| 運営母体 | 吉良町 |
| 住 所 | 愛知県幡豆郡吉良町大字白浜新田字宮前59-1 |
| 電話番号 | (0563)-32-3373 |
| 休館日 | 毎月曜日、祝日、年末年始(12月29日から1月3日) |
| 開館時間 | 午前9時から午後4時30分 |
| 入館料 | 無料 |
| 備 考 | |
| アクセス | |
| HP | 吉良町HP (公式HP) |
| 概 略 |
県指定文化財の岩場古墳出土品などの考古資料、 吉良上野介義央公の系譜、 塩業の歴史ジオラマ、塩の道の展示。 考古学発掘品。横穴式石室の岩谷山第二号墳の復元古墳もある。 |
| 愛知県では ここでしか 見られない 展示 | 塩田に関する展示は他の博物館にもあるが、ここの展示がもっとも充実している。 全国を見ると「塩の道」と云われる道はたくさんあるが、その一つ、塩尻まで続く塩の道の出発点となっている。 このあたりは塩田が発達しおり、饗場塩(あいばじお)というブランドの塩の産地だった。 塩焼小屋が移築されているのはここでしか見ることができない。 忠臣蔵で悪役の吉良上野介も、ここでは名君。誇りをもって展示されている。 松の廊下の模型、江戸の吉良家の屋敷の精巧な模型がある。 江戸屋敷の構造が見られるのも珍しい。 戦時中使用されたコンクリートの釣鐘。 |
| ひとこと | 模型や実物を効果的に使ったわかりやすい展示。 テーマも絞られており深い説明。 |
| 備 考 |
地図は塩事業センターHPより
吉良町南部 海沿い
▲コンパクトだがきれいにまとまった展示 好感
吉良町は「品質が良い」と有名だった饗庭塩(あいばえん)の産地でした。
■製塩小屋
塩田の作業小屋。塩焼(しおやき)小屋と呼ばれています。
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▲この地域での塩田の様子を再現しています。
入浜塩田と製塩小屋が復元されています。
内部には塩水を煮詰める塩釜が復元されています。
大きく底が浅い鋳鉄製の鍋です。
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▲塩釜
右側の写真は能登の塩田で実際に塩を作っているときの写真。
小屋の中は熱と煙と湿度でたいへんな状況。重労働です。
▲鹹水桶(かんすいおけ):塩田で濃度が上がった塩水を入れておく桶
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▲道具類 砂を扱う道具です。
■揚げ浜塩田
海水を人力で運び上げ、塩田に散布する塩田。
吉良町の塩田は比較的新しく、潮の満ち引きを利用し海水を塩田に引き入れる「入浜塩田」です。
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■現役の揚げ浜塩田
石川県の珠洲市には日本で唯一 揚げ浜塩田が存続しており、今でも塩を作っています。
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▲能登にわずかに残った現役揚げ浜塩田
■復元塩田
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▲塩田の周囲に海水を入れるための溝があるのが入浜式の特徴です
「入浜塩田は遠浅の干潟地を干拓して、内部の広大な砂地を平らにし、満潮時を利用して海水を塩田内の塩回しおよび開渠に導水して地盤に浸透させ、毛細管作用によって散砂のすきまに侵潤させ、太陽熱と風によって水分を蒸発させます。
その間、人力で砂をかきおこして反転し、よく着塩させて、しだいに塩分を散砂に付着蓄積させます。
次に適当な場にさらした後、塩分の付着した散砂をかき集めて沼井に入れ、海水を注ぎ塩分を溶解して濃厚な鹹水(海水の7〜12倍)を採ります。」
入浜塩田は瀬戸内海や伊勢湾周辺に多く見られます。
