えを受け、3日後の24日甲府に帰ったという
時に勝頼30歳。



▲勝頼の退路

勝者

信長の時代へ
・たった一度の救援、たった一度のチャンスを周到な準備で手元に引き寄せた勝者。
 歴史の歯車は、新しい時代の到来を告げました。

歴史の歯車がまわる
追撃戦に入った連合軍は、鳳来寺から与良(よら)峠、田口方面に進撃しようとしたが、信長、家康は深追いを許さなかった。
戦いは終わった。
設楽原に横たわるおびたたしい屍は、一ヶ所に集められて塚が築かれ「信玄塚」と呼ばれた。
「武田の時代」の終わりを宣言するものとなりました。

勝楽寺(しょうらくじ)のいわれ
この時、川路の松楽寺へ立ち寄った信長は、戦勝の記念に寺号を勝楽寺に改めたといいます。

コロミツ坂の貞昌
東に長篠城を 西に主戦場の信玄台地をのぞむ有海原(あるみがはら)台地の一角に「コロミツ坂」があります。
長篠城主奥平貞昌は、ここで、信長、家康から篭城の功労がねぎらわれ、名を信昌と改めた。

東栄町と豊根村の境界に望月峠に「望月様」と呼ばれている祠があります。
 1575(天正3)年,長篠の戦いで織田・徳川連合軍に敗れた竹だの落武者が,御園峠に近い民家に泊めてもらった。老婆がいり豆を出したところ,小柄で,一粒ひとつぶ皮をむいて食べた。
老婆は,豆の皮をむいて食べるからには,定めし身分の高い人で,よいものをたくさん持っているだろうと思い,近在の人々を誘って,その落人を殺そうとした。
人々に追いつめられた落人は「自分は武田勝頼の臣,望月右近太夫である。
下郎の手にかかって死ぬのは残念だが,せめて自分の生まれ故郷,信州の風が吹く場所に埋めてくれ」と言い残して切腹した。
土地の者は,金品を奪い,その遺言は聞き入れず,溝に埋めて放っておいた。
その後,この土地で大変赤痢が流行った。
これは,望月右近太夫の祟りであろうと思い,遺言通り,信州の風が吹く御園峠に改葬して,石碑を建てて供養した。それから御園峠を望月峠と呼ぶようになったという。
現在でも,峠から北東へ50mほど行ったところに,地元の人が望月様と呼んでいる「望月右近太夫義勝の祠」があります。
http://www3.ocn.ne.jp/~hkty/h/tatakai8.htmlより

新城
翌天正4年、家康の長女亀姫を迎えた奥平信昌は、新しい城を滝川(豊川)の下流桜淵(さくらぶち)の西に築きました。
「しんしろ(新城)」の始まりです。 信昌22歳でした。

この戦いのターニングポイントとして、歴史の流れは「信長の時代」へと回り始めた。



▲新城城の縄張り



▲大手門
 城跡に建つ小学校の校門として使われています

設楽原の合戦の謎

勝者の記録が残りやすい戦争の歴史では、真実は必ずしも伝わりません。
武田軍の敗北自体はその後の歴史が証明しているので、動かしがたい事実です。
戦争には必ずこのような疑問や説があるのですが、真実を知りたいという好奇心と探究心は博物館を見る心に共通しますので、紹介しておきます。

武田軍の死者 1万人の不思議
 約半数が死亡しているということは負傷者はもっと多いはずで、武田軍は完全に壊滅したことになる。
 しかし、この戦いの数ヶ月後には、勝頼は兵を動かしている。
 死者の数はかなり誇張されているのではないか? という疑問。

武田軍の多くはどこで死んだの
 家康・織田軍は前に出ず、武田軍の攻撃を馬防柵と鉄砲で防いだというのなら、武田軍の多くは馬防柵の手前で死亡したはずである。
 しかし、柵付近で討ち死にした武将は山県昌景・土屋昌次ぐらいしか見受けられず、ほとんどの武将が柵より500mから1000m以上離れた位置にて討ち取られている。
 敗走時に討ち取られたのなら、実際の戦闘で死亡した武田軍の数は更に少なくなる。

鉄砲3000丁の不思議
 甫庵信長記(ほあんのぶながき)と池田本信長公記が根拠になっているが、より信頼性が高い信長公記には、明らかに「三」の字が、脇に書き足されたようになっているといわれます。
 後世に書き足されたものか、話を誇張するために脚色された可能性があるとのこと。

武田騎馬軍団は実在したのか
 武将の保有する騎馬数を計算すると武田軍の保有する馬は1300疋程度にしかならない。
 戦力の9割が歩兵なので、他の勢力との大きな差はない。
 名を馳せた「武田の騎馬隊」の実態はどうだったのだろうか?

