奥三河郷土館 1

運営母体 設楽町
住 所 設楽町田口アラコ14
電話番号05366-2-1440
休館日火曜,祝日の翌日
開館時間午前9時から午後4時まで
入館料大人200円  子供(小中学生)100円
備 考昭和52年3月開館
アクセス田口市街地の南方丘の上
HP 設楽町観光協会HP

展示の内容

概 略 生物、考古発掘品、農具、林業用具、民具、非常に幅広い展示。
800平米の面積に常時11,000点近い考古、自然、生活用具が展示されている。
愛知県では
ここでしか
見られない
展示
量がものすごく、いろいろ珍しいものがあります。探すのは大変。
木地師の深い解説付きの展示はここが一番。
土人形の展示も愛知県で最も充実している。
農家の囲炉裏の座の名称まで解説した展示はここだけ。
祭りの展示や、祈りに関する展示も充実。
山の古い生活を知るにはここが一番でしょう。
ひとこと展示物が多いのが地方の普通の郷土館の特徴だが ここまで展示物が多いのはすごい。かえって差別化ができている。
この博物館は展示物が多いだけでなく、解説も十分に行われている。
地域に根ざしたテーマと深い研究、解説。
おそらくものすごくがんばっている学芸員がおられる結果だと思いますが、伝えたいという心は圧倒的です。
イメージを伝えるための模型も豊富です。(質はちょっと手作り的ですが・・・。)
最新の博物館の必要条件を十分に満たしている。でも印象は異なる。考えさせられる展示手法。
圧倒的な量の展示。あたかも空白を恐れるように、あらゆる空間に展示が行われている。
通常の博物館と違い、上も下も見なくてはならない。
その密度の濃い展示がここの見ものです。
備 考


地 図

 地図はパンフレットより

場所は市街地からちょっと離れた丘の中腹にある。

外 観



それほど大きくはない建物であるが、内部を効率よく使い、意外なほど広く感じる

屋外展示

豊橋鉄道 田口線

電車、廃線ファンにはこたえられない展示でしょう。



▲田口線の電車 モハ14
 昭和43年8月31日に廃線
 本長篠〜田口間

 

▲運転席

 大正15年11月15日 長篠(現大海)−田口間蒸気鉄道免許
 昭和2年9月30日 鳳来寺口(現本長篠)− 田口間電気鉄道に変更認可
 昭和2年11月6日 田口鉄道株式会社設立
 昭和4年5月20日 鳳来寺口 − 三河海老間11.6キロ運輸営業開始
 昭和5年12月10日 三河海老 − 清崎間6.5キロ運輸営業開始
 昭和7年12月22日 清崎 − 三河田口間4.5キロ運輸営業開始
 昭和18年7月1日 車両の運用を国鉄に委託
 昭和26年4月1日 国鉄・名鉄と相互乗り入れ運転契約
 昭和31年10月1日 豊橋鉄道株式会社に合併、田口線となる
 昭和38年3月24日 国鉄飯田線への乗入れ運転廃止
 昭和40年9月18日 台風24号の被害により清崎 − 三河田口間運輸営業休止 代行バス運転
 昭和43年8月31日 本長篠 − 三河田口間運輸営業廃止

三河田口から複数の森林鉄道が伸びていましたが、昭和36〜38年にかけて廃止されました。

  

▲三河田口、田峯、本長篠の周辺

 

▲単線区間の通行許可を与えるタブレットの発行機
 単線区間の両側に各1台設け、相互で連絡を取り合いながら、通行証を発行します。





▲名倉砥(神田砥)
 日本刀を研ぐ時に中砥として使います。
 砥石の世界ではブランド品の名倉砥 けっこう高価なものです。
 北設楽郡三輪村砥山で産出していたが、採掘は終了しているとのこと。

 

▲波の痕跡と貝の化石
 このような山の中も大昔は海だったことがあるのでしょう。

設楽町の自然

 

 

▲生物標本
 この地域のものだけではなく、「世界の・・・」という視点の標本もあります。



▲珪化木と棲痕(せいこん)の化石
 木材の化石です。あちこちの博物館で見ますので日本でもけっこう発見されるのでしょう。

 

▲生物と岩石の標本
 昔の博物館には必ずあった標本類の展示。ここにはしっかり残されています。



▲すずめばち類の巣のでき方
 春に女王蜂が一匹で巣を作ります。
 20〜30匹の働き蜂が出て巣を大きくしはじめます。
 群れとなった蜂が分業で大きな巣にします。

日本列島の歴史

太古の昔 日本は陸続きでマンモスや動物が陸伝いにわたってきました。

  

1. 42000万〜33000万年 古生代(シルル期後期〜石炭紀前期)
2. 22000万〜20000万円前 中生代(三畳紀後期)
3. 9000万〜7500万年前 中生代(白亜紀後期前半)

  

4. 2500万〜1900万年前 新生代古第三期末期〜新第三期初期
5. 1900万〜1650万年前 新生代・新第三紀(中新世前期)
6. 600万〜300万年前 新生代第三紀(鮮新世)

  

7. 200万〜80万年前 新生第四紀(更新世前期)
8. 15万〜1万年前 新生代第四紀(更新世後期)
9. 1万年前〜現代 新生代第四紀(完新世)

別の説では・・・

この博物館の展示では日本列島は固定されているものとされていますが、新しい説で日本列島は大陸の一部だったものが2000万年前に裂けて折れ曲がりながら移動してきたものだというものがあります。

折れ曲がった所がフォッサマグナ。
大陸から切り離された時に断片的に残された大陸片は日本海に残る海盆です。
福井市自然史博物館の展示でご紹介します。



▲火成岩の分布と日本列島の位置
 中生代の終わりごろの激しい火山活動によってできた流紋岩や花崗岩が、西南日本を中心に分布しています。
 この流紋岩や花崗岩と同じものは、日本海をへだてた中国大陸や朝鮮半島にも分布します。
 これらの火成岩の分布は、日本列島をまっすぐに伸ばし、アジア大陸の東端に移動させてみるとちょうどつながります。
 このことから、中生代白亜紀末(約6600万年前)まで日本列島は、アジア大陸の東端に位置していたと考えられます。

 オレンジは白亜紀末の火成岩の分布
 黄色は現在の火成岩の分布



▲1700万年前の日本列島
 黒線が現在の日本、大陸の端で薄く描かれているのがその当時の日本列島です。
 約2000万年前からアジア大陸の端では、東西に引っ張られた地殻が薄くなり、同時に火山活動も激しくなり、多量の溶岩や火山灰が噴出しました。
 やがて地殻が割れはじめ、多少の大陸片に分裂してアジア大陸から離れていきました。
 そのため、日本列島の大陸との間には隙間ができ、海水の浸入や湖の発生などで水域は広がっていきました。
 このころ福井では清水町出村や朝日町上糸生(いとう)を中心に湖がありました。
 この湖は「古糸生湖」と呼ばれています。



▲古糸生湖
 古糸生湖に堆積した泥岩からは、多数の植物、淡水魚、昆虫の化石が見つかっており、植物化石群からは当時の気候が寒冷であったことが推定できます。
 また昆虫化石では特に清水町出村からみつかるトンボ類が豊富です。



▲日本海の拡大と熱帯気候
 1600万年前の日本列島
 日本列島がたくさんの島々となってアジア大陸から離れるにつれ、南から暖流が流れ込んできました。
 このため日本列島付近は、浅い海域が広がる熱帯的環境になりました。
 このころの海に堆積した地層は、福井県内では福井市鮎川や高浜町の内浦半島でみられます。
 この地層からは熱帯的環境を示すヒルギシジミ・ピカリア・オウムガイなどの化石がみつかっています。



▲日本列島の回転
 1500万年前の日本列島
 西南日本は時計まわり、東北日本は反時計まわりの方向に回転しながら南へ移動し、同時に日本海は急に深くなりました。
 その時、堆積した地層は坂井郡金津町や福井県高須町などで見られ、有孔虫、魚のうろこ、くじらの骨などの化石が見つかっています。
 そして約1400万年前には日本海の拡大は終了し、日本海の原形ができあがりました。
 国見岳の山頂付近、鷹巣海岸、東尋坊、雄島の岩石は日本海の拡大の終了にともなって噴出した火山岩です。