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▲入浜塩田では塩田に海水を入れる工程が海水の満ち引きを利用して行われます。
■枝条架
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「これは、昭和31年ごろから吉良町大字吉田の本浜塩田で使われていた枝条架の模型です。
枝条架は6〜8mの高さに柱を組み、これに竹やササの枝を八字形に5〜6段にかけたものを2mぐらいの間隔に並設したものです。
流下式塩田で得た鹹水をポンプで枝条架の頂部に設けた給水トイに送り、鹹水が竹の小枝を伝わって流下する間に蒸発が行われます。
通常この操作が10〜20回繰り返され、濃縮されます。」
▲枝条架の実物は美浜町の「食と健康の館」にあります。
■流下式塩田
動力ポンプが使われるようになった後の新しいタイプの塩田。
日本で最も多く利用された能率的な塩田です。
長さ20〜40m、1/100〜1/150の勾配の地盤
(海水が漏らないようにビニル張りし、また海水の偏流を防ぐため幅約2m毎に木板を用い区切った)
の表面に散砂をおき、上端から海水を流下させながら水分を蒸発させ、下端に鹹水を集めます。
これを2〜3回流下させ、高濃度の鹹水を得る方法です。
■枝条架併設流下式塩田
昭和28年の13号台風により破壊された入浜式塩田の後に造られた流下式塩田に枝条架を加設したものが併設流下式塩田です。
これは流下式塩田と流下式塩田で採れた鹹水を更に濃縮する補助装置である枝条架を併設したもので 入浜塩田に比べ単位面積当りの生産力が大きいこと、降雨の害が少なく年間稼動日数が大きいこと、労力が少なくてすむなどの長所を持っています。
枝条架の面積は地域によって異なりましたが平均流下式塩田の約10%です。
製塩に興味を持たれた方は製塩の歴史をごらんください。
▲白浜吉田塩田 県内最古の塩田
1564年に白浜に作られてからしだいに発展。
昭和初期に整理がすすみ、1972年に塩田が完全に廃止されました。
日本のあちらこちらに「塩の道」があります。
最も有名なのは糸魚川と松本を結ぶ千国街道。
そしてここにも1本。
■饗庭塩と塩の道
「むかしから日本では、塩を海水から作っていました。
従って、いくつかの海の地域とが、何本もの「塩の道」で結ばれていました。
古くから作られていた吉良の塩は、寛正年代(1460〜1466)に饗庭妙鶴丸の開拓した饗庭郷にちなんで「饗庭塩」で知られています。
饗庭塩は、吉良義央公の開拓した富好新田などの塩田で作られ続け、19世紀後半には、4浜約60町歩ほどの塩田がありました。
この饗庭塩は矢作川を船でさかのぼって岡崎へ、そして、塩の道を通って遠く信州まで運ばれていました。
饗庭塩は、食用はもちろんのこと、岡崎の味噌製造や信州の漬物にも適していました。
江戸時代、饗庭塩は他の物質とともに、矢作川の河口の大浜や平坂の港から岡崎城下まで矢作川をさかのぼって、平均的には3日ほどかけて運ばれたといいます。
岡崎城下の伝馬・田町には塩座がありました。
この塩座の手を経て、岡崎から更に矢作川、巴川をさかのぼって、平古(現豊田市)で陸揚げされました。
ここから足助街道を通って足助まで運ばれました。
足助で荷物を積みなおして、中馬と呼ぶ馬による輸送機関によって信州へと塩が運ばれ、太平洋からのそして日本海からの塩の道の終着駅塩尻に至ります。
吉良からの饗庭塩の長い長い塩の道です。」
吉良吉田 − 岡崎 − 平古 − 足助 − 稲武 − 根羽 − 駒場 − 飯田 − 伊那 − 塩尻
「吉良町の北部、岡山丘陵上に位置する中根山遺跡は昭和62・63年に発掘調査が実施され、弥生時代後期から古墳時代中期(2世紀〜5世紀前半)に営まれた大規模な集落の跡が明らかになりました。
弥生時代には集落の周囲を環濠と呼ばれる堀で囲い守りを固めています。
しかし邪馬台国に卑弥呼が現れる頃(3世紀前半頃)になると環濠は不要となり、埋められてしまいます。
