| 運営母体 | 吉良町 |
| 住 所 | 愛知県幡豆郡吉良町荻原大道通18-1 |
| 電話番号 | 0563-32-0018 |
| 休館日 | 月曜,年末年始 |
| 開館時間 | 午前9時から午後5時まで |
| 入館料 | 高校生以上 一人300円(中学生以下は無料) ※旧糟谷邸、尾ア士郎記念館、書斎とを併せた金額です。 |
| 備 考 | |
| アクセス | 名鉄西尾線三河荻原駅から徒歩5分 |
| HP | 吉良町HP (公式HP) |
| 概 略 |
江戸時代中期以後の豪農の住宅 茶室、水琴窟が備えてある。地域の文化サロンとしての役割ももっていたようです。 |
| 愛知県では ここでしか 見られない 展示 | 公開している豪農の民家はここだけ。 豪農だけあって、立派な長屋門、日本庭園、土蔵、神祠などがあり一般的な農家の様式とはかなり異なる。 三河木綿の総問屋、金融業、肥料卸小売もやっていたため、みせと呼ぶ空間もある。 高井戸 井戸の口を高く盛り土をして洪水時に汚水が入らない工夫。 実際に伊勢湾台風の時は役に立ったそうです。このような井戸は初めてみました。 |
| ひとこと | 愛知県にも豪農の家はたくさんありますが、ほとんどが住民の方がおられて内部には入れない。 そのほうが生きている感じがして好きなのですが、やっぱり中も見てみたい。 |
| 備 考 | 敷地内に尾崎士郎の書斎がある |
地図は パンフレット より
市街地の北方3km図書館奥です。
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かなり大きい。いくつかの時代の建物が複合しているようだ。
糟谷家は江戸期から昭和初期にかけてのこの地方の大地主として、また地場産業であった三河木綿の江戸送り総問屋として栄えました。
糟谷家は代々縫右衛門(ぬいうえもん)を名乗り、この地域の大地主として、三河木綿問屋、金融業、肥料・日用雑貨の卸小売などで財をなした豪農豪商です。
糟谷家の先祖は筑前(福岡県)の郡司であり、後に東条吉良家に仕え戦国時代にこの荻原の地に帰農したといわれています。
領主大河内松平家の御用達を勤め、苗字帯刀を許されました。
遠祖 筑前の郡司
940年 純友の乱 鎮圧に功あり
1185年 源義経に味方して 平家討伐に功あり
1333年 鎌倉に下り 足利の配下となる
1493年 吉良家 東条城藩中に移住
1505年 粕谷縫右衛門重賢、東条城より出て萩原村に住む これを初代とする
以下14代 重義 昭和56年没まで 約470年余当地に在住、代々縫右衛門を名乗る。
代々当主の墓は隣の海蔵寺に現存する。
将軍代替わりの旅に全国に派遣された巡見役(35名編成)の宿を6回受けています。
糟谷家住居は江戸時代中期以後の典型的な住宅で、木造二階建主屋、長屋門、土蔵、屋敷神祠の計5棟約750平方メートルが約4,500平方メートルの敷地に立ち並んでいます。
主屋、長屋門、土蔵2棟、屋敷神が県指定文化財となっています。
主屋の東側部分がもっとも古く、宝暦13年(1763)の祈祷札が見つかっており、18世紀前半以前にさかのぼるとみられます。
また、表千家久田流の茶室・庭園、長屋門など、富裕階層の生活ぶりをうかがうことができる貴重な屋敷です。
当地方の昭和20年1月の三河大地震で、土蔵群等に相当の被害を受けたが、それ以前の昭和9年の記録によると敷地2000坪。
南に長屋門と隠居屋を控え、東から北にわたって土蔵をめぐらし、北西に屋敷神の祠を配し、中心に主屋、書院、茶室、離れ座敷を構えて総建坪590坪余り、延坪735坪におよんでいた。
そのうち、三河大地震で土蔵5棟が倒壊し、戦後 書院と共に離れ座敷も撤去された。
現存する主屋群のうちの東端の主屋は広い土間、みせ、台所、勝手などからなり、若干の改築は受けているが、その均整の取れた構造から推しても18世紀前半を下らないものと考えられ、発見された祈祷札よりも古いことは確かです。
吉良町は昭和57年に住宅、土地を購入。修理工事後 町文化財に指定し、公開した。
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武家屋敷にとっては重要な意味を持つ建物です。
農民であっても庄屋などの格が高い家には門の設置が許可されました。
延享元年(1744)の年号が鬼瓦に残されていますが、建物の様式、工法から門の建造はもっと古い時期であると考えられています。
小牧陣屋から移築されたといわれますが真偽のほどはわかりません。
御巡見使の記録によると、そのときお供の宿泊に供されました。
この地域は土地が低く、浸水の心配がありました。
この井戸は浸水時にも、海水や汚水が井戸に入らないように工夫されたものです。
この高井戸は宝暦11年(1761年)の絵図面にも見られ、屋敷建立当時からのものと思われます。
1945年ごろにまでには屋根がついていました。
明治22年の大津波の時は住民の命水になりました。
▲間取り こうしてみると、農家の「田の字」型の間取りが発展したものであることがわかります。
▲もう少し細かい間取り図が吉良町歴史民俗資料館にありました。
▲昔と今の建物の比較。江戸時代から2階建てであったことがわかります。
▲天保年間(1830〜43)頃の粕谷邸。
昭和19年の東南海地震までは、屋敷の北側、東側に土蔵群が立ち並んでいました。
また、明治初年の数奇屋部の新築や戦後書院が撤去されるなど、幾度かの改変をへて現在にいたっています。
