幸田町郷土資料館

運営母体 幸田町
住 所 幸田町深溝清水36-1
電話番号0564-62-6682
休館日月・木曜日・祝日の翌日
開館時間10:00〜17:00
入館料無料
備 考
アクセス市街地の南方3kmぐらい三ケ根駅の東
HP HPは特にないようです。

展示の内容

概 略 生活用具を中心とした民俗系の展示。
農家の象徴として大戸の展示。
野外にはジェット戦闘機、ヘリコプターや大砲、自衛隊の潜水艦のスクリューまである。
愛知県では
ここでしか
見られない
展示
移動式の番屋小屋がめずらしい。
寒さを避けるためか人が一人入れるくらいの小さな箱。移動が可能。
板は高札が転用されたようで、キリシタン禁止の文字がかいてある。
ひとこと雑多な展示。飛行機や大砲まで展示されなんともアンバランス。
私も兵器の技術は好きな方だがこの組み合わせにはびっくりですな。
訪れる人も少ないちょっとさみしい博物館。 仔細に見ると他の博物館にはない珍品が多い。
備 考


地 図

 地図はパンフレットより

表示板は全くないため、けっこうわかりにくい。

外 観



ちょっと古いが専用の建屋

展示物

深溝城(ふこうずじょう)

14世紀初期、大庭次郎左衛門朝泰が築き、以後、200年の居城となる。
面積は7000平方メートルほどでした。
1601年に松平家の居城となります。

一旦廃藩となるが、板倉家により再び藩に。
しかし、1637年に再び廃藩。 1639年板倉重直が8千石の陣屋を築く。
それ以降はずーと陣屋で明治を迎えます。



▲深溝陣屋絵図
 陣屋代官の八田家が管理していた絵図の写し。
 原図が行方不明となっているため、陣屋の様子を知る唯一の資料です。

 明治元年の陣屋廃止の際、門が移築され、幸田町大字六栗字本郷に 民家の門として残っています
 現在、深溝陣屋の敷地は工場となり、道沿い石碑が立つ。



▲深溝陣屋の瓦
 板倉家の家門である「左頭巴」が使用されています。
 板倉家は江戸時代を通じて深溝村の領主でした。

深溝松平家



▲深溝城主松平氏系図

1504年五井松平家2代元心は、松平宗家5代長親(長忠)の命により、深溝の大庭氏を討ち取る。
戦功で与えられた深溝は、弟忠定に譲られ、深溝松平家の祖となる。

1531年忠定が亡くなり、2代好景(1561年死去)を経て、3代伊忠は、1564年「三河吉田城攻め」、1568年「掛川城攻め」、1570年「姉川の戦い」に参戦。
4代家忠は、1579年浜松城普請、1580年「高天神城攻め」で砦を築き、1585年駿府城普請など、普請で家康の所領拡大に貢献した。
1590年家康関東移封に伴い、武蔵国忍城主となる。
 4代家忠は戦国時代の武将で「家忠日記」を記したことで有名。
 家忠はその後、下総国小見川藩主(1万石)となったが、慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城の戦いで討ち死。
 死後、家督は家忠の子・5代松平忠利が継いだ。

 徳川家康は家忠の死を賭しての活躍に報いるため、関ヶ原の翌年に忠利に対して常陸国内において大幅加増を約束したが、忠利はこれを謝絶して故郷である深溝の復帰を望んだ。
 家康は加増なしの上で忠利に深溝を与えた。
 1601年5代忠利の時に1万石深溝西郡藩が成立。
 5代忠利は治水工事などで手腕を見せたが、慶長17年(1612年)11月、忠利は三河吉田藩3万石に加増移封となり、ここに深溝藩は廃藩となった。

 その後、深溝松平家代々は三河国刈谷、丹波国福知山、肥前国島原、下野国宇都宮へ移り、明治まで続く大名家となる。

板倉家

慶長19年(1614年)7月、山城国において1000石を領していた板倉重昌は、深溝において1230石を加増された。
その後も家康の側近として活躍し、家康死去の時点では5230石を領する大身の旗本となっていた。
寛永元年(1624年)、重昌の父である板倉勝重が死去すると、兄の板倉重宗は弟の重昌に対して6610石の所領を与え、重昌は5230石に加えて合計1万1800石余りを領する大名となって諸侯に列し、深溝に陣屋を構えたことから、再び深溝藩が立藩した。