その後も引き続き古墳時代中期まで集落は存続しています。」
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▲「弥生時代後期〜古墳時代中期(2世紀〜5世紀初頭)の丘陵上に営まれた集落。
村を守るため周囲を巡っていた環濠は弥生時代終末期(邪馬台国のころ)になると埋まってしまいます。
対外的な緊張関係が緩和したためでしょうか。」
■岩谷山第二号墳
「所在地:岡山字岩谷山2-1
吉良町北部の岡山丘陵には、岡山古墳群と呼ばれる古代の墓があります。
この岩谷山第二号墳はその内の一基で昭和52年に土採りために解体されたので、この地に復元したものです。
古墳の構造は、直径13mの円墳(推定)で中には横穴式石室が築かれています。
石室は羨道(通路)と前室、玄室(死者を安置する部屋)からなっています。
現在は石室の天井意志がほとんどありませんが、本来はこの石室の上に天井石がのり 土盛りされていました。
主な出土品は 鏡、鉄製の刀、矢じり、金のイヤリング、それに須恵器と呼ばれる土器です。
これらの品々は現在歴史民俗資料館に展示されています。
築造時期は7世紀頃で村の中で力を持っていた人の墓と考えられています。」
▲博物館に移築された古墳
▲岩場古墳模型
墳長37mほどの帆立貝形前方後円墳と見られます。
昭和25・26年にあいついで埴輪棺、円筒棺が地元の中学生によって発見され、調査が行われました。
特に、円筒棺からは豊富な鉄製品が出土しました。
また墳丘には円筒埴輪が巡っており、墳丘上からは、甲冑、衣笠、家などをかたどった象形埴輪が見つかっています。
全長91mと西三河最大の正法寺古墳のあとに続く、5世紀中ごろの有力者の墓と考えられます。
■円筒棺
「埴輪の製法を用いて、埋葬専用に作られた土製の棺です。
筒状の本体の両端をふたでおおっています。
古墳の埋葬施設としては珍しいもので、近畿地方を中心に20例ほどしか出土していません。
円筒形の中からは、被葬者が身につけていたと見られる勾玉、管玉と鉄刀2本が出土しています。
管の外側にも鉄鏃、窯、斧など豊富な鉄製品が服装されていました。
全長193cm」
■埴輪棺
▲「円筒棺が出土した位置より、一段低い前方部と見られる部分から出土しました。
墳丘に立て並べるために作られた埴輪を転用して、棺に利用しています。
朝顔形円筒埴輪の胴部を棺の本体として両端を朝顔形円筒埴輪の杯部と、別の円筒埴輪を割ってふたにしてます。
副葬品はありませんでしたが、成人男性の大腿骨が見つかりました。
別の場所に埋葬したのち、改めて埴輪棺に葬られたのでしょうか。」
「古墳時代前期末〜中期初期(4世紀末〜5世紀初頭)に築かれた全長90mの三河最大級の前方後円墳。
墳丘は3段に築かれ、各段には埴輪が並び、葺石で覆われていました。
古墳の立地から三河湾の海上交通をおさえた「海の支配者」が眠っていると考えられます。」
▲かつては葺石で覆われ白く輝いていたのでしょう。
「現在の吉良町域の村のうち約半数は、上総国大多喜藩(千葉県)領でした。
大多喜藩は石高27,000余石のうち半分近くの 13,000余石を三河に持っており、これを治めるために設置されたのが小牧陣屋です。
陣屋としては大規模なもので、郡奉行1名と代官3名をはじめ30名近い役人が職務にあたっていました。
現在、裏門部分が小公園として整備されています。」
永禄4年(1561)に家康が東条城攻めの時に ここに砦を作り、本陣としました。
元禄16年(1703)大河内松平の甘縄藩が大多喜に移封、大多喜藩となり、この本陣跡をひきつぎ、小牧陣屋となりました。
三河地方最大の陣屋でした。
▲小牧陣屋の建物配置図
▲復元模型
■吉良荘(きらのしょう)と東条吉良氏
現在の西尾市・幡豆郡には、平安時代に吉良荘が置かれます。
吉良荘は中央を流れる矢作川を境に、それぞれ、東条、西条と呼ばれていました。
その名は西尾市八ッ面山などで採掘される雲母(岐良々きらら)に由来しています。