設楽町について



▲山また山の設楽町



▲設楽町の人口
 昭和25年には13000人の人口があったが、2006年2月には6600人しかいなくなっている。
 56年間で人口がちょうど半減している。

旧石器時代



▲2万年前の人類
 設楽に人類が住み始めたのはこのころです。
 マネキンをベースにしているので妙に色っぽくなってしまい、不思議な感覚です。
 旧石器時代の衣服の出土例はないので、本当にこのような裸に近いかっこうだったのかどうかはわかりません。

進化の過程で人類は 猿人(200年前)、原人(50万年)、旧人(10万年以上、旧石器時代前期))、新人(5万年、旧石器時代後期)に区分されています。
猿人、原人の化石は発見されていませんが、明石人、葛生人、牛川人など旧人の骨の化石が確かめられています。
この奥三河で人間の生活が行われたのは、いま明らかなところでは先土器時代(無土器時代ともいい、旧石器後期)で約2万年前です。
旧石器時代は土器も弓矢ものなく、石をおおまかに打ち欠いた簡単で粗雑なつくりの石器でした。
最末期には細石器といわれる、ごく小型の石器がつくられるようになり、これを最後に旧石器時代は終わり、新石器時代(縄文時代)へ移ります。

2万年前はまだ黒土が積もっていなかった時代です。
したがって、その頃の石器は赤土の中に埋まっていることになります。



▲旧石器人類のマンモス猟

100万年前ほど前から地球は氷河時代に入り、4回にわたり厳しい寒気がおとずれ、北半球の大部分が厚い氷に覆われた。
しかし氷期と氷期の間の間氷期もありました。
氷期には海水が凍り海面は130mも低下し、反対に氷が解けると40mも上昇しました。
陸橋を通っていろいろな動物が渡来し、それを追って人類も何回か渡来したと思われます。
人類が日本に住み始めたのは10数万年前と言われます。
先土器時代は握斧(あくふ)文化→刃器(じんき)文化→細石器文化と続き、今から1万2000年ほど前に縄文文化に引き継がれました。
設楽町に人が住んだのは約2万年前で市場口から旧石器が出土しています。



▲気温の変動
 氷河期と間氷期



▲不思議な模様
 津具村の丸山川の玄武岩。
 線刻があるが人為的なものが自然のものか。

縄文土器

縄文時代には鳥獣や木の実など食料に恵まれていたため、奥三河は愛知県で最も人口が多いところでした。



▲網代底(あじろぞこ)
 縄文土器の底には竹で編んだ網代の模様が転写されています。



▲網代
 このような竹で編んだ台に出来上がった土器を載せたときについた模様です。
 けっこう高度な技術

 

▲早期 田戸下層式土器
    底が尖った深鉢形で、尖底を土に刺し、周りで火を焚いて物を煮る。
    器壁につなぎの繊維が入ることもある。
 前期 関山式土器
    縁がやや波形をした深鉢形平底(煮沸用)のほかに、底の浅い浅鉢が現れる。
    土器に精粗の別ができる。
 中期 勝坂式土器
    食物採集に恵まれた縄文極盛期で煮沸用のほかに貯蔵用のツボ、食事用の鉢が見える。
    波状の縁に取手がつき文様が立体化している。
 後期 堀ノ内1式土器 加曾利B式土器
    精粗の別が明瞭となり酒器と思われる注口土器が加わる。
    器形も文様も優雅さは増すが、力強さに欠け、小型の組物が多くなる。
 晩期 土面
    形も種類も後期と大差ないが、呪術的な土偶、土板、土面等が多くなり、気象条件の悪化を思わせる

焼成方法
 地表に擂鉢状の穴を掘り 中央に陰乾した土器を直立させ、落ち葉等の熱灰で充満する。
 土器全体が600℃くらいに上昇した時、上に小枝を山積みして燃焼させ、次第に大枝に変えてゆく。
 約2時間で火を止め、穴の灰が完全に冷却するのを待って取り出す。

北設楽郡最古の土器は行人原・星野新田・馬洞の押型文土器で、約6000+2000=約8000年前と考えられます。



▲注口土器

縄文石器

 

▲砥石と磨石(すりいし) 石刀



▲石斧と石匙(せきひ)
 石匙は石の「サジ」ですが、実際は毛皮をはいだり、肉を切ったりするものです。

 

▲冠状石器と御物石器
 使用途がわからない謎の石器

石器のふるさと



▲石器の材料の産地
 山の中なのでこのあたりには石材は豊富にあったようです。
 黒曜石も産出したようです。

縄文の葬制

日本最古の葬例は神奈川県平板貝塚の男性人骨(縄文早期、伸展に近い体位)や愛媛県上黒岩岩陰の屈葬された数体。
埋葬体位は屈葬が普通だが、地方、時代によって例外も多い。
中期になると伸展葬が出現する。
魂の復活をおそれ、死体の頸部や胸部に石を置いたり土器を被せたりしている例もある。
年をとって死んだものは貝塚へ棄てる。
 「葬る」(ほうむる)の語源は「抛る」(ほうる)=捨てる意味
幼児が死んだ場合は甕棺葬のように手厚く葬る。



▲甕棺
 東栄町桜平遺跡出土 2200〜2300年前の幼児の死骸を入れたもの。

縄文住居

竪穴住居の柱の遺構はわかっても、上屋(うわや)の構造はほとんど分からない。
しかし遺構をもとに復元住居を実験的に作った例に基づき、その過程を見ると
まず、竪穴住居を地割りする。縄文中期の直径4.5m、深さ50cmの円形の穴を掘る。
打製石器に柄をつけたもので掘り始めたが、はかどらないため、スコップに代えて深さ50cmの柱穴を掘り柱を固定。
柱は長さ2.5m一本だけは磨製石器により切断した。
ハリ、サス、モヤ、タルキの順序で骨組みを作り、細竹でタルキの間を埋めカヤを押さえるエツリを固定すると、あとは煙出しと入口にヒサシを作りカヤを葺くだけとなる。
カヤは2トン積みトラックに山盛り一杯、柱とカヤの固定に藤蔓(ふじつる)を用いたが不足分は荒縄を使用。
中央に川原石4個で炉を設け、親子4、5人が住める実験家屋8人8時間でできたという。
現代の道具を一切使わず石器のみで行ったら何日かかるだろうか。

住居址の復元



▲竪穴式住居床面の基本的な形としては、円形、隅円、方形、長方形の3種類があります。



▲トンガリ帽子屋根円形竪穴住居をたててみました。
 まず、柱穴にY字形の柱を立てます。
 次に柱から柱へハリを渡し、藤蔓でしばる。



▲柱に近くサスをたてかけハリに固定する。
 サスとサスをヤナカでつなぐ。
 次にサスとサスの間にタルキをかけ、横木の数をふやし固定するとほぼ骨組みが完成する。
 出入り口にはヒサシをつける。



▲カヤをおさえるエツリを固定し、下方から葺き始める。
 竹をカヤの上から横にわたし、ところどころ藤蔓で柱に固定する。
 カヤを葺くには、丸太の両端に藤蔓を結んで、ひざの高さに垂らして足場とする。

どのような場所が住みやすかったか?
・獣や魚、木の実や草の根を主食としていた縄文時代には現在の形態とはかなり異なった生活が行われていました。
・獣や木の実など自然物の豊富なところ
・飲料水が近いところ
・住居は地表から30cm前後掘りくぼめて作られたので乾燥したところ
・日当たりも良く季節風の強くないところ
そのために、この時代の住居址(遺跡)は大半がその適地に当たる河岸段丘、丘陵地、小沢沿いの高台から発見されています。