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農家ではありますが、肥料や木綿などをあつかっていたので「みせ」の部屋があります。
通常の農家の「ひろま」の接客機能が進化し、商業の場に変化していったものでしょう。
この部分は宝暦13年(1763年)の祈祷札があり、宝暦11年の御巡見の古図にも記載されており、母屋の中では一番古い部分です。
大正10年(1921)頃 一部が改築されています。
■こやしみせ
「みせ」の対面に小さな部屋があり、実務をあつかっていました。
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六ッ美の悠紀斎田に肥料を提供したのは糟谷肥料部でした。
近くの羽利神社を調肥所として、この看板を掲げ 身も心も清めて無事大任を果たしました。
▲生活の場である土間と店の空間は暖簾で仕切られている。
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内容
▲室内の調理場にも井戸がある。
▲土間が広大なので、妻側にも出入り口があり、3方向から出入りすることができます。
▲下女部屋。大きな家には下女部屋と下男部屋があります。
下女部屋は一般的には明るい部屋が選ばれます。縫い仕事があったからです。
▲人力車。おそらく自家用の人力車でしょう。
▲「うすば」
本来は家族の生活の場なのですが、奉公人や下女たちが働く機能的な部屋として使われたようです。
1階大小12部屋で北側が主人夫婦の居室。
のぞき窓、床下収納、施錠方法等の工夫がよくなされています。
南側は来客用の部屋と仏間です。仏間は建物の一番良い所に位置しています。
■奥方の部屋
奥の階段は子供部屋への専用階段です。
両親の部屋を通らないと子供部屋へはいけないような構造になっています。
二階は6部屋あり、子供部屋と雑用の場所です。
公開はされていません。
▲奥方の部屋からは「土間」や「みせ」を覗き見ることができる構造になっています。
■当主の部屋
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▲奥には金庫があり、蔵も見渡せます。
▲この部屋の炉は採暖を主な目的としていました。
▲6代縫右衛門重時(約250年前)の代に大多喜藩大河内松平家の御用達を拝命。
重時は帯刀を許され群奉行格を賜りました。
以後10代重士に至り御用達を辞退し家業に専念するようになりました。
■十畳の間
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当主の接客の間、寝室として使われました。
法事の時などお坊さんの控えの間としても使われました。
奥には番頭と奥女中以外は入れません。
下女中は、だいどころが生活の場になっていました。
女中部屋でも格が高そう。
奥女中の部屋に隣接して小さな炊事場があります。
明治時代の久田栄浦好み(設計)は確実。
13代縫右衛門と栄浦の交友は記録にも残されていますし、また茶室は表千家流のもので、その中に久田家のやさしい趣をそなえています。
なお「よりつき」「お部屋」も同期のものです。
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奥より更に奥には賓客用の数奇屋造りの建物(4部屋)があります。
「お部屋」と呼ばれています。
これ以外に別棟で、新座敷、大座敷等がありましたが、撤去されて現在はありません。
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賓客をもてなした部屋です。
簡素ですが精緻に作られて、格式の高さを感じさせます。
北側に四畳の余間を配しています。
「お部屋」の横には水禽窟があります。
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粕谷家は代々信仰心が篤い家柄で、仏前に香華の絶えることはありませんでした。
天井は日々の香煙で黒く輪になっていましたが、修理で拭き取られてしまいました。
特に5代縫右衛門重治は一生のうち30数回も善光寺にお参りして、善光寺からお厨子を拝受しています。
仏壇右手には歴代の立派な位牌が祭られていました。
粕谷家の玄関は母屋に対し90度横を向いている。
極めて異例。
後の改造なのかもしれません。
玄関の横にも一部屋あります。
「茶の湯」は宝永7年(1710)御巡見のおりには糟谷家に入っていましたが、宝暦11年(1761)の古図では庭園は敷砂の遠望庭園になっていました。
その後長屋門西南に書院茶室が設けられ 萱門井戸も現在の位置に設けられました。
天保9年(1838)には庭園東部分は確実に茶庭になっていました。
幕末に現在の庭園中央部に表千家残月の間の写しが、久田栄浦によって建てられ、全体が茶庭化しました。
明治初期に同じく久田栄浦により西数奇屋部が改築され、よりつきが設けられて 本格的な二重露地の茶庭になりました。
昭和7年書院茶室が、第二次大戦後大座敷萱門が撤去され、現在の庭園になりましたが、当時の二重露地の名残を見ることができます。
■地下道
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▲ちょっと不思議な施設。地下道。建物の下をくぐるようになっている。
■二階
▲二階の部屋は公開されていませんが、ごく普通の質素な部屋なのでしょう。
■屋敷神
明治以降の建物ですが、建立年日は定かではありません。
屋敷神としては異常な大きさで珍しいものです。