鎌倉時代の承久の乱(1221)以後、三河守護となった足利義氏(よしうじ)は長男長氏を西条城に、三男吉継を東条城に送り吉良荘の経営にあたらせました。
これ以降両家は代々吉良姓を名乗るようになります。
なお現在の吉良という町名は昭和30年に吉田町と横須賀村が合併する際、吉良上野介の領地であったことや吉良荘に因み決定されたものです。
「忠臣蔵」の吉良上野介義央(よしひさ)公。(吉良町では吉良さん)
吉良町界隈は、鎌倉時代から江戸時代初期までこの吉良家の領地として発展しました。
吉良さんは領民から慕われながら非業の死を遂げた名君として、今も多くの人々の記憶の中に静かに生き続けています。
■吉良家
▲吉良義安
東条城主
上野介
西条より養子、東条を継ぐ
今川義元に疑われ、捕らえられる
妻とともに駿州藪田村に幽閉される
妻 松平清康(徳川家康の祖父)の娘
行方不明、享年30代前半ともいわれる
▲吉良義定
義安の子
義安亡きあと、藪田村より東条城下に帰り、母とわび住まい
関ヶ原合戦に出陣
旗本に取り立てられ、吉良氏を再興
娘 大炊御門経頼(おおいのみかど)に嫁ぐ
父 義安供養のため、華蔵寺再建
享年 64歳
▲吉良義弥(よしみつ)
義定の子
上野介
高家(幕府の儀礼礼法をつかさどる)
徳川家光将軍宣下の時、宣旨取次
朝鮮通信使取次
将軍名代として京都御所、日光東照宮へ御使い
享年 58歳
▲吉良義冬
義弥の子
若狭守
高家
徳川家綱将軍宣下の時、宣旨取次
朝鮮通信使取次
将軍名代として京都御所、日光東照宮へ御使い
享年 62歳
▲吉良義央(よしひさ)
義冬の子
上野介
高家
徳川綱吉将軍宣下の時、宣旨取次
朝鮮通信使取次
松の廊下にて、刃傷を受ける
元禄事件により不遇の最後
吉良町では、今も名君として慕われ善政の証が多く残る
享年 62歳
▲吉良義周(よしちか)
義央の孫
上野介
高家吉良氏断絶
諏訪安芸守へ御預け
配所諏訪で死去
町民は今も元禄時代最大の被害者と悼んでいる。
享年 22歳
■吉良御前
▲江戸における響応料理には、特定の食材の他は領地でとれる時期のものが使われたといいます。
吉良御前は天保12年に書かれた「吉良流礼法」の吉良家正統御前をもとに、吉良町の老舗・料亭「福長」により現代風にアレンジされ再現されたものです。
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松平周防守家の本姓は松井であり、吉良町小山田を本拠としました。
松井家はもと吉良家家臣であったが、のち松平の臣下になり、松井左近忠次は東条攻めに戦功をあげ、元康(家康)の信任を得て、東条城のことをまかされた。
以後、数々の戦功を重ね松平姓を賜り、松平周防守康親と名乗った。
子孫代々栄えて十四代の時川越藩(八万石)で明治維新を迎えます。
松井家代々の墓は、小山田正龍寺にあります。
また初代康親の墓は、東条城北の山中にあります。
松井子爵家から香華料が届けられていました。
徳川四天王で有名な酒井忠次の先祖は吉良町酒井の出と推測されます。
伝承によれば、南北朝のころ手嶋新五左衛門がこの地を拓き、酒井を名乗りました。
応永のころ、親氏がこの地にきて、酒井五郎左衛門との間に一子をもうけました。
これが酒井家始祖広親です。
五郎左衛門娘早世のため、親氏は松平家に移り松平家の始祖となりました。
よって酒井家、松平家はその祖を同じくします。
酒井広親生母の墓、酒井家先祖の墓が今もなお酒井の畑中に存在します。
昭和20年頃まで酒井伯爵家から香華料が届けられていました。
天下一の弓取り
尾張二代藩主光友に御弓役として仕えました。
京都三十三間堂大矢数において、寛文2年(1662)通し矢 6,666本
天下一となりました。500石加増。
寛文9年(1669))通し矢 8,000本 再び天下一となりました。300石加増。
尾張藩御弓頭に昇進します。
忠臣蔵の舞台となった江戸城本丸松の廊下の部分模型