縄文人あれこれ

体格:身長1.5m 現代人より低い

寿命:平均で40歳 疾病、飢餓、未然の災害で長生きはできなかった

夫婦:古代の習慣に照らし合わせて多夫多妻制で、
一人の男性が複数の女性のもとに通い、その女性も
また複数の男性と交渉を持ったと思われます。

出産:遅くとも15、6歳で出産しなければ文化の伝承はできない。
早婚であったなら受胎率が高く、子沢山だったが成長率は低く、生き残ったのは1/3くらいと思われる。

土器はだれが作ったか:
女性が土器を作るのは世界共通です。

行動半径は:
生活的行動半径は日常的には6キロ。
食料を得る生産的行動半径はその4、5倍。
すなわち日帰りのできる極限で最大限30〜40キロ。
リレー式の行動半径は信州和田峠の黒曜石では200キロにも及んでいます。

家畜:
貝塚から犬の骨が出ているので、猟犬として働いていたことがわかります。
稀に小型馬の骨が出土するが、役畜としてではなく、食用であった。
弥生時代になると今の蒙古馬のように大きくなるが、牛や羊はまだ発見されていない。
ネコはいるが山猫で、今の家ネコは元来エジプトネコの系統で、これが文学に登場するのは、平安時代の「源氏物語」です。

毒矢:
狩猟にはトリカブトの毒矢が使われた。
新根の皮にはアルカロイド系の猛毒が含まれている。
これは経口毒として4グラムまでなら飲んでも死なないが、傷口から入ると0.4gで体重50キロの動物でも17秒で死ぬ。
これほどの猛毒も撃ちこまれた動物が死ぬまでに全身に拡散され、さらに時間が経過するとしだいに酸化して無毒化してゆく。
したがって2時間ぐらい後に食べればまず無毒に近いといえる。

食事は:
食事の回数を決め、一定時間ごとにとるようになるのは農耕社会になってからのことで、狩猟社会では回数は決めずに 空腹に応じ随時食事したわけで、獲物が無ければ何日も空腹に耐えた。
最近縄文中期からいっしゅの農耕が始まったとされているから、定時に食事をする習慣が始まりだしていたのかもしれない。

食料の保存:
クリ、トチ等の実は貯蔵穴に蓄えるが、その量は10人がせいぜい1ヶ月分くらい。
この他に鹿やイノシシの肉、サケ、スズキの魚類を天日に干したり燻製にして保存し、飢餓に備えたと思われる。
植物性の食料では、ヤマノイモなどの根菜類は土中に埋め、木の実はネズミの害を免れるため土器に入れたりした。

奥三河の弥生遺跡と土器

弥生文化概説
紀元前4世紀に金属器を伴う水稲耕作の新しい文化が大陸から朝鮮半島を経て北九州に伝来した。
紀元3世紀に古墳文化と交替するまで列島を東進していった。
弥生時代は3期に分類され、前期は紀元前4〜1世紀、中期は紀元前後の2世紀の間、後期は紀元後2、3世紀です。
古くは人種の交換と考えられたが、今では人種には関係はなく、生産様式の相違からくる文化様相の変遷として理解されています。
地方により遅速があり、西日本では弥生時代であるのに、東日本では縄文時代終末期、東北日本では縄文盛期というときもあった。
金属器というと銅剣、銅鐸などの青銅器を思うが、これらは儀器であって実用品ではない。
弥生時代が伝わった頃には大陸ではすでに青銅器時代が終わり、鉄器時代に入っていた。
日本には青銅器と鉄器がほぼ同時に伝わった。
農業技術も肥料の使用、石包丁による収穫など高度なものだった。

水稲渡来以前に原始農耕があった
弥生文化の急速な発展は、それ以前に原始農耕があり、それもかなりの程度に達していたことを想像させる。
縄文中期の石皿は製粉用と考えられ、パン上の炭化した澱粉質食品が出土しており、イモ文化を唱える学者もある。
従来華北に稲作はないと信じられていたが、最近中国考古学の躍進から、華北から朝鮮半島西部にかけ、少なくとも紀元前6世紀には陸稲、大麦、アワ、キビの畑作が始まったといい、しかもそのイネはジャポニカ(日本稲)であるという。
日本の原始農耕の場合、大陸地方の影響をうけたかどうか?

弥生土器

 明治17年(1884)東京都文京区本郷弥生町遺跡出土の土器を基準とした名称。
 東京大学の近くですが、現在その場所は正確にはわからなくなってしまっています。
 時代的変化に応じて、前、中、後期に大別している。
 巻き上げ手法により製作された土器には甕、壷、鉢、高杯の基本形があり、
 主に沈線文、貝殻腹縁圧痕文、櫛描文、縄文、凸帯文などの文様がつけられている。
 おとなしく、落ち着いた感じの土器です。
 縄文土器は低温の還元炎で焼かれたのに対し、弥生式土器は高温の酸化炎で焼かれたため、紅褐色をしているものが多い。
 一部に轆轤を使用していた。



▲弥生土器の東漸
 この絵によると北九州の土器の時代はBC4世紀、
 畿内でBC3世紀
 名古屋でBC1世紀
 豊橋で紀元前後
 東京で3世紀ごろ という表示になっています。
 ちょっと伝播のスピードが遅すぎるような・・・・?



▲こしき
 米、雑穀などを蒸すための土器。底部の穴から蒸気があがる。
 弥生時代に初めて作り出された。

土地条件や気象条件など米作りには不向きであった奥三河には大遺跡はありません。
しかしここでも米作りが行われていたことは確かで、水神平式といわれる土器の破片に籾殻の痕が付着していることからもわかります。

奥三河の弥生文化

三河は尾張より遅れる。
尾張まで弥生文化が及んだ時 三河では、縄文晩期の水神平式土器が用いられており、弥生時代に入るのは尾張が中期に入ってからです。
宝飯郡一宮町水神平遺跡からは炭化した稲の籾が出土しており、土器は縄文式でも弥生文化の影響を受けていたことは確かです。
尾張の大遺跡が低湿地にあるのとちがい、段丘上にあるため水田を中心とした稲作の段階にはいまだ至らなかったと思われる。

弥生時代の奥三河は過疎だった。
奥三河の弥生遺跡は貧弱で、質量ともに縄文文化に比すべくもない。
人々は稲作の魅力にひかれ、争って山を下り低地に集中したと思われ、残ったものは畑作農耕と従来の狩猟採集により、細々暮らしたと思われる。
遺跡も59あるが同時に存在したのは数箇所にすぎず、その規模は一件ぐらいと推定され、山は太古の静寂にもどった。



▲弥生時代には北設楽地方は過疎地帯でした。
 当時の稲は南方系の植物(品種未改良)で寒冷な奥三河では成育不良です。
 そのうえ鳥獣による被害も甚大であったため、豊かには実らなかった。
 人口も著しく減少しました。
 縄文時代の遺跡は229ヶ所あるのに対して、弥生時代の遺跡は24しか発見されていません。

銅鐸

断戸山から発見された謎の宝器、銅鐸
銅鐸は弥生後期独特の青銅器です。
形は偏平な釣鐘状で中空、両側に鰭のついた身と、上部に薄い半円形の吊り手がある。
元来は吊下げ揺動かして鳴らす楽器であるが、次第に大型化し装飾的な置物へと変わった。
貞観2年(860)三河国から(渥美郡村松出土)朝廷へ献上されたのを初見に今日まで1157年間に東は長野静岡、西は大分までの広大な地域から350個以上が発見されている。
県下では尾張7ヵ所9個、三河17ヵ所24個、そのうち3個(現存1個)が完成元年段戸山中から発見されている。
銅鐸の出土地は、たいてい集落から離れた丘陵斜面や台地上から、他物を伴わず並べて地下浅く埋められており、弥生時代の終わりになんらかの事情で、銅鐸を使用しなくなったとき、隠すようにそっと埋めたとしか思われない。銅鐸はもちろん個人の所有物ではなく、ムラ共有の祭器である。
貧しい過疎の奥三河山地のムラにどうしてかかる宝器を持つ力があったのか千古の謎です。