三段撃ちは行われたのか
 三段で順々に撃っても、一度に撃っても単位時間あたりに発射できる弾の数は同じである。
 だから三段撃ちは意味がないという説もあるが、三段に組むと、銃口を集中して配置することができ、兵力を集中するという兵法の基本が達成できる。
 しかし、徳川方は待ち受ける側。武田は兵力を一点集中させて前線突破を狙うはずなので、そこに鉄砲を集中させることは時間的にできたのだろうか。
 また、武田方は陽動作戦で徳川方の兵力が手薄になった部分を狙えたのではという疑問。

火おんどり



▲火おんどりの再現

主戦場の一つ 竹広村の人々は、カンボウ山続きの小屋久保(新城市出沢)で戦いを避けていました。

5月22日(1575)、帰宅した里人たちは、村のあちこちに残されたおびただしい戦没者の屍処理にあたったが、勝利した連合軍も、その埋葬にあたったのであろう。
戦死した主な武将はそれぞれの地に、一般将兵については台地の上に埋葬して大塚・小塚の二つの塚を築き、ねんごろに弔った。
この塚は信玄塚とも、千人塚とも呼ばれ、やがて信玄塚はここの地名となりました。

塚の上に植えられた松の木は、大木となってその後の歴史を見つめてきたが、昭和39年大松が枯れると、後に続くように昭和56年小松も枯れてしまいました。

毎年お盆の日の夜、信玄塚では、戦いで亡くなった将兵の霊を慰める火祭りが行われます。
400年間欠かさずに続けられています。

築かれたばかりの二つの塚のあたりあkら、蜂が大発生をして、村人や近くを通る人馬に大きな被害をあたえた。
村人は、蜂の大群を戦没者の亡霊と考え、その霊を慰めるために、川路勝楽寺の玄賀(げんが)和尚に頼んで 大施餓鬼を行い、松明を灯して供養につとめた。
蜂はまもなくおさまったが、以来、竹広の人々は毎年この時期になると松明を灯して供養するようになりました。
これが現在8月15日に行われている「火おんどり」の始まりです。

昔の庄屋の家で、種火から3本のタイに火を移し、火おんどり坂を登り、数十本のタイに火を点じ信玄塚に向かう。
信玄塚では、大塚、小塚の周りを3回まわると、一斉に火のついたタイを袈裟十字に振りかざし、
  ヤーレモッセ モッセモセ
  チャンチャコマーツ トーボイテ
  ヤーレモッセ ナンマイダー
を唱えながら舞い踊る。
この地に倒れた天正の武人の心を慰めるために。

どうして武田武将の死んだ場所を特定できるのか

戦いの直後の信玄塚を始め、慶長期から武田軍将士の塚や石碑が設楽原周辺各地に建てられていました。

慶長12年(1607)に書かれた設楽原古戦場の記録があるのです。
金子藷山(かねこしょざん)が戦後32年後に設楽原の戦跡めぐりをして、「戦場考」を記しました。
村人に直接聞いたことが推測されます。
これには26の塚の記録が掲載されており、戦いの事には触れず、誰の墓がどこにどのようにあるのかだけを簡明に記し、事実を伝える記録です。

金子藷山は愛知県渥美郡高師村(現豊橋市)の人です。
天正6年(1578)〜承応2年(1653)76歳で没した。
「戦場考」は残念ながら残っているのはごく一部です。

それら史料を元に大正3年「古戦場顕彰会」の名で43の案内石標と11の墓碑が建てられました。
その後昭和、平成に入ってからも「戦場考」を元に石碑は建てられています。

江戸時代、太田白雪(おおたはくせつ)の「続柳陰(ぞくやなぎかげ)」(1726) 渡辺政香(わたなべせいか)の「参河志」(1836)
夏目可敬(なつめかけい)の「三河名所図絵」(1862)
等が古戦場のその後を書いています。
明治から大正にかけての牧野文斎(まきのぶんさい)の文献収集は、牧野文庫から古戦場顕彰会へと発展し、今「設楽原をまもる会」が受け継いでいます。