長さ60m、幅5m。江戸城最大の廊下で白書院と大広間をつなぐ廊下で部屋の境の襖や壁に浜松の絵が画かれていたので松の廊下と呼ばれました。
刃傷沙汰の舞台となった場所といわれ、よく知られています。
江戸時代、吉良家は朝廷と幕府の間の典礼、幕府の儀礼を司った高家職を3代にわたり務めました。
石高は4,200石ばかりの旗本でしたが、官位は大々名・老中並の4位に叙せられ、江戸屋敷も官位相応の規模を有していました。
忠臣蔵討ち入りの時の屋敷地は、東西132m南北62m、2,550坪の大規模なもので、赤穂方が事前に図面の入手を重視したこともうなずけます。



模型と図面とは180度逆になっています。
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赤穂義士が討ち入った吉良邸。
吉良上野介は屋敷の一番奥の炭小屋に隠れていたところを見つかりました。
▲実物と見比べると高さが誇張されているようにも見えますが、全体の雰囲気はよくわかります。
「東条城は吉良荘のうち矢作川以東を治めた東条吉良氏の居城です。
永禄4年(1561)、東条城は徳川家康の総攻撃を受け、激戦の末 城主 吉良義昭は降伏し、落城してしまいます。
その後、城主となったのが東条松平家(数度の転封の末、川越城主として維新を迎えます)です。
鎌倉・室町期における東条城の様子についてはよくわかっていません。
しかし、川越市光西寺の絵図などによると、戦国期には城下に民家や法応寺・長福寺などの寺院が集まり、町の長さは200間(約360m)に及んだといいます。
また、市もたち賑わいをみせていたようです。
現在は公園として城門、物見台などが復元されています。」
「善光寺沢遺跡は鎌倉時代から室町時代(13世紀初め〜15世紀末)にかけて、約300年間にわたり営まれた墓地の跡です。
約300年間にわたり営まれた墓地の跡です。
約3000uを発掘調査した結果、79基もの墓が発掘され、東海地方でも大規模な中世墓の調査例として注目されています。
善光寺沢遺跡が位置する岡山丘陵には数多くの遺跡が分布しています。」
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▲復元集石墓
石組みの下には火葬骨を収めた骨壷が埋められていました。
「中世、当地域は吉良荘と呼ばれ、鎌倉時代の承久の乱(1221)以後は、足利一門の吉良氏が領有しました。
善光寺沢遺跡は矢作川の東側を治めた東条吉良氏に仕えた武士団の共同墓地とする意見が有力です。
東条吉良氏が本拠地を置いた東条城から見ると、善光寺沢遺跡は西北に約1キロの地点に位置しています。
善光寺沢遺跡は15世紀末に墓が造られないようになります。
これは檀家制度の普及により村外の共同墓地から東条吉良氏の菩提寺である花岳寺(かがくじ)や、東条城周辺の寺院に墓地が営まれるようになったためと見られます。
善光寺沢遺跡は、資料が乏しい東条吉良氏に関わる貴重な資料を提供しました。
今後東条城周辺の調査が進めば、室町幕府において要職にあった吉良氏についてさらに明らかにされることでしょう。」
■埋葬方法
▲1類 火葬骨を納めた骨壷を埋め、上に石組みを築き五輪塔を立てるもの 45基
▲2類 火葬骨を納めた骨壷を納めるが石組みがないもの 8基
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▲3類 常滑の大甕に複数人の火葬墓を納めたもの。石組みがない。 5基
多いものでは14人分の火葬骨が納められていました。
▲4類 長方形の墓穴に遺体を土葬した墓 21基
■石 塔
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▲中世墓に立てられた石塔には、五輪塔と宝篋印塔があり、集石墓に用いられます。
善光寺沢遺跡では15世紀前半(室町時代中期)から一般化します。
■骨 壷
善光寺沢遺跡から出土した骨壷は、常滑製品が64%、瀬戸製品が35%で計99%を占めます。