その後、重昌は領内に検地を実施して、1万5000石の出来高を幕府に報告し、これが認められたことから深溝藩は1万5000石となる。
寛永14年(1637年)、重昌は島原の乱鎮圧の総大将として幕府軍を率いて出陣したが戦果を挙げられず、幕府から新たに松平信綱が増援として送られたことを知ると、功をあせって自ら突撃するという無謀な行為を行なって、翌年元旦に戦死してしまった。

死後、家督は重矩の不手際のために家督相続が大幅に遅れた上で、子の板倉重矩が継いだが、重矩は程なくして藩庁を三河中島藩に移したため、ここに深溝藩は廃藩となったのである。

その後、板倉重直が8000石の旗本となり、本拠は深溝陣屋となり、明治を迎える。

 

 江戸時代の短刀と一文字笠。
 天辺が一の字のように平たく、タレが少ないものを一文字笠と呼びます。
 スゲまたはたけのこの皮でつくります。

民 具

江戸時代

 

▲千両箱 と 銭函



▲行器(ほかい)
 外出のときに食べ物を入れて運ぶ容器です。

明治時代以降



▲火熨斗(ひのし)
 超定番 昔のアイロン。 中に炭火を入れて底で布のしわを伸ばします。
 たいていどこの博物館でも炭火アイロンとの比較で展示がされています。



▲貧乏徳利
 醸造元や小売りが貸し出す大型の徳利。貸し徳利、通い徳利とも呼ばれます。
 表面に酒屋屋号が書かれたものが多い。



▲角樽
 「角樽」という説明があったが、この地域ではそう呼ぶのか、はたまた間違いか。
 一般的には「袖樽(そでだる)」とか「指樽(さしだる)」と呼ばれます。



▲船箪笥
 明治から大正にかけて船乗りが使っていた貴重品入れ



▲茶壷
 茶葉を保管しておくための壷です。
 これは庶民の壷とは思えません。身分があった人の茶道具ではないでしょうか。



▲落雁の型板
 民俗系の博物館の一つの定番に「落雁の型」があります。
 この落雁の作り方をちょっと深堀してみました。

 落雁には赤豌豆粉や州浜粉などの豆の粉を味付けに用いた豆落雁と
 はったい粉(麦こがし)を用いた、麦落雁と呼ばれるものなどがあります。
 また寒梅粉という米から作った粉を使います。
  丁度寒梅が咲く季節に新米を粉にすることから寒梅粉と呼ばれます。

 基本はこれらの落雁用の粉と砂糖とを少し湿らせて固めて乾かすだけです。
 1.でんぷん質の粉の中に砂糖に「しとり」として水飴の蜜を入れ、湿らせます。
 2.その中に、寒梅粉とはったい粉を入れ、均一にもみ混ぜます。
 3.生地ができ上がったら、直ちに型押しします。
 4.打ち出して、一晩自然乾燥させて完成です。



▲謄写機
 孔版、ガリ版と呼ばれる印刷技術がつい最近までありました。



▲タバコ巻き器
 ちょっと前まで タバコを自分で紙に巻く種類がありました。



▲切溜(きりだめ)
 煮物などを一時的にいれておくのに用いられたほか、祝事の容器にも用いられました。



▲鏡台
 引き出しには整髪用の元結い紐、櫛などを収納。
 昭和の初め頃まで使用されていました。



▲餅つき用の臼と杵
 臼には石製と木製のものがありますが、愛知県は木製のものが主流です。

あかり

幸田町郷土資料館は「あかり」に関する展示物が充実しています。

  

角あんどん 江戸後期から明治後期頃まで使用されていました。
有明行灯 夜通し灯しておく小型の行灯。特に寝室用に使われます。
高灯台 皿に油と灯芯をのせてあかりを灯します。

 

▲ハリケーンランプ
 ちょっと傷んでいますが、雨風に強く野外活動に適したランプ。灯油を燃料とします。
 小田原提灯 ▲
 こちらもボロボロですが、旅人が形態するのに便利なように、たたんだとき胴の部分が蓋に収まるように作った提灯。