火縄銃

この博物館には火縄銃の一大コレクションがあるのですが、こちらに別記しました。

岩瀬忠震



▲岩瀬忠震肖像

激動の幕末。幕府方の外交を担当した。今でいう「外交官」です。
幕府の役人として、日本側の全権として諸外国と交渉にあたり 日米修好通商条約を締結しました。
攘夷派から反発され、朝廷からも承認を得られず、安政の大獄をきっかけに左遷される。失意のうちに若くして病死した人物です。
島崎藤村の「夜明け前」にも登場します。

愿・愿三郎・篤三郎・恵三郎・忠三郎・修理とも名乗る。
字は善鳴・百里、号は蟾州・鴎所である。
従五位下伊賀守・後に肥後守に任ぜられる。

年譜

文政元(1818)年11月21日 設楽(新城市)六ヶ村の領主設楽市左衛門貞丈の三男としてに出生。

天保11年(1840) 5月23日  22歳で旗本岩瀬忠正の養嗣子となった。
                その長女と結婚。江戸で暮らしました。
                結婚後、「蒲桃図説」(ほとうずせつ)を著しています。

天保14年(1843) 3月20日 昌平黌大試乙科合格 (昌平坂学問所)
          10月16日 甲府の徽典館学頭を命じられる

嘉永2年(1849)      西の丸小姓組番士となり300俵を受け、修理と称す。

嘉永4年(1851) 4月13日 昌平黌教授となる

嘉永6年(1853) 6月 3日 アメリカのペリー提督、黒船四隻を率いて浦賀に来航

嘉永7年(1854) 1月22日 老中の阿部正弘にその才能を見出されて目付に抜擢され、海防掛となる

安政2年(1855) 2月13日 日露和親条約修正交渉のため、下田に出張
          2月24日 全権としてロシア公使プチャーチンと応接

安政3年(1856) 8月25日 総領事・タウンゼント・ハリスと会談のため、下田に出張
          9月 2日 オランダ館長ファビュースと会談

安政4年(1857) 4月15日 長崎出張を命じられる
          8月29日 日蘭和親条約追加条約調印
          9月 7日 日露和親条約追加条約調印
          11月 4日 長崎からの帰途、三州吉田湊に上陸する
          11月 6日 遠州日坂で老中に宛て、横浜開港の意見書を送る
          11月 肥後守となる
          12月12日 ハリスと日米修好通商条約の審議にはいる

安政5年(1858) 1月12日 日米修好通商条約審議終了
          井上清直と共に署名。これは、徳川幕府219年の鎖国に終止符をうつものであった。

         1月21日 条約の勅許を得るため老中掘田正睦と京都へ出張
          しかし、3月25日 条約の勅許成らず、京都を発つ
          4月23日 井伊大老就任に関して老中に抗議
          6月19日 日米修好通商条約に調印
          7月 8日 外国奉行となる
          7月10日 日蘭修好通商条約に調印
          7月11日 日露修好通商条約に調印
          7月18日 日英修好通商条約に調印
          9月 3日 日仏修好通商条約に調印
          9月 5日 安政の大獄で作事奉行に左遷
           13代将軍徳川家茂の将軍後継者争いで一橋慶喜(徳川慶喜)を支持する一橋派に属していたため井伊直弼により排斥された。

安政6年(1859) 6月 2日 神奈川(横浜)か開港された
          8月27日 永蟄居の処罰を受け、江戸向島の岐雲園へ
               「世にすみし姿をかへて荒川の蘆穂の蓑に身をや隠さん」忠震詠
               書画の生活に専念した。

文久元年(1861) 6月13日 嗣子忠斌病没(16)
          7月11日 江戸向島の岐雲園で病死 44歳という若さでなくなった
         法名爽恢院殿鴎所忠震善鳴大居士
         小石川蓮華寺に葬られ、後に雑司ヶ谷墓地に改葬される。

エピソード

左遷
日仏通商条約の調印を終えた2日後の安政5年大老井伊直弼によって作事奉行に左遷された。
外交の第一線からの追放であり、安政の大獄の始まりでした。
ことの起こりは、13代将軍の跡継ぎ問題と条約調印問題にかかわる幕末政局の紛争でした。
翌年には更に作事奉行も免職、「永蟄居」の処罰を受けた。