その他、渥美製品、中国から輸入された青磁椀などが数点確認されています。
焼き物は時代とともにその形が変化するため、出土した骨壷から墓の年代を推定することができます。
瀬戸製品
瀬戸窯では灰釉、鉄釉などが施された四耳壷、瓶子(へいし)など、中国磁器を模した高級品の生産が中心に行われました。
鎌倉幕府が瀬戸窯の成立に関わったとされ、鎌倉からは瀬戸製品が集中的に出土しています。
常滑製品
常滑窯は釉薬を用いない焼き締めによる大甕、擂鉢などの日用品の生産を行い、海運を利用して東日本を中心に全国的に流通しました。
中世には知多半島全域に窯が営まれましたが、近世には常滑に生産が集約されます。
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▲神明社本殿・熊野社本殿
「幡頭(はたがしら)と書いて幡頭(はず)と読むようになりました。
創立は約1300年前、大宝2年(702)と伝えられています。
東国征伐におもむく日本武尊の幡頭をつとめた建稲種命を祭っています。
建稲種命は任期を終えて帰国の途中、暴風雨にあい、遺体が宮崎の地に流れ着かれたという。
吉良の同属、将軍足利尊氏、義満も深く帰依して弓矢等を奉納しています。
本殿は、国の重要文化財、脇社は、県の文化財です。」
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金蓮寺弥陀堂は文治2年(1186)源頼朝が源平合戦で死んだ将兵を弔うため発願し、当時守護職安達藤九朗に命じて造らせたと伝えられています。
桁行三間、梁間三間、単層。
三河七御堂の一つでしたが、現存するのはこのお堂のみです。
鎌倉建築の美をよく伝えている。 吉良氏の祖足利義氏が三河守護職として赴任したのはこのお堂ができてまもなくであったと思われます。
お堂は国宝、愛知県最古の木造建築物です。
地元では「饗庭のお不動さん」で知られ、中には一木造りの阿弥陀如来座像が安置されています。
「長福寺は東条城北の山陰に、その寺域をうかがい知るのみとなっていますが、かつては東条城ゆかりの身分の高い人々(長福寺殿の法名を有する人)の香華寺として栄えました。
その薬師堂のご本尊がこのお木造です。
千石期東条吉良氏の盛衰を見届けた仏様です。
藤原時代の作とされます。
ちなみに、長福寺跡の東方500mばかりに東林寺と称する東条城ゆかりの寺がありましたが、廃寺となり、そのご本尊のみが吉田専長寺にまつられています。
鎌倉時代の秀作といわれています。
往時、城をとりまいて七ヶ寺が栄えていましたが、今はその一部を残すのみとなりました。」
■くそがめ参考資料
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「この肥料がめ(通称くそがめ)は町内に残っているものとしては、最も古い形式のものです。
口の形などから、少なくとも江戸中期300年以上昔のものと思われます。
昔は図のように畑の片すみにかめを埋(い)けて糞尿をためておき発酵させて作物の肥料にしました。
このかめは津平砦と言われている渡辺為三さんの山畑にあったものです。」
http://www.aichi-pref-library.jp/chiki/jyousetsu.html
http://mobile.city.okazaki.aichi.jp/auto/www.city.okazaki.aichi.jp/museum/db/kkp/H12-06-15/ky00302.htm
http://www.town.mihama.aichi.jp/main/syokutokennkou/index.htm
http://www.kira-h.aichi-c.ed.jp/8%20link/kiracho/kodai/kodai.htm
http://www.sukima.com/19_gama01_03/07konren.htm