 

▲ガンドウ
 夜間の作業用灯火。蝋燭立てが回転式で、常に直立して消えないようになっています。
 座敷ランプ ▲
 文字通り座敷用のランプ

 

▲カンテラ
 外出するときに用いた携帯用の灯火具。燃料には灯油を用いました。
 つい最近まで夜は暗かったんですね。
 アセチレン灯 ▲
 アセチレンガスを燃焼させて明かりを灯す灯火具。部品が欠けているような・・・





灯火具の形態と名称

板崎の番小屋

この博物館の目玉の一つ、番小屋。
非常に小さなものですが、確かに一人ならば最小限のスペースだと思います。

 

▲この小さな箱の中で火を焚き、番人が休憩をしていました。

「この番小屋は江戸時代末期に作られ、板崎大窪陣屋の役人(平岩氏)の分家の長屋門に残されていました。
維新前の警備は各藩に与力、同心、目明し、顔役、番太等の役人が行い取り締りました。
各部落とも番小屋を儲け、冬季火災盗難を防ぐため夜警を行い制度の不備を補いました。
番人たちは小屋の中に火鉢をおいて暖をとったあとが見られます。
小屋周囲には天和(1682年)や正徳年間(1711年)の触れ書きとして出された奉行のかかげた高札の分が墨書きされていて通りかかった人々や番人地震にも周知させるようつとめたことがわかります。
(同じ条文が各側面に書いてあるのも興味深い)」

 

▲番小屋の側面、背面にはびっしり高札の文面が残っています。

博物館の解説には高札札を周知のため恣意的に使われ、幕末に作られたとあるが、私は・・・・
幕藩体制の中では大切に責任を持って保管されていた高札板が板材として転用されることは考えにくい。
従って 番小屋は
明治に入って高札の権威が落ちてから作られた
または基本は普通の木材で幕末に作られ、その後明治時代初期に修理のため高札が使われたと考えます。

珍 品

もうひとつ私が注目したのはお伝馬役札。
愛知県ではここでしか見たことがありません。

お伝馬役札



▲一日 お伝馬の公役に服すると庄屋から一札が渡されました。
 年末この札を差し出すと人夫一人一升五合の計算で年貢米が差し引かれました。
 札には丸に「久」:久保田村の一字
     丸に「伊」:領主松平伊豆守の一字 が墨書きされています。

宿場の伝馬を安定的に維持するために「助郷」という使役が課せられましたが、
これはその実際を伝える史料として大変貴重なもののように思います。

離縁状



天保4年12月
おしづ 宛
永井村 常入

いわゆる「三下り半」
今後関係がないので、誰とでも結婚してよいというようなことが書いてあるのだそうですが、
このような正式な書類が残ること自体、中級階級以上の人だと思います。
さぞや「おしづさん」の身にはいろいろなことがあったのでしょう。

簡易パン焼器

 

木箱の中に電極を両面に張り、素材の電気抵抗で発熱させて焼く道具。

金銭出納機



▲初期のレジスター
 大正5年頃の生産品だと思います。



▲宗門御改人別帳 坂崎村 嘉永3年
 仏門であることを証明した書類。教科書に出てくるアイテムです。



▲これも民俗系の博物館には不釣合いな羅針盤と操舵輪の展示

農 具



▲むしろ編み機
 江戸後期から大正時代まで使われていました。

 

▲麻糸よりかけ機
 麻の皮から畳表の縦糸を紡ぐための器具。踏木を踏んで輪を回転させ、糸を撚る。
 左の写真は当館で展示されているもの。
 右の写真は静岡県引佐の博物館で見た、同じ目的の機械。これも地域によって形態が大きく異なるようです。



▲縄ない機
 超定番

耕す道具



▲振り馬鍬
 乾田の土壌を粉砕しながら土壌を柔らかくする道具



▲踏鍬
 岡崎市池金町の都築八重喜智 が考案した道具



▲牛耕用の犂
 田畑の耕起に使用した道具。牛に引かせて使用した。



▲雁爪(がんつめ)
 爪を地中に打ち込み、手前に引きながら土を起こす。中耕と除草を同時に行う道具。



▲溝堀器
 水田裏作の排水溝を掘るための用具です



▲抜根機
 桑園改造等のために、古株、病株等を抜き取る道具。
 これも珍品。めったに見ることができません。

米作りの道具

 