古墳時代

時代
日本の古墳時代は3世紀末に始まりますが、この辺ではずっと遅れ、6世紀の終わりごろからです。

人口
弥生時代は無人のようだったが、古墳時代にはやや戻る。
名倉平と本郷平に集中。人口は不明。
一戸の人口は家父長夫妻と両人の両親と祖父母、その子供たちのほか、結婚できない者や結婚していても独立できない、甥や姪が同じ家族を構成する、更に血縁のない奴婢まで加えるので20〜100人という大家族だった。

どんな家に住んだか
隅円方形の竪穴式で、従来中央にあった炉はかまどに変わり、位置も一方の壁に寄せられた。

身長は
米を食べるようになって伸び初め、縄文人成人男子150cmから弥生人152〜153cm、古墳人は150〜160cmです。

結婚年齢
文献から類推すると女性は16〜17歳が普通で早いものは14歳で結婚している。

豪族はいつ頃出現したか
「魏志倭人伝」に国分かれて百余国とあるのは、村落国家と思われ、それが次第に成長して大豪族を生み、巨大古墳を造るが、やがてその体制が崩れはじめ、6世紀になると小古墳が爆発的に出現する。
ということは集約的な資本が分散して、もう一度小さい村落単位の豪族に返ったと思われます。

服・装身具
男女とも上衣は腰きり、下半身に男は袴(はかま)、女性は裳(も)というスカートを着けた。
装身具は勾玉は貴族の象徴ですので、村長(むらおさ)や豪族が身に付ける程度で、一般の人は木や竹で作った装身具類で身をかざった。

風呂に入ったか
風呂はなく、湯に入る習慣もない。専ら水浴で肌の汚れや汗を除いた。禊(みそぎ)である。
風呂は本来水蒸気浴のことで、奈良時代仏教が病気治療に行われたのが初めである。
洗濯も叩き洗濯といって、衣類を煮て河原の石の上で棒で叩く。これを繰り返すと麻布は白く柔らかくなる。

米はどのくらいとれたか
大化の改新といえば、この地方で古墳が造られた頃であるが、当時人民に支給された口分田(くぶんでん)の収量はだいたい一反あたり稲40束とされる。
これを現在の制に換算すると反あたり6斗7升3合となる。
口分田は男子2反、女1.2反で、原則的には食える勘定です。

生産物の交易
近距離の場合は「無言貿易」といって、一方が生産物を峠までもってゆく。
そこには峠の向こうから運んできた物が置いてあり、その中から必要なものを自分の持ってきたものに見合うだけ、黙って交換してくるやり方です。
それがだんだん市に発展し、やがて定期市になり、寺社の門前などで開かれた。



▲死者に添えられたもの
死後の世界観は
古代人にとって墳墓は死後の生活空間であり、死んだ後暮らす場所であったから、食器、炊飯道具から武器化粧用品まで生前の一切合財を入れた。
死者は生けるが如く葬られた。

古墳時代の焼き物



▲須恵器(すえき)
 大陸から伝来した新しい技術(穴窯)で焼かれたもので、5世紀の初め頃から奈良時代にかけて作られた。
 焼きは硬く、色は灰黒色をしている。器種は坏(つき)、高坏(たかつき)、壷、甕、提瓶、その他があります。
 6世紀頃になると、三河と尾張の境にある猿投山西南西麓一帯が全国の生産地に発展し、現在の瀬戸や美濃焼きの基礎となりました。
 高度な技術と大掛かりな設備を必要としたところから、一般の農民では容易に作ることはできなかった。
 貧しい農民は主に土師器を使用しました。



▲土師器(はじき)
 弥生時代から次第に移り変わった土器で、色は黄褐色、軟弱で粗末なつくりである。
 坏(つき)、高坏(たかつき)、壷、甕、こしき、埴輪などの種類があり、陶土は水にとかし、粘土の精粗を分けて作ったものが多いが、中には縄文式土器同様に小さい石粒まじりのものもある。
 焼成には簡単で小型の窯が用いられた。後期の頃になると器形が全国的に統一された。
 古墳時代から奈良、平安時代にかけ製作され、主に日用品として使用され、古代朝廷には土師連(はじのむろじ)に率いられた工人集団がありました。

焼き物に興味を持たれた方はこちらをごらんください。

古 墳

「古墳は豪族(権力者)の墓です。
しかし、奥三河の古墳は平野部の古墳に比較して規模も小さく、また副葬品も貧弱です。
これは山間のこの地域では、水田(湿田)可耕地が狭小だったために、戸口も少なく、経済力も乏しかったことから大豪族が発生しなかった故です。
それにしても、約1400年の昔、このような山の中においても、当時、政治・文化の中心地 奈良や園周辺地域同様1人の権力者の墓づくりが貧しい農民によって行われてきたことだけは確かです。」



▲古墳の分布
 青は現存、オレンジは滅失したものを表しますが、設楽と東栄の一部にしか人が住んでいなかったでしょうね。
 この時代の稲作は、泥湿地で行われました。
 6世紀後半から7世紀初頭にかけて、名倉平に多数の古墳が築造されたのは、広い低湿地があったからです。




▲古墳、墓室の構造
 古い時代の古墳は頂部から穴を掘るようにして墓室を作りました。



▲丸根古墳
 時代が新しくなると横からトンネルを掘るようにして墓室を作りました。

奈良時代

穂の国



▲穂の国
 6世紀頃の三河には「穂の国」がありました。
 三河東部の地名にはいくつかその名残があります。

 1.ホの宮山  本宮山
 2.ホの原   本野ヶ原
 3.ホの川   豊川
 4.カミホ山  雁峯山
 5.境川    境川
 6.カモの山  鴨山

「大和国にある天皇家を中心とする政権が、ほぼ国土の統一を終わると、この地域に三河国がおかれました。
国には国の役所がおかれ、国の守(かみ)を始めとする政府役人が乗り込んできた。
国の役所を国府、その役人を国司(こくし)という。
東三河にあった穂の国造(くにのみやつこ)と、西三河にあった三河国造の権力は、三河の国司に譲り渡され、国府(こう:豊川市)が一国の中心になりました。」

境川
「大府と刈谷の間にある小さなかわが、境川と呼ばれ三河と尾張の境界です。
設楽町川向を流れる境川も、古くは穂の国と三川の国と、中世は賀茂郡足助荘と設楽郡冨永荘の境川でした。」

設楽郡の誕生

「延喜3年8月設楽郡が宝飯郡から独立し、三河国は8郡となりました。
郡には郡司があり、地元の有力者から選ばれ、国司の下にあって直接民生にあたりました。
設楽郡は明治11年南北に分かれましたが、古代郡衙の所在地はわかりません。
現在の北設楽郡は宝飯郡から分かれた南半分(東栄、設楽町のうち名倉を除く)と、加茂郡から別れた北半分(稲武、名倉、津具、豊根、富山)からなっており、合併の時期は地域により遅速があり、寛永〜延宝の間です。」

郡名
「倭名抄は設楽を之多良(したら)としているがシタラとは何を意味するのであろうか。
朝鮮渡来の「設楽神」や拍手音の「シタラ」等の類語が古くからあるが、その関係はわかりません。
旧来の諸説をみると
1.穂のしだれる郡
2.豊穣にして諸事足る郡
3.帰化新羅人から新羅をシタラと訛る
4.羊歯(しだ)の原から
5.麻織物の古語シトリから
などが見えますが、定説は見当たりません。」



設楽四郷
不確実ですが、以下の4郷があったと推定されます。

設楽 旧東郷、新城、千郷(ちさと)と東栄町にわたる地域
多原 作手村田原を中心とする姉川流域
黒瀬 鳳来町玖老瀬(くろぜ)を中心に旧海老、鳳来寺、長篠(大部)
賀茂 作手村南部から千郷山添の地

賀茂八郷
賀茂郡には 賀茂、仙陀 伊保 挙田 高橋 山田 賀禰 信茂 の8郷がありました。
そのうち 北設楽郡内にあると考えられるのは、賀禰の郷で、北設楽北半に今は長野県に入っている根羽村を加えた広大な地でした。