向島の岐雲園
所在地:墨田区墨田1丁目4番
岐雲園は、広さ薬500坪、河水を引いた汐入りの池のある別荘風の構えで、岩瀬忠震が自分の所有する両巻の筆者、明の魯岐雲にちなんで名づけました。
井伊直弼と意見を異にして職を免ぜられました。
部屋住みの身の忠震は長男・三男を早く亡くし、今また職も禄も未来の全てを失おうとしていた。
住み慣れた築地を離れ、病身の身体を江戸向島の岐雲園に移した。
この頃、親友で軍艦奉行の木村喜毅に、養父から次男への家督相続を頼んでいる。
ここには家を思う父の心が、手紙の行間にこめられている。
彼はここ岐雲園で隠遁生活を送り、再び世に出ることもなく、風雅な生活を楽しみました。
その後この場所は三共製薬の工場になり、現在ではマンションになっています。

彼の思想
ロシア、アメリカ等との条約交渉の全権をつとめ、以後次第に国際的な理解を深め、開国論へと傾斜していった。

勅許
井上・岩瀬の二人は、日米修好通商条約の調印を迫るハリスの姿勢を幕閣に説明して結論を求めたが、井伊直弼はあくまでも勅許を得ることに固執する。
事態の急展開を求めた二人は、大老に万一の場合の決断を迫った。
「調印はできる限り延期せよ。」「相手が承知しませぬ場合は?」「止むをえぬ。 万止むをえぬ場合は調印も仕方がない」の一言を幕府の最終的意思と解釈して、神奈川沖に停泊しているポーハッタン号に赴き、6月19日、ハリスとの間で日米修好通商条約の調印を果たした。
しかし、天皇による条約の勅許が許されず、幕府の独走が問題となった。

設楽家のその後

明治の御一新で、設楽家は竹広陣屋を離れ、弾正貞晋(さだてる:忠震の弟)は静岡県気賀(きが)町に住みました。

岩瀬家は忠升が家を継いだが子がなく断絶しました。

設楽氏
設楽氏の歴史は古く、房総設楽・武州設楽など各地に広がっているが、中世の氏系譜は謎が多い。
その先祖は、菅原氏とも、伴氏ともいわれ、発祥の地は中設楽(愛知県・東栄町)とも、設楽村(新城市富沢)のあったこの地域ともいわれる。
戦国時代、設楽氏は豊川三人衆の一人としてしばしば武田方と争った。
天正の設楽原の決戦は、その領内が戦場となり、設楽貞通(さだみち)は鳶ヶ巣攻撃隊に参加しています。

戦後、所領を奥平氏にあけ渡して、遠州にうつり、家康の関東移封に伴い武蔵国埼玉郡に移住した。

竹広設楽氏
慶長5年(1600)貞通の次男 貞信(さだのぶ)は分家して設楽原に戻り、竹広に陣屋を設けた。
この竹広設楽氏は代々旗本として幕府官僚を勤めた。
江戸住まいであったが、領内の河川の改修・用水の建設など、代官の滝川氏を用いて善政を行ったといわれます。
忠震の父設楽貞丈は、この竹広設楽氏の8代目です。



▲忠震の筆
 豊田市稲武町の古橋懐古館には忠震の書が展示されています。

墓所
東京都墨田区向島の白鬚神社の境内に明治16年に建てられた墓碑があります。
建立は 白野夏雲、撰文は永井尚志でともに幕末を生きた忠震の友人です。

新城市富沢勝楽寺には顕彰碑があります。

横浜港に近い本覚寺の山門前に「横浜開港の主唱者、岩瀬肥後守忠震顕彰碑」があります。

昭和60年、忠震ゆかりの人々によって「岩瀬肥後守忠震顕彰会」が発足しました。
以後忠震会の名で顕彰、研究活動が行われています。

参考資料
http://contest2005.thinkquest.jp/tqj2005/80132/senngoku.html
http://kamurai.itspy.com/nobunaga/shogun.htm
http://www.shinshiro.or.jp/battle/battle-n.htm
http://www.city.shinshiro.lg.jp/history/iwase_chr.html
http://www3.ocn.ne.jp/~hkty/h/tatakai1.html
http://www5f.biglobe.ne.jp/~shingen/yukari/nagasinositara/nagasinosen/nagasinosen.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E7%AF%A0%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
http://www.zephyr.dti.ne.jp/~bushi/index.html
http://www5f.biglobe.ne.jp/~shingen/yukari/nagasinositara/rengogawa/rengogawa.html
http://liffey2.ld.infoseek.co.jp/rekishi/iwase/

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