▲除草器
 左:八反取り 前後に動かし、水田の表土を浅くかき廻し除草する
 右:回転中耕除草機 水稲中耕除草作業の労働軽減を目的として作られましたが、除草剤の出現で使用されなくなりました。



▲除草機
 株間除草機
 畝間に加え、株間の除草ができる優れもの。

 

▲人力稲刈機
 第二次大戦中、農村の人手不足を解消するために考案されたもの。
 立った姿勢で稲刈りができる。
 バインダの普及により消滅しました。

 

▲唐箕
 脱穀した穀物を風力選別によりゴミと実に分ける道具
 博物館の定番アイテムですが、なかなか奥が深い農具です。



▲万石通し
 籾と玄米、または精米中の砕米の分別を行う

 

▲「千歯こき」と回転式脱穀機
 これは足踏み式でペダルでドラムを回転させます。



▲麦打ち台と唐竿
 説明

養蚕・絹織物

 

▲桑切鋏と桑切包丁
 ハサミは桑の収穫、枝切りなどに使用し、包丁は葉を切り刻むのに使います。

 

▲桑摘爪と桑扱器(くわこきき)
 桑摘爪は桑葉の摘み取り作業に使用します。
 一葉づつ摘み取るもので、熟練すると能率よく摘葉することができます。
 桑扱器は桑の葉を扱きとるのに使用する道具です。
 桑摘爪より能率的であったため全国的に普及しました。

 

▲回転桑切機
 桑の葉を均等に大量に切る道具。これは珍しい。あまり見ることはありません。

 



▲回転まぶし
 蚕が繭を作る場所。
 蚕は木の上の方に繭をつくる習性があるため、上にできるだけ上がって繭を作る場所を探します。
 上の枠がいっぱいになると重力で下に回転してしまうため、常に上の方の枠が空いているようになります。
 これにより繭の生産性を高めることができます。



▲座繰り器
 糸わくを手で回して眉から生糸を巻き取る道具です。この生糸を座繰糸と呼びます。



▲真綿とり機(まわたとりき)
 これは珍品。粗悪な繭から真綿を作り出す道具。
 粗悪な繭を灰汁で煮てから、水に浸して灰汁を取る。繭を開いてサナギを出して手でのばし、あるいは、釘を打った台にかけて引き伸ばし、乾燥させる。



▲練炭製作器
 養蚕の暖房に使う練炭を作るための型。
 私にとって謎の道具。
 おそらく木炭の粉を練って固めるための型だと思いますが、なぜ木炭をそのまま使わなかったのでしょうか?
 使えない屑木炭だったのか、火力を安定化させるためなのか???

綿織物



▲綿打ち弓
 木の棒に張った弦を槌で叩きながらその振動で綿の繊維を柔らかくします。
 ちょっと技術が必要なので、専門の業者が作業をしました。



▲糸車
 綿から撚りをかけて糸にするための道具です。
 どこの民俗博物館にもあるものです。

▲高機
 いわゆる機織ですが、これはちょっと豪華。

生 活



▲練鉢
 食べ物などを練るための器
 江戸時代孔版の瀬戸・美濃窯産



▲醤油樽と酒甕
 昭和30年代頃までは、販売店に醤油を注文すると、このような樽で配達をしてくれた。



▲流し台周辺



▲かまど



▲大戸
 普段は小さな入口、馬や大きな道具を出し入れするときは戸全体を開けます。



▲茶袱台(ちゃぶだい)
 生まれたのは大正時代。意外と新しい。
 そして消えたのは昭和40年代。これも最近。



▲配膳の例
 「オヒラ」「坪」「梅平」「吸物椀」が並ぶ。



▲飯びつ
 下の藁でかこまれたものは「飯いずみ」と言い、保温用。

その他



▲間縄
 敷地の長さを測る 巻尺のようなもの。
 両側に巻き取りハンドルが付いているがどのようにつかったのでしょう?