農民生活

口分田の祖は一反歩稲5束5把(現在の米3升)と低かったが、他に庸と調があり、一般的には布で納めました。
税として納めるものは雲脚(うんきゃく)といって、民が自分で都まで運ばねばならず、三河から都まで上り11日、下り6日と定められていました。
農民の最も苦痛とするところは年60日の傭役(ようえき)で賃銭なしの「タダ働き」。
国司は新田を拓き私腹を肥やしたが、百姓の肥る日はなかった。

当時の稲作は未だ幼稚で、加うるに鉄製農具の普及も十分ではない。
根刈りがやっと始まったばかり。
穂刈りが普通だったことは田租を何束何把と数えることでわかります。
肥料は草木だけ。人糞等の使用は鎌倉時代になってからで、稲の反収は6斗7升3合と計算され、意外と少ない。
これでは雑穀を多く作らない限り、食い継ぐことはむずかしい。



▲墨書土器
 「吉」という字と意味不明の文字 古墳時代の土師器に書かれています。

貧窮問答歌

この時代の民の生活は山上憶良の「貧窮問答歌」からうかがい知ることができます。

 風雑(まじ)へ 雨降る夜の 雨雑へ 雪降る夜は
 術(すべ)もなく 寒くしあれば
 堅塩を 取りつづしろひ
 糟湯酒 うち啜ろいて
 咳(しわぶ)かひ 鼻びしびしに
 しかとあらぬ 髭かき撫でて
 我を除(お)きて 人はあらじと 誇ろへど
 寒くしあれば 麻襖(あさぶすま) 引き被(かがふ)り
 布肩衣(かたぎぬ) 有りのことごと 服襲(きそ)へども
 寒き夜すらを
 我よりも 貧しき人の 父母は 飢え寒(こご)ゆらむ
 妻子(めこ)どもは 吟(によ)び泣くらむ
 此の時は 如何にしつつか 汝(な)が世は渡る

 天地(あめつち)は 広しといへど
 吾が為は 狭(さ)くやなりぬる
 日月(ひつき)は 明(あか)しといへど
 吾が為は 照りや給はむ
 人皆か 吾のみや然る
 わくらばに 人とはあるを
 人並に 吾も作るを
 綿も無き 布肩衣の 海松(みる)の如(ごと) わわけさがれる
 かかふのみ 肩にうち懸け
 伏廬(ふせいお)の 曲廬(まげいお)の内に
 直土(ひたつち)に 藁(わら)解き敷きて
 父母は 枕の方に
 妻子どもは 足の方に
 囲み居て 憂え吟(さまよ)ひ
 竃(かまど)には 火気(ほけ)ふき立てず
 甑(こしき)には 蜘蛛の巣懸(か)きて
 飯炊(かし)く 事も忘れて
 ぬえ鳥の のどよひ居るに
 いとのきて 短き物を 端きると 云えるが如く
 楚(しもと)取る 里長(さとおさ)が声は
 寝屋戸(ねやど)まで 来立ち呼ばひぬ
 斯(か)くばかり 術無きものか

 世間(よのなか)の道 世間を憂しとやさしと思へども
 飛び立ちかねつ鳥にしあらねば

  山上憶良頓首謹みて上(たてまつ)る

「貧窮問答歌」は問いとその答えで構成されています

問いの部分
風まじりに雨が降り、その雨にまじって雪も降る、
そんな夜はどうしようもなく寒いから、堅塩を少しずつなめては糟湯酒をすすり、
咳をしては鼻水をすすり上げる。
たいして生えているわけでもない髭を撫でて、自分より優れた人はおるまいと自惚れているが、
寒いから麻でつくった夜具をひっかぶり、麻布の半袖をありったけ重ね着をしても、それでも寒い。
こんな寒い夜には、私よりももっと貧しい人の親は飢えてこごえ、
その妻子は力のない声で泣くことになろうが、こういう時には、どうやってお前は生計を立てていくのか。

答えの部分
天地は広いというが、私にとっては狭くなってしまったのだろうか。
太陽や月は明るく照り輝いて恩恵を与えて下さるとはいうが、私のためには照ってはくださらないのだろうか。
他の人も皆そうなのだろうか、それとも私だけなのだろうか。
たまたま人間として生まれ、人並みに働いているのに、綿も入っていない麻の袖なしの、
しかも海松のように破れて垂れ下がり、ぼろぼろになったものばかりを肩にかけて、
低くつぶれかけた家、曲がって傾いた家の中には、地べたにじかに藁を解き敷いて、
父母は枕の方に、妻子は足の方に、自分を囲むようにして、悲しんだりうめいたりしており、
かまどには火の気もなく、甑には蜘蛛の巣がはって、飯を炊くことも忘れたふうで、
かぼそい力のない声でせがんでいるのに、「短いものの端を切る」ということわざと同じように、
鞭を持った里長の呼ぶ声が寝室にまで聞こえてくる。
世間を生きてゆくということはこれほどどうしようもないものなのだろうか。

この世の中をつらく身も痩せるように耐え難く思うけれども、飛んで行ってしまうこともできない。鳥ではないのだから・・・。

山上憶良
斉明6(660)〜天平5(733)? 奈良時代初期の歌人。
遣唐使として2年間中国で学ぶ。帰国後各地の要職につく。

炊飯法

「この時代の精米は、立臼(たちうす)と竪杵(たてぎね)によって行われたので、白米といっても今日の8分づき程度である。
これを水につけて十分に水を含ませてから、コシキに入れて蒸した。
これが飯(いい)で、別に鍋を使って炊く水分の多い粥(かゆ)がありました。
粥にも水分の多少による堅粥(かたがゆ)と水粥(みずがゆ)があり、
今日の飯は堅粥にあたり、一名姫飯(ひめいい)とも言いました。

飯はかたい食品だったので、噛む時に特別に活躍する筋肉を「こめかみ」と言いました。
コシキで蒸す飯を強飯(こわいい)といいました。
今日の小豆をもち米に混ぜてコシキで蒸す「おこわ」は、その伝統をひくものです。
日に三度食事をするようになるのははるか後の戦国時代以降でした。」

陶磁器



▲灰釉陶器
 「須恵器の系統を引くやきもので、焼成中の灰が自然に溶けて釉薬状に器面に付着したり、
 また水に溶かした灰を直接表面に塗っています。
 この釉薬がやがて黄瀬戸など古瀬戸陶器に発展した。
 奥三河では灰釉陶器の出土は非常に少なく、しかも今日の集落とは遠い隔絶された山地から発見されている例が多い。」



▲山茶碗
 「中世この地方で使用された食器は木器と山茶碗でした。
 行基焼とも言われる山茶碗は古墳時代に盛行した須恵器の系統をひく日常雑器で、その主な産地は猿投山麓、知多半島、渥美半島の丘陵地でした。
 このほか奥三河では美濃地方で焼かれたものも一部使用されました。
 また東栄町にはブヤキ古窯(鎌倉時代末期)があり、ここで焼成された山茶碗は谷間の各地に供給されました。」



▲10世紀参河国郡郷

鎌倉時代

承久の乱

「公家に代わり政権を握った武士は鎌倉に幕府を開くが、源家は三代にして絶え、内部抗争もあって動揺が絶えない。
この機に乗じ後鳥羽上皇は寺社や幕府に不満を持つ武将を叫合して兵を挙げました。
これが承久の乱です。
尾張では山田重忠を始め、ほとんどの武士が参加した。
三河では重原左衛門尉、駿河入道、右馬頭実平らが京方に参加したが、遠江以東15国の兵を結集した鎌倉方に破られ、朝権回復の望みは絶えました。
承久の乱の功により足利尊氏は三河の守護となり、鎌倉幕府の滅亡までつづいた。
吉良、今川、一色、仁木、細川、高(こう)一門が国内各地に城を構え、三河は足利市の分国となりました。」

建武中興

「元寇により国力を消耗した幕府は、やがて部下の統率に苦しみ、その権威を失墜してゆく。
両統迭立に不満を持ち、天皇親政を念願して後醍醐天皇は倒幕の兵を挙げるが、笠置の守りは潰え 天皇は隠岐島に流され、計画は失敗したかた思われた。
しかし、楠正成、名和長年、児島高徳らが各地に蜂起し、討伐に西上した幕府足利高氏が朝廷方についたため、形勢は逆転し、新田義貞に鎌倉を陥され、幕府は滅亡しました。
かくして天皇親政が始められたが、その施策は時代の認識を誤っていたため衆望を失い、武家政治再興を念願する足利尊氏の背叛により新政は僅か2年で潰えた。」

足助荘と南朝

「奥三河の過半を占める足助庄は古くは高橋新荘と呼ばれ、八條女院領の一つで、女院の歿後は大覚寺統に伝えられました。
荘園の政庁は足助におかれ、荘内各地に代官をおいて管理し、荘官の長が足助氏でした。
足助重範が天皇のめしに応じ、官軍3000の総大将としての奮戦は「太平記」に詳しいが、城は陥り身は捕らええられきられた。
これを始めとして、足助荘は挙げて南朝のため忠勤を励むのだが、南風競わずその勢いは次第に衰えていきました。」

後南朝の終焉

「元中9年、58年の久しきにわたり抗争を続けてきた南北両朝が合し、年号も明徳と改まった。
合併の条件は
1.皇統は大覚寺、持明院両統が交互につぐこと。
2.諸国の国衙領は大覚寺統に属すること
3.長講堂領は一円持明院統に属すべきこと。
しかし一旦和議が成立し、後小松天皇に神器が伝えられると幕府の態度は豹変し契約を蹂躙し、 称光天皇を即位させた。
南朝方が怒ったのは当然で、各地に南朝再興運動が起こり、一時は勢しょうけつを極めるが、その都度鎮圧されて文明元年を史上にその名を絶っている。」

奥三河の南朝伝説

「足助氏を筆頭に永江、菜倉氏らは南朝とともに郷土にその祀りを絶ち、山田氏も余喘を保つにすぎなくなる。
しかし護良親王、宗良親王、尹良親王、良王、平勝親王等の伝説地が奥三河の各地に分布しています。」



 

▲南朝伝説
 奥三河を中心とする美濃・信濃・遠江の国境地帯には 南朝関係の伝説が多い

室町時代

室町幕府統率力の衰え

「室町幕府は成立の当初から、諸将の力の権衝の上に立っていたので、権臣の専権を押さえる力に乏しく、そのうえ、将軍家や守護大名の相続争いも加わって内紛が絶えず、應仁元年には日本を東西に二分す売る大乱が起り、京都を中心に11年に及び、花の都は焼野原と化した。
幕府はあれどもなきに等しく、戦乱は京都に及び、力あるものは上を凌いで、実権は名族から新興の実力者へと移って行った。」

荘園

荘園は中世、寺社や貴族が領有した土地のことで、始めは国衙に税を納めたが、後には全く税を納めない、不輪租田が多くなりました。
郷土の荘園は次の二ヶ所であるが、世の乱れと共に次第に武士に侵略され、秀吉の時に全く廃止されました。

●足助荘
「古くは高橋新荘と呼ばれ、後宇多院領でしたが、後に八條女ワ子内親王の御領となり、その庁分の一つに挙げてある。
八條女院領はその後種々の伝領を経て、鎌倉末期には後鳥羽天皇に伝えられ、大覚寺統活動の源泉となりました。
その境域は東加茂郡全域を中心に、西加茂郡のうち小原、藤岡(東半)2村、北設楽郡のうち、稲武、設楽(うち旧名倉村)、津具、豊根、富山の5村、長野県のうち根羽村におよぶ広大な地域を占めていました。
山地が多く耕地は名倉盆地に限られますが、南朝勢力の拠点として、後南朝にまで及んでいます。」

●富永荘
「富永荘園は古くは設楽荘といい、東都松尾神社の神領であったが、建武中興の後富永氏が野田館に入ってから富永荘と改称したようです。
その境域は南設楽郡および新城市の豊川以西、宝飯郡一宮の一部、北設楽郡の南半を加えた地域で作手盆地や豊川右岸台地に米作地帯があります。(近世179村)
荘園の構造は 領主・荘官・荘民からなり、領主には開発領主と寄進による名義上領主(本所・預所)があり、領主に代って現地を経営する役人が荘官です。」



▲三河の荘園

農家



▲外観
 この時代の農家は間口4間、奥行3間程度の小さなもので、土台はなく直接地面から柱を立てます。
軒は低く、家へは背をかがめて出入りしました。
窓は小さくシトミ戸がつけられました
内部は昼間でも暗い。



▲間取り
 全体の半分か、それ以上が土間で間取りも簡単です。
 客間に相当する板張りの部屋には炉があり、その奥が主人の寝所となったいます。
 寝室といっても土間に筵や藁が敷いてあるくらいで布団はなく、藁の中で寝ました。

陶磁器



▲室町時代の陶器
鎌倉時代になるとそれまでの粗雑な山茶碗や山皿に代わって、釉薬をかけた陶器がつくられるようになり、室町時代には、この奥三河地方の武士や一部農民にも用いられるようになりました。
しかし椀や木皿などの木地製品が一般には多く使われました。
また、土鍋の内側に耳を付けた内耳鍋(ないじなべ)やスリ鉢、オロシ皿なども次第に一般化しました。



▲これが内耳鍋の復元品。
 (幸田町の郷土資料館展示より)

戦国時代

山家三方衆

「下克上の風潮に乗じ、前代以来の豪族に代わって拾頭したのが、奥平、菅沼の二氏でした。
奥平氏は上州北甘楽郡奥平郷から作手へ、菅沼氏は濃州土岐郡から菅沼へ移住し、旧勢力を駆逐して一族の繁栄を策した。
作手奥平、田峰及長篠菅沼を山家三方といい、これを味方に引き入れんとして今川・織田・松平(徳川)武田の諸勢力が入り乱れ、山家味方またその去就に迷う。
三方衆は時に争いもするがより大なるものには協同して当たり、その去就はまことに至難でした。」

武田氏と奥三河

「武田氏が奥三河を制圧したのは元亀2年から天正3年まで僅か5年に過ぎないが、津具金山の発見を初め、信玄終焉地、岩小屋落城伝説など、数々の投影を郷土人の心に残しています。
これも信玄が類稀な名将であり、勝頼の末路を悼む判官びいきがなせるわざであろうか。」

城 砦



▲設楽町内の城址
「城には領主の政庁がある本城のほか、領内の要所に支城、見通しの効く山上に見張りや狼煙台兼用の詰の城があり、それらが相たすけあって始めて戦闘が行われました。
城も「じょう」と呼ばれるのが古く「しろ」というのは新しい。」

寺脇城

「奥三河に城が構えられたのは鎌倉時代末から戦国時代にかけたころで、その全てが自然地形を生かして作られた平山城、または山城です。
城といってもこの地域では茅葺屋根で、規模も大型の農家程度であったと思われます。」



▲寺脇城

●城の位置
「設楽町大字東納庫字軒山および上貝津にまたがる。
東西250m、南北220m、比高20mほどの円頂丘にあり、南北の一部が背後の山脈にとおり、その頂に詰の城「浜ん城」があります。
西南隅に大手門を構え、その西に比高5m内外の低台地が長く伸び、ここに雲済寺があったといいます。
●城の構造
北と東は傾斜の急な谷、南と西は湿田地帯をめぐらし、人工施設としては北谷の池と東谷の水壕があるがいずれも小規模です。
頂上の本丸は広さ約10アール、南を除く三方に3〜5m、褶(ひろみ)2m内外の土塁を廻らし、城主後藤弾正を祀る城山御殿社、鎮守城山稲荷の碑があります。
一段下に本丸背後をめぐって空濠を穿ち、全面の二の丸に接続します。
更にその下の細長い三の丸、四の丸と階段状に設けられている。
大手門から城内への通路は空堀状をなし斜めに上る。
三の丸に至ると左折して本丸に達する。
東西約100mを隔てて出丸があり、城山という。
東西50m南北70m、比高10mの円頂丘の上部を2段に削平し郭としたもので、東西に上り口があり、今に馬出の地名を存しています。
俚俗弾正の花園址と称したが、昭和41年農業構造改善事業の土採り場となりその姿を失いました。