 

▲醤油搾り機
 中に「もろみ」を入れて搾ると生醤油が精製されます。
 醤油は今やスーパーでメーカー品を買うものですが、昔は村々で作られていたものなのでしょう。



▲背負子
 背負子には下に角がついたものと無いものがありますが、愛知県は角がありません。

田庄台攻略

日清戦争末期、日本軍は田庄台を攻撃し、清朝軍にとどめを刺しました。
田庄台は遼東半島付け根にあり、半島への中継地の戦略上の位置にありました。
遼河を前にして、東にその支流が流れ、回りを城壁でめぐらした城砦都市でした。

第一師団はすでに営口を陥れて、田庄台攻撃の態勢を整えていました。
第三師団もまた前進。大島旅団は威力偵察を行った結果、遼河前面に木材で陣地を固めた7000の兵力が布陣していることがわかりました。
3月7日には新たに渡辺章聯隊長を迎えた第18聯隊は師団本体となって、8日夜、敵陣近くに迫っていました。
守る清軍は約2万、攻撃する日本軍は約1万9千であった。
遼河は全面凍結し、渡河を容易にしました。
河の手前に備えた90砲の大砲は3月9日午前6時に砲門を開きました。
敵は大混乱に陥り、砲口から発する火花は白雪に映って壮絶をきわめました。
歩兵部隊は一挙に遼河の左岸堤防に走りつき、聯隊主力は遼河支流に沿って進み、午前10時田庄台東端に突入し、第二、第三大隊もこれに続きました。

10日正午、軍は田庄台を焼き尽くす命令を発し、全市の家屋は二昼夜に渡って火の海となりました。 日清戦争最大の砲撃戦はこうしてわずか半日で日本軍勝利のうちに終了しました。

そして20日後の3月31日に日清戦争は終結しました。



▲田庄台攻撃の図
 巨大な板絵が残されています。  おそらく奉納額だったのでしょう。



▲行軍図

この田庄台攻略の図がなぜ幸田町にあり、なぜ展示が行われているのか読み取れませんでした。
第三師団が名古屋の軍だったせいかもしれません。

戦争の記憶



▲軍靴と脚絆

 

▲奉公袋
 出征するときに軍隊の営中に持ち込める大事な袋で、中身は自分の身の回り品などを入れた。
 防護団の腕章 ▲
 防護団は空襲に備えて消防団にかわり自治体で組織されました。

 

▲軍隊手帳と携帯用ガーゼ
 軍隊手帳には経歴や戦歴が記録されました。
 水筒と飯盒 ▲

戦争遺跡

十分な説明はありませんでしたが、幸田町にも第二次大戦の時の遺跡が残されているようです。
銃弾などを作っていた民間の兵器工場の試射場だと思います。



▲旧大日本兵器梶@射撃場 約120m

 

考古資料

   

▲石器の材料
 下呂石(湯ヶ峰) チャート サヌカイト(二上山) 黒曜石(和田峠)


▲装飾付須恵器
 明治43年に滅失した鏡塚古墳の石室から出土した装飾付須恵器。
 頸部には波状文が施され、脚部には三角形の透かしが四方三段に開けられている。
 古墳時代後期。



▲乳母ヶ懐古窯(うばがふところこよう) 坂崎 平安時代



▲円窓付土器
 横に大きな穴があけられた弥生時代の土器。
 なんのためにあけられたのかはわからない謎の土器。



▲土師器内耳鍋
 東光寺遺跡 中世 この鍋は底が黒くなっているので実際に使用されていたものと考えられます。
 東光寺城の武士たちが煮炊きに使ったと思われます。
 木や縄で作られた釣り具が火で焼けないように内側に耳が付けられています。



▲日向山古墳
 日向山古墳は昭和61年に発掘調査が行われました。
 この古墳は6世紀前半に築造された古墳で、北部九州中心に分布する竪穴系横口式石室と呼ばれる石室をもつ古墳になります。
 墳丘中腹には外護列石が巡り、石室内には3枚の板石からなる棺台が設置されています。
 何度も盗掘を受けたため副葬品は非常に少なく、石室内からはわずかに管玉や鉄鏃などが確認されたのみです。
 埋葬された人物については石室や副葬品からこの地域の有力者の可能性が考えられます。