●城の年代
城主後藤弾正は伝説上の人物で正和2年没という確かな史料があるわけではない。
大手に近い畑の片隅に城主の墓という五輪塔、宝篋印塔(ほうきょういんとう)各2があります。
最も古い五輪塔は風空輪を欠くが、他水りんには梵字があり、鎌倉末もしくは室町初期のもので、製作手法は西三河式です。
これだと荘園名主たりし弾正の墓として、年代的にその没年と相応する。
他は室町中期1、安土桃山2でその間に断層があります。
なお付近に17基の古塔があり、五輪塔8、宝篋印塔9、時代別では室町初1、室町末2、安土桃山4、江戸初1、不詳8です。
以上により、寺脇城は鎌倉時代に築かれ、その位置が名倉平の中心にあり、政治的にも戦略的にも領地支配に有利なところから、城主も幾度か交替し、最後に奥平信光の有に帰した。
従って城郭も簡素な形から、戦術の変化にともない改良や改築が加わり、次第に複雑大型化したと思われます。

●城の建物
テレビや映画のイメージから、人は高い石垣、白い塗塀や天守閣を連想しますが、これらは近世大名の城で中世の勢力微弱な奥三河の城は石垣もなければ天守閣もない。
ここでは一遍上人絵伝にある地方武士の館のようなものだったのでしょう。
屋根は板葺、または萱葺、塀は板塀か木柵、門は冠木門程度と思われます。

●落城伝説
後藤弾正は所領田を一日で田植えする家例があったが、隣郷の城主がこれを妬み、百姓の馬鍬(まんが)を貸りて、田植え時になっても返さない。
弾正が予備の竹馬鍬で代用し、田植えが進行しているのをみて腹を立てた隣郷の家来が、田植え状況見聞中の弾正を狙撃して斃した。
これがけちのつきはじめで、寺脇城は隣国勢に攻められて落城しました。
遺臣は城主夫人と若君を守って段戸山中に再起を図るが、不幸にも若君は病死、夫人は自殺し寺脇城の栄光の歴史は終わります。」

石造物

五輪塔



五輪塔とは密教思想で世界観を表現したことが原点です。
始めは供養塔でしたが、後には墓石となりました。
胎蔵界の大日如来三昧耶の五大を現します。
自然界は凡て「地・水・火・風・空」の五大原素を元として成り立っていて、その離合集散、輪転によって万物が生じ、滅失、再生するので、これを「五輪」といいます。

5つの石の部品から構成された五輪塔は上から宝珠形=空・半球形=風・台形=水・球形=火・方形=地の五つの部分で構成され五つの要素を表しています。
この形は「大日如来の三昧耶形(さんまやぎょう)」といい、大日如来が人々を極楽浄土へ導く意志を表しています。
刻印された梵字は五大の種子(しゅじ)を表し、最も尊い五つの仏の名前、または大日如来三身真言などを刻んであります。

五輪塔の形や考えはは大陸から伝来したものですが、このような石造物は大陸では見ることはありません。
日本では平安時代の中ごろに作り始められ,鎌倉時代にかけて多く造られました。本来は信仰の対象としての塔ですが,墓碑としても用いられました。

五輪塔は天地自然の真理を現していると考えられていますので、寺や塔、仏像を作るのと同様に信仰心の表現手法でした。
時代と共にしだいに拡大解釈され、輪廻を表現していることから故人の回帰する場所と考えられたため、供養塔となり墓碑としても使われるようになりました。

年代の古いものは火輪に反がないが、年代が降りるに従ってそりが強くなり、その勾配が急になります。
また古くは水輪に梵字があるが、後には各輪にも刻むようになります。
風空輪は連続して一石に造り、4つの石を積み立てるのが正式です。
中世の終わりごろから江戸時代にかけ、五大を一石に刻んだ一石五輪が現れてきます。
この頃になると塔の企画も崩れ、単に隅丸の角石柱に4本の線を刻み、多少の広狭があるにすぎないようなものも出てきます。

宝篋印塔

類似のものに「宝篋印塔」(ほうきょういんとう)があります。



同じく石製の塔ですが、五輪塔と比べると全体的に四角張っています。
その祖形は呉越国銭弘杓が作った、金銅製の8万4千塔で、その若干が日本に渡来し、平安末期から作られ、鎌倉中期から墓碑、追善塔に転化しました。

1段または2段の基壇の上に本体である塔身を置き、四隅に飾りの付いた屋根が付き、上には相輪があります。
内部に『宝篋印陀羅尼』を納めたことがあったために「宝篋印塔」と呼ばれています。
経典を納めた塔です。
室町時代から鎌倉時代のものがあります。
屋根である屋蓋(おくがい)の四隅にはインド風耳状突起があり、古いものは直角ですが、時代が降りるに従って外反が著しくなる。
相輪にも名称があり
「露盤(ろばん)」「覆鉢(ふくばち)」「請花(うけばな)」「九輪(くりん)」「請花(うけばな)」「宝珠(ほうじゅ)」と呼ばれます。

形式が乱れ出すのは室町時代になってからで、相輪が均衡を失して太くなり、宝珠は尖り、九輪は単に線刻で間に合わせ、請花はほんの形式だけとなります。
関東など東日本では、全体に細身で、基壇や塔身を框形で囲う独特な形式に発展しました。

近世(安土桃山以降)

武田信玄領



▲元亀3年 三方ヶ原合戦前後の三河の勢力範囲
 意外だったのですが、はるか遠くの勢力だと思っていた武田信玄の勢力は三河に深く侵攻していたのですね。

兵農分離

「豊臣秀吉は全国を統一すると、士農工商の身分を確立し、刀狩りによって百姓から武器を取り上げたので元和、堰武を境に奥三河には一人の武士も居なくなりました。」

天領・私領

「日本全国の総石高は3千数10万石そのうち大名領(私領)が2,250万石(75%)。
幕府領(天領)は約750万石(25%)。
このうち約半分が家臣である旗本御家人に与えられました。」

検地と石高

「幕府や大名の財政基盤は農業であったので、その基礎となる耕地を正確に知る必要がありました。
土地を丈量して一筆毎に面積・品等・標準収穫量をきめ、竿請人(さおうけにん:地主)を記した検地帳を作りました。
この帳に記載されると百姓身分が確定し、転職も移住もできなくなります。
石高は反当収量を面積に乗じたもので徴税の基礎となりました。
岡崎様は5万石といったのは領地全体の収穫がこれだけあるということで、租米が5万石収納されるということではない。」

   上   中   下
田 14石  12石  10石
畑 13石  11石  9石

本田・新田

「検地は何回か行われましたが、主たる検地は江戸時期に集中しています。
天正 − 元和の間に行われたものを本田畑、寛永 − 明暦を古新田畑。寛文以降のものを新々田畑といいます。
開墾地には10年の鍬下年期があり、初めは無税でしたが、後には軽租が課せられ、地力の向上と共に新田に編入されました。」

田地売買証文
「田地売買証文は土地を売買したときにとり交わす書付で、永代売と年期売の二通りあります。
永代売は売り放しで、これた進むと村内の土地所有が零細化し、ひいては租税力の低下にも繋がるので幕府はこれを禁止し、期限を付した年期売にさせました。
年期売は質入と異ならず、質流れとなれば実質は永代売と同様で、禁止の効は上がらなかった。

借用証文に記された利率は古い時代ほど高く、江戸初期は2割から3割、江戸中期は1割5分、江戸後期は1割2分5厘というものが多い。」

貢 租

「税率は時により所により、領主によって一様ではないが、だいたい五交五民と思えばよい。
つまり半分が税。半分が所得だが、これは自作農の場合で、小作人は地主に小作料を納めるので、手元にはいくらも残らなかった。」

貢租の未進と前納
「収穫から年貢皆済までは米の移動は禁止され、塩油以外の商人は村に入れず、租米の確保に努めるが、年によっては期限内に完納できないことがある。
村に一人二人の滞納者があっても、村全体が力を合わせれば完納できるが、不作だったり、欠落が多く荒地が急増したりすると一部がどうしても未進になる。
欠落者の耕地は村中で耕作させ(惣作)、納税を継続させるが、村が衰えると立替は不可能になり、荒地は恒久化し、徴税成績が下がるので、代官は取立に躍起となりました。
藩領や旗本領のうちには、財政の窮乏から来年の租を前納ささることがある。
なんとも乱暴な話だが、泣く泣く納めている。」

貯穀書上帳は代官所への数量報告書
急夫食拝借割附帳は個人別拝借を記した帳で貯穀量は男一人稗3合。
拝借は30日間、男米1合女2合、麦は男4合女2合、雑穀男8合女4合づつ(幕末)であった。

納 税

納税義務者は個人ではなく、村でした。
免状(納税令書)がくると、名主は村寄合を行い、持高に応じ個人負担額を算出し、期日内に取り集め指定の庫に納めなければならない。
私領は藩庁所在地だが、天領の場合は鷲塚や御馬港に集め、海路江戸に輸送しました。
輸送費は居村から6里は村持、それから先は領主が負担した。
納入には村役人の立会いが必要で、何かと金銭的精神的負担は大きかった。

御年貢を納める
「代官は管下村々の村高を記した郷帳により、税額を算出し、徴税令状である免状を発行します。
免状は免状下札、御年貢免状、可納御成ヶ之事、その他いろいろに書くが、初期のものほど簡単です。
時代が降るに従い税目も増え、記載も精細長文になります。
免状が村に届くと、庄屋(名主)は村寄合を行い、免状を読み聞かせ、個人別の納税額を記した御年貢小割帳、免割帳を作成し、書き抜きを百姓に渡す。
租税(年貢)は、粗米(物納)と金納の日本立が普通で、水田は米納、畑は金納が原則だが、水田の多い地帯では畑の分まで米納とされた。

税目は本途(ほんと:正税)、小物成(こものなり:雑税)、高掛り物(たかかかりもの:課役)の3に分かれ、商人には冥加(みょうが)・運上(うんじょう)が課せられた。
別に臨時税の御用金がある。
粗米を取米納高を分米といい、高は一度決まると容易に動かないが、粗米は年の豊凶によって集荷し、一旦村の郷倉にいれ、出荷まで番人を付けます。
納付場所は藩なら城下、または要地の米蔵、直領(天領)は港(鷲塚、御馬)から、江戸その他へ回送されました。
粗米が湊で廻船に積まれると宰領として関係村の代表が乗り込み、江戸浅草の米蔵に納入しました。
仕替米は粗米をその地で売却し、その代金で納地で米を買い納入するもので、輸送の費用が省け、歓迎された。
粗米が完納すると皆済目録が村に渡され、完納久しきに恒れば褒美として粗米の中から賜った。」

代 官

「幕府の民政官は代官で、勘定奉行に属し村役人を監督して民政にあたりました。
江戸初期には三河代官がおかれ 代官役所は各地を転々としましたが、後期には遠三代官となり、代官所は遠州中泉(磐田市中心部)、赤坂に支所をおいて三河の天領を治めました。
私領の場合もこれに準じ、郡奉行(こおりぶぎょう)の下に代官がありました。
民の休戯は代官の良否にかかり、代官の悪政による越訴が二度もおきました。」

村方三役

「設楽町内には江戸時代40も村があり、それぞれ名主(庄屋)組頭、百姓代の村方三役があり、村の自治に任じました。
名主は村の代表者。組頭はその助役。百姓代は農民の利益代表で、その選任は村寄合で決めました。
任期は1年ですが再任が可能で、一生その職にあった人もいます。」

戸籍・五人組

「寛永17年島原の乱で手を焼いた幕府は、宗門改役を置き、全国の人民は仏教徒たるべしと令し、 檀那寺に檀徒の戸籍を管理させ、毎年宗門人別帳を調製提出させました。
また向こう三軒両隣りを結んで五人組を組織し、村生活の一切を連帯責任とした村きりの帳が五人組帳です。」

宗門帳
「宗門帳は戸籍簿で檀那寺が管理し、村民を戸毎にまとめ氏名年齢性別を記入し、毎年3月に調製し代官所に届け出る。
万一欠落(かけおち)や逐電(ちくでん)があった時は、60日間諸方を尋ね、それでも行方が知れない時は、代官所に届け宗門帳から除帳(じょちょう)します。
親の言いつけに従わず勘当されたもの、
悪事を働き村の難儀の種となるものなどは、除帳処分を受けました。
こうして宗門帳外に追放された民が無宿者で、遊侠の徒に多かった。
無宿者も故郷に帰参し、村に侘びを入れ連署で代官に願出れば、その復帳が許された。
江戸では無宿対策として佃島に集めたり、佐渡送りにしたりしました。

嫁入婿入の時は村から村への村送り、寺から寺への寺送りによって、送籍除籍を行います。
万一不縁となった場合はこれに準じ復籍する。
後日紛糾が予想される場合は、三行半に書いた離縁状「三くだり半」が、夫から妻へ渡されます。

旅行の時は、まず村役人に願い出て、道中の村役人に宛てた「往来手形」を発行してもらい、もし道中で病気の際は村継ぎ(むらつぎ)で本籍地に送り返してもらう。
死亡すればその地に葬り、その旨を故郷に通報します。
遺族はその地に出向き、費用を支払い、遺骨遺物を引き取るが、多数の中には引き取り人のないものも出る。」

飢饉



▲飢饉の際の食べもの
 コキビ、三菜、なんでも食べました。

●凶作と飢饉
農業技術の未だ低かった時代では、異常気象に遭遇すると、不作となり、それが連続したり、病気が流行して働き手が減ったりすると、無理が原因で体力が衰え、両者あうなって村は飢饉になります。
記録に見えるところでは、江戸時代230年間に大小136回の不作があり、そのいくつかが飢饉となった。
中でも有名なのが、天明3年浅間山大爆発による火山灰が成層圏に充ちて起きた冷害。
天保3年より始まる冷害でそれぞれ連続数年に及んだため、未曾有の大飢饉となった。
範囲も広く全国に及んだが、東北地方が最も甚だしく、餓死者数十万人に及びました。
奥三河で戸数半減に近い村が数村できた。

●飢饉対策
現在では災害救助法が発動され、めったに死者を出さないが、封建時代は領主限りの施策となるので、相互に連絡も協力もなく、一層被害を大きくしました。

●救荒食物
手持食料の食いのばしを図ると共に、食べられるものは何でも、粥にし餅につき、団子にして空腹を満たしました。
これが「カテモノ」の草木の芽、若葉、根塊、木皮、果実、虫魚等あらゆるものに及び、そのいくつかは戦中戦後の食糧難の時代にも体験されます。

●備荒貯穀
村毎に郷蔵を設けさせ、年々籾や稗を積み立て代官が管理し、凶荒があれば「夫食」(ぶじき)として貸与し、年賦で詰めもどさせた。

●飢饉対策法
官民ともに腐心し、その方策を示した。

天保7年凶作に付倹約之事 平藩が領民に示した飢饉乗切索

ききんのこころえ 中山繁樹著 半紙半墨付20枚 万延元年刊
凶荒図録 小田切春江著 半紙判 33枚 絵入明治18年刊
流行病 栄養価の低いものを多食するので、力が低下し、流行病がはやっても、対策は無きに等しかった。

生活

●頼母子(たのもし)
「頼母子は弱者救済を目的とした金融の講です。
一定の日に講員が一定の掛け金をし、集まった金を講元に貸し、次からはくじ引き または入札によって講金を受け取る。
一巡すれば解散する仕組で、これによって弱者は急場がしのげ、以後は利息だけで完済できる。
無尽ともいい、後になると「取除無尽」「三笠附」などという射幸本位の不健全のものが現れ、取締りの対象となりました。」

●助郷
「助郷というのは宿駅の人馬の手伝いにでることで、出役すれば所定の賃金が出た。
宿周辺から出たが幕末となると、馬が不足し遠方まで拡大する。
和宮御降嫁では設楽にまで及びました。」

続く


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