日向山古墳外護列石平面図
石室入口部前、すなわち、石室導入部にあたるところで、両側に石室を設けた幅約1mの墓道が2mにわたって検出されました。
この墓道は石列に使われている石質が外護列席と異なることや石列の据付状態、あるいは、閉塞石の流れ込みから判断して、当古墳築造当初のものではなく、以後何年かを経てから造られたものと推定されます。

幸田窯(こうたよう)

岡崎市上地町から幸田町横落までの丘陵部に広がる、平安時代〜鎌倉時代にかけての窯跡。
現在までに30基近く存在することが明らかになっています。
発掘調査などが行われていないため、詳しい状況は明らかとなってしませんが、同時期の一大焼き物産地である猿投窯(猿投山西南麓一帯)、瀬戸窯(瀬戸市)や湖西窯(静岡県湖西市)の影響を受け成立した在地窯と考えられています。
山茶碗窯が中心ですが、久保田の国峯2号古窯や権下古窯は須恵器、坂崎の乳母ヶ懐は灰釉陶器を焼いていました。
幸田窯産の山茶碗や鬼瓦を焼いていた窪田の百皿古窯については、窯の残存状況が良好のため、平成5年に町指定文化財として登録されました。

 

▲百皿1・2号古窯
 鬼瓦と焼き台



▲会下古窯(えげこよう) 大草 鎌倉時代
 昭和36年9月、宅地造成のため土取り中、古窯を発見しました。
 この窯は燃焼中、天井の壁が崩れ落ちたらしく、半焼けの山茶碗、小皿、土錘などが発掘された。

野外展示

 

▲KM-2型航空機
 この航空機は富士重工叶サの単発複座式の軽飛行機で、海上自衛隊において主としてパイロットの初級訓練用として使用されていたものです。



▲D51 蒸気機関車主動輪
 昭和16年から昭和51年まで使われた動輪



▲H-13H ヘリコプター
 かなり痛んでいますが「ひばり」という愛称の初期のタイプのヘリコプターです。



▲潜水艦「おやしお」錨、スクリュー
 戦後初めて建造された潜水艦で昭和35年〜51年まで使用されました。
 16年間というのは船としては短いが、軍用のためか、潜水艦のためか。

 

▲内容

 

▲F86F-40 旭光
 説明

 

▲大砲
 105mm軽榴弾砲
 弾丸威力が大きく、また日本の地形を考慮し、昭和32年度に防衛庁技術研究本部で研究設計し、試作した火砲です。
 この研究成果は現在陸上自衛隊で装備している74式自走105mm榴弾砲、75式自走榴弾砲、61式戦車、74式戦車等の各種火砲に反映されています。
 105mm無反動砲
 この砲身は、現在陸上自衛隊における近距離対戦車火器として装備されている60式106mm無反動砲および60式自走106mm無反動砲の基礎資料を得るため、昭和31年度に防衛庁技術研究本部で試作された砲身です。

 

▲菱池排水ポンプ
 幸田町の菱池沼は明示19年に東西5.4km、南北1.8kmの約50hrが干拓、開墾されました。
 地区内の堪水を広田川に排水するため、大正2年に蒸気機関付排水ポンプが設置され、
 大正13年には、電動機付排水ポンプに切り替えられ、昭和53年末まで使用されていました。
 このポンプは昭和53年まで菱池ポンプ小屋に設置されて使用されていたものです。

石造物



▲橋の男柱
大字深溝字一ノ瀬の花篭橋の男柱
男柱(おばしら)とは橋の両脇に立っている装飾的な太い柱のことで、乎止古柱とも書きます。
建築でいうと、階段の両端などで手すりを支える柱のことです。



▲御神田碑
 大字高力榊原林三郎氏が高力神明社の神饌米奉耕田を寄進されました。
 戦後農地改革により田は払い下げられこの碑のみが残った。

参考資料
http://www.geocities.jp/shiro20051212/Fukozujyou.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%B1%E6%BA%9D%E8%97%A9
http://www.nishikawa-machi.com/mingu_320.htm
http://nihonjustice.hp.infoseek.co.jp/392.htm

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